遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   凭れていた窓から前触れも無くあかるい太陽の光が差し込んだ。日の光が目蓋をとおして赤く透けて見える。....あたたかくて気持ちよくて目をあけるとなつかしいあわいオレンジ色の光....子どものときそのままの太陽の光に包まれていた。こんなにしあわせだった子どものころ....。無垢はあった、ひとにも時代にも。....風が涼しくひたいにふれてゆく。足が床の下の大地を感じる....そのはるか下の水脈を流れている水を感じる。

   太陽と風と大地...そして水 ひとに必要なのはそれだけだった。草が萌え、木々がすっくりと天を射す。どこまでもひろがる草原...

   サマディボールの高く澄んだ響き、チベタンシンギングボールの深い響き、草原を吹く風のように咽ぶ笛、ビュンビュンと鳴る弓の弦.....大地踏む足音...ドルイドベルはシャララシャララ空からこぼれる....倍音が部屋の空気に波紋を描いてゆく....

   体内の血流がどくどくと脈打つ、音が韻きが身体を駆け巡り震わせる、太古のリズムに身体が揺れる、頭蓋が熱く燃える、火が背骨を奔る、頭頂のチャクラがひらく、胸腺のチャクラがひらく.....解き放つ....掌に受け止める.....今日 あかしの日 贄と差し出すただひとりのイニシエーション。土砂降りの雨、浄化の雨が今日でもう三日。





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....こんなに涼しくていいのでしょうか。リンリンと虫の音がすだきます。虫の音は外国の方には騒音としか聞こえないのだそうです。幾千の虫の声でしょう。虫の音は倍音そのもの.....だれもいない部屋で耳を清ませていると四方から虫の音が降り注ぎ音のシャワーを浴びているようです。身体やこころに絡みついたくさぐさのものがゆるみほどけて空気に滲んでとけてゆき、虫の音はますます深く沁みとおってきます。ものもたべず翅を震わせ歓喜のうたを、末期のうたを響かせる虫たちの生命の響きと私の生命の響きがとけあって天蓋のしたに生きているすべてのものと交流します。

  ずいぶんと無理や無茶もをしてきましたが、ほうーっとあるがままに 今ここにいます。以前に語りは聴き手がいてはじめて成り立つと書いたことがありました。芝居もそうでした。舞台も衣装も要らないけれど、観客がいないと成り立たない....と。....ところがウタはひとりでもいい....自分の歌う声が自分を癒してしまうのです。だれもがひとつしかないほんとうの声を持っている。そして声には力がある、自然と共鳴し、今のわたし、過去のわたしとも共鳴する.....響きであり光そのものでもあるのです。

  2年前、身体と心...その奥の魂と感覚を一体化させることに気づかされました。それはキャシーとRADAのニックさんやイランさんの教えであり、語るためにわたしはぜひともその目的を達成しなくては、と心に決めました。心よりも劣ったものであるとどこかで信じこまされていた身体、粗末にあつかって動かなくなった身体を最初はクリニックのセラピストさんの手にあずけ、次にとまどいながら向かい合い、自らの手で傷む足からさすり、ほぐし、今年、自力整体をはじめてゆがんでぼろぼろになっていた身体を抱きしめました。身体がわたしの気持ちに応えはじめました。

  朝、わたしははじめてわたしの左脚をうつくしい...と思った....健やかにすらりと伸びた左脚、そしてまだすこし撓んで彎曲している右肢もいとしいと思いました。そして一体化させるもなにも、身体も心も感覚もみな最初からひとつだったことに気づいたのです。身体は共鳴体です。ひとに共鳴し自然に共鳴する楽器です.......雷鳴が轟いています。....わたしは事務所にひとりいて とても孤独で恐怖もすこしありますがその孤独をたのしんでいます......ひとりでいてひとりでない、たくさんの存在がこの空間には木霊しています。

  今から2000年前は人類にとって大きな転機だったように思います。イエス、仏陀、マホメッド...聖者たちの機を一にしての出現はなにか大いなる意図を感じるのです。彼らは語りました。触れました。癒しました。そして亡くなってから100年単位の時間を経て 弟子たちの手で教えが記されました。それは大いなるものの影のような香りのようなものに過ぎなかったのでは....と思うのです。人類は刻印を受け取りました。人の手になる思い違いや書き違いや恣意的なものも含めて.....。一神教の教えはいつしか飽くなき自然の征服となり、人類は自我を知り、自然と調和する太古の教えは歴史の塵の下に忘れさられようとしていました。

  不思議なことに太古の教えをほそぼそとつないできたひとびとはおおかた文字を持たなかったのです。口から口へ長い長い時の流れのなかを聖なる教えがつたわってきたのは、それはとても深い意味があるように思われます。....喪ったものを取り戻す手立てはありましょうか? ..........わたしはあまり心配しません。古きよきものはわたしたちのなかにあったし、今もある、目覚めるのを待っている....そんな気がするからです。

  ....天の底が抜けたような豪雨が屋根を轟々と叩いています。すさまじい雨です。赤外線カメラに映る雨は光の洪水のように見えます。この世の終わりのように世界が金色に燃えあがっている......この2000年は勝者の歴史でありました。経済によって世界は動くようになりました。凍土は融けだして、南の島は波に沈みます。大気も大地も水も穢されました。これからもっともっとあり得ないことが起きてくるでしょう。けれどもそれは、わたしたちの目覚めのために必要なことのように感じます。わたしたちは来るべきものに怯えることはない、考える時は今をおいてない。ゆっくり考えて、微笑んで ただひとつの存在である自分をたのしみましょう...翅を震わせて鳴く虫のように....。

  ひとは不思議な生き物です。肩と腰と膝と足の指の関節が連動してるなんてわたしは知らなかった。どれかひとつをほぐせばどれにも響いてほぐれてゆく。身体と魂ともうひとつのものはかさなっている。身体と魂のあいだにはすきまがあるけれど そのすきまを埋める一瞬があります。芸とかアートとか今言われているもののはたらきはそのすきまを埋めること、人類が遠く忘れていた、星との絆、この宇宙を創造したものとの絆、過去の自分、遠い人類の祖先とのつながりを思いださせること、ひとの出自と宿命を知らしめることだと感じるのです。そのとき感動が生まれます。

  なにゆえか知らないが人類の文明は幾たびも滅びました。ホピの伝説によれば造物主....の教えをわすれ、快楽、物欲に走ったから.....といわれます。つながり....を取り戻す、それぞれの存在をあるがまま持ち寄って受け止めて....。星の降る夜ちいさな虫たちのひとつひとつの生命が響きあって波となってわたしたちの骨の髄の幾億年の記憶を甦らせます。虫たちにならって身体と魂とそのまま響きあう楽器になりたいと思います....風に鳴り、月光に響き、ひとのこころの喜びや悲しみに震え、宇宙と共鳴する楽器になりたい....ひとはそのようなものにできていると思いませんか。





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   昨夜 満喜子先生と片岡先生、奈良裕之さん、Overtone Breath Bandの”共鳴する身体”Resonance....に行きました。二部はワークショップでした。仕事に追われて、内幸町ホールに着いた時には舞台は青く染まり原初のうねりを思わせるようなウタと踊りが繰り広げられていました。奈良さんの音楽は倍音の渦で...わたしはその響きで向こう側に連れていかれそうでした。なかでも鈴....スレイベルのような巫女の持つ魂振りの鈴のような....あの音に身体が共鳴して身体と魂のすきまを響きが満たし わたしは振動する身体を抑えたものか解き放っていいものか一瞬迷いました。

   二部はワークショップでした。片岡通人さんは東京シティバレー団を経て創作舞踊に入った方です。意識を肩からゆびさきに向かってすこしずつ充たしてゆく...すると意識するだけで身体が反応しました。ひとはもともと身体と魂と感覚と一体のものだった....精妙な器だったのです。....そして宇宙でたったひとつの楽器でもある....150名の声の倍音はとよもす波となりました。

   そして、わたしはあっという間に境界を越えていました。変性意識といいます。非日常意識、ユング心理学の集合無意識の領域、いわゆる神懸り状態です。声は150名の倍音のはるか高みに飛翔してわたしはウタっていました。聞いたことのないうつくしい歌でした。どこから出ているのかわからない声でした。川瀬先生の個人レッスンで川瀬先生から求められていたものがその時わかった。宇宙につながること....わたしはクリスタルの結晶.天と地を讃える楽器でした。

   わたしはもしかしたらそうではないか...と感じていたもの......太古のシャーマンの末裔のひとりであることをあらためて自覚しました。今 読んでいらっしゃる方縁につながる方のなかにもそのような方がいらっしゃるかもしれませんね。....いつのまにか消え去ってしまったひとびとがいます。天と地のあいだで調和して平和に生きていたひとびとは、いつのまにか滅びてしまったように見えます。けれどもそのひとびとの血はわたしたちのなかに流れている....わたしが呼び覚まされたように、わたしはひとびとのなかに眠っているたいせつなものを呼び覚ましたい....ウタとカタリで...夕べ、扉が開きはじめました。その向こうにあるのはスピリチュアルであって”知”です。


オリオン星雲





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   今日は一日雨音のなかでパソコンに向かっていました。真夏とは思えぬ涼しさです。娘の拵えた朝のスープがたいそう滋味があり美味しくて夏に疲れたからだに沁みとおりました。わたしもパンケーキを焼きました。バタがなじんだところにメープルシロップをかけてこのパンケーキとバタとメープルシロップのハーモニーがくつろいだ日曜日の喜びを奏でます。そのうえに生姜紅茶にこれまたメープルシロップです。ジャムより蜂蜜よりメープルシロップは身体に溶け込んでゆきます。森を食べているんですものね。

   さて、今日はケルトの伝説、"一夜にして沈んだイスの都の伝説”あるいは赤き髪のダユーの再話のテキストをつくりました。きのう読んだ物部文書をまとめたいところですが、ちょっとひとやすみといったところです。古代日本と1500年前のケルト、そして500年前のアメリカ、クレイジーホースのものがたり、手がけているのは一見バラバラに見えますが実は共通しています。

   実は三つとも土着の神...とあたらしい神の相克のものがたりでもあるのですね。ケルトの自然の中の精霊、狂おしい波や炎と新興のキリスト教、やはり土着の縄文の神と大陸から渡ってきたあたらしい文化あたらしい神、そしてスピリットとキリスト教....といってもそんなに簡単な構造ではなくケルトの民が上陸する前今から3500年前にはすでに巨石文明があるんです。

.....それで吃驚なのはストーンヘンジ(4000年~5000年前)とか三内丸山遺跡(4500年前)、マルタ島の神殿(6000年前)、エジプトの神殿などには共通項がある。それは神殿ではその出入り口が、巨石では結ぶラインがたいてい夏至か冬至、あるいは春分秋分の日の、日の出の方向を向いているそうなのです。たとえば三内丸山遺跡の6本の柱を真上から見て、対角線の西と東を結ぶとちょうど春分・秋分の東西ラインに対応するそうです。金山巨石群のふたつの岩とストーンヘンジは夏至の日の出方向と冬至の日の入方向を示しています。太古の文明は太陽崇拝なんですね。

   語り手としてわたしは神話、昔話についてのちのちのキリスト教、ユダヤ教、仏教、イスラム教などに侵食される以前の原初に近いものがたりにちかづいてゆきたいのです。その底深い望に急かされて彷徨ったり走ってしているんですね...。すると道の傍に語りたい魅力的なものがたりが咲いていまして、とりあえず片端から再話しようというわけです。


これはケルトの渦巻き文様 (ニューグレンジ遺跡)
生と死、復活・再生の象徴..外輪の起点が生、中心の終わりが死を意味している

出雲大社、三本の柱を結わえてひとつにしている。ニサの神殿も同じである。ケルトの渦巻きにも似ている。古代3は聖なる数、そして6も聖なる数だった。


 ついでに芥川龍之介の最後の戀といわれる松村みね子のものがたりをまとめました。松村みね子は本名片山廣子歌人でもありましたが、フィオナ・マクラウド イェイツ ダンセイニの訳者としても有名です。訳文は平易でありながら高雅で薫るよう....わたしはとても好きです。

  松村みね子はクチナシ夫人という愛称で芥川龍之介や室生犀星に敬愛されていたようです。歌集”翡翠” カワセミのなかから.... 

  ことわりも教えも知らず恐れなくおもひのままに生きて死なばや
  よろこびかのぞみか我にふと来る翡翠の羽のかろきはばたき

帝大時代 芥川は翡翠に賛辞を寄せていました。いつ詠んだものか知りませんがこの歌はみね子が芥川に寄せたもののような気がします。大き都と読んだときケルトを愛したみね子の心に滅びしイスの都のことが過ぎったのかもしれません。

  つまづきし一人の人を惜しむかな大き都のほろびつる如

芥川はご存知のように漠然とした不安を抱いて自害しました。享年35歳でした。

  

  


  


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   ただいま”ホツマツタエ”にはまっております。ホツマツタエとは記紀以前の日本最古の叙事詩という説もあり、また江戸時代につくられた偽書であるという説もある問題の書物です。学会においては、中国より漢字が伝来する前にわが国は文字がなかった...ということを根拠に偽ものであるとされているのですが、近年ホツマツタエに惹かれる方は多いようです。

   ”ホツマツタエ”の意味は「真の伝説」..とでも言ったらいいでしょうか。日高見ヒタカミの国(東北地方にあったとされる)のものがたり、ヒタカミはまた高天原でもありました...その内容は記紀よりはるかにおおどかで豊か...古事記の登場人物もより具体的に生き生きとしています。それだけでなく宇宙の成り立ち、生死とはなにか 国家とはなにか、ひとの不幸の原因 皇室とはなにか 身体によい食べ物とは 男女のやくわりとは....などなど和歌 40章(アヤ)に目も綾に織り込まれているのです。

   イサナキイサナミは最初にヒルコ(のちに和歌姫となります)を生み、つぎに日神ウヒルキ(大日霊貴)またの名はアマテル(天照大神)男神を生みました。アマテルには12后神がいて..といっても後宮とはすこし違ったようです。この12人の后はそれぞれ12の地方についてアマテルがまつりごとをする補佐をし、1年のうち1ヶ月身の回りのお世話をしたとか...このなかの中宮(正后)が瀬織津姫でした。瀬織津姫は太祓詞に祓戸四神のひとりとして出てきますが記紀には登場しません。いはば隠された神のひとりです。天照大神が女神とされたとき、后としての瀬織津姫も消されてしまったのでしょう。アマテルのほかにツクヨミ、ソサノオが生まれますがこのソサノオはとんでもないことをしたのです。八叉?のおろちは12后神のひとりが怨念から変化ヘンゲしたものでした。

   アマテルの皇子オシホミミが皇子のホアカリとニニギを西方に遣わした後、ヒタカミは次第に衰え、西日本ではニニギの子孫である大和朝廷が勃興してきます。そして時は流れヤマトタケが東征にやってくるのです。ホツマツタエの後半の主人公はヤマトタケです。

   未開といわれた東北が実は豊かに縄文文化が栄えた地であったことは1994年青森郊外の三内丸山遺跡で約4500年前(縄文中期)の巨大木造建築跡が発見されたことで立証されました。下の写真は復元されたものです。縄文では最大級の集落跡もありそれは6000万年前のものだそうです。...ホツマツタエが真書なのが偽書なのか実際はわかりません。けれども 日本に漢字が伝わる以前に文字がなかったって....これだけ賢い日本人なのだからないわけないじゃん!と思いませんか? 学者の多くは神代文字は後世つくられたものといっておりますが、わたしは昨年神代文字展になにも知らずに友人に連れられていったときの衝撃を忘れられません。

   その文字からはエナジーが迸っていたのです。それは呪術めいたものでなくどこまでも明るい清い気でした。ほんものだと思いました。口から出る”ことのは”だけでなく昔は文字にも力があったんですね。....ただ悩ましいことがあるのです。オオクニヌシですが、ホツマツタエでは国譲りをしたあとヒタカミであたらしい都をつくります。出雲神社にいるオオクニヌシ ヒタカミの国にいるオオクニヌシ どちらがただしいのかどちらも正しいのか....考える時間はたっぷりありますから オオクニヌシのものがたりはのちのことにいたしましょう。






1本の柱の高さは20Mあったそうです。ざっと10階建てくらい!?
この6本...という本数には深い意味があったはずですが 忘れたので思い出したら書きます。


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   夏休みがおわりました。わたしの盆休みは15日の午後から17日までだったのですが....収穫がありました。ひとつはオオクニヌシの国譲りについてなのだが、どう考えてもおかしいのです。

   オオクニヌシはスクナヒコノミコトの力を借りて豊葦原中国(トヨアシハラナカツクニ;神々の住む高天原と黄泉泉根国..あの世のあいだの国すなわち人間の世界)をいっしょうけんめいつくった、ようやくできあがったところで アマテラスのお使いの神が、出雲国の伊那佐の小浜に降り立ち、剣を二振り波間に突きたててオオクニヌシに言った。あなたが治めている豊葦原中国は、アマテラスの子孫が治めるべき国である。

   ずいぶんひどい話だと思いませんか?恐喝同然です。オオクニヌシもすぐには承諾しなかった。オオクニヌシは使者の詰問に直接答えず、自分の子供のコトシロヌシノミコトに聞いてくれ、コトシロヌシがOKなら考えましょう...といいます。そして、(使者は海辺で釣りをしていたコトシロヌシノミコトに迫ります)コトシロヌシノミコトがOKすると、オオクニヌシノミコトはもうひとりの息子タケミナカタノミコトにも聞いて欲しいといいます。この力自慢の息子タケミナカタがアマテラスの使いタケミカヅチに相撲(これは比喩でしょう)で負けて承諾したあと、初めてオオクニヌシは国譲りに応じるのです。それも「国はあげるから、私が住むための大きな宮殿をたてて欲しい」と条件をつけます。これが出雲大社、その高さ48Mといわれます。

   2012年に出雲大社で古代の柱のあとが発見されました。下の写真巫女さんの前にあるのがその柱、もう一枚の写真は当時の出雲大社の復元図です。不安定なため幾度か倒壊したようです。




   
   オオクニヌシの国ゆずりのものがたりにはつづきがあります。コトシロヌシノカミは自害したという説もあります。タケミナカタノミコトは諏訪まで逃げてその土着の神と話し合って諏訪神社に祀られました。タケミカヅチに命乞いをして諏訪から二度と出ないならと許されました。これが諏訪の上社です。ところがその後朝廷は下社を立てます。御柱祭とはタケミナカタノミコトを封じこめる意味があるというのです。

   さて、話をもとに戻しましょう。オオクニヌシの国ゆずりの物語がまったくの作り話とは思えない。なんらかの史実があったとみなすのが妥当と思います。しかしアマテラスがはじめからここにいた、権限があったのなら恐喝する必要などないはずです。そこから....オオクニヌシのほう(出雲族)が先にいて国を整えていた。あとからきたアマテラスの一統(ヤマト)が力づくで奪い取ったのではと考えられます。

   古事記を編集させた当時の権力者が内外に伝えたいことひろめたいことはなにかというと「天孫降臨」と「オオクニヌシの国ゆずり」だろうと思うのです。すなわち自分たちの血統の由緒正しさ...天からくだった神...民たちを統治するのにふさわしい何代もつづいた一族である.....武力で制圧したのではなくもともとの権限を譲られた...というアリバイつくりが記紀の編集の底にあった。....そこで天皇の家系の途中までは屈服させた豪族たちの持つ伝承などをつなぎあわせた....のではないかと思うのです。天降る...のアマとは海のアマではないか、すなわちヤマトは海を渡ってきた一族ではないかという説があります。

   ところで伊勢神宮は古代皇室(ヤマト)の氏神で中世まで皇室以外のひとが参拝することは許されませんでした。(....しかし持統天皇以前、ちかごろでは明治天皇以前までは天皇の参拝はなかった...天皇の参拝は忌みごとだった。これも謎ですね。)なぜ、タケミナカタノミコトは信州に逃げたのか? 距離的に離れている出雲の方言と東北弁が似ているのはなぜか? ...信州、安曇野をとおるたびにバスのなかで目覚めてしまうのはなぜか? 安曇野になにかがあると感じるのはなぜか....いつか出雲に行ってみたい....

   こんなことを考えながらわたしは父のことに思いを馳せました。父は歴史が大好きで神社仏閣をよくたずねていました。父との最後の晩...話してくれたのは南朝正統論と歴史のうえで源氏と平氏が順番に政権を担っているという事実でした。わたしが歴史に首をつっこむようになったことを知ったら父はなんというでしょう。....父のような歴史好き、巷の考古学者やは大勢いらっしゃるようです。

   ある方は古事記の登場人物の動詞に目をつけました。そこで国譲りの前後でアマテラスのつかう動詞がすっかり変わっていることに気づいたそうです。ある方は出雲大社の近くに洞窟を発見しました。その洞窟は地元の方は決して近寄らない場所なのだそうです。出雲大社は虐殺されたオオクニヌシの一族の祟りをおそれて建てられたというのがその方の考えでした。今年亡くなった歴史学者吉野裕子さんは主婦でありながら、なぜ踊りで扇子をつかうかという疑問から古代史に夢中になり、さまざまな発見をされた方でした。

   歴史の真実がどこにあるか、それはかならずしも 学会の偉い方々の意見がどうであるかとは別のもののように思います。松岡正剛氏の本に歴史を意味する「ヒストリー」の語源には”物語る”(historia)という意味が含まれるとありました。歴史を知る、歴史をものがたる....ことには意味があります。それは過去を回顧するのでなく、今を考えること明日を考えることにつながってゆくのです。やすみのあいだに見つけたことはいくつかあって ひとつずつ書いてゆきたいと思います。






   

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   金メダルの影には名コーチがいる。北島選手を育てた平井伯昌コーチ、同じく田口信教選手他を教えた徳田一臣コーチ、荒川静香のモロゾフさん、その他日本のシンクロは井村雅代コーチなしには考えられないし、イチローに新井宏昌コーチがいた。

   役者を育てるには演出家が必要だし、歌手にも恩師と呼ばれるひとがいる。芸人はお客の力も借りるけれど ひとりでは育たない、やはり師匠が必要だと思う。

   ところが、たいていの語り手は、自分でものがたりをえらび、練習し、演出し全部自分でしなければならない。もちろん、仲間うちで講評はあるのだが、腹の底から身体を張ってことばにしてくれるひとは少ないし、なぜこうなったか、どうすれば良くなるか...という理論ではなく ここがちょっと...どまりなのだ。結局 「それぞれの語り口よね」、「ものがたりって語るひとでみんな違うのよね」シャンシャンシャンで讃えあっておしまい...の場合も多い。趣味のサークルならそれでいい、だがこれでは伸びようがない。

   なぜ 名コーチかといえば、”うつくしいフォームにするために身体的になにが必要か””技術とそこにいたる方法をどれだけ習熟しているか””選手の持っているものをどれだけ引き出せるか”の他に”精神的なささえ手”でなくてはならない。「人間をどこまで知っているか」ということと「相性」「お互いにどこまで信頼できるか」「おなじ目的に向かっていけるか」ということではないか。ゆえに名選手が名コーチになるとはかぎらない。そして語りの場合、コーチに近いひとがいるとして、コーチもまた現役の語り手であることが多い。これは非常にまずい。冷静に相手を見ることができない場合があるのである。それとコーチたるひとが自分の固有の世界の彼方に視線を持たなかったり、受けるひとの可能性に気づかなかったりするために、自分とおなじように育ててしまう....というリスクがつねにつきまとう。グループの語りはときに似てくる。

   わたし自身、さまざま師と仰ぐ方にであってきたけれど、実際の芸の部分でよいコーチを得るのはなまなかではないし...まして精神的なものを求めるのは不可能とわかっただけだった。たとえば発声やアクセントとか部分的なことでは多くを教わったのだが、まるのままともに手を携えて目指してゆこうとするのは無理だった。それはわたしとおなじ方向性を持つひとと今のところ出会っていないからでもあろう、目指すものがひとり芝居でなく、今までの語りとも違う、.....いはば先祖帰りの語りであるためかもしれない。

   一方 伝える側、コーチする側としてもむつかしいところにいる。初心者を語りに導くのは自信があるのだが、ある程度のところまで行ったひとをどう育てるか...という点については今一歩踏み出せない。カタリカタリでやる気があるひとがいれば育てたい、伸びてゆく手助けをしたい....と思う。しかしまだ一歩引いてしまうのは、果たしてそこまで求められているか...という躊躇がある、そして自分を超えてゆく語り手を育てるだけの器量が自分にあるか自信がないのだ。

   語り手ならだれでも感じたことがあるのではと思うが、ひとの語りを聴いて...やられた!と思う一瞬がある。実はカタリカタリでは年に何度かある。それは上手い下手もあるけれど、それ以上に神に愛された語り....という感覚がわたしにはあってわたしはそれに弱い。上手い下手ではなくて、天地を統べる存在....神でもエナジーでも......その御心にかなう語りがしたいのである。

   そういう語りを聴いたとき、雑念なく、妬ましいという感情が一滴もなく心の底から祝福できるか.....透明な水晶のような隈無き自信はない。技術なら持てるかぎりのことは伝えて悔いはない。だが.....。またメンタルなところでコーチの一言は重い。落ち込んだときのひとことは重い。わたしはもしかしたら不用意なひとことでたぐい稀な語り手の芽をひとつ摘んでしまったのではと危惧している。その悔いがあるから一歩を踏み出せないのかもしれないが....。

   
   桃を買いに外に出た。ブルーの西空に冴え冴えとまるい月が懸かっていた。....それでも 語り手を育ててみたいと思った。発展途上のわたしが言うのもおこがましいが、二人三脚でほんものの(...とわたしが思う)語り手と歩いてみたい....いつかは....。もっと度量のある器になれたときに....。

   ひさしぶりに「D」でコーヒーをたのんだ、炒り立てのコーヒーの甘いかぐわしい香り....クレィジー・ホースに心をかさねる。青い闇、草原にひとり腰を下ろし草を噛みながら 想いにふけるクレィジー・ホースの横顔.....静謐がわたしの芯におとずれる。不意に泣きたくなる。....とても静かで。.....風がさわさわ吹いている....名草姫の顔がかさなる....毅然と蒼ざめた顔にほつれた黒髪がふたすじみすじふりかかる.....




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  .....アベカズノリさんはおとこである。とてもいい男、顔が?いいえ 顔はごつい。エナジーがビンビンくる。電車であったら周囲 2Mはひとが引くだろう。語りを聴いていて 翻訳ものより和もの....それも任侠とか近松とか聴きたいなぁ...と思った。

   ごついけれど、透明感がある。この透明感はどこからくるの?アベさんはほんとに役者でいることがすきなんだ....たぶん名を売ろうとか金を稼ごうとか思っていないのかも......ちかごろ亡くなった赤塚不二雄さんの葬儀のタモリの弔辞の一節を思い出した。.....”あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。......あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです.....”

   ”そして......その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。.....”

   日本にはそういう男が昔いっぱいいたんだと思う。自分の信じることのために向かっていくおとこ、強気をくじき 弱きをたすけ...子どものように無邪気にわらい.....帰りがけ.....アベさんに「......昔はあなたのような男がたくさんいた。でも今はいない。ずっと..... .....今日はありがとう」と話した。なにかに向かってまっすぐひたすら行く、ぐいぐい行く....すると余分なカザリとかアクみたいなものがはがれてすきとおってゆくのかも。意外とおんなには少ない。


   ......わたしにはわかっていた。わたしのすぐそばにそういうおとこがいたのだ。.....わたしの夫はであったころ、まさにそういうおとこだった。......わたしはそれだから一緒になった。人生には光と影がある。ひとには光と影がある。すべてのものに光と影がある。おとこについてゆくおんなには覚悟がいる。

   アベさんはもっと駆け上がるだろうな....ふとそんな気がした。ふたつの語りをとおしてわたしはまだ アベさんのなかのもっと暗い根源の闇を見せてもらっていない。それはあるだろうか....あったらすごい役者になるだろう。ワークショップがたのしみになった。.....それからついでに書いておくが、ネットカフェは推奨しません。場所にもよるだろうが あそこには煌々と白くひかるなかにしめやかにうごめくモノがある。あまりちかづかないないほうがよいモノの気配がある。





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.....昨夜 声の文化と文字の文化...についてまとめなおしました。これで声について考えるのはひとやすみして ものがたりを文字にとどめるというこれもまた苦しくも喜びにみちた作業にはいります。さきほど Sさんから聞き書きしたものがたりから「サイパンの青い灯赤い灯」構成しなおしました。語ってみるだけでなく、ものがたりのうらづけをとることは必要だなと思った次第.....。

....このまま、”名草姫伝説” ”今日は死ぬにはいい日だ”(ともに仮題)とつづけます。

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   しばらく声についてかんがえてきましたが、そろそろまとめようと思います。アメリカの学者ウオルター・オングは著書”声の文化と文字の文化”でこのように語っています。....人類のことばはながいあいだ「話しことば」だった。やがて文字を発明したがその文字は当初声を伴っていた。それがいつのまにか「書きことば」が社会文化の主流を占めるようになった。聴覚文化から視覚文化への切り替えがそこで起こった。.....書くということはことばを空間にとどめることである。これに対して声や音というものは、とどまることを知らない一方向性のものである。

   「声」の時代においては ことばは語り手と聴き手が共有する共同体のものでしたが、「文字」の時代においてはことばは文字として大量にストックされ、個として向き合うものとなりました。記憶から開放されて分析がはじまりました。自と他は明確に区別され、いのちとむすびついていたことばは解体され商品化され文字になりました。

.....オングは声の文化と文字の文化を比較しながら そこに東洋的なものと西洋的なものも対比していたのでしょうか。イエズス会士でもあったオングの耳は当然聖歌になじんでいた違いなく、聖歌の繰り返しや響きから声の文化、文字の文化に想いが至ったのかもしれません。(グレゴリア聖歌はモーツァルトの曲と同じような効果がありますが肉声ゆえに働きかける力が強いように感じます)声の文化、文字の文化のことばを変えれば聴く文化、見る文化といってもいいかもしれません。

   声のことばと文字のことばの圧倒的な違いはなんでしょう。口承の時代ことばが本来持っていた力..ものごとと直接むすびついていた呪力...声....呼吸....息...生きる....すなわちいのちとむすびついていた響き・パワーは文字になったとき、失われてしまったのです。


   そこで朗読や語りという行いがめざすものが見えてきます。「朗読」「語り」とは文字に固定されたことばに元々内在していた声・音を解きはなし、ことばの本来の力をとりもどす、ことばの身体性を回復することです。そして個として文字に向き合うことから、声をとおして共有するものに変えてゆく、視覚としてとりこむことから聴覚をとおして受け取ることに変換します。

. ..では朗読と語りはまったくおなじなのかといえば、そうではない。語りにはよりおおきな自由がある、と思うのです。ジャンルの自由....語るものがたりは無尽蔵です....ひとが生きているかぎり刻一刻と生まれている。そして方法の自由も....どんなスタイルをとることもできる。けれども もっと大きな自由は文字からの自由ではないか.....たしかに文字をまったく介さない語りはないけれど..カ語りは文字を見ません。文字を思い出して発語するのでなく、身体..感覚....心...想い....そしてイメージから直にことばを発語する....からだ こころ いのちからじかに発語する。

   身体と感覚と心の一体化とはこういうことだと思うのです。もう一度 オングのことばを借りるならことばにかって内在した”声”(の力)をどう取り戻してゆくか。かってひとがその声に持っていた「身体を通過する響き」をどう取り戻してゆくか......オングは西洋人の立場から考えました。オングについて紹介してくださったYさんありがとうございました。日本人として付け加えるならことたま...を甦らせることです。さらに ものがたりを響きにする 身のうちに魂に畳まれている自分のものがたり 一族のものがたり 種族のものがたりを響きにして聞き手に響かせる.... ......

   以上、一般的に述べました。プロアマを問わず圧倒的な朗読者、文字からのしばりから自由になった朗読者はいる...また朗読と語りとどちらが上か...というような見地ではないということを申し添えます。

   さきほど基礎講座二期の開催が確定しました。わたしの秋も決まりました。身体を通る響きを、ことばの力を取り戻すべく耳と声と感覚を鍛えなおします。。秋 原生林で語ってきます。日程があえば11月 遠野で瀬折津姫を語ります。....鎮魂のために。まだまだ暑い日々がつづきます。どうぞみなさま ご自愛くださいますように....。


声の文化 文字の文化




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   さてたいそう暑い日がつづいております。わたしは岩盤浴マニアですが、二階でパソコン打っておりますと、岩盤浴なみに汗がしたたります。暑さに負けないで参りましょう。

   瓜子姫についてはしばらく前の語り手たちの会会誌”語りの世界”で特集が組まれたことがあります。よく覚えていないのですが日本の東と西でものがたりが違うのはどうしてか...みたいな内容だったと思います。東日本では瓜子姫はアマノジャクに包丁でバラバラに切られてしまいますが、西日本では柿の木や桃の木などに置き去りにされるだけです。この違いはどこからくるか!? 

   わたしは先週、デイケアで高齢者のみなさんと楽しく遊びました。高齢者のみなさんたらほんとうに頓知がきくので、ゲームをしてもさまざまなバージョンが生まれ、わたしはけっこうそれをワークショップにつかわせていただいています。実のところ、わたしがかかわるすべてのグループのなかで、もっとも元気があってたのしくて想像性がゆたかなのはデイケアです。高齢者おそるべし!!

   さて、笑ったり騒いだりしたあとで一息いれるために語ったのが”瓜子姫”....そのあとシンクロしたのか瓜子姫について興味深い考察をweb上で発見しました。以下に抜粋します。古事記や日本の史実ともかさなっておりますのですこし長いですが、どうぞごらんください。


「瓜子姫とアマノジャク」バルバロイより

    「細切れの女神」

 東北地方に広く分布していることで知られる「瓜子織り姫」の昔話が、出雲の南部、仁多郡でも採集されている。

 子どものなかった爺さん婆さんに、川上から流れてきた瓜の中から、かわいらしい女の子が授かる。この瓜姫は機織りをよくした。やがて秋祭りの日になったので、じいさんと婆さんは、祭りに参るためのカゴを買いに出かける。そこにアマノジャクが現れ、機を織っていた瓜姫に、ちょっとでいいから戸を開けてくれと頼む。あまりにしつこいので、ちょっとだけ戸を開けてやったところ、アマノジャクが押し入ってきて、瓜姫を柿の木に縛りつけ、自分は瓜姫に化けて機を織る真似をしていた。帰ってきた爺さん婆さんが、瓜姫に化けたアマノジャクをカゴに乗せて宮参りをしようとしたところ、柿の木に縛られていた本物の瓜姫が大声で泣いたので、二人は間違いに気づいて怒り、アマノジャクをカゴの棒で突き倒し、首を切ってキビ畑に棄てた。キビの根が赤いのは、アマノジャクの血に染まったからだというのである。

 石見の邑智郡においても同様の昔話が採集されており、こちらの方はアマノジャクを三つに切って、クリとソバとキビの根本に埋めたので、以来、その三種の植物は根が赤くなるのだという。

 類話は信州(下水内郡・小懸郡)でも採集されており、原ヤマト勢力ともいうべき高天原族の服属勧告に一人抵抗したタケミナカタが諏訪に逃れたという伝説が思い出されて、遠く隔たった信濃と出雲との親近性をうかがわせて興味深い。特に、下水内郡のものは、アマノジャクが男ではなくて意地悪娘となっている点で注目される。

 そして、この信州を境として、「瓜子織り姫」伝説が西と東で著しい対照を示していることは注目に値する。

 東北地方に広く分布している「瓜子織り姫」説話では、瓜子姫がアマノジャクによってまな板の上で切り殺され、食べられてしまう点で、ひどく残酷な印象を与える。これに反し、信州以西の瓜子姫はみな助かっている。その代わり、今度はアマノジャクが細切れにされているのである。

 だが、その死はあながち無意味ではない。アマノジャクの屍体は、クリとかソバとかキビといった古代人たちの常食用植物を、ある意味で養い育てているのである。文化人類学や民俗学は、ここに古代人たちの重要な信仰の名残を見出そうとしている。

 古代人たちは、芽生え、生育し、実り、死に絶え、その屍体の中から再び芽生えるという、大自然の死と再生の営みそのものに、偉大なる大地母神の姿を見た。地母神は、殺害され、切り刻まれ、大地に撒き散らされることによって、人間の食べられる作物を芽生えさせた ――ドイツの人類学者イエンゼンによって、女神の名をとって「ハイヌウェレ型」と名づけられこの作物起源神話は、水田農耕を知らない世界の「古栽培民」の間に広く分布している。そして同じモティーフは、確かに日本の神話の中にも見出すことができるのである。

  瓜子姫は必ず食べられなければならなかった。あるいは、アマノジャクは必ず細切れにされ、畑にまかれなければならなかった。それがいかに残酷な印象を与えようとも、それは避けては通ることのできない儀式であった。そうすることによってのみ、彼らは再生を約束されていたのである。

  その意味で、瓜子姫がいきなり食べられてしまう東北地方の「瓜子織り姫」説話は、よく古型を保っていると言える。これに反して、悪さをしたアマノジャクが切り刻まれるという信州以西の説話は、古代人の大地母神信仰の名残をとどめつつも、近代的な(?)勧善懲悪思想の枠組みの中に取りこまれた民話であるといえる。

   「アマノジャクとはいったい何者なのか?」

 縄文人たちは、日本列島の南から北まで、比較的均質な文化を展開していた。その原因のひとつは、彼らが驚くほど広範囲にわたって交易・交流を維持していたことにある。彼らは、われわれの想像をはるかに絶して、島から島へ、半島から半島へ、そして川を遡っては山に分け入り、山を越えては別の川を流れくだって、列島の横断も自由にやってのけていた。その意味で、古代人にとっては、東アジア大陸と日本列島とは、日本海を中心とした円環のひとつながりにすぎなかった。この開放性こそ、縄文人の普遍的性格であり、その性格を最も濃厚に受け継いだ古代出雲人の特徴であったことを押さえておくべきである。

 だが、水田稲作農耕の技術を持った人々の渡来は、日本列島の歴史に大きな変化をもたらした。(中略).....水田稲作の営みには縄文人の世界を根本的にひっくり返す二つの原理が用意されていたのだ。ひとつは、水田農耕民も自然を尊崇したが、その自然とは、水田農耕(人間)を中心に価値の上下を秩序づけられた自然にすぎなかったこと。この選良主義は、万物に神霊を認め、これを畏敬するという古代人の精神世界を、目に見えない形で衰退させてゆくものであった。もっと決定的な変化は、土地(耕地)の囲いこみにあった。水田農耕民にとって、もはや大地は生きとし生けるものすべてに共通の母なる大地ではなくなった。境界を定め、ここに押し入ってくるものは威嚇し、排除すべき私有物となりはてたのである。

 こうして、水田稲作農耕の本格化にともない、水利権や耕地、あるいは蓄えた稲などをめぐって、部族間・地域間の緊張・対立が激化してゆくことは当然の成り行きであった。この争いを通じて、統一的な中央政権、いわゆる大和政権が出来あがるまでには、なお数百年間におよぶ争乱が必要であった。これが弥生時代の隠れなき姿であった。

 
 強大化する大和政権にとって、出雲が争奪の的になるのは、

  1) 出雲がどこに向かっても開かれた土地であったこと。
  2) そして何よりも、この地にそれだけの価値があったから

にほかならない。その価値とは、ここが鉄文化の先進地域であったということである。

 そんな中にあって、出雲は老獪な外交戦術を展開したと考えられる。高天原族の再三にわたる服属勧告も、使者ないしは遠征軍を率いた本人が、そのまま出雲に住み着いてしまい、復命さえしようとしない結果になった事実を、古事記は包み隠そうとしない。

 強力な軍隊を付けて遣わされた天の若日子も、大国主の娘と結婚して、8年経っても復奏しない。そこで、高天原族は相談の末、鳴女(なきめ)と称する雉を遣わして、「汝を葦原の中つ国に使はせる所以は、その国の荒ぶる神どもを言むけ和(やは)せとぞ。何ぞ八年に至るまでかへりまをさぬ」と詰問させようとする。そこで鳴女が天の若日子の門の「ゆつ桂」の樹にとまって伝言すると、天の探女(あめのさぐめ)が聞きとがめて、「この鳥は、その鳴く音いと悪し。かれ、射殺すべし」と唆す。天の探女は、鳥占いをよくする巫女ではなかったかと考えられる。

 出雲と大和の間で、恐るべき諜報戦争が展開されていた様が想像できるし、天の若日子は、出雲に対する忠誠心を試されたのかもしれない。彼は勧められるままに鳴女を殺害し、ために、高御産巣日神の放った暗殺団に殺害される。そして高天原族は、おそらくは鳴女殺害を口実として、建御雷の神と天の鳥船の二人を遣わして、武力をもっての直談判に入らせる。ここに、ついに出雲の開放の論理は、高天原族の権力集中の論理に屈服したのである。

 大和への出雲の服属によって、今や、おそらくは最も過激な主戦論者であった天の探女の居場所は、もはやどこにもなかった。この天の探女を、アマノジャクの起源とするのが、民俗学の定説となっている。

 高天原族に対して敵愾心を燃やし、ために、この世のどこにも安住の地を見つけられなくなってしまった天の探女を、民衆は、しかし、忘却しなかった。民衆は、太古以来連綿と続く大地母神信仰を隠れ家に提供してやり、クリとかソバとかキビといった常食用植物の根本に、その痕跡をとどめさせたのである。

 しかし、それと同時に、彼女の反逆の精神は、何と貶められたことか! 今や彼女は、木霊や山彦となって、無知な人々を一驚させる程度の存在に落ちぶれてしまった。

「なぜ瓜子姫が殺されなければならなかったか」


  それはさておき、東西の「瓜子織り姫」伝説を比較したとき、著しい対照をなしていることに、すぐに気づかされる。信州以西のアマノジャクは、さしたる悪戯をしたわけでもないのに、細切れにされるという過酷な報復を受ける。これに対して、いわば「瓜子織り姫」伝説の本場ともいうべき東北のアマノジャクは、瓜子姫の皮を剥ぎ、切り刻んで食するという、およそ考えうる最も残酷な仕打ちをしているにもかかわらず、単に殺されるだけか、うまくすれば逃げのびさえするのである。あたかも、民話の語り手たちは、いくぶんかアマノジャクの肩を持ってでもいるかのようにである。この違いは何なのか?

 あるいは、こう問うべきかもしれない。――瓜子姫は、何ゆえにかくまでも残忍な仕打ちを受けねばならなかったのか? 瓜子姫の罪とは何か?

 瓜子姫は機織り上手である。いったい何の機を織っているのか。それは、殿様に献上する品であったり、あるいは、自分が殿様や長者と結婚する時に着る嫁入り衣装であったり、宮参りの衣装であったり、内容はまちまちである。しかし、要は、彼女がしあわせであることに間違いはない。もしも瓜子姫に、アマノジャクに憎まれるような罪があるとするなら、この「しあわせさ」を措いて他にはない。

 とするなら、しあわせであることが、なぜにそれほどまでに憎まれねばならなかったのか?

 ここに、私は、大和政権に最後まで「まつろはぬ」民であった蝦夷の流れを汲む人々の伝えた「瓜子織り姫」伝説と、早々と服属してしまった出雲ないしは信州以西の人々の伝えた「瓜子織り姫」伝説との違いを見ないわけにはいかない。

 「まつろはぬ」者は、それだけ徹底的に弾圧される。このことは、大和と蝦夷との長い闘争の経過、そして、戦い敗れた後のさらに長い弾圧と差別の歴史を見れば、おのずと明らかである。このような人々の伝える瓜子姫は、二度と生き返ることはない。なぜなら、彼女は支配者である殿様や長者や、さらには押しつけられた外来の神に認められることを己の幸福としているからである。

 これに反して、出雲の瓜子姫は、アマノジャクに殺されることもなく、予定どおり、殿様や長者の嫁として、めでたく嫁いでゆき、かわりにアマノジャクが過酷な報復を受ける。アマノジャクをみずからの手で抹殺することによって、生き残った者たちは身の安全を、さらには身のしあわせを手に入れるのである。もしもそれが屈辱ではなくて、しあわせであるとするなら。

 
 「まつろはぬ」民の後裔とはいえ、いや、「まつろはぬ」民の後裔であることを自覚すればするほど、支配的な勢力に媚びを売る瓜子姫を非難できるだけの資格は、もはや自分たちにも残されていないことを思い知らされたことであろう。瓜子姫を非難するということは、それはそのまま、おのれが生き残ったという事実を責め苛まざるを得ない。そこに、東北人の伝えるアマノジャクが深い陰影を刻まざるを得ない理由があったと思うのである。

 詳しくはバルバロイをごらんください。

 これを書かれた方がどなたかは存じませんが、とても納得できる考察だと思います。なぜ、(なにもしない)瓜子姫が殺されねばならなかったか?アマノジャクは何者か?

   たったひとつの昔話の奥にも、日本の2000年以上にわたる歴史が生き生きと息づいている、おおくのひとの血と哀歓がある.....わたしはそのことに圧倒されます。ものがたりには必然があって、語り継ぎたい、忘れてはならないという民衆の想いがあった。それが今は調べたり考察しなければわからなくなってしまっている。語りとは、本を鵜呑みにしテキストをただ音声化することでは 決して無いと思うのです。たとえ時代がかわり、ものがたりが改変されようと、その奥にあるものをつかみ代弁したいとわたしは思いますし、語り手が選ぶものがたりが実は語り手自身を如実に語ってもいるのです。




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   暑さ極まっておりますが、みなさまいかがお過ごしですか?今日は古事記について思うことをお話しましょう。....上つ巻、中つ巻、下つ巻のすべてが語れないという訳ではないのですが.....

.........太安万侶の序文によると第40代天武天皇が『古事記』編纂を思いつき、第43代元明天皇の時代にやっと完成したとされています。7世紀のことです。天武天皇の時代といえば、周囲を平定し律令国家の基礎ができた時代です。記紀編纂の目的は国の内外に大君=天皇家の由緒と正当性を知らしめるため...もともとは古事記も歴史書だったと言われています。

   それぞれの氏族がもっている言い伝えを集め編集し一つの神話にまとめたのはいいのですが、ここで正当性を誇るための創作や入れ替えが行われています。元来太陽神、天照大神が男神であったのを天照大神とその神に仕える日の巫女の長をすり替えてしまったのが最大の入れ替えでした。

   古事記を語ろうとするとき、天皇家のルーツならびに神の系譜を考えずにはおれません。なぜなら古事記は神話であり天皇家のものがたりであるからです。天皇家は一支族だったのではなかったようです。そして弥生時代、九州に上陸した渡来人(朝鮮・中国・或いは中央アジア諸説あり)であるというのがもっとも一般的な考えのようです。もうひとつ紀記に書かれているように天孫民族=シュメール人=セム人=イスラエルと同根であるという説もあります。

   では原日本人とは....縄文人は狩猟民族でした。蝦夷、熊襲、隼人と古事記上では蔑まれていますが、世界の他のネイティブとおなじように森 山 川 すべての生き物に神がやどると信じて暮らしていたひとびとでした。彼らの祖が果たして太古から日本にいたのかそれとも北方からあるいは南方からわたってきたのか。今DNAの解析が進められているようです。

   さて それはさておき わたしは語り手です。語り手はモノガタリ、見えないモノを語ります。ここで古事記が単なる夢のものがたりなら語ることはできる。文芸作品ならいとも簡単です。しかし、古事記には史実が含まれている...それが意図的に捻じ曲げられているとしたら....ふと考えてしまうのです。

   ことに神武東征....神武天皇は初代の天皇、海幸彦・山幸彦の山幸彦の孫にあたります。神武天皇=イワレヒコノミコト(本当はもっと長いなまえ)は最初太陽の昇る方向に向かって進軍します。そして幾多の困難をこえ、ネイティブジャパニーズを攻め滅ぼしてゆく。蝦夷や熊襲は背が高く彫りの深い顔立ちであったようです。神武東征のなかで最大の戦いが長脛彦との戦いです。しかしこれもだまし討ちにして、さんざんにバカにしている。後にでてくるヤマトタケルもそうなんですが策略でだまし討ちにすることが多い。勝てばなんでもいいのでしょうが....。

   ところで神武東征のなかで古事記にはなくてなぜか日本書紀にだけでてくるエピソードがあります。イワレヒコノミコトに殺される熊野の女王、丹敷戸畔(ニシキトベ)と 紀伊の国の女王、名草戸畔(ナグサトベ)の話、一説には丹生..水銀そして鉄として精錬する赤土を奪うために滅ぼしたといわれます。ふたりとも一族の首長であってシャーマンであったようです。

   わたしはこのふたりのものがたりを語りたい。語りには代弁....という深い意味がある。誰かの代わりに語る...それは鎮魂の語りです。わたしは自分が縄文人の末裔であると信じているせいもありますが、制圧者であるイワレヒコノミコトやヤマトタケルの代弁はしたくないのです。まつろわぬひとびと、うしなわれたひとびとの代わりに語りたい。

   ヤマトタケルは実在の人物ともいわれ複数の英雄がひとりのかたちをとったともいわれています。白鳥の伝説は美しい、けれども実は原日本人の伝説に白鳥伝説があるといわれます。ひのもとという国もあったようです。日の丸もあった。勝者はすべてを奪いました。土地も伝説も、そして古来の神もまたあたらしい神にその席を譲り渡しました。

   神話は単なる古代人の空想の産物ではありません。少年時代、イリアスが好きだったシュリーマンがトロイの遺跡を発掘したのは有名なエピソードですね。5000年前の神話・叙事詩ギルガメシュに出てくるギルガメシュ王は実在の王でした。またギルガメシュには旧約聖書のノアの箱舟によく似たエピソードが語られています。そしてノアの箱舟ではないかという遺跡も存在するのです。神話を語ろうとすることは編まれた正史の向こうにある真実の歴史に向き合おうとすることでもあります。常識を脱ぎ捨て こだわりのない明るい目で見ようとする視線を持ったとき、ものがたりの地平はかぎりなくひろがってゆくでしょう。

   わたしはかつて太陽神、天照大神が男神であることを、その后神である瀬折津姫に託して語ったことがあります。そのときのトランス状態ははんぱではなく怖しくさえなりました。それでも、歴史の断片をひろいあつめ、欠落を霊感でつなぎ、語ってゆきたいものがたりがある。それはわたしの語り手としての根幹です。他者が書いたテキストから甦らせ語るだけが語り手のつとめではありません。語り手は歴史の闇に対峙しひとの闇にも対峙する。語り手は手探りして隠されたモノガタリを見つけ出し、時には虚構のモノガタリをとおして目に見えないモノ、真実を語るのです。

   神武天皇とヤタの烏


   検索しておいでになった歴史好きの方がおられましたら、もし記述に疑問の点があったらご指摘ください。また日本のもっともいにしえの神々についてご教授ください。



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