今日は幼稚園の語り、おかあさんと園児のための語りでした。地球温暖化についてのオリジナルの童話をつくろう...それはLTTAの授業でもつかえるしと思い、アマゾンに頼んだ本や資料が届くのを待ったのですが届きません。ネットでの発注はボタンひとつ押し忘れてもだめなのできっと押し忘れたのでしょう。
会報の原稿を書いていたら30分前になりました、さて、なにを語ろうか...幼稚園の希望は親子の心あたたまるおはなしでした。思いつかないのでパソコンをちらちら見て、しばらく語っていないおばあさんと怪物のおはなし、ホラ たまごとぞうきんと棒と石臼が助けてくれるさるかに合戦みたいなおはなしをすることにしました。それからソーディーソーディーをおかあさんバージョンでしようと思いつき、ピンク紫系の民族衣装?に青いイヤリングをつけてでかけました。
幼稚園の先生のご配慮で馬蹄形に椅子がならべられ、お母さん方が子どもたちをだっこしています。なんというあったかなやはらかな雰囲気でしょう。たのしいお話会でした。とんでもないところでおかあさんがゲラゲラ笑ったのですがどこだったか覚えていません。芸人としてはまだまだです。月曜日、火曜日に他のクラスがあるのでもっとパワーアップしましょう。みんなが好きな黒い長い魔女のマントを着てゆきましょう。
そのあと、文化会館の広い駐車場でマリアの練習をしました。わたしは車の中で泣きました。なぜ、わたしは泣くのだろうと自問しながら.....今のわたしにマグダラのマリアを語ることは必要なことだったのです。語り手はだれしもそのようなものがたりを持っているのではないでしょうか。.........。
ひとはたくさんの傷や忘れがたい思い出を抱いて生きています。なかにはひとにいえない薔薇の下で語るような秘密もありますし、自分自身では気づかない傷も負っているのです。わたしはニコラエフスクの雪がとても好きでした。なくなられた方への鎮魂のものがたりでありながら、のちのひとに生きる勇気を手わたすパーソナルストーリーでありました、うつくしい叙情のものがたりでありました。パーソナルストーリーでなくても語り手はものがたりにことよせて自分の痛みやかなしみを雪のひとひらひとひらのように手放してゆきます。それもまたうつくしいこと、ひつようなことだと思います。
今になってはじめて、わたしは昨年のコンサートでいただいた、重い...ということばを微笑みながら、まっすぐ受け止めることができます。語りは娯楽かもしれません。今日 幼稚園のおかあさんや子どもたちが笑ってくれたように、楽しくて時間を忘れて、浮世の憂さを忘れる語り....をみんなは待っているのかもしれません。
けれど、わたしはものがたりには語るべき時とどうようにそのものがたりを聴くべき時があると思うのです。ヨーロッパでは呪術と祭祀がそしてギリシャの四大悲劇が悲劇の原点でした。ひとびとは悲劇に泣くことでカタルシス(浄化)を得たのです。死はその中に再生の契機を含む。この観念が古代ギリシアにおいて悲劇を生み出したのだといわれています。再生のために悲劇は必要だったのです。
世代においても違いはありましょうが...。おだやかな癒しも、くすり笑う小噺も、抱腹絶倒のハチャメチャもみなあっていい。先日聞いたおはなしがあります。戦争体験、わが子をなくした悲しみを戦後60年語りつづけている方がいます。その話を聞いて腕白な五年生の男の子がボロボロ涙を流して泣いていたそうです。語るべき話をつらくとも語りたい、つらくとも聴きたいと今のわたしは思います。
一方喜劇は単独ではありませんでした。ダンテの神曲の原題が神聖な喜劇といったように悲劇から派生したというひともいます。芸人は自分を笑えなければできないし、自分を笑うという行為は自分を客観的に見ることができなければできません。積極的に笑わせるのはそりゃ なまなかのことではできません。いつかそうできたら今世ではむつかしいかもしれないけれど。
そして、きのうのワークショップでやまもとさんが芝居と語りの違いについてふともらした、即興ということばがこだましています。演劇をとおして感覚と身体、身体と心のつながりを、ことばの意味 サブテキスト、セリフのうらの意味を知ることには意味がある、人物の目的を知るのは深い意味がある。しかし語り手のわたしにとって芝居のしばりはやはりつらいなと思うのです。きっちり覚えたうえで演出家の意図に従ってそのなかで自分のなかにあるものを役の手がかりにしてゆく芝居と、語りはやっぱり違います。語りはもっとやはらかな即興にちかいものです。これだけでもまずいとわたしの直感が囁きます。演劇のメソッドだけでない語りのためのメソッドは自分の身体をつかって自分で構築するしかありません。それをひとに押し付けるつもりもありませんが心の通じるひととわかちあいまなびあってゆきたいと思います。語りの本義はとのさんが書いているように「魂をゆさぶり、魂と交流し、魂を鎮める」につきますし、すべては..発声も身体と感覚の鍛えもテクニックもそのためのものにすぎないことを忘れてはならないと思います。
マリアについて残りの時間のなかできっちり構築し完璧をめざすのは無理があります。もしや失敗するかもしれないが、テキストから離れてもいい覚悟を持とう。自分をゆだねてみよう、投げ出してみよう....ゆだねきることができるかどうかわからないけれど...。そのときなにかが見えるかもしれません。
つぼみがほのかに染まってきました。もうすぐさくらが咲きます。この世でいちばん好きな花 さくらが....。
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