遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 午前 ルイと遊ぶ。おはなしをするようになった。よく動く子である。可愛い。午後から事務所で働く。送金ミス80余万 組戻しで戻してもらう。ヒヤヒヤである。身を入れて働くと爽快である。日報作成。夜 会議。入出金シュミレーションを見て少々がっかり。惣のアパートに夕食をつくりに行く。材料がないのでロコモコ丼とおみおつけ。語り「遠い聲」(仮題)テキストできる。「隼別皇子」の資料収集 うまくすれば あす テキストができるかもしれない。

 カタリカタリ 櫻井先生のワークショップ 語る喜び聞く楽しみ Ⅱ (幼児に語る/昔話の原型)3/16(金)決まる。バリバリ行きましょう。

 3月連続3日の母と幼児のおはなし会 プログラムを決めなくては。デイケア ならびに そうだ!あした児童館?!3/6本町小。

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 娘が不眠を訴えるので、昔話でルイがすやすや眠ってしまったことを思い出して語ってみた。むかし、むかし 「いけっちゃ かさかさ いぐなっちゃ かさかさ」「 たんつく たんつく 起きて ばんばのつーら 見れ 」「ひくずくひくずく ひくずくよ 」「とつこぉーかぁ ひつこぉーかぁ 」「えーんがあるならこっちへこぅ えーんがねぇなら あっちいけ」それから お月さん 金の鎖 黒塚 とか思いだし 思いだし語っていると おかあさん 眠くなった....と眠ってしまった。

 ゴールドベルク協奏曲だったか、不眠症のためにつくられた音楽は...昔話や音楽が眠り薬のかわりになるなら それは素敵なこと。

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 読まないつもりだったのに きのう夜中にGEOで「白夜行」を買ってしまった。その日はページを開かないつもりだったのに、文庫で860ページ読んでしまった。作品の構成はしっかりしていた。が、思ったとおり読後感はよくなかった。とりとめなく荒涼とした気分が残るのみ。白夜行とは光も影もない地平を彷徨うという意味なのか。

 読書のあと どんな形であってもカタルシスや発見があれば 読んだ甲斐はある。ただ時間潰しなら読まない方がいい。潰していい時間などないからだ。
 雪穂はファムファタルでさえなく化生のものにしか見えない。人間ではない。自分のエゴを満たし目的を達成するために ひとを傷つけたり 殺したり 運命を思うように操ったりすることをなんとも思わない。亮司さえ一顧だにしないように見える。

 テレビの白夜行でふたりのどうしようもない生をほのかに耀かせているのは、お互いにお互いを思う気持ちがあるからだ。雪穂は亮司を思い 亮司は雪穂を思う そのことが 漆黒の闇に蠢くふたりを清らかにさえ見せる。その光と闇の拮抗に惹かれ思わず応援したくなる。

 主役ふたりの心象表現の全くない小説から この脚本を掬い上げた脚本家の力量はなかなかのものだと思う。小説とテレビのドラマとは全く別のものである。再話、語り変えといってもいい。暗黒小説を純愛ドラマに衣替えするにあたって 脚本家はいくつかの修正を余儀なくされた。少女の雪穂がすでに唐沢礼子の養女にもぐりこむ算段」をしていたとあらば どう取り繕うと 雪穂は末怖ろしい悪の申し子になってしまう。そこで孤児院をあいだに入れ 雪穂がセクシュアルな虐待を受けていたことにする。また、実母を事故に見せかけて殺害したのを母娘の心中に変え、一旦は自分の命も投げ出す。

 しかしこれらの修正は 大きなものがたりの流れに齟齬をきたしたのではないか。少女の雪穂と高校生以降の雪穂は わたしには別の人格に見えるのだ。今後の展開でどう収めるかによっても評価は異なってくるけれど。

 場合によって 再話は 原話を凌駕することもあるだろう。テキストを変えるだけではない 表現...ということばは使いたくないが どこに視点を定めるかスポットライトを当てるかで ものがたりは まったく違う様相を見せる。

 そのまま隼別皇子と女鳥媛の物語を読んだ。これも美しい女人に出あい運命が変わってしまった男のお話。なにかしたい。エリザベートは?どこにいってしまったのだろう。

 


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 雨の日曜日 これから加須に行く。小さな峠といったところ。4人で話し合いをする。

 きのうエキシビジョンを見た。荒川さんは美しかった。なにがあったのか オリンピック前とは違うオーラがある。観衆の歓呼の声にひときわ笑顔が耀き 演技はより伸びやかに より鮮明になる。トゥーランドットも良かったがプルシェンコのトスカを見た時、あぁ 歌いたいと思った。刈谷先生とすっかりご無沙汰してしまった。ルイの早産の騒ぎから レッスンどころではなくなってしまったのだ。

 なにか 新しいことをはじめよう 発声 楽器 アートセラピー 自分に飴と鞭を。もう一度聞いてみたいという語り あまり切なくて悲しくて痛くて もう二度と聞きたくない だけど忘れられない語りをするために。天と地をつなぎ ひととひとをつなぎ 過去から今へ 今から未来へつなぐために。



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 ふと 手にした書棚の文庫本の奥付きに母と喧嘩す 1969年2月24日と書いてあった。この季節はそうなのだろうか 今日も凶暴な風が身内を荒れ狂っていて押えがたく 掃除や洗濯にぶつけてみても 雪女やディアドラなど語って託してみても収まらない。 三年も放置された息子の荷物を放り投げ 階段の下に投げ落とし 息子と娘に喧嘩をしかけ 新聞店にも言いたいことを電話してしまった。

 ノイローゼ寸前...破壊衝動も強い方だから 自分に向うと大変なことになるのは承知している。それで外へ向うのだろう。このひと月 押えに押えていたものが季節の力を借りて爆発しそうなのだ。

 立春と機を一にして一挙に訪れた 子どもたちの問題 それは自分のことより痛くて わたしはどうしたらいいのかわからない。理性のタガなどとっくの昔に吹き飛んでしまった。

 どうなるものでもない。この際わたしが子離れすればいい。 いいチャンスではないか と思うけれど それでも...それでも....おかあさん、おとうさん わたしもおふたりにこのような思いをさせたことがあるのでしょうか。

 夕べ 気持ちの整理をしようと 喫茶店の片隅にいた。...おとうさん あなたのこと あなたの育った山奥の村 浦和に出てきてからのこと 戦争のこと を考えていました。まなびすとのおはなし会で試みた語りをかたちにできそうな気がします....おとうさんが行くはずだったその南方で死んだ正志さんのおかあさんのことばや遺書も入れて 新しい語りができそうです。...コーヒーは美味しい店なのだが頼んだウバ茶は香りもなかった。帰ったら吉川さんから電話があった。

 「わたしは子どもを戦争にとられるよりいい 特攻にやるより こうして側にいるだけでいいと思って息子を見ています。おかあさんが家庭の中心 あなたが明るくいてください」不思議な符合に思えた。そうですね 吉川さん...そうしましょうと言ったのに それなのに わたしは。



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 坂東真砂子さんのエッセイに「イタリア人は人生は美しいということを証明しようと躍起になって生きている」と書いてあって、思わず笑ってしまったのだが、日本人はどうなのかな...人生なんてこんなものさ...か生きるのは容易じゃあねぇなあ....かそれともやっぱり 人生は美しいか。

 人生は美しいばかりではないが、醜いものもみんな含めて 人生は美しい...いや素晴らしいって言えたらいい。そんな風に言えるように生きられたらと思う。ドラマの白夜行から目が離せない。死んだことになっている亮が太陽の下を歩けるように 雪穂は高宮にちかづいて結婚する。高宮の持っているIDカードを亮に渡すためだ。高宮には好きなひとがいる。亮は雪穂の結婚が自分のためとは知らない、雪穂のために高宮が相手と会えないよう 雪穂が結婚できるよう仕組む。

「一緒なんだよ、亮。亮の幸せが、私にとって、免罪符なんだよ。亮がやったことは私のためにしてさ、私がやったことは亮のためにしてさ・・・そうやってやったこと正当化しまくって生きていこうよ」「最悪だな」「元から最悪じゃない わたしたち」... 亮は醜いもの同士が寄り添って行けたらいつか...と思う。ひとのなかにある光と影 影があるから光がわかる 光があるから影が生じる。マイナス×マイナスがプラスになるように 人間もならないかな。

 闇でもマイナスでもなんでも あきらめないで生き続けようとすることは美しいのだろう。たとえくず折れても 立ち上がることは美しく そのまま倒れてしまっても それもまたひとつのかたち 悔いることがなければいいのかも知れない。

 わたしは荒川静香さんのスケートはあまり好きではなかった。新聞にコーチから「あなたの演技は見る人を感動させない」と言われたことがあると書かれていたが ものがたりが聞こえてこなくて 見ていて眠ってしまうこともあった。でも、今日は違った。ひとつひとつの要素 動作はいつものように完璧で そのうえにニュアンスがあった。ことにイナバウアーのあと その耀き、美しさに慄いた。

 美しいものを伝えよう...そのために精進を重ねる  勝つための戦略 研究 技術の練磨 プログラムの錬成 コンディションつくりのための自己管理 食事 衣装 集中 その結果の勝利だった。勝利への執念もあったろう。 でもなによりスケートが好きだったのに違いない。 スケートを通じて なにかを垣間見ることもあったかもしれない。美しいものを見ると心が震える。さぁ 立ち上がろうと思う。




 

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わたしはそれを知っている。
 ふだんは薄い膜のようなものがかかっているこの現実という世界が、時折、ほんの一瞬だけ、その本当の姿をひらめかせる、ということを。

 ある時、ある場所....それはガラスの砕片を散りばめたような冬の早朝の大通りであったり、真夏の午後の、蝉時雨しか聞こえない人気のない鎮守の森であったり、それは色々なのだが、すべてがクリアに、生々しく、目に映る耳に響くすべてのものが意味のあるものとして届き、「ほんとうの現実」を手づかみできた、と、思える、そんな瞬間がある。

 しかし、「ほんとうの現実」はなにかの幻のように(....確かにそれは現象面からいえば、幻にすぎないのだ)すぐに霧散する。そしてふたたびうすらぼんやりとしてはっきりのしない現実が、盲いた心に映るばかりとなる。
 「ほんとうの現実」は、ほんとうは見てはならないもののように、いつも現実のすりガラスの向こう側にある。それをわたしたちは、あるときは「本質」と、あるときは「彼岸」と、あるときは「永遠」という。

 「彼岸」やら「永遠」にふれた一瞬に執着するものは、いつしかなにかを表現するようになる。音符に残すものは作曲家となり、絵にして残すものは画家となり、言葉に残すものは詩人となり、歌を歌って残すものは歌手となり、踊りにして残すものは舞踏家になる。
 あの時の一瞬を忘れないために、あの時の一瞬を取り戻すために、彼らは表現者になる。

 そして彼らは、こちら側の一番端に立って、わたしたちに向こう側を指し示す巫女となり、うみ出された作品は、わたしたちにとって、彼岸や永遠への道しるべとなる。だから、わたしたちは、彼らとかれらの残す作品を求めずには、いられない。

 しかし、真実、彼ら、表現者たちにとって大切なのは、自らの心血を注いでうみ出し、残した作品では、決してない。 彼らが最も愛するのは、すべてが白溶として、わたしがわたしであり世界である、と感じることのできた、世界のあらゆるすべてを了解しえた、と感じた、今は過ぎ去ったあの一瞬であり、そのとき垣間見たほんとうの現実であり向こう側の世界、それのみである。


 これは「少女漫画の館」(星のリデルの項)というサイトにあった一文である。なぜ語るか....ということをこれほど端的に言い表すことは わたしにはできなかった。わたしがわたしであり世界と一体となっていて 生と死を含むすべての謎とともにあり それでよしとする一瞬のために語るのだということ、実は自分自身のために語るのだとはなかなか言えなかった。しかし、ほんとうはそうなのである。

 子どもたちのために...とか聞き手との共有 療法としての語りとかは あとからついてきたものだ。それを第一に掲げてしまうと 語りへの純粋な気持ちが薄らいでしまう、それが今のわたしなのだろう。だから2月16日にUPされたらしいこの一文は痛烈な一撃でもあった。

 このわずらわしい 澱んだ世界 うんざりする雑事些事で埋め尽くされ 正義はなく 無闇にひとや生き物が死んでいる 喰らいあって生きている 劫罰としか思えない生のなかにあって たしかに その一瞬だけは この世に在る意味を魂に思い起こさせてくれるのだった。あたたかな彼岸の波にやさしく抱かれていられるのだった。光が充ち耀き 闇を遠ざけるのだった

 ひとは自分の視力でしか世界を見ることができない。魂のレベルと知力と経験と知識と感覚、それらをたよりに世界を構築する。だからその世界は唯一のもので、そこで彼は創造主にも等しい。その唯一無二の世界を持つひとびとが何億人も住んでいるのだ、この星には....考え方、感じ方が異なる八十億ものひとびと それらの人々の持つ世界観を考えると 気が遠くなりそうになる。

 けれども ひとは 共通のものを持つ。本質なるもの 永遠なるもの 闇にあかるく燃える松明のように 幸福の記憶のようにひとはそれを求める。文学や芝居や音楽や絵やことばのなかに 痕跡をもとめつづける。...だから 良いではないか、たとえ自分のためであっても 本質を永遠を 一瞬でも甦らせることばを放つことができるのなら ゆびさきで指し示すことができるなら....6年前 身の程知らずにも すでに 文字にしていたように わたしは巫女になろう。原点に戻ろう。 6年前の水曜日 ASKではじまったことを つづけよう。



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 おはなし会がおわっても、ものがたりの余韻が残ってしばらくこの世には戻ってこれなかった。今日は席をはずしてはいけないような気もして ノートに記入したりの手仕事が終ったあとも椅子に座っていた。

 1時間もたったころ、太田小の図書室見学の感想とこれから何ができるかという話し合いになった。子どもたちの魂を育てる読書を念頭に、どうしたら子どもたちがつかいやすい図書室になるか、そのために学校の担当の先生の指示を仰ぎつつ、なにができるか 話しあった。4月の新年度まで大きな動きは期待できない。廃棄本の整理の手伝いを具体的なかたちにしたいということがとりあえず決まった。

 わたしはおはなし会のあと、書類を書きながらでも その日のおはなし会について 思ったこと感じたことを共有する時間をもてないか 再提案した。記録をとるのは必要なことだが 図書ボランティアの思いを共有するのは意味があるのではないかという意見があって 次回から8時40分を目途にはじめることになった。

 メンバーのなかには子育て支援(乳幼児)のボランティアグループをたちげている方たちもいる。わたしの幼稚園でのおはなし会についても報告して 乳幼児から中学生までリンクしてゆきたいね...とちいさな芽が出た。次回は反省会。



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 場所/本町小 対象/6年3組 テーマ/恋する 内容/芦刈の歌 この道(詩)反省/なし 感想/ことばなし  時間/20分弱

 今日はひさびさのおはなし会。2月のおはなし会は軒並みキャンセルにしてしまって本来ならやる気充分と云いたいところだが、朝 意気が上がっているとはいいがたく ようやく松の門をくぐる。

 玄関でKさんとばったり会う。今日 いっしょに6年3組に来てくださるとのこと「聞かせてください」とのことばに小さな火が灯った。クラスでは机椅子もそのままでなんの準備もできていなかった。いっしょに机をかたづけ ゴミ拾いを楽しむ。

 6年は3組なので芦刈も今日で最後だ。歌がはじまると いったいなにが起きるのだろうと子どもたちは目を瞠っている。力の抜けた語りで自分でも心地よかった。チャイムの音にも 子どもたちの集中は途切れず Kさんも先生も涙されていた。子どもたちの幾人かも....  終わったあともしんと静かだった。かわいそうだけれど この世界から子どもたちを連れ出さなくてはならない。この道を語りかける。

 あとでKさんに直方が久女の背に触れたときのざっくりした麻の感触とそして粗い布地をとおして久女の温もりが伝わってきたこと。直方が身に覚えのない罪を着せられ苦しんでいるとき 久女がやさしく撫でさすったその感触を感じて 戦慄した..と聞いて あぁほんとうなんだな と思った。

 わたしもまさに赤茶けた麻の布とその温もりを感じて語っていたのだ。さまざまなシーンが目に見えるようだった...というKさんは感受性の豊かな方なのだろう。そう...語りはそういうものなのだ。瞬時に時代を越え、山河を越え、ひとのこころが語り手の心と聞き手の心に重なる。わたしたちはものがたりを生き 温もりも痛みも清けき月も熱砂も本を読むより芝居を見るより鮮烈に体内に甦る  そういう不思議なものなのだ。

 幾度も語ってきたなかで 良い聞き手を得て たぶん 今までで最高の芦刈だったと思う。しばらくのあいだ わたしのなかにも ものがたりはたゆとうていて 身はここにいるのに 魂は平安の世に飛んでいたのである。



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不安と錯綜...ホーソンの伝記物語、ブルフィンチのギリシャ・ローマ神話を読む。 黄ばみ手ズレした何十年も前の文庫本である。それから竹内文書を読む。

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 午後 KとSをドライブに誘う。地中海倶楽部ですこし遅い昼食をとる。それからWへ、わたしの聖地へ。

 道すがら さまざまなことを話し合う。わたしは自分の視力の不確かさを知る。なぜ いつも子どもたちのことで戸惑うかといえば わたしはわたしの愛に曇らされた目で見ていたからと解かったのだ。わたしにとって 子どもたちは純粋な まっすぐな 存在だった. ...(と思っていた)


 確かに 逡巡もあり 幼さもあったが とてもやはらかできれいなものと思っていた。だから 子どもたちが わたしの間尺で 有り得ない行動をとると混乱してしまうのだった。 愚かな母ではある。子どもたちはいつまでも少年少女のままではいない。KとSは自分たちの状況を熟知はしているのだった。が、Kは一歩前に踏み出そうとはしない。屋根があり壁があり、温いベッドと食べ物がある。その庇護のもとでしか成り立たない自由を満喫したいのだった。Sもまた自分の責任に向き合おうとはしない。共通するのは彼らが自分自身を(あえて)謀っているのだということ。
 
 客観的な視野を持つことは選択する自由を持つことでもある。できるだけ真実に近い視力を持つに越したことはない。愛にしろ嫌悪や憎しみや好みにしろ 自分の見たいものを見るという傲慢に変わりはない。とりあえず 夢から覚めても わたしはできるだけ まっすぐ見ることにしよう。

 酩酊しているほうが 実際は楽である。愛の名のもとに 自分を焚きつけてゆけるのだから。しかし、それはほんものではない。それは実はわたしのために為されるのだ。 自分の不在証明のようなものではないか。そこに存在理由を持っていったら嘘になろう。

 たとえ 子どもたちの怯えや嘘や自分を守らんがための方便を知ってさえ 愛することに変わりはない。採る方法が違ってくるだけ...いやもしかすると それすら変わらない...そんなことはない。それではアリ地獄になってしまう。苦く甘い一日だった。


  

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 家に帰って家族の顔を見るのも辛かったので、朝まで会社にいた。36時間ぶっ通しで会社にいたことになる。ずっと仕事をしていたかというと、そうではなく、夜中はネットで遊んでいた。朝日が窓から金色の光をなげかけ、あたらしい一日ははじまる。給与計算、請求書チェック、アルバイトさんの面接、電話の応対 毎日のあたりまえの仕事がわたしに力をくれる。

 機械代500万入金、機械関連の支払い完了、真鶴の仕事がほぼ決まり 夕刻 安全課のふたりが次男の家にいってくれたことを知る。きのう話したことは無駄ではなかったのだ。そうしたひとつひとつのことが突破口になる。もうだめ、もういや と萎えていた気持ちが息を吹き返したようにしゃんとなる。わたしはまだだいじょうぶ。会社のひとたちのために会社のためになにかができる。さぁこれからだ。結局 自分の原動力は家族なのだと思う。Kさんに出産祝いをわたす。夜社員のAさんのためにわたしのできることをする。

 

 

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 わたしになにができるのだろう。わたしはこんなにも無力だ。子どもたちをしあわせにすることができない。わたしのことばはむなしく空中に放たれ 受け止められることなく霧散してゆく。それでも、わたしは語らずにはおれないのだけれど。

 闘っているひとたちがいて わたしは励ますことしかできなくて 会社があってわたしは 目標を掲げることしかできなくて わたしはただ案山子のように無力なのだった。家に帰ることもできなくて 仕事もできなくて 創世神話を捜していた。たくさんの国のそれぞれに神話がある。たくさんのパターンがある。国生みの神話は太平洋に散らばる、マヤを初めとして五回に及ぶ破壊もそこここにある けれども 今一番心に響くのは神々さえも逃れられない滅びの運命ラグナロクをうたった北欧神話。

 聳え立つ世界樹イグドラシルには3本の根がありそれぞれの根はある世界に続いている。一つはニフルヘイムであり、一つはヨツンヘイムであり、一つはアスガルドの下で育っており、ウルドの泉に続いている。その周囲を己が尾を咥えるミッドガルド蛇が取り巻く。赤い赤い燃えるような日没 金と紫 そして漆黒の闇。

 死してなお闘いつづけるオーディン...かくありたい 死ぬ時も前向きに倒れたいと言ったのは誰だったか...イキヲスルノハ甲斐のあること?意味があること?手を伸ばした先にはなにかがある?ダレカニフレ ダレカノヌクモリヲカンジ シアワセニデキタラ ソウシタラ ツヅケラレソウナキガスル。





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 春キャベツのスープとオムレツ、蟹やベーコンやありあわせであつらえて、トーストにミルクティの朝食。それから、ゲド戦記を読み返してみる。

 アーキペラゴ(多島海)やゴント、10本ハンノ木村、そしてロークの魔法学校でのこと、真の名で老いた竜を打ち負かすところなどは、かってのようにわたしを昂ぶらせはしないのだった。自ら呼び出してしまった影におびえるゲドの心情、この世界を危うきに陥れないためにも、その影をもといたところに戻さねばならないと固く心に決めながら 恐れに打ち負かされそうになるゲドに惹かれてつい読みおえてしまう。

 最初は道はたくさんに開けているが ついには目の前にある一本の道しかなくなる。その道を辿ってゆけばいい。このことばが好きだ。ほんとうに そう思う。わたしの前にもすでに ひとすじの道しかない。だが、どのように歩いていったらいいかわからない。ゲドは影に追われていたが、いつしか影を追って、海を渡り島から島へ影を追い詰めてゆく。

 昼と夜の区別のつかない薄明の浜辺でゲドと影は向き合う。相手の名を知る者は力を持つ。影とゲドは同時に叫ぶ。「ゲド!」あんなにも畏れた影とゲドは一体になった。ゲドは倒れる。浜辺に海が押し寄せる。ゲドははてみ丸に乗って友と帰還する。ゲドは光の自分と闇の自分を統合した。まことにユング的な結末である。わが子たちが悩み さまよっているのもそのような小暗い岸辺であるのかもしれない。

 自分で見出すしかない。自分で統合してゆくしかない。わたしもかってそうだった。明け方 「それはわたしだ」と叫んで飛び起きたこともあった。ハイファンタジーとは単なる空想の物語、夢の物語ではない。それは内なる神話といってもいい個人の創世神話なのだ。闇があるからこそ光がある。死があるから生は輝く。世界中の国々の創世神話において 混沌があり混沌の中からそのものはかたちを成す。闇があり光が闇をはらう。世界ははじまる。

 そしてひとりひとりのなかにも影があり光がある。ゲドやフロドが内なる闇と戦い 自分を統合したように わたしたちは主に青春というあの懐かしくも輝かしく苦しい時代にその峠を越えねばならないのだ。



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 結婚式の打ち合わせで行田に行く。車で1時間余り、帰りに渡良瀬、わたしの聖地に向う。関所を越え、川を渡り、草原へ。 十数本の立ち木が風に梢を鳴らしている。見上げれば、梢の彼方 澄んだ青い空には染みひとつ雲ひとつない。寒くて凝っとしていられないので歩きながら歌ってみる。ふかふかした腐葉土のそこここに深緑の葉がまだいじけたように地面にはりついている。

 ここは風の果つるところ、音をたてて吹きすさぶ風にカラコロと乾いた音が混じる、ふと見ると 梢にひもで結われたペットボトルがふたつ、風に弄られて幹にぶつかっているのだ。木肌は白くなっている。はずしてあげたかったが手が届かない。風のなかで雪女を語ってみる。雪のしまく音 叩きつける吹雪 小屋のなかに立ちのぼる蒼白の炎 真白な細い指....

 切り取られた炉辺 燠が灰のなかで赤く燃えている。それは、わたし....今までに無いアグレシッヴなお雪だった。悲しみより滾る怒りがあった。約束を違えた男への怒り 子どもを棄ていかねばならない悲しみ ついとそれは魔性に変わってゆき歓喜とともに 吹雪とひとつになり 吼え疾駆し 野山を天をかけめぐり 消えてゆくのだった。



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