今回の東北旅行初日は好天に恵まれ、訪問した中尊寺の紅葉が見事でした。一昨日、昨日に続き中尊寺の歴史と綺麗な紅葉を紹介しましょう。
源義家のひ孫、源義朝(1123~1160)の九男として生まれた牛若丸(後の源義経・1159~1189)は、11歳で鞍馬寺へ預けられますが、 僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔、1174年に奥州の藤原秀衡を頼って平泉に下っています。・・・京都から平泉まで徒歩で移動したのでしょうが距離を考えると凄い
1180年兄・源頼朝(1147~1199)が伊豆国で挙兵すると、義経は平泉を出て、富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣で対面を果たし、頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねています。
しかし、平家滅亡後に義経と頼朝が対立、1185年、頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は奥州藤原氏(かつて先祖の源義家が援助)の藤原秀衡(1122~1187・父源義朝と同年配)を頼って奥州へ入り、1187年から平泉(衣川の館)に居住しています。
秀衡は頼朝からの義経引渡を拒み続けていましたがほどなく死去、4代となる藤原泰衡(1155~1189)は、親の遺言を無視して義経の衣川の館(中尊寺表参道東南東500メートルの丘陵)を襲い、義経は自害するのです。
奥州藤原氏も同じ年に鎌倉軍の攻撃で滅亡しますが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺であったため、源頼朝の庇護を得て存続しています。・・・中尊寺の紅葉が綺麗なのは、東北の気温のせいでしょう。
しかし南北朝時代(1337年)にあった火災で金色堂を残して中尊寺の伽藍は焼失、江戸時代になって仙台伊達氏の庇護を受けて堂宇の再建・補修があり、1665年には江戸・寛永寺の末寺となっています。
松尾芭蕉は1689年(奥州藤原氏が滅亡してから500年後)に中尊寺を訪問、そこに寂しく夏草が茂る風景を見て「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠み、続いて金色堂を参詣「五月雨の 降り残してや 光堂」と詠んでいます。
明治になってから中尊寺の本堂が再建(1909年)され、それから約100年を経た2011年、中尊寺はユネスコの世界遺産リストに「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として登録されています。・・・中尊寺本堂