安倍晋三の祖父 岸信介がデザインした満州建国で もっとも許し難く思うのは 子どもたちが犠牲になったこと、見捨てられたこと。 親元を離れ 寒い満州で大根飯を食べながら 苦しい開墾作業をし 戦士として駆り出された少年たちの身に 戦争末期 なにが起きたか 思うだに涙がにじむ 身体がふるえる。
安倍は岸信介の見果てぬ夢をおっているのか......憲法改悪 .国防軍 日中戦争をもくろむ .... も...う二度と子どもが戦争に駆り出されることのないように 満州 沖縄であったように親が子どものくびを締めることのないように 基本的人権と戦争放棄を擁する憲法を守ろう。『憲法は国から国民を守るもの』 だからこそ その憲法を守りたい。
「ぼくは満州に行きます」
この子たちのうち いったいなん人が日本に帰ってきたのだろう。『満蒙開拓青少年義勇軍』(上 笙一郎著、中公新書)によれば、在満全日本人の17%に過ぎない開拓民が、その死亡率において約50%(約45%?)を占めている事実は、何を物語るのであろうか。それは、青少年義勇軍を含む満州開拓民が、敗戦前後の時期、いかに過酷な条件のもとに置かれたかということを示すものにほかならない。満蒙開拓青少年義勇軍の何人がはたして犠牲になったのだろうか。おそらくその数は少なくなかったはずである。
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戦局が悪化した南方戦線に、満州(に駐留していた関東軍)から多数の兵士が送り込まれた。その結果、対ソ連国境の警備が手薄になり、兵隊の補充が必要となった。そのため、正規兵の代わりに送られたのがこの義勇軍である。
義勇軍の年齢は15~19歳。徴兵前の少年たちを(半ば強制的に)動員したのである。
当時、日本の農民は貧困にあえいでいた。特に土地を持たない小作人や、自作農でも分家できない次男、三男は、(世界恐慌の後の不況や凶作の中で)将来の見通しが立たないでいた。義勇軍への動員方法は、これら貧農の子供たちに「満州に行けば地主になれる」「それがお国のため」と言って勧誘した。
表向きは、「志願」であるが、実態は、各県、各小学校への(強制)割り当てである。割り当てに従い、教師は教え子たちを満州へ向かわせた。教師たちは、満州国のスローガン「王道楽土」(戦いに依らず仁徳で民を治めること)の理想を語った。子供たちの大多数は、この教師の言葉を信じ、義勇軍に入隊した。この番組では、(多数の子供たちを死に追いやった)教師達の悔恨の情と(地獄の逃避行から)生還した元義勇軍兵士たちの想いを綴っている。「あんなふうに勧めなければ 子どもたち 行かなかったと思うんですよね」」
満州国に移り住んだ日本人は、約100万人。そのうち30万人が帰国できず、死亡あるいは残留(孤児)となった。この100万のうち、開拓農民の数は、約27万人。そのうち8万人が死亡、残留である。そしてこの27万人のうち(年端も行かない)青少年義勇軍は8~9万人。そのうち死亡したものが約2万人?になるという。生きて帰国した者も彼の地で骨となった者も、同じく国に(関東軍に)捨てられたのである。
満蒙開拓青少年義勇軍
関東軍は満州国支配をより徹底させるために満州農業移民100万戸・500万人計画をもって日本の農村各地からの農業移民を図ったのであるが、ひとり関東軍ということではなく、軍部中央や政府業務実行は当時の拓務省が主体となって国を挙げてこの実行を図った。
長野県の大日向村は村の全戸数の半数が分村移民した。これが世にいわれる開拓団である。おりから戦争も拡大の一途を辿り、20代、30代の農村青年が次々と兵役に召集されて行く。拓務省が移民の必要性をいくら声を大にして叫んだところで、目的達成はおぼつかない。
ここに登場したのが満蒙開拓青少年義勇軍編成の建白書である。それにより、健康な日本の青少年たち満15歳から19歳までの者を募集、編成し、茨城県下中津村内原に内地訓練所を設置し、満蒙開拓の中堅人物を育成することになった。所長は加藤完治である。
加藤完治は日本国民高等学校の校長であったが、熱烈な天皇制的農本主義者であって、近代的な教育者というより塾風教育者として、教え子を非常に愛したが、集団訓練を大事にし、小銃を持っての歩哨巡察など兵農移民として軍隊的訓練方式が多く取り入れられた。ここで一定期間の訓練を終わり、満州、主として北満各地の訓練所で農業訓練と軍事訓練を経ておよそ300名単位に1ヶ中隊として編成し、2、3ヶ月ほどの訓練を受けた後に渡満,開拓地へ入植させた。農機具はもとより武器も与えられたし、10町歩の耕作地を与えられた。これが武装移民の青少年義勇開拓団であった。
全部で251個団、内原訓練所から送り出された総員は86,530人に及んだ。かくして南方戦線に兵力を抽出して弱体化した関東軍は、在満日本人の根こそぎ動員を敢えてし、昭和19年も終わりに近い頃、満蒙開拓青少年義勇開拓団からも召集した。残された老幼婦女子の一般開拓団はもちろんのこと、義勇開拓団も大半は後方に引き下がった関東軍より前方にあったから、怒涛の如く押し寄せるソ連軍に蹂躙され、現地人の暴行虐殺に晒され、言葉も尽くせぬ阿鼻叫喚があった。彼らが与えられた満蒙の耕作地は中国人農民等から強制的に買い上げられたものであったり、食糧事情の悪さから周辺から食料を盗んだ等の様々な理由から中国農民の反感を買い、敗戦時に襲撃を受けて多大な犠牲を出した。
(参考:内蒙古アパカ会・岡村秀太郎共編 『特務機関』 平成2年 国書刊行会発行)
(平成23年6月23日追記)