東京平和映画祭、三日間で10本の映画を観て、6人のお話を聴きました。真実の重さや質だけでなく、どうしても語り手として聴いてしまうのはサガですね。3つ選ぶとしたら、
「花はどこへいった」
「雪の下の炎」
「冬の兵士」
やはり日本の監督、それも女性の撮った映画が身に沁みました。リズムと湿度、風土にあった感覚が関わっているように思います、語り手としても大きな学びでした。とてもとても伝えたいこと、聴いてもらいたいことをつたえるにはどうしたいいか....ということです。論理的に段階的に.....証言を重ねる......エピソードをまじえて笑いとともに....提案しながら.....語りかけ問いかけながら.....さまざまな方法があります。個人的には客観性のある視点で淡々と静かに風景やひとびとの表情やことばを紹介してくださるのが 主張や警告や呼びかけよりも身に沁みました。歌と静寂と微笑みは1000の雄弁より勝りました。
「花はどこへいった」は坂田雅子さんが夫グレッグを肝臓癌で亡くしたあと、死の原因がベトナムで浴びた枯葉剤ではなかったかと示唆され、愛するひとがなぜ死んだか知るためにベトナムに旅だつものがたりです。
米軍はゲリラの隠れ場所を無くすためそして、食料の補給を経つため森に野に川に大量の枯葉剤....エージェントオレンジをまきました。翌日木はすべて枯れました。しかしそこで枯葉剤を浴びたベトナムとアメリカの兵士、そしてベトナムのひとたちはそののち、業苦にあえぐことになるのです。たくさんの目の見えない、手足のない、脊髄損傷の赤ちゃんが生まれました。枯葉剤=ダイオキシンは遺伝子をかく乱するのです。
ダイオキシンは大地と遺伝子に沈み込み、祖父母が浴びた第三世代の子どもたちも被害にあい、家族のなかに2人、3人の障害児を抱える家族もいました。自分の身のまわりのこともできない子ども.....それは貧困を意味しました。雅子さんは、あたまのふたつある子どものところに行こうと案内されます。
クアンチ省カムニア村はエージェントオレンジが大量に何度も散布されたところです。人口5673人のうち障害児が158人います。ズエン(男の子、8歳)....が生まれたとき、おかあさんは赤ちゃんを見せてもらえませんでした。7日後、家で赤ちゃんとはじめて対面したときおかあさんは気絶し、2日間泣き明かしたそうです。赤ちゃんはイーイーイーとうめき声をあげ続けました。今もおかあさんはズエンにつきっきりで世話をしています、姉のヒエン...12歳は母のかわりに父をたすけ農作業をして、ごはんもつくります。そして時間があるとズエンとあそびます。
「たいへんでしょう?」と通訳が訊くとヒエンははにかむように首をふって「ズエンがだいすきなの」といいます。貧しいけれど一家の顔は狭い暗い家のなかはほのかに光をおびているようでしたベトナムには戻ってきた元アメリカ兵が建てた支援センター(フレンドシップセンター)があります。元兵士はひかれるようにベトナムに戻ってきました。彼はここで戦ったのに、人々のことは知りませんでした。受け入れてくれるだろうか?彼は罪悪感と不安でいっぱいでした。
街で若者が声をかけてきました。彼は勇気を出して前にベトナムに来たことを告げました。......「それじゃ 敵じゃないか」....「....ようこそ」若者は彼を抱きしめました。かつての敵同士、被害者と加害者が、いまは寄り添って家族のように生きているのです。雅子さんはグレッグが亡くなるすこし前の夜、語ったことを思い出しました。.....僕たちはひとりじゃない....みな宇宙とつながっている.....。
わたしは3日間 涙をずいぶんとこぼしたけれど、この映画ほど泣いた映画はありません。雅子さんに許可をいただいていつか語らせていただきたい....と思っています。
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