遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



.....おはようございます。たのしいクリスマスを過ごされましたか? ご家族と?それともおひとりで? あるいはお友だちと、愛する方と....。

  きのう仕事から帰ってみんなで準備したディナー、娘がポテトサラダをスモークチキンやカテジチーズ、パセリで飾りブッシュドノエルのように仕立てたのが美味しかった、それから例年わたしがつくるティーパンチの評判がよかったです。キウイやいちごやりんごやメロン...色とりどりのフルーツをボールに入れて、ソーダと紅茶にブランデーを注ぐだけの簡単なものですが、今年はサイダーにしてレモン果汁少々とオレンジジュースを加えてみました。

   酵素玄米に変えてから我が家ではかたまりの肉やお刺身をいただくことが少なくなりました。夕べはチキンと手巻き寿司、オーブンで焼いた腿肉に舌鼓を打つ子どもたちのしあわせそうだったこと、若い人たちに無理をさせているのかなとすこしかわいそうに思いましたが、朝になるとみな体調がよくないようです。やはり腹八分目、菜食にちかいほうが身体が楽なのかもしれません。


   きのうのつづきです。......プロから学ぶたいせつなものはいくつかあります。呼吸、講音、身体の軸を意識すること、....要するにからだつくり、基礎となるうつわつくり=身体を楽器にすること、そしてイマジネーション...ものがたりをたちのぼらせる力。あとはものがたり.....

   けれども、たいていのプロの語り手がしていないことがあります。それは自分のことばで自分のものがたりを語ること.....他者の書いたものがたり、書かれた再話や文学を語るにはそのものがたりにちかづくためのさまざまな技術や試みが必要です。けれども、自分のつくったものがたりではさほど必要ではありません。2日前、シンガーソングライターのことを書きました....歌の世界でそれはあたりまえなのに、なぜウタと同腹の兄弟姉妹であるカタリ...語りではあたりまえではないのでしょう。

   今年一年都合8回のカタリカタリ外のワークショップをひらいて感じたのはすでにある語り手たちは総じて、語りやストーリーテリングをまったく知らないひとより自由ではない...ということでした。あひるの巣で育てられた白鳥のように一度プリントされてしまったことから自由になるのはむつかしいのでしょう。

   まったく知らないひとたちは実に自由に語ります。語りはもっとおとなのためのものであっていい。...社会ではたらくひと、人生の悲しみ喜びを知ったひとが、まっさらから語ることをはじめたら、どれほどゆたかな語りが生まれるだろうと思います。語りは音声とおなじ、人格そのものだからです。いかに装ってもそれは隠せませんし、隠す必要がありましょうか。今の自分を認め抱きしめずして他者を愛するのはむつかしい....過程であってもいい、自分のほんとうの声、音声に耳を傾けることできっとあなたは自分を大切に思い、心から愛することができるようになります、そしてあふれる愛で聴き手を喜ばせ楽しませ感動させることでしょう。そのとき、あなたのまわりの景色はきっと今までとは違うはずです。

   プロから学ぶべきもののもうひとつは客観性です。わたしは語りの本質は即興にあると申してきました。また自分が語るのではなく ものがたりのための あるいはなにものかの代弁をするためのうつわになることが目標だと言ってまいりました。それは客観性と両立するか疑問に思われるかもしれません。..しかし両立するのです。ほんとうにいい語りをしているとき、集中しているとき、語っている自分、聞いているひとびとがはっきり見えます。自分の声が聴こえ、ものがたりのなかにそして外にいます。そして時間はなくなります。

   じつは ずっとずうーっとそれが不思議でなぜだか知りたくて、そのために語りを知ろうとし追求してきたのでした。おなじように感じる仲間を求めてきたのでした。....役者や歌い手、奏者のなかにたまたまいらっしゃいましたが、語り手でおなじように感じる方とはまだであっておりません。...それでもいい、いつか出会えるだろう.....と思います。講座に参加しわたしの語りを聴いてくださった方から”......さんのような語り手はそうそう出ないと思う、....なぜ仲間を求めるのか”....というメールをいただいて、しばらく考えこんでいました。

   わたしはいったいなにをしようとしているのだろう。仲間を集めたいというより、埋もれている語り手を発掘したいのです....だから...望むひとがあるならばいままで学び気づいたことを手渡してゆこう。ひとりで気づくのはむつかしいから....それがわたしができること、喜びでもあるのだから....語り手がひとりふたりと増えてゆくことで世界は確実にやさしくなる、変わってゆく。これから訪れる長い冬の時代、語りはかがり火、あるいは一本のろうそくのように語り手のめぐりをあたため照らすことでしょう。わたしも自分の求める語りに向かって歩いていきましょう、道草もするでしょうけれど、どこまでも、どこまでも。

   
今年の「遠い声、遠い森」からの私のメッセージは今日が最後です。一年間ありがとうございました。どうぞ、よいお年をお迎えくださいますように...。





   


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   雪もないし、寒いし、世は不況の大合唱だけれど メリークリスマス!!

   クリスマスはほんとうはイエスさまのお誕生日ではないのです。冬至のあと....あたらしい太陽の誕生を喜び祝った太古からの祭....それを教会がキリスト教を広めるために借用したといわれます。聖ヨハネ祭....だったか夏至の祭もそうですね。おおもとは洋の東西を問わず太陽、自然そのものが神でした。

   ともかく あたらしい一年のはじまりで、あたらしい時代もまたはじまるのです。途中苦しそうだなぁ...貨幣経済もなくなるかも、木の根草の根をあさるようになるかもしれない....やはなわたしは逃げたいけれど そうもいきますまい。これからはひとりひとりがヒーロー、ヒロインの時代です。

   さてきのうのつづきにはいりましょう。わたしはなにを伝えたかったのだろう....22日の夜、テレビの音楽番組を見ていました。日本テレビです。歌手たちがつぎつぎに歌う....声の響きを聴くうちにストーリーが見える歌とそうでもない歌があるのに気がつきました。広瀬香美さん、辛島みどりさん、サザンの桑田さん...そうシンガーソングライターの歌はものがたりがよく見える...なぜかな.....歌詞にはおのずと書いたひとの人生がのってくる...優れた歌手とは役者であるとも聞いたことがありますが、真実はもっともつよいわけです。もうひとつ気づいたのは歌手の目です。....浜崎あゆみさん...非常にながいあいだTOPで活躍されていますが、彼女の観客...ほとんど若い女性....を見る目は聖母マリア目線でした。もうひとりキリスト目線の男性歌手もいて、なるほど歌手は伝道者でもありファンは信者なのだと思いました。

   今年考えてきたことのひとつはプロとはなにかでした。ある役者さんはこういいました。"30回も同じ公演をしていると一回ごとに「生きる」のはむつかしい。そこでプロのテクニックが必要なのだ"鈴木メソッドの原点である怪優...のご主人はこういわれました。"ひとつの公演で1日か2日、ステージと観客席が至福に包まれるときがある、そのために毎日ステージに通う”

   演劇はライブです。同じ芝居なのにその日の天気、出演者の体調や観客によってまったく別物になることがあります。そしてプロであっても毎日観客を感動させるのはむつかしい。よくお客さまを満足させる....といいますが、チケットに見合うだけ満足してもらうことがプロの必須条件でしょう。...さもなければ明日はないのですから。一方観客が芝居やライブのチケットを求めるのは”楽しみたい....感動したい....泣きたい....笑いたい....一体感を味わいたい.....生きてる感じがほしい...”  ある種の感動があってその歌手なり役者なりのファンになり見つめていたいと思うようになる....そこに操作があっても....歌や芝居というものと歌手や役者が一体のものである......と直感でわかるのでしょうね。

   レヴェルは違いますが、市井の語り手は30回に一度か二度...聴き手とひとつになればいいというわけにはいきません。子どもたちとは一期一会かもしれない、この時を逃したらあとはない。1回、1回真剣勝負であるのはプロと同様です。そのために必要なのは技術ではないと思ったのです。自分の生命、人生をすなおに声にのせる、そこにものがたりがひとつになったとき、聴き手は揺り動かされる...そのひとの今でいい....飾ればわかる、つくってもわかってしまう。

   感動させられる....と感動するとは違います。わたしたちが目指すのは自然なものでいいとわたしは考えます。プロは力とわざで増幅させることができるけれども、それはステージの大きさや同じ公演を毎日続けるという必要性に根ざしたものでもあるわけです。...そこに気をとられると本質を見失ってしまうおそれがある....もちろんプロを目指したい方、もっと上手くなりたい方はどんどん学べばいい。できるだけ自分にあったホンモノの師匠をみつけること、芸事に関してはお金はかかってもそれが一番の近道です。.....つづきはあした





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   先週 韓国でフィギュアスケートのグランプリファイナルがひらかれました。ドビュッシーの”月の光”ハチャトゥリアンの”仮面舞踏会”にのせて浅田真央さんは優雅に舞ったばかりでなく、世界ではじめてトリプルアクセルを2回決めるという快挙を成し遂げ優勝しました。

   わたしは40年来のフィギュアスケートのファンですが、浅田真央さんとキム・ヨナさんはフィギュアの歴史を変えた..といってもよいと感じています。キム・ヨナさんのジュニア時代の”あげひばり”は叙情性において背筋が震えるほど素晴らしかったです。ライヴァルと目されたふたりですが、キム・ヨナさんが安全率の高い演技に終始するのにたいして、今年の真央さんの進化には目を瞠るものがありました。目線の高さ、今の自分を越えてゆこうとする強い意志を感じたのです。志の高さは演技の質にもあらわれていました。

   真央さんの演技からものがたりが見えるのです....羽のようにかろやかで優雅、プログラムがあまり高度なのでシーズン当初はこなしきれないのですが、回を追うごとにプログラムは密度と精度を増し耀きます。ですからシーズン最後の世界グランプリでもっとも力を発揮するのです。彼女の真のライヴァルは彼女自身なのだと思いました。そのひたむきさをほんのすこしでも自分のものにできたらと願うとともに、遠い夢ですが浅田真央さんのプログラムのようなストーリーテリングを一度してみたいと思っています。

   ところが今回のファイナルにはおかしなことがありました。どうみてもジャッジが変だった。浅田真央さんとキム・ヨナさん、中野ゆかりさんの点数がとくに奇妙だった。韓国開催ですから、そんなことはあってはならないことですが、地元有利の判定が出るとしてもあまりに露骨でした。浅田真央さんのロシア人コーチ、タラソワさんはショートプログラムで浅田真央さんが二位になったとき、各国メディアの前で「ジャッジがおかしい」と抗議したそうです。

   もっとおかしいのはタラソワさんの抗議やジャッジについて、日本のメディアがまったくといっていいほど報道しないことです。それどころかある朝の人気番組で「キム・ヨナ選手のほうが浅田真央選手より技術その他で上である」という大合唱がされていた....CMの本数とか歌が上手いとか、はては妖艶であるとか衣裳の色がいいとかスケートになんの関係があるのか....そのコメンテーターの中には引退選手もいれば、録画でスケート連盟の理事すら出演し キム・ヨナ選手を賛美しているのです。

   なんと不思議な国でしょう? 自国の選手がアウェイで必死で戦って勝利したのにかかわらず、誉めそやされるのが他国の選手とは....後日この番組は押し寄せる抗議にたいしておざなりの謝罪をしました。番組のなかで唯一中立を保った良心的なアナウンサーが述べたことばは「えっ 大技(トリプルアクセル)を(世界ではじめて2回)決めても勝てないんですか?」

   なぜ、こんなことが起きるのでしょう。韓流ブームが「電通」という会社の戦略によるものだということをご存知の方は多いでしょう。ブーム当初韓流スターの来日のときには多くのサクラが用意されました。そしてそれはテレビ電波にのって日本中に流されました。わたしの友人のなかにも韓流スターのファンが幾人もいますし、きっかけはなんであれ歴史的なつながりのある両国が互いの文化を尊重し友好をむすんでゆくのはすばらしいことです。....しかしなぜ”電通”は韓流ブームを起こしたのでしょう。電通の経営者はだれでしょう。その出自は....日本のテレビ局を牛耳っているのはどの会社でしょう。

   テレビ局は広告収入にたよっています。消費者よりおそらくスポンサーの方が大事です。電通だけではありません。東京電力も有力なスポンサーですし、処理施設は国策でもありますから、六ヶ所村の原子力燃料再処理施設が稼動することで太平洋沿岸が汚染されることがわかっていても、日本国民の生命にかかわるとわかっていても、生命と三陸の海の幸を守ろうとする動きがあっても報道されないのです。(英国シェフィールドの再処理施設...稼動停止中..の操業と事故によってはるか対岸まで汚染され、周りでは小児癌が多発、英国中の子どもたちの歯の放射性物質に変化があったという調査があります)

   おとなりの中国や北朝鮮について報道管制が敷かれている国であるとわたしたちは認識しています。それに比べて日本に報道の自由はあると.....わたしはかつて信じていました。けれどもネットによって世界のニュースが瞬時に入ってくるようになり、信頼できるニュースソースをみつけると...どうもおかしいと気がつきました。

   重要なのにまったく報道されないニュースがある、それだけではなくときどきNHKと民放が同じ趣旨の特集をほとんど同じ時期に組んでいる....これは偶然だろうか....今わたしはテレビや新聞の報道をすべては信じてはいません。なんらかの操作、フィルターのようなものがある、たいせつなことは自分で知ろうとするしかないのです。

   それにつけても不思議です。メディアの一部はわざわざ日本国民と韓国国民を仲違いさせようとしているのでしょうか。それほど愚かなのでしょうか。それともこれもどこかの国の策略でしょうか。

フィギュアスケートグランプリについての各国の報道の一部です。

やっと勝つべき子が勝った。........ロシア
キムの点は真央を愚弄した。........イタリア
真央は史上最高のスケーター、全てがこの上なく美しい......アメリカ
真央こそが他の選手達も私達も本物の世界女王と思える奇跡の選手....カナダ
真央は重量級のボクサーと同じで破格の実力者はどんな状況でも勝てる事を示した....ドイツ
真央は春のお姫様のように愛らしい。彼女こそフィギュア界が待ちに待った本物の女王.....スウェーデン
   

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    今日は中学校のおはなし会でした。2組では”つつじの娘”を語りましたが、クリスマスも近いし わたしにはひとつ とても語りたいものがたりがありました。子どものころ読んだ少年少女世界文学全集のなかでも、それはとてもちいさなものがたりでした。けれどながいこと忘れられなかったのです。

    昨夜 おそく本棚の本を片端から出して調べてみると題名は「愛あるところに神あり」作者はレフ・トルストイだということがわかって正直のところ驚きました。レフ・トルストイはご存知のように「戦争と平和」、「アンナ・カレーニア」を書いた文豪です。この全集にはやはりトルストイが書いた「イワンのばか」も載っております。イワンのばかは子どもも対象にした作品ですが、この全集の稀有なところはガルシンの”アタレア・プリンケプス”、メリメの”マテオ・ファルコーネ”あるいはA・フランス、チェーホフ、ティークのような作家の掌編など、どうみても”子ども向き”とは思えない名作が選ばれて、小公子やピノッキオのような子ども向きの作品と肩をならべているところです。そのほかにもニーベルンゲンの歌、ローランの歌などの伝説が再話されていて、志の高さというか、未来を担う子どもたちへの愛情が感ぜられて 胸が熱くなります。

    さて、前置きが長くなりました。子どものころ読んで 忘れがたかった「愛のあるところに神あり」をそのままでは長いので再話しようとしましたが、夜おそかったのでできませんでした。朝になって...さぁ、どうしようかと決断を迫られたとき わたしは....語り手は語りたいものがたりを語る.....という不文律に従おう、このものがたりを子どもたちにわたしたいという気持ちにしたがおうと思いました。.....A小で語りについて子どもたちの感想文集をいただいたとき、つつじの娘や空と大地の...とおなじくらい子どもたちの支持をうけたのは椋鳩十さんの「赤犬の話」でした。このものがたりをわたしはできるだけ忠実に.....しかし覚えることはせず即興で語りました。(そのときビンビン子どもたちから伝わってくる感覚は今でもはっきり覚えています)よし、即興で語ろう、ものがたりが魂に刻まれているなら、だいじょうぶ...。

 
    学校で、語りはじめたとき、もう余計な気持ちはありませんでした。ただものがたりをわたすだけ......担任の先生も聴いていてくださったようでしたが、この先生は読み聞かせのご担当だったのです。あとでわたしたちの控え室に見えたとき、「語りははじめてですが、いいものですね。すっかりものがたりに引き込まれてしまい、読み聞かせのときとは違って子どもたちの観察もしませんでした」とおっしゃいました。

    よし...これで行こう...とわたしは思いました。50年前の文学全集にはすばらしい作品がたくさんあります。そのものがたりのエッセンスを再話あるいは即興でわたしの声、わたしのことばで子どもたちに届けよう。語りをとおして読書にもつながってゆくかもしれない。一年間みな違うものがたりをするなら24のものがたりが語れます。あたらしい希望、あたらしい旅のはじまりです。子どもたちとそして仲間たちと....。




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   ひとつ山を越えました。なかなか大きな山でした。参加者のみなさんと攻略したのはなんだったでしょう。身体・感覚・こころの一体化、自分のめざす語りへの道を夢見て地図にして歩くこと、シアターゲーム、ステータスゲーム、鈴木メソッド、即興、CAV発声、アレクサンダーテクニーク....7日間42時間のうち20時間は演劇畑のトレーナー、演出家、役者、劇団主宰者におねがいしました。残り20時間は自分のめざす語りへの地図を書き、イメージトレーニング、自力整体をし、詩を語り、ものがたりをチームで即興劇にし、感覚を磨き感覚をひらくためのゲームをし....実に多くの試みとたのしいことをしました。

   演劇畑の方の力をお借りするのは、語りのためのメソッドというものが確立されておらず、感覚をひらいたり声を出したりする基礎的な訓練が演劇とかさなるからです。けれども現代演劇と本来の語りには大きな違いがあります。あたらしい語りのための教授法が必要です。

   今日の2時間はおはなし会でした。それぞれとても惹きつけられました。みなさん 声がじつにやはらかくなりました。今回のシリーズは感覚と身体と心も連環という基礎的なことに主眼を置いたのと講師が演劇畑の方だったのであらかじめあるテキストからの語りでしたが、基礎ができてしまえば自分の声で自分のことばでものがたりを語るのはこのメンバーでしたら決してむつかしいことではないでしょう。

   まったくあたらしいタイプの語り手の誕生も予感されました。踊る、うたうだけでなく 思いがけない参加型の試みが生まれるでしょう。あたらしい若い芽ともたらされるサプライズを見守っていくのは喜び以外のなにものでもありません。わたし自身 もうとおり過ぎたところをお伝えするのだと思っていたのに、それはとんでもない間違い、みなさまを案内することで大きな発見をしました。メンバーが違うと見える景色もちがってまいります。

   今日 わたしは餞に”おさだおばちゃん”と”名草姫伝説”を語りましたが意識が飛んで魂の半身がどこかにいってしまいました。なぜハンドバッグにマクドナルドの袋があるのかわからずびっくりしたり(昼食にメンバーの方が買ってきてくださったようです)、午後の講座で堀井先生とずいぶん長く語っていたような気がするのに、まったく内容を覚えていないのです。時間と距離の違和感、月がふたつある感じ.....トランス状態がこんなに長い時間続くのははじめてでした。ものがたりのウツワに近づいた感じがしてそれはそれでうれしいのですが、もっとコントロールできるようにしようと思います。このブログも書くたびに飛んでしまいこれで4回目なのです。

   明日は中学校の語りです。さぁ4度目の投稿をしてやすみましょう。おつかれさま....メンバーのみなさん、すこしがんばったワタシ。




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....きのう今日とフィギュアのグランプリシリーズのファイナルでした。フィギュアのファンとしては見逃すわけにはいきません。浅田真央さんがトリプルアクセルを2回翔ぶという女子でははじめての快挙を成し遂げ優勝しました。

  それはそれでうれしかったのですが、ジャンプよりもわたしは浅田真央さんのフィギュアスケートのものがたり性と叙情性に惹かれますし、チャレンジ精神に惹かれます。キム・ヨナさんも才能のある選手で”あげひばり”はほんとうに素晴らしく鳥肌が立つほどでしたが、最近見せることと安全率を考える演技が目につくようになり、すこし残念です。

  選手ひとりひとりの演技を見ていると、声がひとを伝えるようにスケートにもひととなりとかなにをたいせつにしているかが浮かび上がってくるようで興味深いです。テクニックもさりながら、ごまかしようのないものもあります。こんなふうに日々のくらし振りやことばつかいに内面があらわに見えているのだ....と思うと一挙手一投足もあだやおろそかにはできない...と怖くなりますが、なに今の自分を差し出すしかないのだから



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   有体に言うと語りをアイディンティティーの拠りどころにしているところがわたしにもあったのです。つまり不在証明.....アリバイです。語ることはわたしの人生、わたしの生命を補完することでもありました。それもわるくはない。

   けれど、声について学んでから、自分の声、ひとの声に耳を澄ませ、気配、仕事の仕方、応対..など視るともなく見、聴くともなく聴いているうちに声というもの、語り、仕事......あらわれるほとんどのことが人格そのものであること....がわかりました。トラブル、ミスはたいてい起こるべくして起こるのです。場合によっては気づかずしてあえて起こしている....人格...パーソナリティといっても今のその方に責任があるものもないものもあるのですが、どちらにしても降って湧いたものではないようです。

   声が変わることと人生が変わることは連関しています。けれどもそれは入り口と出口であって実はもっと深いところ、目に見えないなにかが変わっているようにわたしには思えます。時間ができたら...できないまでも日々の生活のなかで学んでゆきたい、つきとめてゆきたいと思います。

   さて、わたしはわたしの生を「語ること」で補完してきた...と申しました。「語ること」でわたしは...なにがし免れることがあるように思いました。.....わたしにとっても 「語り」はある種のステータスであったのかもしれない。語ることは免罪符になり得ると信じていたわたしは、つい先ごろそれは執行猶予に過ぎないのだと知りました。

   真にむきあうべきはわたしの身体、わたしの心、食べること、生きること、愛すること....わたしの生命 それがかたちを変えて声ともなり、語りともなる、補完するものなどとは思い違いもはなはだしかった.....。

   かといって趣味であったり、芸術であると信じている方が間違っているとはゆめゆめ思いません。述べているのはわたしの感じ方、わたしの生き方なのです。芸能にたずさわる方々は濃い人生を送っている方が多いように思います。それはもともと自分に求めることも多いのでしょうし、芸能とは目に見えないものに直接間接につながってしまうものだからなのでしょう。ある部分を突出して補完してゆくことで徐々に内面も変わってゆける....好きなことだから加速できる。けれども根本から変わろうとして変われるならそれがいちばん自然であるように思います。



....世は波立ち、わたしの生活の場もけっして安泰ではありませんが、こんなに平和でやすらかで自由でいられたことはいままでにありませんでした。ここまで導いてくださった多くの先達の方々、励ましてくれた友人に心から感謝申しあげます。





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年をとると気が早くなるのかしら、2008年を振り返ってみたいと思います。友人から 語り手たちの会の基礎講座が終わったと聞いたせいかもしれません。...そうか....終了おはなし会だったんだ....公開講座はやらなかったのかな....自分でたてたスケジュールなのにすっかり忘れていました。16人の修了生のかたがたの語り手としての年月がどうぞゆたかなものになりますように。

  マグダラのマリアを語ったこと...もとても遠いことのように思われます。水色の空から金色のしずくが降り注いでいたような記憶があります。......けっして満足のいくできではありませんでしたが、なにかにつつまれていました。いつかまた約束が果たせますように。

  阿部さん、堀井さん、日原先生、満喜子先生との出会いがありました。あたらしい友との出会いがありました。こころから感謝します。そして別れもありました。川瀬先生は療養のため高山にいってしまわれました。どうしておいででしょう、思い出すと涙がでそうです。語り手たちの会を飛び出しました。

  もっとも大きな出会いは自分自身であったように思います。


  
  



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......きのうの夕食は猪鍋でした。いただきものの猪肉....娘はネットで調理法を調べ、腕によりをかけてあわせ味噌で仕立てました。....匂いを嗅いでわたしは陶然となりました。樹木のような樟脳のような臭い...とてもなつかしい....幼い頃の遠いふるさとの味のようになつかしい....。猪なべ....はじめてのはず...なのですが、昔食べたことがあるのかもしれません。ベジタリアンなのでもちろんお肉は食べませんでした。腕によりをかけた娘は「気がぬけちゃった」とぼうっとしていました。とてもおいいしいものだと期待していたらしいのです。昔はご馳走だったのでしょうが、今のわかいひとたちの口には合わないようで、歓びいさんで食べていたのはかっての野生児...夫ばかりでした。


   食したものが即からだの細胞に変わってゆく...とまえにおはなししたでしょうか。わたしたちの3次元的肉体は食べ物によって成り立っているわけですから、食べ物≒生命の質....水や空気を含めてからだにとりこむものが生命の質に深く係わるわけです。それと同時に視るものや聴くもの、感じるものの質も生命に深く関ってくるのですが、ここでは直接口から入るものについて考えてみたいと思います。

   食べ物について、「顔の見える生産者から求めるのがよい」と言われます。よく知っているひとでしたら、どんな育て方をしているかわかるし、知っているひとに有害なものは渡せませんよね。わたしの知っている農家の方でも、農協に出すものと自分で食べるものをはっきりわけている方は多いようです。

   うちでは堆肥...伐採抜根材を細分し寝かしたものを農家にただでさしあげているので野菜を食べきれないほどいただきます。お米は農薬....除草剤や殺虫剤を含めて一切使用していないものを玄米で買い貯蔵しています。弁当も冷凍食品も基本的に買いません。なぜか...直接たずさわるひとからの情報を聞くととても買う気にならないのです。

   日本はお隣の国とは次元がちがいますが不思議な国です。食産業にたずさわるひとが自分の生産したものは食べないっておかしくありませんか? それは食物だけではありません。この季節、インフルエンザだ、ワクチンだと新聞テレビも喧しいですが、ワクチンを自分の子には打たない...お医者さんがいます。ワクチンはあまり効かない....のです。それだけではない、副作用が大きい。利かない?? あんなに高価なのに?? そう、高価だから年々接種人工がふえるのです。ワクチンはどこからきているのか、ダレの懐が豊かになるのか....興味のある方はお調べください。薬については恐ろしい話がたくさんたくさんあります。

   ちなみにわたしの家では25年前から一切予防接種、ワクチンの類を子どもに受けないようにしましたが、子どもたちはすこぶる元気に育ちました。娘にうらまれるほど健康です。

   どういう生き方をとるか選択することによって、生命の質とは自分で選択できるのでしょう。クムランで発見された文書でしたかそうでなかったか忘れましたがイエスが「知ることがたいせつだ」とおっしゃったことは真実だと思います。わたしたちが生きてきた人類の歴史や今生きている社会の仕組みについて知ろうとすることは、わたしたちの生き方をかんがえなおすことにつながり、生命の質を高め深めることにつながってゆきます。



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   草月ホールに行きました。満喜子先生、ダミアン原田神父、片岡通人さんのライブ・ワークショップ"声・魂の蘇生"があったのです。銀座線青山1丁目で降りて地上に出るとなつかしいお堀端の風景....草月ホールで真夏の夜の夢を上演したのはいつだったでしょう....月日の経つのは早いものです。

   ひとは年をとっても進化できるようです。.....わたしもまだまだイケルかも。すべりこみどころか開場時間前についたので最前列中央に座りました。ヴォア・セレスト13名のうたではじまりました。響きわたるうつくしい声、ふりそそぐ高周波。ダミアン神父のティンシャとソロのうた....ティンシャの響きとうたごえの倍音がからまり共鳴しあい、どこから聴こえてくるのか...それはうつくしかった。

   OBB Overtone Breath Band のダンスと歌....身体の動きと声がひとつになったとき、声は本来の力を取り戻します。聴くひとのからだやこころと共鳴する響き、あふれる喜び、生命のきらめきがダイレクトに伝わってきます。声はこんなに力に充ちてうつくしい。青森の旅でごいっしょした方々が7名ステージにいらっしゃって懐かしかった。Oさんをはじめ数名がセンターでソロで歌い踊りました。その方だけの声とダンスは命の炎そのものに見えました。うたっている方々より踊りうたう方々のほうがすきとおってみえました。

   しかし今日のもっとも大きな発見はコト・モノコードでした。コト・モノコードは日本の琴をヒントにヨーロッパでつくられた弦楽器で最初は音楽療法につかわれたのだそうです。吃音の改善そして死にゆくひとの耳元で奏でる看取りの音楽ともなるそうです。(聴覚は息をひきとったあとも機能しています)コト・モノコードの響きのあと亡くなる方の顔に歓喜の表情が浮かぶとか...。

   上部の17弦とはべつに胴の下部に31弦のブルドン?があって、これがうなり..を発するのです。わたしは鳥肌がたちました。わるい意味ではありません。CAVのサワリ....フィルターをかけたところでもそうなのですが、ざらざらっとした音に意識がひっぱられトランス状態に近くなる...これはイタコのつかう梓弓にも通じる音なのだと思います。アルペッジオがもういちど聴きたい...です。シターの光きらめく音とは別の次元にさそわれる音でした。コト・モノコードは本邦初演だそうですが今後もダミアン神父から目がはなせなくなりそうです。ティンシャの遣い方を目の前で見せていただいたのも収穫でした。

   場内では幾人かの友人とあうことができました。あたらしい語り手の誕生もまじかでしょう。ロビーではケーキとともに酵素玄米のおむすびの販売もありました。ためしに買っていただいてみましたが我が家の酵素玄米のほうがずっと美味しいと感じました。おなじお釜、おなじ炊き方のはずですがしだいに炊くひとのなにか家庭のなにかがくわわってゆくのでしょう。このごろ人生がおもしろくてなりません。....いつ死んでもいい、三人分くらい生きたし...なんて思っていたのが夢のよう....世界は謎で充ちている、そしてその謎を解く鍵をあけるのは自分の好奇心とチャレンジなんですから、もっともっと冒険しましょう。






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   ビウエラレッスン....水戸先生に演奏を所望しました。響きが背骨をつたわって心臓に届く、つきささる グリーンスリーブス..涙を抑えかねました。どうすればこんな風に弾けるのだろう....左の指を弦におく 右の指で弾く ほんのすこし左がはやい 右の指は一瞬触れるだけ 音をためる それがどうしてもできません。左と右がいっしょになる、いつも右のひとさし指が準備して弦のうえで待ってしまう。いそぐから 音をためられない。なんて下手なんだろう。歯噛みする思いでした。クセがついているようでした。....なんでもっと早く教えてくれなかったんだろう...

   終わり間際「どのように練習していらっしゃるのか見せてください」というと先生は人差し指で一音一音何度も何度も弾きました。つぎに薬指で...それから音階を そしてふたつの基礎的な指遣いを....単調な練習を40分 毎日してはじめて曲にかかるそうです。

   「これがプロの練習だよ」「左右の指をコントロールするのに20年かかった」「20年!?.....わたし死んでしまいます」「憎まればぁさんは死なない」「ぜったい 死にます」.....といいながらわたしはひどく心を動かされていました。....やはり基礎なんだ。

「早く 教えてくれればよかったのにと思っているでしょう?」「思っています」「あるレベルに達していないといくら教えてもムダなんだ。ぼくはムダはしない。」
「なぜ、先週から教え方が変わったんですか?」「あなたが変わったからだよ。教えられるほうが変われば、教えるほうも変わる。」......たしかにそうだとわたしはおもいました。.....帰るとき、玄関まで送ってくださった水戸先生が巨大にみえました。

     あの響き.....透明な輝きに充ちた響きを出すのに先生はたゆまぬ努力を何十年も続けている。プロはどれだけの努力を自分に課すのだろう。ふとトマティスの朗読発表会で、女優の森秋子さんが昂然と(...とわたしは感じたのです)こちらを見ておっしゃったことばがよみがえりました。「プロの朗読をお聞かせしましょう」....1月、代官山で”幸福の王子””ラブレター”のものがたりシアター公演があるのです。

     プロのプライド..を感じさせるひとことでした。.....アマチュアの語りや朗読にはその方のおひとがらや人生がうかびあがるものです。すなおな語りや朗読はそれだけで 聴く人のこころを打つ....わたしはそれがすきです。プロ....は、鍛えられた深く響きのある声を駆使し、内面だけの勝負でなくさまざまな技法でもって人物やものがたりをたちあげる.....コントロールと発露・

     アマチュアとプロとはお金をもらうもらわないだけでなく勝負どころが違うのだろうと思います。....わたしはつくらないことにこだわってきた....それならこれからできることはひとつだけです。わたしは自分のルーティンワークを考えよう、そしてできるかぎりつづけよう。....ただ、もういちどラブレターで実験してみようかな.....その日 語りをするわけですから 両サイドのことをしようとするわけです、混乱するかな....。




   

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....HIKOさんのコメントでたいせつなことを思い出しました。今年の1月、たぶんずっとそれ以前から魂では気づいていたのでした。
”わたしたちは身体についてあまり知らない”ブログの記事です。コメントにも書きましたが、西洋のメソッドでは対象がどうしても観衆、聴き手になってしまう。対人間のコミュニケーションに語りも朗読も芝居もなってしまう。

  ちょっと待って...たしかにコミュニケーションにいきつくのですが、経路がちがうのです。天地とつながってはじめて聴き手とつながる.....たいせつなところを忘れてはならないのでした。意識をそこに持ってゆけるかどうかでまったく異なる世界になります。

  演劇的なるものは磨くための手段であってそこに捉われると、求めつづけてきたたいせつなものを見失ってしまいます。....しかしCAVは不思議です。聴覚はトランス状態に行くための入り口にもなる....背骨は振動体であり遙か遠い過去の記憶庫でもあります。.....背骨を振動させること、CAVの発声で響のある声になるのは行きがけの駄賃のようなもの...声のまえになにかがかわるのだろうと思います。

  イランさんもトマティス博士も日本は宝庫である...といいました。日本ではすべてが道であり行であります。すなわち芸を磨くことは己の人格を磨く....、不要のものを捨ててゆくための道なのです。エンターティンメントとか芸術は派生物のようにものなのかもしれません。

  これからまずプログラムをたてましょう。実践しながらつぎのステップに進みます。日本を知る旅のはじまりです。





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.......最初からよくこんなむつかしい課題を? ....という笑いを交えた講師の述懐がありました。参加者のなかでもおもしろかった、やりがいがあったという意見と....なぜ”ラブレター”?という疑問と賛否両論でした。最初講師から提示されたのは、”蜘蛛の糸”と”ごんぎつね”の2タイトル。そのふたつは朗読講座で受けたことがあり、わりあい一般的なので、新鮮な感触のものがしたかった。男の登場人物が多いからと難色を示す講師に「男の台詞がむつかしいんです」と押し切ったのはわたしでした。

   けれども蓋をあけてみると、ポルノ雑誌屋...写真屋?の店長である主人公と暴走族あがりのチンピラと刑事、初老の巡査長そして一見銀行員風のヤクザ...最後に主人公と偽装結婚をしてうらぶれた街で働いている白蘭という薄幸の中国人女性というふだん滅多にお目にかかれないひとたちが登場人物なのです。

   四苦八苦するわたしたちに講師がわたしてくれたことばは『自分の声で、ふつうに....その人物が今いる場所と状況をかんがえて声を出しなさい.....声をつくるな、それっぽく演じるな』....でした。ひとりひとり、そのひとの段階に応じて懇切丁寧な指導だったと思います。『たとえラブレターでなくてほかのものがたりでも、ぼくが伝えることばは同じだと思いますよ』このことばは..「音声は人格である」ことともかさなります。

   さて、わたしにいただいたダメ出しは『そのままでもいいんだけどねぇ。つまらない。あなたのはこういうリズムなんですよ。』と手でみせてくれました。「レンジが狭いということですか?」『そう、声の大きさも(表現)の変化もたりない。プロはそこが違う。ぼくはこれくらい出しますよ』とわたしのときの三倍くらい手をひろげて『おもしろければいいんですよ。』『ひとが聞いていると思っているでしょう?』.......ちょっとはそういう気持ちあったのです....実は。....みんな知っている方たちですから、恥ずかしいという気持ちが...。しかしその時は「クサクなるのがいやなんです。」といいました。『基礎がしっかりしていればだいじょうぶです。突き抜けてください。』

   講師はわたしが自分にかけているストッパーをはずせ....そうしないといつまでもアマチュアのレベルだよ。と教えてくださったのだと思いました。わたしがずっとこだわってきたものがあります。それをはずす時なのかな......それとも矜持を持ちつづけて.....矜持とはなんだろう......ひとつはいちばんたいせつなものを金銭には換えたくないというこだわりでした。コンサートではチケット代をいただきますから矛盾するようですが、共演者の演奏やあるいはワイン・料理でそれ以上のものをおわたしするように努めてきましたし、語りをさせていただくことでときたま謝礼をくださるといわれても実費以上いただいたことはありません。それは自分がこれと思ったものがたりを語りたい...自由でいたい....という気持ちのあらわれでもありました。自分の語りをこわしたくない....気持ちもありました。

   でも、それは逃げかもしれない。それに見合うものを出せないかもしれないという自信のなさのあらわれかもしれない。プロ意識とは思いだけで成立するものではないのかもしれない。いごこちのいい曖昧さのなかに身をおくことから、一歩踏みだすときなのかもしれない。.....自分の語りを追及することと矛盾はないのかもしれない。一歩踏み出してうしなうものもあるだろう、だが壊れてしまうのなら、それだけのものに過ぎないんだ.....


   12月の長い夜 心は千々に乱れます。


付記   こののち 講師の主宰する朗読劇のラブレターを観ましたが、わたしは肯んじませんでした。それはひとつのやり方です。しかしわたしが思うものとはまったく次元の違うものでした。されどワークショップを経て、一歩踏み出したのは確かです、いいかわるいかわかりませんが、台詞は変わりました。感謝します。





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   今日のワークショップはとてもとても 本質的なものでした。 午前中はカーブメソッドの理論と川にまつわる詩を二編、

まどみちおさんの
....雲になる日のゆうゆうを....雲だった日のゆうゆうを...
アポリネール?の
. ...日も暮れよ 鐘もなれ 月日は流れ わたしは残る

繰り返しのある そして深い含蓄のある詩です。


   午後は堀井先生のワークショップ、CAVの実践を1時間以上行いました。それから浅田次郎さんの”ラブレター”
『先生 ナギナタでバッタバッタと容赦なく切ってくださいね』ことばとおり、一同ひととおり読み終わったところで、「朗読にも語りにもなっていません」の厳しいおことばに一同シュン。それから個別の注意があってくせやつくりのあるメンバーはかなり徹底的になおされました。ながいことやっている方ほどたいへんだったかもしれません。経験が浅い方々は観て聴いているまえでどんどん自信をつけてゆくのがわかりました。

   ワークショップに出たからといってその場で変われるということは少ないと思うのです。自分の語りのどこがよいか、どこを努力すればよいか、リセットし気づくための場です。気づいた方は意識すると同時にすこしずつ変わってゆくでしょう。具体的な努力をすればもっと変わってゆくでしょう。

   あと一度堀井先生のワークショップがあります。すばらしいワークショップでもったいないのであと2名募集します。参加希望の方は携帯にTELください。

090-8345-8444です。

   今回のシリーズは....少人数制のうえに、それぞれの講師がぬきんでた方々なのでたいへん興味深いものでした。ワークショップ前日、発声について下調べをしているうちにはっとしました。ヤマモト先生のワークショップのメモ....カーブでならったことと一部すっかり同じだったのです。(ヤマモト先生もCAVを受けられたか理論を読まれたのかしたのでしょう。)けれどもその内容はすっかり忘れていたし、心にあまり残らなかった...なぜか....
   理論だけでもだめなんだ....実習して身体が理解すること....それから自分の場で実践し復習する。現実と理論がむすびついてはじめてわかるんだ....

   運営はじつにたいへんで わたしはある意味おおきなものを失くしましたがそれに足るものだったと思います。ワークショップのために学んだことも含め....時間と金銭に換えがたいそれ以上のものがありました....不要なものを捨て より本質的なものにちかづけた....それぞれの個性はあれど、ともに語ってゆくなかまたちを得たこれはおおきなギフトでした。



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