遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



   そぼ降る雨が舗道を濡らしています。わたしは雨に閉じ込められて....いいえ今ちょっと閉じこもり...どこにも行きたくない病に罹って息たえだえ..です。今 熱い皇帝茶と香ばしいさつま芋のお菓子が届きました。料理の上手な娘たちと暮らすのってほんとにしあわせです。

   なにもしないわけじゃありません....ラプンツェルの再話をテキストにした....ハッピーストーリーっていいですね。それから”たまゆらの記”の歌詞をつくりました。ひらめいたタイトルでしたがなぜたまゆらかよくよくわかりました。つかのま、煌き消えてゆく人も、戀も...だからこそ....というテーマにしたい。.....そこでただの”女”でもつまらないし、渚...というのも昔のスナックの名前みたいでなんでしょう? 長谷の卿の運命のお相手は”たまゆら”と名付けました。ものがたりは今晩考えよう....そして語ってみようと思います。

   TELをかけてきた友人が世話物を語りたいというので資料をあつめています。「あなたのイメージは豪奢・・・スケールの大きい...ヨーロッパの王宮もの」といわれて「へー...豪奢に見える...あなたはわたしの実体を知らない、わたしだって世話物すきだしーー」と言いました。でも早く生まれすぎた、自分にもひとにも求めすぎたエリザヴェートのものがたりは語りたいですね。ハプスブルグ家の栄光と終焉、夫婦と親子の問題を搦めて...これは大作になる。

   古事記と伊勢物語の勉強もつづけていてます。間口から言ったらこんな間口の広ーーいなんでも語る欲の深い語り手はそうはいないかも。こんにゃく問答もコカノカメもママだぁいすきも語ります。....けれど分岐点が近づいています。春はそういう季節なのでしょうね。そしてどんなものにもどんなことにもいつかは終わりがきます。....まさにたまゆら。

 どんなに寒くったって春はまぢかにきていますよ もうすこしの辛抱。


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 お城といえばダンルース城 タイトルとは関係ありませんが、一度行きたいお城です。



    娘が取り寄せた三冊の本はみなおもしろそうでした。仕事から帰って包みをみつけたわたしは”ずっとお城に住んでいる”を手にとってストーブの前に座り込み読みはじめ、ものがたりにひきこまれ夕食後読み終えました。

    これから読む方のたのしみのためにものがたりは申しませんが、それからずっと感じていることを書いてみます。ものがたりと直接は関係ありません。

    ひとは行動の97%を無意識によって支配されている....という本を読みました。深層意識(無意識)とはなにか 潜在意識とはなにか....

.....ユングは人間の意識を氷山に例え説明しました。

.....普段、私たちが意識している顕在意識は、氷山にたとえれば、海の上に顔を出している部分にしかすぎない。そして海中に沈んでいる部分、つまり意識の大部分が無意識によって構成されている。さらに、この無意識の部分は、生まれてから現在に至るまでの個人的な経験から構成された個人的無意識と、そのさらに奥深くに広がる集合無意識とから構成されている。......

集合無意識とは、個人の経験の領域を超えた人類に共通の無意識領域のことを言います。この集合的無意識が語りにとても深く結びついている...さらにと私はおもっていますが、それはさておいて....

個人的な潜在意識とは、生まれてから、見たり、聞いたり、触ったり、嗅いだり、味わったりした五官の情報と、思ったり、考えたり、話したり、読んだり、書いたりした経験やそれらに付随して発生した喜び、怒り、哀しみ、愛や恐怖等の感情をも含めた全ての記憶を感覚的印象情報として・・無形の波動として蓄えている広大なイメージの貯蔵庫....なのです。


   潜在意識とはイメージのあつまり理路整然としていないカオス....幼児からの小暗い豊穣の記憶の森のようなもの....かもしれません。(ここで語り手であるあなたは気がつかれたことでしょう。個人的な無意識というものも深く語りとかかわっています。あなたは自分の無意識界から”なにか”をひきずりだして語りの核にしていませんか。)都市に住み、PCを操るわたしたちがそのような目に見えないものに支配されているのは不思議ですね。....無意識界でひとは肉体的にも心理的にも自分自身を傷つけないように護っています。ひとは本質的に”変わりたくないもの”ではないかとわたしは感じることがあります。

   だから、潜在意識は豊穣ですが、自分を閉じ込める塔でもあります。ラプンツェルの塔は案外そんなものかもしれません。自分をひらいてゆく、塔を出てゆくためには大きなエナジーが必要です。それは王子さまからの愛であったり、夢やあこがれや、誰かのための愛ではないでしょうか。

   破綻や失敗・肉体の痛み・苦しみ・悲しみから護るために、やめよう、このままなにもせずにいようと塔は囁きつつげます。その呪縛をやぶるのが自分に言い聞かせることばであったり、イメージトレーニングであったりするのではないか....アスリートやスーパーモデルなどのイメージトレーニングはそういう意味があるのかもしれません。自分の限界を超えてゆくには潜在意識を手懐けることが必要ということなのでしょう。

   けれどもいわゆる成功への鍵としてとはべつに潜在意識の呪縛を超える力は働くのではないか。たとえばチェ・ゲバラやマリーテレサや...近くはパレスチナの子どもを守るPLOのひとびと、そして大勢の母たち、父たち...自分の人生を全うする想いと他者を活かし他者をたのしませ、他者をすこしでも闇から遠ざけようとする想いが重なっているひとたちに自分を超える力がはたらくのではないか....とわたしは思うのです。

   わたしたち....わたしと子どもたちはどうやらお城のなかにすんでいます。けれども語りのため、中学や小学校の子どもたちのため、そして会社の社員さんたちのためなら軟弱なこの心と身体は、塔から出てゆくことができるのでしょう。.....語りとは語り手の無意識界から生まれ、聴き手の個人的な無意識の領域と集合的無意識界に”響かせる”ものです。しだいに語り手自身を鍛えてくれるのかもしれません。



.....わたしたち幸福よね....

ずっとお城で暮らしてる



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   中学校での語り、昨日は4回目でした。教室に入る前、押しつぶされそうで、できることなら逃げ出したかった。....あんたは強い。心臓に剛毛が生えていると百戦錬磨の母にいわしめたこのわたしが?.....まだまだかわいいものです。

 この木はぶな

即興で語りました。

樫の木のものがたり→子どもの原爆詩→ガザの子どもたちのこと

ピタリチャイムとともに終わりました。
1年生の教室は4階にあります。階段を降りながら足が震えました。

前日は小学校5年生でした。”かしの木のものがたり”と”ほうすけのひよこ”を語りました。それからガザのこともすこし.....ガザの子どもたちのためにほんのすこしなにかができたかもしれません。

次週は小学校6年生に”雪女”中学一年生に”ラプンツェル”を語ります、ラプンツェルは初版をベースにします。

「おばあさん、洋服がちいさくなってしまったの」

というバージョンです。グリム兄弟は版をかさねるごとに

1 性的な表現を削る

2 女性を受動的に

書き換えていったといいます。ラプンツェルは塔の上から森の向うを夢見ます。森の向うにはなにがあったでしょうか?

ラプンツェルが塔の上で歌う歌ができました。”森の向うに...”
”雪女”は生と死、人の世界に下りてきたひとでないもの、母でありファム・ファタルでもあります。子どもだから...と手加減せずに、うつくしい雪女を語りたいと思います。

 ラプンツェルの塔
....



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    鉄腕アトムがもともとは女の子だったって知っていましたか?  わたしはまったく知りませんでした。アトムのブーツが赤いのは女の子だからなのだそうです。う~ん それを知ってうなづけるところがありました。アトムがなぜ好きだったのか...アトムが完全無欠のヒーローだったらあんなに好きにはならなかっただろう...と思うのです。アトムはつよい正義の味方でしたが繊細でやはらかでした。そしてアトムはじっさいよく壊れました。アトムは最初1万馬力だったはず、それがうろ覚えですが、史上最大のロボットの巻のとき、プル-ト-に敗れて壊れ、天馬博士が改造してしまい10万馬力になるのです。10万馬力になってもアトムは不完全でした。ロボットでありながら人間のこころを持っていたアトムはヒーローでありながらいつも揺らいでいました。

鉄腕アトムの裏話

   
    わたしはエロティシズムとはただ即物的肉体的なものではないと思います。...と申しますか、それ以前の予感のような気配のような匂いのようなあわいにあるもののように感じそこに惹かれます。手塚漫画のなかにエロティシズムがあると指摘される方がいます。わたしもう思うのです。(とくに初期の作品)手塚さんは宝塚を子どものころごらんになったそうですが、その影響もあるのでしょうね。リボンの騎士のサファイヤは女と生まれながら勇敢な王子として生きなければなりませんでした。そして王子でありながら、隣国の王子に恋心を抱きます。そこにはひそかなエロティシズムがありました。

    そして後年、山岸涼子、萩尾望都、大島弓子にであったとき、つよく惹かれる作品にはいつもひそかなエロティシズムを感じていたのだと気がついて今驚いています。ポーの一族、日出る処の天子、野イバラ荘園、ミモザ館でつかまえて、7月7日に、海にいるのは....えとせとら....エロティシズムは美と限りなくむすびついています。生の極みでありながら死と限りなくちかいものです。しかし竹宮恵子さんの風と木の詩の裸形や即物的表現にはついてゆけませんでした。エロティシズムは秘してこそなおにじみ出るものだと思うのです。

私的大島弓子論(8年くらい前に書いたものです)

    男とか女とか超えたところに、青いもの、未分化なもの、爛漫たる成熟の翳にある死にその匂いがあります。そして異形のもの...未成熟な青さや欠けたもの、喪われたものなかにそれはあります。禁忌を侵そうとするときそれは生まれます。それはある種の羞恥とむすびついています。太陽の下で堂々と行われることにはないようです。本能のなせるわざでしょうか。子どものころヨイトマケを歌う丸山明宏さんという歌手に惹き付けられた記憶がありますが。それは見てはならぬものを見るような羞恥をともなった感覚でした。まだ美輪さんと三島さんの関係も知りませんでしたから、それは直感だったのだと思います。今の美輪さんを拝見して(以前同じ飛行機に乗り合わせました)エロティシズムは感じませんが、荒地の魔女やモロの声はすごいなぁと思います。台詞の声にあれだけの情報を含ませられる方はいらっしゃいません。


三輪さんのことば

ある三島論


    さて、語りを聞いてエロティシズムを感じたことはありますか? じつはわたしはいまだかってないのですね。わたしが聞いた語りは清く正しくうつくしくそして楽しく愉快に...の範疇のおはなしがほとんどでしたし民話の色話はエロティズムをわたしは感じませんでした。学校での読み聞かせや児童書ではかなり徹底的に排除していますね。そのなかでつつじの娘は異質です。聴いているとき、とくに女子の目がひたむきになりきらきらと熱を帯びてくるように思います。思春期の子どもたちにもっと戀のものがたりを語っていいのではと感じることがあります。

    
    雪女はその底にエロティシズムを湛えています。お雪自身は侵されざる存在であり死であると同時に愛であるのですから...。そして子どもを生み、また無機的な存在=死に回帰してゆくのですから。子どもたちは果たしてどのように聞いていたのでしょう。あやうさを、想いだけではどうにもならぬこともあるのだということ感じ取ってくれたでしょうか? もう一捌けほのかな色を付け加えてもよかったかなと思います。


    おとなに戀のものがたりを語る時すら、今までは無意識のうちに避けてきた、あえて透明な静謐なものにしてしまったな...という想いがあるのです。弥陀ヶ原心中は情交のない心中なのですが、それって深いエロティシズムとして語れないことはない。しかしそれを雪に封じ込めるように清らかに語ってきてしまった。(と思っている).....こんなことを書くのも今、染殿の后...異形、変身、の恋物語....のことであたまがいっぱいなのです。聴き手がおとなであるときも慣習に従って避けてきたことを、この際正面切ってことばにしたものか、それとも秘して秘して伝えたものか悩んでいるのでした。


   子どもたちにたいしてもメディアが漫画や映像において即物的な見るに耐えない画像や情報を流しているこのときに、語りのなかで自主規制することはないのではないか....上質の叙情性やほのかなエロティシズムは子どもたちが生きてゆくうえで、とてもとても必要ではないかと思ったりもしています。自分自身を守る、相手の身体や立場を思いやる気持ちともつがってゆくように思います。もっとも感受性の高い子どもたちは語り手が心配するよりもっと先をいっているかもしれません。この項はまだ語りつくせないのであとでまた書こうと思います。






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筑波山山頂より望む


  筑波山山頂氷の枝


   遥かに東海村原発を望む


   流木


   寄り添う影


   冬の夕日



さみしい写真ばかりですね。今のわたしの心象風景かな....


ガザからの声(マジダさん)

大変に寒いです。雨も降っています。電気も無いし、燃料もなく、暖を取るために木を燃やしている人もいますが、この地域には燃料となるものはほとんど残っていません。

私たちも子どもたちや家族に物を配ったりしていますが、こうした救援が必要な家族は膨大で、私たちの手に余ります。従来対象にしていた子どもの数は数百人でしたが、いま支援を必要としているのは何千人も何万人もの子どもなのです。市場には何も残っていません。


(アムジャッドさん)

人々は避難所を出て、自宅やアパートが破壊されていないか見にでかけています。 破壊の状況は地域によって違っていますが容赦ない破壊が広がっています。

ガザでは今、給与が払われていませんし、ものを買うための現金がありません。銀行が機能しておらず、預金があっても引き出せないのです。(パレスチナではイスラエルの通貨を使っており、イスラエルがガザに通貨を供給しないことが原因)

10万人が家を失い、6万人が避難所で暮らしていると聞いています。どの家も避難してきた知人や親戚たちを抱えて1軒に2-3家族が住んでいます。そのため衛生上の問題がありますし、また缶詰だけなど、わずかの必要物資しか受け取っていません。調理用ガス、電気に水も、もちろんありません。人は飲み水がないと生きていけないのに、水道水はろ過されていないし、ほんのわずかな量しか手に入りません。

第45代アメリカ合衆国大統領オバマさんのイスラエルのガザ攻撃についてのコメント
「我が家にロケット弾が打ち込まれ、娘が怪我をしたら、そのままにはできない」

オバマよ、おまえもか!?






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...ガザ、とりあえず爆撃がやみました。1000人以上が亡くなり、100000人が住む家を失いました。けれども、どうも不思議....爆撃がはじまったのはブッシュさんが大統領として死に体だったとき、爆撃が終わったのはオバマさん就任とほぼおなじ、これはなにを意味する?

   今回の爆撃は実質的な大統領不在のときをねらったのではないかと思われます。オバマさんはガザ爆撃について質問を受けた時、大統領はひとりだからと言明をさけています。イスラエルと米国は一心同体だから密約があったのでは...米国はイスラエルに武器の無償供与をしている、そのお金は政府が軍需産業に支払っている....アメリカが引き起こした世界不況の遠因は超多額の軍事費にある.....軍需産業が基幹産業という恥ずべき構図がなくならないかぎり、世界の平和も安定もない。とくに共和党政権のとき、アメリカは戦争をつくり出します。情けないことにそのアメリカの片棒をかついでいるのがわが日本なのですが、日本にほかの道はないのでしょうか?

   ひとのつくった世は思ったよりずっと悲惨で汚いです。苦しんでいる人、泣いている人が今日もいる、お金のためにひとや動物を殺したり苦しめたりすることを平気でするひとがほんとうにいる。そしてなによりかなしいのはわたしたちが生きている、しあわせであるということは他のひとびと、他の生きもののしあわせやいのちの犠牲のうえにあるというまぎれもない事実のゆえなのです。経済や政治をとおしてわたしたちはまさに世界のひとのいのち、動物のいのちとつながっています。このまま行くと30年後には絶滅するというホッキョクグマのいのち、ガザで殺された子どもたちのいのちはわたしたちと無関係ではありません。文明社会で罪のないものなどいはしないのです。

    それだからこそ、うつくしいものがたり、やさしいものがたり、たのしいものがたり、まことのものがたり、光みちるものがたりを語り継いでゆくのでしょうけれど。生きるいたみがあるからものがたりは耀きを持つのでしょうけれど。

    
    先日のつづきを書きます。役者にはふたとおりあります。役を自分にひきよせる、役になりきる....ジョニー・デップさんはたいへん好きな役者さんですが、わたしにはなりきりタイプ...というより憑依型のように見えます。海賊、ジャック・スパロウはまさに伝説として存在していますね。どちらにしても無から有は生じません。役者のなかにその役に呼応する核のようなものがある、それを人為的に拡大したり、人為的でなく延長拡大したりするのではないかと思います。人為的に拡大する方法論がさまざまな演技メソッドといえるでしょう。

    役そのものになってしまう。だから役者なんですね。語りもおなじ、ものがたりと自分のあいだにスキマがないほうがいい、歌もそう...シンガーソングアンドライターの歌が聴くひとをひきつけるのは歌が歌手そのものだから。....そのスキマを埋めてゆくのがプロの技術ともいえます。けれども芯がなくて表現だけが突出してしまうと身も蓋もなくなってしまいます。スカスカなんですもの。この”芯”てなんだと思いますか?  わたしはそのひとの”いのち”のように思うのです。いのちってなんだろう.....魂....そしてつながろうとする心のありよう....聴き手と、遠い祖先と、おおいなるものと、おさないものや動物たちと.........かなしみ、よろこび、いのり、あこがれ.....そういうものがものがたりや役から透けてきて響いてくる。ものがたりのなかでランプの芯のように燃えている。

    いい歌やいい語りを聴くと過去やはるかな世界や光や闇と自分もつながってゆきませんか? 先日、秦基博さんの復刻アルバムを聴いていて、わたしは泣きたくなりました。ひかりが舞い降りてくる...かなしみとともに。....「プール」という曲でした。初期につくった曲だそうです。けれども表現の力もUPしていました。魂も技術も両方必要です。....しかしどちらがたいせつかといえばそれはあきらかですね。
   
    わたしたちは生活のなかで仕事をしながら語っています。なかにはありあまる時間のある方、語りにあらかたの時間を捧げられる方もおられましょうけれど。表現の技術の一端は拡大と細部にあります。拡大というのはときに広い場所で長い時間そして長い期間にわたっておおぜいのひとに聞かせる、魅せるための技術、細部とは綾のような襞のようなもの、繊細さ。そして多くは身体にかかっています。焦らないで生活のなかですこしずつゆたかにしてゆきましょう。それは喜びとなるでしょう。しかしながらわたしたちはプロの方に負けないものを持っています。それは....らしさではなく、真実。日々の暮らしのなかで泣いて笑って怒って....揺れながらそれでもあなたのなかにすっくりとあるもの。それが伝えられたらものがたりはきっと聴き手の心に響くことでしょう。



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.....幼稚園のおはなし会が終わりました。あぁ、よかった! 今日はなんとか及第点です。いつも当日の朝、だしものを決めるのですが、今回はめずらしく考えました。迷いがあったのでしょうね。結局三日間、試行錯誤しながら内容をかえてゆきました。あたらしいおはなしや日本の昔話をとりいれました。こんなに四苦八苦したことは今までありませんでした。

  なにか腑に落ちない感じがあってそれがなんだったのか今は理解できます。ひとつは『水のおはなし』を語ることについてでした。水のおはなしを環境問題やからだの問題としてだけでなく、ことばの問題として捉えるとき、賛否両論があることは知っていました。その危惧からしばらく語っていなかったのですが、ひさしぶりに語ってみて、わたし自身が信じているにせよ、仮に社会的に100%の信頼を得ていないとしたら語るのはどうだろう...とそれが一抹の不安になっていのでした。

  もうひとつ、語り手としてものがたりを伝えたいという気持ちからすこし離れ、楽しませようという方向に傾いてゲームや手遊びの比重が増えていました。はっきりいえばウケねらいです。今日は手遊びを最後にして、みっつのものがたりを語りました。ほんとうにつたえたいものがたりを心をこめて語る...その原点に戻ろうと思います。心から語りたいものがたりがみつからなかったらつくればよいのだと思います。眠っているものがたりを揺り起こすのです。

  そして最後に体調がはなはだよろしくなかった。人は生き物ですからどうしてもからだのコンデションとメンタルなものの両方に左右されてしまいます。けれど、体調が芳しくないとものがたりも花ひらきません。光が降り注ぎません。いつもは3クラス連続なので、多少不全でもどんどんテンションがあがってゆきますが、おやこおはなし会は一日一クラス一発勝負、自分でそこまで気持ちを高めてゆくことが必要です。けれど心身が不調だと上がりきらない。いつも最上のものを手渡してゆくためには....体調管理も必要なのでした。

  どこからか薄墨色の雲が湧いて自分を信じる気持ちが翳るような日もあります。そんな日はあたたまってゆっくりやすむ、あしたはあしたの風が吹く。風のなか、また歩きだす。


 

  

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   先週、知人の訃報を聞きました。最後にその方と会ってから7年の月日が経っていました...かつて所属していた青少年育成団体でいっしょに活動した方だったのです。わたしのようにいいかげんではなく、誠実で理想に燃え、これと思ったら後には退かぬひとでした。そしてそれを周囲に求める方でもありました。正直のところすこし苦手でした。

   それなのに訃報を聴いてからずっと小糠雨が心のなかに降るようです。Kさんというその方のパールのネックレスの糸が切れて床にぱらぱらと散らばったとき、色白の頬から首にかけて刷毛で紅を刷いたように桜色に染まった風情、階段ですれ違うときの緊張の気配などがつぶさに思い出されてなりません。

   わたしがその団体を去ったのは長なる方の恣意的な運営に、このままでは息ができない、死んでしまうと感じたからでした。十数年熱い思いを抱いていた場所を去って呆然としていたとき、わたしのまえに縄文の森のように運命のようにあったのが語りでした。わたしは飛び込み、自分のうちなる火を燃やしつづけてきたのです。その会の本流にいると思われたKさんがおなじように去ったと風のうわさで聞いたのはずっとあとのことでした。

   自分を燃やさないと生きてゆけないひとがいます。Kさんはピアノを教え、子どもを育て、PTA活動をする、それだけで生きてゆけるひとではありませんでした。わたしにはKさんのうちに燃える炎がKさんを焼き尽くしてしまったように思えてならないのです。いまはきっとKさんの魂はやすらかに御手にゆだねられていると信じたい、きっとそうに違いありません。

   出会いは不思議です。目の前にあるものを掴んでいるように見えて、たまさか出会い微笑みをかわしているように見えて、それはずっとずうっと昔から約束されたことなのかもしれません。ひととなすべきこと、ひととひとのつながりは人知を越えたものなのかもしれません。Kさんが亡くなったころ、彼女のことが気になってならなかったのは、もしやわたしになにかを伝えようとしてのことかもしれません。

   今週 二回おやこのおはなし会がありました。満足のいくものではありませんでした。そつなくこなしてそれでいいというものではないのです。わたしのなかでなにかが消えていました。テンションがまったくたりませんでした。わたしから燃えるものをとったらなにもありません。それだけがわたしの語りをかくあらしめているのです。どうすればいいのでしょう。あしたは最後のおはなし会です。



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   灰色の日曜日、朝早く起きて野菜スープをとろとろ煮込み、パンケーキを焼きました。バタとメープルシロップで金色のパンケーキは口に含むとホロリとくずれてゆきます。焼き上がるのを待ちかねて母の手元をみつめていた幼い頃を思い出します。仕上げに生姜紅茶....生姜をすりおろし、メープルシロップに今日はブランデーをコポコポ入れました。みかんをしぼったり葡萄ジュースを入れても美味しいです。

   さて、アリストテレスは「芸術とは模倣である」といいました。そして、[その模倣には2つの意味があって、1つは、自然の模倣であり、もう1つは、過去の先達の模倣である。絵画は自然の風景を描写して、文学は人間の自然を描写する」と考えました。以前書きましたがアリストテレスは演劇の原理をカタルシス(浄化)と看破したひとです。アリストテレスの「芸術とは模倣である」というキャッチコピーはインパクトがあったと見えてその後、多くのひとが言及したりアレンジしたりしています。


   バルザックは「芸術の使命は、自然を模倣することではなくて、自然を表現することである。」と言いました。 アリストテレスに昂然と反旗を翻したのはカッシラーです。「芸術は自然の模倣や人間の生の再現以上のものである。芸術は一種の変換であり変質である。」オスカーワイルドはその上を行きました。曰く「自然は芸術を模倣する。」

   みなさまはどう思われますか? 

   わたしは語りを芸術とは思っていません。(神への捧げ物であり、もっとさかのぼるなら神を招き神とつながることであったすべての芸能の起源からはずれて、目的が王侯貴族のなぐさみになり、ひいては一般市民のものになったとき名付けられたものが”芸術”ではないかと思うのです。)ですから芸能の原点である語りは芸術ではないし、めぐりのひとたちに聴いてもらう語りにもその要素はいまだ残っていると思いたいのです、....といささか青臭い前置きをしたうえで、芸術を語りにむりむり置き換えてみるとします。

   なぜかといいますと、プロの役者さんの語りや朗読をなさる方はあらかた芸術と思っていらっしゃるからです。そしてその立場は文豪バルザックの「自然を模倣することではなくて、自然を表現すること」という立場に近いように思います。ワークショップにおいて「つくるな」...とか「表現ということばは好きではない」とおっしゃる方も商業演劇に身を置くと立場が変わってしまうように感じるのはなぜでしょうか。...大勢のひとを魅せる大勢のひとに聞かせるために”人間の生の再現以上のもの、一種の変換、変質”をせざるを得ない..ところがあるのではないかと推量いたします。


   語りを続けてきて自然..ありのままの素材を”一種の変換、変質”をして語ることはあるとわたしは思っています。そのままでは語ることのできないことがありますから。しかし、自然..ありのまま..ほんもの..に勝るものはありません。素材としてのものがたりもそうですし、語り手の体をとおして語るとき、語り手が余分なもの、貼り付けによる表現を付け足す必要がどこにあろう...それらしくする必要がどこにあろうと思うのです。そのままがいちばんインパクトがある。そういう語りを聴きたいと思うのです。今日おはなししたことは短い文章では足りるものではないので、いずれつづきを書きたいと思います。...真冬の休日の午後、あたたかくしてゆっくりとお過ごしください。








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  画策しておりましたハイテーブルコタツがついに完成しました。市販品には折りたたみがありません。シーズンオフはテーブルがふたつになり邪魔なので、検索してたどりついたのが会議用折りたたみテーブル...その下に掘りごたつ用のヒーター置いて 布団を買ってきて天板も切ってもらって 60×120の テーブルこたつ完成!!


すばらしい!!
あったかい! イスにすわったまま 本棚に手がのばせるし家族5人 こたつでお食事 お茶に御菓子 たまにお酒!!

快挙です。子どもみたいにコタツのなかにもぐると洞穴みたい・・ヒーターが赤くて焚き火みたいで 想像が膨らみます。おはなしがどんどんできそうです。

昼食にお餅をオリーブ油で焼いて、スープに入れナチュラルチーズをのせコトコト煮たらたいそう美味しゅうございました。娘がチャイを淹れてこれも美味しゅうございました。近くのお店で素敵においしいガレットをみつけました。今日はむすめたちとそうじに励みました。それから”染殿の后””ねずの木のものがたり”を語ってみました。....今 とてもしあわせです。たぶん人生のなかでいちばんしあわせです。

......ヒタヒタと足音が聴こえます。その足音は希望を、あたらしい文明のおとずれのさきがけをもたらすのでしょうか、それとも絶望をもたらすのでしょうか。わたしたちの今の文明...は戦争と殺戮と自然の破壊なくては立ち行かないのです。人類が真の叡智を取り戻さない限りあしたはありません。けれども、わたしはもうすこし 聴こえないふりをしていましょう。あさってから幼稚園おやこおはなし会がつづきます。





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   夕べ、シンガーソングライター秦基博さんのライブをWOWOWで観ました。大ファンの娘は...ぜんぜん違う..インディーズの頃の方が良かった...とぶつぶつ言っています。秦さんの声については以前にも書きましたが、風の歌、木々の歌...のような不思議に胸に響く声なのでした。

   ライブも終盤になってデビューの頃の歌、自作の歌....アサガクルマエニ、ぼくらをつなぐものになったとき、あきらかに声が変わりました。ただ開いて声を出しているように聴こえたのが、ふたつに引き裂かれたような...といったらいいでしょうか....深い底から湧き出るような声と天に向かって祈るような声と両方聴こえるのです。秦さん自身とつながっている....そんな感じの声でした。光と闇が見えます。闇があってこそ光は輝かしい....青春の痛みと甘やかさが伝わってきて震えました。.....語りだな....と思いました。


   我が家は半端なく寒いので家のなかでダウンジャケットを着ています。友人の家にある薪ストーブが欲しいのですが今年は無理のようです。エアコンのようにただ温かいだけでなく燃える炎を見ていたい、身も心も温まりたい。生命のゆらぎのような赤い熾火が遙かな遠い世界にいざなってくれるような気がしませんか。夕べは二階に上がるのも寒くて..リビングで眠ってしまいました。明け方、夢を見ました。なつかしい方が我が家を訪ねてみえて、フローリングの床に座っています。部屋の隅で埃にまみれていた自動ピアノが円形の巨大なグランドピアノになって部屋の中央に鎮座しています。その方は白い指さきですーっと床を撫で、「おそうじなさればきれいなおうちなのに...」と言いました。

   目が醒めると身体が寒さで強張っていたのでお風呂であたたまることにしました。あぁいい気持ちです。湯船に浸かって発声練習をはじめました。低い声から高い声へ幾度も行き来して調整します。低い声が出にくいので丁寧に発声していると、突然語りたくなって”染殿のお后”を語りました。構想しかできていなくて途中でとまっていたのに、物語の最後まで行きました。うたっているとことばがついてきて、わたしの”染殿の后...さくらひらひら”が生まれました。

   わたしはとてもこのものがたりが語りたかったのだ...と気がつきました。ひとにはそれぞれ”テーマ”があります。朗読ワークショップのメインテーマは”献身”だったように思います。つばめの、王子の、パトラッシュの献身、ごんぎつねも龍の子たろうもそうですね。....わたしのテーマのひとつは”戀”です。プラトニックな戀だけでなく肉身とともに燃え上がる戀....そして女が生きる...ということ....。おさだおばちゃん、おとうちゃまのこと、雪女、弥陀ヶ原心中、芦刈、名草姫、マグダラのマリア、両腕に白い花をいっぱい、立ってゐる木、....さまざまなジャンル、さまざまな出典ですか背骨のように一本通っているのは精一杯生きた女のものがたりだということです。ちいさな子どもたちに語るときは、子どものように飛び撥ねますし、中学生に語るときは、隠れた名作をものがたりとして伝えてゆきたい、縄文の語りを呼び起こしたいと思いますが、それだけでは生きてゆけません。

   女としてのわたしとつながっているものがたりを語ってゆきたい...母として、人間としての深奥に女のわたしがいるからです。一挙にいけそうな気がします。懸案だった”エリザヴェート””イシスのものがたり”.....葵の上、以茶のものがたり.....たのしみになってきました。


   

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  きのうの午後、しなやかなグレーの毛並みの子猫が、車のとおりの激しいカーブを横切ろうとしていた。すると赤い乗用車! あぶないっ! 子猫は身をひるがえし、もとの位置に それから車をやりすごし 再度チャレンジ! みごとに渡って姿を消した。

   猫はバックできないと聞いたが進化したのかな.....それにしても猫にとって車は巨大な化け物であろうに.... えらいなぁ ....

   わたしはすくんでしまっている。寒さでこわばったように身体は思うように動かない、やらなくてはいけないことが三つ、どうしてもできない。こんな時は自分の心のなかにそれをしたくない...理由があるのだ。自分でもわからない...わかりたくない理由が。ストッパーを外さなくては...そして渡るのだ、とおりの向うへ。





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   藤沢周平の短編集を眠い目をこすりながらどうにか読み終えて、ふと目が覚めたとき、わたしは自分のスタイルがわかった。それまでなかったわけではないが、意識することでスタイルとなった....のだった。即興の語りのためのさまざまな試みを重ねてきてヒントを実践してきて、今日はじめてあぁこれがわたしのスタイルだと思った。つくる...のでもなく、らしい...のでもない、借り物ではない...。

   そしていよいよここからはじまるのだった。即興だから制限は皆無である。文学から、伝説から、和モノから海をわたったあらゆる文明のきらきらしい所産に至るまで語ることは可能になる。数千年まえから現代まで、なにか文章の断片でも言い伝えでも拠り所となる核があってそれがわたしを突き動かすのであれば、年間にいくつでもあたらしいものがたりを語ることができる。

   それはおそらくわたし独自のスタイルである。ダレの真似でもない。そしてわたしはそのスタイルが気にいっている。スタイルは石のように固まったものではなく、水のようにカタチを変えてゆくものだ。水であることはやめないけれども。変化し続けること、バージョンアップすることはスタイルの条件のひとつだと思う。今日 わたしは旅立ちをひとりで祝うことにしよう。丸木舟に乗って大海に漕ぎ出すのだ。満天の星が耀く海へ、日が昇り日が沈む海へ、宝物を波底に隠し持っている海へ、嵐の日もやってくる....けれどこの舟は魔法の舟なのである。

   ガザですでに930人のひとびとが生命を失った。930の青い空、笑顔、涙、よろこび、かなしみ、希望、夢...930のものがたりが終わってしまった。世界中の為政者、政治家、経営者、メディアのひとたち、文筆家 世界の運行に影響力あるひとたちにつよい想像力があればいいのに。


   

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   今日は中学校のおはなし会です。
朝 起きて2回語ってみました。ものがたりはすでに心のなかにあります。暗記ではなくて即興でものがたりを語ります。

   1年4組でした。ティンシャを三度鳴らしました。澄んだ響きが教室に波紋を描くようにひろがっていきます。ドキドキしました。ものがたりのなかにはいるともうなにもなくなりました。両手が小刻みに震えていました。足も震えていました。わたしは自分が集中していることを知りました。

   700本の杉苗を植えたけんじゅう、なわのおびをしめていつも口をあけてわらっているけんじゅう、杉苗の緑の芯が天をさしてすっくり伸びています....雨の日透きとおったしずくを落とす杉の梢、晴れる日 新鮮な空気を吐く杉の梢...林のなかでもずのように笑う子どもたち....宮沢賢治の書いたものがたりです。
   
   今日 わたしはずっと澄んだ青い空のしたであかるい緑の杉林にいるようでした。けんじゅうといっしょにただわらっているようでした。とてもやすらかでしあわせでした。たった10分の語りでこんなしあわせをいただけるなんて...。再来週も一本の木のものがたりです。ヒロシマのものがたりですが、ガザの子どもたちのためにも語ります。

   きのう筑波山に行きました。氷の枝がきらきらダイヤモンドのように耀いていました。筑波山神社のご神体はイザナギ、イザナミの神さまです。ご門を守っているのは左が...ヤマトタケルノミコト、右はわかりません。バクダンというソフトボールのように大きいまん丸のたこ焼きを売っていました。アツアツの中身はウィンナやホタテやうずらのたまごなどなど アツアツをフーフー食べました。馴染みのお店で熱いお茶をいただいてあったまりました。

   おみくじをひいたら、勉学に励め このあいだひいたおみくじにも「方向性をまちがえずに学びなさい」とありました。神さまからのメッセージです。今年は真剣に語りについて、日本について学びます。

   ところで筑波山とともに東京を守っているといわれる山をご存知ですか?...そうです、高尾山....このごろパワースポットとしてたくさんの登山者がお山を登ることで有名ですね。妊娠したおかあさんたちもよく登っているそうですが、その高尾山を守る会の名を虔十の会というそうです。http://kenju.tamaliver.jp/c2417.html

   国交省は高尾山に圏央道をつくろうとしているのですが、そうすると水脈が絶たれ、植生も変わってしまうそうです。山のいのちが弱くなってしまうのです。虔十の会となづけたひとの気持ちがよくわかりますね。けんじゅう公園林はみんなの力で残りました。でも高尾山の何万年もかけて出来た自然....壊すのはあっという間、そして壊してしまうともう元には戻らないのです。


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  イスラエル軍は10日、パレスチナ自治区ガザで軍事作戦を続行、ガザの救急当局者によると、パレスチナ人死者は計801人、負傷者は3300人に達したそうです。ガザではもう食料が尽きかかっています。おろおろ歩くしかないのでしょうか。デモ終点の六本木三河台公園に向かいましたが電車は止まってしまうし迷子になるしで辿りつけませんでした。

   イスラエルのガザ侵攻に対して世界中でデモが起きています。ロンドンでは数万人規模、フランス、スウェーデン それこそ世界中で.....アメリカでも5千人 1万人規模で、イスラエル国内でも大規模な抗議デモがありました。テルアビブのデモでは、イスラエル全土から駆けつけた人々、約1万人(!)が参加。イスラエルの人口は700万弱、日本でいえば18万人(!!)が参加した勘定になります。しかし日本のマスメディアでは報道されません。昨日のデモ東京の参加者は1500人.大阪では500人....この少なさはなんだろう....ガザがどんな悲惨な状況下にあるか報道がされていないのではないでしょうか?それとも日本人は不感症?

  三河台のあと代官山まで物語シアターの公演に行きました。会場は昔ご縁があった山○晃彦さんが指導なさっている劇団ひまわりの劇場だったので感無量でした。こちらも”幸福の王子”は終わっていました。ホールは観客でいっぱい、2日間4回の公演はすべて満員御礼とのことでした。”ラブレター”は潮騒、足音、雑踏、車の音など効果音が入っていてラジオドラマが彷彿としました。手振りや仕草もすこし入っていました。前後に歌も入りました。....白蘭の手紙では泣かされてしまいました。情感の増幅、台詞の巧みさもさすがプロで、わたしたちがワークショップで”ラブレター”の一部をしたときとは際立って違いました。観客を楽しませる、感動させる、物語シアターは堀井先生の志と潔さで今後もっと発展してゆくだろうと思います。

   ひとは意識する、しないに関わらずそれぞれ目指すことやそのための方法を持っています。語り基礎講座で参加者のみなさんに役者さんたちがなさる語りや朗読を聴くことで、(逆に)わたしたちがめざすものがなにか見えてくるでしょう....と申し上げたことを思い出します。それぞれの方がさまざまな方法があることに気がつかれたと思います。そしてご自分がどのような語りを目指したいか、よりクリアーになったならうれしいと思います。

  わたしは演劇から多くを学ばせていただきました。身体と心と感覚の一体化、韻、空間の意識、イメージと響き、くせをとること...けれど以前書いたようにそろそろ立ち位置をより明確にしようと考えます。さまざまなテクニックを知ったうえでなお”つくり”や過剰は排したいのです。語りは肉声で伝わる場所が似つかわしい。魂の響きそのまま躍動そのまま揺らぎそのまま伝えられればいい。モノ=カタリです。添加物は要りません。トマティスを受けてなおさらそのように感じるようになりました。目指すものはわたしの”表現”ではありません。たとえ 道中そのように見えたとしても。

  10人ほど仲間たちが来ていました。終演後みなさんでお食事をしました。若い方がほとんどですが、気持ちのいい方ばかりで、その楽しかったこと...落ち込んでいたわたしにも生きる力がわいてきました。澄んだ満月が空にありました。今日の満月は一年中で一番地球に近いのだそうです。同じ月がガザの街も照らしていることでしょう。一日に3時間だけ爆撃がやむのだそうです。どうかせめてやすらかな眠りを...と祈りましょう。



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