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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



豊臣家の大寺院、方広寺と秀吉を祀る豊国神社から西に向かって真っ直ぐ伸びる大通りが正面通であるが、その突き当たりにあるのが西本願寺の正門(御影堂門)と御影堂である。

正面通を分断している東本願寺の渉成園の門



方広寺は、1596年に地震で一度倒壊したが、1614年に豊臣秀頼が再建した際、寄進した梵鐘に「国家安康」の銘文があったことから徳川が因縁をつけ、大阪冬の陣となったことは有名である。

正面通を分断している渉成園の高石垣(石橋、石臼の部材が転用されている)



家康は、1600年にあった関が原の後、西本願寺をつぶすことも考えていたようであるが、引退した教如を復活させて、一向一揆を主導していた本願寺の勢力を二分するアイデアを実行している。

正面通を分断している渉成園の庭



1602年、家康は引退していた本願寺前12世教如に西本願寺の東、豊国神社から西本願寺まで伸びている正面通を遮断する寺地を寄進、翌年、教如は寄進された寺地へ、茨城県から宗祖の木像を迎えて東本願寺としている。

渉成園の池にかかる回廊



その後、幕府が後押ししたことから教如へ帰依する門徒が多くなり、やがて門徒は集合離散し、本願寺教団は東西にほぼ半分に分割され、家康の思惑通りになったのである。

渉成園の中の茶室(傍花閣、1892年)



1604年に最初の御影堂が完成した東本願寺の正門、御影堂門は、正面通から南にずれた位置にあり、さらに1653年に正面通を分断する渉成園が完成、豊国神社と西本願寺を一直線に結ぶ正面通はずたずたに分断されてしまっている。

渉成園の中の池と橋



1636年に再建されたライバル西本願寺の御影堂(現存)は、桁行31間半(56,7メートル)もあったために、東本願寺も対抗して1650年代に桁行32間(57,6メートル)の御影堂を再建している。

東本願寺の御影堂



ところが、再建された東本願寺の御影堂は、1788年、1823年、1858年と3回も火災によって焼失、その都度幕府の援助と信者の寄進で再建されたが、幕末の1864年、蛤御門の変の兵火でまたもや焼失している。

東本願寺の御影堂門



東本願寺では、明治に入った1880年に再建に着手、1895年に完成しているが、御影堂の桁行は、35間(約64メートル)、世界最大と豪語する巨大な木造建築として完成している。

御影堂と御影堂門




現在、この御影堂は修理中で、仮設の建物に覆われているが、東大寺大仏殿の長さ(57,5メートル)を凌ぐ巨大な木造建築である。

阿弥陀堂



同時に完成した本堂(阿弥陀堂)は、桁行22間(約39メートル)というので少し小さい。


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