シンガポールで華僑虐殺の指示を出した辻政信参謀のその後を、ジュロン鳥園「ジャングル・ジュエル」(森の宝石飼育舎)の鳥と一緒に紹介しましょう。マレー・シンガポール作戦着手から2週間後となる1941年(昭和16年)12月22日、本間雅晴中将指揮する第14軍は、フィリピンに上陸、1月2日には早くも首都マニラを占領しています。・・・コウカンチョウ(紅冠鳥)
しかし、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー司令官は、マニラの北西にあるバターン半島に立てこもって強く抵抗、1月16日以降、米軍の抵抗に逢い多数の損害が出たため本間中将は2月8日攻撃停止を指示することになります。・・・ウチワキジ
このときの日本は、中国から東南アジアに至る広い地域で作戦を展開中で、米軍を兵糧攻めする時間的余裕はなく、結局増援部隊多数を投入して4月3日に総攻撃を再開、4月9日バターン半島総司令官エドワード・キング少将が降伏を申し入れてきています。・・・オウカンエボシドリ
各地で投降した米軍とフィリピン軍の数は約8万、非戦闘員を含めると10万人以上、この捕虜のための食料や後方への輸送手段は無く、結局バターンから鉄道駅があるサンフェルナンドまでの約60kmを数日かけて徒歩で行進させることになります。・・・キンクロハジロに似たカモ
この「バターン死の行進」中に捕虜虐殺が多数発生(公式には行方不明者とされた)、その虐殺命令を出した人物は、2か月前のシンガポールで華僑虐殺を指示した辻政信参謀でした。・・・日本にはいないカモ
当時参謀本部作戦班長に栄転していた辻政信は、シンガポールでの経験を生かし作戦指導するとしてバターン攻略戦に参加、辻参謀が各部隊の司令部を回って口頭で捕虜を射殺せよと命令、各部隊はそれを下部に伝達し捕虜射殺したことが判っています。・・・アマサギの仲間のようです
捕虜射殺命令を口頭で受けた今井連隊長(大佐)だけは、命令を書面で貰いたいと時間をかせぎ、命令書が届いても捕虜を射殺しなくてすむよう数百人全員を釈放、結局命令書は来ませんでした。・・・名前は判りません
これがバターン死の行進での行方不明者発生の真相で、本間軍司令官は捕虜護送中に1200人のアメリカ人と1万6千人のフィリピン人を死亡させた罪に問われ、戦後絞首刑に処されています。・・・インコの仲間
終戦後、シンガポール華僑虐殺、フィリピン・バターン虐殺の責任を問われた山下軍司令官と本間軍司令官は処刑されますが、その原因を作った陸軍大学三番卒業の優等生、辻政信参謀は戦犯訴追を避けて国内を逃亡潜伏、後に国会議員となっています。・・・キンノジコ