野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



小野田寛郎さん(当時22歳)が陸軍少尉としてフィリピンに着任する2カ月前、1944年8月に43歳で陸軍工兵二等兵として召集され10月にフィリピンに着任した兵士がいます。日没後の明石海峡大橋

その兵士の召集前の職業は、通信院(旧郵政省)における通信技術の最高責任者すなわち現職の工務局長で、当時の官僚は、招集されると現職のまま軍務に服する規定でしたので、職位は工務局長のままだったのです。以下写真は大阪港から見た月の出を時間順に紹介します。

戦前、中央官庁の局長級官僚は、宮中の序列でいう勅任官(高等官2等、陸海軍では少将に相当)の待遇を受けていて、勅任官該当者は、閣下と呼称されていました。

その工務局長は、戦時中に発表される東条内閣の軍需生産計画に疑問を持ち、当時の日本の生産力を独自に調査して政府発表のでたらめさを見抜き、東条内閣の倒閣運動をはじめた人物でした。

招集した九州陸軍上層部は、何かの手違いがあったものとして召集解除の手続きを陸軍省に申請しますが、却下され東条内閣倒閣運動への報復として、わざわざ砲弾や火薬を満載した輸送船に乗船させられフィリピンに向けて出発しています。

1944年8月頃の沖縄、台湾を経由してフィリピンに至る航路は、米軍潜水艦の攻撃が激しく、日本の輸送船団は連日大損害を受けていますが、燃料消費の関係からか輸送ルートの変更が考慮されたことは無かったようです。

その二等兵は、中継地の台湾で知人の協力があって火薬を満載した海軍輸送船から普通の輸送船に乗り換え、1944年10月頃に運よくフィリピンに到着していますが、日本を出発した15隻の船団のうち到着したのは僅か3隻だったといいます。

フィリピンでも現地の陸軍首脳部が陸軍省に召集解除の申請をしていますが拒否されているので、1944年7月に辞職した東条英機の影響力は未だ陸軍省内に残っていたようです。

しかし、陸軍士官学校卒業年次では東条首相(17期、予備役大将60歳)より先輩となる南方総軍司令官寺内寿一元帥(11期、65歳)が総軍司令部のあるサイゴンにその二等兵を転属させています。

参考文献:二等兵記



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 元気をくれる... 少将と中将の... »