遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



   今日は本町のおはなし会でした。わたしは6年生に「つつじの娘」「空と海と大地の話」を語りましたが ミーティングのとき 久喜市 子育て支援 いちごミルク(いちごミルクにはカタリカタリの主なメンバーが参加しています)の代表をしているKさんからこんな話を聞きました。

   ひょんなことから進学校の家庭科の先生に頼まれて家庭科の「保育と発達」の授業 1時間をつかわせていただいたのだそうです。それは埼玉県でおこなっているふれあい体験のスペシャリストの授業の一環だったようです。

   Kさんが家庭科の先生にどのような授業を望まれるか訊ねたところ「ほっとする時間を」という答えだったのでKさんはそれならできる!と思ったそうです。Kさんは先生にお願いして高校生たちからアンケートをとってもらいました。その内容は 

1赤ちゃんについてどう感じているか 
2読み聞かせをしてもらったことがあるか
3どんな絵本が心に残っているか

などでした。1については 泣かなければかわいい  とか かわいいけれど 世話をするのがたいへん...などかわいいけれどふれあいをためらうようすのものもみられたそうです。Kさんは9クラスをまわり 5.6冊の絵本の読み聞かせをしながら ’世話をするというより この子とどういう関係をつくるか それは自分とこの子だけの関係なんだよ’と語りかけたそうです。また1年生のクラスではお母さん方と10人のあかちゃん 3人の3.4歳児もいっしょにおとずれ ふれあいの時間を持ったそうです。

   核家族化がすすみ 子どもひとりひとりが信頼できるおとなと触れ合える機会はしだいに失われつつあります。赤ちゃんのときから地域の一員 周囲の愛情に育まれて子どもたちがのびてゆけたら ひととひととのかかわりを信じ 自分からも手をさしのべていける子どもになれるような気がします。行政にはそのような地域からの力を汲み取り 場所の提供であるとか積極的なバックアップをしていただいておりますが今後もさらなる力添えを そして地域のおとなたちももっと手を組んでいきたいと話を聴きながら痛感したことでした。ちなみにアンケートの結果は50%の生徒が読み聞かせをしてもらった経験があり 思い出に残る絵本のダントツは グリとグラ 14匹の朝ごはん だったそうです。

   読み聞かせをするひと ストーリーテラー まだまだ活躍の場がありますね。全国でこんな活動をしているという情報がありましたら ぜひ教えてください。久喜市在住の子育て真っ最中のおかあさんたち いちごミルクでは生後5ヶ月からおかあさんとあかちゃんといっしょにほかのおかあさんたちとも交流できるたのしい場所を提供しています。ここを卒業した最初のあかちゃんはもう2年生になりました。まだホームページを開いていないので もし 久喜市 子育て支援で検索して ここにたどりついたら どうぞおきがるにメールをください。Kさんに連絡をとらせていただきます。

    luca401@mail.goo.ne.jp

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2/17のちらしです。聴いていただければうれしいです.。   

 見づらいので 記事にもUPします。

もうすぐ春.......のコンサート

春もまぢか 気の早い花たちがほころびはじめるころ 語りと古楽ビウエラのコンサートをひらきます。 ゲストはビウエラの本邦第一人者水戸先生ならびに語り手たちの会代表櫻井美紀さんです。コンサートのあとお茶会をひらきそれぞれの場所でさまざまな活動をなさっているかたがたの交流の場所になればと思っております。
アーティストのかたはどうかおしごとの宣伝もなさってください。
昼の部では自称松平不昧流八代目家元になり損ねた方のお手前、お抹茶と和三盆のサービスがございます。正直のところ なにがどうなるか予測がつかない語りの会です。語り手の方もお話会がはじめての方もおいででしょう。なにしろこれからお声がけするのでもしかしたらお客さまが見えないかもしれません。
ですが どうぞお気軽におこしくださってお楽しみください。

夜の部終演後の打ち上げがあります。(グッディーズカフェ)

2007年 2月 17日(土)

 マチネー:開場 13:30 開演 14:00

 ソワレ : 開場 17:30 開演 18:00

チケットはワンドリンク マチネ、ソワレとも 1500円

通しの方は2000円です。

会場:スタジオ・プラネット

JR京浜東北線 浦和駅下車 西口より徒歩5分
さいたま市浦和区仲町1-3-10 なかまち壹番館3F


 

 お問い合わせは luca401@mail.goo.ne.jp まで

 

 



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   海をわたってフランスからきたビウエラが チューニングを終えてわたしの手にわたされたのは水曜日だった。水戸先生は惚れ惚れとビウエラを眺め「美しいでしょう...最上の材でつくっている」と言った。それから心配そうに「大丈夫かなぁ」とわたしを見詰め「娘を嫁に出すようです」と付け加えた。わたしは先生が心配するのももっともだと思い またかほどにビウエラを気遣うようすに心をうたれもした。これがストーリーテラーとしてのわたしの片割れ わたしの弦 ビウエラである。わたしにはこの楽器を弾きこなす自信は今のところまだない。手を触れるのも怖くて まだケースを開けてもいない。

   ちかごろ 才溢れるストーリーテラーと語る機会が多くあって それはとてもうれしく心躍ることなのだが ひとつ腑に落ちないのは小説や絵やさまざまな創造をたやすくする方たちが なぜ語りばかりはすでにだれかが書いたテキスト・だれかが書いたものがたりにこだわるのだろうということなのだ。ゆうべ 歌番組を見ることもなく見ていた。10名近くの歌手たちがつぎからつぎへ歌うのだが すり抜けてゆく歌のなかで 二曲 心にささり響いたのは 少女めいたyuiという歌手のシャウトするロックと中堅の平井堅という男性歌手がうたいあげる歌謡曲というまったく趣のちがうものであった。好き嫌いとは関わりなかった。なぜだろうと考えたときに思い当たったのはふたりはその曲を作詞作曲していたということ、つまり自分のことばで歌っていたのだ。わたしが惹かれる歌は尾崎豊 中島みゆき サザン ミスチル そのほとんどがシンガーソングライターの歌う歌だった。
   
   櫻井先生の他の世にそれと知られた語り手からわたしは今まで文学作品以外の自分のことばでつづる語りを聴いたことがない。歌うも語るもおなじ根から生まれたのであるけれど それを思えば語りが歌のようにひとびとから熱く迎えられないのもむべなるかなと思った。歌は世につれ 世は歌につれという。語りも世の変遷とともに変わっていいのではあるまいか。昔話は伝えられるべきものである。が 今の語りがもっとあってもよいとわたしは思う。

   あたらしいタイトルになってまだちらしの印刷もしていないが リサイタルの日は刻々と近づいてくる。わたしはいくつか試みようと思う。自分のことばで語る これは自分の語り手としての拠り所であるが ふたつは制限のある語りをしてみたい。テキストに忠実でほとんどのひとが知っているものがたりをあたらしいいのちを持つように語れるだろうか。ごぜさんは視力がないことをよすがに自分の意識を飛ばしたという。それができるだろうか もし視線によるコンタクトがとれない場合 聴き手とのあいだにどんな関係が結ばれるか。水戸先生のビウエラと語りがどのようにからみあってゆくか。そして即興で語れるか。それらの試みはあしたの語りにつながってゆくだろう。

   ブログでもミクシィでもこうして書いてゆくことで 語りたいという想い伝えたい想いを宥め紛らしてしまう。 それはそれでしあわせなことなのだがわたしはしばらく 文字のことばを極力封じこめようと思う。語りたい想いを滾らせて滾らせてその日ほとばしるように。わたしはながいこと鎮魂の語りをつづけてきた。もう解き放されてもよいころだ。どうかすべてを出し尽くせますように...つたなくはあるが わたしがいままで夜に昼に雲のかげやらwebの波間 本の紙魚のなかから拾い集めてきたものを ひとりでもいい、わたしより若い語り手たちに手渡すことができますように。

   

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   ストーブの火をながめていると炎といっしょにゆらぎながらこころが次第に収斂してくる。そして炎のなかにいるような外にいるような自分のなかにいて遠いところにいるような不思議な気持ちになってくる。

   ひとの身体はきわめて優れた楽器であるそうだ。尾てい骨から背骨(背中のごつごつした棘突起ではなく身体の中心近くにある背骨を想像してください)頭頂までの骨格は共鳴装置になっているという。そしてこの骨格に響かせる また体内に響かせることで高次の倍音が発生するという。倍音について知りたかったことの一端がようやくわかった。

   腹式呼吸についてわたしは誤った概念をもっていたようだ。空気を吸い込むときおなかを膨らませ 吐くとき(声を出すとき)おなかをへこませる。それは正しくないわけではないのだが じっさいは空気は身体の側面 背中 骨盤底まで入るのである。だから高度な発声を望むなら横隔膜だけでなく 深層筋肉(インナーマッスルまたはコアマッスル)の存在を意識する必要がある。インナーマッスルのひとつ横隔膜は不随意筋と思われていたが声楽家はコントロールしている、つまり随意筋である 同様に他のインナーマッスルも鍛錬しだいではコントロールできるという。世界的なアスリートたちは実はこのインナーマッスルを統御して超人的な身体の動きをするのだそうだ。

   インナーマッスルは骨格とつながっている。演劇のワークショップで講師の永見子さんは「関節を意識する役者は変わる」と言った。インプルーブの先生は「筋肉によって骨は引っ張られる」と言った。RADAではつねに背骨を意識しろ・・・という。肉体をつかうアスリートや役者ばかりでなくアーティストにとってもいや日常の生活のなかにおいてさえ身体を意識することはたいせつである...とわたしはようやく気づきはじめた。すくなくとも身体とこころは複合体であり ひとの本体である霊体ともつながっているのである。そして身体こそわたしたちのこころの望むことをカタチにしてくれるたいせつな器であり可動部分なのだ。

   弦楽器の起源は弓なのだそうだ。語り手をさかのぼると瞽女や巫女にもたどり着くが瞽女は弦を振るわせると起きるブルンブルンという音で意識を飛ばし神を降ろしたのだという。古今東西の語り手たちが主に弦楽器を手に旅したことはわたしには示唆的に思える。諸芸 能にしろ語りにしろ執筆にしろ アーティストということばでくくられるかどうかわからないが そこに携わるひとが目指すことは畢竟良い器になることではないかと思う。良い器(をカラにしたときそこになにかが降りられる。器とは身体であり心であり魂である。

   背骨にゆがみやコリがないとその共鳴は身体だけでなく周辺にもひびくのだという。聞き手は耳でだけ聴くのではない。文字とおり身体全体で感じ 聞き取るのである。ひとの背骨そのものが弦であるのかもしれない。ひとは自分の枷をはずせば 天にも想いを聲を響かせることができるのではないだろうか。その響きは自然のなかのあらゆる響きと調和して宇宙にあまねく響きと一蓮托生いのちの歌をうたうのかもしれない。そうなったら...あぁそうなったら。

   わたしはこの年をわたし自身の身体元年としよう。身体のメカニズムを知り可能性を試してみよう。ミクロコスモス・身体とそれにかさなるこころと魂のつながりを考えてみよう。

   


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  魂について考えると相対するものとして身体のことを考え勝ちである。これはどこから埋め込まれた観念なのだろう。けれどもわたしは語りについて考えるうちにしだいに身体とこころと霊魂はつながっているのだと感じるようになった。身体とこころのつながりについて また身体そのものについて語り手の視点で考えてみたい。

 人間の脳は三階建てのビルにたとえられる。一番外側の大脳新皮質は理性や知性をつかさどるのだが この発展途上の?大脳新皮質で対応できないストレスは大脳辺縁系に持ち越される。辺縁系は本能の座であり視床下部は 内分泌や自律神経を支配している。そこで心因性のストレスが高血圧などの症状を引き起こす。病は気から...というが昔のひとも知っていたのである。こころその奥にある魂の存在がこころの動きに深く関わっていることも知っていたのだろう。そのせいか昔は洋の東西を問わず 魂の癒しをする宗教者が薬草を栽培したりして病人の身体の治療にあたることが多かった。ロミオとジュリエットに出てくる神父のように薬剤を調合したのである。

  さて魂と身体のつながりについて別の視点から考えてみよう。昨日医についてのシンポジュームで聞いてきたおはなしである(パネラーは実際に医療の現場にいる医師ならびに研究者)
臓器移植に際して 脳死(脳幹の死)の臓器提供者の身体に臓器を取り出すためにメスを入れると血圧があがる。つまり苦痛を感じるらしい。そこで今では脳死であるにも関わらず 麻酔をかけてから 臓器を切り取っている。 また 臓器移植を受けた方(レシピエント)のうち70%の方が 不思議な体験をしている。

Aバイクに乗ってトラックにぶつかる夢を繰り返し見る。
 (エイリアンドリームという)
Bワインとクラシック音楽が好きだったのに 手術の後 ビールとポップスが好きになった。

  提供者のことを知りたいとか 家族にコンタクトを とったりすることは禁じられているそうだが 調べてみたところ Aさんの提供者はバイク運転中 トラック にぶつかって脳死状態になったことがわかった。 Bさんの心臓の提供者は若者であった。

  以上のことから身体と記憶はわかちがたく結びついていることが推し量られる。筋肉の神経が過去のトラウマを記憶していることは以前に述べたが細胞のひとつひとつに意識があるという説もあるそうだ。...すると身体が癒されることでこころ また霊魂が癒されることもあるのではないか。温かいひとの手がそっと肩に触れたとき 百のことばよりほっと癒されることがある。霊魂・霊体とは胸の奥や脳の奥にひっそりしまわれているのではなく 身体そのものに重なっているのだろうか。ことばや音楽は身体ぜんたいに沁みとおるものなのだろうか。




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  暮れからあたらしい年になって メールやブログやミクシィを介して幾通か熱いメッセージをいただいた。ともすると渓谷の影を月の光みちる砂漠を太陽の照りつける海辺をひとりで歩いているような孤独を感じながら歩いてきたのだけれど こうして肯ってくださる方が、おなじ想いの方がいるなら もう一歩先に進めそうな気がしている。

  医学ばかりでなく教育その他の分野でも ホリスティックに考えるというムーブメントが起こってきたのは いままでの方法が壁に突き当たったからなのだろう。けれども身体とこころだけを考えるのならまだ片手落ちなのである。こころを動かしているのは魂であるのだから。ひとに魂・・霊的なるものが備わっているかどうか信じる方 信じない方それぞれであろう。

  わたしについていえば亡くなった方々からその死後さまざまなかたちで(半年以上経過してからということはなかった)接触を受けたという名状しがたい経験があった。おさだおばちゃん 父 叔父 友の一樹さん そして・・・それは当然ことばを介してではなく 通常のそれではない五官に感じる強烈な感覚を通してのものだった。それは常識や理性など及びもつかない、現実より強く明るい光に曝された是とか非とか超えた次元のものだった。

  死ぬことで肉体が滅びそれにともなってこころがなくなってしまっても霊魂は残る。肉体は衣のようなもの 霊魂は衣をとりかえて旅をつづける。霊魂こそひとの根源のものである。だから魂に届ける 魂にひびくものがたりを語り手は語るのである。幼くともひとつの魂である。それがさまざまな体験をとおして目覚めてゆく・・個性というのは魂のいろあいであって後天的につくられるというより 魂が思い出してゆく・・・にちかいのではあるまいか・・さまざまなものがたりをくりかえし聞くこと ものがたりのエッセンス・メッセージを感じとること 語り手の息吹と息遣いをとおしてそれらに触れるとき あきらめずにたちあがる勇気をはぐくむとともに 霊的な目覚めを加速するのではなかろうか。ひとは盲目的にうしなわれたものを回復しながら生きようとする・・語り手はものがたりをとおして ことばのひびきをとおして ひとが失ってしまったたいせつな力をよみがえらせることさえできるかもしれない。 


  この二日 幼稚園で年長さんとそのおかあさんたちに語らせていただいた。幼稚園のおはなし担当の先生からのリクエストは「権現堂の伝説」と「水のおはなし」 そして手遊びだった。「権現堂の伝説」は地元に伝わるひとばしらにまつわるものがたりである。水のおはなしは海や川や大地から水蒸気がたちのぼり 雲となって 雨となり 地をうるおし しみいり やがて地から湧き出で 川となって 植物や動物の生命をはぐくみ 汚れを流してゆくことからはじまる。そしてことばの力 ことばをたいせつにすることにつなげてゆくのだが 初日はパネルをつかわず ことばのみでつたえた。権現堂も水のおはなしも幼児には違う意味でむつかしいものがたりである。終わったあと園長先生が「子どもたちは理解していましたね 感じ取っていました。」とおっしゃった。わたしにも子どもたちに伝わったという手ごたえがあった。それは先生方や両親にいとおしまれて成長した子どもたちの力と二年間にわたってはぐくんできた子どもたちとわたしとの信頼関係によるものと思う。わたしのささやかな語り手としての矜持にかけてわたしは一度としてうけようとする語りはしたことがない。子どもであろうとなかろうとつねに真摯に対峙はしてきた それを子どもたちが受け止めてくれたのだと思う。おはなし会のあと駆け寄ってくる子どもたちを抱きしめ握手しながらわたしはこの子らのゆく旅になにがあってものりこえてゆけるようにと・・と胸が熱くなった。

  あしたのために・・をつづりながら語り手として自分がどのように歩いていきたいか考えてきた。・・・わたしはいつか一流の語り手になれたら・・と思う。だがプロより一流になるより もっと強く願うのは魂の語り手 魂にひびかせることのできる語り手 幼きの魂にふれ 少年や少女の魂の目覚めにつながる語りのできる語り手である。

  この大それた身の程を知らない願い をかなえるために わたしは邪魔な荷を捨てよう。・・・よけいな自負 こだわり 完璧主義 傲慢 気後れ 怠惰 欲望 執着 頑迷・・・ 言い訳 責任転嫁 誤魔化し あきらめ 複雑さ 考えすぎ 不安定さ 気難しさ よそよそしさ 頭でっかち 決断力のなさ 緊張感 批判 依存 孤独 疑い深さ 嫉妬 怒り 泣き言 失敗を怖れる 他人に左右される 急場しのぎや一時しのぎ の繰り返し・・・

  もっと自然に あたたかく ほがらかに ほんとうの自分にちかづこう 友をさがそう 歌をうたおう・・・

 

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  おなじことの繰り返しだと思った。昨年8月27日に書いたことを思い出してみる。もうやめよう もうこころみて疲れるのはやめようと思う。そして懲りもせずはじめる。その繰り返しだ。語り手はコミュニケーションのプロのはずだが、語り手同士が気持ちをつうじあうことがときにはなんてむつかしいのだろう。わたしのことばが足りないのだ・・・・たぶん。

  でも いい加減懲りていい頃だと思う。しなくてはいけないことは山のようにあるではないか。わたしはわたしの信じる道を行けばいい。なかにはわかってくれる方もいるだろう。たのしいから活動して たのしいから語るのもいい。それぞれの自由である。分別あるおとなとして振る舞い そつなくやり過ごす 本音はテーブルの上では出さない。それが賢い生き方とわかっていてもわたしにはできないのだ。

  組織のなかでものごとを動かしてゆくことをわたしは自分の全責任をかけて家業のなかでやってきた。なんとか全体の意思をまとめたいと思ってもひとのこころが思い通りになるとは限らず ときには不協和音に目を瞑り 豪腕で押し切ることもあった。それは責任を取るのは自分だという自負があったからだ。だが 共通の目的や志があるようで無いところで自分の理想を掲げてみても通用するはずもないのである。役に立ちたいと思うことが裏目にでて 推してくれる方に迷惑を及ぼすこともあるし 痛くない腹を探られることもあり得る。わたしの場所ではないのだった。ひとりでぐるぐる旋回っていただけだ。


  忙しさに紛れて身体の底に澱んでいた苦さがよみがえってくる。ようやくひと段落ついた夕刻 パウエルという店に入った。幾十年振りかのJAZZ喫茶だった。なつかしいサックスとピアノ パーカッション からだを椅子にあづけて音の波に浸る 溜め息とちいさな涙の粒を双の掌に埋める。・・・身体もこころもほどけてゆく。・・・ひんやり身体のそこで凝っていたにごりが溶けてゆくまでわたしを熱くして・・・待って すこし違う・・つるりとしたプラスティックの感触 音は身体の奥底まではとどかない こころの襞に沁み込んでいかない。


  CDはどうも違う・・それはLPが追われCDが席捲するようになって 直感したことだった。レコードプレーヤーの針がまるくなって 一度は針を変えたが わたしは次第に音楽を聴かなくなった。幾時間もジャズ喫茶の固い椅子で目を閉じていて苦にもならなかったのにCDは2枚も聞くと疲れた。それがなぜだったか理解したのはつい最近のことである。CDは二万ヘルツ以上の音を可聴範囲でないという理由でカットしている。しかし耳に聞こえないはずの高周波はじつはひとの奥底にひびいていのちの源にはたらきかけているのだそうだ。

  闇雲に倍音を知りたいと思ったのも直感だったのだが 倍音もまた生命の根源に働きかけるのだという。たくさんの細い糸が縒り合わさったような声になりたいという望みは語り手としてじつに正当だったのである。ゆらぎ 重なり ノイズを伴った声がひとのこころに訴えかけるのだそうだ。・・・そう・・・

  直感はたいてい裏切らない。ひとのように自分の甘えのようには裏切らない。直感を信じて行くのが良いのだろう 遠くひくくどこからか呼ぶ声がする 裡なる針が指し示す方向に向かおう。他者のせいではない。わたしのうちにあるものがそうさせるのだろう。もう一度伝えようとしてみる。「その場所にあなたが会いたいというひとがいないなら それはあなたのいる場所が間違っているのだ」30年前 まだ若かったわたしにそういってくれたのは旧国鉄の浦和駅の助役をなさっている方だった。これから3日間 幼稚園のおはなし会がある。子どもたちとおかあさんと先生と・・・そこは間違いなくわたしのいる場所である。






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  きのう講演会で 宇宙から地球に高次元のエナジーが降り注いでいると聞いた。それをことばにするなら愛・・とか智とかそういうものらしい。ひとは眼に見えるもの 聞こえるもの 感じるもので判断するけれど もっともたいせつなものは眼に見えず 聞こえない。だが どうやら 見えぬもの 聞こえぬものは 少なからず ひとに影響を与えているものらしい。

  たとえば雰囲気はどのように醸し出されてくるのだろう。眼に見えるものがまったく無いとはいえないが 場所の持つ磁場のようなもの ひとの波動のようなものからくるのではないか。音も光ももとは波である。わたしたちは目に見えぬ耳に聞こえぬ響き会う波に日夜 曝されているのではあるまいか。

  だが それと同時にわたしたちは身体を持っている。聴き手に語りかけるときものがたりは身体的にどのように聴き手に作用し認知され聴き手に響き揺さぶるのだろう。アメリカの学者マクリーンによれば人間の脳は三つの階層からできている。

脳幹(ハチュウ類脳)は食欲 自律神経 筋肉コントロールなど本能を司どる
大脳辺縁系(原始ホニュウ類脳)は感情を
大脳新皮質(新ホニュウ類脳) は意識 言語 イメージ を司る。

  大脳新皮質はまだとても薄い。ひとは感情に多くを支配され 感情を司る大脳辺縁系のその奥に生きる力そのものではあるが本能の闇の部分も備わった脳幹がある。語り手は語るとき 聴き手のどこに働きかけるのだろう。LTTAで わたしは感情のレヴェルをとおしたとき 子どもはより学ぶことが容易くなると聞いた。数式や公転自転は覚えにくいがたとえば太陽と月のものがたりを語ったとき 理解されやすくなる。

  哀切なまた他の感情に訴えるものがたりを語ることで感情脳を直撃することはできよう。高周波は脳幹に響く。ともに楽器を打ち鳴らし脳幹に働きかけ 生命力を呼び起こさせる語りもできよう。またイメージを呼び起こさせ ひととしての使命について伝えることもまたできよう。そうしたレヴェルを超えて魂に向かって直接語りかけることもできるかもしれない。聴き手の年齢 環境によってさまざまなアプローチができるのではあるまいか。わたしたち語り手は語り手の持つ力をもっと自覚してよいと思う。そして自分がどのような波動を持っているか...またものがたりをとおして聴き手のどこに働きかけようとしているか 省みるのも無駄ではあるまいと思うのだ。


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  昨夜(13日) 埼芸の芝居を観た。埼芸の演出家である川村さんとは久喜座で芝居をしたとき出会い 幾度か話をさせていただく機会があった。打ち上げで「どこでもいいから芝居を続けなさい」とわたしにとっては身に余ることばをいただき、しかし夫が倒れたことから 役をいただいたときには日常生活とかけ離れた感覚を持ち続けなくてはならず 現実においても時間の多くを捧げなくてはならない芝居をつづけることは到底不可能となり えにしも途切れてしまっていたのだ。

  それが つい先日 ちょうど川村さんとの約束が果たせなくなったことを考えていたそのときにメールがきた。「夏の盛りの蝉のように」という芝居を上尾でするから・・というたよりだった。観たらつらいだろうと思いながら行かないわけには行かなかった。作 吉永仁郎 「夏の盛りの蝉のように」は巨星葛飾北斎のめぐりのひとびとのものがたりである。・・天才はめぐりのひとびとの人生をいやおうなく自分の磁場にまきこんでゆく。登場人物は北斎の娘おえい 歌川国芳 渡辺崋山 北斎の弟子 北馬 そして国芳のモデルであったおきょうという女性の7人。おきょうをのぞき 浮世絵にとり憑かれたひとびとの群像であった。


  いつものようにアマチュアだからという甘えの全くない締まった舞台だった。ことに二幕目には息をつかせないものがあった。「絵は絵だ! ただの絵に過ぎない!」と言ったのは北斎だったのか 崋山だったのか 「・・だが絵はひとびとを社会をほんのすこし揺るがすことができるのだ」 この台詞にわたしは胸を突かれた。たぶんこの戯曲を書いた作者も「絵」を「芝居」の置き換えて書かれたのではなかろうか。わたしは語り手だから ・・語りは語りに過ぎない・・・それでいい・・・それでもと思う。「語り」はひとのこころに響く。多くの語り手たちがもっと多くのひとびとの心に響かせることができるなら・・・社会にむかって世界に向かってうねる波 とよもす響きとなって 重なり合い 流れを変えてゆく一助になるのではなかろうか?

  芝居でも歌でも語りでもアートというものはそうした力を持っているのではなかろうか。


  友人から一冊の本を贈られた。それはマーガレット・リード・マクドナルドさんが書かれ 語り手たちの会の末吉正子さんが訳したストーリーテリング入門という本である。マーガレットさんは民族学博士でありまた長年図書館司書をつとめられた。子どもたちを愛しストーリーテリングの松明を引き継ぐひとたちのために書かれたこの本は、語りを包括的にとらえた入門書であり、初心者に踏み出す勇気を まだあるきはじめたばかりの語り手に自信をあたえ 中堅に自分の語りを見直すきっかけとなる好著と思う。お話編には魅力的なものがたりがならび 一方多くの索引からより深く学びたいひとへのしるべともなるだろう。

  わたしがもっとも共感するのは第十二章、「語り手としての役割を受け入れる」である。その1「おはなしを聞いている」段階からはじまってその4をマクドナルドさんはこう定義する。「おはなし(ものがたり)はそのひとの信念を反映し、ひとの経験や価値観をあらわしていることに気づく」・・・わたし自身もその過程を経てきた、そして今読んでいらっしゃるあなたが語り手であるなら 良い耳を持った聴き手であるならおなじように思われるだろう。それを知ったとき語り手はより強く「語り手になりたい」と願うのだ。自分を磨きつづけなくてはならない長い旅のはじまりである。 

  そして第十六章でマクドナルドさんは・・おそらく一番重要なことは、お話(ものがたり)はわたしたちの絆をつくり、傷を癒してくれることではないでしょうかと語りかけ 全米ストーリーテリング保存育成協会の会長レックス・エリスさんが述べたことばを紹介している。「」わたしはストーリーテリングの力こそが、わたしたちが住むこの社会と愛するひとびとを向上させるための、最高の希望の種ではないかと、こころから信じております・・後略。



  語りは語りに過ぎないかもしれない。だが 志ある語り手がひとりまたひとりふえてゆくなら わたしたちの住む社会を わたしたちが住む地球をよりよいものにかえてゆく力となるとわたしは信じたい。

  


  

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  運営委員会の終わり近く片岡先生からお借りした「火を食う者」は美しいものがたりだった。血の味がした。青く滲んだ空が見えた。波打ち際で冷たい白い泡が足にたわむれるのを感じた。 ひさしぶりに心臓が痛くなるような本を読んだ。息吹のない活字でさえ こころを強く掴んで遠く彼方へ連れていくことができる....ものがたりのむこうに淡い けれどもはっきりした少女のわたしの輪郭が見える。世界が残酷で血みどろで猶きらきらしかった不安と予感に満ちていたあの頃が甦る。

  声、とよもす声に乗せてこそ呪力あることたまとなるのではなかったか。だが祭りでも そんな震えるようなものがたりは聞かれなかったのだ。 みなそれぞれにきれいなたのしい語りではあったけれどかそこそとして みずみずしくも痛くもなかったのだ。そのなかで夜ひっそり暗闇のロビーで聞いた月見草のものがたり、神馬のものがたりは美しかったが わたしの胸をいちばん熱くし 今も胸に木霊すのはどこのだれとも覚えていないが砂糖黍王のものがたりだった。生きて死んだそのひとを敬愛してやまない語り手が語るものがたりは上手いとはほど遠く拙くさえあったが わたしは南洋の真っ青な空と白い雲を見た からり熱風が吹き過ぎるのを感じた。それは語るひと胸の底からほとばしることばであったから唯一無二のことばであったから・・・

  圧倒的な数の民話の語り手たちのなかでセミナーで学んだあたらしい語り手たちは必ずしも自分たちの地歩を固めていたわけではない。 どちらかといえば伏し目がちだったような気がする。わたしたちにはもっとパワーが必要だった。鉄壁の後ろ盾が理論が実績がそして自信が必要だった。語り手たちの会のこよない宝である片岡先生と櫻井先生のそれはまだ頼りない次代への贈り物なのだろう。


  あたらしい語りの学会が設立されるだろう...という朗報を聞いたとき 思わず涙ぐんだのは朝(あした)の海に漕ぎ出す船の幻影を見たからかもしれない。借り物でないわたしたち自身のことばで語る語り 今生きている 呼吸している昔話や神話 地の上に束の間輝いて散るひとびとのあらたな神話・ライフストーリー また都市の闇にひそむものがたり さまざまなものがたりがもっと堂々と語られるようになるだろう 語りの地平はもっとひろがる 豊かになる わたしたちの生命とより有機的に結びつくものとなる。・・・夢はかなえられた時 幾らかわたしたちを裏切らずにはおかない・・・ だが今はまだ夢みていよう。 暁の海を白い船が走るのを 藍色の中空に燦然と金色の盾が輝くのを額を掌にあづけて夢みていよう。

 

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   まだはっきりしないが 語り手たちの会で「プロの語り手」を養成してゆこうという企画があるらしい。そこで プロとはなにか考えてみた。最初に思いつくのは職業として語り手をしているかどうか、生業としてお金を稼いでいるのがプロなのかということである。

   だが お金を稼ぐだけなら今日スーパーのレジをはじめた人でもプロなのだ。あのひとはプロだ・・ということばには賞賛の響きがある。プロということばにはお金を稼ぐことのほかに一流という意味もこめられている。語り手たちの会がめざすプロがどういう基準で成り立つものかまだわからないが、わたしが思い描くプロ(一流)の語り手の要件を述べてみる。

1 いつどんなときでも レベルの高い語りができる
2 ひとつのジャンルにとどまらず 要求された語りができる
3 自分のスタイルを持っている
4 自分の納得のいく語りをして なおひとりよがりでなく聴き手の心の要求に応え得る語りができる
5 自分のなかになぜ語るか 語りとはなにかという命題をもち 目指すものに向かう努力を継続し続ける語り手である。
6 聞く人の心を揺り動かす 感動させる語り手である
7 聞き手を驚かせる(進化をつづける)語り手である。 
8 語りの世界とは無縁のごく一般の人をものがたりで魅了する力を持ち、お金を払ってでも聞きたいと思わせられる語り手である

  こうして挙げてみると1から5までは語りを仕事に置き換えればどんな職業にもあてはまりそうである。プロというのはいつでもどのような状況であっても質のいい仕事をお金を払ってくれるひとに提供し続けられる技量と精神を保ち 自分の中に核を持ち進化をつづけ そのうえ仕事振りに感動さえおこさせるひと、語りでいえば孤高の精神と聴き手に寄り添う心のふたつをあわせ持つひとなのだ。

  さてわたしはどうかといえば 出来不出来があるし 聴き手のことより自分の成就をさきに考えるところもあるし いくらかでも得心がいくのは7つのうち 3と6しかない。6年語って 語りについて考えつづけてきても まだ入り口にさしかかったばかりなのだ。以上の項目は身体と心と感覚の基礎をすでにカバーしているという前提で挙げられている。すなわち 発声 知識 再話の力 ものがたりをつくる力 冷たいものを冷たいと聴き手に感じさせることのできる力 などは語り手としての基本と考えてもよいと思う。わたしにしてもその基本さえまだまだである。

  昨日 覚醒した語り手について書いたが 覚醒した語り手たらんと精進をつづければいしか 一流の語り手の要件を満たしてゆくのではないだろうか。少なくとも今年は基本を固めよう。そしてとくに1と4に留意しよう。20年、30年語りつづけている方々がいる。わたしも語りつづけ いつかは一流の語り手になろう。



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   最初に このブログに書かれたことはわたしの現在思い考え感じていることであって だれに押し付けるつもりもないということをもう一度確認しておきたいと思います。一時ブログから離れたのは 書かれたことのうち一部だけが無責任な伝聞などによって一人歩きし ネットに関わらない暮らしをしていらして実際にホームページやこのブログを開けたことも見たこともない方たちにある部分のみが伝わってしまったこと、そしてそのために誤解が生じいささか困ったことが起きたことが原因でした。それは予期されたことでしたが 思ったより深い衝撃でした。もうひとつの理由は一方通行でなくもっと参加していただきともに考えていきたいという願いからでした。そのためにわたしは見える方の足跡がはっきり残り、ブログより参加する事が容易なミクシィに主たる活動の場所を移したのです。(ミクシィでしてきたことがどのような実となり果を生じたかはもうすこしあとで考えてみたいと思います。)

  ずっと続けてご覧くださっている方は最初から変わらないいくつかのテーマがあって本質的なものは変わらず螺旋を描くように底へ降りていったこと わたしなりの新しい発見があり 変化してきたこともあることをご理解くださっていることと思います。わたしにとってこの場は自分の想いを研ぎ澄ます場であり蝋燭の火を継ぎ足す場であり 祈りの場でもあります。不確かな更新にも関わらず夜ごと訪れてくださる方々のためにもこの場所をたいせつにしたいのです。とても大きな力をいただいていることに心から感謝申し上げます。



  覚醒した語り手とはどのような語り手だろうか。何者からかはわからねど語り手として託されたものがあると自覚している語り手であろう。なにもむつかしいことではなく ひととひとの心をつなぎ 先人から伝えられたものがたりに自分の息吹をのせてつぎのひとたちに伝えつないでゆこうとする語り手であろう 美しいもの 大切なもの 目に見えないがたしかにある世界を伝えようとする語り手であろう ただものがたりを口述するのでなくものがたりの芯にあるメッセージを感知できる語り手であろう。

  そしてもう一歩進めて 自分のステータスや満足感や癒しのためでなくもっと大きな目的のために語る語り手であろう。語り手は語ることによって癒される。一言一句なぞっている語り手であろうと ものがたりの作り手である語り手であろうと 伝承の語り手 再話者であろうと語るたびに薄皮をはぐように癒される。もしそうでないとしたらその語り手はこころを通して語っていないことになりはしないか・・・そして癒されるからこそ語り手は語りをつづけるのだ。ひとは無意識のうちに足らざるものを埋めようとする 傷を治そうとする。その手段は読書であったり ファッションであったりスポーツであったり小説を書くことであったりさまざまであるけれど わたしたち語り手 ストーリーテラーにとっては語ることなのである。ひとによって成就した恋の話ばかり語ったり 捨てられた子どもの話を多く語ったり 親に復讐するものがたりを語ったりするのは 聴き手から受け止めてもらうことで無意識的にセルフカウンセリングをしているのではないかとわたしは類推する。

  しかし 覚醒した語り手は自分自身のトラウマから徐々にでも自由になっていなければならないと思う。鍛えられた鋼のように強く 鏡のように清明でありたいと思う。そうでなければ大きな役目は果たせまい。まず自分自身を知ることである。どのような痛みを持っているか どのような憧れを持っているか 自分の歴史としっかり向かい合って 自分のこころの癖 身体の癖 感覚の癖を知ることであろう。癖を知ることは自分から自由になることでもあろう。

  覚醒した語り手をめざすために わたしはなにをすればよいか。自分だけで自分を知ることはとてもむつかしい。わたし自身を映しだす鏡を持つことである。師の意見 友の意見を聞いてみる そして実践と確認を繰り返す。身体と心と魂をひとつにして語るということは必ずしも身振り手振りをして語るということを意味しない。身体と心と魂はつながっているから どれかひとつを鍛えれば残りのふたつも連動する。

  今まで振り向くことのなかった身体にいくつかの課題を課してみた。そのひとつは呼吸法であったのだが 僅かな期間 10日ほどであったのに声の伸びに息の長さに明確な変化があった。正月 カラオケで歌って驚いたのだ。とびとびであるがエクササイズをしてみて身体を鍛えることで心がブレなくなることもわかった。心は三つのうちでもっともころころ変わるものなので身体が引っ張られてしまうのだ。

  つぎに逃れられない関門はトラウマの解消である。わたしがおとなにむけて語るものがたりはパーソナルストーリーのほかは雪女、芦刈、朱雀門など喪失のものがたりが多かった。ディアドラやケルヴィンの竪琴 みな宿命の恋 ファムファタルの物語である。そして男とおんなの相克のものがたり おとうちゃまのこと エリザベートなど・・・それはまだ埋み火のように赤く燃え残るものがわたしの裡にあるということなのだろうか。その想いを手がかりに今まで語ってきた。意識をなくさなければ我を捨てなければ依り座としての語り手にはなれないのだが まだ昇華しきれていないそのような手がかりは語るうえで必要だろうか。それはまだわたしが人間としても語り手としても未熟ということに過ぎないようにも思うのだが。
たとえ妄執の名残であっても消えてしまえばそのような語りをしたいという想いもまたなくなってしまうのだろうか。それはそれで寂しい気もする。

   語りには天の語りと地の語り 魂振りの語りと魂鎮めの語りがある。わたしはいままで自分を鎮めるために そして語ることかなわぬひとたちの代弁者として魂鎮めの語りを多く語ってきた。だがこれからは自分を解き放ちつつ 徐々に魂振いの語り 生き生きといのちを蘇らせる語りを語ってゆきたいと思う。できるかぎり由緒ただしい資料で先住民族 文字を持たざる民族の神話をとおして理ことわりと則のりを語ってゆきたいと思う。このように自身に課題を与え試みを繰り返してゆくことですこしは変わってゆけるのだろうか。自信はないが先に進むしかない。



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   キース・ジャレットのとても美しいケルンコンサートを聴きながら2007年はじめてのブログを書いている。みなさまは静かな年越しをされただろうか。三が日もあけて 暮らしはいつものリズムを刻み始めた。大きな動きが予測される今年どこに標を置き なにを足がかりに歩いてゆけばよいだろうか。

   ひとは集合体のひとりとしてしか生きてゆくことができない。これは定めである。集合体のひとりとしてすべきことはつなぐことである。まずいのちをつないでゆく 子孫を残してゆく。これは生きとし生けるものすべてに共通な生命のプログラムに組み込まれている法則なのだ。動物たちでさえコミュニケーションをとりあって生きるために共に行動するものもある。

   では ことばを与えられたひとはなにをつなぎなにを伝えどのような結び目をつくってゆくのか ・・・家族と 隣あうひとたちと 縁あるひとたち 遠く海を隔てたひとたちとつないでゆく 愛を 想いを。分かち合って理解しあって行動を起こすよすがとするために・・・。

   そして次世代の年わかいひとたちにつないでゆく手渡してゆく・・・わたしたちが受け継いできた叡智を 愛を 想いを。 駅伝で次の走者に先に走った者たちの想いのこもった襷を手渡しのちのことを委ねるように。種として生存をつづけるために。 より美しいより良いあしたのために。

   地球を受け継いだまま 次世代にゆだねることはもうできない。わたしたちひとという種族の傲慢はたくさんの動植物を滅ぼしてしまった。大気も水も大地も穢してしまった。このままではひとさえも滅びに向かいかねない。ひとはなにかたいせつなものを忘れてしまったのだ。それを思い起こさせるのは語り手の責務であり急務である。幾千年の昔から伝えられたものがたりがある。そのなかに天からのメッセージが潜んでいる。

   しかし 今つないでゆこう 伝えてゆこうとしても家族にすら伝わらないことがある。昔 ひとが天に届くバベルの塔をつくろうとしたとき 身のほど知らずをお怒りになった神は共通のことばをおとりあげになりそれぞれ異なることばを与えられた。そのために意思の疎通がとだえ 塔は崩れ落ちたという。どうように今ことばは昔あったことたまの力を失い同じ日本語を操りながら世代や立場によって伝わり難くなっている。真実はひとつのはずなのに百も千もの真実らしきものがまかり通っているのだ。

   それでもわたしたち語り手はへこたれてはならない。ものがたりに託された「まこと」をつないでゆく伝えてゆく・・・語り手は忘れ去られようとものがたりにひそむなにかが聴き手の胸の奥に沈み ある時ふと浮かび上がればそれでいい。自分のためにのみ語ることをやめた覚醒した語り手は自らを鼓舞し鍛え 語り手として委ねられた使命を自分の場所で果たしてゆくのだ。そうすれば地平線 水平線にほのかな兆しが見えないとも限らないではないか。

   集合体のなかの個の使命を果たしてゆくこと それは己の生をまっとうすることにつながる 力の限りを尽くして 知恵の限りを尽くして 彼方をあるく仲間たちに手をふり微笑みを交わしながら歩いてゆこう。絶望しないで明るく前に まっすぐ前に・・・。



   


   

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