遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



   長いこと迷っていたのがとつぜん視界が開けた(ように思う)。まだ半信半疑である。なにをしたかったのか 道はいつも目の前にあってはるかに見晴るかすことはできたのだ。ただ方法がわからなかった。

   8月 金沢に行けたら行く。もう申し込みは済んだ。7月の講座も申し込んだ。靄が晴れたので 心も明るい。朝 とつぜんに「まぁるいおはなし」ができた。あとふたつ候補があったのだか まぁるいおはなしをパネルにしてみよう。ついでに「森のおはなし」もできた。これをシリーズにしてみよう。

   ガロに行く。カット パーマ カラリングで5時間の行、あいまに鏡を見ながらあしたのおはなしの総ざらい  ボリュームだけ落として全開に近く語るから はたから見たらちょっとひくかも。1回でおしまいにして からだを寛がせ こころを遊ばせる。インターンさんたちと幽霊話しや仕事のことなどで盛り上がる。若い女の子に「この仕事でなにがいちばんたいせつだと思う?」と聞いたら ただちに「カウンセリングです」ということばが返ってきた。なんと賢い子だ。



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 カウンターの隣に友がいて ともにワイングラスを傾ける。 こんなときは夜の鏡に 自分のほんとうのすがたが映し出される。あぁ そうだったのねと思う。まっすぐ帰る気になれなくて TOMORROWのドアを開け ぼうっとしていた。煤けた灯り流れる音楽 窓際には30年前のわたしの影も所在なげに座っている。

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   今日 カタリカタリで「つつじの娘」を語ったのだが なにか違和感があった。 どうしてだろうと考えていたら 聞き手に向って語っていなかったことに気づいた。アイコンタクトもせず 霧のなかで語っているようだった。聲が流れ 自分のなかでは明確なイメージが浮かんでいる。たぶん わたしは自分に語っていたのだ。こんなことははじめてだ。電車のなかで呆然としていた。

   3年前、まつたにさん再話のつつじの娘を語ったとき聞いてくれたひとがいて 「あのときはすさまじさがあって とても子どもたちには聞かせられないと思ったが...今度のは..」という。わたしもこのあいだまでつつじの娘はおとなの物語だと思っていたから子どもに語ろうなどとは努々おもわなかった。...気持ちの流れでどうしても納得いかないところがあって 自分で再話してみたけれど こんどは自分の再話のなかで一箇所半 気になるところがある。そのひっかかりが消えれば小学校の高学年には充分 聞くことのできるものがたりと思う。

   ちかごろ プログラムを立てるとき 滑稽なお話とシリアスストーリーやドラマティックな物語とあわせるのはそぐわないという意見にあって わたし自身は「語り手たるもの 聞き手をものがたり世界に誘えないでどうするの」 と懐疑的だったのだが たいていのひとたちはバランスを中心に考えてプログラムを立てているらしい。

   朝から原爆の話を子どもたちに聞かせて(子どもたちの心をざわめかせてということ?)いいのですか という質問があり わたしは 朝の時間しか許されていないとしたら そのなかでどうしても伝えたいものがたりを手渡さねばならない。昔話のとっぴんしゃんのように 子どもたちを物語世界から現実に呼び戻すため 詩を語って鎮めるようにしていますと答えた。このあたりは考え方ひとつであるが 聞き手とは一期一会であるから わたしはどうしても伝えたいものがたりを先に語りたいのだ。

   カタリカタリのなかにも 語りはほとんどせず 読み聞かせを中心に つまり本こそが...というメンバーもいる。わたしは本に埋もれ少女時代をすごした。だが もしそのときすばらしい語り手にであっていたらどうであったか? すこし違う人生を歩いてきただろうと思う。もっとひらいて もっと自分を信じ もっとひとを愛してこられたのではないか。人生の早い時期に。


   語りの豊穣な歴史に思いを馳せるにつけ 古来からの語る力 ものがたりの力を復活させなければ...と切に思う。なんと遠い道のりだろう。そしてその道を歩くことは自分自身を知ることなのだ。究極ひとりぼっちの道。今日も先生は日本のあちこちを飛び回っている。ネットワークの怖いおはなし会をカタリカタリのひとたちに紹介するためにプログラムを見た。出典がみな本なのだ。すこしさみしい感じがする。カタリカタリの怖いお話会はそうはなりませんように。...そう読み聞かせのときでも子どもたちの心を揺さぶる本はあるでしょう? そういうときはどうしているのだろう? 子どもたちのこころを呼び戻す工夫はしているのだろうか?

   7/1の中野のために今日のカタリカタリでパネルシアターのヒントを貰おうとしたが 甘かった。道場で天啓のようにひらめいた青い空。朝 前回のつつじの娘より切なかったというメールをもらって少しほっとする。語りは本来 インプロビゼーションである。それを学ぶには感性を研ぎ澄まさなければならない。そしてその状態はとてもイタイ状態なので 実際の生活と線引きしないと 苦しいものになる。本来のウソでない芝居を学ぶことはインプロビゼーションとしての語りを研ぎ澄ますために役立つのではないか。もしRADAの講座が空いていれば申し込もうかと思う。そして星の友人から紹介してもらった先生の門をくぐること。7年目にさしかかろうとする今 大海に向けて舵をとろうとしている。とりあえず....






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    朝 ガレージの車のなかで先生にTELした。なつかしいお声にすこし泣いた。今日は峠である、今日を乗り越えればすこし楽になる。中野の図書館のおはなし会のことも考えられるだろう、あすのカタリカタリの例会も、7月のおはなし会のプログラムも、社内のシステムの補完もなにもかも。

    娘の再出発のために いくつか可能性をさぐってみる。それから 今日の打ち合わせの準備をする。加須チップ工場の三年間のバランスシートを見る。板倉炭化プラントにかかる固定費 そしてランニングコストを調べる。今更ながら仰天する。このブログそれから以前の日記 ’千の昼....’のなかからF機械との取引に関わる日をコピーアンドペーストする。某社の回答書を読んで怒り心頭に達する。なんという会社、なんという答。質問に対する答は全くない。その誠意のなさにからだが震える。このままでは友好的な話し合いは不可能と思い、料理屋に席を設ける。客観的にまたなごやかに話し合うために、ともに食事をとるのもひとつの方法だ。それからD部長に見せるために家のPCで板倉の写真やくだんの看板をプリントしたが、みな夕焼けのように真っ赤になっている。青いインクを入れ替えたばかりなのに まるでわたしの怒りと悲しみが表出したようだった。

    5時 某社 6名来社。 まず感謝状とともにもらった時計を見せる。はじめて見えたD部長のために当社の紹介と某社との長いつきあい、つねに某社の初号機を求め機械の改良の提言をはじめ、加須プラントを営業のベースに提供することなど販売のために支援を惜しまなかったことを語る。それから場所の移動をする。経緯とともに 営業のトークと実際との齟齬についていくつか説明する。日記が役に立つ。


    譲れない点は三つ ①炭化炉の能力について 50~60K/Hの処理能力ないと商売にならないと再三営業に話している。営業は50~60K/H出せるという。そこで買ったところ 買った後では25K/Hでないと保証できないという。これはどうみても詭弁である。②埼玉で100%許可になるという話しだったので 加須に架台をつくったところ、埼玉では許可が下りなかった。この架台をつくり また撤去する費用を折半してもらいたい。 ③口銭の件
その他こまごまとしたことも含め 営業トークと実際とのギャップがあまりにも大きかった。

    食事をしながら あらかたなごやかに話は進んだ。同年代の方それも東北出身の方がほとんどで 小学校の給食の思い出などで盛り上がったりもした。こちらの回答を伝え コーヒーを飲んで 次回の約束をする。強く要望するのも 炭化炉を製造する某システムズ 販売する某社 もろともにこの炭化炉の特性 優位性 また弱点を知って 社会に役立つ機械へと脱皮を図るための礎にしてもらいたい一念である。未来の子どもたちのための環境保全を力をあわせて荷ってゆきたいという熱い思いである。次回は7月8日にうち合わせを決めた。

    さぁ あしたへ一歩だ。




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    朝 息子を起こし お嫁さんを起こしおにぎりをつくらせ送り出す。夫を病院に送る。会社で仕事をする。川越に行く。先生から宣告みたいなこと。娘と元気を取り戻す。ともかく自分の間違いに気がつくのはいいことだね。ほんとうにたいせつなことにきづくのはしあわせなことだね。たとえ ときには後戻りしたっていいじゃない。からだが辛いのは自分を無理なかたちに押し込もうとしているから。自分がすべて正しいわけではないが かといって社会がすべて正しいわけでもない。生まれてきたことを愉しみましょう。からだじゅうの細胞が息を吹き返すように力をぬいて自分の生きる力を信じましょう。

    会社で会議、部門の長に部門会議をまかせる。配車の責を持たせ 売りあげ予測による配車と売上が足りないときの手当てを求める。仕入れ業者の評価 仕入の際 二社以上から見積をとることを求める 受注報告が起きたら 担当を決め 担当は日報入力と仕入れの責を負う。全員が日報を書くこと。

    プロジェクターを買った。これで会議がより有効になるでしょう。おまけにA4のカラーレーザープリンターをつけてもらった。その苦労人の営業とさまざま話をした。かなり感動的だった。

    あたりまえのことをするのはたいへんである。 さあどんどこ行きましょう。金沢のワークショップに行くことを夢見ているわたし....さぁ どうする!?




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    ワークショップを調べていた。セラピーとしての芝居を学びたいと思ったからだ。だが、だが、わたしのほんとうの気持ちはそんなことではないと思い知った。嵐が駆け抜ける。わたしは芝居がしたい。芝居がしたい。芝居がしたい。ほんものの芝居がしたい。語りよりなにより 舞台のうえで刹那を生きたい。喝采などいらないから、ライトよりはるかにあかるい啓示に貫かれて束の間耀けるものなら....。ラダのワークショップがある、たくさんのワークショップがある。芝居をするには病の夫や子どもたちや会社やみんな放り出さなくてはならないから それにこの肉体 この年齢 無理なのはわかっているのだ。けれども。


    ハナダイロを聞いた。歌ってみる。透明とかつやとか失ったかわりに 元ちとせさんはほんものにすこしちかづいた。ことばと聲とこころが重なっていて揺るがない。青のレクイエムと語り継ぐことがいい。語り手のための歌のようだ。こういうことなのだ..響くということ 韻くということ。一年休んでしまった発声のレッスン 半年休んでいるダンスのレッスン 身体が乾いた砂漠みたいにさみしい子どもみたいに欲している。トキハナタレタイノハ ジャグチカラホトバシルミズナノカ カワイタスナナノカ





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   朝 本町小のおはなし会があった。予定がはっきりしなかったので プログラムを考えておらず 朝 ノートを見ていままでのおはなしを確認して決めた。今の語りの予定では一クラスを二年に一度しか回れない。それで語る内容も決まってしまう。学年で語るおはなしをおおよそ統一しているので それも語り手としては若干のストレスになる。おなじおはなしばかりつづけて語っていると飽きてしまうからだ。ほんとうは その日の風のいろとか 聞き手のみなさんの顔色とか、季節とか その日の匂いのようなもので おはなしを決められたらいいのにと思う。

   4年生は2クラス?3クラス?  夏がきたことから「わたしがちいさかったときに」を語ることに決める。..それからと考えて コカのカメを最初に持ってくる。子どもたちは 最初 恥ずかしそうにしていたが いっしょに手拍子をして歌ってくれ 楽しんだ。 ...60年前の戦争のことを話したとき 戦争があったことを知らない子がいて驚いた。まっすぐなまなざしが魂のこもった目がわたしを見つめている。このために語っているのだ。1クラスで3人の子どもの魂に刻印を残せたらそれでいい。

   自分の語りについてこれでいいのだろうか この語り方で? というかすかな不安がつきまとって離れない。3年前ディアドラのとき かけつけてくれた役者で友人のjunさんがわたしの語りの魅力はひとことでいうなら 不安定さにある...といった。それはいかにも的を得ていた。ディアドラのときは テキストが前日まとまったばかりでもあったのだが 揺らぎという 意味でも未熟...という意味でもわたしの語りは不安定であったと思う。 わたしはそこから すくなくとも 未熟さからは脱却したかった。この三年の努力が実ったかどうかはさだかではないが 人生のうえでいくつか峠を越えたことから 断固としてまた決然としてきたことはたしかであろうと思う。...不安定な魅力にかわるものを果たして得たのか ずっと聞いてくださった方にしかわかるまい。

   それでも これがいまのわたしの語りなのだ...と思う。悩んでも仕方がないではないか。このまま進むしかないのだから...。今日はおはなし会のあと 電車でいった夫の後を追って 栃木の病院に行く。戻ってから事務所でしごとをして また夫とともに板倉に行く。一日200キロを走ったことになる。病院での託宣はわかってはいても衝撃で すこし無口になった夫にこころを添わせていた。こうして 寄り添って生きてゆこう。ふたりしての目指すもののために...そうしてわたしは もうひとつわたしの目指すもののために耳を澄ませ 心を澄ませ 目を見開いていよう。



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   ルイの一歳の誕生会 ルイは一貫の餅を背負い 三歩 四歩歩いた。泣きながらではあったが、たとえ泣きながらでも 食ってゆければそれでよい。・・・この日を境にリサとルイは帰ってくるという。この一ヶ月 疑心暗鬼であったし 別れをわたしも惣も覚悟していたから 狐につままれたようである。ふたりのあいだはまだギクシャクしているのでなにかにつけていさかいが起こる。心配で結局 アパートに夜中近くまでいた。ルイは重くなって 表情やしぐさが豊かになりカタコトを話すようになった。抱いて公園まで行って 鳥や花を見せる。おはなしをする。眠ってしまう。惣の幼いときのような巻き毛がくるりと汗ばんだひたいやうなじに揺れる。


   夏のセミナーとワークショップを二件申し込む。語るということを要素にすれば 語るための身体と魂 語るためのスキル そしてものがたり...だろうか。たとえばわたしが河をわたってしまえば わたしの語りは跡形もなく消えてしまう。語りは残してはいけない 他のひとが真似できない そのとき限りの芸なのだ。だから語るという行為は極めて個人的なものだ。

   身体は鍛えることができる。スキルはUPできる。ものがたりは出会いであるが磨くことができる。夫 子どもたち 会社 語り そしてもうひとつ、マジであしたから また はじまる はじまる。



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    元ちとせさんは 踊りながら歌っていた。素足でリズムを踏んで 一時もとどまることなく軽やかに踊りながら 歌っていた。 中野サンプラザでわたしはあっけにとられ娘と見ていた。あれだけ激しく踊りながら 音程は揺るぎだにしなかった。 最初のころはバック演奏の音が厚すぎて 耳にわずらわしかったが 徐々に その聲 ことばがわたしを揺さぶる 青のレクイエム 燃えた女の子 語り継ぐもの 元さんのからだと魂とことばと歌がひとつになる。とよもす波になる...でも完全にわたしを浚っていってはくれないのだ わだつみの底につれていってよ 紅いほのおで焼き焦がしてよ 空の青にそまるまでもっともっと....

    マイクなしのはだかの素の聲で聞くことができたなら....あぁ 聲だ 聲なのだ...どうしたら....どうすれば。


もう ひとつ 気づかせていただいたこと  元さんは何度もことばにし語りかけた 「わたしが歌えるのはみなさまのおかげです ほんとうにありがとう」
 ...わたしは忘れていた、しだいしだいに語る場が広がってゆくうちに 語れること、語りの場をいただいていることのありがたさをわすれかけていたのだ。

    むかし めったにこない出番を待ち望んでいた。7分の語りに命をかけていた。その気持ちを忘れないようにしよう。語りの場はわたしが勝ち得た場ではなく 天から与えられたのである。その場をつくるために 先生やスタッフや多くのかたがたの力が働いているのだということをわすれないようにしよう。




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    縁戚の葬儀があった。亡くなった方は従兄の妻の母である。遺影は色とりどりの花々に埋め尽くされていた。この方とは一度だけ おはなししたことがある。気丈な明るいたぶん自分の意思を押し通す だがあたたかい方だったと思う。結婚式同様 葬式もひとの生き死にを思うよすがになる。小さな掌をにぎりしめて赤子は生まれ その掌を組まされて ひとは旅立ってゆく。そして河をわたる。

    わたしの母も わたしもわたる。喪主はしっかりと計算高い商人であったが鼻水をたらして泣いていた。いつもの怜悧とは打って変わったその姿にわたしはこころを動かされた。わたしは祈った。幽界に無事に旅立たれますように あの世で神様におつかいいただけますように ほんとうにおつかれさまでした。ありがとうございました。

    朝 起きて 浦和の道場に行くまでのわずかな時間に つつじの娘のテキストを打った。語ってみる そしてテキストとして記録する 語ってみる そしてまた....九代目団十郎の芝居は一度とて同じではなかったそうだ。比べるべくもないけれどわたしもそうありたい。よくなっているかは別だけど 生きてひとに会いひとを見送り 愛しときには憎みもしたら 日ごと夜ごと糸車をまわしていたら おなじことばでおなじように語れるはずはない。





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   ものがたりは事実ではない。ではウソかというとそうでもない。モノがたりは真実を伝えようとしているからである。事実や現実の反対は虚構である。が真実(ほんもの)の反対は虚構ではない。虚構とは真実のような構えだから虚構として成立する。芝居やものがたりにおいて真実は虚構をとおして見えてくる。モノは見えないモノの謂いである。見えないモノは事実ではないが真実である。

   語り手は 虚構であるものがたりを語りつつ そこに真実を呈示しなければならない。あたかもそこにあるごとく語り 聞き手を没入させ聞き手に真実を感知させ魂の震えるような喜びや悲哀を また心振るう楽しみを手渡さなければならない。

   ではライフストーリーはどうだろう?ライフストーリーは事実である。しかし事実ではあるが ありのまま生の事実をずらずら述べただけで ひとのこころにひびくものではあるまい。一旦自分から出して構築しなおすことによって モノカタリとしての力がいや増すのではないだりうか。あぁ 眠くてもうだめだ。

   今日は打ち合わせが二件 ランチと夕食をそとで食べたのでおなかがいっぱい....

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    朝 おはなし会 午後から板倉打ち合わせ 加須によってお誕生日のルイと対面 だっこして 夜宝塚へ行く。和央ようかさんと相手役の花総さんのお別れ公演なので 披露宴なみの盛装でいったら駅の階段で何度もスカートの裾を踏んでしまった。

    スペイン内戦、報道カメラマンが内戦の真実を伝えようとする。彼は「あなたと同じものを見たい」といってくれた女性劇作家とスペインで戀に落ちる。 自らを根無し草(デラシネ)と自嘲していた彼だが スペイン人におまえたちは外からきて写真をうつしまた帰ってゆく人間だと詰られ 最後は銃をとってともに闘い 死んでしまうというおはなし。

    よくできているのだが 内戦のどろどろを宝塚的小綺麗さでやるのは無理がある。宝塚は歌舞伎とおなじ「型」の芸なのだ。男役がどうすれば端正に美しく、女役がどうすればたおやかに美しく見えるか 極限まで考えられている。それはジャニーズのみなさん方の比ではない。 和央さんときたら8等身どころではないし、決めの立ち姿の一瞬一瞬が目を見張るように美しい。しぐさのひとつひとつ髪をかきあげる 視線をそらす 肩をそびやかす...そして手の表情がこよなく美しい。花総さんもこれほどうつくしいひとはそうは出ないだろうと思われる娘役なので、できればこのような中途半端なりアルな話ではなく大ロマンで終ってほしかった。

    宝塚でリアルな芝居をすると嘘っぽく見えるのだが うそにうそをかさねたような大悲恋はぜんぜん嘘には見えない。不思議な空間である。これはテレビやDVDなどの映像ではだめで 実際の舞台でしか起きないのは観客の夢を見たいという強い欲望も介在しているのかもしれない。テレビでは等身大のスターだが 板にあがったときのオーラのすさまじさは後光が射しているといってもいいくらいだ。美の美 なんの役にも立たない美 ただ観る者に日常の憂さや疲れを忘れさせ また歩き出す力を与えてくれるという大衆芸能の原点。語りだって高尚な芸術があってもよいが 見るひとがしあわせになる 猥雑な笑い話だってもっと復活してもいいのだと思う。

    いろいろ書いたがわたしが和央さんを好きなのはじつはその聲にある。男役なのにソプラノ のびやかな澄んだ聲がどこまでもどこまでひろがってゆく。空や風を感じる聲。

    ウソの嘘については また後日 考えてみたい。




    
    

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    小学校,6年生の朝のおはなし会でライフストーリーとつつじの娘を語る。ライフストーリーは「父の思い出」のバリエーション。トークもまじえて戀について。まっすぐな目がいくつか...このお話は女の子の心に迫るようだ。終ってもしんと物音がしなかった。※もうすこしことばを吟味する。 まつたにさんの文体がでてしまうが 語りを重ねてゆくうちにかわってゆけるだろう。

    校長先生ならびにA学級の担任(小沢先生の民話の会に入っていた方だった)と打ち合わせをして 9月から別途A学級ではじめることになった。わたしとしては一方的に語るのではなく いっしょに遊ぶ 簡単なエクスサイズをしてゆくかたちで様子を見ながら進めたいとおはなしする。

    さぁ 勉強しよう、簡単なカリキュラムを立てよう。

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   衝撃的なことがみっつあった。すでに折込済みといえばそうなのだが 目の前でことばとして聞くのは別である。ブログにはなにもかもは書くことはできない。

   すこしずつ前に進んでいる。F機械の機械担当のTさんがよくがんばってくれた。おとといのわたしのことばを受けて 過負荷がかかったときに 警報がなるまた非常停止するような設定を考えてくれたのだ。あたりまえといえば あたりまえだが そのあたりまえができてはいなかった。そして 取り扱い説明がわかりにくいに対して 作り直してもくれた。双方のためにとてもよいことである。

   能力により適材適所で配置するのが鉄則だが 中小企業ではそこまで力がなくても任せざるを得ないことがある。一挙に伸びるひともいるのだが 任せすぎる弊害もあって 板倉でもそれが大きな問題だった。力量の把握 管理 そして新たな目標を建てさせる 評価 この連鎖がないとひとを育てることはむつかしい。夫は夢見るひと 牽引者であって 管理者ではないこと、社員についてその力量のすべてを把握しているわけではなく また会社のシステム上管理にはいささか問題があることがよくわかった。それぞれの立場、役目、得意分野があり至らざるところを補うのがわたしの役目である。システムの足らざるところは補えるが そこに魂を入れられるかどうかが問題である。




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    朝のつづき...

    「語っている自分」「誉めるにあたいする自分」が目的になってしまうことがある....ときのう書いた。誉められるのはうれしい。自分を認めてもらうことはいとうれしい...人間だもの。多少の自惚れも必要である。しかし それだけではないはず。このブログをお読みの語り手さんたちにとって語る喜びとはなんだろう?語る目的はなんなのだろう?

    語ることでのわたしのいちばんおおきな喜びは聞き手との交流ではない。それはおおいなる喜びであるが.....。わたしのひそかなもっとも深い喜びは語ることをとおして つかの間 この世のなりたちの秘密というか 永遠というか 真実というのか 彼岸というのか....ともかくそれに魂がふれること 閃光のようにまたあたたかな波に抱かれるように ここにいていいのだということ なにもかも意味があるのだということを知ること そして燭台をかかげて暗いレテの河を照らす手のひとつであると知ることである。 
    
 では 目的は...? 天と地、ひととひと、過去と未来をつなぐ語り手という役目をとおしていのちを磨くこと。さだかではないが..賜物としか思えぬその深い喜びがあり...語りを聴くこと語ることでわたしのいのちがよみがえるのであるなら そう遠くはないように思う。


    

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