遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 




ショーケンこと萩原健一は1950年7月25日 与野市で生まれた。
同じ年 すぐそばで... どこかで会ったことがあるかもしれない。小学生のショーケンに 生意気盛りのショーケンに。

日本はほんとうに いい役者がいないと思う。そのなかでショーケンはひときわ目立つ ひとの魂をわしづかみにできる役者だった。

だれか えらいひとが ショーケンの演技は観察眼によるデティール演技といったようだが それから わたしのこころはもやもやしている。

ちょっと 違うよねぇ

およそ 名だたる演技法というのは 世界に6つか7つあって 有名なのは スタニスラフスキー・システム それから ジェームス・ディーンなんかの メソッド演技法 日本でも鈴木メソッドは世界的に有名です。演出家の鈴木忠志さんが女優白石加代子...わたしは好きじゃないけど..にほれ込んでつくったとか聞きました。

日本の役者は 女中はこういうもの セールスマンはこういうもの という感じで属性を貼り付けてゆく 貼り付け演技が主流だった。このタイプはどんな役をやっても 同じ。パターン演技。

20数年前 劇団昴がはじめた ワークショップは英国の王室演劇アカデミーから講師を呼び おもにスタニスラフスキーシステムを広めた。ボディとセンスとマインドの一体化 ここで学んだ役者は多いようです。わたしは役者ではないが 語りを学ぶため 3回受講した。

しかし そこで学んだひとつは 日本の伝統芸能のすごさだった。王室演劇なんとかの校長 ニックさんが激賞したのが 穣 すみません 土へんの穣です....晴彦さんだった。ニックさんは生涯忘れがたい演技として ジョウさんのプロスペロ...シェークスピア テンペストのプロスペローが杖を折るシーン それから英国女優のヴァネッサレッドグレープの演技をあげた。ジョーさんは日本の伝統芸能 狂言から出た役者で みなさん 間違いなく声を聴いたことがある役者さんです。

わたしは偶然 英国なんとかのワークショップに参加する前 ジョウさんのワークショップにも何回か参加し深く揺り動かされ 芝居にも出たので 感慨深かった。

メソッド演技は 役の心理と自分の心理をちかづけてゆく 下手すると自分のドツボにはまり抜けられなくなる。破滅するひともいる。

鈴木メソッドは 体と感覚じゃなかったかな。体的にはわたしはついてゆけなかった。若干悪ロバチックでした。

さて 前置きが長くなりました。

デティール演技とは 細部の構築です。歴史的な事物を知ることもそうだし 人間の心理に伴う動作とか 細かく再現?する。でもあれもこれもだと 演技が重くなる。

ショーケンの演技はじつにかろやか のびやか 空気感がすごかった。忘れがたいのが 天使 と 前略。 もう全く 違うキャラなんだけど そこに 生きてるんだよね リアルに生きてるんだよね あ もうひとつ コンテクスト演技というのもあって それは メソッド演技法があくまでも個人をつきつめてゆくのに対し その時代の大衆といいますか ひとびとの集積 というかエッセンスを加味するみたいな....

ショーケンはまさに時代の若者を そこに現出してた。みんなが同感するような...それこそ演劇といいますか 語りもなんですが 《共鳴》 を生じせしめたのであります。それも劇場ではないしょーもないテレビという ハコで...

別にショーケンがコンテクスト演技をしていたというのではないんですよ。彼は本来の役者でした。俳優 ワザオキ だったかな。降りてくるひと ヨリマシ です。それはジョウさんが役者について言っていたことでもあるんですが 踏み外さないで ヨリマシ あるいは ウツワになるって 実に たいへんなことなのです。

無我にならなくてはいけないのに 一度でも 降りてくる 自分が自分でなくなることを知ってしますとね。求めるようになる 邪念が生じる クスリのちからも借りたくなるのよ。

ミュージシャンもそうなんだよね。人間ではないものが くるのだから 自分の状態がわるいと 変なものが降りてくることもありますしね 役によってもね。
祈りしかないんですね。

デティール演技≒ショーケン に共感できない わたしの気持ち 御理解いただけましたでしょうか?
しかしながら ショーケンは懸命に生きた。真摯に生きた シャイでやさしい役者でした。
ご冥福をお祈り申し上げます。




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20年前の旅番組を偶然見た。
樹木希林さんのインドの旅だった。
黒いコートを見てハッとした。白抜きの背紋 黒の絽。
希林さんの着物リメイクは 筋金入りだった。

釈迦誕生の地 インドは 今 ほとんど ヒンズー教徒の国である。
仏教徒の村があった。そこでは 子どもは一歳になって名付けが
行われる。突然 名付け親を頼まれた希林さんは 即座に
ガンガ ガンジス川 と名付けた。
生まれてくる自分の孫に 付けようとした名前だという。

葬式は? 葬式はどうするの?
20年前 亡くなった母親の 遺灰を ガンジス川に 流しに
行くのだ とひとりの男性が答えた。
それは きわめて 幸せなことなのだという。

ガンジス川は滔々と流れていた

わたしへの恨みつらみも消えるかしらね

わたしは 人生で ずっと 勝ってきた

個性とはいったいなんだろう
若い頃 個性を持たなくちゃ 個性ってひとと違った感じかた
ものの見方 と 思っていた
すなおに 感じればいいんだけど こう生きなきゃこうしなきゃって
自分を肯定してのさばらせてきた
迷惑したひともいて 自分も居場所が無くなってしまって
針の穴をすっと通る目処しかなかった

○ ○ ○○ ○ ぜったい会わなければならない自分
知らないで済むならそれでいいんだけど 知っちゃったら
辛いですよ

わたしは 娘の也哉子さんのことばを 思い出していた

母の58年の役者人生において、映画作りという真剣勝負の現場で、彼女の言動により、ときに人を傷つけたりもしたと思います。なので、この場をお借りして、すべての映画関係者に深くお詫びを申し上げます。

わたしは 昔 樹木希林という役者が 好きではなかった
いつも目立とう 目立とう としているのが あざとい と思った。

歯に絹着せぬ ひとを傷つけることさえ 躊躇しない 言動が。

けれども 希林さんは 正直なひと だったのだと 今にして思う
ひとを傷つければ それは必ず 自分に還る
希林さんは 潔く 受け止め 潔く 苦しんだ。

そして 死んでからのち 映画人としての栄光をさらい 最愛の夫を
あの世に 抱えていってしまった。

まことに忘れ得ぬ 驚嘆すべき 役者だった。



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いいひとだったよ- と ショーケンの家を建てたひとが言ってました。

前略おふくろ様 傷だらけの天使

いい役者でしたね。ほんものでした。

告知流行りの世の中だけど ひとり戦って黙って逝かれました。

男だよね。

 

この項はあとで 継ぎ足します。

 



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貴乃花親方には たしかに 狷介孤高なところはあった。

妥協はしなかった。

けれども それは 相撲道というか 相撲のあるべき姿を求めてのことだった。

ガチンコ勝負 力士の必死な姿を見て お客さまが 喜ぶことを なにより 貴乃花親方を知っていた、

だから 星の貸し借りや モンゴル人力士がうちうちで星のやりとりをすることを あってはならぬことと 許せなかった。

TOP自らが 星のやりとりをしていた 相撲協会にとって 貴乃花親方は煙たいというか 目の上のタンコブだった。

貴乃花親方は貴乃岩への暴力事件で各界浄化に打って出たわけだが 貴公俊の暴力事件で水泡に帰したことになる。

運がわるいといえばわるいし ひとりでやろうとしないで 日頃から 内々で相撲界刷新の仲間を 増やしていれば....とも 思うのだが... この性格だからあの名勝負ができたのだろう。

今回 しみじみ 感じたのは 相撲協会の闇は深い。とんでもなく深い ということ ここも金まみれなんだろうなぁ ということ。

わたしは 貴乃花引退で 相撲ファンを やめたのだが こんな結末で相撲を愛した大横綱が角界を去る 一所懸命育てた弟子たちをあづけて どんな思いだろうと 胸が痛くてならない。

 



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正直のところ  名女優とは思いませんでした。

名優とは  周りの役者が上手く見える演技をするひと ……

樹木希林さんは  周りを食ってしまうような  役者さんでした。

上手い役者さんでした。

名優って  名前を覚えられないんですよ。

役そのものだから  感動で むねを揺り動かされるときって

役者のことなんか  忘れてしまう。

業を感じる方でしたが  だんだんだんだん  ガ  がとれて

きれいになられました。

わたしは  樹木希林さんの着物の着こなし 好きだったなぁ

しばられない着方  くたんとした 楽な 着方

明治のひと   日常を着物で 生きている女のひとは

そんな着方でした。わたしの叔母ちゃんたち  みんな

そうだった。

ご冥福をお祈り申し上げます。 

 

赤がお好きでしたね。半襟で遊ぶ。

 

赤い帯! 赤い半襟!

 

黒のパンツに  風通紗?の着物リメイク?   紗は軽い。風みたいに。

 

赤い薔薇がお似合いです。

コートがよくわからないけど  ブーツかな?

 



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スピリチュアルブームをつくったのは 美輪さんや霊能者だった。

オーラの泉が 発端だった。敗戦がきっかけとなってか   科学がひとつの宗教だったこの国  実は もっとも霊的な 国だったこの国を引き戻すことに成功はしたけれど  弊害も生んだ。スピリチュアルなことは お金になった。かつて わたしも  自発的に  また友人につきあって  小さな教祖  や霊能者や  各種のヒーラーの元を訪れたが その半分くらいはインチキで  中にはとても危険なものもあった。ヤクザ紛いの人たちが操っていて そこには 四大陸茶を片手に うれしげに なんらかのスピリチュアリズムに染まったひとびとがたむろしていた。

霊性の低いヒーラーの中には取り憑かれてしまうものもいるので  悪い霊が移ってしまうこともある。

真っ当なーー と思われる  霊能者も  集まっているひとを見ると  他力本願のひとが多い。似たような 生気の乏しいひとの集団が  多かった。本物は 3人  ひとりはヒプノセラピーの若いヒーラーであったが  二回の遠い過去生を旅して  それは  子どもの頃から見ていた夢  また   幻聴 とつながりがあり  切れ切れの断片をつないでくれ  大きな示唆をくれた。ヒーラーが辛いのちに伝えてくれた  わたしのハイヤーセルフのことばは  その後の人生をあかるく照らしてくれた。

残りのふたりは ヴォイストレーナーで  わたしは 天音さんを忘れない。デジュリデューと チェンバロ で  宇宙まで 連れていってくれた。渡邊満喜子先生の周辺は病んだひとが多かったが  自分の声で  自分の魂を調律することを教えてくれた。満喜子先生は あなたの語りでわたしは歌いたいとおっしゃっていたがあっというまに逝かれた。天音さんは半身不随になられ  昨年  身罷られた。

わたしは  声  は恐ろしいものなのだ   スピリチュアルなことで  お金を稼ぐことはおそろしいことなのだと  痛く感じ   いわゆる   スピリチュアル と訣別した。

 

今はスピリチュアリズムとは現世的なしがらみ  常識や金や物に縛られず

霊的にモノを考える そして行動すること なのだと 思っている。

霊的にモノを見る  考えるとは  肉の目に惑わされないこと  肉の目とは  現実的であるということだけでなく  ありとあらゆる欲望  であり  そこから派生する 心から自由になるということ。存外  心が問題である。心は変わるもの  思い込むもの   軸を持つこと 精神性  魂から離れさせる一番の元凶である。

 

たとえば  (  霊を )見たことがないから (その存在を )信じない   と 言われたら  ( 実際  そういうひとはかなり多い)その話は終わってしまう。実際   この世は写し絵のように見えるものと見えないものが 多重に重なっているのだが それが理解というか感じ取れていれば   視ることは  聴くことは  そうむつかしいことではないのではと思う。

また  日常的に 霊が見えてしまうひとは  そのことに囚われ  現実  リアルから離れ勝ちになる。また   その行動が どうしても  枠を外れ勝ちなので    あのひと   ちょっと変わってるね  と   羨望の入り混じった 揶揄をあびせかけられたり  変人扱いされることから傷つくひともいる。

感覚が鋭い   つまり  見えないものを見    聞こえないものを聴く  ひとは 実はかなり辛いのである。あらゆる 思念のシャワー   人間のだけでなく   動物   草木    建物 などの思念      あぁ   気持ち悪くなってきた.....  を浴びているのだから。

 だから ひっそり 生きている人が多い。

わたしの シックスセンスは たいしたことないし  感覚を閉じたり ひろげたりはできるので 日常生活に差し支えることはない。また  あり得ない世界  真実の世界を垣間見 知っているから 現実世界のまやかし  塗り固められてきた歴史 現実の社会に 惑わされることもなく   NO と言えるのだと思っている

けっこう辛いのは  いくら話しても つまり 霊的な世界もこの世のまやかしも  思い込みの激しい  すなわち  現実的な常識的なひとに理解してもらえないことだ。視力のないひとに  虹を説明するようなもの  聴力のないひとに ピアノの響きを伝えようとするようなもの だから 仕方ないか。

 

友がなくなってから………    わたしのもとにきてくれるようになって   スピリチュアルなひとたちと思っていたので  グループの人たちに話してしまった  のだけれど……   みんなのイメージ  みんなのものがたりというものがあって……

ほんとうにきつかった。 一昨日   身近にいた仲居さん  ふたりと  お話して   わたしの直感が間違えてはいなかったことが  わかって でも  その真実が切なくて  わたしは泣いた。  奥さんは…   ひとに尽くして  尽くして  尽くし抜いて   疲れきって   死んでしまった……と  その人は言った。

 

26日    ひろこさんに  尽くされたひとが 集まって   いいひとだった   素晴らしかった   いい会だった   感動した   それで   終わらせたら   違うんじゃないかと  思われて ならない。

 

駐車場で ひろこさんと龍神さまの話をしたことを 今日 ふと  思い出した。あれはいつ?   最後に食事に行ったとき 二月…   龍神さまの 井戸  が どこそこに という話  龍神さまの雲が……というような  今だったら  飛び上がるような話だったのに  聞き流してしまった   その時は 彼女とわたしが 龍神さまつながりとは気づいていなかったのだ。残念なことをした。

 

2012年   彼女に会った年   わたしは  旅を続けていた。それは  311の 前の年   わけもわからず   惹かれるままに  神社を旅した ときの気持ちに似ていた。止むに止まれず熱に浮かされたように  憧れとときめき  かすかな畏れ   少女のような慄きとおばさんの確信をもって  ひとり  車を走らせた。

9月12日   大神神社   大和神社   石の神神宮   吉野水分神社   天川村を走り   天河神社 

一泊し  そして   麗しい玉置神社……   10月  熊野那智大社   新宮   元宮   大斎原   それは 水源から 紀ノ川   熊野川 へと下る旅でもあった。そして  大斎原で   伏流水が  地下を  滾り  渦巻き  大地を震わせるのを感じた。まことに 龍神とは水の化身 であり   ある時は  プラズマ。

 

イザナミノミコトがカグツチを生んで亡くなったという花の窟神社にお参りして  七里御浜で   海を汚し奉ったことをお詫びし   神倉神社に向かったあと  わたしは異変に気がついた。急ぎ  花の窟神社に戻る途中   参拝したすべての神社に龍神がおわしたことに愕然としたとき わたしはやっと   語り祭りで 龍神伝説 を語れというお示しであることに気づいた。  社務所に行く途中   さっきは気付かなかった龍神の祠があった。お詫びとともに  龍神伝説 を 語ることをお誓いし  あり得ないことが起こり   帰宅してすぐにチラシを 作製し  置いてもらった先で   彼女を紹介してもらったのである。すなわち龍神さまのお導きだった。

スピリチュアルな女将がいる…… その言葉に惹かれて会いに行った。彼女は  ハブだった。ラヴィアンさん   啓さんと  週を置かずに会い  その流れは怒涛のよう ディジュリドゥのknobさん   縄文の風びと 奈良祐之さんとのコラボで 龍神や 瀬織津姫  や 古代の日本の神々のものがたりを 語れた。

彼女は 見えない モノを視ることもなく   聴くこともなかったが   その場をいつも清らかに明るく した。金や物に執着がなく   ひとに与え続けた。時間とは命の別名であるという。彼女は  命を与え続けて   倒れた。

 4月7日  午後  一言伝えなくてはと     巫げんのごとく   集中治療室に意識を飛ばしたとき  さようならと 別れを告げた彼女の声は 哀しいほど澄んでいた。さみしい声だった。その夜  ひろこさんは亡くなった。

 

なぜ   彼女は 死ななくてはならなかったのだろう…… 

あんなにやさしく   あんな に懸命に生きていたのに。

 

わたしにはわからない。

わかっているのは   受け取ったモノはかえさなくては   ということ。

龍神のえにしで結ばれたのだから   龍神がお喜びに

なることをさせていただこうということ。

 

その日. 26日の朝  龍神さまの雲.  棚引き   夕べ  神鳴り  轟き   稲妻が 奔った。  

スピリチュアルとは   生き物   自然    人間   神さま  の   区別が無いことではないのだろうか   神を敬う   ひとを愛す   しかしながら   自然に神やどる  一本の草木にも  人間の心にも  神宿る   ゆえに   すべてはひとつ。

 

さりながら  わたしは  この 美しい世界を 我が物とし  蹂躙しようとするものを  憎まずにはおれない。

 

ひと夜かけて  夢を見た。わたしは 龍神samanotameni. hirokosannnotameni nanikawotukuranakutehanaranakute. hissidetukutteita. totemo

nagaimonowo。nihonngomoーdonanoni. roーmajininattesimau。nazekasiranedomo。

 



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西部 氏がご子息の目の前で入水 と聞く。覚悟のことという。

西部邁氏は 東大全共闘だった。いつのまにか右翼論客になっていた。石原慎太郎ももと左翼だった。どうして 左翼は簡単に変節するのだろう?

ひとつふたつヒントとして思い出すことがある。昔  九大全共闘の議長だか副議長だったかした エビちゃんのことだ。本名は知らない。安保闘争に破れて エビちゃんはそのころ 公安から逃げ隠れして 糊口をしのぐため 現場労務者をしていた。酔っ払うと正調五木の子守唄を歌った。なかなかいい声だった。だが  エビちゃんはぶっ壊れていて それは 小娘だったわたしにもすぐわかった。

なぜ  カツドウしていたの?  どんな気持ちだったの?  ヒーローインタビューのように尋ねると  エビちゃんは答えた。 ニンゲンをウゴカスのが面白かったんだ……  オレはこのままじゃ終わらないんだぜ   もうすぐ あるトコロから お呼びがかかる   オレは成功者になるんだ   バカどもとは違うんだ…

大衆の タの字も  革命の カの字もなかった。そしてエビちゃんはわたしの目の前で 親友を裏切った。

またひとつ  革マル派? だった大森さんのことも思い出す。大森さんは北朝鮮に飛んだあのひとたちとも関係があって  警察にも引っ張られた。大森さんはカンパで家を建ててた。過疎地で開拓して  見学にきた人 カンパに来たひとが 農作業や開拓作業を手伝わないと怒ってた。 この間まで テレビに出ていた。

あのひとたちにとって  カクメイは手段だった。 愚民を導く オレたち……   大衆のしあわせではなく  国家の計ではなく  自分のちっぽけなアイデンティティの為の。

だから簡単に寝返る。似非左翼 =  似非右翼は 直結する。

わたしは 西部 邁 は好きじゃなかった。鈴木宗男から お金もらってたでしょ。某政治家をゴロツキ呼ばわりしたでしょ。

でも ひとつだけ  確かなことがある。西部 さんは  反米右翼である。ここんとこはギリギリ最低ラインだ 真性右翼かどうかのね。だいたい右翼で親米なんてあり得ないでしょう。日本を陥れ 戦争に引き摺りこんだ米国  手引きした日本人もいたけどね。戦後 日本の「うつくしい」文化を安手の大量消費文化に置き換えた米国  原爆二種類 人工地震まで 日本を実験台にした米国   今も 今も日本から大量のお金をかっさらってゆく米国  長年カツアゲされつづけたおかげで  年金もろくにもらえない日本人……

西部さんは安倍首相を 似非右翼と断じていた。

それは 西部 邁さんの真実で それから 奥さんを深く愛していたことも真実で…… だから わたしは 入水を聞いて  涙を溢した。



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だれにも  おじいちゃんは ふたりいます。

父方と母方ーーー

安倍首相の母方のおじいさんは 岸元首相

満州国建設の立役者で 27万の貧しい人たちを騙して移住させました。王道楽土  五族協和が旗印でしたが  実態は 中国農民の土地を安く買い叩き  強制収容し  追い出し  そこに〜日本人開拓者を住まわせたのです。部落ごと移り住んだひとたちもいました。全財産を処分し  夢見て大陸に渡りました。

そのなかに  滿蒙開拓青少年義勇軍の少年たちが86000人 いました。国策として500万移民をもくろんでいたのですが  集まらなかったので  全国の高等小学校に割り当てを課し少年たちを送り込んだのです。

土地が貰えると大陸に渡った少年たちの役目は  南方に転戦した関東軍に代わって零下30度のソ満国境を守ることでした。

8月9日  ソ連軍  150万がせめよせます。根こそぎ動員で開拓団には老人 女 子どもしか残っていなかった。集団自決した開拓団   娘たちをソ連兵に差し出した開拓団   中国人に襲われた開拓団   死の逃避行を試みた開拓団   泣き泣き幼子を捨て  或いは手にかけ あるいは中国人に売り  やっとの思いで収容所に着いても  寒さ  飢え  発疹チブスで次々死んでゆく  ソ連兵は娘を襲いにくる。まさにこの世の地獄でした。中国残留孤児はこうして生まれました。ー  ですが 中国人はやさしかったというひとも帰国者には多くいらっしゃいます。

満州の悲劇は 被害者であって 侵略の片棒を担いだ 加害者でもあったということです。オキナワ  ヒロシマ ナガサキ に勝るとも劣らない辛酸をなめながら 語ることができなかった。

シベリアに抑留された人たちもいた。その数  数十万ともいわれます。満州やシベリアの土になられた方々  何十万の 死と 岸元首相のしたことは深く関わっているのです。満州の経営には阿片の利権がありました。岸信介はいち早く 満州を脱出  戦後  A級戦犯として裁かれますが  東條英樹刑死の翌日 釈放されました。GHQとの間に裏取引があったといわれます。

その後 首相となり 日米安保条約を締結  忠実な米国のしもべ  使徒となりました。

 

一方   父方の祖父は 衆議院議員 安倍寛  生涯   非戦  平和 をつらぬき  金権腐敗打破をさけんだ 清廉潔白なひとでした。

安倍寛は山口県大津郡日置村に生まれました。4歳までに両親が相次いで死去したため、伯母のヨシに育てられる金沢の旧制第四高等学校を経て、1921年大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する帝大卒業後は東京で自転車製造会社を経営していたが、1923年(大正12年)の関東大震災で工場が壊滅し、会社は倒産してしまう東京に移ったのちに本堂静子と結婚し長男晋太郎を儲けるが、直後に離婚し以降は独身で暮らしたその後、「金権腐敗打破」を叫んで1928年(昭和3年)の総選挙立憲政友会公認で立候補するも落選した

1933年(昭和8年)に日置村村長に就任し没するまで務めたその後、山口県議会議員兼務などを経て、1937年(昭和12年)の総選挙にて無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した

十五年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場をつらぬき、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに出馬するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した戦後、日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死しました。

 

どちらが  人間として  すばらしい生き方か  一目瞭然と思われますが   安倍首相にとっては  岸 おじいちゃんが 目標のようです。目を覚ましてもらいたいと思いませんか みなさん。

安倍さん 憎めないところがあるのは 寛おじいちゃんの血をひいているからかな。

安倍首相 国民ひとりひとりに人生がある。大切な大切なものが あるのです。願わくは  岸さんのように 踏みにじることをしないでください。お願いします。

 

と書いてみたが  甘かったな   現在  安倍晋三は 生粋のバカ  妻も同罪と 考えております。



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ユージン・スミスは、おそらく、もっとも英雄的に、写真雑誌が求める条件を満たしつつ、アートとして自分が納得しうる写真を撮影しようと努めた写真家でした。

「多くの写真家が、自分と被写体の間をガラス板一枚分隔てているようだ。中に入り込んで相手を知ることができないのだ。」 by ユージン・スミス

彼はこのことばを体現し第二次世界大戦中は従軍カメラマンとしてサイパンや沖縄戦を取材しました。日本との縁が深かったユージン・スミスは、1971年から3年余り熊本県の水俣に滞在し、水俣病の実態を撮影、発表しました。 なかでも有名なのが、胎児性水俣病患者の娘をいとおしむように胸に抱く母の姿をとらえた「入浴する智子と母」の一枚です。この写真は世界中に衝撃を与え水俣病を象徴する悲劇として、国内外のメディア、教科書などに掲載されました。智子さんの母の慈愛に満ちた顔はピエタさえしのぐ。この反響の影響で少女や家族に対する中傷も相次ぎ、少女の逝去後、98年に、アイリーンさんは「写された人の人権を尊重する」として、写真の決定権を両親に与え、自著で再掲載しないことを約束し、写真集を収蔵する美術館などにも展示への配慮を要請しました。

水俣は市民のほとんどがチッソ関連企業で生計を立てており、企業と行政と市民世論の壁に、患者らは諦めを強くしていたが、米国から来た写真家の精力的な活動に勇気づけられました。
72年、ユージン・スミスはチッソ五井工場を訪問し、患者と会社側との交渉を撮影中、同社従業員(従業員の姿をした雇われ暴力団員とも言われる)から暴行を受け、片目失明の大けがをしました。暴行した従業員は逮捕されず、この時抗議した患者が逮捕され、当時の患者側の立場の弱さと、チッソ側に立つ行政側の姿勢が浮き彫りになった。ユージン・スミスは、この時の暴行を告訴せず、写真撮影に没頭しました。1977年12月、脳溢血で倒れる。翌年奇跡的に回復し、セミナーを行うまでになったが、1978年10月15日にアリゾナ州トゥーソンの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、致命的な発作を起こし死去しました。享年59歳。
 

母方の祖母が、アメリカインディアンのポタワトミ族の血筋をひくこと、小麦商の父親が大恐慌で破産し銃自殺したことなどが、ユージン・スミスの写真家としての原点とあり 市井の人間の命や生活に関心を持ち続けたのではなかったかと思われます。

ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリにあります。そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出され、それに加えてユージン・スミスは、トリミングを駆使して被写体を強調したり、重ね焼きを用いたりしました。例えばシュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされました。そもそもユージン・スミスは、リアリズム(写実主義)を排除していたとされます。彼は事実への誠実さをつらぬくためだったら 演出をすることもためらいませんでした。

http://www.atgetphotography.com/Japan/PhotographersJ/EugeneSmith.html

http://mediagres.com/wordpress/?p=1348

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9

 

ユージン・スミスは義のひとであり その信念を写真家としての自分に体現した類稀なひとです。報道ジャーナリストとして事実をつたえることと 芸術家として 完璧な「美」の世界を一致させようとしたひとです。美しい....という概念はひとによって違いますがユージン・スミスの美学は語りにも相通ずるように思います。彼の生き方からしたら 窒素の当時の会長が誰であれ そのことで孫娘雅子妃を糾弾することは たとえそれが彼を賛美するひとであったにせよ 喜ばないと思います。A家については天皇制の歴史的なアイロニーになるような根深い問題がおありです。元華族の博士様 これが答えですので今後同様のコメントはおひかえください。

 



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アンネ・フランクは日記にこのように書いています。

神さま わたしを殺さないでください。 生かしてください。そうして 平和のために働かせてください。

 

アンネ・フランクがあのとき 死なないですんだなら 生きていたら いったいなにをしたでしょう?

平和のために働いたにちがいないと思います。

パレスチナの子どもたちが砲火に逃げ惑っているのを見たら 悲しむと思います。

自分の国がそれをしているのを見たら もっと悲しむと思います。

 

パレスチナの子どもの神さまへの手紙

 かみさま
あなたのひこうきがまいにちやってきます
きのうもぼくたちのテントに
ばくだんをおとしていきました
ぼくははしっていわかげにかくれました
わらってわらってわらいました

かみさま
いつもたべものをさがすごみばこを
どこにもってっちゃったの
はやくかえしてね
おねがい


ねえかみさま
かあちゃんはいつかむかしのうちへかえるといいます
ぼくはじぶんのへやにねて
ともだちとあそべるんだ
ほんとにそんなひがくるかしら

かみさま
おねがい
せんそうをやめさせて

かみさま
ぼくたちはまだきぼうをもっています

 



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今日 先日 お話した叔父の告別式がありました。

わたしは 昔 お葬式が好きではありませんでした。なぜかというと 足がしびれる 暗い 退屈.....だと思っていたからです。

一度 足が痺れて立てなくなってしまい 恥ずかしい思いをしたことがあります。昨今はイス席が増えて とても楽になりました。

今ではお葬式が嫌いではありません。なぜなら 告別式は 亡き人が肉体を離れる 執着を棄てて もといた世界に還る

大事な『場』であるからです。そこに立ちあわせていただくのは 結婚式に列席させていただく同様とてもしあわせなことなのです。

お経やおりん「磬」(きん)には深い意味があります。それは倍音 光なのです。お経の意味とあいまって 亡くなったひとに

恐怖やこの世での執着を棄てさせ あの世に導く やくわりがあります。

......(これは わたしの感覚なので 仏教でどうなのかはわかりません。)

時折 導師が複数 おられる 告別式もありますが そのようなときは至福です。倍音が幾重にも波のように響いて

金色のひかりのなかで湯あみをしているような感じがします。今日のお経も、ご導師はおひとりでしたが とてもよかったです。

途中 叔父さんがためらっているようなそんな感じがして わたしは思わず 手をうごかしていました。

亡くなったかたが迷いや執着から離れると その場がぱーんと変わります。なんともいえないやすらぎにつつまれて 

わたしは静かに涙を流しました。

斎場では怖いこともあります。それは まだ成仏されない方の霊が浮遊なさっているからです。病院もおなじです。

最初 どきどきしながら 祈りました。焼かれるのはやっぱり怖いと思う。その場にいて大丈夫だよと見守っていたかったのです。

 

えにしある方々とあえて うれしかったです。叔父さんが会わせてくれたんですね。葬儀にたずさわってくださった方々  葬儀に参列してくださった方々 ありがとうございました。心のこもった、気持ちが澄みとおるようなそんな葬儀でした。

叔父さんのお顔 一段ときれいになっていました。告別式がすんだあとは 研ぎ澄まされたような慈愛にみちた仏さまのような

御顔でした。わたしがいままで お見送りした方々のなかで おさだおばちゃんと もうおひとりがそんな御顔でした。

生前 報われなかった方が得てしてそのようなうつくしい御顔であの世にいかれるのはほんとうに不思議だし ありがたいこと

です。この世とは異なるものさしがあるのだと思います。

秀雄叔父さん ありがとうございました。そして しばらくのあいだ さようなら。またお会いする日まで。

 



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きのう 小学校のおはなし会を 終えたあと 母と川崎に向かいました。叔父さんが亡くなったという知らせがあったのです。選挙の勝利が決まった21日の真夜中のことでした。

南武線の矢向という駅から タクシーでさがしましたが 家はみつかりません。ぐるぐるまわってようやくたどりついた灰色の トタンの壁の二階家....汚れたガラス窓から雑然とした部屋のたたずまいが見て取れます その隣にはレンガつくりのお城のような家があってその庭から叔父の家の庭まで 春の花でまさに埋め尽くされているのです。庭中咲き乱れる色彩と春に置き去りにされたようなその家のコントラストにわたしは軽いめまいを感じました。家にはだれもいませんでした。電話であちこちたずね 叔父がすでに葬儀施設に運び込まれていること 死因が心筋梗塞であったことを知りました。87歳の母と幾人もの親切な方に訊ねながらたどりつくと すでに叔父叔母が4名 所在なさそうにロビーにすわっていました。そして 秀雄叔父さんの義姉にあたるひととその娘さん ゆるやかにウェーブのかかった栗色の髪のうつくしいひともいました。あのうつくしい庭の花々はこの方たちが丹精したものだったのです。叔父の家には庭を見渡すように窓際に黒のカウチが置かれていました。叔父は日々 庭の花々に 季節のうつりかわりを感じたり慰められたりしていたのでしょう。

焼香に地下まで案内されました。モルグ【死体置き場】のように 壁にはめ込まれた引き出しに叔父は下ろしたての浴衣を着せられ横たわっておりました。なにかとてもいいことがあったように くちもとには微笑みが浮かんでいます。静謐と安寧に充たされた顔でした。短い時間しかゆるされませんでしたが わたしはわたしが叔父にしてあげられる最後のことをさせてもらいました。体中がかっと熱くなります。..... 叔父と最後にあってからまだ一月半しかたっていません。叔母の法事 叔父叔母だけの身内に席に列席させてもらったのは 今年 5人の叔父のうちだれかがあちらに行くのではないかという予感めいたものがあったからです。秀雄叔父さんとわたしはとなりあわせにすわりました。叔父だけが礼服を着ていませんでした。 「叔父さん 元気そうね」というと「元気だよ」とにっこり笑みを浮かべました。「しあわせ?」と訊くと「しあわせだよ」とわたしのだいすきなはにかむような深々とした声でいいました。わたしは逝ってしまうのが秀雄叔父さんだなんて そのときは思いもしませんでした。

 

秀雄おじさんは 母の兄弟8人のうち 7番目でした。吃音だったせいもあって 無口でした。でも わたしは最初 暗くてこわいと思っていた秀雄叔父さんがだんだん好きになってゆきました。叔父さんは中卒で就職しました勉強が嫌いだったのだそうです。川崎製鋼に勤め 時折 土曜日に 浦和にあった我が家に一晩泊まりで遊びにきました。わたしの母は長女でしたから 跡取りの清叔父さんのほか4人の叔父さんは狭い我が家に下宿したり 就職の世話をしたり 母はずいぶん 面倒を見ていましたが、ほかの3人が饒舌だったのに比べ 秀雄叔父さんはなにもしゃべらず 一日 ひじ枕をして寝そべったままで 日曜日の夕方 帰っていくのでした。

それでも わたしはなにがなし そばにまとわりついていたようです。母の弟たちは秩父小町とうたわれた祖母の血をひいてか みな美形でしたが 秀雄おじさんはほかの叔父とは違った雰囲気を持っていました。眉は濃くりりしく 苦味走ったというか哀愁のある面立ちでした。近所の駄菓子やのおばちゃんが あるとき 「あのひとはいい男だねぇ 役者のようだねぇ」とわたしにいい 子どもながら鼻が高かったのを覚えています。.....ごちそうさまの夫役のひとにまなざしが髣髴とさせるものがありました。

孤独を知っていた叔父さんだから わたしは叔父さんに心を惹かれ 叔父さんも幼い姪に心をゆるしたのでしょうか。叔父さんが帰るとき 北浦和駅まで 送っていったことがあります。子どもには遠い道で 叔父の長いコンパスに必死でついていきました。途中で帰るきっかけもつかめず 叔父さんが寂しいかもしれないと思ったりもして とうとう 夕暮れの駅舎についたとき 叔父さんは 「蓉子 やるよ 」 と500円札をわたしの手ににぎらせました。 そして 唖然としているわたしに手を振って改札に消えてゆきました。そのころ 500円がどんなに大金だったことか.....わたしはポケットをしっかりおさえながら ふわふわと まるで雲の上を踏むような気持ちで家に帰りました。

20歳 成人のとき 叔父さんがくれた贈り物 それは白虹色のビーズに濃淡のマゼンタのビーズで牡丹を浮かび上がらせたちいさなバッグでした。美しいものを贈られることがどんなにしあわせか わたしは父とこの叔父におそわりました。 つかうことがなくても 丁寧につくられた美しいものを持っているだけで ひとはしあわせになれるのです。........結婚式のとき 夫は 滅多にしゃべらない秀雄叔父さんから 「蓉子をしあわせにしてやってくれ」といわれたことが忘れられないといいます。

けれども その叔父の結婚生活は波風の多いものでした。子どもには恵まれず 妻のまさえさんは ガンで長いこと苦しみ亡くなりました。叔父は 叔母のからだをさすり 下の世話もひとにまかせることなくすべてして看取り まさえ叔母さんは叔父に心から感謝してなくなったそうです。。 

叔父は子どもも家もお金も残しませんでした。晩年 叔父さんは であった保険外交の婦人とつきあって どうやらその娘さんにお金もだしてあげたようすで 通帳にはほとんどお金は残っていなかったそうです。その方が2月 肺ガンで入院したとき 毎日来て世話をしてくれたともききました。騙されたというひともいるかも知れません。でも わたしはそうとも思えないのです。その保険外交の婦人も叔父さんが好きだったのでしょう。叔父さんにあってしあわせだった......そうでしょう?

......そして わたしも。秀雄叔父さん わたしは叔父さんがだいすきでした。わたしを天までのぼるほどしあわせにしてくれた男性は 父と夫と叔父さん あなただけでした。 物やお金をいただいたからではありません。そこに叔父さんの深い愛情を感じたからです。

秀雄おじさん わたしは知っています。あなたが4人の女性をしあわせにしたことを あなたが為すべきことをしてあの世に逝かれたことを そしてあなたのこれからゆかれる場所が決して暗いところではないことを あなたの人生はほんとうに立派でした。ありがとう......   叔父さんのように わたしもだれかをしあわせにして 贈り物を遺して あちらにいけますように...... どうか 見守っていてください。

 



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以下抜粋

99歳のドブリ・ドブレフおじいさん。第二次大戦で聴覚をほとんど失ってしまった彼は、毎日25kmもの距離を徒歩で移動するのを数十年も続けている。自らが作った質素な服と皮の靴を身につけ、村からブルガリアの首都ソフィア市まで歩き、お金を恵んでもらう日々を過ごしているのだ。物乞いをしているとはいっても自分の為にしているわけではない。ドブレフおじいさんは家を持たず、毎月80ユーロ(約11,000円)の年金で生活をやりくりしている。

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 おじいさんは数年かけて集めたお金をすべて、およそ40,000ユーロ(約565万円)を全て、支払いができない児童養護施設に寄付しているのだ。 物乞いで集めたお金を1セントたりとも自分の為には使わない。全額施設に渡すのだ。

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 おじいさんの物乞いは大変静かなもので、無理強いするようなことはない。その為に人々から愛される存在となっており、「ドブリおじいさん」という愛称で呼びかけられる。

 おじいさんは集めたお金を自分自身の生活を豊にする為に使うこともできたはずだ。路上で過ごす必要もなかったおじいさんが、あえてそれを実行するのは、家族がいない子供たちが、少しでも幸せになってくれることが、おじいさんの幸せだからだ。 ドブレフおじいさんの行いを知った人は、彼の生まれ故郷にちなみ、「ブルガリアの聖人」と呼ぶ人もいる。そんなおじいさんも今年で100歳になる。

以上



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以下抜粋

日本スキー競技史上最年少で、スノーボード男子ハーフパイプ(HP)でメダル獲得した15歳の平野歩夢(バートン)には、「憧れの存在」がいる。 前回バンクーバー大会で8位に入賞した国母和宏(25)だ。

 

成田空港出発時の制服を着崩した「腰パン」スタイルが物議をかもした。

服装の乱れが批判を浴びた国母だが、プロスノーボーダーとして活躍する今、平野のことを「少しでもヘルプしたい」という。現在はアメリカでトップ・プロスノーボーダーとしてX-GAMES(エクストリームスポーツの大会)等で活躍しており、USオープン連覇(2010・2011)という快進撃、年収は数千万円に達しているのではないかと噂されている。

ソチ五輪アドバイザーに就任し、若手のサポートにまわる。国母は契約するスノーボードメーカーなどのDVDで自らの滑りを披露することに活動の重点を置くため、ソチ五輪は目指さなかった。

そんな国母が平野を気にかけるのは「自分の後に続いて海外で戦おうとしている」からだ。
 

教え子の平野歩夢選手(銀メダル)・平岡卓選手(銅メダル)を両手にドヤッ!あれから4年。国母は生まれ変わったらしい。昨年8月、全日本チームのハーフパイプ競技の技術アドバイザーに起用されたとスポーツ紙が報じたのだ。

日本代表の上島しのぶコーチ(42)はこの裏事情を本紙に打ち明ける。「昨年の春に、彼から『選手の支えになりたい』と申し出がありました。彼自身も4年前に自ら犯したものを認識していて『オリンピックで精神状態が厳しい状態でプレーしたことを(伝えて)今の選手に同じ思いをさせたくない』と言っている。彼も滑り手なので(正コーチとして)縛ることなくいい部分を生かすことにしたんです」。

マネジメント会社やスポンサーを紹介。スノーボードに集中できる環境作りを手助けする。 同じ大会に出場すれば、一緒に行動し、ストレッチや食生活を指導する。国母を「かずくん」と慕い、共に生活をするようになり、国母直伝の炭酸飲料を取らず水しか飲まない食生活や、毎日のストレッチまで影響を受けた。
 

この取材では以下のようなやりとりも。平野:「五輪で気をつけることある?」国母:「服装には気をつけろ」

「平野は見て盗んで覚えるタイプだから」と大技ダブルコークも平野選手の目の前で実演して教えていた。

「年齢も国も地位も関係なく滑りが評価されれば、スポンサーもつく」のがスノーボードの世界。

ソチ五輪でも、海外選手が複数人、尊敬する選手として名前を挙げていたほど、人気実力ともに世界トップレベルのプロスノーボーダーに成長していた。バンクーバー五輪で失敗した大技「ダブルコーク」もUSオープンで成功させている。五輪HP2連覇中のショーン・ホワイト(米)は年収800万ドル(約8億円)とも言われる。

日本に妻と昨年生まれたばかりの長男、犬2匹を残し、米カリフォルニア州サンクレメンテを拠点に活動する国母もトッププロの1人。
生活資金は「すべてスノーボードで稼いだ金」だ。幸せで、恵まれていると自覚する。
スノーボードをもっと世に広めたい、スノーボードだけで一生生計を立てられる人は日本には今までいなかったので自分がそのパイオニアになりたいという趣旨の発言をしていた国母さん。平野選手・平岡選手ら後進の道しるべとなっているのではないでしょうか。
 その後、国母はHP第一線から引退、五輪も辞退。 平野などのアドバイザーなどを兼ねながら別の道へ

「後に続く本当のスノーボーダー」の誕生を見届けてから、安心して国母は身を引き、後輩のサポートにまわったのではないでしょうか。

以上



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先日 やなせたかしさんが亡くなりました。私は正直のところ アンパンマンはそんなに好きではありませんでした。クレヨンしんちゃんのほうが好きでした。自分の顔をちぎって人に食べさせる あんまり自虐的すぎて。

けれども 必要に迫られアンパンマンの歌詞を検索したら なんだか不思議な感じがしました。そこで 調べてみたら やなせさんは 『正義とはひとに食べさせること』と書いてありました。もしかしたらこの方は..... と思って調べたら 

......21歳で召集され26歳まで軍隊で過ごした。終戦間際には、上海決戦に備え1000キロの行軍をした。そして飢えに苦しんだ。こうした体験からやなせは痛烈に思った。「肉体的苦痛は、いつか慣れる。でも、ひもじさだけは何より情けなく、何よりも耐えがたい」....

そのうえに弟の千尋さんは神風特攻隊で戦死していました。歌詞には弟さんをほうふつとさせるところがあります。なかには そこだけとらえて靖国や特攻賛美を訴えるブログもありました。

しかしながら やなせさんが託したのは特攻賛美や隣国を排斥することではないと思います。英霊の2/3は飢えて死にました。食料も弾薬も医薬品もなくほとんどが おかあさん といって亡くなったそうです。

やなせさんが「正義とは食べること」 というのはそこだと思います。本土でも 食べ物がありませんでしたから。戦争というのはそういうものです。家族がバラバラになり 死んだりケガをしたり......飢えることなんです。

だから アンパンマンは自分の顔を食べさせる
わたしは戦争に行った方や戦争で肉親を亡くされたたくさんの方のおはなしを聴きましたが ひとりとして戦争をしたいという方はなく、決してしてはならないという方ばかりでした。なかには 50.60になっても 夜うなされたり 叫び声をあげて目を覚ますというひともいました。

やなせさんは戦争は絶対 してはいけなと言っていらしたんですね。ご冥福をお祈りします。

→ こちら

そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
なんのために 生まれて

なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!

今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため

なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため

時は はやく すぎる
光る星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ どんな敵が あいてでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため

 

 



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