遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   もう書かないといいながら いまだに書き続けている...おかしいとお思いでしょう? 自分でもおかしいと思うのだが 伝えずにはいられない。一昨日から彩の国ビジネスアリーナに通いつめている。埼玉県の広域商談会 主に製造業中心のたしか600のブースに県内外の会社が出展していて うちの会社も昨年どうようブースを一コマ確保した。パネル作成 ちらし作成 段取りこれはわたしの領分なので三日間 ろくに寝る間もなかった。

   来年はもうやめようと考えていた矢先 出会いがあった。そのひとは旗を背中にくくりつけて 広い会場を練り歩いていた。ただ者ではないなと思ったとおり、ただ者ではなかった。その開き具合は180度開脚なんてものではなく 損を損と思わず自分の苦労して集めたノウハウを惜しげなく手渡すものはすべて手渡してしまうという見た目にはおばかだけれど 実はビジネスの王道を知っているひとだったのだ。

   なにとなく意気があった。彼とであったことでわたしは多くのヒントをいただき なお且つ 自分がまだ開ききってはいないこと 若干の姑息さもいまだ持ちつづけていることに気づいた。からだは疲れきってはいるが これからわくわくすることが待っているような気がしていまは充足している。リサイタルが終わったら ビジネスに邁進しよう。そして語ろう すべて手渡そう。

払暁 朝のおはなし会のために  ネットでペルーの昔話をさがした。6年生にはペルーからきた子どもがふたりいる。その少女は6月からおはなし会のたびごとにまっすぐなそれでいて夢見がちなひとみで瞬きもせずわたしの語るものがたりを聞いてくれた。わたしが彼女とクラスメートのために今日選んだのは お月さまに恋した狐のはなしだった。それからおさだおばちゃんを語った。命日が過ぎて間もなかった。女の子が三人男の子がひとり泣いていた。わたしもこの話を語ってはじめて泣きたい気持ちになった。泣きはしなかったけれど。

   余計なことだが つけくわえた。 たとえどんなつらいこと 苦しいことがあってもあきらめないでください。のりこえられないかなしみやくるしみはないのだから...。




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   お手紙 拝見しました。あなたのことを不遜なやつだなんて思っていませんよ。語りをはじめて七年 わたしもあなたとおなじようにずうっとあたらしい語りを求めつづけてきました。ですから おはなしのろうそくから覚えてそのままというような語りはしたことはありません。テキストのとおり語って そのなかになにを籠め得るかは大きなチャレンジですが より多くオリジナルに向かっていったのもそのあらわれと思っています。

   わたし自身は 語りを芸術だと思ったことはないのです。(芸と芸能と芸術はどう違うのでしょうね)ただ めざすものは不遜といえるくらい高くあります。聴くひとにオファーをあたえる語り手になりたい。より生き生きと生きるよすがとなるような語りをしたい。これから生きてゆくひとの根を揺り動かすような語りをしたい。いつかは聴くひとの魂が再生 活性するような語りがしたい。まず癒しがあって癒されて それはそのつぎにくるものではないかと思うのです。それこそほんもののjoy..だと思うのです。

   とても重い 荷の勝ちすぎる課題です。ですが 語り手となった以上 そこまでめざしたい。それは自分との不断の闘いになるのだろうと思います。霊 心 身体 を磨きつづけることでしか なしえないことでしょう。そしてそれはわたしの今 考える人生の目的とも重なります。自分を磨くこと 与えつづけること 楽しむこと 繋げてゆくこと。

   ひとにはそれぞれ より良く生きるための自分の課題を果たすためのそれぞれの方法がゆるされています。わたしの手に託されたのは語ること 会社のこと そして家族でした。わたしはいったいなにをしてきたのだろう。思わず背筋を伸ばさずにはおれません。...でも実は与える以上にいただいてきたような気もしてきて 申し訳ないなぁ ありがたいなぁ しあわせなことだなぁという想いでふるえるようです。

   このたびのライブは今までの自分をリセットして 前にもっと進むためにするのです。どうぞあなたも今までのように懇親の力をこめて 楽しみながら語りつづけてくださいね。そういう仲間が地上のあちこちでこころを熱く燃やしている...それはどんなに心強いことでしょう。そらの高みからどなたかごらんになっているとすれば 昏い地上に星がほのかにかがやいているように見えるかもしれませんね。あなたの旅もわたしの旅もそれからおなじ夢を持つ友の旅もどうかよい旅でありますように。


                                luca


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  琵琶奏者 中村鶴城さんのサイトから魂振り 魂鎮めということばを知ったのはもう幾年も前のことである。鶴城さんの平家物語のような悲劇語りから光明の語りへという想いは強く胸を打った。魂とは霊魂であり生命活力の根源である。魂振り 魂鎮めは古神道のことばで 魂振りは、魂を振り動かして、ひとの生命エネルギーを活性再生させることであり 魂鎮めは遊離しようとする魂を定着させることで魂振りの前提であった。つまりふたつでひとつなのである。  

  わたしは鶴城さんのいう天の語りができるような語り手になりたいとながらく思っていた。だが鎮魂ということばを誤解 すなわち今通用している鎮魂(レクイエム)と古語の魂鎮めとを混同していたように思う。前回のリサイタル 夏物語のタイトルは当初そのまま「天の語り 地の語り」であったが 天の語りたるものがたりに出会わなかったのと レパートリーになかったために 「夏物語」に落ち着いた経緯(いきさつ)がある。

  パーソナルストーリーの「おさだおばちゃん」や「立っている木」 それから「白い花を...」や「弥陀ヶ原...」広義の意味でのパーソナルストーリーは 語り手のわたしから見ればまた死者から見れば鎮魂になるけれど 語り手としての意識を変換すれば 聴き手にとって魂振りの語りになり得るのではないか。それは壇の浦や敦盛とは次元のちがった地の語りなのではないか...鶴城さんのいう....との対話に持ってゆけないこともないのではあるまいか。...きのう深夜 風呂に漬かりながら語りの練習をしていたとき ふとこんなことを思った。

  わたしは鎮魂の語りから 魂振りの語りへ方向を変えようとしたのだけれど ものがたりのジャンルをひろげる必要はあっても あとは語り手の意識がどこにあるのか どこに持ってゆくのかによるのだ。どこに光をあてるかによるのだ。たとえば 語りようによっては 聴き手をどん底に突き落とす笑話もある。おなじものがたりでも語るひとによって受け取るものが違ってくるのは 語り手自身の体をとおることでそのひとの魂のいろ 来し方 考え方がにじみでてくる...すなわち語り手自身が生をどう捉え なにをつたえたいかによる。なにを受け取りなにを差しだそうとしているかによる。

  だから当然おなじ語り手であっても三年前とそっくりおなじ語りができようはずがない。おなじようにしたつもりでも呼吸も間合いも目線もどこかすこしずつ変わっているはずである。まして おおいなる哀しみやよろこびを潜り抜けたり また目指すものにたどり着くとか なにがしかの発見があれば間違いなく その語りも変わっていよう。語り手と語りは離れがたく一体のものなのだから。

  さぁ そこで意識が変わることが ものがたりの質をどう変えるか。聴き手にどのようにつたわるのか 注意深く 観察してみよう。



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   朝 ネットでひとつの詩と出会った。その詩を暗誦しながら歩いていたら有楽町の周辺で迷子になり目印の銀座1丁目ウェンディーズを見つけたときには 11時になっていた。インプルーブの治療には少し遅れたが 30分も歩き続けられたことがわたしはうれしかった。

   施術していただきながら 院長と会話を交わす。「意識する」ということについて....院長がめずらしく躊躇い勝ちに「...わたしはそれぞれのひとが課題を持って生まれるのだと思います。生きているということ いのちを得るとはすばらしいことです。そのチャンスを楽しみましょう...」そのことばを聴いたときわたしはすこしドキリとした。今朝みつけた詩が伝えてきたことと重なっていたからである。

   ...貴方がみた夢は、わたしたちに何を伝えて来たか?さあ、いまその夢を語っておくれ。.....
   ....わたしたちが夢を見ていた時間、わたしたちは、同じ夢の源にいた。その大いなる夢の源は、わたしたち一人ひとりの個性と役割を知っていてそれぞれに合った夢をあなた方一人一人に託した....

   そして 課題とはそれぞれがそのひとしかできないことを為すこと、なにかに気づくことではないかと それは心の奥でわたしはずっと感じていたからである。インプルーブから出ると空はあかるくかがやいていた。都心とは思えぬほど澄んだ空だった。春の兆しを思わせる風に吹かれながら外堀通りを歩いた。はじめて訪れた八重洲ブックセンターはごくあたりまえの本屋だった。書架はわかりやすかった が店員の応対は事務的だったし あの本の森...に入り込んだような興奮と喜びが感じられないのである。なぜだろう...とわたしは考える...これは経営者の意識の問題かもしれない...ではうちの会社はどうだろう....一冊の本秩父事件の資料を抱いて京橋図書館をさがす。探しあぐねてサンマルクでコーヒーを飲みながら資料を調べる。

   夕方5時要町の大明に着く。リツコさんとばったり会って道に迷わずにすんだ。ワークショップは狭い部屋に20名ほどの若い人たちと年のいったふたりという盛況のうちに開かれた。わたしは背骨と関節を意識する..ということについて質問した。意識する背骨は背中なのか それとも身体の中心なのか 意識するということはそこにあると認識すればよいのか それとも改善する意志を持つことまでなのか...

   永実子さん(昴の演出家・講師)はわたしがびっくりするほどその質問と気づきを喜んでくれた。背骨=身体の軸 なのである。意識とはただそこに意識を置けばいいとのことだった。日常の行動における意識する...とは違ったレヴェルであるのかもしれない。そのあとのエクササイズは身体の関節の確認...それから身体の関節を自由に動かす..身体の中心のエナジーを末端まで伝える わたしたちはヒトデになる 音楽がかかる 四肢をくねらす 身体が熱くなる 夢中になって もうひとのこと気にしてはいない 音楽とエナジーに身をまかせる。

   そのあと感想を求められる ...解放 個にして全 天からのエナジー 楽 愉 透明 ...では それをひとことで言うと永実子さんは黒板に書く en-joy ....わたしは芝居はコレだと思います。...en...入らせる? joy...喜び...わたしは頭の芯を叩かれたような気がした。いのちなんだ いのちの喜びって開放し わかちあうこと ...身体は器...身体でしかわからないこと 気づけないことがある...器が変われば いのちの質もかわる 身体からはいっていけることもたくさんある。...語りも喜びでなければ..語り手にとっても 聴き手にとっても。 いのちをすばらしいものと分かち合い讃えること。生きることはときに哀しい。だが哀しみ苦しみがあってさえ いのちはうつくしい。ものがたりを透かして向こうにあるものを見る そのときどんな想いが満ち溢れるか。

今日の永見子さんのもうひとつのテーマは自分から離れる...である。台詞をいうとき自分から離れているか。その訓練のためにボールを投げながら台詞をいう。ふたりのエクササイズを見ていると まったく台詞が変わっていることに気づく。相手に届かせようとしている。...それから背後にプロンプに入ってもらい復誦する。ふたりの会話が自由になる。永実子さんはそれぞれの課題をエクササイズに取り入れ 気づかせようとする。最後にわたしたちふたりは頬をつけ相手の温もりを感じながら台詞を言うエクササイズ...わたしの課題のひとつは相手役との絡みである......相手の鼓動を感じる。会話があたたかみを持ち つながってゆく。


  だが 自分から離れるというのは語り手にとってそうむつかしくはないはずだ。ものがたりを生きる それは常日頃やっていることだから。


  自分を知ること 自分の身体 自分の心持を知るのはなんておもしろいのだろう。世界がどんどん拡がってゆくのを感じる。身体を動かしたい 関節を動かしたくてたまらない。風は吹いているが..問題は山ほどあるが わたしは愉しむことにしよう...あたえられたすべてを...こころゆくまで。腕をひろげ風に向かって歩く。


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   語り手たちの会 30周年記念企画の一環 松本永実子さん(劇団昴演出家) やまもとのりこさん(プロのためのヴォイストレーナー)のワークショップ きのう一日で 30名定員のうち9名が埋まりました。前日 オリンピックセンターで宿泊枠10名とってありますから 希望者の方地方の方もどうぞお早めにメールでお申し込みください。会員4000円 会員外5000円です。目からウロコのワークショップであるばかりでなく シアターゲームはおはなし会で またストーリテリングの勉強会を主催している方にもとても有効です。

   のちに30周年記念企画の驚くべき全貌をUPさせていただきます。すべて会員外の方も参加できます。これを機に会員になられるとお得かもしれません。

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