遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  昨夜、奇妙なことがありました。寝入りかけていたときに、子どもの声が聞こえた...「おかあさん....でよかったね」....うたうような声...それはわたしの子どもの幼い頃の声....とわかっているのですが...4人のうちのだれか思い出せないのです。....それから今度は笑い声が聴こえました。....とてもなつかしくもう一度聞きたかったのですが、眠り込んでしまいました。

  朝、LTTAの11月の模擬授業打ち合わせのため、電車に乗りました。すると、二組の会話...女性同士..と男性同士.....が耳にくっきり飛び込んできて軽い嘔吐感がありました。内容がどうのというのではなく、その声だけが周囲から浮き上がってくる感じ....つぎに右の耳の奥でキーンという金属音がしました。そのとき、わたしはきのう、常世の水 を観ているとき、右耳の5センチほどのところから笙の音が響いていたことを思い出したのです。トマティスでは右耳を利き耳にする訓練をおこなっています。

  セシオン荻窪でうちあわせのあと、ふたたびトマティスジャパンに向かいました。聴覚トレーニング二日目です。音楽が響きだすと、嘔吐感があって、それから頭の中が熱く感じられ、中心に向かう力と拡散する強い力を感じました。それは変性意識に入るときのめまいに似た感覚....と似ていました。オーロラのようにさまざまな色彩があらわれました。深いブルー、青の中の青、緑、白、、むらさき、あざやかないろあいは変化して一瞬たりともじっと止まってはくれません。

  白く耀く都が見えました。だれかの顔が見えました、とても、とてもながい時間が経ったように思われました。たくさんの昼と夜....緊張と弛緩.....感情の波が押し寄せてきて、わたしは涙を流していました。.....これはいったいなんだろう。トマティスは科学的なものです。ですが意識の底にしまいこまれていたものがひらきはじめようとしており、わたしはそれに身をゆだねようとしています。





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  ついに決心して市ヶ谷のトマティスセンターに行きました。今日は聴覚トレーニングの初日です。以前にも書きましたが、トマティスはフランスの科学者、”聴き取れない音は発声できない”ことを発見したひとです。"声"を求めてトマティス博士のトレーニングには実際多くのアーティストが押し寄せたそうです。

  わたしがトマティスを受けようと思ったのは”ほんとうの自分の声”を取り戻したいからです。そしてトマティスジャパンのみなさまの声と佇まいの美しさに感銘を受けたからでもあります。ヴォイストレーナーをわたしはその方の声で選びます。力のある、奥深い、艶のある、のびのある....さまざまな方がおいでですが、低くても心に響く声、心地よく、あたたかく、なお清い声に今は惹かれます。

  さて、トレーニングはモーツァルトとグレゴリア聖歌を2時間聴くだけなのですが、ただのグレゴリア聖歌ではありません。その間眠るのも絵を描くのも自由ですが本を読むことはできません。わたしはうとうとしていましたが、途中で頭頂部が..それになぜか腕が痛くなりました。さすっているうちに痛みはおさまりましたが、終わったあと視界があかるくくっきり見えるように感じました。まだ、変化は起きるでしょうとのことです。

  そのあと、新高円寺まで”常世の水”を観にゆきました。住宅街のなかのふつうのお家になんと能楽堂があるのです。鏡板には決まりごとの立派な松が描かれています。これは戸外で能が演じられたとき、依り代として高い木に神が降りられた...その名残で、鏡板は反響版の役目も果たしています。橋掛かりは住宅の中ということもあり舞台に直角についており白州はありません。しかし立派な舞台です。正面の椅子に座らせていただきました。しばらくして白い衣裳を纏った方が風のようにふわりと横切って右のすみに座りました。

  客席は固唾を呑んで開演を待っています。やがて橋掛かりのほうから遠い無限から響くような声がしました。....むかし、永遠の若さをあたえられたひとりの女がおりました.....うつくしい声でした。.....やがて白いかつぎをかむった女がしずしずとあらわれます。舞い手は秦さん...正面、高くうつくしいウタの声は満喜子先生、風のように地の響きのように啼く笙は田島さん....三人の女性の共鳴のパフォーマンスです。しずかな悲しみに充ちた前奏から、舞台は一変、ウタの声は地を這い紅い絹が蛇のように炎のようにうねり靡きます、笙の音が耳元に囁きます。.....そして受容と変容。

  うつくしい舞台でした。...それだけでも満足すべきところですが、わたしはもうすこし田島さんの語りが聞きたかった...舞いながら語る....そういう語りもあるのだなぁと新鮮な驚きでした。....求めるなら空白、無がほしかった。間とことばで、わたしたち観客のうちに起こされたざわめきを鎮めてほしかった....おおまかなあらすじだけでほとんど即興、まったくのパフォーマンスなのだそうです。即興は完璧なパフォーマンスになるときもあるし、そうでないときもある。もちろん台本に即して上演されたものもそうだし、そしてどのようにたちあがったにしてもその日、その時唯一の意味のある結果にちがいなく、その意味で惜しむこともないのですが。

  終演後、秦さん、満喜子先生、田島さんとご挨拶したりお話したりのあと、在り得ないことが起こりました。開演前あらわれた白い女性、わたしはその方に話かけた....まるでそんなつもりはなかったのに。...「あなたは天女です。いつかとおいむかし、どこかでお会いしたことがありますね」.....そして思わずハグしました。「あなたにあえてうれしい、なみだがあふれそうです...」ほんとうになつかしさで胸が熱かった.....その方はいいました。「また、会えますよ」...「そうですね また お会いしましょう」....

  玄関を出て歩きながら 自分のしでかしたことにあっけにとられて 不思議でなりませんでした。あぁ やっちゃった なんて思われただろう。。新高円寺の駅で舞台を見た方たちと出会い名刺の交換などして、それまで未知の方たちでしたのに旧知のように語り合って、かの白い女性が漫画家の岡野玲子さんと知り驚きはいや増しました。....たしか50近い方のはずですが、どうみても20代でした。今日のステージの常世の水は白比丘尼....がテーマでしたが岡野玲子さんこそ不老不死の白比丘尼のようでした。秦さんはシュタイナーの学校の校長をなさりながら、現代の神楽舞を創造していらっしゃるとか.....シュタイナーに関わりの方とつながることがなぜか多いようです。さまざまなつながりがつながりを生んでこれからなにが起こるかたのしみです。

  

   

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   鈴木メソッドです。

   世界に認められた演劇技法なんですが、これがひとりの女優 白石加代子さんの演技を普遍化するためのものだったと聞いてうーむ...です。....でもアレクサンダーテクニークだって 自分の声が出なくなった...なぜだ? そこからはじまったんですから。(...だったと思うけど、違ってたらごめんなさい) カラダとココロのつながり、脳の働きってそれほど人類にとって未知なんです。細胞を顕微鏡で検証するようにはいかない。微細な電流のしわざ....なんですが.....とりあえず現象的には....


   それはさておいて、演劇におけるメソッドとはスタニスラフスキーをはじめとして型や外見のそれらしい演技ではなく、役者の内面の衝動を重視する技法、つまり人生経験に裏打ちされた技法なんです。.....語りには学ぶ技法がありません。...どうやって学ぶ?....そこで本能的に演劇に首、いや身体をつっこんだ....おもしろかった....そうしたら外国の語り手さんは演劇経験者が多いのですね....演劇に学ぶべきものは多くあります。.....カラダと取り組む、カラダとココロの連環を知る。...には最適です。が、メソッドは人間のなかから人間を対象として出てきたものです。語りもそうなんですが、ここはちょっと違う...というのが語り手としてのわたしの身の置き所です。....だから....演劇を学ぶことをすすめているわけではない。あくまでも興味があれば....の領域です。

   いい語りって見せる聞かせるものではないので、スタニスラフスキーを知らなくても、豊かな人生経験や他者への慈しみを持つひとの語りは限りなくやさしく胸をうちます。そしてもうひとつ、語りにしても演劇にしてもおおもとは祭祀だった、それは外せないところです、娯楽としてエンタとして捉えたい方は多いでしょう。....にしても、名優、名人、名演奏家、名舞踊手...この「名」って名のあるという意味でつかってるわけじゃないのですが.....に気がついている方は少なくないと思う。....踊ること、うたうこと、演じることなどが人間を超えたなにか、どこかにつながるってことをです。

   だが そこに行き着くまでに膨大な努力があっての到達点....身体+ワザそして精神(魂)、.....やっぱり修練は大事だ...と堂々めぐりになってしまいますが.....修行や探検はお金と時間がかかる、これはネックですね。......わたしはメソッドとは逆に今”型”に興味を持っています。”型”というのは”我”をそぎ落とすためにあるのじゃないかな.....それと想像力。人間の日常性にとらわれていたら飛翔ばない。......それだから あたらしいおもしろい語りの学び方を考えています。...あぁ それより10/7の名草姫伝説をどうするつもり? あるのはテキストだけ 一回も練習してないじゃないか、修練は大事だよ、と内なる声.....ドキッ!

   語りを、発声を学び実践することをとおして おぼろにおぼろにかすかにかすかに未知なるものが不思議が見えてくるっておもしろくありませんか。ホント 不思議探検隊です。演劇理論、古代史、シャーマニズム....知ることは力です。意図的に隠されていたものを明るみに出すことで今が見えてくる。社会、世界、自分も見えてくる。みんなでトライするとひとりより見える範囲がひろがる、基礎講座はその意味でもやってみてよかったです。カタリカタリってかなりの可能性、才能があつまっていたんだってことにも気づきました。もっと踏み込んでもよかった。もったいないことをした。でもまだ遅くはない。

   ひとには未知の領域がある。もっとひろがるしひろげられる。ここにきてくださるみなさまも、もしどうしようかな、、て踏み切れないことがあったら....思い切ってチャレンジしてみてください。捨てることもチャレンジです。人間の掌につかめることは限られているから、手放さないとあたらしいものはつかめない....これも実感しました。
秋はいいです。おしゃべりはこのくらいにして、いざいざ 花野に繰り出しましょう。語りよりなにより 大事はうつくしい自然、ひとの心 つながりです。


   

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   朝ビウエラレッスンに行った。街中にいるのに空はひろびろと広大無辺に見えた。風のいろが違った。いよいよ秋がきたのだ。

   語りのなかで歌った曲をビウエラ演奏用に編曲していただいた。それを水戸先生に弾いてくださるようお願いした。日本の曲なのにビウエラの音と違和感はなかった。思ったとおりビウエラはものがたりを選ばない。それから小曲を弾いていただいた。わがままな弟子である。先生のゆびさきからこぼれる銀のしずく、水晶のしずくは空中に波紋を描いてにじんでゆく....なんてうつくしいのだろう。楽人を侍らせて望みの曲を所望する王侯貴族なみの贅沢に秋の憂いも解けてゆく。

   夜中、ビウエラを爪弾くと魔が出るかもと....怖気つつ弾いてみる。7曲のなかでも芦刈の歌がうつくしかった。とても簡単なコードなのに響きがきれい...さすが名人である。さぁ すこしは練習して、次回のレッスンには驚かしてさしあげましょう。.......・ワークショップのあと、なにかが落ちるところに落ちないでむずむずしている。運転中も仕事の合間も考えてしまう。........

   阿部さんが見える前、午前中は響きとイメージについてさまざまエクササイズをした。響きだけでことばの中身をつたえる....イメージを映像として描いて伝える....さまざまなシチュエーションでおなじことばがどう変化するか....さまざまな”おはよう”をした。夫の不倫相手とうたがって隣の奥さんとするおはようは? おもらしをした子どもがうちに帰ろうかどうしようか迷っているときのおはようは? 

   参加者の考えるシチュエーションは具体的な条件が揃っていて、そうなればそうなるほど台詞はリアルになる。もちろん実際は語りながら演技をするわけにはいかないので、身体感覚はイメージで組み立てる。台詞を身体感覚をとおして発するのは、人物になりきればむつかしくはない。しかし、地の語りのとき、自分の知らない世界を単なる文字の音声化でなくあざやかににおやかに語るのはむつかしい

   初夏、秋、冬それぞれの季節に朝咲く”ばら”を聴き手に伝えるエクササイズをした。響きだけで、またイメージで。やはり響きのほうがよくあたる。今日のグループはこれがむつかしかったようだ。.....ものがたりの流れ、感情のながれとは無縁の単独のことばであったからだろう。わたしはあることに気づいてハッとした。このエクササイズはどうやらひとを選ぶ。響きで伝えられる、また響きを感じ取る。これはヒントだった。


   鈴木メソッドは演技者自身の身体(生理)リズムが空間を伝わり、観客に伝わることを目的にする。自分の身体感覚をよすがに語る...身体をとおして語る。それって語り手自身が色濃く投影されるのではないだろうか。鈴木メソッドは日本の古典芸能ことに能に最も寄り添ったメソッドであるらしいのだが、能の後見の見、客観性とはどのように折り合いがつくのだろうと考えていた。主観と客観、自分を観察しているのだろうか...

   語りはおしゃべりではないし、演説ではない。一人称の語りであってもそれは代弁である。語り手は透明な筒である。ものがたりを伝えるとき、語り手の身体感覚をとおらないことばは響かない、たしかに。....が、それはよすがである。その身体感覚をそのまま伝えるのではない。ことばは名のようなもので実質ではない。そのことばになるまえの実相に還元するための呼び水としての身体感覚なのだろう。

   春さきの風に撫でられ震える頬の産毛....冷たい井戸水で冷やしたスイカに触れると手に纏わりつくこそばゆいちいさな空気のつぶつぶ....心臓をぎゅっと掴まれるに似た死の恐怖....太陽にぬくとめられた水たまりの水と軟泥が素足の指のあいだからぐにゅりと押し出される快不快....ひとは幾千の身体感覚の記憶を持つ....瞬時にして取り出された記憶はことばに束の間の光芒を与え呪縛を解き放つ...そしてふたたび記憶の底に眠る.....しかしこの甦った記憶が語り手自身を変えてゆくこともある....とこれはおまけ。.....ある種の才能と思うがものがたりより、生理的な身体感覚が伝わってくる役者さんがいる。.....

   わたしは役者や語り手を味わいに劇場や会場に出かけてゆくのだろうか。身体感覚を共有するため? いや...そうではない。語り手や役者がわたしてくれるものがたりをともに生きるために、カタルシスのために行くのだ。ところで身体をとおすといっても、見えないモノ、はるか彼方のものがたりを語るとき、現実と遊離したものがたりを語るとき、身体感覚だけでは伝え切れないのではないだろうか


.....演奏家は身体感覚を意識して演奏するだろうか? わたしにはそうは思えないのだが、それでも情景が、空の色海のいろが、はっきり見えるのはなぜ?? 聞いていて感情がたかまり涙があふれるのはなぜ??....そこに秋の空を突き抜けた感じ、瞬時につながる感じが必要だ。身体性を飛びぬけたものが必要だ....という感じがしてならない。まだ整理がたりないがすこし近づいたようである。

   



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   この年になりますと ”意外な!!”ことはそう多くはありません。それがどうもこのごろ意外なことがよく起こる。そのなかでも昨日の阿部さんのワークショップは、街を歩いていて突然バケツ一杯の冷水が降ってきたに匹敵する衝撃でした。そしてなにより楽しかった。

   わたしは二年前から語りについて心情はあっても圧倒的に身体の感覚がたりないと感じていました。...そこで身体の感覚を取り戻す提案として、昨年からワークショップをひらいてきました。そのわたしにとっても今回の阿部さんのワークショップの内容は想像外のことであり、またここではじめて阿部さんの語りがどのように構築されているか大まかに知ることができました。

   最初に身体ワークで①身体の歪みを知る。②左右の不均衡を知り修正すること...をしました。つぎに感覚をひらき、周囲の情報をできるだけ収集することをしました。共同作業としての発声をしました。鈴木メソッド④......重心を確保しながら、身体の向きを変え、上段に構え、振り下ろし発声する...という一連の動きを連続して行いました。参加者には身体について鍛錬している方もいましたが、思うように動けなかったそうです。阿部さんもおばさま相手ははじめてのようで、思わぬ展開に爆笑がときおり双方から起こりました。

   有体にいいますと、心情は関係なく重心のコントロール、呼吸数、脈拍で登場人物の台詞を表現するのです。子どもはかるいですから重心が高い、脈拍も速い、おとなも軽薄なひとは重心が高いし、賢者は低い。今だれと向かい合っているか、どういう距離かでも重心は変わります。そのうえに身体で人物の.....痛みやさわやかさなどもろもろの感覚を感じる(当然重心は移動しています。うれしければ上がるし、悲しければ下がる).....その身体から発せられた声で聴き手の身体が動く...。よくよく考えて見ると、わたしたちが悲しいさびしい辛いうれしい....と心情的に感じると同時にあるいはその前に?身体の変化は起きているのだから、理にかなっているともいえます。

   すごいなぁと思うのはこれをテキスト上できっちり計算し構築していることなのです。日本語の音節は一音一音でできているのでリズムがない.、日本語は音楽性がとぼしい....そこで阿部さんは意図的にリズムをつくるといいます。聴き手と同じリズム、呼吸では聴き手が眠くなってしまうからです。声圧の大小、緩急だけではありません、ブレスの位置を自在に変える、登場人物が自分のことばに反応する、登場人物にさまざまな情報を与える.....こうして聴き手の耳をそば立たせる。

   阿部さんはいいます。「たくさんのことが起きている役者はおもしろい」「たくさんの情報を持っている役者はおもしろい」これはそのまま語り手にも当てはまるでしょう。


   今回は演劇のためのメニューでした。しかし語りに適用できるものはたくさんありました。参加者はあまりに多くの予想外の情報を受け取ったのでまだ収集がつかないでしょうがいずれ今日蒔かれた種子は芽を出しすこしずつ語りを弾むもの、うねるもの、生命の響きを伝えるものに変えてゆくでしょう。最後に阿部さんに質問をさせていただきました。

   「サーカスの犬を聴いたとき、海のようにはためく青いテントが見え、風を感じましたが、語るとき阿部さんはその情景をイメージしていらしたでしょうか」「いいえ、メージはしていませんでした。テントに寝そべっていたふたりの身体の感覚を感じていたので、それが聴き手に伝わったのでしょう」「.....つまり、それはものがたりのなかで生きることですね」「そうです」.......物語を生きる....そのためにさまざまな可能性があります。そして自分のなかそして外に開発してゆきたいものがあります。バランスのとれたしなやかな身体、子どものような手ズレしていない感覚(ちょっとイタイけど)、大それた望みですがもっと自分の身体を知り、コントロールできるようにしたい。......   身体と向かい合ってゆくことはなんだかうれしい、....今、そう思えることもとてもうれしい。


   ふと気がつくと、春のお彼岸のリサイタルの日からちょうど半年経っていました。人間は変わらないようで変わりゆくものですね。掌にはなにもなくただ、今があるだけ....青森の旅、出雲の旅、そしてあと2回の二期講座....毎日が未知へのわくわくする探検の旅です。


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........縄文時代の終わり頃、日本に渡来してきた出雲族、日向族(天孫族、以降日向族といいます)のほかに、おそらくそれよりもっと早く渡来してきた一族がいました。海人氏族、安曇氏といいます。信州には安曇野という地名があるが,ここは海人族安曇氏が移住して開拓した土地だといわれています。

   当時出雲の国は琵琶湖より西の土地をさしました。そしてスサノオが始祖でありました。出雲族と日向族はともに渡来した(天下った...ニニギ、ニギハヤヒ)一族ですから、今後は天孫族ということばはひかえます。双方で婚姻関係もあったようですが、やがて日向族はさきに一帯を治めていた出雲族に戦いをしかけ、屈服させます。後年、出雲族の伝承の担い手である物部氏を追ったあと、日本統一を内外にあきらかにし日向族の出雲族への優位性をあきらかにし、うらみも晴らしたのか、出雲族の功績を日向族に書き換え歴史を改ざんして、日本書紀、古事記が書かれるのです。しかし、記紀では消せても神社の歴史や地名を消すことはできず、その欠片がまだ残っているのです。

   須佐の男...スサノオ→オオクニヌシ→ニギハヤヒについては物部文書とともにあとで書くことにして、今日は安曇野について書いてみようと思います。


   わた(海)つ(の)み(神)....わだつみは海の古称ですが、"あずみの"もわたつみが訛ったものといわれます。記紀などでの漢字はあとからあてはめたものといわれています。さて、古事記では、綿津見神はイザナギイザナミの子どもで海をつかさどるとされ、トヨタマビメとタマヨリヒメのふたりの姫がいます。トヨタマヒメは海幸彦(ホデリノミコト)山幸彦(ホオリノミコト)の山幸彦と結婚し、そのあとワダツミは姿をあらわさず、スサノオが海神として登場するのです。息子は、穂高見命(ホタカミノミコト)、安曇族の祖神であり穂高神社に祀られています。この穂高神社には舟がかざってあった記憶があります。

  さて、安曇野には八面大王の伝説があります。


......神武天皇の頃、有明山の山麓に「ここは我が住む地なり」俺の城、宮城と名付けて鬼が住んでいた。その鬼は八面大王と言って里に下っては穀物を盗み、娘達をさらい、わるさがひどく、村人はたいへん困っていた。この話を蝦夷征伐に行く坂上田村麻呂が聞きつけて鬼を退治しに来た。ところが八面大王は、雲を呼び、風を起こし、雨を降らし、弓を射っても魔力があるんで一本も八面大王を射ることもできなかった。

   困った坂上田村麻呂が、観音様に手を合せて祈ったところ、観音様が夢枕に現れて、「三十三節ある山鳥の尾で弓矢を作り満願の夜に射たおしなさい」とお告げがあった。坂上田村麿は信濃一国布令を出したが、三十三節ある山鳥の尾はなかなか見つからなかった。

……さて三年前の事、弥助という若者が穂高の暮れ市へ年越の買物に出かけた。雪の峠を越えて松林にさしかかった時に大きな山鳥が罠にかかって鳴いていたので心のやさしい弥助は山烏を助けて、罠には買物するはずだった五百文をかわりに置いて来た。....大晦日の晩のこと、年の頃、17・8才の娘が、道に迷ったといって弥助の家の戸をトントンとたたいた。娘は美しいばかりでなく、良く働く娘で、弥助はすっかり気にいって嫁にして、幸せに暮らした。

  .....弥助の嫁が来て三年たった。坂上田村麻呂の山鳥のおふれが出てからというもの、弥助の嫁はもの思わしげなようすであったが、ある日弥助が山から帰ると姿が見えない。書き置きに「三年間楽しい日々でした。この山烏の尾を八面大王の鬼退冶に使って下さい。やっとこれで恩返しができます。」と記してあった。

   弥助は悲しみにくれながらも丹念に矢を作リ、矢を田村麻呂に差し出した。そして田村麻呂は満願の夜、八面大王が月を背に受けて立っている時に弥助の矢を用いると、今まであった魔力が薄れ、大王の胸に弓矢がささり、大王の血が安曇野の空を染め、雨となって降りそそいだ。

   八面大王を伐った坂上田村麻呂は八面大王が魔力で生き帰ることをおそれて体を切リきざんで埋めた。大王の耳を埋めた所が有明の耳塚。足を埋めた所が立足。首を埋めたのが国宝の筑八幡宮、現在の松本筑摩神社。胴体を埋めたのが御法田のわさび畑、別名大王農場とりいわれている。しかし、嫁を夫った弥助は毎日、雪空をながめ、嫁が帰ってくるのを毎日毎日待ってたという・・・

   この伝説にはまったく正反対のものがたりがあります。ヤマト朝廷の圧制と年貢に困り果てた農民を救おうと豪族八面大王が戦いを挑むのですが、坂上田村麻呂に敗れる...という話です。ここでも勝者の側と敗者の側ではものがたりがちがっています。そして敗者は”鬼”とされるのです。

   ヤマト朝廷の東征にはふたつ相手がいた....という説があります。ひとつはもともと日本にいたまつろわぬひとたち 蝦夷などを平定し土地や鉄や金を手にいれるため、もうひとつは出雲族、などの日向族以外の渡来人を滅ぼすためという説です。.....とすると八面大王はどちらでしょう?......

   氷川女体神社(氷川神社はスサノオ、女体神社は妻クシナダヒメを祀る)はなぜかわからないが 子どものころから特別の場所だった...と先日書きましたが安曇野もわたしにとって特別な場所でした。以前安曇野について書いたものがありますのでよかったらごらんください。

安曇野紀行

   この小文を書いて早7年になります。安曇野はそれから訪ねることはありませんでした。....バスで通り過ぎる時は幾度かあって、いつもぐっすり眠っているのですが、安曇野に差し掛かるとなぜかぱっちり目が覚めるのです。安曇野の空は特別のいろをしています。澄んで...耀いているとわたしは感じるのです。7年前、かの地で約したことを来年には果たせるのではないか....という予感がして わたしはふつふつと湧き上がる喜びを押さえかねています。


※古昔(こせき)、出雲の国と称せられたる地点は、近江の国の
琵琶湖以西の総称であって、スサノオノ大神様のうしはぎ給うた土地である
湖の以東は、大神様の御領分であった。 (三鏡)
※天照新編武蔵風土記より「社記を閲するに、当社は孝昭帝の御子、勅願として出雲の氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜はれり。

※古語の「ヒ」は「霊・日・火・一」。「ひかわ」は「おそるべきエネルギーに満ち溢れた川」、「生命の源泉としての川」

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篝火  


......今日は決算で会計事務所さんと詰めだったのですが、どうしても満喜子先生のクラスに行きたくて、片腕Yさんにお願いし中座して走りました。1時間ほど電車に乗って迷子になってようやくたどりつくとちょうど 発声がはじまるところでした。満喜子先生の導く声にしたがって、天とつながって、地とつながって、女性性と男性性につながって、16人の声は澄んで高くのぼってゆきます。うちなるものを世界にむかってリリースするとき、ひときわ美しい共鳴が起こりました。

   それからいつものように、ひとりずつうたいます。満喜子先生の声がそれぞれの内面に降りていって手をさしのべ、おずおずとふるえながらひとりひとりの本質の声が空気をふるわして、みながたすけます。やがてそれはそのひとだけのひとすじのいのりの声になります。わたしはうっとりとみなさんの歌を聴きました。

   今日は最後だったので、それぞれが楽器を持ってきました。カリンバや鈴や笛、太鼓...とウタでもってパフォーマンスをするのです。3つのグループにわけたとき、なぜだか満喜子先生がこちらを振り向いて「神殿の巫女ね」とおっしゃった。わたしは思わず「そうです、巫女なんですよ」と申しました。

   20分の時間をいただきました。グループのみなさんに思いつくことばを言っていただくと.....満月....静かな海辺.....押し寄せる波.....空.....山....篝火.... 絵を描きました。それから 押し寄せる波のウタをうたいました。鈴が鳴る....太鼓がひくく轟く....ひとりずつ巫女があらわれ...祈りのウタは次第におおきくなり 炎とともに燃え上がる 空と大地と月へすべての精霊たちへ感謝のウタ、歓びのウタ...やがて巫女たちはひとり、またひとり、青い闇にとけるように消えてゆき...残るのは岸辺に寄せる波ばかり....

   即興でうたって かたって 楽器をならしてのパフォーマンス...わたしの身のうちで足音が轟きました。血がさわぎました。意識が過去と現在(いま)が篝火のように燃え上がる....即興のウタとカタリ....これがわたしのやりたいことでした。




......満喜子先生、ありがとうございました。グループのみなさん、ありがとうございました。わたしのうちに潜んでいたものが、いま..この時と歓びの声をあげてあふれ出ようとしています。





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    縄文の神について、昔話にはつきものの鬼について、考えてみたいと思います。縄文時代は16500年前からはじまり2500年から3000年前に幕を閉じました。はるか昔、日本は大陸とつながっていましたから、そのころ日本に住んでいたひとびとはシベリアや大陸から陸つたいにやってきたひとたちだったのでしょう。

    世界で最古の土器は縄文の土器といいます。狩猟採集文化ではありましたが、遺跡からどんぐりなどを植林したあとが発見されたそうです。ひとびとは定住し豊かな暮らしをしていた....それゆえ同じ場所に2000年も住みつづけていたのでしょう。この間も大陸との交流は少ないながらあったようです。

    縄文のひとびとは自然界の山、川、海、樹などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきました。そして自然界のあらゆるものに精霊がやどると信じていました。ひとびとは精霊と交わり大樹の声を聞き、草や花や鳥や虫たちの声...響きを聴きました。それは森の文化でした。太陽崇拝がそのその根にあったのではと思います。全国各地に残っているストーンサークルやメンヒル、ドルメンといった巨石あるいは巨木の立柱は夏至や冬至を示すものが多く祭祀のあとと考えられます。そこにケルトの遺跡や考え方との共通点を見出したひとは多いようです。

    日本で特徴的なのは条件のあう自然の山あるいは人工の山を神降りる場所、そのままご神体としていたことです。日本のピラミッドともいわれます。中腹には磐境(イワサカ)山頂付近には磐座(イワクラ)という巨岩があって、イワサカは神域をあらわしイワクラに神が降りるのです。日本でもっとも古い神社大神(オオミワ)神社は拝殿はありますが本殿はありません。。鳥居の向こうの三輪山がご神体です。


 大神(オオミワ)神社 向こうに見えるのは三輪山、三輪山は先住民族にとって神宿る聖なる山でした。ヤマトとアヤカスの戦いはこの周辺で起きました。

 大湯のストーンサークル

  さて、大陸から渡ってきた渡来人はおもに九州に上陸しました。中国、朝鮮から集団で渡ってきたのです。一説には呉王朝の裔が天候の激変から新天地を求めてきたといわれます。また滅亡した秦の末裔として秦氏(西アジアの民族の流れでユダヤ教、景教...中国に伝わったキリスト教の信者であったと思われる)が、多数の集団で、日本に移住したようです。渡来者がもたらしたのは、稲作ばかりではありませんでした。土木・建築技術、神社の建築様式を持ってきたのです。 弥生時代のはじまりです。弥生時代には渡来した部族同志の激しい戦闘が起こりました。

   渡来人が縄文人と混交し農耕技術などを教え食糧が増産されたのでしょう。飛躍的に人口が増えました。渡来人のなかでのちにヤマト朝廷をひらいた一族を天孫族といいます。そのひとりニニギ(天孫降臨の)の兄ニギハヤヒ(物部の始祖)が義兄に当たるトミビコ(ナガスネヒコ...蝦夷の豪族と思われる)を裏切り、イワレヒコ(神武天皇)は宿敵トミビコを倒し、天孫族はしだいに覇権を確立してゆきます。ヤマトの敵は同族の豪族たちと先住民である縄文人でした。朝廷の手になる記紀には、”野蛮な”原住民である熊襲、隼人、土ぐも、蝦夷の懐柔と制圧の歴史、統一への道が書かれています。

   熊、蝦、蜘蛛それらの名前は征服者の側からの蔑称でした。先住の民たちがゆたかな精神文化を持っていたことはたしかです。けれども勇猛ではあったが素朴でだまされやすいひとたちであったのかもしれません。記紀、その後歴史のなかでも、宴会で飲ませだまし打ちにする、なかまどうしで戦わせる例がいくつもでてきます。「夷によって夷を制す」それが、ヤマトのやり方でした。神武東征のウカシ・エウカシの話、蝦夷の残党である阿部一族の最後もまた....。ヤマトがほしかったのは土地と資源(金属)でした。天皇の三種の神器は鉄でできていますね。名草姫が神武天皇に殺されたのも水銀と赤土(鉄)のためだったようです。先日、ネイティブアメリカンの歴史を読んだのですが、白人からだまされ土地を奪われ追い詰められてゆくネイティブアメリカンの姿と重なって胸苦しくなります。

   
   まず、熊襲や土ぐもが降伏し、つぎに隼人が首を垂れました。血の海となるような徹底的な殺戮のあと、残されたものは勇猛なことから、奴隷として献上されたり、朝廷の衛士となったり、二級の民として渡来人と混血していったり、あるいはサンカ...山の民となったりしたようです。蝦夷は戦いながらしだいに北に追い詰められいきました。そして英雄アテルイの最後の戦い....のちに蝦夷の血をひく奥州藤原氏の戦いまで朝廷そして幕府のだまし討ちはつづくのです。一方蝦夷のほうでも分断されずに、仲間同士結束して戦っていれば、もっといい戦いができたことでしょう。

   三世紀になって、神道は大きく変わります。縄文人が信仰していた神とヤマト朝廷がつくった神社神道、そののちの国家神道はおなじ神道といえど相当に違うものです。神社を建立したのはおもに、渡来人の子孫であり神となった天孫族、古代の天皇でした。神社の建築技術は前述の秦氏が伝えました。祭祀は新嘗祭のように稲作を中心にしておこなわれるようになりました。禊ミソギと祓ハラヒの概念が入りました。

  祭祀をつかどっていた物部氏が追われたあと、中臣鎌足が修正をほどこした”大祓詞”には・・・・・荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし磐根 樹根立草の片葉をも語止めて・・・・「荒ぶる神を追い詰め 祓ったところ(昔はしゃべった)岩も樹も草もしゃべらなくなってしまった」....とあります。縄文の神、精霊たちは封印されてしまったのでしょうか....キリスト教に追われ、しだいにちいさな卑小なものに代わっていったケルトの精霊たちのように。


    ヤマト朝廷は平定した豪族やはじめから住んでいたひとびとを手なづけるために古代の神の名を変え神社に祀り、非業の死に追いやったひとが祟らないように国津神として祀りました。.....出雲大社ではオオクニヌシはなぜか横を向いている...すなわちわたしたちは拝殿で拝むことはできないのです。諏訪神社に伝わる御柱祭は諏訪に逃げたオオクニヌシの息子タケミナカタを封じ込めるためのものだという説があります。起源はユダヤに遡るようです。菅原道真もそうでしたね。神もまた”鬼”であったのです。古代の神々については資料が消え次第にその出自がわからなくなっていきました。

    けれども縄文人は負けてばかりではなかった....渡来人と混交しながら歴史のなかで輝く末裔がいます。西行や役の行者もそうです...武士の起こりは貴族から「夷(えびす)」といわれていたといいます。梅原猛は「武士は、もともと狩猟採集を業としていた縄文の遺民とみてまちがいないであろう。」といっています。.....たとえば織田氏や伊達氏はトミビコ(ナガスネヒコ)の血を引いているといわれます。武士たちは次第に市民権を得ていきました。武士道の死生観にはケルトにつながるものがあると思います。


    一方体制に組み込まれず、山の民として残ったひとびとがいます。それはサンカと呼ばれるひとたちです。サンカは自分たちの文字を持っていて、それは神代文字に似ていたそうです。人里から離れ棲んでいたサンカは明治時代の弾圧で人里に降りやがてちりぢりになってゆきました。蝦夷の裔アイヌのひとびとは北海道開拓のもと、公民としてとりこまれてゆきます。そして神道は国家神道として、海の外へ土地や資源を求める侵略戦争の後ろ盾となりました。


    さて、弥生顔はのっぺりして眉薄く弧を描き、一重まぶた、薄い唇...といわれています。平安時代の特権階級、貴族の顔立ちです。縄文顔とは髪豊か、眉濃く、二重まぶた...小鼻が張り、厚い唇、彫の深い顔立ち、性格は勇猛で、おひとよし...そして宝物を持っている!!。....それは昔話に出てくる鬼そのものです。鬼は退治され宝物は奪われます。ものがたりの鬼こそ敗残の神々、まつろわぬひとびとの零落したすがたなのです。しかしながら、勝った神はどうであろう、縄文の素朴なアニムズムから渡来人の手によって整えられ、仏教の影響を受け、陰陽五行をとりこんできたこの国固有の神道は万人を天につなぐ宗教として磨かれたでしょうか。選民意識は不要なものです。わたしは他のひとびとを苦しめたり抑圧したり戦争を起こしたりするものたちこそ、オニの中のオニ悪鬼だと考えます。

    だいだらぼっち、手長、足長には蝦夷や縄文の匂いがします。宮崎駿監督がアニメ...モノノケ姫やセンとちひろで描いたのは森の文明...縄文とあたらしい文明の相克でありました。そして縄文の八百万の神々の復権でした。世界的に高い評価を得たのは単なるエキゾシティズムやうつくしさからだけでしょうか。ものがたりや登場する神々、もののけが共感を呼んだのではないでしょうか。語り手としてどうでしょう。鬼...精霊といったような存在に心惹かれませんか?....わたしは....惹かれます。まつろわぬひとびと....闘って去っていったひとびとに...踏み躙られたものたちに。太陽と月....真の闇に....生命が響きあう縄文の森に.....。


   こうして縄文を考えてきて、わたしは感慨にとらわれます。わたしのなかに縄文の血とそれから渡来人・海人族と騎馬民族の血が受け継がれていることに...。そして、本来ひとがひとらしく生きる、天地とつながって生きる、しあわせに生きるための宗教がひとの道具に堕したとき起こることに思いを馳せます。....人間は果たして進化しているでしょうか...現実の象をみるかぎり強いものが弱いものを支配する、資源をもとめて奪いとるという構造は変わりません。けれども、すべてに神がやどるという世界観はわたしたちの血のなかにいまも息づいています。あなたのなかに神はいる、わたしのなかに神はいる...森や樹や花や草、動物たちの声に森羅万象の響きに大いなる声を聴きたいと思います。未来を信じたいと思います。



  



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   おとつい 聴いた「ちいちいねずみ」と「なまくらトック」を娘に語って聞かせました。.....テキストは読んでいないので--口承--ではあるけれど”おはなしのろうそく”のなかのものがたりを語っている...それはとてもくすぐったい感じでした。でもとてもたのしかったです。「ふしぎなたいこ」と「さるのこしかけ」も語ってみました。....聴くのは別として、昔話を自分が語るとしたら、文学性の高いもの、あるいはなるべく原典にちかいものから再話するのが主義....だったのですが...それがいつのまにか頑なさとなってやはらかにうけとめる揺らぎを失っていたようです。


.....今思えば、経験が浅い負い目と語りについての熱い気持ちのはざまで自分の立ち位置を確かにしたいという気負いであったのかもしれません。けれども、組織を離れ、裃を脱いでしまえば、風に吹かれてスのわたしがいるだけです。......一面の花野に皓々と照る月のひかりをあびて、自由に歩いてゆけばよいのでした。こだわりは捨て去って、心となにか遠くのはるかなものが韻きあう方向に耳を澄ましていけばよいのでした。



   さて、古代日本には、紀元前1、2世紀頃から紀元4、5世紀頃、先住民族の古代国家があちこちに存在していたといわれます。津軽半島にあった東日流王国、蝦夷の日高見国、大分県の国東半島にあったとされる国東王国などです。

   これらの王国はなぜか記紀にはまったく記載されていません。当初から書かれていなかったのでしょうか。それともその後江戸時代にいたるあいだ、何度か書き直されるあいだに意図的に消されてしまったのでしょうか。わたしたちにとって出雲風土記が残されたことと、先日書かせていただいたように平成12年に出雲大社において巨大な神殿の心柱のあとが発掘され、48メートル(一説には76メートル)もの威容の建物があったと確認されたことはしあわせなことでした。今後も大きな発見があるといいですね。

   古事記日本書紀が編まれたのは、内外に大和朝廷の正当性を知らしめるためでした。そのためにそれぞれの豪族に伝わる歴史をまとめた...というようなことが書かれています。記紀について考えるとき、スサノヲという神の二面性について考えずにはおられません。出雲風土記でのおおらかなスサノヲと古事記の子どものように奔放で荒ぶるスサノヲはまるで別人です。

   記紀におけるスサノヲノミコト(須佐之男命・素盞嗚命・素戔嗚尊)の存在は天孫族(アマテラス一族)の出雲族への優位性を際立たせるために必要だったという説があります。出雲風土記には有名なヤマタノオロチの逸話はなく、スサノヲは天孫族の神話と出雲神話をむすびつける重大な役割をしています。天孫族...天津神、出雲族....国津神の序列をはっきりさせ、天から下ったおれたちは特別なんだぜといいたかったわけですね。逆にいえば出雲王国が見過ごしにできないほど強大だったということになりますね。

   さて、記紀では高天原を追われたスサノヲは出雲の始祖となり、世代に5世代の差があることはさておいて、ここにオオクニヌシの登場です。オオクニヌシは兄たちからいじめられたりスサノヲの与える試練をくぐりぬけたりしてスサノヲの娘、スセリヒメと結婚します。それからスクナビコの力を借りて出雲を豊かな強大な国にしてゆくのです。山陰から北陸にいたる日本海沿岸、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本までその勢力は及んでいたようです。

   アマテラスはオオクニヌシに使いを出して、この国はわたしの子孫が治める国である。...と言って、記紀のうえでは、円満な話し合いの結果国譲りがされたようになっていますが、実際は大きな戦いがあったのではないでしょうか。天孫族は力で出雲王国を制圧し、出雲王国が滅ぼされたあと大和のトミビコ(ナガスネヒコ)らが果敢に戦うのですが次第に滅ぼされ、天孫族は律令国家の基礎をつくり大王-オオキミは天皇と呼ばれるようになります。ここに朝廷が成立します。

   調べてゆくと、わたしの弟たちの名づけをしていただいた武蔵一ノ宮氷川神社に祀られている主神はスサノヲノミコトだとわかりました。そして三室にある氷川女体神社に祀られていたのはスサノヲの妻であるクシナダヒメだったのです。氷川神社の神池は見沼の名残で、もともと氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられていると知ってわたしはびっくりしました。

   なぜなら、見沼(神沼)と氷川女体神社は10歳頃から17.8までわたしの聖地だったのです。自転車に乗っては、当時は辺鄙で森や田んぼのなかにあった女体神社に行ったものです。氷川神社のまえに水路で区切られた円形の島があって、わたしはその場所がことに好きでした。5キロは優に距離があって、運がよければたどり着くし、迷子になって戻ってくる日もありました。一度父に連れられていったとき、父はどんなに由緒のある御社か教えてくれましたが、かすかに父の懐かしい声が耳奥に木霊するばかりで内容を覚えていないのが残念です。....サイトの写真を見ましたら、円形の島というのが祭祀嶽舟祭の遺跡のあとだったようです。当時は細いあぜ道で右手にいまにも倒れそうなしもた屋が建っていました。春はすみれやたんぽぽが咲き乱れておりました。

   話がとびましたが、出雲のことや物部文書...(のちに書きます)を読む限りホツマツタエは偽書か正書か微妙な気がします。ホツマツタエはあまりに道徳的すぎ調いすぎている感じがするのです。古代の息吹、勢いのようなものが薄いような気もします。そしてオオクニヌシが再び東北の地で宮殿をつくったとは考えにくい....大和に滅ぼされてしまったようにわたしには思えます。.....それともオオクニヌシの一族が流れたどり着いたということでしょうか、日高見の国についてはホツマツタエに書いてあります....まだ過程ですのでまた考えが変わるかもしれません.....。

   いずれにしても スサノヲノミコト、オオモノヌシノミコト、オオクニヌシノミコト、は謎の神々です。スサノヲ、オオクニヌシは日本に元からいたひとびとの頭領だったのでしょうか、それとも天孫族よりはやく日本に渡来した一族なのでしょうか。オオモノヌシはアマテラスオオミカミ以前のもっと古い太陽信仰にかかわる神のようです。いつかあたらしいものがたりを語りたいものだと思います。日本の先住民族のものがたりを語りたいと思います。

  ...語りをとおして、日本と日本人のおおもとを考えてゆきたい。このうつくしい”くに”の山や川や木や花々、砂そして波、曙、宵闇、狭霧、時雨....自然をとおして、永い永いあいだひとびとが培ってきた大いなるものへの尊崇を知って、うつくしい怖ろしいものがたりを語りたいものだと思います。地下の水脈は深い地の底を網の目のようにむすんでいる。...ですから日本を深く知ることは世界のものがたりもより深く知ることにつながると信じて....。




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 ........今日は所属するTの会の勉強会でした。お呼びしたのは山本真基子先生.....どんぐりころちゃんの手遊びからはじまった50分のおはなし会はとてもたのしかった! よく聴いたおはなしもありましたし、テキストそのままの語りなのでしょうけれど そんなこと関係なかった。

   "ふしぎなたいこ"を聴きながらわたしは水色の空と綿みたいな白い雲を見ていました。太陽のひかりのようにさんさんと山本真基子さんの声がふりそそぎ、その陽射しにつつまれているようにわたしはくつろいでいました。.....声の響き...それだけでいいんだ..と吐息を漏らしながら...."猿の生き肝"も"チイチイねずみ"もたのしかった。世にはさまざまな語り手さんがいます。しあわせにしてくれる語り手さん、慟哭させてくれる語り手さん、ものがたりを聞かせていただいたあと...生きていてよかったと思えるような語り、そして語り手さんにどこかで会える....それは宝を見つけるようなよろこびですね。

   プロフィールによると俳優をなさっていたこともある由、なるほどなぁと腑に落ちました。なみなみならぬ修練が平易に聴こえる語り口にうかがえました。上手いと感じさせないってすごいことだと思います。芝居をなさっていた方がときに陥るケレン味が毛ひとすじほどもありません。お声からおひとがらが滲みでておいででした。真基子さんと同じ年になったとき.......わたしは水色の空と白い雲が見えるようなみずみずしい現役の語り手でいるでしょうか。すでに雲の上かもしれません。

   後ろ髪をひかれつつ、一部で辞して自力整体に行きました。身体とは正直なものです。大事に手入れをするといままでできなかったことが楽々できる日がとつぜんきます。真基子さんの語りでこころがほどけたせいもあるのでしょうか。足首がやはらかくなると 腰がそして肩の関節が...膝の関節もゆるんできます。肩甲骨を剥がす補助整体をしていただきました。ほんとうの声になるために踊れるようになるために、支えてくれるひとがいます。身を惜しんではいられないのでした。


   古代史を学ぶ出雲の旅の話が降って沸いたように出てきました。出雲に行きたくてならなかったのです。でも空港を間違えた実績があるわたし....ひとりではどこに迷い込むかわかりません。望めば道はひらけるものです。出雲は天孫族にその前の王朝が封じ込められた場所ではないかという説があり、わたしもそのように感じています。縄文のルーツとも深く係わる場所のように思うのです。....そこでというのもなんですが、錦秋の秋の幕開けに 名草姫伝説を鳴り物入りで(!!)語ろうと思います。

   

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......おはようございます。よろしければ、叡智...改稿しましたので最初にごらんになってください。


   自分が縄文人であるという不可思議な自負はいつからかというと、40年も以前にさかのぼる。根拠はまったくない。それは気分のようなものだった。子どもにはみなそのようなところがあるのだと思うが、道ばたの石にも花にも心があると思っていた。だから自分の三輪車を毎晩縁側に上げるのである。それは幼い子にとってなかなか力の必要な儀式であったが、三輪車がさみしかったり、寒かったりしないように毎日の日課だった。太陽や風、そして闇。自然はすべて畏怖と美の対象だった。わたしは夕暮れや秋の終わりのもの悲しさと子どもらしい快活のなかにすんでいた。

   海外文学への愛好から、キリスト教を知らなければ理解がむつかしいと感じたのとなによりD(”フランス窓から”で語った...)という友人の影響で、15の年わたしは福音自由教会の扉を叩いた。それははじめての体系のある宗教との出会いだった。だが、洗礼直前にわたしは翻意する。どこかが絶対に違うという確信があったのである。今でもその直感は正しいと思っている。それはキリスト教がどうであるということでなく、わたしの根にあるものが違ったのである。海外文学のなかでもとくにケルトに所縁の作家に惹かれるのだと気づいたのはずっと後のことだった。

   .....それから、仏教書を読んだがよくわからなかった。高校時代には統一教会にキャッチされ、教義を聞かされたこともあったし、創価学会の友人に本を渡され人間革命も読んだ、近所の方に幸福の科学に誘われたこともあるが、どれもほうほうのていで逃げ出した。それらの教えで救われている方はいると思う。それらの宗教に誘ってくれたひとはいいひとばかりだった。だが、わたしのなかでは根本的に違うのだった。古神道にであったのは20数年前のことだった。水のように身体と心になじんだ。宗教とはちがうもっと自然な”在りよう”だった。

   さて、日本にはながいながい二万年の縄文時代がある。これほど狩猟採集文化がながく続いた国はないのだそうだ。旧約でいう”金の時代”である。それが終わりを告げたのは、あたらしい文化をたずさえ海を渡って?きたひとたちがいたからである。天津神の降臨であった。古くからの神々は押しやられた。日本の古い王朝が出雲に押しやられたように。つぎに、仏教がやってきた。聖徳太子と曽我氏の連合軍のまえに、神道の祭祀を司っていた物部氏は破れ、秋田の片隅に敗走する。しかし聖徳太子の一族も曽我氏によって抹殺されるのだ。

   新しい神道そして仏教が席捲しても古代の神々は姿を変え、ものがたりのなかで鬼になったり山姥になったりして生き続けた。ひとびとは古くからの神々を忘れはしなかった。ちいさな祠に祀ったり、後戸の神として祀ったり、あるいは弁財天や竜神など伝来の神とくっつけたりしたが、時代の変遷とともにその本来の意味が伝わらなくなってしまったこともあるようだ。それに陰陽五行なども神道にとりいれられたりしたようである。

   神仏混淆の時代は長くつづいたが、明治の廃仏稀釈....中国の文化大革命に匹敵する蛮行....によって終止符を打った。多くの美術品や仏像の逸品が破壊され、流失し、貴重な歴史的資料も失われた。神代文字やイスラエルにかかわるものもあったようだ。結果、国家神道という奇体なものが力を得たことは、長い目で見て神道にとってよいことではなかったと思う。そして今、若い人たちはキリスト者でないのに、チャペルの祭壇で結婚の儀式を行い(わたしの息子もそうである)、子どもが生まれれば神社にお参りし、死ぬ時は僧侶から引導を渡され、戒名をもらう。日本人はおおらかな汎神論者なのであって、儀式についてはどのようなスタイルでも頓着しないのだ。

   .....わたしは今.....自分の根にあるものを信じたい。直感を信じ、内から湧き上がってくるものを信じたい。そして日本やアメリカ大陸やオーストラリア大陸にすんでいた先住民族のかつての在りように想いを馳せたい....自然のなかにあって調和して生きていたひとびとは大いなるものを信じていた。.....創造するもの....宇宙に充満するエナジーは存在する。その気吹きは万世の生成、森羅万象となる。わたしもまたその一部なのだ....あなたもまた。





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   土曜日 図書館で見た友人のてぶくろ人形があまりかわいかったので、その足で買い物に行きました。ダイソーで色とりどりのカラーの軍手を10双、それから刺繍糸、針、ボタンなどで買い物籠はいっぱいになりました。

   ゆうべテレビを見ながら赤、青、グレー、薄緑、ピンクのちいさな帽子をつくってそれをてぶくろにかぶせました。あっ そのまえに肌色のフェルトにかわいいお口を刺繍して、白の軍手の5本の指に縫い付けます、お顔と髪はブラウンのまゆずみで描きました。ひと針、ひと針、針をはこぶとゆっくり時間が過ぎてゆきます。ほつれた心もつくろっているみたい....最後にちっちゃなちっちゃな赤い林檎をつくりました。娘のつくった、ぽっちり緑のはっぱがついている林檎がかわいかったのでそれをつかわせてもらうことにしました。

   藤田さんのご本が元ネタのようですが、「りんごを隠したのはだぁれ?」というおはなし....最初にほんものの林檎を見せて、帽子のなかに隠して、どの子の帽子に入っているか当てさせるおはなしです。さっそく幼稚園でやってみました。林檎はほんとうはマジックテープでとめて、あっちの帽子、こっちの帽子と移すのですが、今日はテープがなかったので一回勝負です。

   さて、どの色の帽子に隠したと思いますか?

   2クラスでしましたが、子どもたちはまず「あか!!」と叫びます。つぎが「ピンク!!」そしてみどり..とか青...になって、そうです!! わたしが隠したのはシックなチャコールグレィの帽子でした。子どもたちって林檎の色やなにかから連想するんでしょうね。

   もう終わっちゃうの? という声をよそに今日はこれでおしまーーい♪とバスケットにしまいました。....そして 今 会社で一仕事終えたわたしは....オリジナルの手ぶくろ人形を考えています。うふふ...おもしろいなぁ....もうみっつできました。五匹の子犬のおはなし、樫の木と小鳥のおはなし、ペルセウスとアンドロメダとか、八叉のおろちの話なんかできそうな気がします。

   思わぬところにおはなしの種子が落ちています。さぁ もうおうちに帰りましょう。虫の声も静かになりました。



   

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   なまえを変えてもすぐに運命は変わらない....7年目から変わるのだと手相や観相をする方から聞いたことがある。語りをはじめて7年目に入った2006年はわたしにとって転換の先触れの年だったと今にして思うのだ。水戸先生と出会い、キャシーとRADAのイランさん、ニックさんに出会った。K先生に出会った。その二ヶ月前にはデンマークの語り手、ベリットさんと出会った。

   ユングの提唱したことにシンクロニシティ(共時性)がある。いくつかの偶然の一致は単なる偶然ではなく、文字通り同時発生か、あるいは普遍的な事象を作り出す力の連続性によるものである。これらの力により、直観的な意識と行動が調和する過程を、ユングは”個体化”と名付けた。....個体化しつつあるわたし? けれどもそんなむつかしいことを考えるまでもない。ひとは求めるものにめぐり合うのだ。同じ機会を与えられてもそれぞれ導かれるところは違うし、それでいいのだと思う。

   .....とても個人的なことだから書かなかったが、わたしは深刻な別の危機に陥っていた。一年前からすこしずつ神が信じられなくなっていた。”マグダラのマリア”を語るために原初キリスト教について調べ読んでいくうちに、かつて教会で教えられたこととキリスト...ヨシュアの教えが必ずしも同じでないことに気づいた。明らかに捏造が感じられるところもあった。

   ヨシュアもマリアム(マグダラのマリア)も白人ではないと言われる。キリスト教の布教の名のもとに実質は経済のために、幾千万のひとびとが殺戮された。殺されたのはおもに有色のひとびとだった。そしてそれは今でもつづいている。戦争は経済のために起こる。無知のために起こる。だがそのおおくに宗教が根深く関わっている。.....わたしはその教えを信じないものを殺してもよしとする神を信じられない。神がおいでになるとしたら、なぜこのような世界があるのか....ひとが臓器売買のために殺される世界、ガソリンや食物が一部の富裕なひとびとがより富裕になるための投機の対象となる世界、地震のまえに株価が上がる世界、が信じられなかった。人間の命など紙一枚の価値にひとしい世界....現代は高度なテクニック...先端技術と情報操作で錬金術が行われる...それを公に告発しようとすると世間から抹殺されたり実際に殺される。

   日本の神々についても自分のなかで混乱をきたしていた。かつては風や樹や山など畏れおおきものはすべて神だった。天津神の降臨によってそれらの神は流竄の神々となり、山姥や鬼などになって昔話に身をひそめ、その後伝来した仏教や陰陽五行と混淆した。謎が多い 日本の神々もまた意図的に名まえや由来を変えさせられているようだ。わたしは縄文につながる古神道を信じていたのだが、昨年夏、伊勢神道の巫女さんに会って以来、揺れ動いていたのだった。


   おおくの神がおいでになる。それぞれの国の神話をひもとけば、神々でさえ争い殺し合い、悲しみ苦しんでいるのだった。....おおくの神々がおいでになる。ひとはそれぞれの神を信じて生きるよすがとする。教会に行かないクリスチャンがいる。古神道を信じるひとがいる。インド哲学を信じるひとがいる。オーラの世界をなにとなく信じるひとがいる。ネイティブの暮らしにあこがれるひとがいる。タレントもロッカーも神であるのかもしれなかった。語りもあるいは神かもしれない。

   では、わたしはなにを信じればいいのだろう。音が光であること、声が光であることをわたしは知っている....きのうの満喜子先生のクラスでは宇宙から呼吸とともに光をいれて呼吸とともに足から大地にながす、呼吸とともに大地からのエナジーをとりこんで呼吸とともにクラウンチャクラから天にかえす....ことをした。胸のところでふたつの光、エナジーがひとつになる。はじめて体験した。胸が震えた。どのかたも胸のチャクラから出る声がいちばんやはらかく透きとおっていた。日々の暮らしで荒み傷つくわたしたちであっても、汚れてしまったように見えてもその奥におおもとの美しい波動、そのひとだけのうつくしい響きを持っている。そのことに気づかせていただいたとき、身体がかぎりなく透明でやさしい水にひたひたと浸されていくような気がした。波がわたしを抱きそっと揺さぶる。わたしは生きていてもいいのだった。

   このごろ”叡智”ということばによく出会う。.....宇宙にあまねく存在するエナジー.....。わたしたちの声はそこに向かって発動するような気がする。その宇宙のおおいなる叡智の一部にひとは名まえをつけて神としているのかもしれない。.....名を持つ神ではなくて..その”叡智”を信じることならできるかもしれないとわたしは思ったのだ。


   おとつい、デシュリジュー(民族楽器...大地の波動に近い楽器)で固くなって曲がってしまった右手のリハビリをするというK先生にわたしは話した。「先生、デシュリジューのほかにね、自分の声で自分を癒すことができるんですよ」声は響きだけでいい、ウタもことばはいらないのだ......直接的でシンプルなウタの癒しにくらべて、語りはもっと複雑な仕組みを持っている。ものがたりをとおして潜在意識にはたらきかけ、ことばをとおして響かせる.....語りはもっと直接的な癒しをプラスすることができるのではないか.....ことばを変えれば、響きが身体と魂にする作用である。心と身体の一体化とは、RADAでならった表現にいたる道のみではない。

   そのための秋(とき)である。10月、倍音ヒーリングのツアーで青森に行くことにした。丸山三内遺跡、ぶなの原生林 ストーンサークルがあるという。これもシンクロしていた。11月 岩手に行く。瀬折津姫とふかいご因縁の場所だった。鎮魂の語りをさせていただけるかもしれない。道はひらくと信じる。

   知とはなにか、知とはディレッタント的博学的知識を求めることではない。知とはつないでゆく力のように今は感じている。....境界を越えてゆく...あきらめることを知らない子どものような好奇心とそしてこだわりのない透徹した目でもって 直感を信じ 未知にむかってゆくこと。そしてわたしは思い出したのだ、癒されたいと望んで癒されることのほかに、癒すことによって癒されるというより深い森の道があるということを。







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   秋津というゆかしい名の駅前には古着屋があった。お惣菜屋の店先には焼いた秋刀魚が大根おろしを添えられてラップにくるまれている。住みよさ気な町だった。タクシー乗り場がないので、仕方なく歩き始めた。すぐに商店街は途切れて夕暮れの住宅地を三輪車の幼子より覚束ないあしどりで歩く。

   道に面した庭のたわわの柿の実が色づきはじめている。生温かい空気を両手でおしあけるように歩く。所沢線に出て左に折れると橋があった。河の水は思いのほか澄んでいた。幾たりかに道を聞いたがみな親切におしえてくれた。午後の新宿で冷たいそぶりに爪を立てられたようにそそけだったあとだからなおさら身に沁みた。

   信愛病院のチャペルの十字架が見えたとき、わたしはこれから見舞うK先生の名を突然思いだした。正直にすぎるわたしの身体は頭はわだかまりがあるということを聞かない。心がいやがることはしようとしない。ようやく先生に会う覚悟がついたのだ。卒中で倒れ一時は半身不随だった先生がどんな風に変わられてしまったのか、お会いするのが怖かった。明日は遠くに転院なさると聞いてお別れが言いたくてきたのだけれど。

   K先生と出会ったのはちょうど二年前のこと、ヴォイスのワークショップでのことだった。その時も膝が痛い上にさんざん迷い、機嫌がわるかったわたしを先生はふわりと受け止めてくださった。驚異のワークショップが終わり、みな不思議な連帯感に包まれてハグしあった。雷が轟くなかタクシーにのりあわせて国分寺に向かったときにはずっと去らなかった膝の痛みも消えていた。

   それから三度 個人セッションを受けた。K先生のセッションは声と身体と魂のチューニングに等しく、いつもわたしを曲がり角から押し出してくれた。ビウエラやリュートの音が光であることを教えてくれたのは水戸先生だが、K先生は声が光であることも教えてくれた。天板が帆のようなクラヴィコードから花々や光がこぼれ落ちる、信じられない眺めをまのあたりにして、わたしは呆然とした。空間が突如変容し声がクリスタルの空間に響いた日のこと、弾いて歌ってふたりで虚脱状態になった日のことは忘れられない。

   4Fのナースステーションで示された車椅子の傍らに行ったとき、覚悟はしていたけれどわたしは息を呑んだ。白いおだやかな顔、いぶかしげにわたしを見る子どものように澄んだ目...ことばを交わすうちに思い出してくださって「元気そうだね」と幾度もおっしゃった。

   わたしはながらくしていないことをした。思わず手をかざし気を入れる。やがて白い顔にほんのり血のいろがさしてくる。夕食のちらし寿司をめしあがるあいだわたしは祈るように手をかざしていた。....障害者になって、はじめてわかったことがある...とK先生は口をひらいた。なるべくしてなったんだよ....使命があるから死ななかったんだ。....3/20 倒れてからしばらくのあいだ、生死の境をさまよっていたのだそうだ。わたしもちょうどその頃日の光から遠いところで苦しんでいた。

   K先生を慕うひとは大勢いる。先生の天性のやさしさ無邪気さもだけれど、先生はワークショップやセッションをとおしてひとりひとりを光の糸でもって宇宙と大地につないでくれた。その感覚をみな忘れられないのだと思う。わたしは先生がわたしたちにしてくれたことを伝えた。先生は顔をくしゃくしゃにした。笑っているようにも泣いているようにも見えた。わたしは泣いた....必要があったのかもしれないけれど、それでも先生が受けたことは理不尽のような気がして....。大きなみ魂だから鍛えも大きいと言い聞かせつつ....。「きっと、また会える」と先生は言った。


   いつか強引に別れはくる。ほんとうに必要なときにであい、けれども気がつけば霧の向こうにひとかげは消えている。こうして幾度も幾度もであっては別れを繰り返す。だから一回一回のチャンスを閃光を放つほど密度の濃い出会いにしたい。そして気づかせていただいたものがあふれ花をさかせるように、求めるひとに分かつことができるよう勉めたいと思う。...共鳴すればするほど深くなるよ....帰り際に聞いたことば。




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