遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



夏姫に薦められていま はやっているという他人鑑定をしてみた。

  自分が夫を尊敬し愛していることを知って うれしかった。他人鑑定の設問と答に問題がないわけではないのだが 他人を鑑定するというより そのことで自分が見えてくるのがおもしろい。200%尊敬しているひとがふたり そのほかにも尊敬する人は多かった。だが ひとをあてにしたり頼ったりする性格ではないようである。見えざる自分のすがたが相当見える。

まだ していない方がいたら 試してみてください。 


こちらは絶対音感鑑定






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   解き放つ 1を書いたのはずいぶん前のことだ。そのあとで「あなたの好きなものがあなた自身を語る」を書いたのだから ずいぶん気になるテーマだったのだろう。

   なぜ 好きなものがそのひとを解く そしてほどく鍵になるか 考えてみたい。このブログでも書いたが わたしは魂の存在と輪廻転生を信じている。なぜかといえば 見 感じ 知ったからだ。それは圧倒的な体験だった。

   ひとがなにを好むかは 遺伝的な器質的なものもあろう。 だが 強く惹かれ あこがれるのはそれがかって知ったもの なつかしいものであり  自分が求めていたものだから あるいはそれがなにものかによって求められているものからではないかとも思う。 音楽であれ ものがたりであれ そうしたものを深く知ろうとすることは 自分の魂 その由来 此処での課題さえ察し 知ることにつながってゆくのではないか...とわたしは感じる。

   そして その黒く見えるほど深い青の底に身を投じ もっと知りたい 自分を なすべきことを と夢見る。





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   A小で 4、5、6年の学年主任の先生 そして校長先生と二学期のおはなし会の打合せをした。出してくださったお菓子が8月に行った高岡のお菓子 江上の月だったので旧友に会ったようにうれしかった。それに 「月」 なぜか ちかごろ離れないことば イメージなのだ。幸先がいい...感じがした。はじめにうかがった1学期のおはなし会についての感想の一部である。

4年 パネルシアターが楽しかった ライフストーリーは心に沁みる。
5年 雪女は圧倒的だった。子どもたちもしばらくしんとしていた。パネルシアターや参加型も聞きたい。
6年 恋のおはなしはよかった。 女子は真剣に聞いているが 男子の一部はまだ子どもなのでギャップがあるようだ。人生の身近なおはなしは子どもたちに糧になる。
 授業を教える立場として こういう風にやればいいのかと参考になった。 ちょっとLTTAではありませんか....(LTTAの目的は先生にさまざまな教え方を身につけてもらうこと)... reiさん やったね♪ 校長先生は全回聞かれたのではないが ほうすけやライフストーリーが心に響いたようだった。

   語り手たちの会の会報と会誌をお渡しして 語りの歴史なども簡単にガイドした。それから ニ学期の日程と内容の打合せ クラスに入ってちいさな場所で語りたいという希望をいれていただき 各クラスならびに学年 都合12回 25分のおはなし会となった。そして 授業内容に合わせて先生方からのご要望をうかがった。「稲むらの火 はどうでしょう」 と水を向けたら 全クラスでしてほしいと即座に決まる。それから 国語の授業にあわせて6年は宮沢賢治 5年は椋鳩十の作品からひとつという希望が出た。内心 稲むらの火とでは全体にちょっと重くなる...と感じたが 課題をいただくのは自分を先に進ませることにもなる。なんとか小さなものをあとひとつ入れることができるかもしれないとお受けした。

   地元の民話や伝説や詩 世界の神話 笑い話 ショートショートなどいれてプログラムを組んでみよう。贈り物を箱につめるような楽しい そのあとはちょっと苦しい 時間になるだろう。先生方は まだ国語にしか結びつけていないようだが 社会の地理や歴史などの授業とも関連を持たせられるだろうと思う。ビウエラが弾けるようになれば 島原の乱について 関連ができる。教科書を読んでみたいと思った。


   帰ってから 先生方におわたしした6.7月のものがたりリストを見て分類してみた。全13話 参加型(コカのカメ ソーディーソ-ディー) 2 パネル (まぁるい まぁるい)1 日本の昔話 3(おんちょろちょろ 手白のさる つつじの娘) 世界の神話(林檎の木) 1 ライフストーリー 2(父の思い出 ふじひらさんのこと)  文学作品 3(雪女 芦刈 ほうすけ)子どもの作文から 1その他 詩 と 手遊び

   テーマによる分類では 冒険 2 環境問題 1 戦争 2 恋 3 その他 5 その他のなかには いじめに関るというか 弱い立場であってもまっすぐ生きるというものがたりが三つある よく見ると戦争や恋のテーマのなかにもあって そうか 弱者に向けたまなざし、共感、代わって語ることが わたしの語りのテーマなのだと窓の景色が移り変わるようにわかった気がした。 澄んだ空に浮かぶ月を見るように自明の しんとした感じがした。ひとは自分の求めるものがたりを語るのだろう。こころの求めるものがたりを。 これからも語ってゆこう。そしてどのようにかわってゆくか しっかり見とどけよう。それはわたしのたどる足跡であり 天に還る階段でもあるのだろう。 


   たしかな絆にしてゆく。手を組む、先生方と。もっと入ってゆく、子どもたちの中に。自分をもっと開く そして かたちにするために 今までのようにいきあたりばったりでなく (状況にあわせてものがたりを択ぶことは大事だが)分析したり 企画したり 補っていったりするのもたいせつだと思った。デイケアも幼稚園も そうである。そこにもうひとつ おとなとともに楽しむ語りの場をつくってゆきたい。


   
   
   夜 連絡会。出来高を 週末、月末に明確にするためには。営業の受注の貢献度の割合のガイドラインの必要性。連絡会のあと各課で会議をひらいたら報告を提出する。 各自の提案 ①積算の順位 営業はHさんに任せっぱなしにしないでどのような状況か 顧客の腹のうちを読み取って連絡する。②コミュニケーションをもっと蜜に。納涼会を9/2に開く。出すべきだが出せなかった手紙を二通投函し、かけるべきだがかけられなかったTELを四本かけ わたしの焦燥はすこしおさまった。




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   書き終えて 達成感とはほど遠い 出がらしみたいな気分だった。そう簡単に切り替えもできず 仕事は午後から行った。末の支払いの振込み予約を済ませる。ガレージの夏みかんほどの大きさのすずめ蜂の巣の駆除に業者さんを呼んだところ あしなが蜂の巣だった。すずめ蜂に刺されるとショックで死ぬこともあるが あしなが蜂なら痛いだけだ。息子たちが自分たちでする というので半信半疑ながら 駆除代を節約することにした。

   業者さんにたずねたところ 下水パイプの高圧洗浄もしているというので それは依頼することにした。 洗面所の排水パイプがつまって 顔を洗うのも 洗濯するのもふじゅうしていたのだ。リフォームするとき 大きなシンクにして 洗髪も洗濯もできるようにしたのだが それがつまる原因にもなったようだ。金沢に行く前から全く使えない状態で なにかに夢中になっていると 生活レベルは明らかに下がる。いまや トイレも階段も電気も点かない。夫の世話も夫に任せ子どもたちと遊ぶ(遊んでもらう?)ことも少なかった。さぁ 仕事も家庭も楽しみましょう。

   毎日 脱力と柔軟をするようになって 気づいたのだが 夜の就寝も脱力から入ると 目覚めが爽快のようである。夕べはPC作業に疲れてそのまま眠ったせいか 眠りながら リラックスしていない自分がわかる。右半身が椅子の存在を感じて固くなっている。それと 30回とはいわなくても出来るだけ噛むようにしている。

   おとといの24時間テレビ 恒例の100キロマラソンを走ったのはアンガールズの山根さんと田中さんだったが そのふたりを見て考えたのである。一週間前 隠し撮りされた彼らの食事風景がなんの番組かテレビに映った。山根さんは30回近く咀嚼していたが 田中さんはろくろく噛まずに飲み込んでいた。それを見た医師?が マラソンを走ったら 田中さんはすぐ山根さんと差がついてしまうだろう と予言したのが ズバリ的中したのを見て これはやらなくてはと決心したのである。....そういえば引退したサッカーのヒデさんも 野球のイチローさんも同じ歯医者にかかっていると聞いた。アスリートにとってもかみ合わせとか 噛むとかいうのは重要なことらしい。

   話は元に戻るが アンガールズのふたりはマラソンはともかく パフォーマーとしては 番組史上最悪だった。あの番組ではマラソンでの涙のゴールがいはばものがたりのクライマックスであり 総括であり 大団円なのだが 熱血司会者徳光さんが いくら叫べど その声は空しく響いた。というのも 山根さんと田中さんのあいだに冷たい空気が流れているのをカメラははっきり捉えていたし 山根さんは相方には目もくれず しきりに腕時計を気にし スタッフとどうやら会場に入る時間の打ち合わせもしていたし ふたりでともにするゴールが目標と売りだったはずなのに 息も絶え絶えだったはずの田中さんは山根くんを置いてさっさとひとりでゴールしてしまった。 舞台裏が透いて見えてしまったわけだ。ふたりのコメントがそれに拍車をかけた。見えてしまった それはそれでおもしろかったが 芸人は自分に期待された仕事を理解してきっちり果たすべきである。日本のテレビ局はジャニーズ事務所と吉本興業に頼りすぎている。

   今日は10時に学校で先生方とおはなし会の打ち合わせがある。提案する。オファーをする。解かったことを実践する。わくわくする。

Tさん TELありがとう TEL番号聞いておけばよかった....とあとで思いました。






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   拙文を終わりまで読んでくださったみなさま ほんとうにありがとうございました。なにか 心に残ったものがあるでしょうか。それが たとえ反論であったとしても 語り(ストーリーテリング)を考える一石になればうれしく思います。

   虫の音が聞こえる。暑さも峠を越えて 秋の気配が待ち遠しい。 あぁ終った この1ヶ月の思考と試行の結果のつつましい成果。 アントニオさんの会でMさんから「ブログ見ています。エキサイティングですね 全部書いているのですか」と問われた。 どこが エキサイティングなのかな? 書こうとしても全部は書けない。遠慮はしなくなったけれど。書くとは 語るよりたいへんである。

   応援のメールやコメントをほんとうにありがとう!! すこしでも役立てれば幸せです。あしたから日常に還る。仕事 決算 人と会い 人を育て 人と力をあわせる。そうして なにがあっても 歩いてゆく。なぜ 語るか ほんとうはひとことで足りる。「永遠」に触れる一瞬があるからだ。....語っているとき それは 賜物のように降ってくる  今回 書いたのは そうした状態にちかづくために 語り手として自分はなにができるか の推論といってもいいかもしれない。


   Tさん TELください 名簿がなくなってしまったの。コルチャック先生
9月に演るって知っていましたか? Jさん Kさん Yさん Rさん Nさん ありがとう。 研究セミナーのなかまたち 元気ですか!? 3月に会おうね。 セミ21のみなさん みなさんの語りはわたしに希望をくれました。期待しています。それぞれの地で語りつづけているみなさん いつかみなさんの語りを聞かせてください。新しい語り手たち 待っています、待っています。



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    なにから書いたらいいだろう。語りについて突発的発作のように今回の記事を書くに至った由来.....わたしは悩んでいた。いくつかのことが頭を去らなかった。会のHPを管理するだけでなく 立ち上げることになって ベリットさんのおはなし会もきっかけであったが 語りとはなにか改めてつきつめてみたい その足がかりがなければ前に進みがたいという思いが強くなった。それで やむにやまれず LTTAやRADAに参加してみた。 考えた。 櫻井美紀さんが会報に書いたことの意味がはじめてことばだけでなく身体でわかったのである。 いままでおぼろげに感じていた語りについてのさまざまなことが身体でも解かり始めた。 そして書いているうちに語り(ストーリーテリング)の未来への展望とそこに続く道が パノラマのように俯瞰してかつ全体的に見えてきた(ように思う)。



    ベン・ハガーティさんの論文について書いたことを取り上げていただいたことが拍車をかけた。自由な立場でものが言えるうちに書いてしまおうと ばたばたの1週間がはじまった。とりあえず長い旅のふたつ目の一里塚といったところである。

    伝えるということはむつかしい。ブログで書いたことがたとえば 本から覚えた語りを全否定された...というように伝わってしまう。また批評だけしていると思われてしまう。わたしは一字一句覚える語りがいけないとは言っていない。そのような語りはわたしのレパートリーのなかにもある。ただ ストーリーテリングはしぐさをしてはいけないとか民話はいけないとか そういう禁止をするのであれば 他の方法もあるということ、世界と日本に太古から伝わるストーリーテリングの歴史と世界の語りの実情を知らせたうえにしてほしいと東京子ども図書館や図書館のストーリーテリングの講座の指導者にお願いしたいのだ。

    語り(ストーリーテリング)の世界が どれほど深く広く 魅惑とサプライズと感動に満ちているか知ってほしいのだ。ひとりの人間の世界観はじつはその目線の巾によるのである。あなたが世界はこうだ 語りはこうだと思い、感じていることが あなたの世界や語りの大きさになる。万一あなたが語り(ストーリーテリング)を読書教育と考えるなら それだけのものは あなたの手に還る。仲間と楽しむのが目的であれば それをあなたは受け取るだろう。...しかしもっと首をあげ 目を瞠れば もっと広大な景色が目に映り もっと深い喜びがあなたの内から湧き上がるだろう。もうご存知かも知れないが もっと腕を拡げてみませんか?


    多様な語り手が多様な語りをめざしている、それが語り手たちの会である。語り手たちの会は都市で地方で語り本来のちいさな場所をまもり 実際に語りつづけている語り手 もしくは読み聞かせの方々と 語りについて希望を抱いている方々(たぶん)のゆるやかな集まりである。(そのビジョンは目的はどれだけ会員に浸透しているだろう)そしてそれだけでなく世界の語り手と連携し、民俗学会とも また教育界などとも 連携しまたはその可能性を有する団体である。その可能性を失ってはならない。語り手たちの会には良心がある。 聳える二本の柱がある。けれども上る階段がない。階段とまでいかなくとも梯子をかけられたら みんなの手で たくさんの手で。考えることによって 語ることによって つなぐことによって。
 

    わたしは語り手である。幼稚園や学校だけでなく HPやブログでも語りについて 生きることについてつれづれに考えたこと 感じたこと 伝えたいことを語りつづけてきた。語ることの芯には語るひとの人生がある。語りと生は綯われた縄のようなものである。だからいい語り、ひとの心に響く語りをするには 一生懸命生きることがいちばんの近道なのだ。幾度もいうがスキルではない、上手い下手ではない。ちいさな場所でつづけること。

    今までブログに書いてきたことを私自身が語り手としてすべて身につけているかというとそうではない。それはほんものの語り手になりたいという夢への地図のようなものである。 これからはその地図をたどりながら語ってゆく 語りながら修正し体系化し 自分の語り手としての成熟を目線に置きながら 語りを拡げるため 初心者でもすぐ語れるような方法を考えてゆこうとと思う。ゆっくり ゆっくり 待ちながら 生活のなかで。 

    ブログはこのまま残して続けるが 語りについてまたその実践のようすは9月になったらぼつぼつミクシィに移動しようと思う。語りはいいものだ 温めあって 清めあえる、 いのちとともにあって いのちを磨いてゆける....ともに語りについて考えていきたい方 ともかく覗いてみようと思う方はどうぞ おいでください。







     ">
  
    櫻の会第三回おはなし会(タイトル未定)のあらましが決まりましたので
ご連絡します。

   日時  平成18年12月3日 (日)
    
       午後6時30分 開演

   場所  名曲喫茶ミニヨン(荻窪駅南口徒歩3分)
  
   チケット1500円(香り高いコーヒーとクッキー)

   定員  45名

   参加  自由(申し訳ありませんがお子さまはご遠慮ください)

   語り手 櫻井美紀 野田とし子 高橋裕美 森 洋子

   プログラム  「序  章」  他

   お申し込みは各語り手か 下記アドレスまでお願いします。



   luca401@mail.goo.ne.jp




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   きのう清澄白河というさやけき名の駅に降りた。アントニオ・ホーシャさんのおはなし会とワークショップに参加するためである。わたしの住む久喜に 田園都市線が乗り入れたので中央林間まで一直線 清澄白河まで乗り換えなしで行くはずだったが そうは行かなかった。いつものようにちょっとした間違いが あったのだ。この沿線には ほかにも曳舟とか堀切 業平橋 東向島など粋な名前の駅が多い。地名はそのまま伝説を含んでいる。地霊が宿っているといってもいいだろう。最近は合併などで由緒のある地名が無くなってしまうことが多いが残念なことである。地名といっしょに幾百年という歴史 ものがたりも消えてしまうような気がする。

   さて、アントニオさんは長い腕 長い脚 しなやかな鍛えられた長躯と大きな印象的な目の持ち主だった。目力(めぢから)というのか 目に並々ならぬ輝きがあった。ねずみの嫁入りのほかパントマイムを取り入れたいくつかのおはなしとパントマイムをふたつされた。鍛錬された肉体の動きは美しく 見る者にとっても喜びである

   純粋なパントマイムのほうは掛け値なしに楽しめた。少年が補虫網でちょうちょをつかまえて小躍りするが、ちょうちょが弱ってしまったので 逃がしてやるというマイムは 自分や弟の幼年時代とも重なって 鮮明なイメージとしてそこにあった。また風船をふくらますパントマイムでの 「風船は潮時を知っていて もう(膨らませなくて)いいよと伝えるが 人間のもっと もっとという欲望もそのようにコントロールができれば....」というメッセージにアントニオさんのひととなりを感じ共鳴した。アントニオさんのがというのではないのだが パントマイムを見ながら 英語で語られるおはなしを理解しようとするため おはなしには充分には浸りきれなかった。英語がもうすこしわかればなぁと残念だった。さまざまな考えがあり希望があり語り手自身の立場もあるだろうが わたしとしては ほどよい合間合い間に通訳が入ったほうがわかりやすいように思った。また、マイムと声があまりにリアルで具体的なためくっきりとはするが そのために聞き手のイメージが限定されてしまうような気がした。絵本や紙芝居の読み聞かせにすこし通じるように思う。ビジュアルな芸術と複合しているためイメージは強くなるが方向性が固まり 無から限りないイメージを生み出すことばのちからの果たす役割は落ちることになる。また 語りでいえば地の文が少なく演じる部分が拡大するので 筋を追うかたちになり行間のたゆたいがなくなるため より直截に感じるのだろう。

    しかしながら アントニオさん自身も語られたようにすべてとは言わなくても語り手それぞれがこころのおもむくままに自分の語りに取り入れたなら 日本の語り(ストーリーテリング)はすこし豊かになるだろう。コミュニケーションはことばだけでするものではないからだ。アントニオさんの語りはそれこそ「芸」そのものだった。


ワークショップではまるく輪になっていくつかのパントマイムを実際にしてみる。
①肩の使い方(そびやかす つぼめる その上下)で4通りの人物表現をする。

②ロープを曳く、断崖から下を見るという動作をする。アントニオさんが注意したのはたとえばテーブルに手をつく、そのとき静止のように 一連の動きのあと動作を止めることだった。人間の動きはニュートラルから1の段階 2の段階 3の段階と進む (ニュートラルとは脱力した状態で段階が増すごとに行動的なるというのはたしか山下さんのワークショップにあったと思う)それに付随して 動きの細かいところまで注意を行き届かせ 責任を持つ。たとえばドアを開ける所作をしたとき ドアノブを握り締めたままにはしない。ロープを曳くには身体の求める方向性があるなどの示唆があった。

③パンサーとして歩く、オランウータンとして歩く 動物はそれぞれが固有の動きを持っている。アントニオさんの動きを真似て実演するのだが アントニオさんの動きは無駄ひとつなくダンスのように美しいのに 手足が短く関節が固いわたしの場合は全く別物になってしまうのだった。敏捷なパンサーではなく川から上がるアマゾンの鰐である。オランウータンについては膝が痛いのでパスした。RADAでは虎になって唸ろうがなにをしようがぜんぜん恥ずかしくないのだが 語りのWSでは恥ずかしさがある。

   以上 動作の必然性についてのほかに 語り手は聞き手の前に姿をあらわすときがたいせつであるということ。アイ・コンタクトによる交流(偶然その四で書いたところだった)目線について フォーカスについて 間についてなど示唆があったが それについては 重なるので四でまとめるかあるいは他の機会を待ちたい。今回のワークショップは語り手たちの会の主催であったが 時宜を得たおはなし会でありワークショップであったと思う。最後にねずみの嫁入りでの一枚の布の多様な使い方に目を瞠ったことを付け加えたい。 


その四 語り手への道 の残り UPしました。




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    きのうは[カタリカタリ]のこわいおはなしと楽しいゲームの会だった。参加者は17名だったので 部屋を暗くし ろうそくを真ん中に立て円くなって座り こわいものがたりをつないでいった。そこで語られたおはなしは昔話から「命のろうそく」「子泣き爺」あとは本当にあった物語(ライフストーリーに属するだろうか)と創作であった。聞いていてわたしはいつもよりことばが多い、と感じた。語ってみては すこし語りにくかった。終ったあとで 部屋が暗すぎたね という反省になった。アイ・コンタクトができないために メンバーはことばでカバーしようとしたのだろう。

    アイ・コンタクトとは相手と視線を合わせることで、日常生活ではいい人間関係をつくるための扉である。あいさつ、何かを聞いたり伝えたりする時、目が合ったと感じたタイミングで声をかけると、確実に相手に伝わる。会話の最中でもアイ・コンタクトがあると、ちゃんと聞いてくれていることがわかる。母と子、恋人同士の愛情の確認にもなる。目は口ほどにモノを言いである。スポーツではチームメイトに意思を伝える手段として使われている。またアイ・コンタクトは、面接やプレゼンテーションなどでも重要な要素を占める。説得力が増すのである。心理学の「メラビアンの法則」は会話をしているときに、相手の印象に残るのは身振りや声や、話し方がほとんどを占め、会話の内容はごくわずかだったことを示している。

    つまり コミュニケーションにはことば以前のアイ・コンタクト、微笑み、身振り、声などが大きな位置を占める。ことばがやさしくても 動作などががそれを裏切るとき 相手はそれを感知する。語り(ストーリーテリング)も同様である。語り(ストーリーテリング)は語り手と聞き手の協同作業であると言われるが、ものがたりの旅への案内と舵取りは語り手に任されている。まず関係をつくることであり、このとき語り手(ストーリーテラー)が 聞き手をたいせつに思い そのものがたりを伝えたいとおもっているかということと 聞き手にその思いを充分に伝えられるかは別の問題である。

     
     風さん reiさん 康子さん そして語り(ストーリーテリング)の本質 その可能性について考えてゆきたいひとに顔は見えずともブログをとおして 語っています。あと二回 受け取ってください。今日はアントニオ・ホーシャさんのおはなし会とワークショップがあるので 出かけなくてはなりません。つづきは夜書きます。偶然ですがアントニオさんはことばにあまりたよらない パントマイムのストーリーテラーです。


    では 聞き手にその思いを伝えるにはどうすればよいか。フォーカスを開く 自己開示の巾を広げる。語り手が聞き手の前にあらわれるときまず必要なのは扉を開くことであり アイ・コンタクトや微笑や所作でそれは表されるが じつは聞き手は一瞬にして 語り手がどれだけ拡げ受けとめているか察知しているのだ。ここで 交流がはじまる。

    つぎに ものがたりのなかでは地の文と台詞があるが このとき 語り手はフォーカスを絞る。たとえば 雪女を語るとき雪が降っている場面では雪景色を眼前に見ているし 雪女が「蓑吉...おまえは..」 というとき雪女の心象にフォーカスを絞り 蓑吉のまだ初々しい顔に見入っている。このフォーカスの集中が強いほど 語り手のイメージが強いほど 聞き手はものがたりの世界にはいりこむことができる。語り手(ストーリーテラー)はつなぎ目であるとその三で書いたが そのつなぎ目の4つの働きのひとつが 聞き手のひとりひとりとものがたりをつなぐことである。そしてその上の段階がある。つまり感覚を開きながら集中させる...別のことばで内観と外観の一体化 世阿弥の「後見の見」ともいえるのではないか。

    芝居と語りの違いはどこにあるかといえば 芝居は観客とアイ・コンタクトを交わさないが 語りには不可欠であるということ ことばを換えると芝居はその場 共演者(いる場合) 演じるものおよびその目線にフォーカスするが 語り手は聞き手のひとりひとりに常に開かれ ものがたりの登場人物にそれぞれフォーカスし なおかつその場全体を(自分をも含めて見ている)開かれているということだろうか。

    芝居でも 語りでも共通するのは 演じる役 または台詞のある登場人物の外側の属性、男女 年齢 職業 性格などを声色で真似るのではないことだ。むろん発声の鍛錬により声の巾が自然にひろがるのはよいことだが それが大事なのではない、ひきつけるのではなく 自分の幼児体験、人生経験などからとっかかりをみつけイメージをかさねてゆくだと思う。語り(ストーリーテリング)について言えば技術的なこともなくはないが、語り方の技術、上手い下手は末節のことである。語るひとのからだとこころを通ったものがたりが聞き手の心に響くのだ。



    肝心の語り手(ストーリーテラー)とは...  が抜け落ちたまだだが そのところは今まで書いてきたことから察していただき また別の機会に譲るとしてそろそろまとめてみよう。「語り手(ストーリーテラー)になるためにもっとも必要なことはなにか」とだれか身近で心を許したひとに問われたらわたしは即座に「自分を知ることだ」 と答えると思う。自分の今、自分の隠された望み、自分のくせ、自分の強さ それと同時に弱さをも知ることだと思う。自分を客観的に見、その強さ弱さ 美しさ醜さ などをすべて含めて抱きとめ赦し認めること。そこからひとは開いてゆくように思える。そのあとは方向が間違えていなければ 語ることそのものが人間としての語り手をも鍛えてくれる。

    たとえば 教育にしても医療にしてもまた経済にしても 今 求められつつあるのはホリスティック(丸ごと 全体的) に捉えようとする考え方であるのではないか。病気は単にからだの故障ではない 器質 日々の過ごし方 環境 気持ちのありようと密接に結びついている。 ただ投薬だけでは対応しきれないことに医療の関係者も気づきつつあるようだ。LTTAが教育に目指すものもそうであろうし 経済の分野でもただ作る ただ売るという経済活動ではないものも芽吹きつつあるように思う。

    そのように社会的活動に求められるものが変遷してゆくなかで 語り(ストーリーテリング)が医療や教育や営業などに取り入れられようという動きが 世界で起きているのは意味があることだと思う。本来の語りは 人間の命や営みや本質的なものに深く関わっているからだ。人間は無意識に失われたなにかを取り戻そうとしているのかもしれない。

    語り(ストーリーテリング)そのものが語り手の癒しになり開いてゆくことにつながるのだが その時間を短縮できるプログラムが組めるのではないかとわたしは感じている。いままでの語りのワークショップにおいて 語り方とか テキストとか 語りの歴史とか 分類とか イメージトレーニングとか さまざまなことが試みられてきたが 肝心のことが抜け落ちていたのではないかと思う。それはまだはっきりとしたかたちを持たないが いざなぎいざなみの命が天の沼矛?でこぉろこぉろとかき回されたように 夜なべに今まで学んだことをかき回して感覚をひらき 語り手への道を開くワークショップのプログラムを組み立ててみようと思う。

    もしかしたら 読み聞かせ活動とは一切無縁の新しい世代の語り手(ストーリーテラー)たちが生まれるかもしれないという兆しがある。語り(ストーリーテリング)の元還りのひとつのきっかけになるように祈るような思いで見ている。そしてメールをくださった方々 日本中のかたすみ、ちいさな場所で 喜びを感じながらまた悩みながら語ったり 読み聞かせをしている語り手(ストーリーテラー)のみなさんが自分の語りをめざして歩いていらっしゃるように祈っている。質問とかなにか できることがあれば気軽に声をかけてください。








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    語り手が自ら語るものがたりを選択し語るとき、その選択はそれと知らず その語り手の現在をあらわしている。ひとつには心の求めるもの ふたつには語り手としてのありよう そしてさらに三つ目は語りになにを求めるか。ここでは2と3の選択について述べ且つ提案したいと思う。

    ひと昔前の村社会では文字は読めなくても記憶力に優れたくさんの昔話を語ることのできる語り爺さ、語り婆さがいた。古代の語り部のような存在であり 多くはその村で重きを置かれる家筋の古老である。小沢俊夫氏によれば語りとは村社会で「文芸的もてなし」であった。客人への語り、炉端の夜語りや子どもにむけての語りのほかに、年中行事のハレの場や産室や通夜の席での特別な語りがあった。そのような語りの座は語り手自身にとってもたいへん名誉なことであった。また口承の語り手は昔話の語り手であると同時にそのつくり手であり、再話者であった。語り手の身体と心を通して聞き手に語るたびに昔話はすこしずつ変化し進化していったのである。

    日本における現代の語り手は書承の昔話(本に文字として保存された昔話)や児童書・さまざまな文学のなかからあたかも口承のように語ることが多い。もちろん たとえ覚えて語ったとしても その語りは語り手固有のものである。しかし前にも書いたとおり書承の物語のテキスト自体が必ずしも語りに適しているわけではない。むつかしいことば、まわりくどい説明、余計な副詞、固い訳語 絵本の物語を語る場合は 絵にたよるためにことばが足りない。そこで語り手はまず そのまま語るか語りやすいことばに直すかの選択を迫られる。語り手のなかには 昔話について原話に近いものを探し 現代のことばに再話する方法をとる語り手もいる。 

    二ヶ月前 著作権の問題が気になって 中野区立図書館に問い合わせたところ 作者の創作の絵本・ものがたりはそのままで語ってほしい。 民話などでは語りやすいことばにすこしかえるのはかまわないということだった。今後 語り手は よりはっきりした選択を迫られることになろう。①絵本・本など作者の書いた物語から一字一句そのまま語る。②書承の昔話を最小限直して語る③再話してもまったくかまわないという作者・再話者の書いた物語を再話して語る。④自ら創作したものがたりを語る。その都度 物語によって立場を選ぶこともできる。あるときはそのまま、あるときは再話し あるときは自作のものがたりを語るという今のわたしのように。 

    そのうえに今 語り手の置かれている立場を良い機会と捉え いくつかの方法を提案してみたい。それは本来の語り手への元還り・復興・ルネッサンスである。

① 先入観を棄て 口承で語れないか 試みる。すこし前まで語り手はそうやって語ってきたのだ。できないはずがない。試したところわたしは心に響くものがたりであれば 聞いた物語を語ることができる。おはなし会などのあと すぐに語ってみる。その後 簡単なメモや絵を残しておくとよい。耳で聴いたものがたりは語るたびに自分のものがたりになってゆき そうしたものがたりを語るのは とても心地の良いものである。

② 感覚をひらき 霊感に導かれて語る。

③ 古い昔 、アイヌの口承文学 ユーカラ 沖縄のおもろさうしは歌謡だったという。古事記についても口承のなかから、リフレインなどの歌謡部分を抜き取り、物語部分だけを記述した可能性があるという。語りは歌と分かちがたく 結びついている。浅学ゆえ 古代のことは知らないがヨーロッパの中世における語り手は 楽器を奏で歌を歌いつつ語った。そのように語りを今のありようで復活できないだろうか。


    
    つぎに語り手の第三の選択について述べたい。語りになにを求めるか これはそれぞれの語り手の内側にあって 他者が口を出すものではない。それでは語りの歴史のなかではどうだろうか。語りはあるいは語り手はなにをし なにを求められたか まず祈りがあり 伝えるということがあり 楽しみがそれに次いだのではないか。その後近代になって 語りの伝統そのものの継承 教育とか癒しとかコミュニケーションあるいはアイデンティティの確立 また生きがいなどの目的が派生してきたと思われる。ゆえに それぞれが選択すればよいことではあるが 「新しい道」で書いたことにすこしふれてみたい
    
    ベン・ハガーティーの述べているように炉端の語り手の役目は洋の東西を問わず 神話・伝説・昔話を次世代に伝えてゆくことだった。プロの語り手についてはお金がからんでくるため 客を愉しませようとすることで 語りの質が変わっていったと述べられている。つまり 大きくは次代に伝えることと自らの果をも求めることのふたつに分けられる。当然これもひとつにはくくれない。次世代に伝えることには楽しさも不可欠である。聞き手を愉しませるといっても そこになにがしかの感情の動きやカタルシスも含まれる。

     語り手には、ときには実際の力以上の働きを約束しているある力が賦与されている。 わたしは一抹の怖れを抱いている。 語り手が本来求められている役割を忘れてしまうことによって 、ベン・ハガーティーもふれているようにその不可思議な力までが失われてしまうような気がしてならないのだ。関敬吾は『日本昔話の社会性に関する研究』において昔話は「人間の死と再生」をテーマにしていると述べ テオドル・ザイフェルトは『おとぎ話にみる死と再生――『白雪姫』の深層』でグリム童話の死と再生について述べている。わたしは再生・甦りこそ昔話のキーワードであるように感じている。神話についてはそこにもうひとつ加わるように思うが 実際にこれから世界の神話を語ってみたあとで考察したい。

    語り手はなにかを負託されているのだ という感覚は語り始めからあった。遡れば 古来から語り手は格別の存在であったのだが その格別の…というのはそれだから上だ えらいのだということではない。語り手とはつなぎ目のようなものだ。語る自分がというのではなく そのつなぎ目が聖なるものなのだ。語り手はなにとなにをつなぐのか。今まで読んでくださった方々はそれがわかる方だと思う。たとえ どのような立場で語るにしても わたしはそのことは忘れまいと思う。



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   一昨日 同じ町内に住んでいた22歳の青年の葬儀があった。花に埋もれ青年はすこし蒼ざめ端正な顔で眠っていた。犬を連れて散歩していた少年の頃の面影が眼前に彷彿とした。優しい子だった。野球少年だった。姉がいて両親がいた。わたしが知っているのはそのくらいであるが 近しい家族や友人や親族にはもっとたくさんの共有した時間があり 思い出があるだろう。誕生 はじめてのことば はじめての一歩 幼稚園 入学 卒業 スポーツクラブでのこと 大学 就職...。そして亡くなった青年の胸には あこがれや果たされなかった夢 口にしなかったことばの数々がほのかにたゆとうていたであろう。青年の一生はひとつのものがたりである。生前彼を知っていたひとびとの記憶に刻まれ 暫くのあいだ留まるだろう。

   テーブルの上のグレーのカップにもものがたりはある。 フローリングの床板にさえ どこか遠くの森林で大地と太陽と水の恵みを受けて すくすく育ち やがて時を経て伐採され 海を渡り 加工され 運ばれ 床に貼られ わたしたち家族を支えているというものがたりがある。家族のひとり シーズーのケヴィンにも 花瓶の夏薔薇にも ピアノの上のミュシャのリトグラフにもものがたりがある。およそ生きとし生けるものまたそうでないものにもものがたりがある。

   日本という国にも 武蔵と昔呼ばれた地にも 家の近くの交差点にも 一台のシビックにもものがたりはある。国のものがたりは歴史ともいえるし神話ともいえよう。それぞれの土地には纏わる言い伝えがあろう。ちいさなものがたりは時代の流れにもまれてやがて消えてゆくが 大きなものがたりは悠久のときを超え 語られずともたゆとうごとく続いてゆく。地球にも銀河にもものがたりがある。ものがたりとはそのもののカタチの奥にあるエッセンスでありスピリチュアルなものであり他の者・物とのつながりであり そのものや命が無くなってしまっても時の流れにしばらくは残るのだろう。

   わたしたち ひとりひとりの生も日々刻まれてゆくものがたりである。ものがたりのモノ 見えないモノとは そのものの命であり 本質でもあると 今、わたしは感じている。本のなかにのみものがたりがあるのではない。それは鳥かごの中の鳥のようなもので わたしたちのまわりにわたしたちの中にものがたりはあり羽ばたき 語られるのを待っている。わたしたちがものがたりに心を動かされるのは 命が触れあい 共鳴するからではないかと思う。

大昔 世界の大地のそこここで燃える火を囲んで語られていたのも そのようなものがたりではなかっただろうか。世界の誕生 大地や川の成り立ちにまつわるものがたり 火や森や水の精霊のものがたり ひとが地上におかれた理由 動物や花々のものがたり 神々と英雄のものがたり ひとびとのものがたり。

   時代はうつり 東西の炉端で語られたのも そうしたものがたりが口承や伝播によってより複雑になり隠喩が施されるなどして変遷したものであったろう。このように人間はながいながいあいだものがたりを聞き語ることでたいせつな事をつたえそれが楽しみにもなっていったのだ。はるか昔からの口承の物語、神話、伝説、昔話は私たちのアンダーグラウンドに呼びかけ世界を再構成する力を持っている。 文学は作者の物語であるが 同時にそのアンダーグラウンドから生まれた再話でもあるといえないだろうか。いづれにせよ ひとつの物語がこころに響くとすれば そのもの語りに対応するなにかがあなたの命にあるのだ。

   語り手(ストーリーテラー)はものがたりをかたる時 その物語に篭められた命をも語る。命の奥の死を語る。真を語る。 命と世界の弥栄を祈り 束の間 甦らせることもできよう。






その三 語り手(ストーリーテラー)の選択(仮題)
その四 ストーリーテラーへの道(仮題)
その五 終わりに

以上で今回のステージは終ります。できましたら続けてお読みくださればと思います。



   

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    まず はじめに私が市井の一語り手として語り(ストーリーテリング)を愛し、学び、実践するものの立場からのみ述べていること、いかなる団体とも関わり無く述べていることを明らかにしたい。

    「東京子ども図書館は、1950年代から60年代にかけて東京都内4か所ではじめられた家庭文庫が母体となって生まれた私立の図書館である。1974年に東京都教育委員会から公益法人の認可を受け、現在、児童室、文庫のほかに、研究資料室をもち、講習会の開催や出版など、子どもの本と図書館の質の向上を願って、さまざまな活動を行っている。」 以上は東京子ども図書館のHPでの紹介のあらましである。東京子ども図書館は子どもたちが本を手に親しむよう 図書館が子どもたちにとってより良い場所となるよう半世紀を超えて大きな功績を残した。その講習会のひとつで行われているストーリーテリングについて述べたい。

   「ストーリーテリングは、日本には今から40年程前、アメリカの図書館学を学んで帰国した児童文学の大月ルリ子さん、松岡享子さんらにより紹介された。子どもと本を結ぶ最も有効な手段として、公共図書館や家庭文庫などを中心に各地に普及、定着していった」

    ここでいうスト-リーテリングがストーリーテリングの定義として一般に広がっていったのである。ストーリーテリングは日本中の公共の図書館で親しまれてきた。しかし ここには問題がふたつある。ひとつはモデルにした40年前のアメリカで行われていたストーリーテリングのひとつの方法のみを踏襲したと思われることである。

    数日前書いた「ストーリーテリングとは」と重複するが
○ストーリーテリングとは、読み手が昔話や創作のお話を覚えて、子どもたちの前で語ります。子どもたちは、聞いた物語の世界を自由に想像して楽しむことができます。
○ストーリーテリングとは、昔話や物語を覚えて語ることです。
○ストーリーテリングとは、アメリカの公共図書館で使われていた言葉で、素話のこと
○ストーリーテリングとは、本からお話を覚えて語ることをいいます。
○ストーリーテリングとは、話し手がおはなし(昔話など)の内容を自分のもの にして(覚えて)、本なしで聞き手に語り聞かせることです。
○ストーリーテリングとは、暗くした部屋でロウソクの火をともしながら、語り手がお話を覚えて語ることにより、聞き手の想像力を高めるというものです。まずは物語を一字一句正確に話を覚えなくてはいけません。
以上が図書館の講座の説明、またその講座を受けたひとのことばである。

    ストーリーテリングと英語で表記がされている。しかし現代のアメリカやカナダのストーリーテリングと日本の図書館における、東京子ども図書館の指導しているストーリーテリングとは大きくかけ離れているのが実情である。たとえば一字一句テキストそのままにとかジェスチャーは一切しないとか衣装は…とかそうしたことを言うストーリーテラーはいないであろう。

    わたしはまだ海外の英語圏のストーリーテラーの実際の語り(ストーリーテリング)は四人しか聞いたことがない。しかしそれぞれ表情ゆたかな自然な巧まれざるジェスチャーのおおらかなストーリーテリングだった。なかでもLTTA(ラーニングスルージアート)の講座のために来日したカナダのストーリーテラーでもあるキャシー・ミヤタのストーリーテリングは通訳を通してさえ 魅力と驚きと感動に満ちていた。キャシーは「ガラスのつぼ」という本をもとにした物語を語ったあとこう言った。「この本をさがして覚える必要はありません。あなたの耳や心で受け取ったものがたりを語りなさい。」

    東京子ども図書館またはそこで学んだ講師によるストーリーテリングの講座のもうひとつの問題点はストーリーテリングを「子どもと本を結ぶ最も有効な手段として」のみ位置づけ 日本と世界におけるストーリーテリングの歴史を無視したことである。図書館においての講座で、ある講師からわたしは直接「昔話はストーリーテリングに適しません」ということばを聞いた。日本ではアメリカよりもっともっと昔から、またイギリスなどのヨーロッパ、またアジアの国々とおなじように連綿とつづく長い語りの歴史がある。英語圏ではストーリーテリングといい日本では語りという。

    今まで述べたふたつを総合し且つ敷衍する。ストリーテリング(語り)とはなにか?

  柳田国男は、「かたり」について、夫婦の「かたらい」等かつてはそれが「人のあらゆる共同」を指し示していたと書いている。
  英国のストーリーテラー、ベン・ハガーティーはストーリーテリングのオーソドックスな役割として「昔話、伝説、神話など伝承の物語を語る芸術」と述べている。
  岡田勲氏は物語構造論という芸工大の講義の概要のなかでストーリーテリングをこのように述べている。「ストーリーテリング(物語を語ること)はコミュニケーションです。表現者(画家、小説家、映画監督、歌手、俳優、CGアーティスト、デザイナーなど)はそれぞれの作品を通して、その作品と向き合う鑑賞者と会話を交わしています。私たちが家族や友人、恋人たちと交わす会話すらもすべてストーリーテリングと言われています。あらゆる事象に物語は潜んでいます。」

  わたしは語り(ストーリーテリング)がもっとひろまるように願っている。それは語り(ストーリーテリング)が現代の世で滞り勝ちなひととひととのコミュニケーションを復活させることに ひいては平和と人類の生き残りにつながると信じるからである。語りとは太古祈りであったのだ。


   東京子ども図書館の創始者が今から40年も前にアメリカに渡られストーリーテリングの種を日本中に蒔き広めた功績は大きい。どれだけ多くの子どもたちがおはなしのろうそくに胸をときめかせたことだろう。またそこでストーリーテリングを学んだ講師たちのなかには より深くストリーテリングについて考察し研鑽を積まれた方もいる。ネット上で講座に参加された方々の支持の声を見ると子供の本離れ、人の話を聞く集中力の欠如、そういった現状を打開する特効薬としてなど…さまざまな理由はあるがそれはとりもなおさずストーリーテリングを聴く喜び、語る喜びを知ったからにほかならないであろう。

 
    東京子ども図書館の功績に敬意を表し 今後の活動の実りの多きことを祈らせていただくとともに 拙い筆先であるが以上にのべたことの一端をご理解いただき 今後のストーリーテリングの講義においてつぎのことを考慮していただけたらと願う。東京子ども図書館の影響力の大きさ、公共の図書館でその講座がなされていることを鑑みれば その責任は大きく ストーリーテリングについてごく一部分しか伝えないこと、ストーリーテリングそのものの歴史や真実を伝えないことは軽率の謗りを免れないと思う所以である。

    少なくとも世界と日本の語り(ストーリーテリング)の歴史と世界の語り(ストーリーテリング)の現状を伝えていただくこと 講座で教える「文字をできるだけそのままなど」という方法が必ずしもすべてではなく、絵本や本など創作に限るのだということ そこで教えるストーリーテリングの方法のほかに より伝統的な また新しい世界もあるのだということ これらのことを伝えていただけたら そのうえにタブーをはずしていただけたら 日本のストーリーテリングの地平はもっと広がるであろう。ストーリーテラーのたまごたちはより生き生きと語る可能性を持つことができるだろう。本来のストーリーテリングは本の奥 あるいは本の向こうにある。そしてそれはインプロヴァイゼーションであって生命の火花に似ている。


メールをいただいて気になることがあるので付記する。誤解を生じさせたら申し訳ないと思うからだ。わたしは本をそのまま覚えて語るのもひとつの方法であると思っているし そのような語りもわたしのレパートリーにあって実際に語ってもいる。

 ただ 語り(ストーリーテリング)の世界の歴史と現状を踏まえたうえでの 伝えていただきたいと念ずるのみである。



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   日記、千の昼千の夜 そして遠い森遠い聲と5年にわたって書き記してきたのは、日々の暮らしの悩みや喜び、語りを知ったときの慄きと畏れと深い喜びの検証 どうしたらそこに辿り付けるか 自分の感覚だけが頼りの手探りの記録のようなものである。

   千の昼、千の夜のはじめの頃から その細い道すじをわたしが辿るのを見守ってくださった方々は今も12.3名くらいおいでになるのではないだろうか。夫や子どもたちとの葛藤や仕事の上での格闘、語りに託した揺れ動くこころの軌跡を同じように別の道を歩きながら見詰めてときには励ましてくださる方がいたから 書き続けてこられた。

   それはうねりながら流れてゆく大河ドラマのようなもので 一冊の本のように目次があって本題があって論旨が一目瞭然なものとはおのずから異なる。気弱なわたしが心配するのは ある日突然訪れた方がその日の記事だけをごらんになって 判断されることである。出来る限りオープンに書こうとすると気をつけて書いていても ブレのようなちょっとした砂嵐のようなものはある。

   このごろ おいでくださる方が増えて それはうれしいとともにプレッシャーになる。名もない語り手の個人的な旅が 個人の枠をこえてしまうと そう求められていないにしても書く自由を制御せざるを得ない気分になるのだ。そこで書き手が取る手はというと リスク覚悟の強行突破で突っ走るか おとなになってすこし口を慎むか 撤退してどこかで細々と始めるの三択である。

   ....というわけで考えたのは 変則的な強行突破 二日ないし三日で物議をかもしそうなところ 誤解を生じているのではないかというところを明らかにする。それでドカーンときたら華々しく玉砕する....そんな度胸はないと思うけど。




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   お得意先の方々が河原でバーベキューをしているのでお肉を届けたいという夫を利根川まで送った。群馬県の領域に入った。利根川は満々と水をたたえ 悠然と流れてゆく、向こう岸ははるかに遠い。利根大堰には取水口があり 武蔵水路を通って都民の水道につながっている。取水口をうねりながら流れる水は緑がかった紺色に見える。この水を飲むひともいるのだと複雑な気持ちになる。

   もっと水の清んでいる渡良瀬川から取水しなかったわけは足尾の鉱毒事件の影響があったらしい。だから渡良瀬の水はいたづらに利根川に流れ込んでいるだけなのだ、今の渡良瀬の水質はどうなのだろうか。

   すこし 疲れたのでマクドナルド122号店に入る。10時を過ぎて 店内には何組かの家族連れや二人組みが食べながら談笑している。ふむ、これは休日の朝食....新しい文化ということか....なにとなく薄汚れた雰囲気が漂っている店内から早々に立ち去る。海外で暮らし、たまさか帰るひとから 帰るたび日本が汚くなってゆくように見える...と聞いたことがある。

   それは 外側が汚れたのではないのだろう。日本人の内側が徐々に変質してきたのだろう。水や大気が濁ってゆくのも 日本だけでなく世界中で同じようなことが起きているからではないだろうか。もう元には戻せないのだろうか。”真実の声”の仲介者である語り手(ストーリーテラー)はなにかできることがあるだろうか。




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   わしこさんのブログによれば ベン・ハガーティが1995年に書いた 「批評の声を捜しなさい」という評論の訳が「語りの世界」に掲載されるらしい。この項についてはきのうも(歌う、少し叫ぶ)書いたが、まだ見ていない方、「語りの世界」を待ちきれない方は、櫻井先生のHPわしこさんのブログを御覧ください。要約があります。   

   英国において 1980年代に伝統の語りの復興活動が行われ ベン・ハガーティーはその運動に深く関わっていたらしい。

①語り手とは口承で伝わってきた神話・伝説・昔話を口承で次世代につないでゆく。
②語りは聞き手に、語られるたびに、変化し進化してゆく。
③語り手には炉辺の語り手とプロの語り手がいる。
このあたりは日本とほぼ同じである。
①語りにはメッセージがある。
②語りは真実の声である。
③語り手は霊感に導かれることがある。
④語りはジャズ(インプロバイぜーション)である。
これらはわたしが語りについて感じてきたことと一致する。

    イギリスでは炉辺の語り手とプロの語り手の垣根がはずれてしまったように見えるそうだ。日本でも地方の炉辺の語り手が生業とまではいかないまでも 観光客に向けての副業にしてゆく状況はあるのではないか。 本来語られるたびに変化するはずの語りが 活字をもとにしたコピーの繰り返しに堕してしまったことは日本だけの現象なのだろうか。そうしたことから 語りのかっての不思議な力は弱まってしまった。

    ベン・ハガーティーが考える炉辺の語り手 プロの語り手 (炉辺の語り手の変化によるプロの語り手を含む)のほかに わたしは第三、第四のあたらしい道があるような気がしてならない。そのひとつは語りをひとつのスキルとして 教育現場、医療の現場 高齢者介護の現場に持ち込むこと。またLTTAが日本の教育に組み込まれるようになれば それも大きなチャンスである。ストーリーテリングは大きな力を持つ。....だからすでに教育現場や医療の現場などにいるひとが語りを学ぶことにはとても深い意味があるのだ。

    しかし、日本には そうした語り手を育てる機関がない、カルチャーの講座やワークショップなどで腕を磨くしかない。アート・セラピーも同様で たとえば、アメリカにおいて7年以上大学などで修練を積まなければならない過程が 時間的にも短いWSなどで習得される。確固とした資格もない。このような状況のなかで 新しい語り手たちはなにを どう学んでいくのか。

    ベンのいうように演劇的な手法を学ぶことは無駄ではなくそこには多くの示唆がある。読み聞かせよりは歌や演劇のほうが語りには近い...ひとつにはインプロヴァイぜーションに近いからであろうし文字の縛りが希薄だからもあるだろう。だが 概ね賛成はするものの全面的に賛成はしない。演劇的な訓練は一歩間違え生半可に自分のものにすると とんでもないものになってしまうからだ。日本の演劇の指導者がかならずしも語りの本質を知っているわけではない。近いといえども 演劇でのモノローグやひとり芝居と語り(ストーリーテリング)は似て非なるものである。

    ジャンルについていえば さまざまなチャレンジが可能である。なかでもパーソナルストーリーは小学校でもデイケアでも聞き手の心に響くようだ。語り手として手ごたえを感じるジャンルである、それぞれの人生はいはば伝説のようなものだし 聴き手は昔話よりもっと深く自分の生とかさね合わせられるのだろう。その他にも歴史と伝説のドッキングとか さまざまな試みが可能である。

     たいせつなことは 語りがこういうものだという先入観を棄て 自分はこうなんだという限定した考えを棄て 自由になることである。そして新しい道を手探りし、仲間とともに模索し続けること。語りの真髄とはなにか 絶えず自分に問いかけることをしながら歩みを進めれば迷路に入ることはないだろう。わたしも問いかけ模索し続けるひとりでありたい。




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   午後 交通災害 現場災害を防ぐ目的で開催される安全大会があった。会社としては最大の行事のひとつである。もっとも今回は社内だけで出入りの業者は呼ばなかった。そこで事故を想定したディスカッションの場でLTTAの手法を活用してみた。

   まず ゲームをいくつかしてみる。演劇や語りの方々とくらべると やはり固い。アイコンタクトをとることにも恥じらいがある。そういえばこれだけ男ばかりというのもはじめてだ。ボールをいくつか使ってみる。コミュニケーションをとりあうゲームのあとで 色紙をつかって4人のグループに分ける。グループで15分ほど事故を想定したディスカッションのあと 画用紙にさまざまな画材で各自絵にしてもらう。これも15分くらい...最後に4枚の絵をつなげてストーリーをつくってもらいグループ発表をしてもらう。今回はLTTAの5つのアートのうち ビジュアルアートとストーリーテリングをつかったことになる。

   絵やストーリーについて評価はしなかったが ゲームや作業のあいだに さまざまなことが浮かびあがってくるのだった。来週のカタリカタリのこわいおはなし会のあと いくつかゲームをしてみようと思う。

    

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