野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



今年25周年を迎えた東京ディズニーの人気キャラクターが登場するアニバーサリーグリーティングが10時10分からシンデレラ城の前であるというので、20分前に行って見ると凄い人である。



炎天下じっと我慢して待っていると、フロートに乗ってキャラクターがやってきて踊ってみせてくれるのであるが、遠くてよく見えない。



オーランドのマジックキングダムでもディズニーキャラクター出演の「エブリディアホリディ」というアトラクションがシンデレラ城の前であったことを思い出した。



ディズニーキャラクターと男女12人の若者が、オーケストラの生バンドに乗ってパワフルに踊るショーで、最前列でゆっくりと鑑賞することができた。



12時すぎからの2回目のアニバーサリーグリーティングは、キャラクターがフロートに乗って広場の外側をゆっくり移動しながらゲストに挨拶するという趣向である。



混雑に疲れたので12時半にパークの外に出てみると、この7月8日にグランドオープンする「東京ディズニーランドホテル」が殆ど完成しているではないか。



モノレール東京ディズニーランドステーションを挟んでパークと向かい合う東京ディズニーランドホテルは、地上9階建て、延床面積は約8万9千平米、客室は705室という大規模ホテルである。



このホテルは、既存の2つの公式ディズニーホテルの宿泊稼働率が年間コンスタントに90%を超えるために、新たに「滞在型リゾートホテル」として開業するという。



内装、外装とともに19世紀から20世紀にかけて流行した、イギリスヴィクトリア様式で統一されているので、外観はバッキンガム宮殿のようである。



客室や宿泊料は既存のディズニーホテルと同水準(1泊4万円程度か)というが、最高級スイート「ウォルトディズニースイート」の広さは235平米、宿泊料金は一泊50万円とされている。



7月8日のオープンから7月、8月の2ヶ月間は、今年3月中旬の段階で全室(1泊50万円の部屋を含めて)予約で埋まったというので、これから宿泊を希望する人は早くても9月以降の宿泊となるらしい。



いやー、東京ディズニーランドの人気は恐るべしである。

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スターライトパスを買ったのは19時半からスタートする、エレクトリカルパレードを見たかったからであるが、残念ながら夕方から雨が降ってきた。



係員に聞くと、「小雨なら決行することもあります」というので、わざわざ傘を持って出かけてきたのに、直前になって本日は雨天のために中止ですという。



オーランドでもエレクトリカルパレードを見逃しているので、今度こそと思ったが、残念ながら今回も空振りであった。

帰ろうとすると、雨の日だけのアトラクション「レイニーデイ・ファン」があるというので待っていると、水槽を載せたフロートにレインコートを着たディズニーキャラクター達が乗ってやってきた。



フロートの後ろには、やはりレインコートを着て傘を持ったスタッフが続き、踊りながらのパレードである。



エレクトリカルパレードは見られなかったが、雨の日にしかない「レイニーデイ・ファン」が見られたので良しとしよう。



東京ディズニーの二日目は、大阪でしか買えないワンデーパス(4800円、何とスターライトパスより100円高いだけ)を持ってオープンの30分前にゲートに着くと、平日なのに数千人もの行列ができているではないか。



そのため入場できたのは、ゲート到着から50分も経ってからだったので、東京ディズニーには、パークの中に入るだけでも大変ということが良く判った。



すでに人気のアトラクションには長蛇の列ができていたので、比較的空いていたアドベンチャーランドのウエスタンリバー鉄道に乗ってみた。



そのあとファストパスを使ってビッグサンダーマウンテン(ジェットコースター)に乗っただけで会場の混雑に疲れてしまい、行列に並ぶ気力が無くなってしまった。



しかしファストパスの威力は絶大で、指定された時間に行くと、長蛇の列の横をスイスイと先頭まで案内され、待ち時間なしで乗ることができたのである。



今回、このシステムをよく知らなかったので、1回しか使わなかったが、うまく使えば大混雑のアトラクションでも待ち時間なしで乗れるので便利である。


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東京ディズニーランドでは、15時から「ジュビレーション(歓喜、歓声)」というディズニーキャラクターが総出演する大掛かりなパレードがある。



そこで、少し曇っていたが、スタ-ライトパスという15時から入場できる入場券を4700円(1日パスは5800円)で買って、ディズニーランドに入場して見ることとした。



15時過ぎに到着したパレードコースの前をフロートが何台も通り、確かに壮観であるが、オーランドのディズニーワールドのパレードと比べると観客が多すぎる。



オーランドでは、すぐ傍からパレードを見ることができたが、東京では早くから場所を取っている数万人?の観客の一番後ろからの鑑賞となってしまった。



遥か遠くから見るディズニーキャラクターは、迫力に欠け、さらに人の頭が邪魔でよく見えないのである。



さすがに本場をしのぐ観客動員を誇る東京ディズニーランドであるが、狭い園内これほど人が集まっているとは予想外であった。



次の日にあったアニバーサリーグリーティングパレードは、シンデレラ城の前の円形広場から見ることができたが、広場の内側には観客が比較的少なく、パレードをしっかりと見ることができたので、ディズニーのパレードは広場の内側から見るのが正解であろう。



ジュビレーションの後は、ワンマンズドリームというウオルト・ディズニーが創造したキャラクター達のミュージカルショーを見るために列に並ぶこととした。



40分くらいしてやっと席に案内してもらうことができたが、オーランドにはあった行列をして時間を持て余しているゲストを楽しませる企画が何も無かったのが残念であった。



いくらハードを精巧に作っても、時間を持て余しているゲストを退屈させないソフトが無ければ楽しいテーマパークとは言えないので、この点ではアメリカのほうが勝っている。



東京ディズニーのスタッフも、このことを十分知っていると思うが、行列しているゲストが退屈しないディズニーらしい企画を今後期待したいものである。



思っていたよりも小さな舞台であったが、30分間続いたワンマンズドリームのミュージカルショーは結構面白かった。


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1983年4月にオープンし、今年が25周年となる東京ディズニーランドには、いままで一度も行ったことがなかったが、フロリダ州オーランドにあるディズニーワールドには8年前の2000年に一度行ったことがある。

入場券



オーランドディズニーワールドのマジックキングダムのコンセプトが、東京ディズニーランドに導入されているので、双方が非常に良く似た配置とデザインとなっていた。

シンデレラ城



東京ディズニーランドの建設計画当時(1981年頃)、ディズニー社は、フロリダのディズニーワールドのEPCOTの建設の真っ最中にあったために、リスクを回避する意味でディズニーによる直接経営をわざと避けたという。



確かに、EPCOTを含めたディズニーワールドの規模は巨大であり、手元に残っていた当時のパンフを取り出してみると、EPCOT、マジックキングダム、アニマルキングダム、ディズニーMGMスタジオなどがあり、投資額もさぞ巨額であったであろうと容易に推察される。

バザール(マジックキングダムにもある、但し屋根は無い)



そのため東京ディズニーランドは、京成電鉄、三井不動産を主要株主とするオリエンタルランド社がディズニー社とのライセンス契約で施設を建設しているので日本側にかなり有利な契約となったようである。

会場の混雑



世界で5つあるディズニーのテーマリゾートのうち、運営会社にディズニー社が全く出資していないのは東京ディズニーランドだけで、ディズニー社にとっては、東京ディズニーランドのライセンス方式は「史上最大の失敗」であったと言われている。

パレードを待つ観客



東京ディズニーランドの建設時、ディズニー社にあった設計図面は現場を完全に反映して無かったが、日本側のスタッフが何度も米国に赴いて実測図を作成し、それを基に新たな設計図面が起こされている。



この辺りは、大陸的でおおらかなアメリカと、肌理細やかな職人芸を尊重する日本の違いであろう。



現在では、東京ディズニーランドと東京ディズニーシーを合わせ、年間約2500万人が来場しているが、これは日本のテーマパークのみならず、世界のテーマパークでもトップクラスの集客人員と言われ、ディズニー社を悔しがらせている。



客層の約70%は、関東地方在住者で占められ、関東地方の人たちは必ず一度は足を運んだことがあるといわれているが、関西人の私には始めての東京ディズニーであった。



近年、香港にもディズニーランドがオープンし、ソウル、中国、シンガポールなどにもディズニーパークを誘致する計画があるらしいが、職人芸を尊重する日本のディズニーランドには絶対に及ばないと断言できる。


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久しぶりに神戸花鳥園に行き、大温室の中に絢爛豪華に咲いている花と、珍しい鳥を見て心を癒してきた。



今回特に気に入ったのはスイレン温室のスイレンの花で、丁度今が見頃となっている。



スイレン属は、水位が安定している池などに生息し、地下茎から長い茎を伸ばし、水面に葉や花を浮かべる。



葉は円形から広楕円形で円の中心付近に葉柄が着き、その部分に深い切れ込みが入るが葉の表面に強い撥水性はない。



産地で大まかに分けると、熱帯産と温帯産に分けられるが、温帯産は水面のすぐ上に花を付け、熱帯産は水面から高く突き出た茎の先端に花をつけるので、区別は容易であるという。



神戸花鳥園のスイレンは、すべて熱帯性スイレンで、生育には27度以上の水温を保つ必要があるのでエネルギー費用が大変であろう。

スイレンの花は、八重咲きで大輪、色が鮮やかで豪華であるが、水中にあるためにクローズアップで撮ることが難しい。



日本にも自生するスイレン科のオニバスには、植物全体にトゲが生えており「鬼」の名が付けられている。

オオオニバスの裏



オニバスの円形の葉は、丸くシワだらけの折り畳まれた姿で水面に顔を出し広がり、葉の大きさは直径2メートル近くまで成長するが、かつて富山県では直径2,6メートルの葉が見つかったことがあるという。



子供を載せた写真で知られるオオオニバスは、オニバスとは別のオオオニバス属の植物で南米アマゾン川流域が原産地である。



オオオニバスとパラグアイオオオニバスの2種からなり、オニバスと違って葉の縁が立ち上がる特徴があるので、大きなものは100キロの重さを乗せることができるという。



神戸花鳥園では、蓮池の傍にオオオニバスの葉の裏側を展示していたが、たしかに鋭いトゲがビッシリ葉脈から生えている。


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徳川家康の次男秀康(1574~1607年)は、長幼の序列からすれば三男秀忠(1579~1632年)よりも先に徳川家の家督(将軍家)を相続できる立場であったが、家康の決断で2代将軍は秀忠となり、秀康は弟に臣従する立場となっている。

高野山にある秀康の墓所



その秀康の長男である松平忠直(1595~1650年)は、越前75万石を1607年に相続したが、父親が将軍とならなかったことに屈託があったようである。

忠直は、大阪冬の陣に参戦しているが、兵力の損失が多かったと家康に叱責され、夏の陣では真田幸村の首を取り、大坂城へ真っ先に攻め入ったが加増もされず、官位も従三位参議と低いままであった。

安居神社にある真田幸村の碑



1620年にスタートした大坂城再築石垣普請には、唯一の親藩大名として参加し、越前(大坂城普請丁場割之図には越前宰相とある)の石高に見合う合計85間=154mもの広い範囲を担当している。

大坂城普請丁場割之図



この大坂城再築第1期工事では、京橋口(87間)を担当した家康の外孫に当たる池田忠雄(1602~1632年)が積極的に取り組み、枡形には巨大な肥後石(120トン)を運び込んでいる。

京橋口枡形



池田忠雄は、姫路52万石の藩主であった池田輝政の3男、母親は徳川家康の次女富子(督姫)、大坂城再築第2期工事でも桜門と枡形を担当して城内最大の蛸石(130トン)を運びこむ入れ込みようであった。

大坂城普請丁場割之図の桜門と枡形(松平宮内少輔とあるのが池田忠雄)



松平忠直が担当した石垣は、大阪城の東外堀で見ることができるが、この石垣が他の藩の石垣と比べて粗雑にできているように見えるのは私だけか。

松平忠直の担当場所の石垣



1621年になると忠直は、病を理由に江戸参勤を行わず、また1622年には妻(秀忠の娘)の殺害を思いつくなどの乱行が目立つようになっている。

桜門(左が虎石、右が龍石)



叔父の将軍秀忠は、結局1623年に忠直を大分に配流しているので、翌年からスタートした大阪城本丸築造の2期工事、1628年の3期工事には越前松平家は参加していない。

2期工事で完成した天守



しかし忠直の嫡男光長(1616~1707年)は、後に高田藩(26万石)から津山(10万石)の藩祖、忠直の次弟忠昌が越前本家(32万石)、三弟直政は松江藩(19万石+支藩4万石)、五弟直基は前橋藩(17万石)、6弟直良は明石藩(10万石格)の藩祖となっているので、忠直兄弟の家系は幕府から厚遇されていたのである。

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大阪市浪速区にある今宮戎神社の東側の筋を真っ直ぐ北に進み、阪神高速の高架下を潜ると、すぐに廣田神社の南鳥居に出る。

今宮戎神社(左側)と廣田神社の鳥居



祭神は、西宮の旧官幣大社廣田神社と同じ「天照大神の荒魂」なので、西宮の廣田神社と同じ神を祀っている。

鳥居



廣田神社の拝殿は、鳥居を潜って20mくらい歩いた場所にあり、西宮廣田神社の広大な敷地と比べると小さな神社であった。

拝殿



西宮の廣田神社の南方には、全国えびす神社の総本山という西宮神社(西宮えびす神社)があるが、浪速区の廣田神社の南には今宮戎神社があり、西宮と良く似た配置となっている。

熊野大社の京都における末社が、今熊野神社というように、西宮えびす神社の末社が「今西宮えびす神社」となり、後にゴロの悪い西宮の西が省略され今宮戎神社とされた可能性が高いようである。

廣田神社のアカエイの絵馬



廣田神社には、アカエイに願い事をすれば叶うという言い伝えが古くからあり、境内には願い事を書いたアカエイの絵馬が多数掛けられている。



エイに願い事をすれば叶うという言い伝えは、神戸長田区の長田神社の境内にある楠宮稲荷神社にもあり、やはりエイの絵馬があるので、浪速区の廣田神社と長田神社には何か関連がありそうである。

楠宮稲荷神社の絵馬(こちらのエイは漫画のよう)



浪速区の廣田神社と今宮戎神社との関係は、双方ともに西宮にある旧官幣大社廣田神社と西宮えびす神社の末社のようであるが、今宮戎神社は事代主命をえびす神とする全国のえびす神社の本社と称している。

今宮戎神社の本殿



一方の西宮えびす神社の祭神は、イザナギ、イザナミの子息である蛭子神としているので、今宮戎神社とは祭神が違うこととなっている。

西宮神社の拝殿



しかし、事代主命をえびす神とする説は、江戸期になってから広まったとされているので、それよりも古い西宮えびす神社が全国のえびす神社の本社に相応しいのではなかろうか。

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チェックインの後で乗った扉が鏡のようなエレベーターでは、ミッキーマウスの声で「3階だよ」と案内され、子供が喜びそうな仕掛けがしてあった。

エレベーター扉



客室数504室という巨大なホテルだけあって、エレベーターホールから続く廊下が長く、なかなか部屋に到着できない。



案内された部屋は、スタンダードフロアスーペリアルームで、部屋の広さが41㎡というだけあってかなりゆったりとしていた。



床のカーペットには、ミッキーマウスのデザインがさりげなく入っていて、部屋の鏡にもミッキーのキャラクターが入っている。



洗面所は狭かったが、洗面台の左側が白いタイル張りの洗い場の付いた浴室で、右側には独立したウオッシュレット付きトイレがある。



ベッドの正面のキャビネットの中には、古いブラウン管テレビが置かれていたので、デジタル放送が受信できる32インチ液晶テレビのあるヒルトンベイホテルのほうが上である。



窓際には、円形テーブルと椅子が2脚、壁際にはソファーが置かれ、窓からはプールが見えたが、今の季節にはまだオープンしていないようであった。



この窓から外を眺めると、外国にいるのではないかと錯覚するような景色が広がっていて、マックナイトの絵のようでもある。



この景色を見ると、ディズニーアンバサダーホテルは、日本にいながら外国旅行の気分が味わえるホテルというコンセプトが良く判る。



少し落ち着いてから正面エントランスに出てみると、エアポートリムジンが到着していたので、飛行機を使ってホテルに宿泊する人のアクセスは良さそうである。



柱には、東京ディズニーランド25周年のロゴが貼り付けてあったので、オープンしてから25年を経て今回初めて東京ディズニーランドに来ることができた訳である。



ホテルのゲートまで歩いてみると、夢を売るホテルらしいミッキーマウスの人形や、花壇がさりげなく置かれている。



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舞浜駅で降りて、ウエルカムセンターでディズニーアンバサダーホテルまでの経路を聞くと、イクスピアリ(店舗ゾーン)の中を突き抜けて、シネマの横の回廊を通った場所にあるとのこと。

イクスピアリの入り口



荷物は先に届いているので楽であったが、説明された順路で歩いてみる店舗ゾーンが延々と続き、なかなか到着しない。

イクスピアリの内部



かなり歩いてからホテルの裏口に到着、長い廊下をロビーまで歩き、舞浜駅から15分くらいかかって、やっとチェックインすることができた。

シネマの回廊



フロントで聞いてみると、ホテルをチェックアウトしてから舞浜駅までのルートは、ディズニーランド、ディズニーシーまで無料シャトルバスで行き、そこからモノレールの乗り場まで歩き、モノレールに乗って(有料250円)ゲートウエイ駅で下り、そこからまた舞浜駅まで歩く必要があるという。

フロント前のロビー



またチェックインの日には、舞浜駅に近いウエルカムセンターに荷物を預けるとホテルに届けて貰えるが、チェックアウトの際にはホテルのカウンターで預かるだけで、ウエルカムセンターには届けて貰えないという。

ホテルの裏庭



そこで翌日チェックアウトしてから舞浜駅まで歩くこととしたが、イクスピアリが開店(10時オープン)していなかったために、荷物を抱えてイクスピアリの外側を20分も歩くという悲惨な事態となった。

イクスピアリの外



さて、ディズニーアンバサダーホテルは、内装、外装とともにアールデコ様式で統一され、外国に来たような気分にさせてくれる非日常的な空間を持ったホテルである。

エレベーターロビー



またディズニー公式ホテルであることを誇示しているかのように廊下には、年代もののディズニーのポスターが何枚か展示されていた。

ポスター



宿泊客限定のレストラン「シェフ・ミッキー」では、ミッキーマウスなどのディズニーキャラクターが、各テーブルを回ってくるサービスがあるというので、フロントで予約を頼むと、もう満席ですとのこと。

ショップのミッキー



後で調べてみると、早い人は半年も前から予約を入れているというので、前日の予約ではかなり難しいようである。

「シェフ・ミッキー」の前



しかし、翌朝7時頃にレストラン「シェフ・ミッキー」の前を通ると、利用者で大混雑していた。



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東京メトロ千代田線の乃木坂駅から表参道で下り、乃木坂方向に少し戻ると、ブランドショップが軒を連ねてる。



その中に、菱形のガラス板で建物全体が覆われたPRADAビルがある。



スイスの建築家ヘルツォークとド・ムーロンが設計したひし形窓の斜め格子は、単なる飾りではなく、建物を支持する主体構造物であるという。



このようなデザインの建物は大阪には無いので、中に入ってしっかり見学しておいたが、建物の壁が床から天井までガラス窓というなかなか楽しい建物であった。



次に、表参道を西に戻り、1927年に完成した同潤会青山アパートを取り壊した跡地に2006年にオープンした「表参道ヒルズ」まで足を伸ばしてみた。



(財)同潤会とは、関東大震災後、旧内務省が東京・横浜に耐震性と不燃性の高い鉄筋コンクリート集合住宅を供給する目的で設立した団体で、戦後の住宅公団のような存在であったようである。

新しい表参道ヒルズの設計は、ご存知の安藤忠雄氏で、ケヤキ並木の景観と調和させるために地上部分を3階の低層にして、地下を3階とり、合計6層分の店舗ビルとしている。



6層の店舗部分の内部には、吹き抜け空間を取り、表参道の傾斜にあわせて床をスロープ状に傾斜させた通路がらせん状につながっているのが特長である。



つまり、最上階かららせん状となったスロープを下りてゆくと、階段を使うことなくすべての店舗をゆっくり見て回ることができる優れた動線となっている。



もちろん、エスカレーターやエレベーターもあるので途中のスパイラルを飛ばして目的の店舗にアクセスすることもできるようになっている。



朝から歩き回ったので、1階にある焼きたてダマンドの店、「表参道茶寮」でダマンドをテイクアウトして味見してみたら、これがなかなか美味い。



日暮れまでには間があったが、表参道ヒルズ名物のダマンドも食べたので、今夜泊まる舞浜駅まで早めに戻ることとした。


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NHK連続テレビドラマ「風見鶏」の主人公にもなったハインリッヒ・フロインドリーブ(1884~1955年)が1924年に創業したフロインドリーブは、三宮から新神戸に向かって10分くらい歩いた場所にある。



旧神戸ユニオン教会であった建物の1階の入り口から入ると、正面の壁に登録有形文化財としてのプレートが嵌め込まれ、その下には第11回BELCA賞(社団法人 建築・設備維持保全推進協会、ベストリフォーム部門)のプレートもあった。

フロインドリーブの看板



左のホールに入ると、正面が2階のカフェへの階段、右の奥が広いベーカリーショップとなっている。



ベーカリーでの一押しは、ドイツ食パンで、2階のカフェで出てくる評判の良いサンドイッチにも、この食パンが使われているが、前日までに頼んでおくと、好みの厚さにカットして貰えるようである。



2階のカフェは、アーチ型の窓からの光だけでは室内が暗いためか、壁を白く塗装し、照明器具を使って明るい店内としている。

ベーカリー



客席の横に置かれた空調機も、雰囲気を壊さないようにデザインがうまく工夫されているので、オブジェのようで目立たない。



このカフェの最大の特徴は、高いアーチ天井とそれを支えるダイナミックな梁組みである。



カフェの客席として旧教会参列者席部分を使っているのは良いが、旧礼拝堂祭壇部分からスタッフがサービスする動線になっているのがちょっと残念である。

メニューは、フロインドリーブ自慢の食パンを使った各種サンドイッチとサラダ、ケーキなどで、最近小麦が値上がりしたためか、平日950円のセットメニューが1050円に値上がりしていた。



早速、サンドを注文してみたが、チョットだけトーストした外側のパンは、噛めば噛むほど甘い味が染み出し、ほんのりとした麦の香りが鼻に抜けるので心地よい。



コーヒーを頼むと出てくる小さなクッキーを一口噛むと、バターの香りと生地の甘さが口の中に広がり、一瞬でリッチな気分にしてくれる。


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ヴォ-リスの設計で1929年に完成した旧神戸ユニオン教会は、第二次大戦で被災、外壁は被災を逃れたがかなりの部分で損傷を受けたという。



その後修復されて永く教会として使用されてきたが、教会が移転したために1992年から売りに出され、永く空家となっていたところ、1995年の阪神大震災でまたもや被災している。

震災後、1924年創業の老舗のドイツベーカリー、フロインドリーブが、旧神戸ユニオン教会を購入し、教会のイメージが継承されるよう修復再生したのがこの店である。

登録有形文化財に指定されている



NHK朝の連続テレビドラマ「風見鶏」(1977~1978年放送)の主人公にもなったドイツ人ハインリッヒ・フロインドリーブ(1884~1955年)は、中国青島でパン職人をしていたが、第一次大戦の勃発により30歳で海軍兵として従軍している。

店の正面



青島が日本軍に占領された1914年には捕虜となり、収容所のあった名古屋に送られているが、1918年の終戦後も名古屋に留まり、パン職人の腕を見込まれて地元パン会社に技師長として迎えられたという。

奥は中庭



その後日本人女性と結婚したフロインドリーブは、1924年(大正13年)、外国人居留者が多く住む神戸に移ってベーカリー「フロインドリーブ」を開業している。



大正時代から神戸にはドイツベーカリーがあり、それが今日まで84年も続いているというのが凄い。

実は、NHK朝の「風見鶏」が放送されていた頃、フロインドリーブの近所に住んでいたので、良くパンを買いに行った記憶がある。

カフェの天井



ちょっと値段が高いフロインドリーブの食パンは、ずっしりとした重さのあるドイツパンで、トースターで焼いた熱いパンにバターを塗って食べるとこれが美味いのである。



又、レーズンブレッドも、私のお気に入りで、オーブントースターでカリッと焼いてバターを塗ったものは絶品である。

今はケーキも売っている



元首相吉田茂(1878~1967年)が、生前フロインドリーブのパンが食べたくて、三宮駅に停車する国鉄特急「つばめ号」で毎日取り寄せていたという噂が当時あったことを思い出した。


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東京ミッドタウンの敷地の中にある21_21DESIGN SIGHT(延べ面積1730㎡)の建物は、地上に出ている部分が少ないので、遠くから見ると巨大なオブジェのように見える。

東京ミッドタウンの敷地



地上に出ている部分は高さ4,8mのエントランスと隣接するカフェ、地下部分が高さ5mのギャラリーとなっている。

カフェの入り口



地下にギャラリーを配置するデザインは、安藤忠雄氏が多くの作品に採用しているが、安藤氏は「日本の顔としての建築」をテーマとしたという。

建物全景



長さ54mもある継ぎ目の無い一枚鉄板(約450㎡)を折り曲げて建物の屋根としている設計が面白い。

また一枚鉄板には、三宅一生氏が取り組んできたテーマ「一枚の布」に対応するという意味が込められているという。

ギャラリー入り口



三宅一生氏の作品に多く使われるプリーツ加工布は、加工する際、布と布の間に保護紙を挟む必要があり、加工が終わるとその紙はすべて廃材となるらしい。

プリーツ加工布を使った洋服



その保護紙を使った彫刻作品を展示していたが、その膨大な紙の量にはビックリしてしまった。

東京ミッドタウンの店舗街ガレリアにあるプリーツの店



公式HPによれば、「21_21DESIGN SIGHT」は、デザインのためのリサーチセンターであり、デザインについて考える場所であり、ものづくりの現場であるという。

トイレブース



地下階には、すべての壁面がステンレス材でできているトイレがあったが、トイレの中でデザインを考えるにはこういう仕様がふさわしいということか。

洗面



デザイナー、企業、職人、エンジニア、一般ユーザーなどデザインを取り巻く人々と意見を交換し、デザインへの関心と理解を育てていくことを目指すというが、開催されていた企画展は、完全に入れ物である建物のデザインに負けてしまっている。

建物



ギャラリーのプログラム企画を担当する皆さんには、建物に負けない企画展の実現に頑張って貰いたいものである。


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東京ミッドタウンの敷地は、江戸時代毛利家の下屋敷、明治に入ってから陸軍用地、終戦後は米軍将校宿舎、その後防衛庁庁舎となり、400年もの間、一般の人は立ち入る事が出来ない閉鎖された土地であった。

東京ミッドタウンの敷地



しかし、2000年に防衛庁が新宿区市ケ谷に移転したことがきっかけとなり、東京都が再開発計画を決定、2004年から再開発工事が着工している。

3年後の2007年3月にグランドオープンした東京ミッドタウンは、総延床面積56,9万平米、シンボルのミッドタウン・タワーは、地上54階・高さ248m、都内で最も高い超高層ビルとなっている。

ミッドタウン・タワー



しかし、大赤字の第三セクタービル「大阪ワールドトレードセンター」の256mと比べると8mも低いので、高層ビルを見慣れている大阪人に取ってはどうと言うことも無いビルであった。

WTCビル



また東京ミッドタウンの総延床面積は、大阪南港に連結されている3つのビル、アジア太平洋トレードセンター33,5万平米、大阪ワールドトレードセンター14,9万平米、ハイヤットリージェンシー大阪7,8万平米の合計56,2万平米とほど同じなので、これも大阪人に取ってはどうと言うことも無い規模であった。

南港地区にあるビル群



東京には今まで存在しなかった巨大な再開発ビルが、経済力に大差がある大阪に13年前からあることが異常であり、東京に負けたくなかった大阪市役所が第三セクターを使って採算を度外視した建物を建てた結果であろう。

ガレリアのペットショップ



地下鉄の乃木坂駅から上り坂をゆっくり歩いて7,8分の距離がある東京ミッドタウンの敷地はさすがに広々としていて、どういうわけか犬を連れて散歩する人が多い。

ガレリア



東京ミッドタウンの店舗ゾーン「ガレリア」は、全長150m、4層の吹き抜け空間を持ち、北側の窓からは庭の向こうに赤坂サカスを眺めることができる。



ミッドタウンタワーは、低層から44階までが事務所、45~53階には、「ザ・リッツ・カールトン東京」が入居している。

リッツの看板



ザ・リッツ・カールトン東京のロビーから出てきた若いカップルが、エントランスに横付けされた2470万円のフェラーリを運転して颯爽と去っていったが、大阪ではふだん目にする事の無い光景であった。


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大阪城南外堀に面した二の丸石垣は、大阪城再築の最後となる1628年、西日本の57大名家を動員して完成しており、算木積みの工法で隙間無く積まれた最も完成度の高い石垣となっている。

東側から見た南外掘



石垣の建築時には、まずコーナー部分の角石を積むことからスタートし、この角石は長さ、幅、高さが同じになるよう規格化された石が大量に使われているのが特長である。

大手門南側の外掘の角石



従ってコーナー部分は、規格化された角石が交互に積み重なり、水面から三分の二くらいから上が次第に反り返る(忍び返し)カーブを持った石垣となっている。

6番櫓



多くの角石は、断面が2m×2m、長さが6m、この体積に花崗岩の比重2,8を掛けると、石の重量は約67トンと算出される。

偶然、本丸の空堀で石垣の調査をしている光景をみかけたので写真を撮っておいたが、人と比べると角石の巨大さが良くわかる。



1個が60トン以上もある角石の重さは、石垣の強度を確保するために重要であり、その重さがあったので400年間の風雪や大地震に耐えたのであろう。

しかし4番櫓の下にある角石は、上部の石の重さに耐え兼ねたか、あるいは地震のせいで中央部が割れてしまっている。



美濃高須藩5万石の外様大名であった徳永昌重(1581~1642年)は、石垣普請(2期工事)の作業が遅延したという理由で1628年領地を召し上げられているので、3期工事の普請に参加していた57名の大名は遅れないように必死に作業したようである。

本丸西側にある隠し廓の石垣の一部が徳永昌重の担当



各大名には、それぞれ工事の分担区域が決められ、積みあげた石垣の石に家紋や家印、符号、姓名などを刻印している。

南外堀に面した二の丸石垣の上部には、丸に木の文字が380年を経た今も鮮明に読み取れるが、豊後日出藩(3万石、木下延俊)のものである。



木下延俊(1577~1642年)の父は、秀吉の正室(北の政所)の実兄である木下家定で、姫路2万5千石の大名であったが、関が原の後には備中足守藩2万5千石に移封され、延俊の兄で関が原では西軍に加わっていた利房が大阪冬の陣の功績で相続している。

西から見た南外掘



木下延俊は、関が原で最初から東軍に就いていたために、本家を上回る豊後日出藩3万石の大名となり、大阪城石垣工事の忠勤が認められたのか、豊後日出藩木下家は明治維新まで改易も無く続いている。


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