天下を統一した豊臣秀吉(1537~1598年)は、大坂城が完成する1585年頃から亡くなる1598年まで、住吉大社や堺へ何度も出かけていますが、その際に紹鴎天満宮前の茶屋で休息したところから、「太閤殿下茶屋」が転じて「天下茶屋」と呼ばれるようになったといいます。 現在の大阪城
最初、秀吉に同行した千利休(この地の森を開いた武野紹鴎の弟子)が茶屋の湧水を汲んで茶を出したところ、秀吉はその水の味が気に入り「恵水」と名付けたと伝えられています。しかし利休は、秀吉の勘気を受け、1591年に自害を命じられているので、それ以前の話なのでしょう。楠木の下に天下茶屋跡の石碑があります。
ここには、1945年(昭和20年)の戦災に遭う前まで、5000平米に及ぶ屋敷と秀吉が命名した「恵水」の井戸や茶室があり、紀州藩主をはじめ諸大名が宿泊した御殿も残っていたようです。
江戸時代の寛永年間(1624~44年)、そこから300m北側に近江出身の津田氏が天下茶屋の「軍中散」とよく似たネーミングの「和中散」という薬を売る茶店を出しています。 右側の公園部分
その茶屋は、「天下茶屋村是斎薬店」と言い、紀州街道を往来する人に薬湯を自由に試飲させて宣伝したために、ほどなく是斎屋は、元祖天下茶屋より繁盛した天下茶屋となったといいます。是斎屋跡地
この「是斎薬店」跡地は、現在の天下茶屋公園となり、住吉大社に参詣した明治天皇がここで休んだ(明治天皇駐蹕遺址碑)のある場所としても知られています。
結局、二つの天下茶屋が存在していたようですが、大坂市民(江戸時代には約40万人)が住吉参詣に出かけるとき、どちらかの茶屋へ立ち寄るのを楽しみとしていたようです。住吉大社