遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  デヴィッド・アーモンドの「肩甲骨は翼のなごり」を読みました。正統を継ぐファンタジーのように思われました。わたしは良きファンタジーを神話の嫡出子のように考えています。表面に書かれるできごとはさまざまですが、根底に流れるのが生と死、甦り....愛による救済...であるからです。 これからお読みになる方のために詳しく書くことは避けますが、個の救いが世界の救いにつながってゆく同じ作者の「火を喰う男」はそのようなものがたりでした。

  心を打つものがたり(ドラマや映画を含めて)の底にはある普遍のテーマが流れていることが多いように思います。「薔薇のない花屋」は最近ではおもしろいドラマでしたが、主人公のふたりの青年、見捨てられお互い同士しか頼むものもない「名も無き戦士」である、陽と陰といってもいいふたりが「涙」を取り戻すシーンが印象的でした。凍り付いていた涙の「雫」は溢れる愛情を受けとめたとき、流れたのです。それも「甦り」にほかなりません。

  父と子、魂の遍歴、男と女のありよう、(日本などでは滅びもまたテーマのひとつです) 神話にはさまざまなテーマが含まれていて、その最も大きなテーマが光と闇のたたかいであり、生と死であるわけですが、テレビや映画だけでなく、アニメ、漫画、ゲームなどのサブカルチャーにもいわば本家取りというほど、色濃く反映しているのは、それらのテーマがひとの琴線に触れるからではないでしょうか?ひとの奥底に埋もれている忘れてはならないたいせつなものを揺さぶるのでしょう。

  さて、今日はハタモトヒロというシンガーの歌をはじめて聞きました。不思議な声でした。風が木の枝をきしらせるような声 体がリラックスするような心地よい声、五官にひびく、骨を震わせるような声...歌詞はいらない メロディラインだけでいい声 倍音が多く含まれていると思いました。



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   感想はさまざまでした。マリアムに惹かれた方もいて、スピリチュアルなものがたりをと帰ろうとなさらず語ってくださいました。芦刈の「歌」から歌をもっと歌ってください、この方は作曲家でした。酒ばらからこのつぎはもっと軽妙な語りが聴きたいというひともいる。どなたが「いろいろな語りがあるのねぇ」とおっしゃっていましたが、まさにそのとおり、語り手がいるだけ、またひとりの語り手のなかにもさまざまな語りがある。それは語り手の人生、語り手の今と深く関わっています。そしてどのような語りに惹かれるかも聴き手の人生や聴き手の今と深く変わっているのだと思います。語りは生きものです。

   100人いれば100人の考え方がありますね。ひとりひとりの語りについての考え方をわたしは尊重します。それはその方の人生や今から導きだされるものですから...。そして自分も日々あらたでありたいと思います。わたしは今日、ほんとうに上手くなりたい...と思います。これまで上手い語り手になりたいとは金輪際思いませんでした。なぜ考えが変わったか、身体や技術があってそのうえにものがたりがのるからです。そしてそれは努力で変えられることですから。わたしはこの8年、水や美しい花々を求めて深い森を彷徨っていた。それは努力というより大好きだったから、子どものように探索してきたのでした。これからは意図的に自分を語り手として鍛えてゆこうと思います。

   そしてなによりいい人生を送りたい、いい関わりを持ち続けたい、これが私の最大の感想です。それが語りのエッセンスだから....。響かせる語りをするための最大の糧だと信じるから....。たのしく元気に行きましょう。あらためて昨日きてくださった友人たち、いつも私を支えてくれはじめて聴いてくれた子どもたち、HIKOさん、カタリカタリのみなさん、叱咤してくれたあいはらさん 花粉症にめげないで素晴らしい演奏をしてくださった水戸先生、貴重なアドバイスをくださった先生、最後にいつもヨシュアのようにわたしをつつんでくれたかずみさん、ほんとうにありがとうございました。

....あとフィギュアの真央ちゃん ありがとう、失敗しても取り返す 身体の力をぬく 細部にこだわりながら、流れと勢いがたいせつ、ボディ、技術と表現 観客の心を掴む。語りとフィギュアは似ているなぁと思うときがよくあります、アスリートたちに学ぶことはたくさんあります。あぁ やることたくさんありますね。コカのカメみたいに知恵をしぼって勇気を持って泳いでゆきましょう。

....とこう書きながら わたしはなにかたいせつなものがすり抜けていくような気がしてなりません。なにかが違う。わたしが求めていたものはこのようなサロン風のものだったのだろうか、もっと原初的な本質的なものではなかったのか....聴き手がいなくては語りにはならないのは言うまでもないが、今、自分に圧倒的に欠けているのは自分のためでない祈り、天とのつながりのように感じます。わたしは芸能の原点に還りたいと望んでいたのではなかっただろうか。自分をつなぎ目にして縦につながる、横につながる、そのつなぎ目に徹するのに技術が必要なら技術を学びたいけれど。

  なにかが違っています。軌道修正しなければ。本道に戻らなければ。読んでくださる方を意識しすぎると、やはり本筋からずれてしまうような気がします。もっと自分に正直にならなければ。そうしないと書いている意味さえなくなります。
  




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   終わりました。この一年の重しがとれてわたしは空に飛んでゆきそうです。とにかくよかった、ひらくことができて、ひとりじゃないんだってわかって、あしたにつなげてゆけそうで.....来て下さったみなさま。さまざまなサポートをしてくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。

  昼頃、水戸先生に促されて近江楽堂で声を出し、先生からダメだしをいただいたときは、正直真っ白でした。近江楽堂は残響が多いので、後ろの壁に反射し、天井付近で音を巻き込む、反響して音がはっきり伝わらないのです。ことばをひとつずつゆっくり、はっきり区切るそれしかないと思いました。それに緩急が利かないのはものがたりを伝えるにはとても痛いです。それでもやるしかない....絶望感がひしひし募る、時間は刻々と迫る。

  予鈴、本ベルいよいよ始まりました。「マリアム」はまだ生まれて6日、こなれてないのと、一音一音にとらわれて、ものがたりの勢いはなくなる、エピソードが前後するは、緊張で上あごと下あごがひっついてしまい、非常に苦労しました。水戸先生はテキストを持って終盤リュートとあわせるつもりが、あまり違っていてすじが追えなかったそうです。

  二番目の問題はかっこつけてメガネを置いてステージに出たので聞き手のみなさまの顔が見えなかったことです。語りは聴き手の顔が見えて、聴き手とのやりとりがあってはじめて語れるのだなぁとしみじみ思いました。コンタクトが必要です。心残りがないわけではありません。ちかじかリベンジというのもなんですが、語り直したいと思います。今回語った「マリアム」は外典というより外伝に近いオリジナルですが、もうひとつの福音書に近い「マグダラのマリア」のほうも手直しして語ってみたい...と終わったばかりなのにもう明日のことを考えています、サガですね。

   二部は残響は気にしないで、自分らしく語ることにしました。メガネもかけました。友人の目が支えてくれました。芦刈の歌、酒とばらの日々、コカのカメで閉めました....スタッフのなかでは師へのオマージュ、パーソナルストーリー「酒とばらの日々」がよかったというひとが多かったです。反省点は多々あります。たとえ、事情があったにせよ、6日前のプログラム全面変更はたいへんです、まわりのひとも自分自身も。舞台設定も第六感でバッグに詰め込んだのが使えたのはいいのですが、段取りはもうすこし計画的に。それと近江楽堂はひとがぎっしり入っていないと語りにはむつかしいと思いました。もともと古楽のためのホールのようですね。

   得たものもたくさんありました。一月から取り組んできた、身体つくりと発声が決してむだではなかったことを実感しました。まだ充分にコントロールができているとはいえませんが、以前よりはらくらくさまざまな声を出すことができます。声は大小、高低、緩急、メリハリの他に重み軽み、深い浅い、なめらか粗いなどさまざまな変化が可能です。ことばをそっと置くことも前よりはできたように思います。また、課題も明確になりました。自分とつながっていない語りは、語りとはいいがたいのですが、つながってそれから自分とはがす作業が必要です。自分のなかに落としすぎてはいけない....わたしはときどきはまります。そしてゆだね切れなかったことが一番の心残り...まだ先は長いです。

   

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   今日は「マリアム」を語ってみました。三日前に生まれたものがたり。マリアムとともに今生きています。テキストで覚えると字が浮かんでしまうので、映像を呼び出すようにしているのですが、一部分しか見えません。夜明けの空の白い月。神殿のレリーフの肌色っぽい壁、泉の水のきらめき....全体が大画面で見られたらいいのですが.....。

   

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  ついにくつしたがなくなりました。一昨日までは色違いでもなんでもとりあえず手当てができたのですが、きのうから素足でお仕事、素足デストーリーテリング、スッピンでワークショップ、数年前まで日曜も休日もなく、31日フル稼働 そのうえ夜勤という労働基本法無視が年度末の公共事業の状況でした。往時の盛況にくらべれば….売上半減ではありますが、それでも年度末の忙しさは格別です。

  そのなかできのうはビウエラレッスン、わたしのビウエラがなぜポツン、ポツンなのかようやくわかりました。一音弾いては確認、一音弾いては響きを確認していたのです。つまりミ、ファ、レ、ミ、ファ、ソ、と弾いていた…..語りでいえば、む、か、し、む、か、し、。ビウエラの演奏も呼吸、語りと同じ!! それに気づいたとき なにかがひろがりました。息を吐きながら弾く….だからフレーズがある。歌いながら弾くのはとても自然なことなのです。なれないとむつかしいけれど…..演奏も想いやメッセージを声ではなく音にのせて手わたす....語りと同じなんだ…..なぜ気がつかなかったのだろう….

  今日はやまもとのりこさんのW.S 風さんと演劇集団ポップコーンのひとたちも参加してくれました。やまもとさんはひとりひとりの疑問に答え、ひとりひとりの発声の注意点を指摘してくれました。ポップコーンのひとたちは日頃体育館で活動しているので口跡はうつくしいし、アクセントも美しい、やまもとさんのおはなしでは体育館でマイクなしがいちばん役者さんの発声に負荷がかかるのだそうです。(..戸外はもっときついかも)カタリカタリは情感に頼りすぎているかもしれない、仲間うちで気心が知れているから足りないものがあっても伝わってしまう….そこに頼りすぎているかもしれないと思いました。もっと発声をきっちりやりたい…..と思いました。

  声はのりものです。そこにおのずと乗るものがある、そして乗せたいものがある。やまもとさんは努力でつくれるものがテクニックだといいました。乗せやすくするのがテクニックといってもいいでしょう。呼吸の強さがあります。口腔内の反響があります。横隔膜や骨盤底があります。発声のメカニズムを知り駆使できるようにする、それは身体の鍛え+テクニックです。その他に語りやすい場所や環境というものがあります。ひろさや反響、会場の雰囲気、(語り手が)聴き手をよく知っているかどうか、聴き手の年齢層その他のさまざまなレヴェルというものがあり、その障害を乗り越えるのもテクニック=努力の部分があるでしょう。天性だけではないということ、努力で補えると知るのはいいですね。

   それでは、おのずと乗るものはなにか……ワークショップのあとお食事会で、いちばんてぢかに発声を変えるのはなにかと問うたとき「それはあなたの人生」とやまもとさんは笑いにまぎらせて言いました。悲しみや喜びをどれだけ味わってきたか、どうやって人生と戦い、また抱きしめてきたか、他者への想い、夢やのぞみ 純粋さ したたかさ 固さ やはらかさ そうした私たち自身の「今」が声には乗ります。それも素敵なことですね。わたしたちの声は唯一無二のあなただけの、わたしだけのものなのです。その声を磨いてゆきたいと思います。

   こんなことを申したあとでなんですが、それでもわたしはコンサートに味方の聞き手がほしい。尾松さんからきてくださるとおてがみをいただきました。どきどきします。尾松さんは素晴らしい語り手であると同時に素晴らしい聴き手です。できたばかりの「わたしのディアドラ」を語ったとき、聴いてくださった尾松さんのお顔を今もありありと覚えています。どんなに力をいただいたことでしょう。


   きのう水戸先生が「大それたことを語るのだから….」とおっしゃいました。自分の息子さえ救えないわたしにマグダラのマリアが語れるのか、イエス・キリストが語れるのか、こわくなるときがあります。テキストは日日かわってゆき、練習するいとまもなく、23日はもうすぐそこです。聴き手のみなさまのお力をお借りしてはだかで語るしか、やはりないようです。



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   朝 夫と自治医大病院本院に行きました。夫がようやく「電車で行こうか」...と言ってくれたのでほっとしました。とても車が好きなひとなのですが、夫は長距離は無理でわたしは高速がだめなのです。4号線を宇都宮まで行って帰るのは寝不足のときは堪えます。

   自治医大に通うようになって四年....もしかしたら今日が最後かもしれません。担当医の先生が国立病院に転勤になったのでいっしょについてゆくことになったのです。思えばいろいろなことがありました。七人の医師を目の前に宣告を聞いたときは眼前が白くなりました。夫ととりあえずの危機をのりこえ 二度にわたる目の手術を受けました。絶望と希望のあいだをいったりきたりしていたあの頃を思い出すとき、目の前に過ぎるのは眩しい陽射しと病院の砂漠のような駐車場にうつる自分の黒い影....。夫はがむしゃらなひとでしたがだんだん穏やかになりました。わたしよりずっと...あのひとはつらかったでしょう。自分と折り合いをつけながらここまできたのでしょう。

  午後は幼稚園のおはなし会 親子のおはなし会そして今年度の最後のおはなし会でもあります。今日は子どもたちから返ってくるものをしっかりうけとめて先にすすもうと決めていました。ひさびさに会心のおはなし会でした。いちべいさんではおおわらい、おおはしゃぎ おばあさんと怪物のおはなしでは固唾をのんできいてくれました。男の子が石臼のあしおとをしてくれました。それからソーディー、ソーディーでは歌って ビッグハングリーベアー!!で大笑い みんなもいっしょにビッグハングリーベアー!!最後に北極の白熊の親子の話を即興でしました。

  温暖化で氷がとけて、氷がありません。泳ぎつかれたおかあさんはちいさいヌークをやっと流れてきた氷のうえに押し上げます。そしてヌークのまわりをぐるぐる泳ぐのですが.....みんなもヌークたちを応援してね。むだな電気は消してね。
ろうそくを消してみんなにさようなら♪をすると子どもたちはみな手をさしのべてきます。もりさん♪ もりさん♪ わたしはこのときほんとうにしあわせです。

  夕方 仕事のうえでお通夜に行くときルイに本を届けました。するとアパートの外階段で2年生くらいの女の子とその弟らしき子がじっとわたしを見ています。ちかづいてこんにちは♪と声をかけると...「もりさん。。」幼稚園の卒業生でした。おかあさんもでてきて楽しく立ち話をしました。今もお風呂に入るとき ずんずちゃっちゃ♪をしているそうです。...そういえばきのう会ったおかあさんも「寝るまで子どもがいちべいさんをしていました」...と話してくれました。....子どもたちのおかげでわたしは生きるのをゆるされているのかもしれない...とふと思いました。

  夜は会社の全体会です。今日わたしは気押されず元気に議事を進行し、言いたいこともズバリ明るく言えました。なんとかなる...なんとかなる....だが....23日は近い...練習はどうする....どうする...



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   今日は幼稚園の語り、おかあさんと園児のための語りでした。地球温暖化についてのオリジナルの童話をつくろう...それはLTTAの授業でもつかえるしと思い、アマゾンに頼んだ本や資料が届くのを待ったのですが届きません。ネットでの発注はボタンひとつ押し忘れてもだめなのできっと押し忘れたのでしょう。

   会報の原稿を書いていたら30分前になりました、さて、なにを語ろうか...幼稚園の希望は親子の心あたたまるおはなしでした。思いつかないのでパソコンをちらちら見て、しばらく語っていないおばあさんと怪物のおはなし、ホラ たまごとぞうきんと棒と石臼が助けてくれるさるかに合戦みたいなおはなしをすることにしました。それからソーディーソーディーをおかあさんバージョンでしようと思いつき、ピンク紫系の民族衣装?に青いイヤリングをつけてでかけました。

  幼稚園の先生のご配慮で馬蹄形に椅子がならべられ、お母さん方が子どもたちをだっこしています。なんというあったかなやはらかな雰囲気でしょう。たのしいお話会でした。とんでもないところでおかあさんがゲラゲラ笑ったのですがどこだったか覚えていません。芸人としてはまだまだです。月曜日、火曜日に他のクラスがあるのでもっとパワーアップしましょう。みんなが好きな黒い長い魔女のマントを着てゆきましょう。

  そのあと、文化会館の広い駐車場でマリアの練習をしました。わたしは車の中で泣きました。なぜ、わたしは泣くのだろうと自問しながら.....今のわたしにマグダラのマリアを語ることは必要なことだったのです。語り手はだれしもそのようなものがたりを持っているのではないでしょうか。.........。

  ひとはたくさんの傷や忘れがたい思い出を抱いて生きています。なかにはひとにいえない薔薇の下で語るような秘密もありますし、自分自身では気づかない傷も負っているのです。わたしはニコラエフスクの雪がとても好きでした。なくなられた方への鎮魂のものがたりでありながら、のちのひとに生きる勇気を手わたすパーソナルストーリーでありました、うつくしい叙情のものがたりでありました。パーソナルストーリーでなくても語り手はものがたりにことよせて自分の痛みやかなしみを雪のひとひらひとひらのように手放してゆきます。それもまたうつくしいこと、ひつようなことだと思います。

  今になってはじめて、わたしは昨年のコンサートでいただいた、重い...ということばを微笑みながら、まっすぐ受け止めることができます。語りは娯楽かもしれません。今日 幼稚園のおかあさんや子どもたちが笑ってくれたように、楽しくて時間を忘れて、浮世の憂さを忘れる語り....をみんなは待っているのかもしれません。

  けれど、わたしはものがたりには語るべき時とどうようにそのものがたりを聴くべき時があると思うのです。ヨーロッパでは呪術と祭祀がそしてギリシャの四大悲劇が悲劇の原点でした。ひとびとは悲劇に泣くことでカタルシス(浄化)を得たのです。死はその中に再生の契機を含む。この観念が古代ギリシアにおいて悲劇を生み出したのだといわれています。再生のために悲劇は必要だったのです。

  世代においても違いはありましょうが...。おだやかな癒しも、くすり笑う小噺も、抱腹絶倒のハチャメチャもみなあっていい。先日聞いたおはなしがあります。戦争体験、わが子をなくした悲しみを戦後60年語りつづけている方がいます。その話を聞いて腕白な五年生の男の子がボロボロ涙を流して泣いていたそうです。語るべき話をつらくとも語りたい、つらくとも聴きたいと今のわたしは思います。

  一方喜劇は単独ではありませんでした。ダンテの神曲の原題が神聖な喜劇といったように悲劇から派生したというひともいます。芸人は自分を笑えなければできないし、自分を笑うという行為は自分を客観的に見ることができなければできません。積極的に笑わせるのはそりゃ なまなかのことではできません。いつかそうできたら今世ではむつかしいかもしれないけれど。

  そして、きのうのワークショップでやまもとさんが芝居と語りの違いについてふともらした、即興ということばがこだましています。演劇をとおして感覚と身体、身体と心のつながりを、ことばの意味 サブテキスト、セリフのうらの意味を知ることには意味がある、人物の目的を知るのは深い意味がある。しかし語り手のわたしにとって芝居のしばりはやはりつらいなと思うのです。きっちり覚えたうえで演出家の意図に従ってそのなかで自分のなかにあるものを役の手がかりにしてゆく芝居と、語りはやっぱり違います。語りはもっとやはらかな即興にちかいものです。これだけでもまずいとわたしの直感が囁きます。演劇のメソッドだけでない語りのためのメソッドは自分の身体をつかって自分で構築するしかありません。それをひとに押し付けるつもりもありませんが心の通じるひととわかちあいまなびあってゆきたいと思います。語りの本義はとのさんが書いているように「魂をゆさぶり、魂と交流し、魂を鎮める」につきますし、すべては..発声も身体と感覚の鍛えもテクニックもそのためのものにすぎないことを忘れてはならないと思います。

   マリアについて残りの時間のなかできっちり構築し完璧をめざすのは無理があります。もしや失敗するかもしれないが、テキストから離れてもいい覚悟を持とう。自分をゆだねてみよう、投げ出してみよう....ゆだねきることができるかどうかわからないけれど...。そのときなにかが見えるかもしれません。

  つぼみがほのかに染まってきました。もうすぐさくらが咲きます。この世でいちばん好きな花 さくらが....。



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    きのうのやまもとのりこさんのワークショップは素晴らしかったです。すべての参加者に同じことが通じたとは思いませんがそれぞれの参加者ひとりひとりが、自分がこうだと思い込んでいたことが実は違っていたかもしれないことに気づき、またこれでよかったのだと背を押されたと思うのです。やまもとさんはご自身を先生ではなく伴走者である、いはばアスリートのトレーナーであると言います。やまもとさんがプロだなぁと感じるのは参加者を見て、参加者ひとりひとりに何が必要か知ろうとし、できるかぎりの助言を、身体をとおして伝えようとすることです。そのために人数は大切な要素です。30名では30名なりのことができますが、16名から18名がいいかな...上級では8名くらいがおもしろいでしょうね。

    今回の参加者は演劇畑から6.7名、語りから10名、読み聞かせから1名でした。腹式呼吸についてさまざまな考えがあるがわたしは腹筋を鍛える必要は感じませんと明言され、身体の構造上から発声のメカニズムを伝えてくださったのは語り手たちの会と同様でしたが、今回は専門の演劇畑からの参加者もあってか、ことに最後の五分が圧巻でした。

    芝居とか語りをするうえでもっとも必要なことが語られました。最近見た演劇のなかから、ある女優さんにふれられ、全身がピンクに染まるような演技、そしてそれが真っ白になるような演技と賞されました。わたしは目に見えるような気がしました。

    いくつかのいい質問がありました。たとえば仁王さまの声をだすときどうしたらいいのでしょう....答は仁王さまになればいいのです....ノドガイタクなってしまうのですが....それはなりきっていないからです。身体の内側からおきることを大事にする....それがことばを変える....つくるのではないということです....そのために身体の外側の障害になることをとりのぞく....ヒントはたくさんあります。気づいて...気づいたら....どうするか...次回はどうなるでしょう....参加者はどう変わってゆくでしょう。...そしてわたしは....。



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   ビウエラレッスン 水戸先生とわたしの演奏の違いは?と訊いたら先生はわたしの真似とご自分の続けて弾いてくれました。「ホラ、あなたのはポキンポキン切れてしまうでしょう? 余裕がないよね」「....では、どうすれば先生の演奏に近づけることができあすか?」一瞬待って 先生はいいました。

   「音を聴くのです。音が響く...それを聴いてから次の音を弾く」
そうか、語りとおなじだな...と思いました。ことばが聴き手の心に響くのを感じてからつぎのことばを語る..勝手に進まない。...それから音を聴きながら弾いてみました。さっきとはずいぶん違います。

    こんなことだったのか...実に簡単な自明のことなのにまったくわからなかった...弾くことばかりに気をとられていました。やにわに「先生 プロってなんでしょうか?」と訊くと「わたしはプロですが??」「そうです、先生はプロフェッショナルにとって一番大切なことはなんだと思われますか?」「わたしは演奏家ですから、聴いてくれるひとに感動してもらうことです。」

    MHKの番組でイチロウ選手はプロフェッショナルとは圧倒することだと言いました。将棋の羽生さんは揺るぎないひとだといいました。みなさんに共通するのは持続する情熱、ほんとうにたいせつなものを信じつづけ、たゆみない努力を日々続ける、今日よりも明日、明日よりもその先と続けることのように思います。

    一日10分の練習ができない自分をわたしは恥ずかしく思います。これから30分、いや10分でもいい、真摯といえる努力を続けてゆけば、残された時間のなかでどこまでか行けるような気がしました。




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   きのうのブログはホテルのロビーで時間に追われながら5分100円のPCで打ったせいかミスタッチが多くて申し訳ありませんでした。丸々三日家をあけたわけですが、この三日で目の前の扉がひとつ開きました。「さがし求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。門を叩きなさい。そうすれば門はひらくでしょう」イエス・キリストのことばはまこと真実です。....この間いちばん手にした資料は聖書と外典(マリアの福音書、トマスの福音書など)でした。語りをしていてほんとうにありがたいなと思うのは、力足りないまでもものがたりとがっぷり四つに組むとかならずそれだけのものが返ってくるということです。

   今までもそうでしたが、このたびのマグダラのマリアについてはひときわ深いものがありました。わたしの周辺にまた援助してくださる方々の周辺につぎつぎにさまざまなことが起こったのも無関係ではないように思います。わたしはチャンスを、これまでの方法、スタイルそして生き方さえ見直す大きなチャンスをいただいたのでした。そのことにようやく気づけたことをうれしく思います。

   たとえば、語りにおいて、いままで自分が営々とつみあげてきたもの、語りのスタイルやエッセンスでさえうしなったとしても悔いはありません。これまでのつながりや居場所にも未練はありません。清算の時、余分なものをそぎ落とすリセットの時がきたのでしょう。家庭においても会社においても失うことを怖れては果敢に進むことができようはずはありません。両手がいっぱいになっていてはあたらしいものがどんなに輝かしくても手にすることはむつかしい...失わずして得られるものにどれだけの価値があるでしょう。たとえ痛みを伴うにしても、よしや手にするものが思いのほか貧しいものであったとしても、わたしはよろこんですべてを受け止めましょう。そして不要なものを振り落としたときがわたしのあたらしいスタートです。

   きのうまとまったばかりのマグダラのマリアを語ったとき、不覚にも涙を抑えかねました。わたしはこれからも女性の生を語ってゆくでしょう。雪女、芦刈、つつじの娘、そしてオリジナルのおさだおばちゃん、立っている木、雪・母・櫻、弥陀ヶ原心中、両腕に花をいっぱい...と語ってきたように、子どもたちに語るおはなしとはべつに自分のいのちと呼応するものがたりを語ってゆくでしょう。それはまだ光の語りにはならない途上のものかもしれません。語りにしても他のものにしても、今わたしがたしかに手にしている以上のものを差し出すことなどできないのですから...。けれども 同じ時代を生きている女性のすこしでも背中を押すものでありたい、うなづいてくれるものでありたい、語りとしての完成度よりそのことをめざしたいと思います。

  家族とまことの友、まことの師がいれば、たいせつな絆があればなにをおそれることがあるでしょう。垂れ込めた雲のうえには光があふれています。絶望の闇があってはじめて希望の光にふれ 微笑むことができます。世界もまた曲がり角を迎えようとしています。日に月にあらたないのちを生きられますように、どうかよい旅だったといえる日がきますように。みなさまの旅もよい旅でありますように....。三月三日、おみなの祭り、ひいなの祭りはかつて一年のつつみ気枯れを祓い、すこやかな一年を祈る日でありました。遠い昔、水の神瀬織津姫とえにしのある日でもあったのです。

      


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   今グランドパレスホテルにいます。これから帰ります。マグダラのマリアのシーンは一月クローズまぎわのカフェであっというまにできたのですが、マリアを語るためにはイエス・キリストの生涯を語る必要があるのに気づき 一ヶ月手をつかねていたのです。

   資料を持ち込みどうにかかたちになりました。昨日の午後はLTTAの仲間たちと3/15のためのうちあわせをしました。新宿の椿屋珈琲店というすてきなカフェでした。喫茶店も文化ですね。いい喫茶店はあしたにつづくなにかを生み出します。集ったひとたちがその場の空気から醸し出されるものと反応してあたらしいつながりが生まれ道がひらきます。

   今回は環境問題の授業なのですが、LTTAのメンバーは世代がひとつ下であるのとそれぞれ仕事を持っていることから感覚的なものだけでなく論理的実際的にはなしが運んでとてもおもしろいです。そのなかでも役割があって、分析する、展開する、総括する、ひらめきをキャッチするなどのセンスのうちそれぞれの得手がよく見えます。グループでなにかひとつのことをするのはうまくいけば非常に愉快です。ダイナミックにどんどん新しい考えが展開してゆきます。語り手同士は話術がたくみでおもしろいのですが、結論まで時間がかかるところがあります。感覚的なものが溢れてきて、収集するまもなく世界が拡張してゆく感じです。そしてわたしもそうですが、思わぬ細部にこだわります。右脳と左脳のバランスの問題なのかもしれません。

   新宿の西口から東口へ、それから九段下に戻るまで1時間もかかりました。...でも1時間も歩けるようになったことがとてもうれしい...。町は週末の雑踏でかきわけかきわけ人の波をあるきました。喧騒の町、奢侈の町、消費の町、コスモポリタンな町、声高に中国語が行きかい 托鉢のお坊さんの念仏がひびきます。うなだれて路上にすわる家のないひともいます。2012年には日本で深刻な水不足が起きるという試算があります。食料危機も秒読みのようです。そんなことはまるで別世界のようでした。

   友人のAさん ありがとう! あなたのおかげで目がさめました。おっしゃるとおり わたしは語りたいのでした。他のことがなんだというのでしょう。なにがおきたところでどんな邪魔がはいったところで語りましょう。今はそれだけです。さぁ うちへかえりましょう。



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