野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



嵐電を下り、嵐山駅前の道路を右にまっすぐ歩き、山陰線の踏切を超えると正面に見えてくるのが地元で釈迦堂と呼ばれる五台山清涼寺の仁王門です。

 

 

 

この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822~895年)の別荘・栖霞観があり、源融の没後、阿弥陀三尊像を安置した阿弥陀堂が建立され棲霞寺と号したといいます。

 

 

 

その後945年に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置したことから「釈迦堂」の名が起こったという説があるようです。西門

 

 

 

さて、東大寺で受戒した然(ちょうねん、938~1016年)は、982年にに渡り、中国の五台山清凉寺を巡礼、現地の仏師に造らせた釈迦如来像を持って986年に帰国しています。西門からの本堂

 

 

 

その翌年、然は京都の西、愛宕山を日本の五台山とし、その麓の嵯峨に清涼寺を建立することを朝廷に願い出ています。鐘楼

 

 

 

しかし、比叡山延暦寺の妨害があって、清涼寺の建立を見ないまま然は亡くなりますが、然の弟子の盛算が1018年に五台山清凉寺の阿闍梨に補任されているので、この頃には清涼寺が完成していたようです。仁王門

 

 

 

1156年、法然(当時24歳)が、比叡山を下り、清涼寺釈迦堂で7日間参籠していますので、このとき然の釈迦如来像(国宝)を見ていることは確実です。本堂

 

 

 

清涼寺の伽藍は、応仁の乱の兵火で1468年に焼失していますが、1489年から1497年にかけて再建されたようです。経蔵

 

 

 

その100年後となる1596年に発生した京畿大地震で、伽藍が大破していますが、1602年に豊臣秀頼が諸堂を再興しています。本堂から方丈への廊下

 

 

 

ところが1637年に嵯峨で大火があり、本堂以下の伽藍の大半は焼失していますが、本尊の釈迦如来像(国宝)は何度もあった危機をくぐり、今日まで伝わっています。

  

参考文献:古寺巡礼 京都 清涼寺 瀬戸内寂聴、鵜飼光順著

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ハイアットリージェンシー大阪の朝食は、1階にあるThe Cafeです。入り口までは、ホテル自慢の石張りの床がエレベーターホールから続いていて、豪華ですね。

中はこんな感じ、シンプルなインテリアでした。

アイテム数と品質でウエスチン大阪に負けていると思ったパンコーナーです。

サカナ、サーモン、ソーセージ、ハム

中央にある円形テーブルにはジュースバー、サラダコーナーなどがあります。

和食のアイテム

チーズは、好みの量をセルフサービスでカットする方式でした。

フルーツコーナー、右のビンの中はヨーグルトだったと思います。

円形テーブル奥のカウンターには、暖かい料理が並んでいて、こちらは質とアイテム数でウエスティン大阪に勝っていると思いました。

結構広いレストランですが、暫くすると航空会社のクルーや、韓国系、中国系外国人で殆んど満席状態になったのでびっくりしました。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




海遊館のある地下鉄中央線大阪港駅の次がコスモスクエア駅、そこでニュートラムに乗り換え2駅、中ふ頭駅のすぐそばにハイアットリージェンシー大阪があります。

1994年にオープンしたハイアットリージェンシー大阪のデラックスルームの面積は40㎡。これくらいあると空間に余裕がありますね。窓際から入り口方向です。

洗面台と浴槽。

洗面台のアメニティグッズ

浴槽

シャワーブース

ベッドは、幅110cm、長さ203cm。ウエスティン大阪のベッドよりも幅が25cm狭く、少し窮屈でした。

窓の横にあるデスク

窓からは、フェリーターミナルのサンフラワー、その先には大阪港と神戸の山が見えます。

海遊館を見た後に宿泊するホテルとしてお勧めですが、料金がチョット高いかもしれません。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大阪観光のお勧めスポットは海遊館です。そこで涼しい夏を過ごしている仲間たちをご紹介しましょう。あっという間に目の前を通り過ぎたジンベイザメです。

目つきが鋭いロウニンアジ

歩行中のトラフカラッパ。胴体をガードする巨大なツメは、隙間ができないように左右非対称となっています。

横から見ると、体に沿ってツメも丸くカーブしていて、ソフトボールのようです。

サカナ達は、常に動き回っているので、ブレないように撮るのは大変です。熱帯魚の水槽。

これは比較的おとなしいタカアシガニ

常に激しく動き回っているマンタは、最も撮影の難しいサカナです。

おとなしいウミガメの子供もいました。

クラゲ水槽は、非常に暗い場所にあるので、ブレないように撮るのが難しいですね。

見るだけで涼しい海遊館は、夏の大阪観光に欠かせない場所だと思います。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ウェスティンホテル大阪の朝食バイキングは、ロビーラウンジ奥の左手にあるレストラン、アマデウスです。

朝6時半からオープンしているアマデウス。座席数は94席もあるそうです。

ここのお勧めは、焼き上げたばかりのパン、なかでもクロワッサンが逸品でした。

料理は、比較的小さな皿に盛りつけられていましたので、大勢の客が入ると補充が大変でしょうね。

料理の質とその数は、このクラスのホテルとしては、かなり上の方だと思います。

私の好物のスモークサーモン、ホテルの朝食バイキングでは必ず頂くことにしています。

ワッフル、パンケーキと目玉焼き、卵料理。

サラダコーナーの入れ物も少し小さめでした。

フルーツのコーナー



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1993年にオープンしたウェスティンホテル大阪のスタンダードルームの面積は41㎡もあり、大型のデスクが楽々置ける余裕の広さでした。

ベッドは、ウェスティンホテル自慢のヘブンリーベッド(幅135cm、長さ203cm)。この幅の広さが実に快適でしたね。

部屋からの大阪駅方向の眺望です。

洗面器が左右2か所あるのも、普通のホテルには無い余裕の配置でしょう。

今の季節、外出の後でさっと使えるシャワーブースは有難いですが、トイレと同室はちょっと問題です。

広く深い浴槽もありますが、日本人なら洗い場が欲しいところです。このホテルの設計段階では、まだ西洋人的発想が残っていたのでしょう。最近では、トイレと浴室を分け、浴室に洗い場が付いているホテルが増えてきています。

大型ベッドが2台置かれていますが、周囲の空間にはまだ余裕があります。

テレビとソファー

夜はこんな感じで賑やかな大阪駅を見下ろせます。

大阪駅から15分置きに無料シャトルバスが運行しているウェスティンホテル大阪は、料金の割には良いホテルでした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日に続いて御堂筋の紹介です。長堀通りの手前のCHANELのマネキンは、もう秋冬ファッションでした。

左のビルの一階には、確かDANHILLがあったのですが、撤退したのでしょうか。

こちらは6月に撤退したBENETONです。

HERMESは、まだ頑張っています。

最近完成した高層ビル、本町南ガーデンシティ。

ビルの前にはまだバリケードが置いてありました。

まもなく移転する伊藤忠本社。ビルの隙間から朝日が差し込んでいました。

高層階にセントレジスホテルが入っている本町ガーデンシティの前。

本町ガーデンシティの前の歩道は広いですね。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この日、天気が良かったので地下鉄御堂筋線難波駅で下り、来年から大阪市が管理することになった御堂筋をぶらぶら本町まで歩いてみました。

道頓堀の上からスポタカ方向。分離帯の上の雑草が田舎の道路のようですが、大阪市の管理になれば改善させるのでしょうね。

城のような三津寺。ここが御堂筋とは思えない一角です。

DOLCHE&GABBANAの前までくると、交差点の先の建物の壁に見慣れたマークが。

おっ、LOUIS VUITTON。

建物はもう完成していますね。

外壁は、四角い穴開き金属製(ステンレス?)です。

ここは以前COACHがあったのでは?

大丸北館の前、通行人がいない珍しい瞬間。

長堀通りから先は、明日ご紹介します。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




和泉中央駅から南側に伸びる通路は、アムゼモールと呼ばれるそうです。右が大型スーパーいずみや

モールを挟んだ反対側は、ニトリなどが入ったショッピングゾーン「エコールいずみ東館」で、その裏にはヤマダ電機大型店、テックランド和泉中央店があり、は買い物の利便性は良いようです。

アムゼモールから振り返って駅方向を見たところ。左には駐車場ビルもありました。

アムゼモールの出口

アムゼモールの先は、東京の佐藤総合設計が設計、2003年にオープンしたガラス外壁が印象的な「シティプラザいずみ」です。

「シティプラザいずみ」は、延べ面積約2万5千平米、客席数664席の多目的ホールをメインに、和泉市役所の出張所や市立図書館、生涯学習センターなどが入居する公共複合施設でした。

「シティプラザいずみ」のさらに南側、駅から徒歩12分の場所には、1995年に堺市から移転した桃山学院大学ありますが、夏休み中なので通学する大学生は少なかったようです。

地中にあるようにも見える「シティプラザいずみ」の図書室。

こういう空間は、佐藤総合設計の設計者の腕の見せ所でしょうが、なんとなく安藤忠雄デザインに似ているような気もしました。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、高知出張の帰り、泉州上空から下を見ると和泉中央駅の周辺に建物が集中し、賑やかな街並みとなっていました。

そこで難波から28キロの距離にある泉北高速鉄道線の終着駅、1995年4月に開業した和泉中央まででかけ、その周りを取材してみました。 駅前のバス停

駅の両側を走る車道の上には、かなり長い陸橋が南北に通り、人と車が重ならないよう立体的に交差しています。

駅周辺は、「トリヴェール和泉」とも呼ばれ、和泉中央駅の1日あたりの乗降客は約3万人もいるそうです。駅北側の車道の上から陸橋を見たところ。

歩道橋北側には、広大な空地の先にアスティオ和泉中央などのマンション群が見えています。駅に隣接する この空地の立地条件は抜群ですね。

駅を挟んだ南側には、スーパーいずみやなどが入居する大型ショッピングビル「エコールいずみ」があります。

陸橋の上から駅前バス停を見ると、雨の日でも濡れないよう長い雨除け屋根が完備していました。

これは駅の南側。中央に「いぶきの病院」の高層ビルが見えています。

つづく



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




天下を統一した豊臣秀吉(1537~1598年)は、大坂城が完成する1585年頃から亡くなる1598年まで、住吉大社や堺へ何度も出かけていますが、その際に紹鴎天満宮前の茶屋で休息したところから、「太閤殿下茶屋」が転じて「天下茶屋」と呼ばれるようになったといいます。 現在の大阪城

 

  

 

最初、秀吉に同行した千利休(この地の森を開いた武野紹鴎の弟子)が茶屋の湧水を汲んで茶を出したところ、秀吉はその水の味が気に入り「恵水」と名付けたと伝えられています。しかし利休は、秀吉の勘気を受け、1591年に自害を命じられているので、それ以前の話なのでしょう。楠木の下に天下茶屋跡の石碑があります。

 



ここには、1945年(昭和20年)の戦災に遭う前まで、5000平米に及ぶ屋敷と秀吉が命名した「恵水」の井戸や茶室があり、紀州藩主をはじめ諸大名が宿泊した御殿も残っていたようです。

 



江戸時代の寛永年間(1624~44年)、そこから300m北側に近江出身の津田氏が天下茶屋の「軍中散」とよく似たネーミングの「和中散」という薬を売る茶店を出しています。 右側の公園部分

 



その茶屋は、「天下茶屋村是斎薬店」と言い、紀州街道を往来する人に薬湯を自由に試飲させて宣伝したために、ほどなく是斎屋は、元祖天下茶屋より繁盛した天下茶屋となったといいます。是斎屋跡地

 



この「是斎薬店」跡地は、現在の天下茶屋公園となり、住吉大社に参詣した明治天皇がここで休んだ(明治天皇駐蹕遺址碑)のある場所としても知られています。

 


 

結局、二つの天下茶屋が存在していたようですが、大坂市民(江戸時代には約40万人)が住吉参詣に出かけるとき、どちらかの茶屋へ立ち寄るのを楽しみとしていたようです。住吉大社

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




岸里東1丁目交差点から紀州街道沿いに南に500mほど歩くと、室町時代の応永年間(1394~1428年)に京都北野天満宮から分霊したという「紹鴎天満宮」の西鳥居があります。  

 



この地は古くから「天神ノ森」と呼ばれる鬱蒼とした森林地帯で、そこに湧く水に着目して森を切り開いて道をつけ茶室を建てたのが、堺の茶人、武野紹鷗(1502~1555年)で、それ以来「紹鷗ノ森」とも呼ばれるようになっています。  

 

 

 

紀州街道に面した鳥居の右の石柱には、紹鴎森天満宮とありましたが、この天満宮には、天神森天満宮、天下茶屋天満宮、子安天満宮と4つもの呼び名があるようです。 

  

 

西の鳥居から中に入ると、天満宮の中は鬱蒼とした楠の古木があり、今も天神の森の雰囲気を残していました。

 

 

天満宮の由緒記には、西暦901年、菅原道真が太宰府に左遷されたおり、住吉大社に参拝の途中、この地で休息、その後に祠が建立されたとありますので、1110年前から人の往来があったようです。

 

 

この地の豪族(楠木氏の末裔という)芽木氏が武野紹鷗の没後となる天正年間(1573~1592年)に紹鴎森天満宮の西を開き、その土地の湧水を使った茶屋(後の天下茶屋)を出しています。 天満宮から見た茶屋跡の楠木

 



芽木氏(屋号は河内屋小兵衛)の茶屋では、古くから「軍中散」という薬も商っていて、住吉詣などで紀州街道を通る人々の人気を集めていたようです。 僅かに残る茶屋の蔵 

 

 

 

つづく



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1885年(明治18年)に開業している南海電車の天下茶屋駅から、天下の太閤秀吉がお茶を飲んだ場所として知られる天下茶屋跡までの散歩ルートを紹介しましょう。

この辺りは、1945年の空襲で被災したために古い建物が殆んど残っていません。天下茶屋駅前商店街のアーケード

天下茶屋駅周辺は、1996年のNHKの連続ドラマ「ふたりっこ」の舞台として一時有名になったことがありますが、あれからもう15年も経っています。天下茶屋駅前商店街

天下茶屋駅前商店街は、100mくらい東側で紀州街道と交差しています。そこで右折して南に進むと住吉大社の前を通って堺から和歌山へ至る紀州街道です。

大坂城の豊臣秀吉も、住吉大社や堺との往復のためにこの道路を何度も往復しています。この辺りの紀州街道の幅は、江戸時代から余り変わっていないようです。

天下茶屋とは、天下の関白殿下秀吉が住吉大社からの帰りにこの地の茶屋でお茶を飲み、その味の良さに感激したということで、命名されたといいます。都市計画で急に広くなっている紀州街道

この紀州街道は、上町台地の西麓を通っているので、上町台地に降った雨が所々で湧水となっていたのでしょう。岸里東1丁目交差点から上町台地方向

秀吉の時代、紀州街道の西はすぐ海だったようですが、江戸時代からの干拓で、今の海岸線は9キロも先(南港地区の西を海岸として)に移動しています。紀州街道の西、地下鉄岸里駅方向

天下茶屋駅から紀州街道に沿って歩くと、ここまで約500m。目指す天下茶屋跡は、さらに0,5キロ先と標識にありました。

つづく



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




江戸時代、天下の台所と知られた大坂には、町人に比べて武士の数が極端に少なかったことが知られています。

  

 

その人数には諸説あるようですが、薮田貫さんの著書「武士の町大坂」の中の数字が最も信頼性が高いと思うので、大阪城の写真と一緒にそれをご紹介しましょう。天守閣

 

 

薮田貫さんは、1大坂城内に在勤する武士、2大坂城外の奉行衆、3与力同心、4諸藩の蔵屋敷に勤務する武士の4グループに分け、その数を明らかにしています。大手門

  

 

まず、1の大坂城内には東西2組の大番衆とその与力がいて合計980人。次に山里、青屋口、中小屋、雁木坂に配置された加番(4名の大名)とその家来が1000人。青屋口加番は、青屋門の内側に配置されていた

  この

 

さらに京橋口と玉造口に置かれた定番(2名の大名)とその家来が470人。定番に付属する地方の与力同心は別にカウントしています。京橋口に通じる極楽橋

  

 

大坂城のトップとして君臨する城代は、就任する大名の石高によって家来の数が変動するので610~1005人、徳川幕府の軍事拠点だった大坂城内には、常時3160~3555人の武士がいたようです。城代が守備した大手多門櫓

  

 

次に2の奉行衆は、東西町奉行と川口の船奉行、その家来家族が210人。大坂城の6役奉行(鉄砲、弓、具足、金、蔵、材木)とその家来家族が350人。さらに2人の大坂代官とその家来家族が90人、奉行と代官合わせて650人となります。ここまで1,2でカウントした武士は幕府から派遣される転勤族だったようです。大阪城の金蔵は金奉行の所管

  

 

定番と奉行衆の配下で転勤の無かった地方役人、3の与力同心は、定番付属、町奉行、船奉行付属、6役奉行付属、合わせて与力130人、同心480人、蔵番など123人、その家族を合わせ3000人。天守閣

  

 

最後に4の諸藩大坂蔵屋敷に勤務する武士は、1藩平均10名とし90藩で900名としています。本丸への正門、桜門

  

 

以上を総計すると7710~8105名、江戸時代の大坂の人口は、約40万人とされていたので武士の比率は僅か約2%程度だったようです。

 

 

参考文献:「武士の町大坂」薮田 貫著

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




早朝のルクアをぶらぶら散歩していると、スープストックトウキョウという店を見つけました。

こちらがそのメニューです。このほかに朝限定メニューとしてスープと石窯パン(または白胡麻ご飯)のセットが500円でした。

店が空いていたのでここで朝食をとることにし、東京ボルシチとパンのセットを注文してみました。出てきたボルシチは、玉ねぎの甘みと、とろけた牛肉のエキス、さっぱりとしていますが深い味わいがある逸品でした。

もうひとつ頼んだのがオマール海老のビスクです。海老特有のうま味にトマトと香味野菜の香りが乗ったこれも大変美味いスープでした。

ルクアを歩いたあと、大阪駅1階の北側に出てみると、新しいJR高速バスターミナルがもう営業しています。

左側にはチケット売り場と待合室。通路が広くて歩きやすく、大阪駅の改札も近いので乗り継ぎも楽になったようです。

バスターミナルから外に出ると、大阪駅ノースゲートビルを見上げるポイントがあり、最上部にどこかの会社のロゴマークが掲示されていました。

これがその拡大写真。伊藤忠商事のマークです。本町にある伊藤忠はこちらに移転するようです。

これは、ノースゲートビルの北側にある現在工事中の梅田北ヤード再開発(ウメキタ)、これが完成すると大阪駅の北側がさらに大きく変わるのでしょうね。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »