寺田寅彦(1878~1935年)の歌「好きなもの いちごコーヒー 花美人 ふところ手して宇宙見物」にちなんで長居植物園のちょっと変わったバラと共に寅彦の父親、寺田利正の生涯を紹介しましょう。
寺田寅彦の父親の寺田利正(1837~1913年)は、土佐勤皇党結成のきっかけとなったと言われる井口村刃傷事件(1861年、土佐藩の上士と郷士の争い)の際、実弟の宇賀喜久馬(19歳、郷士)の切腹を介錯した人物です。利正は生涯この事件を口にしなかったといいます。
利正は、土佐藩郷士、宇賀家の次男に生まれますが、1854年に土佐藩足軽、寺田家に養子(18歳)に入り7年後に土佐藩普請方となって頭角を現しています。
1868年の戊辰戦争には、土佐藩の小荷駄(輸送)隊の勘定方(32歳)として参戦、明治維新後は陸軍の輸送及び会計関係の幹部となり、1877年の西南の役では官軍司令部の軍団会計部次長(41歳、少佐相当官、会計部長は田中光顕)でした。
利正は、西南の役の翌年に東京に転勤となり、そこで長男寅彦が生まれますが、1879年に名古屋鎮台会計部長(会計二等副監督、少佐相当)さらに1881年に熊本鎮台会計部長(会計一等副監督、中佐相当)と転勤が続いています。
寅彦は、父親が熊本に転勤している4年間、父親の郷里の土佐で暮らしていますが、利正が1885年(49歳)に東京の陸軍士官学校の会計部長として転勤したため、寅彦も再び上京しています。
翌1886年、利正の退役で寅彦も土佐に戻りますが、寺田家は陸軍中佐相当官だった利正の退職金や恩給で物価の安い土佐でかなり裕福な生活をしていたようです。
1896年、利正は、自分がかつて勤務していた熊本にある第五高等学校が息子の進学校として最適と考え、寅彦(19歳)を入学させています。
第五高等学校の校長は、3年前まで嘉納治五郎(1891年8月~1893年1月)という大物が勤め、優秀な教授陣と地元に近い薩摩、長州、土佐、肥前の将来有望な青年達が集まっていたのです。
さらに、寅彦が入学した年に、松山中学から夏目漱石(1896年〜1900年在任)が英語教師として移ってきて、寅彦の人生を決定づけることになるのですが、そのきっかけを作ったのは、寅彦の父親だったのです。
参考文献:寺田寅彦の生涯 小林 惟司著