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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



今から430年前の天正15年(1582年)6月13日(新暦では7月12日)、天王山の東側で明智光秀(55歳)と、羽柴秀吉(後に豊臣姓、47歳)が戦った山崎合戦があったことを思い出したので、6月のある日、天王山まで行ってきました。山崎合戦之地の石碑

天王山は、鎌倉時代頃から山頂近くにあった牛頭天王(素盞嗚尊)を祀る山崎天王社に由来していて、この山崎天王社は、久しく祭祀が途絶えていた自玉手祭来酒解神社(明神大社)とされ、明治になってからそれに改称されています。 さて、山崎の合戦の勝因は、備中高松から山崎までの187kmを僅か8日間で走破した羽柴秀吉軍2万の「中国大返し」にあるというのが定説となっています。登山道にある秀吉の中国大返しの陶板画

秀吉は、諸将に6月13日に山崎に進出するよう命じ、先陣の高槻城主高山右近が12日に天王山の麓の山崎に入り、茨木城主中川清秀が同日夜間に天王山を占領、翌朝山上の松の大木に軍旗を掲げたといいます。旗立松の説明

天王山の争奪戦は無かったようですが、秀吉軍は敵の布陣を高所から探ることができ、また背後から急襲されることを考えずに敵に当たることができたので、「天下分け目の天王山」だったのでしょう。登山道にある合戦前の布陣を描いた陶板画

13日は、朝から強い雨が降っていましたが、光秀軍は淀川に流れ込む円明寺川左岸の線に兵力を増強して決戦に備え、秀吉軍も13日朝から円明寺川右岸へ進出、同日昼頃に神戸信孝、丹羽長秀軍が到着したため、秀吉は午後3時過ぎに山崎に進出して攻撃開始を命令しています。攻撃開始後の様子を描いた陶板画

秀吉軍は、摂津の諸将と神戸信孝、丹羽長秀軍が加わって総勢4万、一方の光秀方は、1万6千人だったと言われています。現在地とあるのが旗立松のある場所、小泉川は円明寺川のこと。

円明寺川の中央付近では、明智方主力の斉藤利三(春日の局の父親)隊が川を越えて進撃、一時秀吉軍を圧倒しますが、円明寺川の上流と下流部分で明智方が敗退、明智軍は両翼を脅かされる状況となっています。写真中央付近が山崎合戦の戦場。円明寺川は写真を左右に横断している名神高速京滋バイパスのすぐ手前を今も流れています。

秀吉側は、中央の強敵にわざと敗退している間に両翼から敵の背後を突く戦略を取ったようで、午後6時過ぎに明智方は総崩れとなって脱走者が続出、光秀が背後の勝竜寺城に退いた際に同行する者は僅か千人しかいなかったといいます。山の樹木の先が淀川、その先の小山は石清水八幡宮のある男山

光秀は、近臣数名を連れて夜暗に乗じて城を脱出、本拠地の近江坂本を目指しますが、京都の南方、小栗栖で落ち武者狩りに遭い最後を遂げています。本能寺の変から僅か11日後のことでした。天王山から見た大阪方向。中央やや左にあべのハルカスビルが見えています。

47歳の秀吉が天下を取るきっかけを掴んだのが、この山崎合戦だったのです。

参考文献:天王山の戦い (天王山―先制の利)安井久善 著



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