遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



  .....人間の背骨のひとつひとつには300年の記憶が入っているそうです。たとえば、氷河期の飢餓時代の記憶もあるわけ。そして、20代前まで自分の先祖をさかのぼると104万人もの人がいて、その末端に自分が存在しているのです。それらのDNAが、個に関係なく、私たちの中にインプットされているらしい。たとえば、民族性とか嗜好性とか社会性とか道徳観とか…。自分の願望を達成するのに不可能なことは何ひとつないそうです。自分の足をひっぱっているのは、自分の中のDNAだったりするのだそうです。抵抗勢力も<自分の中>にいるのです。

   これは友人のHIKOさんがどこかのサイトにあったと教えてくれたことばです。背骨の数は頚椎が7つ、胸椎12.腰椎5そして仙骨が1つ都合25だから75000年分の記憶が内臓されている...わけですね。75000年...気の遠くなるような長い時とひとびとの蓄積がわたしの体内にある...としたらそれらを目ざまさせることができたなら語れないものがたりなどあるはずがない。75000年の孤独を埋めることができたなら...できないことはないはずです。

   こうして夜に昼にブログを書きながらわたしはいつも孤独でした。昔話は苦手で...語り手としてそれはあまりふつうではありません。たとえば2000年前のものがたりと近代100年のものがたり...わたしが語りたいものがたりはおよそその範囲にありました。語りについての考えも少しずつ語り手たちの会の結界から離れていました。自分が真実だと感じていること書いていることがダレからも理解されていないのではないかという恐れに似たものがいつも胸の底にあったのです。わたしはコメントをこころから待ち望んでいました。たとえ自分のうちの羅針盤を信じて夜の海を行くしかないとしても。ですから終盤コメントが増えたことはとてもうれしかった。こころから感謝申し上げます。

   ほんとうの問題はいつも自分のなかにあります。わたしにはながいこと思うに任せぬことがたくさんありました。なぜだかわからないけれどあたらしいことをはじめようとすると抵抗が起きる...どうにも前に進めない。メ-ル一通手紙一通出すことがTELを一本かけることができない振込みができない...そのために生まれた失敗や誤解は数多くありました。しかしギリギリになってなんとか力をいただきなんとかやり遂げる...その繰り返しで会社のことも語りのことも乗り切ってきたように思うのです。

   ですからこの自分のなかの抵抗勢力というフレーズには頷けるものがありました。脳の権威茂木...だったかしら....先生が講話でこのようなことを語られたことがあります。脳はひとの身体にあまり負荷をかけないためにブレーキをかけ潜在能力のごくわずかしか発揮できないようにしている...このストッパーをはずす方法がある。...それは第一線で活躍しているスポーツ選手が日頃行っているイメージトレーニングである。最高の跳躍、最速のスピード、美そのものの演技....肉体の限界を超えるイメージによってストッパーをはずすことができる。

   つまり一流選手とは想像力の豊かなひとでもある...ということですね。また茂木先生はこんなこともおっしゃっていました。脳は想像と現実の区別ができない....ゆえに読書また語りを聞くことは擬似体験ではあるけれど脳に蓄積していく..のでしょう。...さて、わたしには望みが三つあります。それらの望みはわたしの今世の人生のたいせつな目的でもあるのですが、残された時間内に達成するためにわたしは自分のうちなるストッパーをはずせるかどうか試みることにしました。....それですこしのあいだ自分にブログを書くことを戒めようと思います。こらえ性がないので突然暴発してしまうかも知れませんが....


   この一年はとても短かった...けれどたくさんのことが詰まっていました。試行錯誤の連続...ブログひとつを見ても文体を変えたり、語りに特化したり戻したり、客観的に書いたり主観に戻したり、内容をセーブしたり検閲を外したり猫の目のように変わっています。こんなに泣いた年はなかったし、絶望したこともありませんでした。自分と向き合った一年、わたしの一部は死んでしまったのかもしれません。....けれどもむだではなかったと思います。あたらしい関わりが生まれ出会いがありほんとうの目的やそこに到達するために乗り越えるべきものも見えてまいりましたから....。辛いとき孤独のとき支えてくれた友のみなさまありがとうございました。読んでくださったみなさまたくさんのアクセスありがとうございました。


  古代では夏至と冬至はたいせつな祭でした。冬至.....古い年は死んであたらしい一年がはじまる甦りの日だったのです。近年バチカンも認めたのですがイエス・キリストのほんとうの生誕は1/5で12/25ではなかったのでした。信仰をひろめるために古来の祭、聖ルチア祭にあわせたのだそうです。イエスの甦りにかけたのかもしれませんね。....今日はイブ...わたしの一番すきなクリスマスストーリーはカポーティのバディとおばあちゃんのおはなしです。カポーティには「ティファニーで朝食を」「冷血」のほかに「遠い声、遠い部屋」という短編集がありました。実はこのブログのタイトルはそれを捩ったのです。

メリークリスマス!!甦った太陽にあたらしい一年に乾杯!!
みなさまの日々が祝福され安寧のうちにありますように....
またお会いしましょう。....



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  先日朗読会に行きました。会場は与野本町の彩の国劇場の映像ホールです。彩の国劇場は蜷川幸雄さんが総合プロデューサーをしている意欲的な試みの多い劇場で蜷川さん演出のシェークスピア劇を数多く上演しています。会場には表現読みOの会の代表渡辺知明さんの姿もありました。

  板垣さんの第一声を聞いたときわたしははっとしましました。ハリと艶と深みのある声で昨年の朗読会のお声とはまったく違っていたからです。芥川龍之介の「煙草と悪魔」は最初のほうこそ文字しか感じられませんでしたが進むにつれ情景がはっきり浮かびました。二つ目の「弁財天の使い」は秀逸でした。かろみがあってメリハリがあって飽くことなく聞きほれました。板垣さんは長年俳優の巌金四郎先生に師事されたそうで朗読が平板でないのもむべなるかな...と思いました。

  休憩をはさんで太宰の「駆け込み訴え」....のっけから絶叫に近くはじまる全編55分一人称の台詞という意欲的な取り組みでした。イスカリオテのユダの独白はぐるりぐるり心情の変化と回心があって揺れ動くユダの心に聴き手は翻弄されます。そのなかにはさまれるイエスのことばとの対比、ユダの執心愛と嫉妬に55分は瞬く間に過ぎました。ことにベタニアのマリアのくだりに胸が高鳴りました。そのエピソードはマリア・マグダレーナを語るにあたりわたしも取り入れたいとおもっていたからです。

  終わって考えることがたくさんありました。声の響きと深さについて...台詞がだれの代弁であったのか...ユダか太宰かご自身か....芝居の台詞として演じたのか 作品の朗読なのか....テキストを手に持っての熱演は身体で感知されているのかもしれないが聴き手のこころや魂を置いてけぼりにしてしまうきらいがあります。聴き手とともにものがたりを生きるというより、聴き手が必死でついてゆくというかたちになりやすいのです。そのところが解消されたら自然と客観性も生まれるのではないかと感じました。そしてものがたりを語るには年齢というものもあるのだとも思いました。地の語りでは問題はありませんが台詞として語るとどうしても年齢が出てしまうそこに無理が生まれます。つくりが生まれます。

  声については板垣さんがかって本格的にミュ-ジカルの発声を身につけられたことがあると聞いて納得がいきました。ベルカントに近いものを感じたのです。あの響きをもうすこし抑えたらもっと心に沁みる...という直感がありました。また太宰の作品はすでに著作権が切れているそうなので、朗読作品として練り上げて語られたらどんなにいいものになるでしょう。太宰は口述筆記でこの作品を書いたそうですが、それはものがたりに臨場感を生むと同時に雑駁さも与えたように思ったのです。それにしても一年でこれほど変わられるとは....精進されたのだなぁとわが身を振り返って恥ずかしく思いました。来年が楽しみです。

  近江楽堂でのライブがちょうど三ヶ月後ということもあり、会場の映像ホールは来年後半連続ライブを企画している場所でもあり、思わず背筋を伸ばしてしまいました。開演10日前チラシ発送といういつもの直前ドタバタから足を洗い万全の準備で迎えたいと祈るような気持ちになりました。

巌金四郎

表現読みOの会




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   わたしは尾崎豊さんの歌が好きです。U-チューブで若い頃の全身全霊をかけて歌っているさまを観るとひどく心を動かされます。観たひとのコメントのなかに「尾崎の歌を聞くと恥ずかしくなってしまう..それが僕を惹きつける」というのがあってまさに!!と同感しました。

   昔わたしは美輪明宏さんが歌っているのを見ると締め付けられるような恥ずかしさを覚えたものです。美輪さんは当時丸山明宏という名でシャンソンや「よいとまけの歌」を歌っていました。その声はとても痛々しく裸でその痛ましいほどの美貌とともに血の滲む傷口のように思え目を背けずにはおられないのですが、同時にひどく惹きつけられるものでもありました。

   なぜかと今思いますと、それはあまりに裸ゆえに自分の生そして自分の恥ずかしさとも重なったからだと思うのです。生きることはある意味でとても恥ずかしいことではないでしょうか。ときに自分に嘘をつきひとに嘘をつき植物や動物の生命を食って生きてゆかざるを得ません。先進国であればあるほどどこかで発展途上国を搾取しているという構造があって世界はさほど美しいものではなく矛盾に満ちていてもし感受性の豊かなひとであれば正視するならとても生きてはゆけないと思うのです。ひとの生は他者の死のうえに成り立っているといっても過言ではないのですから。

   美輪明宏さんや尾崎豊さんの歌は自分のなかにある矛盾とか嘘をさらけ出しそれでも命は道ばたの一輪の花のように美しく儚く切ないのだ…と伝えてくれるように思います。それだから魂に響くのだと思います。文学や小説にしてもそうです。アンネの日記が心を打つのはナチスによって踏み躙られた少女の命という面だけではなく、その少女の日常の異性への目覚めであるとか腐ったレタスの匂いであるとか命の赤裸々なところがあるからだと思うのです。ゲド戦記のゲドの心の闇、雪は汚れていたの少年の闇と衝動、天使でさえ堕ちることがあります。まして天使ではないひとはどんな聖者であってもはじめから真っ白ではありません。赤子さえ透明ではなくすでに刻印された遺伝子を持ち前世の記憶を持つ子さえいるのですから…..その人間はしかし光をめざす本質も持っているのです。闇から羽ばたこうとする翼を肩甲骨のあいだに隠しているのです。

   己を視るということは己のなかの闇も光もみること、そのうえで自分を認められるということではないでしょうか? ゆえにわたしは文学でも映画でも語りでもわたしたち人類に与えられた最も古い賜物のひとつである神話のパターン光と闇、生と死 そして再生の根を持つものがたりに感動します。そのような語りを聞きたいと望み、語りたいと願うのです。(風さんに....)




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   さて、16日シンポジウムのあとの祝賀会で金原瑞人さんはこんな祝辞を送ってくださいました。「桂文楽と古今亭志ん生は対照的な落語家でした。志ん生は同じ噺を100回話したら100回が100回、時間も中身も違っていました。文楽は100回話しても寸分違わない噺をしました。語り手のみなさんはどちらを選ばれるにしても頑張っていい語り部になってください」

   アルコール入りでしたので細かいところは違うかもしれませんがこんな内容だったと思います。ほぅーご存知ないとはいえ語り手たちの会の30周年記念パーティーで...と思われたあなたは語り手たちの会がめざす語りをよく知っている方です。...わたしはわぁ おもしろい!と不謹慎にも一瞬思ったのですが、よくよく考えると含蓄が深いんですね。

   実はわたし、子どもの頃から落語が好きでラヂオに耳をつけてはNHKの寄席を聞いていました。どっちが好きかというと桂文楽、でも志ん生も好きだった。祝賀会で文楽と志ん生の話を聞いた時は”一言一句同じ語り”バーサス”即興の語り”と短絡的に考えてしまったのですがそれはアサハカのキワミでした。文楽の落語は慎重に練り上げられた話芸で磨きに磨き抜いた語りだった、ことにライブの所作がすごかったそうです。なぞっているのではなくてまさに一回一回生きた語りだったわけです。 一方志ん生は気分によって噺が伸びたり縮んだりときには違う話につながったりしましたが説得力で聴き手をうならせてしまう落語家だったのですね。文楽は噺が始まると文楽が消えるという、志ん生は何をやっても志ん生でもあったそうです。

   戦後の二大名人といわれるふたりですが、もしあなたが語り手だったらどちらのタイプをめざしたいですか?.....即興の語りを標榜したりしていますからわたしは志ん生師匠を遠い目標にしていると思われるかもしれませんが、どちらかというと文楽師匠の芸がすきなんです。....最近どなたかが話を自分化..することがたいせつとおっしゃっていましたね。語りの世界45号では松岡享子さんが香り高い追伸を付け足す語り手にという素敵なメッセージを寄せてくださいました。わたしはおふたりに大賛成です....そういう語りこそ聴き手の魂に響くと思います。

   ただし話者としてものがたりを表現するとき自分はいなくなったほうがいいと思うのです。そこにあるのはものがたりだけでいい。...ものがたりを自分の魂でろ過するということと表現に自分を付け加えるのとは別モノだと思うのです、つまり内側をとおすか外側に貼り付けるか、例として適切かどうかわかりませんが日本にはホンモノの役者は少ないように思います。なにをやってもおなじになる、自分の個性で勝負するひとが多いという意味ですが...ほんとうの役者って顔がよくわからないし名前も覚えられません。だって役そのものになってしまうから....ジョニー・デップはホンモノですよ、大好きです。もっとも個性も徹するなら魅力ではあります。市原悦子さんはなにをやっても市原悦子さんですが見ていて安心ですね。つねにある水準に到達しています。

   ものがたりそのものになる語り手になりたい....と思いませんか? わたしが語り手としていただいた最上の賛辞のひとつは...「....わたしはあんたの名前は忘れてしまうかもしれない。でも今夜のあんたの語りは一生忘れないよ」と伝承の語り手さんから言われたひとことでした。...そういう語りをいつもしたい。パーソナルストーリーも含めてものがたりに生..ナマ..の自分...感情とか我..ガとかはいらないと思うのです。魂にとおすだけ。これはカラになる...に通じます。わたしの目標ですから押し付けるつもりはありません。

...志ん生師匠は天性子どもだったのかなぁ あの声、あの調子、今も耳に残っています....それにしてもいい時代でした。最上の落語が手にとれるところにあったのでした。

  



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   16日、東京家政大のホールで語り手たちの会30周年祝祭年間最後のイベント..シンポジウム「新しい語りの創造」がありました。第一部で翻訳家金原瑞人さんと会の副代表、詩人片岡輝さんの対談が始まったとき、これは語りのためのシンポジウム?と感じたのはわたしだけだったでしょうか?それはヤングアダルトに向けた新しい文学のブックレヴューのようにはじまったのです。

   けれどもわたしはすぐ おふたりの対談に引き込まれてしまいました。なぜなら片岡さんが紹介された「火を食う者たち」は既読でしたし、「ホールズ」と「タイドランド」は映画化されたものをBSで観てとても魅せられたからです。そしておふたりがそれらのファンタジーでありながら現実に根ざした文学が生まれたアメリカの社会的な土壌...離婚の増加、未来に希望が持てない状況について語られたからです。そしてそれは50年の時を経て日本の子どもたちをも侵食する問題となっており、わたし自身が語りの現場で直面していることだったのです。

   アメリカでは教師のために①親が自殺したときに対応するマニュアル②親が離婚したときに対応するマニュアル③本人が癌になったとき対応するマニュアルがあるそうです。このなかで子どもたちにもっともダメージを与え10代の妊娠やアルコール中毒につながる要因の一位が親の離婚だそうです。そのような極限にある子どもたちを以前からの伝統的な児童文学で救うことができるでしょうか?60年代価値観が崩れ離婚率が上がり子どもたちがやはらかな身と心に受け取りがたい傷を負うことが多くなったことに呼応して、現実をリアルに描くプロブレムノベルがは生まれたそうです。 それでは、あらすじを申し上げましょう。(これから読むつもりの方はごらんにならないでください)

「火を食う者たち」
アーモンド・デイヴィッド 金原瑞人訳

1962年のある日のこと少年ロバートは小男マクナルティと知り合った。マクナルティは火食い芸人で自分の身体を痛めつけて銭を稼いでいた。そしてロバートはマクナルティが父の戦友で戦争で多くを見すぎたことでマクナルティーの気がふれてしまったことを知る。ロバートは町の進学校に進学したがそこでさまざまな問題に直面していた。そして時はあたかもキューバ危機のただなかで明日にも第三次大戦が勃発するのではないかと空気は今にも爆発しそうに張り詰めていた。....ロバートたちはマクナルティーを心配して浜に連れてくる。浜で横たわっているマクナルティのそばにしゃがみこんでロバートはいう。「大丈夫?」マクナルティの目から狂気が消える....「心配することはない」マクナルティーはやさしい目でロバートを見る。「おまえを愛している」....
やがてマクナルティーは目の覚めるようなワザをして見せた。炎の火柱があがった。マクナルティーは挨拶をするように両手をひろげその炎を息とともに吸い込んだ。.....キューバ危機が去ったことを次の朝ロバートは知った。

「ホールズ」
サッカー,ルイス 幸田敦子訳

スタンリー・イエルナッツは無実の罪で少年院に入れられる。少年たちは砂漠のまんなかで毎日毎日自分の背くらいの深さの穴を掘らされる。矯正のためとおいうがどうやら他に目的があるらしい。スタンリーはゼロという少年に頼まれて字を教えてやる。スタンリーの家は貧乏で弁護士がやとえない。おじいちゃんはそうなったのもイエルナッツ家の呪いのせいだという。...耐えかねたスタンリーは脱走を図る。....スタンリーがゼロの助けを借りて発見したものは...

「タイドランド」
ミッチ・カリン 金原瑞人訳

ジェライザ・ローズのパパは元ロックスター、パパもママもジャンキー.(薬物中毒でママはトリップの最中に死んでしまう。パパのノアはローズを連れてふるさとのおばあちゃんの家にいく。家は草原のまんなかにあってボロだけれど屋根裏にはおばあちゃんの素敵な衣裳がたくさんある。ローズは歌手みたいな羽根のストールを身にまとって遊ぶ。パパのノアも薬を打ったあと動かなくなった。ローズはバービー人形の頭を五つ持っていて5人に名前をつけおしゃべりしながら探検する。5人の人形にはそれぞれローズの分裂した人格があてがわれているようだ。一番強いのは攻撃的なクラシックという名の人形である。ローズはふしぎなおばさんをみつける。彼女...デルは昔ノアの恋人だったらしいのだがノアを剥製にしてしまう...いつかまた生き返る日のために。彼女には知恵遅れのディキンズという息子がいる。ディキンズはローズが大好きになってローズに秘密の隠れ家をみせてくれる。ディキンズの望みは巨大な鮫...一日に二回疾走してくる大陸間鉄道をやっつけることだ。ある日ローズは間違ってデルのママの家で祭壇とデルの祖母の剥製を壊してしまう。デルのママはひどく怒る。なぜなら身体を壊してしまうともう生き返ることができないからだ。デルは工事現場からダイナマイトを盗み出して大陸間鉄道を爆破してしまう。デルの姿はどこにもない、そしてたくさんのひとが死んだりケガをしてしまった。その混乱のなかでローズはひとりの夫人と出会う、彼女に連れられてあたらしい人生がはじまる....

.......第二部シンポジウムを受けてのディスカッションでわたしが金原さんに伝えたかったのはつぎのようなことでした。

.....伝えられている神話や昔話のテーマは光と闇、生と死そして再生であるといわれています。かっての児童文学...ナルニアや指輪物語やゲド戦記には確固とした秩序、宗教や家庭が根底にありました。けれどもアメリカばかりでなく日本においても家庭の崩壊は進み確固としたものが無くなっているように思います。わたしが語りに行かせていただいている学校でも親の離婚や癌など対処できない問題を抱えている子どもがたくさんいて、語りはとても一生懸命聴いてくれるのですが子どもたちのことを思うと無力感に襲われることがあるのでした。もっとなにか子どもたちにしてあげられることはないだろうかと強く感じることがありました。

   「火を食う者たち」で火食い芸人マクナルティーは自分を犠牲にして第三次大戦から世界を救ったのでした。ロバートと仲間はあたらしい旅だちをします。世界は生まれ変わったのです。「タイドランド」においてもディキンズが巨大な鮫をやっつけ自分を贄にしたことでローズはあたらしく旅だつことができました。昔話だけでなくあたらしい文学、あたらしい物語も死を内包し再生に向かうものだと思います。ファンタジーそしてもっと現実に根ざした物語...これからもっとファンタジーや子どもたちの年代のパーソナルストーリーなども語っていいのだと今日は背中を押していただいたような気がします。ありがとうございました。
  
   実際にはことばが足らず充分にお伝えできませんでしたが、その後個人的にお話しさせていただいたなかで気づかせていただいたこともあってそれは勇気つけられる出会いとなりました。その他池田香代子さんと同様にご自分の著書についてどのように再話してもかまわない、作者は差し出した時点で読み手にゆだねるのだとおっしゃってくださったのが印象的でした。しかし現実的には金原さんの訳された物語を再話して語ることはとうてい困難です。エッセンスを使わせていただくことはできましょう。

   著作権について片岡先生に質問させていただきました。「幼稚園、小学校、中学校などの教育機関では著作権の問題は生じないと聞きましたがいかがでしょうか」それについて「出所や著者を明確にすればよいのではないか」というお答えだったと思いますが、それぞれの方が地元でご確認いただければと思います。



   第三部では語り手たちの会代表の基調講演がありました。30年前11人で語らって一歩を踏み出した語り手たちの会の30年間の足跡はひとつのものがたりでもありました。そして真骨頂は来日した英国の語り手から聴いたという「ものがたりと真実」のおはなしでした。

   むかしむかし 旅人がひとりおりました。男は豪華な美しいマントを身にまとっておりましたので 戸を叩き一夜の宿を求めるとどの家でも招きいれられ酒と食事を供されたうえにひとびとにものがたりを聞かせることができたのです。ひとびとは喜んでものがたりに耳を傾け 翌朝名残惜しげに男を見送ってくれました。...男の名は”ものがたり”...といいました。

   ある日 ”ものがたり”が次の村に向かって歩いてゆくと向こうからひとりの痩せた女がやってくるのに出会いました。女は険しい顔をして粗末な身なりをしてたいそう疲れたようすでした。「いったいどうしたんだね」”ものがたり”が声をかけると女は言いました。「わたしは”真実”といいます。戸を叩いてもわたしが美しくなく粗末な身なりをしているで誰も入れてくれず話を聴いてもくれないのです」

   "ものがたり"はいいました。「ごらん わたしの豪華な美しいマントはこんなにたっぷりしている、さぁ中にお入り」....こうして"ものがたり"と"真実"はいっしょに旅をつづけました。”ものがたり”が戸を叩くとひとびとは喜んで中にいれてくれ話をせがみました。...ですから今でも”ものがたり”の中には”真実”がひそんでいるのですよ。

    
   MSさんの声は静かにしみいるようでした。わたしは思わず涙ぐみました。....そして考えていました。ものがたりのなかに真実が含まれていることに違いはあるまい....でも わたしが語るものがたりのほとんどは真実そのものなのだ、万が一つくりごとであっても真実と信じて語るのであって....なお真実の底にあるものを伝えようとするのだ....かってあったもの 今もあるもの ひとがそれをよすがに生きるべきもの...朝の太陽の光のような...道端の草に煌く露のしずくのような とよもす波音のようにわたしたちの奥処にこだまする とても古くて生まれたばかりのようにういういしく匂やかなもの....

   語り手は嘘もつくだろう....嘘の中の真実ということばもあるだろう...でも私が伝えたい...語りたいのは人の魂を揺り動かすものがたり...今はただ搦め手なしの真っ向勝負....さまざまな語りがあって語り手がいていい....わたしはとても古いものがたりととてもあたらしいものがたりを語ってゆく...それでいいのだと思いました。語り手たちの会の30周年祝祭年間は終わりあたらしいジュビリーに向かって歩きはじめます。それぞれの語り手にとってもあたらしいはじまりとなりますように....この祝祭年間にほんの少しですがワークショップをとおして関わらせていただいたことに感謝申し上げます、運営に力を尽くしてくださった方々ありがとうございました。

補遺

わたしは以前から 巫女..シャーマンとしての語りをめざす..と書いてまいりました。それはなにかに触発されたとかなにを見てとかいうのではなく7年前語り手となったときから自分の深奥で感じていたことなのです。今朝語りの世界45号に目を通しましたら三浦佑之氏の古代の語り-その表現と構造-にこのような一節があったので転載させていただきたいと思います。

....そういうところからいくとこの一族は語りを職掌とするだけでなく、<シャマン>なのです。つまり語りをするということは単にものがたりを語るのではなくて、その内容は信じなければいけない、事実でなくてはいけないわけです。つまり、単なる「とんと昔あったげな..」という昔話ではなく事実のお話を語ってゆく、出来事をそのまま語ってゆく、そのために彼らは神から守られている、そういうシャマン的な力が必要だったわけです。
  おそらくこれは古代日本の語り部だけではなくて、どの民族の語り部たちもそういう宗教的な霊力を持っていたのでしょう。そういうなかで語りというのは成り立っているのです。

  三浦先生と金原さんのことばから力を借りて拙文をつづけるなら、古代の神話にいのちを通わせるとともに現代のあたらしいものがたりのなかに受け継がれている真実、光と闇を事実として語ること、ことばを変えると魂を打ち響かせ再生をうながす魂振りの語りをすることが語り手としてのわたしの願いなのです。願いがかなえられるかどうかわかりませんが 曙光に向かってこころは穏やかです。

金原瑞人 公式HP

金原瑞人 ウィキペディア

三浦佑之 ウィキペディア
 
片岡輝 はてなダイアリー

ヤングアダルト 日本において87年 88年頃から使われてきたティーンエージャー向け文学のジャンル それ以前はジュニア小説 SFにおいてはジュヴナイルの範疇に入っていたもの。現在では バイオレンスもの 恋愛ものなども含め多岐にわたる。



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   氷雨が梢を濡らし屋根を叩く朝、みなさまはいかがお過ごしですか? 冬の雨はさびしいものですね。過ぎた一年のさまざまな出会い...魂の逢瀬も心の行き違いもふくめてひたひたと胸にせまります。リサイタルの前夜車を走らせた早春の夜....駆けつけてくださった方々....伊豆の野外ライブ、宵闇にあかあかとかがり火....公園で語ったあの日駆け寄ってきた子どもたち...園庭の欅の大樹のしたで語った空と海と大地のはなし....不思議と思い出すのは語りのことばかり....


   さて今日はものがたりにおけるジェンダーについて語りましょう。動物学的な男女間の性差をセックスといい、社会的制度的に形成された性差をジェンダーといいます。女の子はシンデレラやしらゆき姫が好きですが、フェミニストたちはそのことに大きな関心を抱いていました。昔話におけるジェンダー....ここでは代表的なグリムについて考えてみたいと思います。

   まず主人公について...女性は数の上では遜色ないのですが登場するものがたりのテーマには大きな違いがあります。冒険物、滑稽な話には圧倒的に男性の主人公が多く、ファンタジックなあるいは悲しい怖いものがたりは女性が主人公であることが多いようです。主人公の人間関係は父と娘、兄と妹、夫と妻などさまざまですが女性が男性に従うパターンが多いのです。このように子どもたちが幼いころからものがたりをとおして主人公の性別によって役割分担がちがうこと、女性が男性にしたがうものだと繰り返し繰り返し聴く...インプットされることをフェミニストたちは心配しました。


   そのことについてみなさまはどう思われますか?....自分で読んだり聴いたり観たりするシンデレラストーリーは子どもの頃から好きだったのですが、どうやらわたしは語り手としてはそのような役割分担のあるものがたり、女性が男性のいいなりになることでしあわせになるものがたりを無意識的に避けてきたようです。 そしてその物語の魅力からどうしても語りたいとき知らず知らずものがたりを変えて語っていたようです。いつのまにか赤頭巾ちゃんはおおかみの魔の手から逃げ出すようになりました。....でもものがたりをそこまで変えてもよいのかという意見もおありでしょう。

   参考になるかどうかわかりませんが、鈴木晶さんの著書『グリム童話-メルヘンの深層』によればグリム兄弟は民衆が語り継いだ素朴なものがたりの収集者ではなかったのだそうです。兄弟が聞き取りをしたのはどちらかといえば富裕な文化的素養のある若い婦人たちであったようです。また版をおうごとに大幅に加筆修正をほどこしています。グリム童話は兄弟の再話に近いものでした。そしてそこに兄弟はある意図を含めることもしました。それは子どもたちのしつけでした。

   初版ではおとなのための物語集であったグリム童話はしだいに子どものための読み物にもなってゆきました。兄弟の意図したのは当時のブルジョワジーのしつけ...すなわち女性の沈黙....(これは版を追うごとに女性の発言回数が減っていることからわかるそうです)と男性に従う女性のあり方だったといいます。ものがたりとは時代の求めるものに変わってゆく..ゆかざるを得ないものであり、それが自然のすがたなのだと思います。ものがたりが書物に文字で固定されたことで多くのひとがものがたりを享有できるようになり、分散することなく保存されのは喜ばしいことですが、時代に添ってものがたりが生き生きと変化してゆくことのさまたげになった側面もあるかも知れません。

   ですから 現代の語り手は昔話を時代にあわせて再話していいのだとわたしは思います。登場人物のありようが変わってもかまわないのだと思います。わたしの赤頭巾ちゃんはまだ男性である狩人さんに援けてもらっています。次回はひとりの力で苦境を乗り越えられるかもしれませんね。

   グリム童話のなかにはドイツだけでなくフランスなど他国出自のものがたりも数多くあるそうですが、必ずしも女性が隷属したものがたりばかりではありません。なかにはとんでもないナンセンスもありますし、女性が自分で運命を切り開いてゆくものがたりもいくつかあります。マレーン姫、兄と妹、6羽の白鳥、手無し娘などなどそれぞれのヒロインは愛するひとを守るため自分のしあわせのため知恵と力をつくしました。

   癒しの語り手ベリットさんの話では、拒食症の少女は女性が英雄である昔話、六羽の白鳥のような主人公が自分の力で運命を乗り越えてゆくものがたりを語ることで自らを癒したそうです。日本の語り手たちもしあわせな結婚で終わる昔話とおなじくらい運命を切り開く女性のものがたりが好きですね。おはなし会のプログラムに並ぶ「豆子」とか「勇敢なモリー」とか「フォックス氏」とか、「猿婿」などはそうした語り手の心意気であり、それぞれの人生に立ち向かっている語り手自身を知らずに投影しているのではないかと思うのです。

   そして....わたしもそのようなものがたりを数多く語ってきました。ディアドラは自らノイシュに愛を告白し自らの運命を担います。竪琴のヒロインも後見である王の望む結婚を断り愛に殉じます。秩父事件...白い花をあなたにいっぱい...のヒロインは夫を官憲から逃がし、捕らわれてからは釈放を求めて戦います。....おさだおばちゃんも自分の人生と戦いつづけたひとでした。...その与えられた場所で自分の力量を存分につかって懸命に生きる女性がわたしは好きです。

   今回ジェンダーに目を向けたのはマグダラのマリアがマリアの福音書やピスティスソフィアで語っていることばに心を打たれたからでした。ペテロに主が語ったことばを聞かせてほしいと請われてマリアは語るのですがペテロやアンデレは信じようとしませんでした。マリアが女性であり、主が男性の弟子たちを差し置いてマリアにだけ伝えたことを忌避したい気持ちと嫉妬があったから..ではないでしょうか?マリアは涙を流しながらペテロに抗議します。そして...主よわたしは理解しました。いつでも前に進みでてピスティスソフィアを解釈することができます。ですが、わたしはペテロを怖れています。なぜなら彼はわたしたちの性-ジェンダー-を憎んでいるからですと訴えます....マリアは果敢に真実を光を求めつづけました。けれども初期のキリスト教で光り輝いていた女性たちを正統派教会はジェンダーゆえに手をかえ足をかえ貶めてきたのでした。女性は長いこと聖職者になることができませんでした。

   しだいに扉はひらかれギャップを乗り越えて活躍する女性も増えてきましたが、社会のなかで女性が男性に伍してゆくのはいまだにそう簡単ではありません。 これからの子どもたちが社会的性差...に左右されることなくお互いを尊び生き生きとのびやかに翼を広げられるよう祈りたい気持ちです。そうした抑制や仕組みすらかいくぐり、多くの女性たちが今男性たちよりしたたかにしなやかに輝いていることにわたしは大きな希望を感じています。そしてものがたりを語ることをとおして女性と男性の共生のあり方、うつくしいかかわりや絆をつたえることをつづけたいと願ってやみません。



参考:『グリム童話-メルヘンの深層』鈴木晶著 講談社 

   ピスティス・ソフィア
   
   マリアによる福音書


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  10分しか時間がありませんのでかいつまんで書きます。きのうわたしは友と話していました。良き友とは清明な鏡のようなものです。かって語った「立っている木」の夏樹のように、また「フランス窓から」のDのように。

  二時間のあいだ 互いの数ヶ月互いの今を互いの語りを語り合ううちに深い森の澄み透った水の面に木々が空がそしてかがみこむわたし自身の顔が映るように、過去数ヶ月のことや自分の行動、そしてことばの真の意味が手に取るように明らかになっていったのでした。

  マグダラのマリアを語る...ということはたとえば雪女やつつじの娘やおさだおばちゃんを語るとは一線を画すように思います。もし悪魔が神を演じるとしたら神の属性をまなぶだろう...という箴言がありました。...たとえ10分でもマリアとして語るとしたらわたしもイエスが最も信頼した弟子であったというマリアというひとのたとえ万分の一でも体現できなくては語れません。

  ここ数ヶ月 わたしは曇りのなかにいて我をいささか失っていました。それは感覚としてもわかりますし言動にもあらわれ わたしは自分の中の闇を見つめるという思春期のさなかのような葛藤にさいなまれていました。たとえ愛でも夢でも透きとおっていなければ煩悩にすぎません。愛を得たいということ、他者より先に行きたい 他者より耀きたいと願うなら煩悩なのだと思います。ひとには欲があります。大いなる欲は己をひらき周囲を明るくしますが我欲は貶めます。

  ......そうだったのかと思いました。納得のいく語りができたときとできないとき..そこには大きな違いがありました。無私になれるかどうか 空っぽの器になりきれるかどうか....しかし人間は弱いものですからいる場所に左右されてしまうのです。...もしそこにあなたが心を許せるひとがいないならそこにいて希望がないならそれはあなたのいる場所が違うのだよ...これは昔わたしがアルバイトをしていた頃浦和駅の助役さんが酔いにまかせて言ってくれたことばでした。

  それは場所のせいでさえありませんでした。真実 自分がまっすぐならば、強ければ自分のなかにある小暗いものや周囲の喧騒に冒されることなく静謐を保ち本来の自分でいられるはずですがわたしはさほど強くはありませんでした....。それでもわたしは自分のなかの闇に気づくことができた...本来の望みを思い出せたことをうれしく思いました。語りはわたしにとって祈りです。そのことを忘れないようにしたいと思います。タイムアップになってしまいました。会社の旅行に行ってきます。


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   マグダラのマリアが感じられなくてジリジリと焦燥の日が過ぎていました。語れない...だめかもしれない..テキストどころかそのはるか以前の状態でした。一昨日空のなかにいてようやく兆が見えてきました。砂漠と空....雲間から地上を照らす一条の光 はるかに光芒に向かって歩く人影...ラストシーンです。

   マリアを苦しめた7つの悪霊とはなんだったのだろう。マリアは苦痛のなかにいたのだろうか、身を噛むような不信? 怒り、怯え、乾き.....どこで出会った?会った瞬間 目を見交わした瞬間わかりました。さがしていたもの、さがしていたひと...胸をおさえひざまずく姿が見えます。泉のように湧きいずる喜びがひたひたと満ちて生命が花のように咲きこぼれます。

   ひとはなぜここにいるのでしょう。なんのために苦しむのでしょう。....生命に意味はあるのでしょうか。語ることは知ること うけとめ抱きしめ深々とあじわうこと....もっと底まで底の底まで降りてゆかなくては....


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   朝意気高くA小に向かい、20分前に着きました。今日はゲーム、めだかの発生の予定でしたが、たまごからめだかが生まれるまではよかったのですが、自由に泳ぎだすところで自由になりすぎ収集がつかなくなりました。男子が団子状になってワイワイガヤガヤゲームもできません。窮したわたしはみなを輪にして語り始めました。

   するとあっという間にシンと静まり 私語ひとつ聞こえません。さきほどの喧騒はどこへいったのでしょう。子どもたちは身じろぎもしないでつつじの娘に聞き入っていました。わたしは怖いような気がしました...自分が語り手であることをこんなに意識したことはありません。終わったあと教室に先ほどの騒ぎの張本人が三人残っていました。話し掛けるとN君はおかあさんが癌で入院していたそうです、S君はおとうさんが亡くなっていないそうです、さっき用具入れにもぐりこんでいた子は4人兄弟の一番上....この子たちさみしいんじゃないかな、なにか心もとないんじゃないかな...と思いました。

   「がんばっているんだね おかあさんきっと頼りにしているよ」と声をかけながら内心そんなこといってもまだ甘えたいさかりだ...となにもしてやれないことがもどかしく...敗北感と語り手としての達成感とないまぜになって帰りました。....LTTAを進めるにしてもまだまだ学ぶことがあります。わたしは語りを拠り所にしてゆくしかありません。校庭の木々は裸になり春一番はやく芽吹く柳だけが黄色くなった葉を風にそよがせていました。

    午後 F河産機システムズの部長が見えました。炭化炉に構造上の欠陥があるのではないかと修理屋さんから指摘があり来ていただいたのです。古河さんとうちは環境機械で長いつきあいがありました。契約書にはともに研究開発し機械をよりよくしてゆくという一項が付け加えられています。けれども事態はそのような協調を許さないようです。

    環境関連事業は商売にならないので廃業したり撤退したりする会社があとをたたず 淘汰されもうすぐ勝ち組負け組がはっきりするだろうというのでした。そのうえに新会社法が大きな足かせになっているといいます。小泉前首相はアメリカに押され新会社法をつくりましたが、企業は社会的責任を果たすものでなく株主にたいする責任...利益の確保が最優先になった...そのために顧客との信頼が壊れるようになっても仕方がないところまできている...というのでした。

    わたしは暗澹たる気分で聴いていました。自分しか便りにはならないということが身にしみました。構造上の問題であるなら改善してほしい、他の売り先の情報が欲しいという文書をお渡しして話は終わりました。LTTAも環境事業も行方は荒れ模様....さぁ元気出してゆきましょう。これも一歩には違いありません。


    実は語り組カリャックヒャリャックを抜けさせていただきました。三島での語りカリャックヒャリャックの第一歩は手ごたえのあるものでしたが足元でもっとなにか心の躍ること約束事にとらわれない自由な語りの場をつくっていきたいという気持ちも押さえかねていたのです。場所は違えど思いもことなれど遠い呼び声にこたえていくことに変わりはありません。それぞれの場で交流することもできましょう。田所さんの健闘を心から祈ります。来春は無謀にもあたらしいことをいくつかはじめようと思います。状況はかなり厳しいですが打てる手はすべて打ち自分への信頼をとりもどし 信じあえる友と手をつなぎつつ...。



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  空気が冷たくなってきました。夜中事務所に鍵をかけ出ると車のフロントグラスが凍っていました。今年の風邪は強力のようです。みなさまお気をつけくださいね。

  さてきのう忘年会で話題になったのはアテフ・ハリルさんというエジプト人のバイオリニストのことでした。友人が持ってきた読売新聞の切り抜きによればハリルさんのミニコンサートで幼稚園の子どもたちが「いちごの匂いがした」とか「おかあさんの肌の匂いがした」という感想をいったそうなのです。

  音楽を聴いて匂いを感じることがあった?という友人の問いにわたしは以前声楽の先生から聞いたことを思い出しました。ある声楽家が「野ばら」を歌われたときホールに馥郁と薔薇の香りがした...のだそうです。わたしにはそうした経験はありませんが友人がジュリエットの...ロミオさまロミオさま...薔薇が薔薇というなまえでなくても香りに変わりはないはず...の台詞を聞いたとき たしかに甘やかな香りを嗅いだことがあるのでした。

  以前 ビウエラの音で色を感じる..共感覚?違っていたらごめんなさい..のことをおはなししたことがありますが園児たちはそうした資質を持っていたのでしょうか? それとも演奏するハリルさんのイメージに匂いがあったのでしょうか?

  ことばも音のひとつであり聴覚で感じるものですが、古代詩人たちは魔術的な聴覚的強調によって視覚的イメージを呼び起こし言葉を呪文のように駆使したそうです。聴き手にあたかもその場にいるような臨場感をあたえることができたのでしょうね。....そのように語れたらいいですね。視覚だけでなく触覚、温度など体感のような五官にかかわることを伝えられたらいいですね。それは語り手が文字でなくイメージを自分自身で感じながら語ることで可能なのだと思います。また、その力を磨くこともできると思います。

  魂に響くとはどういうことでしょう。視覚的体感的なイメージをわたすことも大事なのだけれどもそれだけではないような気がしませんか?....ことばも音も光そのものと聞きました。...色彩もそうですね。生命もそうなのかもしれません。....もしそうなら語り手は光を伝えればいいのかな...きのう空を見ながら考えていました。ものがたりではなくことばでなくわたしではなくてその奥にある光を....。




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   トムの会の忘年会がネパール料理店でありました。年下なのに母のようにわたしの面倒を見てくれるHさんが再三telをくれたので行くことができたのです。わたしは抱えきれないものを抱え込んだとき自分のなかに埋没してしまうことがあります。...外側からの脅威やリスクには果敢に立ち向かってゆけるのですが自己矛盾や自分自身への不信の念があるとき身動きがとれなくなってしまうのです。

   そんなときは書類はなくなる印鑑はなくなる車のカギはなくなる...無意識に忘れてしまうのかもしれません。身体はというか心はというか...とても正直です。そんなわけで会社にも忘年会にもでられず煩悶していたわたしはHさんのTELで救い出され宴も半ばでしたが友人たちにあたたかく迎えられ楽しいひとときを過ごしました。トムの会もこのあいだうかがったひょうたんの会とおなじように懐のひろい代表にめぐまれています。ひとりひとり想い想いのおはなしを語り忌憚のない意見をいいあいものがたりを語ることだけでなく出会ったことそのものがたのしくて...というような会です。

   手を振ってみながそれぞれの場所に去ったあと、駐車場で空をながめていました。うす青い冬の空の白い雲が今日はなぜかどれもが首を伸ばした竜のように見えます。竜といってもネヴァーエンディングストーリーの竜のように毛羽立った竜です。上空では風が強いのでしょうか?見ているうちに風にながされちりぢりになって空に溶けてゆきました。後ろを振り向き西の空が目に入ったときわたしは驚きました。

   中空に浮かぶ半島のような黒雲に今しも太陽がすがたを隠そうとしています。地平近く白と淡いグレーの雲の波は泡立ち黒雲の縁は金色に染まり雲から幾千万本の光の箭が滲むように病んだ地上に降りしきりそれは空色の蛋白石(オパール)を透かして見るかのように美しかった。あまりの美しさにわたしは空を一望できる冬曝れの田んぼに車を走らせました。やがて太陽は黒雲に絡めとられましたが隠しようもなく雲の隙間から光輪がまばゆく四方に光を振り撒き、そのときわたしは上方の雲の縁に紅の筋が刷いたのをまさかと目を凝らしながら見つめていました。雲のなかほどは薄青く燐光を放ち わたしは奇態なほど美しいその眺めに涙を抑えることができませんでした。

   あぜ道を歩く一群のひとたちは空を一顧だにせず急ぎ足で通り過ぎてゆきます。毎日毎日こうして天空のドラマが繰り広げられているのだ...とわたしは思いました。目にとめるひとがいようといまいと光と陰の饗宴は海の涯山の涯砂の涯の上で繰り広げられているのでしょう。千年前二千年前太古からずっとずっと....わたしのちいさなちいさな営みはけれどもその昔からはじまっていたのです。草のいのち 虫のいのち プランクトンやミジンコであったときもあったでしょう 騎士や巫女や僧侶であったり百姓や泥棒であったりしたことも...わたしが受け継いだDNAにはその遠い遠い記憶もあるのだろう...幾千幾満のものがたりが凝縮されて刻まれているのだろう....この空のこの雲の威容に涙するのもそのような遠いものがたりと呼応しているのかもしれません。



   

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.....わたしはテレビが白黒の昔からフィギュアスケートが好きでした。まだフィギュアがこれほどの人気がなくマイナースポーツの時代からNHKの放映があるとテレビにかじりついていたものです。そのなかでもっとも記憶に残るシーンは英国のジェーン・トービル・クリストファ・ディーン組が演じた「ボレロ」でした。芸術点で9人のジャッジ全員が6.0(満点)を出したこの演技はフィギュアの歴史のなかで伝説となり 23年経った今もわたしの脳裏に紫の濃淡の美しい衣装とともに鮮烈に残っています。クリストファとジェーンの「ボレロ」が大きな感動を呼んだのはその「物語性」にありました。叶わぬ恋に苦しみながら旅をつづけ、苦しみを癒す唯一の方法として火に身を投げてしまう恋に身を焼く男女の物語です。恋の終焉…ふたりは絡まりあって氷上に斃れますがその美しさに鳥肌が立ったのを忘れることができません。フィギュアスケートが単なるダンスやウィンタースポーツから芸術に昇華した一瞬でもあったのです。


   わたしはドラマが好きです。神話...闇と光の戦い....そしてそれを継承するファンタジー文学.....市井のひとびとの人生の...闇と光、栄光と挫折そして再生のドラマ、また現代の英雄でもあるそれら一般のひとびとの人生のものがたりが時代と織りなしてゆくドラマ...そのようなものがたりや詩を好んで語ってきました。......それで昔話や民話のなかでもドラマ性のあるもの、象徴としての生と死...甦りが色濃く反映されたものは好きだったのでしょう。.....自分のこと...なぜ、どうしてなにかが好きで なぜどうしてこのような行動を起こすのかって意外にわからないものですね。この奥にはかっての成就されなかった今生のまた過去生の想いの名残があるのかもしれません。


  さてそれでは自分が語りたいものがたりをドラマティックに伝えるにはどうしたらよいのでしょう。きのうフィギュアスケートのNHK杯とFOXテレビのダンスのコンクールを見て気づいたことがあります。フィギュアやダンスにおいての実力とは身体能力+技術のように思いました。クリストファとジェーンの伝説的な演技にしても当代きっての実力者であったふたりの卓越した身体能力と技術の裏打ちがあったことはいうまでもありません。けれどもその耀き..パフォ-マンスの質を決めるのはそれだけではないように思うのです。...それは個性...演技者の生命のあらわれといいましょうか...そのひとの生命力そのひとの人生のものがたりがパフォーマンスに透けてみえる....そして投げかけられたそのオーラに....観客の魂は打たれテレビを通してさえ震えるのではないでしょうか。

  

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   このごろ自由でないわたしを感じています。開いていないわたし、自分を裁いているわたし、コチコチに硬くなってるわたし...アレクサンダーテクニークとか脱力のためのエクササイズをしていないからかもしれません。なにかしたい、自由になりたい....それでひさしぶりにオーラソーマをしてみました。104本のボトルから4本をえらびます。

わたしの本来のボトル

あなたは自分の理想をしっかりと掲げ、それを現実化していく行動力と意志の強さを秘めています。つねに自らの心の平和な感覚を大切にし、それを周囲の人々にも表現して、心でつながりあえるコミュニケーションや調和を図っていきます。それがあなたの使命と言えます。人を惹きつける魅力があり、自らの意見を主張して人々を導くリーダーシップもあるので、グループの中で何かと中心的なポジションに置かれます。また、人と人とをつないだり、仲間をまとめていく役目も多いでしょう。

わたしの今のボトル

あなたにとって今は、ライフワークや生き方について真剣に考えることが、とても大切な時です。「自分はいったい何をしたいのか?」「周囲の人とどんな関係を築きたいのか?」自分自身に問いかけながら、これからの方向を明確にしていきましょう。素直に心を開いていけばいくほど、最も自分らしくいられる平和な心の状態が広がってきます。内面がクリアになるので、進むべき方向性もはっきり見えてくるでしょう。心のときめきや直感に従っていくと、ベストなタイミングで必要な情報や人との出会いが訪れるでしょう。

....やっぱり心を開かなくては...ね

わたしのチャレンジボトル

あなたは幼い頃からすでに何度か、大きな失望感を味わっているかも知れません。現実の生活でとても辛い思いをしていて、その実態から目をそむけ、どこかへ逃避したい衝動にかられることもあるようです。まずは、目の前で起こっている物事をあるがままに見ること。そして、それを受け入れていく必要があります。自分自身に対する信頼があなたの課題です。心の奥の正直な思いに耳を傾けて、自分の良心から湧き上がってくる直感を信頼してください。あなたにとっての偉大なる教師はつねに心の内側にいるのですから。

.....ほんとうにそうでした。逃げたかったし逃げていた。自分を信頼すること。直感を信じること。

未来のボトル

あなたは精神的に成長し、内面のバランスがとれてきたことで、自分の優しい面も強い面も自然に表現できるようになります。これまで以上に直感力が鋭くなるので、あらゆる側面から物事を見通す力も増して、今までベールに隠れていた物事の本質が見えるようになるでしょう。また、愛や美に関しての感性が豊かになり、アーティストとしての才能が開花するかも知れません。あなたは、執筆、絵画、音楽、ダンスなどを楽しみながら、豊かに自己表現します。さらに芸術を通して、より豊かな社会の実現のために貢献していくでしょう。

....そうなりますように....


不思議と響くものがあります。あなたも試してみませんか?...

オーラソーマ




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西風  


  西風に寄せる歌

おお、奔放な「西風」よ、「秋」を証しする息吹よ、
.....

もし私が汝に運ばれる枯葉であったならば
もしおまえとともに天翔ける雲であったならば
あるいはもし、汝ほどに自由でなくても

汝の力の下に喘ぐ波として、その衝動を
ともにし得たならば、おお、不覇なるものよ!
せめて子どもの頃のように、空行く汝の

友となり、天翔けるおまえの速さの上を行くことも
夢ではないと思えた時期の私であったならば
.....

森が風に鳴るように私を汝の竪琴にしてくれ。
私の葉が森のように散り落ちてもかまわない。
汝の力強い風のどよめきは森と私の両方に

悲しくも美しい秋の深い調べを奏でさせる。
汝激しき魂よ、私の魂になれ!


シェリーの西風の賦が風に逆巻き蹴散らされる枯れ葉のように
身体のうちを駆け巡る

なにかしたくて...
衝動に身をまかせて語りたくて
自由になりたくて
できるかどうかわからないが律動と奔放に身を任せたくて
こんなときにこんな場所でわたしは


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    今日は児童文学者M先生の語りを聞きました。最初に市議会議長の病院誘致の自慢話と市町村合併の宣伝があり、さすがなかなかの語り(騙りかも)だなぁと感心しました。その後その議長の話をすっと受け止めて先生の高齢化社会の生き方みたいな講話がはじまりましたがわたしは途中から不覚にも眠ってしまいました。それは心地よいお声だったのです。カタリカタリの仲間たちが先生の語りに心酔しているので一度は聞きたいと思っていたその語りがはじまった途端 シャキ-ンと目が覚めました。

   語られたのはねずみ浄土と文字のない手紙のふたつでしたが….あたたかくてやはらかくて味があって…そのうえうまい語りでした。わたしはもっと純朴な語りであろうと予測していたのでそのうまさにたじたじとなりました。間。呼吸 それも間髪をいれない間…音調の変化、これはなまなかできることではありません。……..先生は日本民話の会で学ばれたのだそうです。覚えていないのでレパートリーが少なくてとおっしゃられましたが これだけの語り手で講話もなさるのなら自在に語ることはたやすいことに思われオリジナルが聞きたいと思いました。語りと語り手の人生はわかちがたくむすびついています。ゆたかな人生経験…..とものがたりやエッセイを書き続けてこられたことの蓄積、子どもたちやひとびとへの共感と愛があってはじめてできる語りでした。

    ……..されどわたしは自分のなかがすべて宜うものばかりでないこと…..ちいさな砂粒のように主張するものがあるのも感じていました。コンビニの駐車場で…いったいなんだろうと早くも沈む秋の陽と刻々とその色を変えてゆく秋の空を見ながらかんがえました。……そしてふと欠けているものがないまるい円のようだと気づいたのです。それは年輪が醸すもの、酸いも甘いも知り尽くし芳醇になったひとの語りでした。予定調和の癒しの語りでした。講話のなかで幾人か素晴らしい老年をおくられているお年寄りのおはなしをされたのですが、その安寧の境地にたどり着くまでには修羅があったはずです。婆に似るな 嫁に似ろと孫に歌う姑の心のなかに葛藤というものはなかったのでしょうか。わたしはその修羅をも含めて聞きたいと思いました。闇があってこそ光が輝く……わたしはその闇も含めて受け取りたい、また手渡したい….これはまだわたしが若く未熟だということなのかもしれません。……されど癒しのやさしさだけでは扉は開かないと思うのです..いつかまるい円環のような語りができる日を夢みつつ...わたしは不安な諧調をももちいて個の扉をひらき眠りを貪っているものを呼び起こしたい…..。



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