今回の東北旅行では、藤原清衡(1056~1128)が自身の廟堂として建立した金色堂で有名な中尊寺に行ってきました。奥州藤原氏と中尊寺の歴史を中尊寺の紅葉と一緒に紹介しましょう。
律令制時代、東北地方には陸奥国と出羽国が置かれ、11世紀半ば陸奥国の安倍氏、出羽国の清原氏の勢力争い(前九年の役)があり、それに介入したのが清和源氏の源頼義(988~1075)です。
奥州藤原氏の初代、藤原清衡は陸奥の豪族だった藤原経清の子で、母親は安倍氏の出身、前九年の役で安倍氏が滅亡したあと、清衡は母親の再婚相手となった清原家の養子(兄・真衡、弟・家衡)となっています。
長兄清原真衡の死後となる1087年、清衡と家衡の間に相続争い(後三年の役)が生じ、清衡は源義家(1039~1106・源頼義の嫡男)の助力を得て勝利、このあと養父の姓(清原)から実父の姓「藤原」に戻って「藤原清衡」と称するようになっています。
1094年頃になると藤原清衡(当時39歳)は、居館を中尊寺のある平泉に移し、そこで中尊寺の創建に着手したのは1105年(清衡50歳)とされています。
清衡が平泉に中尊寺を造立したのは、戦没者の追善と、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことでしょう。現存する金色堂の竣工は、堂内にあった棟木銘から1124年と判明しています。
金色堂内部の須弥壇内には、藤原清衡(1056~1128)と子の基衡(1105~1157)、の遺体(ミイラ)、さらに孫の秀衡(1122~1187)の首が安置されています。1950年に藤原氏三代の遺体調査があり、その結果、奥州藤原氏は東北人ではなく京都人と位置付けられたようです。
金色堂は当初屋外に建っていましたが、建立から数十年の後に「霧よけ」のような施設が造られ、創建から64年後の1288年には金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設されています。
現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のものですが、室町時代の建築と考えられている旧覆堂(重要文化財)は金色堂の北西に移築現存しています。・・・旧覆堂