縄文の神について考えていました。仏教伝来以前、それより昔、天津神(アマテラスオオカミの御一統)以前の神、それ以前、日本を治めた国津神よりもっと昔の.....精霊があまねく自然におわした頃のはるかな記憶が、わたしたち日本人の魂の奥底に地底の水脈のごとく今も脈々と流れているように思います。それは日本の縄文時代---狩猟採集文化が世界的にみても例を見ない長いものだったことに起因しているのでしょうか。
「昔話の死と誕生」を読み返して気になったところを、まとめておきます。
1 狩猟採集文化の宇宙像
自然=神 意識と無意識がつながっている、生と死がつながっている、霊的なものと肉体(実存) 自然と人間 見えるものと見えないものがつながっている、円環をなす一元的宇宙像
2 農耕牧畜文化の宇宙像
自然界と人間界が並列している、神々の崩壊 自然は異界となり始祖神は異界の魔となる。→自然神に代わる人格神・キリスト・仏陀の登場によりひとびとは神を得る。生と死 人間と自然 霊と肉体 光と闇が対立する人間中心の二元的宇宙像
3 科学技術文化の宇宙像
自然は物質、素材となる、人間も物質であるという意識を持つが、創造力により神に近い存在と自らを考え、素材としての自然を破壊する。自然の否定 神の否定 霊の否定
4 きたるべき第四の宇宙像
科学技術文化の行き詰まり→霊と肉体(実存)自然と人間の調和 全体性の回復
第四の宇宙像 あたらしい文化の出発に際して 重要な役割を果たすのは狩猟採集の宇宙像ではないか.....松居友さんはこのように語りかけます。....わたしたちは、人間の原点だった狩猟採集文明の宇宙像を吟味し復活させ、さらに農耕牧畜文化と科学技術文化の中で異界に押し込まれたものを回復させ、そのうえにそれらを包括したより大きな宇宙像を生み出し、その宇宙像を基にして、あたらしい文化の創造に着手しなければならない。
もっとも重要な鍵は、昔話をはじめとして実はすべての芸術や哲学や宗教が絶えず語り続けてきたように ”生”と”死”である。
......この本が書かれたのは1988年のことでした。それから20年あまり、たしかにあたらしい息吹は感じます。医療についても近代医学だけでなく、さまざまな代替医療が取り入られるようになりました。一時は科学的でないと排斥されたスピリチュアルなことがオーラの泉などから社会的に市民権を得るようになりました。地球を癒そうという動きが起こりました。
けれども いいことばかりではありません。お金や利権と深く結びついた宗教、科学の衣をまとったカルト的スピリチュアリズムが跋扈しています。本来 地球・自然は”やさしく” ”癒して”あげるものではありませんでした。物質と科学の文明はますます行き詰まり、人類は自らの生き残りのために方向転換をやむなくされたのですが それだけでなく わたしたちの血のなかに潜んでいる太古の畏怖...喜び....二元的な相対立する宇宙観ではなくつながっている包括的な宇宙観が自らを癒しながら 鎖をほどきながら 目覚めようとしている.....と見ることもできます。文明のもとは個々のひとの内省であり、つなぎゆく手であるような気がしています。
とすれば10年前の語りはじめに、語りについて 「ひとの魂の奥底に流れる共通の意識のとびらをたたくこと」 と定義したのは間違ってはおらず わたしもまた原点により深く回帰するときがきたのかな....と気持ちをあたらしくしました。
| Trackback ( 0 )
|