今日は天皇誕生日です。明治以降 お誕生日が祝日にならなかった大正天皇 知能もお体も弱く 皇務がむつかしいという理由で ご存命のうちに あの昭和天皇が摂政になられました。
大正天皇の御歌について 丸谷才一氏は.....「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人である、とにかく傑出した力量の持主で、もしもこの才能を自在に発揮させたならば、吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、あるいは彼らを凌ぐ、大歌人となったに相違ない、「ひょっとすると、大正という十数年間の憂愁と古典主義との結びつきを最もよく代表する文学者はこの帝だったという想念を抱かせるかも知れない」 と評しています。五木寛之氏も又「大正天皇の短歌を絶賛し、彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しているそうです。
誰が為に花は咲くらむ みむ人はすまずなりぬる 故郷の花
庭木みなぬらしもはてず晴れにけり 待ちにまちつる夕立のあめ
かきくらし雨降り出ぬ人心 くだち行く世をなげくゆふべに ..... 内外の国の憂いに
こどもらの手を取りながら親もまた しほあみすなり 浦の遠あさ ...... 子どもがお好きであったとか
学舎(まなびや)は遠くやあるらむ 朝まだき野道を急ぐうなゐ子の群れ
國のため たふれし人の 家人は いかにこのよを 過ごすなるらむ ..... 戦死者の家族をおもわれて
今ここに君もありなば共々に 捨はむものを松の下つゆ ..... 妃を偲んで
神まつるわが白妙(しろたえ)の袖の上に かつうすれ行くみあかしのかげ ..... 当時の皇太子.... 昭和天皇にすめらぎことの御役を譲られるとき(大正天押し込めのとき)
拝読すると 知能が低い などということはありえない むしろ英明さと心の優しさを兼ね備えた方であられただろう.....慕わしさがふつふつと湧いてまいります。
漢詩もよくなさったそうです。 では なぜ そんなうわさが立ったのでしょうか.... なぜ 退位されたのでしょうか.....
「児童の時分より制約や規則というものに縛られることを極端に嫌い、思ったことを何でも率直に発言する性格の御子。目にし手に触れるものに対し頻りに『これは何、それは何ゆえ』と問う御子であった」 7歳
「既に学習院に学び、文武諸官輔導の任に当たり、学業日に進む、聡明にして仁慈性に具わる、近時身体すこぶる健なり」 11歳
大正天皇は 幼少時には身体が弱かったが 山歩きをなさったり 皇太子時代 地方に行くと 気さくにひとびとに話しかけられたそうです。当初の予定に無かったルートを自分で決め、進んで臣民とのふれあいに勤しまれた。明治天皇とは政治に対する考え方を含めて対照的な部分が多く、大正天皇が地域の生の声を拾おうとする度に、「帝王たるもの、軽々しく行動すべからず」の旨を含め、彼を叱責している。しかし大正天皇は政治や天皇は臣民の視点に立って考えるべきとの考えを持っていたようで、側近や明治天皇と摩擦を起こしてもこれを変えることはなかったそうです。
一方で政府中枢や軍部では何かと明治天皇と比較され「ひ弱」「頭が弱い」などと揶揄されており、盟友であった原敬が死亡した事で天皇を守る役目の者がいなくなり、政府や軍部は更にその度合いを強めていきました。臣民の前で涙を流したり、勝手に蕎麦屋に入るなど自由奔放な姿も権力者は苦々しく感じていたようで、元勲の山縣有朋は大正天皇を特に嫌っていたといわれ 大正天皇 バカ説を流布させたのは山縣ともいわれています。
大正天皇も山縣がお嫌いだったらしく(山縣を好きなものはあまりいなかった)山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。要するに何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたそうです。(山縣はのちに昭和天皇に女性を近づけようとしたとのことです。)
そして とうとう 裕仁皇太子 のちの昭和天皇が摂政となりました。大正天皇押し込めです。大正天皇は抵抗なさいました。
『11.22日、牧野は内大臣の松方と天皇に会い、皇太子の摂政就任を告げ、概要「誠に恐懼限りなき事ながらこの段申し上げ御許しを願い奉る旨言上に及びたところ、天皇は、ただあぁあぁと切り目切り目に仰せられ、御点頭遊ばされた。恐れながら両人より言上の意味は御会得遊ばされざりしよう我々両人とも拝察し奉り」とある。牧野の倉富に会い述べた処は、「今日松方とともに御前に伺候し、摂政を置かるべきことを奏したるもついにご理解あらせられず。まさに退かんとする時、松方を呼び留めたまいたるも、御詞は全く上奏に関係なきことなりしなり。実に畏れ多きことなり」とある。大正天皇は、この強制的引退に抵抗した模様である。11.25日、侍従長・正親町(おおぎまち)実正が天皇の使う印鑑を摂政に渡したいと取りに行くと、天皇は不快感を露にし、いったんは拒んだ。その後、侍従武官長が天皇の元に出ると、「さきほど侍従長はここにありし印を持ち去れり」と云ったという(四竈孝輔(しかまこうすけ)「侍従武官日記」)。原氏は云う。「天皇は自らの意思に反して、牧野をはじめとする宮内官僚によって強制的に『押し込め』られたというのが私見である」。』 こちらから抜粋
..... 大正天皇は 側室を持たない....最初の天皇 といわれています。 とても 近代的といいますか こころの開かれた方であったのでは.... それは天皇を利用しようとする 軍部や政府に邪魔になりこそすれ 望むことではなかった..... 大正天皇はさまざまな軋轢のなかで悩まれた。 わたしは大正天皇のお心持を推察するに また 世間の評価をみるに 悲劇の天皇のおひとりであったような気がします。ご崩御のとき 実母の愛子なるこさま(柳原白蓮は姪)が手を握られていたというのが救いです。
ご崩御は 12月25日でございました。