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寺田寅彦(1878~1935年)の歌「好きなもの いちごコーヒー 美人 ふところ手して宇宙見物」にちなみ、今回も長居植物園の花と一緒に寺田寅彦を紹介しましょう。ハイビスカス

1896年、熊本の第五高等学校に入学した寺田寅彦(18歳)は、同じ年に英語教師として赴任してきた夏目漱石を生涯の師としています。タイサンボクの花

実は、漱石も寺田には一目置いていて、小説「吾輩は猫である」に出てくる理学士水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八は、寺田がモデルとされています。ザクロの花

漱石は、「吾輩は猫である」で、寒月は東大理科大学を首席で卒業(恩賜の時計を貰った)と書いていますが、寺田は首席卒業者ではありませんでした。僅かに残っていたシャクヤク

しかしちゃんと東大を卒業していて、実家が裕福だったせいか、そのまま大学院に進んで、1904年に東大講師(26歳)となっています。花の付け根にヒゲがあるジャーマンアイリス

当時の東大首席卒業生は、文部省から国費留学させて貰えることになっていましたが、寺田は自費留学について父親に金の工面を頼んでいるのです。ヒゲの無いハナショウブ

しかし、東大理科大学を首席で卒業した同級生の鈴木庸生が留学の権利を放棄したために東大工科大学を寺田と同年(1903年)首席で卒業した大河内正敏よりもかなり遅れた1909年にベルリンに留学しています。キササゲの花

留学から帰ってきた寺田は、東大講師から助教授、教授と進みますが、その研究対象は日本的なものが多く、例えば理学博士号を取得した論文は「尺八の音響学的研究」という風変わりなものでした。ヘメロカリス

寺田は、つねづねヨーロッパの真似をせず、日本独自の物理学をやると広言、その通りの研究を続けたようです。ガクアジサイ

参考文献:寺田寅彦の生涯 小林 惟司著



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