遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



    26日、参観日第三時限食育の時間がはじまりました。最初に「青葉家今むかし」およそ15分のペープサートと実演によるドラマです。校長先生の代役のご先祖様役は教頭先生がひきうけてくれました。先生方の熱意とがんばりにわたしは脱帽しました。先生方の演じる....ハンバーガーをほうばり、ゲームに夢中になり、けんかする今の子どもたちは実に生き生きしていました。途中順序は入れ替わったりしましたが、打ち合わせとおり、修正せず流れにのってアドリブもまじえものがたりは進みました。

    見ている子どもたち、またおかあさんたちはどんな感想を持ったでしょう。つぎは栄養士さんによる三大栄養素についてのゲームとエプロンシアタ-です。みんなで歌を歌い感想をきいて、それから青葉家の50年後のものがたりをわたしがして、最後に六年生を送る会を「からだにいいお好み焼きパーティー」をすることを発表して終わりました。みんな盛り上がりました。

    職員室で教頭先生とねぎらいあい、校長先生もまじえてお話しました。みなさまの近くの学校はいかがでしょう。..そうしたがらない学校は多いのですが、この学校は地域のボランティアを積極的に受け入れています。ボランティアが学校に入るということは受け入れ態勢を整えねばならないし、学校の内情が外に漏れるというリスクもあるのです。....しかし、と校長先生は言います。「そのことで子どもたちにプラスになる可能性があるのなら...たとえば....がおはなししてくださるとき、子どもたちは考えられないほど集中してものがたりに入りこんでいます。それはわたしたちではできないことなのです。地域の方々の熱意とご協力には頭が下がります。」

    わたしは以前からこの小学校の先生方のあたたかさや子どもたちへの思いに胸を打たれておりました。子どもたちへのかわいさだけでなく、応援したい気持ちになるのでした、校長先生はこう言われました。....「だれかひとり熱いひとがいればだいじょうぶじゃないかと思うのですよ。その熱が次第にまわりにひろまってゆきますから....」ほんとうにそうだ....とわたしは思いました。ひとはもともと熱いものなんだ、みんなでなにかやりたいものなのだ....だれでもいい だれかがプロメテウスのように火を運び火をつければ、遅いということはないのです。




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   風光る午後、子どもたちは校庭で野球をしてあそんでいました。

   今日は2/27の参観日にする食育の打合せにきたのです。食育とは食に関する知識を習得し、子どもたちが自らの食を自分で選択する判断力を身に付けるための取組みのことです。2005年文部省は食育基本法を定め、子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも「食」が重要であると明記し、食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付けたのでした。

   学校でも子どもたちの「食」がおおきな問題になっています。キレる子ども、無気力な子どもが増えています。家庭における子どもたちの個食、偏食,朝ごはん抜き...などが子どもたちに与える影響を見過ごしになできません。それをつぶさにみている先生がたと参観日に食育をテーマになにかしようというおはなしになりました。

   お茶をのみながら3人の先生方とわたしと働く女の立場、母の立場からでざっくばらんに話し合いました。働きながら子育てをしている現実に立ったとき、いけないとわかってはいるけれど、冷凍食品、ファーストフード、カップヌードル、ファミレスなしの生活は考えられないという切実な意見がありました。学校でも朝ごはんぬきの子どもが増えている、朝お菓子を食べてくる子もいるけれど、それだって食べないよりはまし…..だと先生はいいます。

   そこでまず、おかあさん方が恥ずかしい思いをしないものに、楽しいなかになにか残ればいいねということで意見が一致しました。….子どもたちに質問するとあけっぴろげになんでも家内のことをしゃべってしまいますから、ドラマ仕立てにしようということになりました。人形とペープサートをつかって劇をします。

   舞台は今、日曜日の朝おかあさんと子ども三人の家庭でおこるものがたりです。…….….。仕事に疲れたおかあさんは朝ごはんがつくれません。そこで子どもたちはバーガーショップに行きます。お昼もカップヌードル……イライラした子どもたちは大喧嘩をはじめます。そこにご先祖さまがああらわれ一喝…..おかあさんと子どもたちをタイムマシンに乗せて50年前の世界へ……そこで子どもたちは….....配役は3人の子どもたち...先生。ご先祖さま...校長先生....おかあさん....森です。

   そのあと栄養素についてのエプロンシアター、最後にみんなでうたを歌おうということになりました。そしてそれを6年生を送る会につなげて、みんなで身体にいいおやつをつくろう。。。ということになりました。リハーサルは22日、本番は27日です。……どんなことになるでしょう。先生方のお顔は輝いていました。.....あとでご報告しますね。

   ものがたりといってもほんとうにさまざまです。そして子ども
たちのしあわせのためにストーリーテラーができることはたくさんあります。わたしは環境のパネルシアターをつくったように「食」のものがたりをペープサートか、パネルシアターにしようと思いました。環境のパネルもとても子どもたち喜んでくれましたよ。みなさま、なにかいいアイデアはありませんか?







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   自力整体をはじめて1ヶ月...左の肩甲骨が浮き出てきました。右は痕跡のみでまだお肉に埋もれています。肩甲骨は翼の名残..右の肩甲骨があらわれたら飛べるような気がします。

   わたしの利き目は左目ですが(人差し指を立てて片眼で見ます、両目で見たときと同じように見えるのが利き目です)その左目の可視範囲がひろがりました。過積載の大型ダンプがビュンビュン行きかう恐怖のダンプロードを運転していて以前とまったく違う安定走行ができるのに驚いて気がついたのです。また自力整体のあと声の高さが1オクターブあがるのに気がつきました。そして細かいことが気にならなくなりました。売り上げが下がっていても平気!!なにを言われても平気!!でもないけれど、むやみと明るい今日このごろです。

   身体の声が聞こえるようになって毎日からだを動かしていると、右半身が固まっているのがよくわかります。右の中指の角度がおかしいことに気づきました。身体が欲していることがすこしわかるようになり、それに応えてゆくうちに身体が変わってまいります。年をとることは昨日できたことが今日はできなくなることだと聞いたことがあります。それが日に日に身体の各部分の可動範囲がひろがってゆく、喪われた機能が甦ってくる..それはなんともうれしくスリリングです。

   わたしや家族ばかりではありません。難病に悩む友人は「希望がわいてきた」と、母のお師匠さんは「医者に行くより楽になる、ほんとうにありがたい」と丁寧に指導してくれる穂積さんに感謝しています。芸は身をたすく...と申します、わたしには芸といわれるほどのものはないのですが、身体の重要性に気づき身体を整えようとしたことでこんなに世界が変わるとは思ってもみませんでした。友人を間接的に助けることもできて思いがけない贈り物をいただいたようです。...さて、これで語りがどう変わるでしょう。

  
   夕泥むころ 娘たちとストーブを囲んでおしゃべりしました。デスノートや蜷川芝居..小栗旬、藤原竜也、韓国映画、アニメ、実写と漫画ついでにタカラズガで話ははずみました。...たとえば若いひとたちから多くの支持を得た日本のアニメカ、゛ンダムやエヴァンゲリオンのヒーローは優柔不断でくよくよ考え人間関係に悩む...どちらかといえば弱者であって、屈強なアメリカンヒーローとは雲泥の差があるのですが、これはなぜか?? ストーリーは二重構造をしています。地球あるいは星あるいは人類の危機が存在する。その危機はどこからくるのか...外部からくるのか内にあるのか...そして主人公の少年少女はうちに欠落を抱えていて敵と闘いながら、自分と闘い喪われしものを再構築していく...

   日本人はなんでも道にしてしまいますが、アニメもまた成長譚でありイノセンスのものがたりであり、喪うことで獲得してゆくというものがたりの定石を踏みながらひととはなにかを問うているように思います。完全なるものはその完全性ゆえに不完全なのです。ひとは不完全であるゆえに半身をまた喪われたものを捜し求める...生きるとはその回復の過程であるようにわたしは感じます。まさに人類補完計画なわけです。

   語ることや芝居をすることは統合を加速します。なぜなら語ることも演じることも生きることのシュミレーションであるからです。虚構でありながらそこに真実が生まれる...わたしたちはそのなかで幾度も死に、再生を繰り返しながら自分自身に、そして喪われたもの足らざるもの求めていたものに気づいてゆくのです。RADAの前校長ニックさんの「芝居を学ぶことは人生を学ぶことだ」が至言である所以ですね。

   スターヲーズ他ヒットした映画の多くが神話や昔話の構造やプロットによっているのは周知のことですが、モノガタリの構造やプロットに規則性があるのはなぜか? これは興味深い問題です。わたしたちはその規則によらないモノガタリに出くわすとき不安を覚えます。たとえば主人公に助け手があらわれない、正義が負ける、カタルシスのない悲劇を観たときどうもすっきりしないのですね。モノガタリのパターンは幼い頃から聴いたり読んだりしたことで記憶されたのでしょうか、それとももっと古い遺伝子レベルのあるいは集団的無意識に刻まれていたことなのでしょうか?


. ...以前述べましたように、わたしは語り手が選ぶものがたりは語り手のうしなわれたものを示唆する場合があるように思います。そしてその底に人類のドラマの記憶と 喪われしものを取り戻したいという希求があるように思います。光と闇は相対するように見えますが闇があって光耀くのです。自分のうちなる闇、他者の闇 この世界の内包する闇をまず抱きしめようよ...と娘たちに伝えたいのですが それはなかなかむつかしくて苦労しております。

   

   

   

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  一昨日は市の文化祭で詩を語りました。原爆詩のなかから、村木三郎さんの「震える菊」を語りました。あまり有名ではなく戦争を糾弾するでもない淡々と静かなことばが続くのですが、心に響く詩です。相方の橋本さんとひさかたぶりのおしゃべりをして文化会館を出たら、駐車場で亡くなった父の風貌を彷彿とさせる方が走りよってきました。「よかったよ」...「来年もたのしみにしているよ」といってその方は去ってゆきました。

  文化祭も馴れてきてしまったね...と話したところでした。ある程度の水準にはできるようになって、当初の燃えるような想いからかけ離れてしまったように感じていました。ことに今日は用意された照明がピンスポットなので客席は暗闇です。気配で客席の呼吸を感じるしかありません。またマイクカがセッティングされていて やはり肉声でないと語った気が 心の奥に届く気がしないのです。そんなことからビウエラの弾き語りをする予定でしたが冒険を恐れ語りだけにしてしまってどこかもやもやしたものが残っていたのです。ですからその方の激励のことばは身に沁みました。心が躍るようでした。これからは妥協しないで差し出せる最上のものを差し出したい、原爆詩を語りつづけようと思います。

  昨日は群馬の板倉プラントから目白で開かれた運営委員会兼理事会に向かいました。とてもにぎやかでなごやかな会でした。今年度の総括と次年度の計画発表の合間に会員の方にもさまざまな意見があるという話題が出ました。たとえば舞台で語る、おとなに語る..ことに対して語り手として潔しとしないという意見もあるのです。わたしは本来の場は幼稚園、小学校ですがデイケアでもおとなのための会でもまたステージでも語ります。

  日本という国はものがたりの宝庫であり、おはなしのろうそくや子どもむけに噛み砕いた本や昔話だけでなくさまざまなものがたりが語られるのを待っています。あなたにしか語れないものがたりがまだ眠っていて呼び覚まされるのを待っています。五説教、古浄瑠璃、世話物、お伽草紙、ふるくは古事記、史実と伝説のあわいのものがたり、近世の歴史..パーソナルストーリー...地域に伝わる伝説...文学の膨大な遺産そして世界各地の神話・伝説・昔話などなど....この豊かな語り文化は子どもたちだけのものにしてはもったいないと思いませんか。

  それぞれの意見があっていいと思いますが、語りの歴史、芸能の歴史を考えたときおとなに語ることはごく自然のことですしステージで語ることも邪道ではありません。心ある演劇人は舞台に上がるとき一礼しますが、それはとても道理にかなったことなのです。神社の境内にある舞台はかつて客席を向いてはいませんでした。ご神体の方向が正面でした。舞台は神が降りる場でもありました。語りも含め芸能の原点は祈りであり神降ろしでもあったわけです。

  小学校や幼稚園などどこで語るときもどの神さまというのではないのですが、わたしは神さまに祈ります。「どうかうつくしいことばと御心にかなう語りをおゆるしください。」....舞台に立つことはわたしのなかでそれまでの努力の発表の場であり、お客さまとの交流の場であるばかりでなくささやかな神事といってもいいかもしれません、捧げ物といってもいいかもしれません。その場では特別のことは起きることがあります。師匠水戸先生は言いました。「最上の演奏をしているときはひとりではない。なにかがいっしょにいる」シャンソン歌手は言いました。「天使が降りてくる」壌さんは言いました。「役者は依り代である」

   そしてこれもまた真実です。「1回のステージは100回の練習に勝る」ステージに立つことはひとりの力ではできることではありません。そして実に多くの些事と労力から成り立っているのです。けれどもその実りは豊かで子どもたちや高齢者への語りという日常の活動にその果を差し出すことができます。「ひとまえで語るなんてそんなことできない」と言っていたなかまたちがカフェでお客さまに聴いていただいて以来、語りへの思いは深まり、語る声に深みを増したのをわたしはとてもうれしく心強く思っています。
  
  語り手たちの会はNPO法人としてすべての会員のみなさまに語りの本質を忘れず時代や社会の要請にあわせ、さまざまな可能性を提示できればいいなと思います。また何が求められているのかアンテナをはりめぐらして、望まれるサービスが会員のみなさまにまた地域社会に提供できるようになるなら、それはなんて素敵なことでしょう。語りの裾野はひろがり深さもましてくるでしょう。


  

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主宰語り手たちの会

次の要領で、語り・ストーリーテリング初心者のための基礎講座をひらきます。 
あなたの扉がひらくかもしれない、あなたの可能性がひろがるかもしれない                
そういう講座でありますように……


     


1対象  語り・ストーリーテリングをあらたに始めたい方、
始めて間もない方優先

2期日  2008年6月8日開講、以降7/6 7/27 9/7 10/5 11/9 12/7
         9:30~16:00×全7回……予定 

3講師  松本永実子(劇団昴傘下演劇学校JOKO主任講師・演出家)、
     やまもとのりこ(同上ヴォイストレーナー、ならびに蜷川ゴールドシアタートレーナー)
     オランダのストーリーテラー、ウィム・ヲルブリング
     櫻井美紀、片岡輝 他

4内容  実践を中心としたワークショップ形式
     (①身体と感覚と心の一体化 ②発声 ③ものがたりを聴く 
      ④ものがたりを語るまでを楽しく) 

5場所  6,7月……東京都北区・岸町ふれあい館
    (JR京浜東北線王子駅北口徒歩5分)予定
     8月以降……東京都北区・北とぴあ
(JR京浜東北線王子駅北口徒歩1分)予定

6金額  36000円 (材料費は実費です。 1000円以内)

7定員  18名   2/12申し込み受付開始 定員になり次第締め切ります

《 申し込み先 》  e-mail luca401@mail.goo.ne.jp  森まで



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   一昨日 母に誘われ木下大サーカスを観にゆきました。青い天幕の中はジャングルとサバンナの匂い、そして微かに吹き溜まりの匂いがしました。サーカスをひとことでいうなら緊張と弛緩です。サーカスの緊張といえば獰猛なライオンや虎のうなり声、調教師の運命は!!とか空中ブランコで手を放した一瞬!!...とか美女の輪切りとか...ですが、弛緩には大まかにいって二種類あるようです。ひとつは緊張が期待とおり解かれるとき、もうひとつは緊張が意外なことで解かれるとき、当然後者のほうがおもしろいですが、プログラムはその三つの繰り返しでできているのです。あの大河ドラマ”ガラスの仮面”でいい役者とは観客に緊張と弛緩のリズムを与えることができる...とあったような気がします。お笑いも芝居もおなじですね。そのことでもっと書きたいことがあるのですが、さきに進みましょう。


   永見子さんのワークショップでわたしは今日真っ白になりました。....昨年はほとんど欠席だったので台詞についてダメ出しを受けるのはひさしぶりであがりまくりでした。わたしはギリシャ悲劇の代表作オイディプス王からオイディプスの妻であり母でもあるイオカステの台詞にチャレンジしました。台詞と向かい合っているうちにイオカステはオイディプスが実はわが子ではないかという疑念を持っていたと感じました。オイディプスの名の由来になったかかとのキズそして年齢、妻として臥所をともにしていたら気がつかないはずがない。そしてその前に予言とおり父王を殺したかもしれないというオイディプスの重要な台詞があったのです。解釈はさまざまですが今回指示されたのはそんなことは考えないもともとのギリシャ悲劇とおりの強く強く押していくキャラでした。過去イオカステを演じた麻美れい、鳳蘭は元宝塚の男役ですし、それだけのキャパと強さを必要とする役なのでしょう。

   永実子さんから指摘されたわたしの台詞...男のひと(など)、母と供寝をする(こと)といってしまう...いつも曖昧にしているのです。そしてこれが洋子さんのパターン...と言われたのは台詞のトーンを途中で落としてしまうことなんですね。わたしってこんなに優柔不断!?押しが足りない?? 「日本人に特有な話法がある」と永実子さんは言いましたが、わたしのくせを知っていてこのような課題を出したのでしょう。もちろん語りと芝居は違いますがものがたりを伝えるうえで強いキャラクターを語る場合もあります...レンジが広ければさまざまなひと、さまざまなものがたりを語れる可能性がふえるのです。

   大昔..平成天皇と美智子皇后がお若くていらっしゃったころ聞いた話です。「....と思いますとか考えますとか語尾につけるのは自分のことばに自信がないひとだそうですが、わたしもそう思います。」と当時皇太子であった天皇がおっしゃいました。美智子さまは「..そう思われるのですか」と一矢返されたそうです。さて、このブログを読んでくださる方はお気づきでしょう。わたしも...思いますとかありましょう..とか...ではないかと...など....ということを多用しています。これはひとつには読んでくださる方に反感を持たれないよう配慮しているのですが、それだけではないかもしれません。

   曖昧にぼかす....以前はこれほどしていませんでした。もっと歯切れのよい文章を書いていたのですが、読んでくださる方の顔が見えないこともあり、ときどき誤解を招くこともあって 次第に文体が変わってきました。軋轢を極力減らして本質に近いことをなるべく多くの方に...というスタンスになったのです。...しかしこれは日常にも翳を落としているのかも知れない..と今日わたしは気づきました。ひとはそれぞれの場で使い分けがでじるほど器用でいられるわけがないのです。それでこれからしばらく考えますや思いますは使わないで書けるかどうか試してみようかと...オゥ 危ない 試してみます。

   聴く方の心に響くものがたりを語る一番の近道は自分自身の魂を磨くこと...とわたしは折にふれ書いてまいりました。それはほんとうだと今も思います。けれども 今わたしが試行しているのは魂はすこし置いて、発声も含めた身体の調整、そして語りを体系として見、体系のなかの要素を学んでゆくことです。それは学んでゆくというより、自分のクセを知る、自分を撓めているものから解放すことに近いでしょう。たとえばわたしの右ひざが不自由なのは軟骨が減ったことがそもそもの原因ですが、身体のバランスをとるためにある部位の筋肉が伸び、ある部位の筋肉が縮んでしまったことが最大の要因なのです。右の腰から両脚にいたる筋肉の凝りをほぐすことで症状は改善してきました。わたしにとっては上虚下実(下半身、腰を入れ 上半身の力をぬく)のための最初の関門です。発声についても本来自由で大きな可能性を持つ声帯の機能のなかで十二分に動かされていないところを目覚めさせ改善してゆく....イメージからも入ってゆけるが、まず意識し動かしてみる。


   以上のことは今年のはじめ語り手になろうと決意したことからはじまりました。心と身体のくせを直していくことがつぎのステップに欠かせない、これは直感でした。長年しみついたものから自由になるには時間が必要です。精神と身体性とわざがむすびつくまでの間ひょっとしたら語り自体が揺らぐかもしれません。それでもいつかはファルセットと地声がブレイクし溶け合うように魂と身体がほんのすこしずつ渾然と実ってくるのではないか...そこに期待をかけて進みましょう。もしわたしにとりえがあるとすればそれは、あきらめないこと、たとえ挫けても、もう一度立ち上がる意志のちから...だけです。

   
   

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   今日は永実子さんのワークショップでした。とても早くつきました。今日もとてもスリリングでした。感じたことのまとめです。

①語りにおいても舞台上の役者同士のように語り手と聴き手のあいだに気と気のやりとりがあるのではないか。聴き手の気によって語りやすくも語りにくくもなるが、聴き手の気持ちをこちらに向けさせ味方につけてしまう...名うての語り手はそれをしている。トークで場をあたためておけたらそれにこしたことはない。

②ただことばを終わらせるのではなく、そっと置く、限りなくやさしく置くこともできる。たとえばものを取ろうとするとき身体の奥から動かそうとするととても動きが優雅になる。ことばにおいても心の奥深いところを動かすことによって限りなくやさしくなるのではないか。

③自分とつながっていることとは語る自分とうちなる自我がつながること。....身体とことば、感覚とことばをつなぐことによってことばが自分からはがれる→客観性の取得。例 動詞を動作であらわしてみる。あるきながら...あるいは止まって。

④自分のうちなる弱さや醜さを抱きしめると同時に自分の強さや優しさ潔さも認めてあげる...そこから始まる。

⑤パシッと投げ返さない...他者とのやりとりのなかでわたしが気づかなくてはならないのはそこである。ふわりとうけとめる。投げ返すのは恐れ、懐疑あるいはかなしみからであろう。ありのままの自分を受け止めてほしいと願って、だめだと感じると途端に攻めてしまう、幼い子のようである。これは自分の影と戦っているようなものだ。

⑥語りは本来インスピレーションにもとづくものである。否が応?でも語り手自身を映し出すものである。さりながらテクニックや気の遣いところでその質を高めることは可能である。また自身を磨こうとすること、ひらこうとすることによって気づきがひろがり語り手の本質さえ耀きを増す可能性が大いにある。



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