遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



.......民主圧勝、自民・公明壊滅.....64年間の長きにわたった流れが ついに変わった日、投票を終えて 講演会に行きました。これからの日本について聴いたことをまとめます。

その① アメリカ

.......アメリカの破綻につながると懸念されたカリフォルニア州の7月の危機がなぜ回避されたか。

シュワルツネッガー知事は実にしたたかだった。州の隠し金があったのだそうだ。芝居を打った背景には税の直間比率を変える目論見があったという。.......(しかし、今日検索してみたら カリフォルニア州が不用品のガレージセールをして数十万ドルの利益を得ようとしているらしい。これもポーズ?) →コチラ

予測されることは回避することが可能だが、予測できないことが起きたとき、アメリカ崩壊のひきがねとなる。

.....たとえば...暴動とか? 大規模な気候変動とか?

株価については、1929年の大恐慌と同じパターンを描いている。暴落していちどゆるやかにあがる....今はちょうどそのピークだろう。


その② 日本

日本は.......

1945年から2001年まで 政府が防衛、医療、福祉、地域基盤などの公共圏の整備をしてきた。官僚、民間、議員 の腐敗はあったが機能していた。

2001年から2007、8年まで いわゆる小泉構造改革以降 公共圏は民間に移った。このとき 巨大な利権が動いた。今は腐敗して、なお機能していない状態。

2009年 民主党に政権交代。すでにボロボロで政府が公共圏を支えるのは無理、民間ができないことは証明された。いまだかって公共圏を民間が支え成功した事例はない。では、どうするか。

権限を地方に委譲する。それだけでも間に合わない。民間のボランティアが公共圏を支えてゆくかたちをつくってゆく。そうすれば、なんとか食べてゆける。国民ひとりひとりのメンタルな変質が必要である。コミュニティのなかで自給自足が促進する。

思い切った金融改革を推し進めないと 早晩行きづまる。民主党は自滅するしかない。


その③ 世界経済はどうなるか?

アメリカ中心の世界経済は終わる。ニューフロンティアは終わる。

① EU
② 東アジア(中国・日本・韓国・アセアン)
③ 南米
④ 湾岸諸国
⑤ ロシア
⑥ インドを中心とする南アジア
.......

それぞれが共通の通貨を持つブロック経済がはじまる。ブロック経済に終わってしまうと世界経済が縮小するので、IMF..国際通貨基金だっけ? を改変して預け入れ性の通貨をつくりブロック間で貿易する。ブリッグス(ロシア、中国、インド、ブラジル)は会議をひらきIMFを手中に収めるべく、アメリカの国債を売って、IMFの債権を買う動きがはじまっている。


......たいへんな世の中になりそうですね。民主党への政権交代はホンの一幕に過ぎないようです。今、真に求められているのは自民党の改心でも、民主党の努力でもなく、わたしたちひとりひとりの内的な変化、生活の変化のようです。もう 「政治はおまかせしました。ここを、あそこをよくしてください、それは政治家の仕事です」というような あなたまかせは通用しないのです。.....おそらく、来年以降、語り手たちがもっとやくわりを果たすときがやってくるでしょう。そして、わたしたちは、そのまえに生活者として人間として変わっていかなければならないのだ....とそんな気がします。

   今 わたしたちは未曾有の、自然の変化、社会の大変動のまえにいます。いよいよ 生き甲斐がある、というものではありませんか。



HAARPの動きが妙です。.....30日の8:00. 16:00







  横縞はHAARPのパルス

  0.25Hzの横縞が幾日かつづくと.....世界のどこかで地震が起きることが多い.....




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総選挙とともに国民審査があります。

国民にとって裁判官をチェックするたった一回のチャンスです。

少なくとも この 4人は × にしてください。
国民より国策に乗っている裁判官です。



×竹内行夫裁判官  開戦当時、外務省事務次官だった彼こそ、憲法違反のイラク派兵を推進した外務省の中心人物。

×竹崎博允裁判官 裁判員制度導入の元凶 一説には米国の圧力⇒米国と近い司法制度にして外人弁護士が参入しやすくするため。

×近藤崇晴裁判官  植草冤罪事件を有罪にした裁判官

×那須弘平裁判官  植草冤罪事件を有罪にした裁判官


植草さんは一貫して 小泉元首相=竹中平蔵の政策に反対していました。野中広務氏らは2004年竹中氏を排し、植草氏を財務大臣にと画策.....植草氏は冤罪で葬られました。


竹竹コンナス♪ とでも覚えてください(笑)でも忘れちゃったら わたしは田原裁判官のほかは全部 × にします。




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   今日はアルゴアさんにとっては不都合な"地球温暖化のホントの話"を書こうと思いましたが、きのうテレビで見た”20世紀少年第二章”があまりどんぴしゃ!だったので、そのことを書きます。

   ”20世紀少年”とは今日本を代表する漫画家浦沢直樹さんの漫画を映画化したものです。

アラスジ

第一章

1969年夏、小学生のケンヂは同級生のなかまたちと原っぱの秘密基地で「よげんの書」を作ります。
そこに書かれていたのは、悪の組織や世界征服、レーザー銃、細菌兵器、巨大ロボットなど、彼らの空想の産物たち。

それから30年近くが経ち、1997年、世界で「よげんの書」どおりの不可解な事件が次々と勃発します。事件の裏に見え隠れするのは、“ともだち”と呼ばれる人物が中心となる謎の教団。

“ともだち”は少年時代の仲間なのか?「よげんの書」どおりに進んでいく人類滅亡計画を阻止するために、ケンヂと仲間たちは“ともだち”に挑みますが、反対にテロリストに仕立てられてしまいます。

第二章

物語の舞台は2015年へ移り、ケンヂの姪カンナが登場。そして、何者かが書いた「しんよげんの書」が現れます。細菌学者のカンナの母・キリコは”ともだち”のためにウィルスをつくってしまいます。「“ともだちを”止めなければ2015年に世界は終わってしまう」....カンナはテロを計画しますが.......


第三章  8/29すなわち今日公開。



.......うーーーん スゴイ!! よりによって 選挙の前々日にテレビ放映!!と思ったのにはわけがあります。このともだちの”教団”というのが層化なんとか行名なんとか、ついでに幸福なんとか.....をモデルにしたんじゃないかとか......もっとおもしろいのは.......



これが”ともだち”のシンボルなのですが、なにかにとても似てるんですね。

   これはイルミナティのシンボルです。ピラミッドに目 権力構造の階層とすべてを見渡す支配者の目をあらわしています。

   そしてこれはイルミナティの悪魔の合図。...... シンボルと合図ふたつくっつけた、でもあまり似ているのもなんだし....でつくった......という感じしません? ところでこの合図 手話のIlove you に似てますね。わざと似せたというのは勘ぐりすぎかな...

Iloveyouはコチラです。  



イルミナティってなんだっけ は→コチラ.......※鳩山一族



”ともだち”は人類絶滅計画を企てました。イルミナティは人類を1/3くらいに削減しようとしているそうです。


その方法は.....

①「戦争」儲かるし、確実に人口が減ります。イラク爆撃は一石三鳥でした。

② エイズ、鳥インフルエンザなどの巧妙な「生物化学兵器」。これは人種、部族にまで遺伝子操作で特化できるそうです。

③ 「気象操作」 台風、人工地震。これが意外に簡単、民衆からばれない。HAARP+  ミャンマー 四川省 など多数....

④ 体のためにならない「医薬品」を医療機関を通してばら撒く。これも儲かるので一石二鳥。

ワクチン→ギラン・バレー症候群 ほかにも妙な病気がふえている。
高血圧の基準値を5あげると何億ものお金が動く。本来 血圧は年齢とともに上がる。今はやりのメタボも。(健康診断の医師が、オカシナ人たちが決めたといっていた)

年間 ⇔アメリカ 3000兆円...とか。

⑤「食糧危機」 


じつはコレを一番伝えたかったのです。

イルミナティ”新世界秩序”というゲームは→コチラ
コレはあとから見つけたのですがとても怖い。 1990年につくられ、今は発売禁止のこのカードにすでに9.11.....そして......


ブログ 書いているときカードのことは知らなかったのですが...20年前のカードのとおりになるなんて.....



さて、第二章終盤 エージェントがウィルスを撒きますが、雲のようにのぼっていって 虹..?が見えたりして ケムトレイルによく似ていたので......なかなか興味深かった......浦澤さんはストーリーテラー、この映画の製作者もストーリーテラーだ.....と感服しました。もしかしたら、もしかしたら 日本が米のくびきから国民の意思ではなれるかもしれない総選挙の前に やってくれてありがとうです。

......なので、もし、20世紀少年 を検索してここに来た方がおられたら、どうかあしたはとりあえず自公以外に投票してください。 とりあえず、さらば”アメリカのともだち”です。


......さてはて、 この 悪魔の合図 あるいは Ilove you やってみてください。案外むつかしいでしょう ? ふだんなにげに使えると思いますか? ところが コレが好きな方は意外に多いのです。

クリントンも ブッシュも     サルコジも       あらら 小泉さん 中川さん?   

  オバマさんも!!

これはほんとうに Ilove you.....それとも悪魔のサイン??



20世紀少年は→コチラ





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   毎日 空を眺めています。HAARPのチャートと地震雲掲示板をチェックしています。(ブックマークを見てください)

今の政権がつづくと→→郵貯はアメリカの民間会社ゴールドマンサックスの支配下に完全に置かれ 200兆円は世界の金融市場でつかわれてしまう。それは世界にとっても日本にとってもいいことではありません。貧富の差はますます拡大します。逆に外の勢力、そして彼らと手を組んでおいしい思いをしている国内の勢力は今の政権がつづかないと困るので必死になります。

①なぜ選挙公示付近になって新型インフルエンザの恐怖が連日マスコミで騒がれるか。

              ↓
        無党派層の投票率を下げる

②なぜ民主 300議席確実 政権交代必死とマスコミで騒がれるか。

              ↓
     国民の平衡感覚、投票心理のゆり戻し、逆転を狙っている

③票の読み取り機械が大きく取り入れられ、富士通と組む独占メーカー「ムサシ」は特需にわいている。

              ↓
※読み取り機械 : アメリカでブッシュとケリー候補の票読み 機械が操作されブッシュが勝ったという疑惑がある 

ムサシ特需は→コチラ

大統領選挙不正疑惑は→コチラ

どんでん返し? は→コチラ

④なぜか投票場所の削減と投票時間の短縮

              ↓
行楽地かえり、あるいは無党派層の投票を抑制する

投票場所の削減と時間短縮は→コチラ


⑤最後に.....地震雲掲示板をみると ちかごろ そらのようすがおかしい。

              ↓
   気象操作による 地震・大雨の危険がある
   なにもなければよいけれど、彼らの選択枝にはあるだろう。


          ↓   ↓   ↓

   早く 投票に行こう!! → 不在者投票に行きました。


わたしは民主党支持者ではありません。しかし このままでは 国民の汗水たらしたものがみな外へアメリカへ流れていってしまいます。 子どもたちの未来があやうくなります。景気が上向いたといいますが、実感ありますか? 失業率の実態は8.8%といわれています。

オシオ事件の真実があかるみに出る(政治家、経営者、芸能界)かと思ったら、どうでもいい海苔Pをうるさいくらい報道して、人が死んだのに闇のなか.....→マスコミと検察はやっぱりだめ。.......ということはすべて既定の事実なのか.....



もし政権が変わったら わたしたちは安心することなく じっとみつめ どこがどう変わったか、変わらないか おかしな動きはないか見てゆきましょう。

もし万一 変わらなかったら ......それでも希望はうしなわないで、しっかりみつめ 意見をいい行動を起こしましょう。

あきらめたら そこで おわります、わたしたちの未来、わたしたちの子どもたちの未来は政治家の手のなかにあるのではありません。わたしたちの手のなかにあります。




気象操作......磁気兵器とは→コチラ

アメリカのオバマさんが「核はやめましょう」とかるーく言う背景にはアメリカの最終兵器があるのです。京都議定書を批准しないのにも意味があります。いつか 地球温暖化の真実を書きます。





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  選挙前 まだまだ なにかが起きそうです。

20日は静岡方面に集中的に奇妙な雲....
が報告されています。


空をみてください。

お忙しいでしょうが、テレビ各局が番組でなにを強調しているか
聴きとってみてください。

注意深く見て聴いていると、なにか気づくはず.....。

世界が揺れ動いています、日本も生みの苦しみ......

たまごはそのうちに割れるでしょう。

割れないとあたらしい世界は生まれない。

なにが起きてもいいようにモノと心とカラダの準備はわすれないで。

これからしばらく 勝負どころです。


   8/21 西東京の空


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   衆議員選挙公示に際してふたつのニュースがありました。①景気回復、②インフルエンザで死者!.....。マスコミの習性からなんらかの意図あり....と思ってしまいます。


インフルエンザ関連のニュースです。判断はご自分でなさってくださいね。



田中宇さんのニュース・ワクチンの恐怖は→コチラ

WHOはスペイン風邪(インフルエンザ)とアメリカ政府の関わりを知っていたという衝撃的内容....

では今度のインフルエンザはどうなんでしょう? その対策は?

日経ヘルスラインインフルエンザにビフィズス菌は→コチラ

豚インフルにはワクチンより植物性乳酸菌?は→コチラ

乳酸菌の威力は→コチラ

新型初の死者はタミフルの害では?は→コチラ

政府系科学者の内部告発
ケムトレイルはなぜまかれたのかは→コチラ


新型ってどういう意味かしら? 豚さんはどこに行っちゃったの? 以前 ケムトレイルについて書きました。ケムトレイル中の化学成分の目的は、ウイルスの外皮が肺の細胞と融合することを助け、より容易な浸透と感染を可能にする....大きな眼では免疫を落とすことのようです。ウィルス自体もまいている...というひともいます。

 
ちかごろは夕方や夜間に多くまかれているようです。空を気をつけてみているひとが多くなったからでしょうか?

 
  名古屋市8/18 18時頃の  ケムトレイルのきれいな格子模様の空 雲がとけてしまうとぜんたいに白っぽい空になります。

   これは8/15 17時の空です。何の変哲もない??





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.........さて、お休みに入る前のことです。古いダンボールの箱が二十ほど、みつかりました。中に入っていたのは処分してしまったとばかり思っていた古い漫画雑誌と切り抜きです。残念ながら、わたしが少女漫画の傑作と認めた作品が入っていた格別の想いをこめた箱ふたつは見つかりませんでした。そのなかには西谷祥子さんの風花、石だたみ、わたぼうし、夏物語、オリビア、金色のジェニーなどの名作、 竹宮恵子さんの暖炉....あとはもうタイトルもさだかではなく、取り戻しようもない名作が入っていたのです。

  けれども、西谷さんのマリー・ルウ、白鳥の歌、ジェシカの世界、学生たちの道、奈々子の青春などの連載、わたなべまさこ、水野英子さんの連載、八代まさこさんのようこシリーズほか、また萩尾望都さんの...精霊狩り、ドアの中のわたしの息子、キャベツ畑.....、などのコメディはほぼすべて残っていました。萩尾望都さんを語るのに忘れてはならない、岡田史子さんのCOM、ファニー掲載の作品、大島さんの真夜中の奇跡、デートははじめてなどの初期作品、山岸さんのラグリマ、水の中の空、白い部屋のふたりなどの作品群、里中満知子、青池保子、谷口ひとみ、忠津陽子、大和和紀などのデビュー作、牧美也子、水野英子、高橋京子他のうつくしい絵物語が残っていました。知るひとぞ知るあすなひろしさん、少女漫画の良心樹村みのりさん、ささやななえ、松尾美保子、武田京子さんの作品も多数ありました。

  S39年 デートははじめて 大島弓子

S39年 従妹マリア わたなべまさこ

 S40年    ガラスの天使 水野英子

  S39年   わたしの絵本 岡田史子

  S45年  水の中の空 (りぼん付録)山岸涼子

  S51年 ポーの一族から”エディス”の扉絵 萩尾望都


  切り抜きは昭和40年代から、雑誌は50年代から.あって....わたしは少女漫画の歴史の一端と(あしたのジョー、幻魔対戦、真崎守さんもありましたが)むかいあうことになりました。折を見てすこしずつ紹介してゆこうと思います。



  前置きが長くなりました。今日書きたいのは芝居と漫画と語りについてなのですが、少女漫画にくわしくない方のために、申しますと星の数ほどの漫画家のなかで大島弓子・山岸涼子・萩尾望都の三人こそが少女漫画を文学や映画や舞台にも影響を及ぼし、ひとつの文化としておしあげ、少年漫画をも一時リードしたベストスリーだとわたしは思っています。昔、漫画を描きたいと思っていました。自分のものがたりを伝えたい気持が語り手としてのわたしにつながっています。

  この三人のうちはじめから覚醒していたのが萩尾望都さんでした。デビューして時を待たずに、雪の子、かわいそうなママ、秋の旅...と矢継ぎ早に発表された作品は漫画ファンのどぎもを抜きました。すでにそれらの作品は善悪というものも少女漫画の目には見えないルールをも超越していた.....手垢のついていないまっさらなオリジナルだったからです。大島弓子、山岸涼子さんのふたりにはデビュー作にすでにたぐい稀な個性がありましたが、作品としては少女漫画のレールを踏み外すものでも地平をひろげるものでもなく、むしろ時代とともに変貌を重ね磨かれていったのです。

   萩尾さんが岡田史子さんからインスピレーションを受けたように大島さん、山岸さんともに萩尾さんの作品が一種の起爆剤になったのではないかと思います。山岸さんは”大泉サロン”に出入りしていたそうです。大泉サロンとは萩尾さん、竹宮さんが70年から72年頃住んでいた家で、みずみずしい希望に満ちた少女漫画家のあこがれの場所でした。手塚治虫さんを慕って石森さん、赤塚さん、水野さんたちが住んだときわ荘を思い出しますね。それにしても手塚治虫さんはご自分の存在を投げかけただけでなくのちの漫画家たちのために大きな大きなことをなさいました。”漫画ファンによる漫画専門誌”とうたったCOMを虫プロが発刊しなかったら、漫画の今はなかったであろうと思います。

   その手塚さんのあとを継いだ漫画家が石森章太郎さん、水野英子さん、石森さんは当時少女漫画が多かったのです。このふたりに強い影響を受けたのが西谷祥子さん、西谷祥子さんの漫画が好きでアシスタントをしたことがあるのが、前述の岡田史子さんでした。西谷さんは、花の24年組のひとり竹宮恵子さんのデビューの後押しもしたそうです。

   貧しい少女が障害を乗り越え一心に生きるというような少女小説の流れを汲んだ漫画から、欧米の映画を換骨奪胎(再話)し、手法をとりいれたラブコメディー(すてきなコーラ....うるわしのサブリナ)、ミステリ(従妹マリア....ウールリッチ原作の映画、さくら子すみれ子)、ファンタジー(セシリア....ジェニィの肖像)、大河ドラマ(白いトロイカ)を漫画によって描いたわたなべまさこ、水野英子....そのあとを踏襲しながらも少女漫画に文学の香りをそそぎこみ(風花、石だたみなど)、青春群像(学生たちの道、レモンとさくらんぼ。奈々子の青春ほか)を創作して、のちの漫画に大きな影響を与えたのが実は西谷祥子さんでした。この青春群像は里中満知子、津雲むつみを経て花よりだんごなどにいたるまで続いています。漫画家たちはテーマや技術を真似しあい、影響しあってここまできた....1ページまるごとの模倣もあったけれど、それをゆるす過去のおおらかさがあればこそ、より深くより広くより豊かにサブカルチャーの一翼をになうものとして、漫画は急速に育ったのではないでしょうか。

   少女漫画の歴史になってしまいましたが、今日 おはなししたいのは実は些細なことなのです。きのう、わたしはある芝居を観にゆきました。17歳のふたり....マグとジョゼフの1966年6月4日の午後のできごと.....ふたりは丘のうえで試験勉強をしています。あと3週間で結婚することが決まって....というのもマグのおなかには赤ちゃんがいたのでした。リアリズムの芝居でした。ふたりの役者とふたりの語り手で語られる芝居は2時間飽きさせることがありませんでした。

   大道具は三段の台ひとつ、一幕だけ....二時間のあいだふたりの役者は饒舌に語りつづけ、飛び撥ね、転げまわります。けれども、そうすればそうするほど観ているわたしは傍観者になってしまうのです。景色はあまり見えませんでした....これはいったいなぜなんだろう......ヒロイン、マグの今の目的は?ジョーゼフにこちらを向かせる....超目的は結婚、しあわせになることそしてたぶん家を出ること。....障害は? ジョーゼフの性格......台詞を前にだす....ここで内側に落とす....仕掛けが見えてしまう.....わたしは台詞の応酬を聞きながら、考えていました。見るひとのイマジネーションを喚起するものはいったいなんだろう.....

   そのとき、大島弓子さんの漫画が脳裏に浮かびました。大島さんはどんなものがたりにも合うようにタイトルをつくっておくのだ....と以前読んだことがありました。ものがたりは生まれ、ときに作者はものがたりを進めるのに伸吟するのですが、いつのまにかできあがってしまうのだと....大島弓子さんの作品からインスピレーションを受けた作家や映画監督は多いようです。詩的な日常離れしたことばや、作品にそこはかとなくただよう雰囲気のせいでしょうか.....

   岡田史子さんの作品はまさにそうですね。ものがたりのすじもはっきりとはわからない。けれども光と陰、そして秘めやかな夜の匂いを、甘い花の匂いを、濃厚な雰囲気をよむひとに感じさせずにはおかない。聴き手や観客のインスピレーションを呼び起こすためには、曖昧さ....すきまというものが必要なのではないかな....と思ったのです。

   きっちりくっきり論理的につくりあげると、こちらが入り込むスキがない。だから曖昧さを残しておく、トワイライトゾーンを残しておく.....きっちりつくりあげた自分の世界を渡そうとするなら、綿密のうえにも綿密につくりこむ。仕掛けが見えたらダメなんじゃないかな、あるいは仕掛けが見えたところで圧倒的に持って行っちゃえばいいのじゃないかな.....伝えようとする強い意志を持つことだと思いました。

    山岸さんはこのタイプです。デビューの頃は構成が不得手のよう....だったのですが、用意周到に伏線を張り、エピソードを積み重ねる長期連載の構成は男性作家顔負けです。今回読見返して一番泣けたのは山岸さんの”幸福の王子”でした。山岸さんは再話の上手い作家です。オスカー・ワイルドの幸福の王子が香気溢れるものがたりになりました。どうしようもないチンピラ・マルティンにかつて愛した少女の忘れ形見の少年が残してくれた贈り物。マルティンはたちあがって歩きだします。死そして再生。

   .......さて、6/4 6時過ぎ 湖にボートが転覆しているのが発見されました。ふたりは失踪したものとみなされましたが6/25(たぶん 結婚式をあげるはずだった日)11歳の少年が岸辺にくしゃくしゃになった洋服のようなものが浮いているのをみつけます、警察がひきあげ、家族はその遺骸がマグとジョーゼフであることを確認しました。......


   ふたりの死がカタルシスを呼ぶものでないとしても、死のあとに再生があってほしい。神経を病んでいたマグの母親は立ち直ります、それもひとつの再生。けれども、たぶん この戯曲では観客のなかで結婚生活の体験をした、今している観客のなかでなんらかの再生が起きる必要があるのではないか.....そのためにマグとジョーゼフの青春は輝かしくあらねばならない。日日の闇を照らすほどでなくてはならない、その耀きに照らされて観客は自分の人生の青春を生きて、結婚をもう一度問い直す...のではないかと.....そのように思ったのでした。役者にはパワーと繊細さ、そしてオリジナリティが必要です。語り手にも漫画家にも。


   ものがたりを聴き手や読者や観客に伝える、それだけでなく魂の扉を叩くためには、感性と客観性と両方必要です。おそらくバランスなのです。客観性がないと流され主人公に溺れてしまう、あるいは自分を押し出してしまう.....すると聴き手はついていけない。けれども、論理的に伝えようとするとつまらない、語り手、役者または作者の息吹が感じられなくては感情移入ができない。つかず離れず、そのあやうい細い道をたどってゆくのが名手、名人なのでしょうね。などとつらつら芝居を見て思ったりしたのでした。



大島弓子ウィキペディアは→コチラ

私的大島弓子論(H15年に書いたもの)は→コチラ

大島弓子と吉本ばななは→コチラ

萩尾望都は→コチラ

山岸涼子ウィキペディアは→コチラ

大泉サロンは→コチラ

岡田史子は→コチラ

岡田史子インタビューは→コチラ

岡田史子ファンサイト硝子玉は→コチラ

西谷祥子は→コチラ

西谷祥子作品リストは→コチラ

水野英子は→コチラ

水野英子作品リストは→コチラ

竹宮恵子作品リストは→コチラ

  S46年 白い部屋のふたり  山岸涼子

   地球(テラ)へ  漫画少年別冊  竹宮恵子




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夏休み...みなさまはどう過ごされましたか? わたしはふらり岩舟山に上りました。R4を北上中、なにかに惹かれ左折.....R4からすこし入ったところの写真です。北海道みたいですね。このあと160号線から176号線にぬけて....なんとなく岩舟山にむかいます。途中にとりごやパブという気になる『店』がありました。それからパティスリー・エド・太田屋という『ケーキ屋』さんがありました。ともかく先にお山に登ることにしました。

  三歩あるくと倒れてしまうケヴィンを励ましながら403段の階段をのぼります。岩舟山に祀られているのはお地蔵さま、子授、子育てのご利益が....と書かれていますが、このお山から感じるのはそういうものではありませんでした。なにか棄てさられたような漂々とした、さりながら奥深くまだ力を秘めているような.....あとでネット検索したら巨岩があるようです。パワースポットだったのでしょうね。 天の磐船と関係あるのかなぁ.....中腹の草原のようになった駐車場跡、吹きわたる風と蝉しぐれ.....

  がんばれ ケヴィン      参道


  ケーキはとても美味しかったです。こっくりしたアイスコーヒーまでサービスにいただいてしまいました。ごちそうさまでした。トリゴヤパブは残念ながらおやすみでした。次回のおたのしみです。昼食はどこでとろうか.....前に行った心地よい神社がみつからなくて、帰り、ひと気のない総合公園のかたすみでのんびり過ごしました。ライ麦パンにチーズとハムとゆで卵をはさんで、冷たいポタージュと....ランチのあと、娘たちは本を読んだり、散策したり.....わたしはお昼ね......観光地に行くより、こんな過ごし方が合っているようです。

 雲は刻々とすがたをかえてゆきます....

  
岩舟山は→コチラ

もうひとつは→コチラ

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    あなたにとって正義のヒーローとはだれですか? 昔、世界制服を企む闇の組織を倒す正義のヒーローの活躍をわくわくしながら見ていました。月光仮面、海底人ハヤブサ、怪傑ハリマオ、宇宙少年ソラン、鉄人28号(あぁ なんて古いんでしょう).....邪悪な陰謀と戦うなつかしのヒーローたち....。けれども、こんなことは絵空事だ.....現実の世界、国々はアメリカを頂点として理性と友愛でむすばれている、医療も科学文明も進歩し、人類は進化をつづけている....そんな風に信じられたしあわせな時代もありました。

   ところが、今、ひとつひとつがほころびはじめ、暗い裏側の醜い仕組みが目を覆うばかりに露呈しようとしています。アポロの月着陸はつくられた映像だった.....とキューブリックの遺族は語り、月に行ったはずの宇宙飛行士は自ら「わたしたちはほんとうに月に行ったのだろうか?」と語りかけます。日航機123便はただ墜落したのではないようです......。ストーリーテラーも真っ青になる真実としてまかりとおってきたさまざまなつくりごとが次第に白日に晒されてきたのです。

   現代にも正義のヒーローはいます。現代の正義のヒーローはあまりかっこよくも強くもありません、変身もできません。大学教授であったり、外務省の役人だったり、記者だったりもっとごくふつうの社員だったりします、内部告発者もいます。たまたま真実を見てしまって、黙っていられなくなったひとたち、自分にたいして正直であろうと危険を省みず真実を告げた、大きなものにまかれないふつうの意識を持ち続けたひとたち、現場で自分のやるべき仕事をやり遂げるひとが真のヒーローなのです。狭い意味での組織ではなく、もっとおおきなモノと彼らはつながっています。人類の未来と希望に......。

   8/3 ブログ(7/21 植草教授の真実)に書いた冤罪の植草元教授が収監されました。選挙戦の応援演説などで植草元教授が小泉政権がおこなったことの真実をあきらかにすることを防ぐのが目的ではないかと言われています。弁護団は今回の収監に際し事実無根のメディアの報道をけん制し(名誉毀損で五件中四件勝訴)、植草さんが刑の執行終了後、再び充全な言論活動を開始されることを祈念するという異例の声明を発表しています。そして植草さん自身、みずから「私は自殺しないことをここに宣言する」とメッセージを残しています。なぜ、そんなことを言う必要があるのでしょうか?

   この国ではたくさんのひとびとが消されています。病気をよそおったり、交通事故に見せかけたり、自殺に見せかけたり、あるいは社会的に葬られたり.....。誰かにとって不都合な真実を告げようとしたひとたち、存在そのものが危険とみなされたひとたちが突然舞台から姿を消してしまう。田原総一郎のような政界にお友達のたくさんいる、そのひとたちに都合のいい論客!? はテレビにのさばっていますが、野村実さんや植草さんのように真実を告げるひとはテレビから消えてゆきます。芸人の生き残りの条件とは”言ってはいけないタブー”をよく知っていて、口をつぐむことができるかどうかであり、タケシも爆笑問題も生きるために魂を売った芸人(それでもオオタさんはマシだけど)....とわたしは思っています。

   マスコミが飛びついて大騒ぎする事件のウラには必ずなにかがあります。海苔ピー 事件が隠そうとしたものはなんでしょうか? なぜオシオ事件は女性が異常な状態で死んだのにもかかわらず、ただちに事件性なしとされ、海苔ピーさわぎに隠れ消滅してしまったのでしょうか??


   テレビも新聞もまったく信じられない今、わたしたちに可能性として残されているのは、ネットと口コミ、そして不買です。家畜のように...なにも知らされず、お金を使わされ、使い捨てにされるのはもうたくさんです。......といってもネットにもたくさんの目があって見張られているようです。わたしもそう多く語るのはひかえようと思います。みなさま、ご自分の目と手で調べ、考え、いったいなにがあったのか、これから起ころうとしているのか、ご自分で考えて考えて行動してください。もしなんのことはない、こんなことはごくあたりまえのことと思われるなら、ご自分の暮らしをこれまでどおりお続けください。もしおかしいと気づいたら他のなにも知らないひとたちに伝えてください。あなたがたいせつに思っているひとたちとこの国の未来を守るために。
    


あまりにも多くのひとが死にすぎたはコチラ 
悲しいことにこれは氷山の一角です。ある薬品の危険を公開しようとしたひと、画期的な技術の考案者も。

月面でなにがあったのかはコチラ

日航123便についてはコチラ

ヒルズ関連はコチラ



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   三日間過ごしたホテルの部屋

    全劇研が終わってちょうど一週間たちました。わたしは子どもたちへの「表現のためのプログラム」の一部全4回をひきうけるにあたり、学びに行ったのですが、それがこの10年間の総括になるとは思いませんでした。

    近代の演劇をRADAでさわりだけでも学んだのは意味がありました。その内容はスタニスラフスキーとアレクサンダー・テクニークと即興劇だったのですが、わたしは近代演劇そのものが演劇の本質へ元がえりしようとしたものではなかったか....と今、感じています。

    芝居も語りもおおもとは台本のないものだったことでしょう。おそらくはじめは即興の祈りのようなものだった.....それが祭文となり、口伝えで伝わっていった.....やがて様式化していった。.....そこで、もともと芝居が持っていた生き生きした耀きを取り戻す....より観客とつながるための道を求めて..の試みのひとつであったのだろうとと思うのです。

    芸能の原点は見えないモノとつながることではなかったか.....神というか宇宙というかそれはひとそれぞれでありましょうが.....神も宇宙も天高くあるのではない。一番の近道はそれぞれのヒトのうちにある。ヒトは本来、宇宙...コスモス...とつながっています。つながることで魂の故郷に回帰し疲れやケガレを祓い癒される、これが魂振いの本質ではなかったかと思うのです。

    古代のひとたち..今でも先住民族で昔ながらの生活を守るひとびとは宇宙と大自然と種族の記憶とつながっているし、つながるすべを知っている。それは昔ごくあたりまえのことだった.....けれど人間は自分をまもろうまもろう、多くのものを獲ろう、掴もうとして、もっともたいせつなつながる力を失ってしまった......

    それで、役者修行には自分とつながる、ほかのものとつながるさまざまなエクササイズが用意されているのではないか.....意識をひらく、無意識界とつながる、周囲のひとつひとつのものとつながる、身体をゆるめる、それらは自分とつながる、役者同志がつながる、観客とつながる.....ために、必要な要素であり、かって持っていたが今は失ってしまったたいせつな機能を取り戻すことであり、それだから演劇教育は人間(ひとりでは生きてゆけない存在)性の回復に役立つのではないか。ことばを換えれば身体と感覚と魂と心のつながり、oneとallとのつながり、過去と未来をつなぐ機能を呼び戻すためのバイパスになり得るのではないか......。

........

    わたしは三つのまとまった考えにたどりつきました。ホテルで家ではできない全裸でエクササイズをしてみました。まだ歪みは残っています。左右の腕、肩、股関節の可動域は違います。それでも二年前に比べればバランスがとれてきていました。ベッドに横たわって声を発します。すると 身体に置いた手が微細な骨の振動をキャッチします。身体は楽器であり、適度にゆるんだ身体は共鳴するのです。体幹だけでなく四肢ももっと感応するようになれば、声はもっとかわっていくでしょう、方向性を間違えてはいない.....わたしはほっと吐息を漏らしました。

    それから この一週間 「ライ麦畑でつかまえて」....サリンジャー著のことがあたまから離れませんでした。主人公のホールデンは子どもたちがライ麦畑から落っこちない?はみ出さないように....キャッチャーになろうと決めます。ホールデン自身もつかまえて(たすけて)くれるひとがいなかったから......
わたしもライ麦畑のはしっこにいつもいました。だれも助けてはくれませんでした。......そして子ども時代、学校のなかでわたしよりもつらい立場にいる子をだれも助けてあげられなかった.......

    小学校や幼稚園に行ったとき、クラスのなかで孤独な魂はすぐと察知します。なにかピンとくるのです。わたしが語りをする原点は、子どもたちに「わたしは味方だよ、ここにいるよ」とものがたりをとおして伝えたい....のだと思います。絵本の読み聞かせも昔話のストーリーテリングも本を紹介することも、その奥にあるものはそうなんじゃないかな.......全劇研にくる先生たちも演劇をとおして....わたしはみんなの味方だよ、芝居をとおして楽しもうよ....という気持なんじゃないかな......キャッチャーになって落っこちそうな子どもたちを受け止めたい。

    

    劇あそびをしたとき、熱いものが身体も心もかけめぐりました。みんなとつながりました。すべてを受け入れたいと思いました。ものがたりを聴くだけでこれほどの喜びは得られません。サリンジャーは「ライ麦畑.....」をみずからの体験から書いたのでしょう。書くことで彼はなにかを取り戻したのでしょうか。あの本はやはらかな心、傷つきやすいやさしい心を持つひとの扉を叩く本です。

    語り手=ストーリーテラーは語るとき、おのずと自分とつながります。(図書館の読み聞かせ講座の指導のように)額縁になろうとしてさえにじみ出るものを消し去ることはできません。自分とつながり聴き手とつながることで、語り手=ストーリーテラーは実は癒されていくのです。与えるだけではなく、むしろ与えられている。わたしは語り手としてもっと先にすすみたい.....自分をもっと惜しみなく投げかけてみたい....と思っています。

    それと同時に或いはそれ以上にもっと強力なキャッチャーに、子どもたちの味方になりたい、やさしいだけでなくタフな子になるための手伝いがしたい。.....語ること以上に直接働きかける.....それは子どもたち自身が受け手ではなく自ら耀きだす手助けをすることなのではないでしょうか.....

    日本ではその昔、芸能は観客のいないものでした。精霊や見えないものととつながるすべだったのです。だからその本質に立ち返るとき、すべては当事者であり、観客も聴き手もいない。演劇セラピーでも、ベリットさんと拒食症の少女のストーリーテリングによる癒しにおいても、観客は不用でした。もっとも色濃く芝居や語り=ストーリーテリングが個人に働きかけるのはそういう時なのでしょう。すなわち子どもたち自身が自ら芝居し、ストーリーを語るときですね。今まで得たノウハウ、これから学ぶことをすべて差し出そう、自分の全身全霊を9月にはじまる表現のためのプログラムにぶつけます。

    つまり.....わたしのしたいことはキャッチャーとサリンジャーの両方になることなんです。サリンジャーになるというのは小説を書くことではむろんなくて、自分でものがたりをつくり、それを語ることで、自分とつながり、聴き手とつながる....聴き手に伝えるだけでなく、まだひっそりといるわたしのうちなる子どもを癒してゆこうということなんです。わたしがものがたりを再話したり自分で組み立てることにこだわるのは、オリザさんがいうように”ひとが書いたものをいかに自分の身体から出たように言うか”という芝居や語りに共通した課題をクリヤーできる...余分な作為を最小限にとどめられるという点もあるかもしれません。そしてふじたあさやさんが言ったようにモノ語り....死者の怨念を死者に代わって語る....再生の儀式において、書くことの必要に迫られてかもしれません。

  幾千の灯篭はそれぞれ手書きの絵が描かれています。

    芸能や芸術の目的はなにか.....それは再生ではないか....魂の身体の、生きる力の.....自らと他者のための.....久喜中演劇部顧問、斎藤先生は今は大劇場でなく、クラスのなかで演劇をやろうとしている...と言いました。ふじたあさやさんは芝居は300人劇場でも広いかもしれないといいました。まして語りは小さい場所が似つかわしい.....息遣いの聴こえる場所、ひとの体温が感じられる場所で古来からつたわるふるくてあたらしい.....ひとの再生につながる.....語り=ストーリーテリングのちいさい祝福された場所がいくつもいくつも日本中で花のようにひらきますように.....。



ライ麦畑でつかまえてウィキペディアは→コチラ

ちなみにわたしは村上春樹訳は読んでいません。この本を贈った子どもに訊いたところ野崎孝訳のほうがいい....とのこと.....なぜかほっとしました。



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 9本に別れた木 61年前 学芸大学が建つ前、ここは陸軍の施設だったそうです。


     最終日 ふじたあさやさんの講座「演出と演技のあいだ」、ふじたさんは参加者それぞれにこの講座に参加した目的を訊きました。隣にすわっていたので、わたしが最初におはなししました。

    「演劇の本質にパフォーマンスがあります。イメージを共有化するにあたり”構成”すなわち演出が必要だと平田オリザさんはおっしゃいましたが、パフォーマンスと”構成”をともに成り立たせるにはどうしたらいいか、バランスをどう考えたらいいのか、教えてください」

    それぞれのメンバーがそれぞれの思いを語りました。多かったのは子どもたちへの指導にかかわることでした。そして特別支援学級の担任が3人みえていて、わたしはそれがとても印象に残りました。


    ふじたさんは「今日は日本の演劇史をおはなししましょう、そのなかでみなさんの疑問にこたえましょう」といいました。

「演出のはじまり」 

    かつて演劇とは役者本意であって、演出という概念はなかった。近代合理主義のスタートとともにりアリズムがはじまる。さまざまなひとのさまざまな人生が舞台上に展開する(イプセン、ストリンドベリ→チェーホフ)主役の存在は希薄になり人物関係は等距離となる。そこで登場人物を整理して、観客の注意をアレンジする必要が生まれた。

    マイニンゲン候の私立劇団が近代演出の第一歩である。マイニンゲン候の劇団はパリで公演し、それを観て感動したアントワーヌはフランス演劇の父となった。同様にスタニスラフスキーも感動し、あたらしい芝居の時代がくると予感したスタニスラフスキーはダンシェンコと協力してモスクワ芸術座をつくった。これが近代演出+近代演技のスタートラインである。

    スタニスラフスキーは役者であって、演出家であり、有名なスタニスラフスキー・システムを構築する。彼は演技の本質を行動(アクト)と考え、何を目的として行動するかによって結果はついてくると分析的に捉えた。たとえば「おはようございます」というとき、どんな目的でどんな気持でいうか、そのことばで相手のリアクションが変わってくる。(最初から結果を)決めるな、即興でいけ ということである。ことばを替えれば 体験派 である。魔法のIF もしわたしが○○だったら....身体をとおった体験的つくり方である。


「体験派と表象派」

   表象の演劇とは、結果がわかっている演劇である。型の芸術である。名人芸で持つ芸術である。日本の歌舞伎は404年のあいだ、型の演劇をまもってきた。

「歌舞伎の歴史」
 
   関が原のあと、徳川幕府は幕府が倒されない仕組みをつくった。参勤交代によって諸国の大名は散財を余儀なくされ、ひとびとは文化的な叛逆に走り、傾き者が脚光をあびた。歌舞伎は出雲阿国が南座の河原で興業したのがはじめである。阿国はどういうものをつければ観客に受けるか、よく理解し工夫したので、(たとえば男装し遊女を口説いた) ひとびとは熱狂し、亜流がつぎつぎに生まれた。幕府は阿国の人気が侮れなかったので、阿国は放置したが遊女歌舞伎、若衆歌舞伎をとりしまった。

   やがて 幕府は内容に干渉しはじめた。ニュース的な時事的なもの(批判風刺につながるもの)は禁止された。演劇はもともと反体制的なものなのである。それで足利時代のことならいいが、新作はだめだということになった。結果リメイクにリメイクが重ねられることになった。


「日本の伝統芸能はなぜ強いか」

   ヨーロッパではギリシャ悲劇の時代からいつも『今の』演劇でありえた。日本の歌舞伎は出雲の阿国からはじまったが、幕府の統制により、今の旬のネタの芝居が禁じられた。歌舞伎には時代モノと世話モノがあるが、過去の物語が時代モノである。日本では芸事の練習を稽古という。稽ル古ヲ (いにしえをかんがえる)これは古事記の前書きであるが、長い時間をかけ稽古をとおして洗練に洗練を重ねてきたのが伝統芸能なのだ。わたしたちは404年前の現代劇を今、目の当たりにすることができる。世界のなかでこれは稀有のことである。

洗練→シンボリズム→表徴主義

歌舞伎には演出がいない。座頭が最初から最後まですべて、登場人物の衣装小道具にいたるまで把握し段取っている。何度も再演してきたので口伝えで1時間でセリフまでできてしまう。現実から切り離された世界を太鼓ひとつでつくりあげてしまう。様式の裏打ちするリアリズムである。


「突然の明治」

   坪内逍遥がシェークスピアやイプセンを訳したが、歌舞伎役者の声が聴こえるようなセリフだった。坪内逍遥は島村抱月にまかせた。島村抱月は歌舞伎のうたうようなセリフではない翻訳芝居をしたかったので素人を募集した。ところがその女優松井須磨子とできてしまったので首にされ、師に背いて芸術座をつくった。これは近代演劇の象徴、あこがれのモスクワ芸術座からとったのである。歌舞伎の様式性を否定しリアルを追求し大衆に支持される劇を目指した。抱月の先見性は主題歌を中山晋平に依頼したことにもあらわれている。中山は考えた末、五音階で主題歌をつくり カチューシャは大ヒット、芸術座はメジャーになった。

   一方小山内薫は大衆におもねる芝居だと抱月に反発したが、抱月が松竹と契約したことでついに軍門にくだりつかってくれと懇願した。ところが抱月がスペイン風邪で死去、芸術座は瓦解してしまう。小山内薫には土方伯爵というスポンサーがみつかり伯爵は私財をなげうって 日本ではじめてホリゾントのある劇場、築地小劇場が大正13年 オープンする。これが歌舞伎でない新劇のはじめての常打ち劇場だった。演出をしたのは日本では小山内薫がはじめである。やがて小山内薫死去。新築地劇団はその後、曲折の末 文学座となる。

「啓蒙主義」

   その頃、ロシア革命が起こる。川上音二郎は大阪でオッペケペ節にあわせ風刺的な歌詞で剣舞を踊り、自由民権運動のPRをした。日露戦争のドキュメントもおこない演劇の啓蒙主義的な考え方を示した。出雲の阿国の時代から演劇は政治的な不満を持つひとびとの文化であった。それはまた近代演劇の発火点でもあった。

1942年 スターリンは社会主義的リアリズム以外認めないと宣言、リアリズム演劇の祖スタニスラフスキーで行くべきだという方針を示したが、実はスタニスラフスキーは別荘に監禁されていたのである。弟子のメールホリドは身体性のつよいあたらしい様式をつくろうとしていたが捕まってしまう。杉本要吉と商業劇場がいっぱいになる人気を誇った岡田嘉子がメールホリドを慕ってサハリン越境までしたが、すでにメールホリドの時代ではなく杉本はスパイとして銃殺されてしまう。

「ほんとのリアルってなんなんだ!?」

   平田オリザは言う。「(自分の演劇は)リアリズムではない。リアルであることをやっている」...これは啓蒙主義的演劇への反発からくるのかもしれない。答がわかっているリアリズムなんてリアリズムじゃぁない。答が先に見えている(...ったおえばスターリン主義とか?)ことを証明するなんて.....。平田オリザはあたらしいリアリズムの二番手である。

ほんとうのリアルってなんなんだ!?

舞台で生きているように振舞え。魔法のIF もし わたしだったら......或いは 当事者性.....自分のことにしろ、ウソをつくな。

ところが役者は説明したがる、自分を見せるためのデモンストレーションをしたがる。よく聞くこと...聴いたフリをしない、今 はじめて聴く→心が動く、動作になる。

演劇におけるリアリズムの獲得とは果たしてなにか。

「現代演劇、叙事的演劇、異化する演劇」

   スタニスラフスキーは”舞台は現実であると思い込もうとしてきた”しかし舞台は現実ではない。ブレヒトは演劇は同化する感情.....叙情的演劇.....だけでいいのかと思った。ウソだと言ってしまっていい。時代に起きたことを証人として語っていい。これが叙事的演劇・現代演劇のはじまりである。日常のなかに演劇が存在する。日常のなかに異空間をつくりだす。ブレヒトは単にリアルであることを越える試みをした。アーサーミラーの「セールスマンの死」テネシー・ウイリアムズの「ガラスの動物園」も期せずして回想からはじまる。不安から生まれる感動。

「伝統芸能との邂逅」

   リアリティを越えたい、もっとつくりものでいいんじゃないかと考えていたとき.....白木表現の会で狂言に出逢った。なにか違うものが見えてくる。雲の山が見える。「ワザ」のすごさを感じた。

夢幻能は様式の極地である。ワキが旅をしている→前シテが報告→シテは生前のすがたになって登場→そしてそれはまた叙事詩的展開である。(死者の鎮魂)死者を葬らないと次の時代はこない。

「モノ語り」

  モノとは見えないモノである。モノについての語りに青森・下北半島のイタコ市...イチ...がある。生き残った家族はイタコをとおして亡くなったひとに会うことができる。死んだひとと生き残ったひとの束の間の交感、涙は滂沱と流れそれはさながらゴザ・シアターのように見えた。高橋竹山は津軽三味線の名手で地方の一芸だった津軽三味線を世界に紹介したひとだが、妻はイタコであった。(竹山は妻からイタコになる儀式....カミオロシのようなもの.....を教わり自分でも試みたようです。それでオトコノイタコと侮られたこともあったようです。竹山の聴衆の魂を手繰り寄せるような演奏は竹山のイタコ的な質からきたものもあったのではないでしょうか)このあと御霊信仰について言及がありましたが割愛します。

「モノ語る俳優たち」

   モノ語る俳優たち→演劇になった。今、中西かずひさという俳優と組んでひとり芝居をつくっている。さまざまな役を演じ分ける語り芸がひとり芝居の元型である。そこに歌がはいる、講談がある、芸をわたり歩く役者、そこに素の役者が加わってトータルして演劇なのではないか。

違いを演じれば演じるほど本人が透けてみえる。

「作者→演出家→役者→観客」

   作者の仕事は演出家に手渡したとき終わる。役者の疑問がなくなったとき目が輝きだし他の役者が気づき、芝居が変わる。そのとき 演出家の仕事は終わる。演出家は最初の観客である。納得いく芝居をするために演出家はチェックする。テーマは最初からことばとしてあるのではない。”観客ひとりひとりのなかにテーマがあり、舞台が観客を刺激するのだ”舞台のうえに人間関係ができていって、観客が一喜一憂する。

講義を聴いて考えたこと

   最後に参加者の質問があって、講座は終わりました。演技指導のノウハウを求めにきた参加者にとって、直接の答が得られたかどうかはわかりません。けれども奥の深い講義でした。わたしは自分が語りのためにRADAや松本エミコさんの塾で学んだスタニスラフスキーシステム、近代演劇の考え方....に賛同するとともに、いささかの違和感をも覚えていたことの理由がわかったように思いました。モノガタリのなかで生きる....目的はおなじです。生きた語りを教える方法としては近代演劇のシステムは役にたつ。スタニスラフスキーのシステムは意識を開くことを教え、無意識界へのとびらもひらく。役者をひらく。けれども、一歩間違えればそれらしくつくりあげるものになってしまいはしないか.....演出の仕方によっては。語り手の立場からいえば、語りは伝統芸能の血をひくものです。イタコ的なモノ....モノガタリをとおして全く個人的なひとの魂を癒す...という面もあります。

   わたしは自分が語るときと語りの方法を伝えるときに、異なる立場をとっていたのだと気づいて驚いたのです。自分の語りを分析的に捉えることはできません。なにか降りてくるものを待ちなさいとは言えない、それは不可知の個人的なものだから。それに近いものを探していたとき、演劇に出会いました。近代演劇も原点はおなじです。ギリシャ劇とはトータルしてひとびとを癒す一環のシステムのひとつでもありました。いまでもむかしでもエンターティンメントとは癒しなのかもしれません。

   ひとびとは感動したいのです。魂がゆれ響いて生きる力を取り戻す.....それが求められている。近代演劇はそのためにリアルを追い求め、現代演劇はリアルを越えたところにあるなにかを追い求める...振り子は振れて戻ってゆく.....そんなことを考えました。

   わたしはふじたさんにふたつ質問をしました。「演劇の本質はパフォーマンスですが、客観的に視ることも求められます、それは同時に可能ですか」ふじたさんの答「自分で自分を演出することはできない」......演出と純粋なパフォーマンスは相容れないものです。しかしそれがよいものであるならば、パフォーマンスのさなか、自らと場の客観視は可能だと知っている方は少なくないでしょう。

   次回で総括します。



スタニスラフスキーとは→コチラ

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築地小劇場とは→コチラ

小山内薫とは→コチラ

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   ワークショップ・劇あそびの講師は現役の小池先生とかつて第一線で劇あそびをつくりあげてきた先生でした。今回の全劇研ではもっとも楽しいプログラムでした。

① 劇あそびとは
② ウォームアップ
③ 劇あそび・大きなかぶ 三匹のこぶた
④ 三匹のこぶたのパロディをつくる
⑤ まとめ

   劇あそびとは

   劇あそびとは脚本のない”即興の”劇です。子どもたちは”役”をからだで読み取ります。

   ②ウォームアップ

① そーれ 拍手 のゲームでグループ分け
② 出て行けゲーム
③ 動物ゲームでグループ分け
④ 進化ゲーム かめ→とり→さる→人間 じゃんけんで」勝つと進化。しゃべってはいけない。動作と鳴き声。
⑤ もうじゅう狩りゲーム

   ③絵本をもとにした劇あそび

①さいしょに絵本を読み聞かせ あるいはストーリーテリングで伝える。

②大きなかぶごっこ 1チーム10人 半数がかぶになり、半数が役になる。あとでかならず 交代する。
③わたしたちのグループは最初、おじいさん役、おばあさん役....になりました。かぶのグループは男性が三人いてとても抜けない(かぶは手を組んで抜けないようにします)と思いました。声をかけてからだじゅうの力をふりしぼって...スッポーーンと抜けた瞬間の快感!! けれども、圧倒的にたのしかったのはかぶになったときでした。わたしたちは手を組み、足を組みました。相手チームが弱いところをねらって攻撃してくると、声をかけあい、はげましあい、支えあってがんばりました。 最後は抜けましたが、忘れられない思い出になりました。わたしたちはそのとき、日常以上に生きていたのです。

   つぎにおおかみと三匹のこぶたです。用意されたふろしきをそれぞれ工夫しておかあさんぶたのエプロンにしたり、ぶたのしっぽにしたりします。椅子をぶたのおうちにします。これもとてもおもしろかったです。

   ④ パロディ創作

   五分しか相談する時間がなかったので、即興でやりました。おかあさんぶたは「わたしはとてもがんばって子育てした....これからひとりでたのしく生きていくからおまえたちも自立しなさい」......とこぶたたちをおいて出てゆきます。残された子どもたちは新天地をめざして宇宙に飛び立つことにしてロケットをつくります。けれどもおおぶたのロケットも中ぶたのロケットも途中で落っこちてしまいました。

そこでちびぶたのロケットにのりましたが、なかなかエンジンに火がつきません。「あのね おおかみさん ぼくたちはこれからぶたぶた星に行くんだよ、ぶたぶた星はぶたがいっぱいいるんだよ ものは相談だが このロケット きみたちにあげようか」おおかみたちはロケットにのりこみました。 5.4.3.2.1 ゼーロ!!ドカァーーン ロケットはおおかみをのせて宇宙に飛んでいってしまいましたとさ....

     ⑤ まとめ

① 劇あそびはさまざまな役ができる。頭のいい子が案外動けない。勉強にてこずっている子がのびのび動いて役になりきることが多い。ひごろおとなしい子がリーダー性を発揮することがある。子どもたちの関係に変化が生まれ生き生きする。

② ふつうに遊べない子、しゃべれない子も たとえば”さる”になっていうことで相手の子は受け入れる。じゃまをする子もいるが、それはそのまま劇あそびにとりこんでもいいのではないか。 なにもしない指導もあるのではないか。

      感想

   劇あそびとは観客のいない、観客を意識しない劇です。その場にいるのは当時者だけです。ですから劇あそびを舞台にのせて成功させるのはむつかしいと思いました。かつてRADA(英国王立演劇アカデミー)の校長ニックさんは「演劇に必須のものは観客である」といいました。ですから観客のいない劇あそびは演劇ではない。.....あそびであり劇をつかったセラピーなのです。芸能の原点に観客がいなかったことを覚えていらっしゃいますか? 

   この劇あそびは当事者にとってただ演劇を見る以上に大きな価値があります。やってみてわかったのは、歓びと圧倒的な達成感、連帯感......ひとりだけれどひとりじゃないんだという実感でした。 これはまさしく魂振るいそのままでした。ふじたあさやさんの講座で演劇の原点と近代演劇の違いを知ることで、なぜ演劇の方法がコミュニケーションに役立つのかわかったような気がしました



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  センターの四つの椅子で即興のお芝居をしました。

......たいへん、ながらくお待たせしました。仕事とルイと遊ぶのにかまけて、ブログのUPが大幅に遅れてしまいました。......といいながら本当の理由はそこにないような気もしています。わたしはなにか....逡巡していました。それは、日がたつにつれカタチをなしてきたものが、わたしの”今まで”と”これから”に深く関わっていたからです。

   ”平田オリザさん”、”劇あそび”、"ふじたあさやさん"、三つのワークショップをとおして見えてきたことがありました。まずは平田オリザさんのワークショップから....


   ワークショップは定石どおり
1 導入
2 ウォーミングアップゲーム
3 エクササイズ
4 創作
5 まとめ

の順番で行われ、途中三度のシェアと創作のあとの講評がありました。


この導入のなかで多くのことが語られました。まとめてみます。

『コミュニケーションとは....』

① はじめてのひとに話しかけられるか? の問いに42名のうち10名が手をあげた。場合によっては話しかけられるひとは?  15名くらいだった。 それはどういう場合か....同性、同年齢、お酒の席、話しかけやすい雰囲気などの答があった。

② 日本人は外国人とのコミュニケーションが得意ではない。それは今まであうんの呼吸で間にあってきたからである。ところが今、日本で外国人が急速に増え”内なる外国化”が進んでいる。少子化により、移民を入れざるを得ない状況に追い詰められているのだ。そして日本人同士でも価値観の多様化によって、また世代間のギャップによってコミュニケーションがしづらくなってきた。

③ コミュニケーションにおいて(ただことばをやりとりすればよいのではなく)コンテクスト---どんな背景からそのことばが発せられたか---ほんとうに伝えたいものはなにかを知ることがたいせつである。

例 子どもが学校から帰ってきてうれしそうに「おかぁさん 宿題していかなかったのに、青木先生叱らなかったよ」と言った。このことばにどう返答するかであなたの親としての力量がわかる。....子どもがほんとうに伝えたいのはなにか?
”先生はやさしかった”である。

コミュニケーションとは「相手の(ことばの向うの)コンテクストをしっかり受け止めて返してあげることである」あなたのことを信じてたいせつに思っていると伝えることである。

『演劇をまなぶことはコミュニケーションに役立つか』

①たとえば、”砂漠”ということばについて、それぞれのひとにイメージの違いがある。「イメージの共有」....”それ”が見えるということが演劇を支える原理である。演劇とはどれだけ強いイメージを共有できるかを競うゲームなのだ。ゆえに演劇そのものがいいのではなく、道徳的に勝れているというのでもないが、演劇のノウハウはコミュニケーションに役立つ。

②観客はイメージのしにくいもの(日常的でないもの)を求める。観客は(極限状況の)人間の心のなかを少しだけ見た気がする。けれども、準備もなく大きなイメージを伝えようとするとひいてしまう。イメージの共有化が(段階的に)できていれば大丈夫である。

②そこで”構成”が大事になる。伝えたいことは一番伝えにくいことだ。わかりにくいものをどうやって伝えるか。その工夫が演劇である。内容よりも構成である。アイデアだけでもだめでエチュード=基礎訓練がたいせつである。
A身体の把握⇔内側に向かう B相手との共有化⇔外側に向かう
このふたつが片寄らず同時にできなければならない。


ウォーミングアップゲーム

① 色  くだもの 生まれた日 によって集まるゲーム 

② 1から50までのカードをつかうステータスゲーム

③ ふたり一組になり 架空のボールを投げあう。 感触やからだの動きを感じて今度は実際にボールをつかって 違いを確認し シェアする。


テキスト→創作

①3人一組になって台本を読み合わせする。電車のなか カップルが座っているところに女客がひとり現われとなりにすわるという設定。つぎに初対面の女性ににカップルの男が「ご旅行ですか」とたずねる”必然性”をつくりだすための台詞を考えて発表する。これを五分でつくる。わたしたちのグループではカップルのうち女性の役であるわたしが、女性が気になって見つめている連れの男に向かって「ちょっと、あんた なに見てるのよ」と言って爆笑をかった。一番必然性があるといわれたのは、女性が荷物を落としてとかあみだなにのせようとしてよろけて...とかいうものだった。

必然性がある→あたりまえ→つまらない

意外な設定でもって必然性があるのが狙いどころである。


まとめ

シンパシィ・同情からエンパシィ・共感へ......共有できるものをひろげてゆこう。

社会的弱者は”コンテクスト”からしか伝えない。(ものごとを論理的に伝えない)それをくみとることが必要である。それと同時に「ふだん話せないひとがどうやって話せるか考える」それに役立つのが演劇である。演劇とは「他人が書いたものをどうにかして自分の身体から出したようにいう」ことなのだ。


    平田オリザさんはこのワークショップを1000回はやったと言いました。導入からおわりまで一貫したテーマがありました。( )内のことばはわたしが補ったことばです。コンテクストについてわかりにくいと思いますのでリンクを貼っておきます。さて、午前は演出家平田オリザさんの演出家・劇作家としての視点から”演劇”というものを見てみました。午後の”劇あそび”ノワークショップでは現場から、つまり対角線から”劇”を見てみます。それはとても熱くて血湧き肉踊り魂の昂揚するものでした。

    語り手として、参考になること、あるいは若干の疑問符もありますが、それはふじたあさやさんのワークショップを紹介してからまとめます。


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   きのう 国分寺から帰ってきました。二泊三日のホテル暮らしで、昼はワークショップで頭をしぼり、かっては鋭敏だったが今は擦り切れてしまたった感覚を呼び戻すべく悪戦苦闘し、朝晩は自分の身体とじっくり向き合いました。

   今日は大事な用事がありますので、あすの朝には平田オリザさん、劇あそび、ふじたあさやさんのワークショップから、近代の演劇と伝統芸能についてのまとめと、自分なりに演劇から学んだこと、これからやりたいことなど書いてみたいと思います。2回くらいになるかもしれません。

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   緑陰の学芸大学で全国演劇教育研究集会が開かれました。平田オリザ氏の記念講演は演劇教育の可能性について示唆に富むものだったので、まとめておきます。

① マサチューセッツ工科大学においても、芸術教育が盛んである。なぜなら科学者こそセンスで勝負であることに気づき始めたからである。

② 日本においても大阪大学....医科が有名である.....ではコミュニケーション教育、表現教育、芸術教育に力を入れている。今に”演劇をやらないと医者になれない”時代がくるかもしれない。(※平田オリザさんは劇作家・演出家であるとともに大阪大学コミュニケーションセンター教授)

③ 小泉改革がもたらしたものは経済の問題ばかりではない。市場原理・グローバリズムは地方に荒々しく働く。地方の持っていた懐の深さがムザンに根絶やしになった。地方都市は画一化され、コミュニティは分断され、世代にまたがる重層的コミュニケーションは失われた。結果 地方に行き場を失った青少年の凶悪犯罪が増えた。

④ 青少年の居場所はネットカフェ、ゲーセン、カラオケになり、成功のスジミチは限られ、一度踏み外したら、元に戻るチャンスはない。(例 アキハバラ無差別殺人)いまや弱者に居場所がないのである。東村山の少年によるホームレス撲殺もそのことが生んだ悲劇である。少年は図書館で遊んで、ホームレスにたしなめられ、それを根に持っていた。日本では図書館はまだコミュニティスペースではない。学習の場所である。

⑤ あたらしい広場が必要である。ひとびとは強固な共同体を望んではいない。だれかがだれかを知っている”ゆるやかなネットワーク社会”に編みかえてゆく必要がある。

⑥ 芸術、演劇、音楽、スポーツはそのあみかえの接点になり得る。芸術文化による都市の再生が待たれる。そのためにマイノリティが参加しやすくなければならない。たとえば、東京では子どもの10人にひとりが両親もしくは片親が日本人ではない。すなわち日本語を母語としないあ子どもが増えているし、今後も増え続ける。


⑦ カナダでは、表現教育が盛んである。なぜならカナダも先住民族あり移民ありの多民族国家であるからだ。カナダではLTTA.....ドラマなどの芸術で主要科目を教えることで、知識の定着率は1.5倍になった。
子どもたちの表現を生かす、認めあう。見る、見られるという関係をつくる。

シアター教育→ドラマ教育→コミュニケーション教育

大阪でLTTA方式のドラマティーチャーはちかじか現実化するであろう。京都もしかりである。コミュニケーションティーチャー・ドラマティーチャーは専門職になり、やがて日本中にひろまるであろう(LTTAと聞いてわたしはとびあがり眠気が覚めました。)

⑧ 類人猿は子どもを集団で育てる、子育ては父親・母親だけでなく、本来社会全体でするものである。人間はさまざまな役割を演じて生きている。いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶってかろうじて演じて生きている....父、母、夫、妻、会社員、事務員.....人間は演じる生き物、ペルソナとはPERSON....仮面=人格である。アキハバラ事件の犯人は”いい子を演じさせられることに疲れた”と言った。タフな子ども、楽しむ子どもに育てよう。そこに演劇の価値がある。

まとまりませんが演劇教育の必要性は①弱者の居場所として②世代間・母語が日本語でない子どもがふえてゆくなどコミュニケーションを補うため③人間の本源的力の回復 にあるということでしょうか。違っていたらすみません。



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写真はあとでUPします。




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