遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



   ミケランジェロが、自分はただ(神が置かれた)石の中にいる人物を彫り出しているだけだ..と言ったのはこれは彫刻だけでなく、絵画や音楽や語りにもつながる....と思うのです。このことは以前のブログにも書きましたが、ぐるぐるまわっていつもここにたどりつきます。

   語り手だったら、時代の埃の下に埋もれたものがたりをね、感じ取って一旦自分の体内にいれてふたたび空中にひとのこころのなかにものがたりを甦らせる...語り手の息吹きは自然にまざるけれど こしらえものじゃない....もちろんミケランジェロの卓越したわざがあればこそピエタは今も在るわけで、わざや共鳴体としての身体...そして心を不断に磨く必要もあるのだけれど。

   それにしてもミケランジェロやレオナルドのような天才がおなじ時代に生きていたなんておどろきです。大天才の圧倒的なわざを見てしまうともう超えられないのかなぁ 彼らを凌ぐ天才はあらわれませんでした。でも、それは芸術が表現...人間の矮小な自我の産に堕したことも原因のひとつではないでしょうか。



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   きのう講座が終わったあと 友人が「あなたはほんとうに語りを愛しているのね」と言った。えっ アイシテル...! わたしは絶句した。そんなことは考えたこともなかった。...でも いつも考えている。語りのことばかり考えている。

   演劇畑の方のなかには朗読や語りを一段低く看做しているひともいる。主婦の趣味のようにかるいモノと考えているひともいる。...しかしとわたしは思う。語りこそウタとともにあらゆる芸能のなかでもっとも原点にちかいものなのだ。悠久の歴史と大きな可能性をふところに抱くものなのだ。

   水みたいな空気みたいな....ものだった。火の柱だった。わたしのなかに燃える火、天にむかって燃え上がる一本の炎の樹.....語りのために身体をかえる。語りのために食物を変える。もはやなぜだかよくわからない。たぶん使命なんだと思う。だから自由になったことを感謝している。わたしがやろうとしていることは組織のなかではできないからだ。ワークショップもだし、語りもそうである。

   お風呂のなかで語ってみた。雪女....芦刈....ほうすけ.....やはり変化していた。声も語り方も...。以前持ち味だといわれたあやうさはもうない。ひとは日々変わりゆくものだ。人と出会い交流し毎日のようにあたらしいことにチャレンジして語りのことばかり考えているのだから。

   わたしはキャシー・ミヤタからもっとも影響を受けた。大地の語りだった。すべては二年前の夏はじまった。精神性という意味ではベリット・ゴダガーさんとウィム・ウォルブリングさんだが、どうも気になるのは寓話が多いことと抹香臭さである。ふたりともたしかエマソンカレッジだった? エマソンカレッジの傾向かもしれない。わたしは子どもの頃読んだラ・フォンテーヌのきつねと葡萄の話から寓話がキライになった。イソップもだめである。語りは道徳的である必要はない。結論を持つ必要はない。聴く人それぞれのうちに答はある。語り手は橋になって、カラになって差し出すだけだ。個性や語り口などつくる必要はない。半端なものは剥げ落ちる。ほんものはおのずとにじみ出る。野の花が香るように。

   だから付け加えるより捨て去るほうがたいせつなのだ。それに捨てるほうがむつかしい。語り手の極意は透きとおったカラになる、語るための楽器になる、一陣の風にも旋律を奏でる感度のいい楽器になることだ。もともとひとはそういうものにできている。まして語ろうなどとするひとは、前世、前々世からの深い縁があるやも知れぬ。一昨日見せられたちいさな本のちいさな幾葉かの写真を見て、わたしは身体の奥底から湧きあがってくるなつかしさ...と望郷の想いに震えた。それは誇り高いネイティブアメリカンの写真....そして草原だった。不思議だ....



   わたしはネイティブアメリカンの部族ホピのバングルをとある店で見た時から手放せなくなった。なにか宿世の縁があったのかもしれない。ビウエラをはじめて聴いたとき、揺り動かされて涙がとめどなくこぼれたように、チェンバロから光が零れ落ち流れているのを見たように 子どものころ幾度も見た海のほとりの白い神殿の夢のように 亡くなった方々のおとづれのように....不思議なことがたくさんある。それをよすがにわたしは、この世というものが目に見えるものばかりでできてはいないこと....そのウラに膨大なエナジーや記憶のようなものが流れていることを知る。わたしの身体がただの原子のつらなりでないことを知る。科学と真実、科学とスピリチュアリティはまだ邂逅していないが、いつか手をつなぐ日がくるだろう。

   わたしは語り手である。モノガタリを語る。見えないモノを見えるように語る。インナースペースからインナースペースへ....



   さて、話を戻そう。日本の語り手は豊かな宝庫の鍵を持っている。征服者の神話古事記、英雄伝説 ネイティブジャパニーズの神話 民話 古浄瑠璃 五説教 世話もの 文学 児童よみもの 絵本 おはなしのろうそく そして創作やパーソナルストーリー。歌舞伎からだって文楽だって落語からだって語れる....世界の神話・伝説 節操がないくらいレパートリーがある。そのうえにまつろわぬひとびと 歴史の表舞台のうら側 戦争文学 詩 いろ話 都市伝説のたぐい。。。科学ものだって環境問題だって...小噺 週刊誌ネタ 新聞のひととき欄もなかなか....ネットは宝庫。

   スタイルもさまざま、丸暗記で テキスト持ったまま ひとり芝居 即興で 歌いながら 踊りながら タンデム 群語り 弾き語り 楽器とコラボ なにかのイベント 商店街とタイアップ カフェで 公民館で 劇場で 学校で 幼稚園で 教会で 施設で 青天井のしたで 病院で....おっと 明日はデイケアでした。

   線引きする必要はない。どれも語りである。そのなかでどのポジションをとるかだけ。喜怒哀楽の感情がひとをひきつけカタルシスに向かわせる。そして稀に深層意識 無意識界のとびらを叩く先祖がえりの語りがある。

   
   語り手であるあなたはどのポジションをとるのだろう。語りたい想いにつきうごかされてどんなものがたりを語るのだろう。だれかへの愛のために..?家族への? 聴き手への? 子どもたちへの? 自分への? 神への? 組織への? ものがたりへの? それとも.....

   あなたは橋になる。.....なにをつなぐ橋? 聴き手とものがたり? 聴き手と作者? 聴き手とあなた? その場全体? ものがたりの時代と今? 聴き手と聴き手のうちなるもの? 聴き手とその過去? 聴き手と希望? 聴き手と芸術? 聴き手と集合的無意識? 聴き手とワンネス? 聴き手と真実? 聴き手と天? 聴き手と霊? あなたと内なるあなた? あなたとインナーチャイルド? あなたと超自我? あなたと神? あなたとアート的なるもの? あなたと未来? あなたと義務? あなたとプライド?.....それとも....

すべてよしである。

   わたしは....わたしのうしなわれたアークをさがしもとめる.....つなぐことでしか贖えないそれは契約のように思える。語りをとおしてつないでつないでつないでゆくうちに 悩んで悩んでゆくうちに 余分なものを捨てて捨てて捨ててゆくうちに (あぁ これがいちばんむつかしい)すこしずつゆるされて 見えなかった道すじが見えてくる.......さらば曖昧なわたし...さらば過去の残影。





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   きのう6月27日は、語り基礎講座第一期最終日でした。ボールやゲームで身体とこころを開きます。みんな子どもにかえって笑い声がはじけます。じつはここからリアクション、間、コミュニケーションがはじまっているのです。ですからエクササイズや講義もその日のテーマを踏まえたうえで即興性が欠かせません。

   今日はインプロをしてみました。インプロはそれ自体が目的ではなく次に進むためのステップとしてつかいますがいくつかの目的があります。1 登場人物の目的を明確にする。2 イメージする能力を高める。3 感度を高める 4 その場に応じた最小限且つ最も効果的な語彙の選択.....参加者はこんな面倒なことは一切考えることはありません。なりきる 目的の完遂..ただそれだけ。説得力がつきます。

   方法としてはさまざまなシチュエーションを設定し即興で劇をします。夫婦.....同棲中のふたり....ハイキングの三人組.....ステータスもつかいます。ここに川...があると思えばあるのよ....そしてやっているひとに見えれば、聴き手や観客にも見えるのよ....と伝えたら、あとで「ほんとうに濁流が見えて怖かった」.....すごい。

   つぎに泥棒の父子のエクササイズ、これはウィムさんのWSでおもしろかったので発展させ深めたエクササイズです。最初にものがたりをわたしが語ってみなさんに聴いてもらいます。あとは時代も場所も自由にしてものがたりを組み立て実際に演じます。3チームがそれぞれ個性豊かで報復絶倒でした。笑わせたうえで、ペーソスと人生があり、しんみりとさせ、Cチームときたらそのあとにオチがあってまた笑わせた...。

   シェアしたところ、楽しかった!..観ても演っても....というのが一致した意見で 楽しみながらしっかり掴むところを掴んでいました。背景さえ理解していればだいじょうぶ...間が重要....このエクササイズはときどきやりますが、今回はほんとに完成度が高かった....やめられない、こんな楽しいこと...と思いました。

   ひとつ気づいたことがあります。経験の多い少ないはチームの編成上さほど大きな問題ではありません。最後のエクササイズで経験者はさすがの存在感.. いぶし銀のかがやきでしたが、初心者やさほど経験の多くない方たちの溌剌とした輝きにも目を奪われました。それぞれの個性が、響きあい触発しあってそれぞれの埋もれたものを引き出してくれます。

   ところで語りの基礎を学ぶためになぜ演劇的手法をつかうかとお思いでしょう。それは語りにそのノウハウがないからです。キャシーもウィムさんも演劇的なエクササイズをつかっていました。わたしはそれを日本人向け且つ語りに適するようアレンジしています。表現をゆたかにするためもありますが、テキストの呪縛をほどき、語りの自由を手に入れるため テキストから入ったひとをリセットするためにつかうのです。けれども インプロや演劇的手法を安易につかうととんでもない悲惨なことになるので注意が必要です。語りにとって演劇はいはば両刃のつるぎなのです。


   さて、午後は穂積玲子さんの自力整体で身体をほぐし、左右差に気づきます。自力整体は自分自身の身体の部分をつかって整体をする、むだのない どこでもだれでもできるすぐれものの健康法です。わたし自身が生きた証拠で、昨年の今頃であった参加者」のひとりKさんが「....びっこひいてましたものね」「そう10分の距離もタクシーでした」...いまやウェストが構築され、鎖骨にはくぼみ、肩甲骨は掘り起こされ、デコルテに自信あり...です。飛び跳ねることもできます。参加者のみなさんも2時間近い自力整体のあと顔色すっきり明るくなりました。

   第一期クロージング...開かれた扉とこれから開きたい扉、をわたしもみなさんとつくりました。イメージを伝えることがわかったなど語りの本質をつかんだ他...みなさんの開かれた扉は根源的なものが多く、思わずわたしは居ずまいをただしました。.....今の自分のままでいい、ひとは変われないから...それはそれで正しい。今の自分を抱きしめること。肯定し愛すること....はたいせつです。

   そのうえで今の自分をテコにしてすこしずつ開いてゆく....そのなかで手放したいものがあったら”その時”ありがとうと言って手放せばいい。手放すほどにあたらしいなにかがはいってきます。窓をあけるとあたらしい大気が流れこみ、心も身体も深呼吸するように...。   

   第一期基礎講座の奥底のテーマは「ニュートラルな状態に戻す」自分の身体のくせ、感じ方考え方のくせを知る...でした。....気づくことが第一歩、意識することで自然に動きだします。語りをまなぶ、語ることが気づきを加速し、すると語りそのものが深くなるといういい連鎖が生まれます。楽しみながら歩きましょう。


   このワークショップをひらいたのは、語り手たちの会で企画したとき、応えてくれたひとに答えたい、わたしが知っている最上の講師を紹介したい、語りについてわたしの知っている今の最上のことを伝えたいという気持ち、それにいささかの意地もありました。でも終わってみればそんなことはどうでもいい、参加してよかった。楽しかった。それだけで充分です。参加者のみなさま、講師のみなさま ありがとうございました。
  
   基礎講座第二期は9/23からはじまります。現在の予定は11/3,11/24です。第二期の講師は全員男性、プロです。人格もスキルもこのうえなし。1.2名追加募集しますので、詳細を知りたい方、希望する方はご連絡ください。初心者・経験者を問いません。いっしょに楽しみましょう。未知なる旅、探検の旅へ....


luca401@mail.goo.ne.jp


   
   
   
   

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   6回にわたる朗読劇のワークショップが終わりました。今日は「幸福の王子」の発表会だったのです。6日間の集大成、みなさんそれぞれのベストだと思います。うちあげで不思議に思ったのは語り終えたメンバーのみなさんのまなざしの深さでした。たった6日間、時間にして18時間....それなのに半年も一緒に暮らしたような気がする....心の奥まで理解しあえたような気がする。

   終わった開放感より別れのさみしさがつのりました。ものがたりをともに生きるとはこういうことなんですね。生と死、愛によって再生するという....ものがたりの永遠のテーマを幸福の王子が具現していたからかもしれません。それはかつて芝居で体験した時よりもっと深くて切ない感情でした。

   正直、わたしは自分が朗読をするなんて思いもしなかった.....わたしは語り手でしたから。.....けれども朗読に取り組むことは語りにあたらしい光を投げかけました。朗々と詠いあげる....それは始めての試みでした.....そして全体の流れの構築....ものがたり世界を立ち上げ、つばめと王子さまに手渡し、ふたりのエナジーを受けて、それをより深くあざやかにつなげてゆく....そして聴き手との交流.....たくさんの目に見えない糸をたぐりよせ、つむぎ、なげかけてゆく.....それはほんとうにスリリングでした。

   そして、自分の選択と方向性が間違っていないことに確信が持てた.....そのことが最大の成果でした。1%の迷いが残っていたとしても今日跡形も無く消えて、行く手にはっきり目標とそのためになすべきことが見えます。打ち上げでメンバーの方から「参加してあなたの朗読が聴けてよかった」と言われたとき、わたしは吃驚しました。講師が一期生の目標だった...とおっしゃられたときもほんとうに驚きました。

   単なる文字の音声化ではなく、内的スペース....ものがたり世界.....イメージを響きにのせてまるごと聴き手の身体とこころに届けること.....それは語りの真髄であり喜びです。.....朗読は語りから....語りは朗読からまなぶことがたくさんあります。夏から秋まで不要なものを捨て、本来の声を磨き、”時”に埋もれていたものがたりを掘り起こしノミを入れ耀きを甦らせ、充電し、来春活動を始めます。今日はマヤ暦の正月だったのですね。一年の計を立てるにはいい日です。

   ゆたかなゆたかな交流ができたこと、そして忘れえぬ友、これから微笑みながら目と目を交わしながらともに歩いてゆける幾多の友人とめぐり合えたこと、素晴らしい講師に出会い、あらたなスキルを得たこと、講師のコーチング、参加者の性格を把握し叱咤、賞賛、あるときは放置もし、気づきと実践を促す...そのコーチングにも学ぶものがたくさんありました。 


   この企画を立て手はずを整えてくださったトマティス・スタッフのみなさまに心から感謝いたします。ほんとうにありがとうございました。

   

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  先日会ったまだ若い友人は、つぎつぎと愛する近しい方の病にみまわれていました。運命の奔流のなかで友人は必死で情報をあつめ、抗がん剤や放射線治療について調べ、ときには勇気を振るい起こして医師たちに治療法の変換を求めたそうです。そして近代医療にまかせ切るだけでなく、代替医療を併用し、食事や生活を変えることを考えました....それは4年前わたしも体験したことで、張り詰めた当時のことがまざまざと甦ってきました。

  わたしはこのごろ病はそのひと自身のうちから起こるのではと感じています。もちろん遺伝学的なこともあるでしょう。しかしそのうえにそれも含めて習慣化された日々の過ごし方、対処の仕方というもの....毎日生まれてくるストレスと、どうつきあいどう解消してゆくかにそれぞれの性格が端的にあらわれると思うのです。

  たとえばわたしの右膝の故障は人生においていつも戦闘態勢であったことと関係があります。自力整体をして身体の右側が固いことがわかったのですが、いつも右足に比重をおいて臨戦態勢にあったんですね。.....わたしは心の底で「女であることで男には負けたくない」といつも思っていました(笑)女の武器をつかうのを潔しとはしませんでした。今ではそう固いことを言わないでも使えるものは使えばよかったのに....と思うのですが、そう思ったときには使いたくとも使えなくなってるところがおもしろいです。

  右側の血流やリンパの流れがとどこおると消化器官に流れにくくなるのだそうです。そのうえにストレスがかさなり潰瘍がおきやすかったのですね。夫は糖尿病ですがヒーリングの講座を受講したとき聞いた話では”糖尿病は緩慢な自殺願望”なのだそうです。ぎょっとしました。そんなまさか.....と夫のことを観察しているうちにはっと気がついたことがいくつかありました。.....ことばにはまだできませんけれども。

  夫は...クスリをのむとカラダがきついといって降圧剤もインシュリン注射も自分の意志でやめてしまいました。内心心配したのですが血圧も血糖値も正常値を保っています。性格はガラリと変わりました。忍耐つよくなり、かっと怒ることもなくなりました。食生活も変わりました。ステーキが好きだったのに肉には見向きもしません。酵素玄米と味噌汁、漬物、野菜と納豆、それに梅干があれば満足のようです。わたしは燃え盛る太陽のようだった、どこまでもついてゆきたい....とおもわせてくれた、傍若無人なほど自信にあふれた夫がときになつかしくもなるのですが、その彼についてゆくのは台風のあとを追いかけるようなものでした。

  先日 取り引き先の社長が亡くなっていたことを知りました。夫とおなじ糖尿病でインシュリンを手放せず、透析をしていると聞いたことがあります。豪放磊落な破滅型といってもいいひとでした。豪放のそこに繊細さもあるひとでした。彼はすべてやり尽くした...と言いました。そして生活を変えることなく飲んだくれて赤い顔をしていたものです。それはそれで選び取った人生といえるでしょう。

  今にしてわたしは片目を失い、なみはずれた体力をうしなった夫の絶望と孤独に想いをはせることができます。屈辱感、焦燥感、絶望、悲しみありとあらゆる負の感情が夫を襲い、まんじりと眠れない幾夜もあったことでしょう。そんなあるときわたしは、夫に背を向けてしまいました。わたしの絶望、身体の痛みに目をくれようともしない夫にこれ以上尽くせるものかと思ったのです。あのときあなたも眠れぬ夜をすごし周囲を気遣うゆとりもなかったのだと痛みとともに思うのです。

  夫はあたらしい自分を受け入れ忍耐強くひとに接し、逆風のなか陣頭で指揮をとっています。今 わたしは夫がひとの手を借りるところは借り、自分でできることはできるかぎりしようと生きていることに心を動かされています。ひとりでは病院に行くことさえしなかったひとが、電車に乗るのが大嫌いだったひとが、わたしの知らぬ間にひとりで電車で他県の病院に定期検査に行っていたのでした。....あなたはわたしにとって勇敢だけれど無鉄砲な勇者でした。今 あなたは思慮深い賢人であり真のヒーローになろうとしているのでした。


  自分自身さえそれと気づかない隠されたうらみや憎悪はひとのカラダを蝕みます。我慢をしてはいけない、自分を偽ることは美徳ではないのです。感じたこと思ったことは伝えたほうがいい。それらのこと、日々の愛憎..から生まれる澱のようなものをどう流してゆくかは...カラダの求めにこたえ、カラダが真に欲している食物を食し、運動によってチューニングをするとおなじくらいたいせつなことです。

  病とは、生き方のリセットのチャンスのように思います。身体から発せられた愛のメッセージのように思われます。そのメッセージに気づき生活を変えてゆけるひとはしあわせですね。
 
  友人の顔は耀き、笑顔であふれていました。絶望や悲しみをのりこえてゆくこと、かなしみや希望をだきしめることはひとを浄化し耀かせる。ものがたりのなかでもそうなのではないかな.....登場人物とともに深い絶望や限りない悲しみに身をゆだねること、躍り上がるような喜びを体験することは浄化(カタルシス)にほかなりません。そのようなものがたりを読書でも、芝居でも語りでも身体やこころで感じる体験をつんだひとは、そのつど再生すると同時に実際の人生におけるさまざまな対処法を知らず知らずに身につけてゆくのではないでしょうか。

  カーブの発声をしてみせるとすぐに響きがわたしのうしろから回って前に出ていると指摘してくれました。耳がいいなぁ...とわたしはうれしくなりました。運命の潮目をくぐりぬけたあとの友人の語りを聴きたい....と思いました。



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   先日、「女のひとの声が低くなっている」と書きましたが。ネモさん(友人・経験ゆたかな現役教師)に会ったとき「子どもたちの声、低くなっていない?」と訊くと「なっている。声は低く、低体温で 響かなくなっている」という返事がかえってきました。響かない....ということばに、わたしも頷きました。おなじものがたりを語っても数年前とは手ごたえが違うような気がしていたからです。(低い声になっていると考えたのはわたしたちだけではないようです。参考

   「どうしてだと思う?」と問いますと「子どもたちは考えなくなったようだ」.....子どもたちは考えるより反応することが多くなった?....見る刺激、感じる刺激に即反応する....タメがない.....聴く力が弱くなっている.....雑音が増えたせいかも.....静寂が無くなったから.....ゲームとかCDの選択的デジタル音に慣らされているから?.....聴く力と考える力は直結している....このままでは困るね...

   この会話を思い出したのは昨日、ビウエラレッスンのときの水戸先生のことばからでした。倍音でマントラを唄詠したときなぜ空間が熱くなったのか...という問いにいとも簡単に「音は振動だからだよ」という明快な答が返ったのです。音は波である、空気を振動させる、だから熱くなる。倍音ゆえに余計そうだったんですね。ちなみにCDやゲームのデジタル音はパルスであって音本来の振動ではありません。

   
   水戸先生とこんな話もしました。「先生の耳は格別いい耳だから、下手なビウエラをお聞かせすると、辛いだろうな..と遠慮してしまう」と申しますと。正直つらいときがある。下手な音を聴くと自分も下手になる....という衝撃の返事がかえってきました。そうだ、たしかに....とわたしは思いました。語りの会でほんとうに共鳴したときは一度聴いただけで語れます。ですが、反面くせやなにかが耳にこびりつき、実際にうつってしまって、自分でぎょっとすることがあります。耳はコピーしてしまうのです。

   話はすこし変わりますが、公演の前、テープにとって全体をチェックすることはあっても、一回しか聞かないのは、聞くことで語りが次第に痩せてゆくことに気づいたからもあります。自分の語りを耳でコピーして語ってしまう....そうすると生命力、躍動感が希薄になる、ものがたりを生きるのではなくなぞってしまう。

   器楽にしても語りにしても朗読にしても、ほんもののいいライブを実際に聴くことは喜びであるとともに上達のためのひとつの方法なんですね。子どもたちのためにうつくしい日本語で語りたい....というのも根はおなじです。子どもたちがやはらかな感性、やはらかな耳、やはらかなみずみずしい心を持っているうちに、質のいい音楽や演劇や語りや朗読を おとなたちが届けるのはおおきなおおきな贈り物です。

   心に”響く”というのは文字とおり響く.....人の声や音楽の振動に身体や心や魂が揺り動いている....共鳴している状態なのではないか....ライブがより感動を生むのは生の振動が伝わってくるからです。そこに子どもたちの耳を変える活路のひとつがあります。



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   ネモさんに会う前に河合楽器で440ヘルツの音叉を買いました。赤ちゃんの産声が世界中どこでも440ヘルツ付近であることをご存知でしょうか?そのことから1939年の国際会議で国際標準ピッチをその440ヘルツに合わせたのだそうです。これが 基準音「A(ラ)」でオーケストラのチューニングはこの音が基準になります。(アメリカでは442ヘルツ)

   このラの音は産声ばかりでなく洋の東西を問わず宗教的な恵み、慈しみ、救い等をあらわす音....と言われています。以前倍音ワークのとき、440ヘルツでマントラを唱えると空間が一変したのですが、それをたしかめてみたかったのですが、さて、実験はあとにしてお話をつづけましょう。



   ネモさんとはじめて会ったのはたぶん今から8年前のことでした。いい友人は自分をうつす鏡のようなものです。わたしたちは年に一度逢瀬をたのしみ互いの今立っている位置、目指す場所を確認しながら歩いてきたのでした。

   8年前、わたしたちは迷いのなかにいました。夫のこと、子どものこと、仕事のこと、朗読や語りのこと。なにを優先すべきか、ひとつひとつにどう対処していけばいいのか、どのようなステップを踏めばいいのか、語り合うのにいくら時間があても足りなかった。選択できる道が複数ありました....。今、目の前にはもう一本の道しかありません。そしてそれはお互いに熟知していることでした、わたしたちは成熟への道を進んでいるのでしょうか。

   けれども、わたしは余剰があった、のしかかる現実とともに未だ夢があったあの頃をいとおしく思いました。ひとつ選びとるたびにひとつ得るたびにわたしたちはなにかを贄に差し出し喪うのです。それは人間と天なるもののあいだの契約のように思われます。


   しかしながら 今、世界は逼迫しています。わたしたちはこの文明の終焉と新しい文明の黎明のために、それぞれがそれぞれの場でなすべきことをしなくてはなりません。たぶん、喜びを持って。ネモさんは学校の子どもたちのところに、わたしはわたしの働く場と家庭と語りの場へ。

   気づくことがたくさんありました。わたしがしようとしていること、それは社会や他者に向けた発信であり試みでありながら、此処に居る、生きて今いる自分の成就への試み、生成と復活の試みであるのでした。そしてわたしの知る誠実な多くの方々がおなじように身を削り、贄をささげ、対価を求めず、試みそのものを喜びとし分かち合おうとしているのでした。わたしはネモさんにわたしの持っている情報を手渡しました。

   寂しいような哀しいようなそれでいてほんのり明るい夜でした。



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........朝、なんの気なしにトマティス体操をしてみた。驚いたことに腰の上わき腹がしっかり膨らむのである。ヴォイストレーナーのやまもとさんも言っていたが、よい呼吸のとき、息を吸うと膨らむその場所が、一ヶ月前、「幸福の王子」の最初のレッスンでペタリと動かないことにがっかりした。それが呼吸とともに規則正しく膨らむのである。エクササイズをしたわけではない。意識して脇を伸ばすエクササイズだけは続けていたが、それだけでずっとなおざりにされていたからだは目を覚ましてくれた。

   テレビに元ちとせが出ていたのでいっしょに歌ってみる。...声の出方が違う、二階に行って、エリザベートやイタリア歌曲も歌ってみる。いつのまにか声に余裕ができている。......身体は正直だ....意識してすこしでも面倒みてやるとちゃんと応えてくれる。不思議だ、ありがたい、うれしい。

   メニューをつくってみよう。身体のもとからすこしずつ切り替えよう。10代でもなく20代でなく40代でさえない、あとすこしで還暦には違いないが、応えてくれるからだに答えよう。脳は死ぬまで進化を続けると茂木先生はおっしゃった。声は最後まで衰えない能力(ちから)だそうだ。身体とこころが変わってゆけば語りも豊かになるだろう。ひととの関わりも豊かになるだろう。老いに向かう生命の質を変えよう。


   今日はネモさんに会う。水曜はJさんに、土曜日は発表会、日曜日は語り基礎講座。8月はBさんと阿部さんの語りを聴く。つながりがひろがる。あたらしい絆が生まれる。誠実に生きているひとはみな耀いている。わたしの生命も花と耀くように。



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   これはと思う方に出会って感じるのは、あるストイックさである。日々自分の演奏や芸に対して足らざるところ、出すぎたところを逐一修正していく弛まざる努力を継続する意志、そして自分の目的完遂に余分なものは廃除しようとする強い意志である。常に現在(今)の自分を超えることをめざす、これこそがプロなのだろうと思う。またひとつの目的に絞らなければかなわぬことである。だからプロは情に溺れない。

   わたしに圧倒的に欠けているのもまたその二点である。具体的な練磨のメニューを持たないし、気が向けば歌い、気が向けば骨導音というお気楽さ、そのうえ練習はあまりしないで、霊感が舞い降りるのを待つという傲岸さ.....。だいぶよくなってきたが情緒に流されすぎる。なんでも興味を持ち、余分なものを抱え込みすぎる。おまけに創作の苦痛から逃れるために安易にブログに走る。

   練習をしないのは日々生成してゆく....内面が変われば語りも変わるという自負と練習しすぎて失敗した...なぞってしまったという苦い思い出...そして生来ギリギリでしか動けない悲しい性分によるものだ。もちろん練習の不足で思うところまでいけなかった悔しさもあったが、練習しすぎて失敗するとほんとに損をした気持ちになるのだ。ケチなのかしら。

   それでも本心ではわかっているのだ。学校の教室でもステージでも本番のときは、精神、身体、技術最高の状態で出力できるように練習し調整すべきなのだということを....。そうした意味でわかりやすく、いちばん心を惹かれるのがアスリートの世界だ。はったりもなにもない。過酷な日々のトレーニングの明け暮れがある。そして華やかな大舞台、勝者はひとり、失敗すれば鼻もかけられない。その潔さが好きである。5分のステージの裏にどれだけの基礎訓練と練習と自分との闘いがあることだろう。

   この年になって過酷なトレーニングをやってみる? 伸びてゆくためにはコーチが必要である。語り手には発声も含めた身体性のトレーニングが、ものがたりを創作する力が、感覚を研ぎ澄ますことが、意識し統括し抱いて手放す勇気が必要である。そのうえに練習が....。

   タイムアップまでそう時間はないのかもしれない。それだったらやってみる? 自分との闘い、全力で?独力で?....それは無理だ。コーチを見つけなくては...そしてもう年だからひとつずつ確実にものにしてゆく。そうすればもしかしたらもっと伸びるかもしれない。だが、わたしにもっと必要なのは余分なものを..切り捨てる...気持ちを削ぎ時間を奪うものを捨て去る勇気なのだ。



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   「幸福の王子」のリハーサルの日、約束の時間より早く行きました。今日は始まる前にチームで練習する予定もあったのですが、すこし心配なことがあったのです....というのも実は先日うっかり台本を電車のなかに忘れてしまい、幾度もJRの忘れものセンターにTELしたのですが出てきませんでした。4回にわたる練習のなかで堀井先生の指示や指摘、また自分なりに気づいたことについてカキコミしてあったので、まるで地図を失くしたみたいに不安でしたが...かえって自分の意図的な演出からリセットされ自由に語ることができるかもしれないと前向きに考えることにしました。

   チームのおふたりと全体の流れを起承転結にしてみました。そしてつばめの目的、王子様の目的を明確にしました。最初はエジプトに行きたかったつばめは、なぜ王子のそばにいようと決心したのか、王子がひとびとの苦しみを自分の身を投げ出しても救おうとした動機は....このものがたりは”献身”のものがたりです。そして、到底及ばないながら わたしが自作の童話の中で伝えようとしてきたテーマでもありました。

   A、b、cチームの順でリハーサルは進みました。わたしたちはcチームご一緒のつばめも王子さまもすばらしかったです。まったくはじめてのかたがたった4回でここまでくるのかと感嘆しました。私自身は今日は一歩踏み出して 詠いあげてみようと試みましたが、そのようになったかどうかわかりません。ただ、今回はじめて、つばめと王子さまが台詞を言いやすいようにことばを置き、つばめと王子さまの台詞をうけて....エナジーをつないでゆくのがとても心地よかった....ナレーションの場合「....が言った」という文言が多いのですが、ひとつとして同じには発声しなかったように思うのです。聴いて、ともにいて差し出す....朗読劇ですからおのずから呼吸が生まれる。つばめと王子とナレーション...の呼吸...これは醍醐味でした。....あとは聴き手との呼吸です。

   最後に語り手の聞かせどころがあります。そしてラスト!音楽とぴったり合って絵に描いたように終りました。...堀井先生がおっしゃってくださったように意図的に計算したのではなく、偶然ぴったりあったという感じでありましたが、夢を見ているようでした。

   今日はお客さまが聴いてくださいました。実際の朗読シアターで「幸福の王子」のナレーションをなさっている女優の森 秋子さんです。森さんは三島由紀夫氏が主催された浪漫劇場で初演の”サロメ”を演じられた方です。三島由紀夫さんを親しく知っていた方がここにいる・・・それはとても不思議でした。森 秋子さんは講評でわたしの語りの呼吸とわたしの呼吸がぴったりで驚いた...とおっしゃいました。わたしはまだ実演を聴きにいっていないので、一度打ちのめされに行ってみたいと思います。

   語りをはじめて間もない頃、Oの会の代表Wさんと朗読と語りの違いについてweb上で喧々諤々論争したことがあったのですが、今はひとの心を揺り動かすことができるならなんだっていい、ひとり芝居だろうが読み聞かせだろうが朗読劇だろうが詠み芝居であろうが.....違いなどどうでもいいと思うのです。わたしもすこしおとなになったのかもしれません。テキストがあろうとなかろうと、文字やことばをただ音声化するのではなく、身体、呼吸にこころと魂をのせられるならそれはひとの心に届くし、揺り動かすことができる。

   今回、朗読劇というかたちで学ばせていただいたのには深い意味がありました。ひとにはそれぞれ発声のくせがあります。口蓋や口や身体の使いかたのくせについては前回やまもとさんから教わりました。でもそれだけではないのですね。しゃべり方のくせもある。語尾だけに絞っても消えがちだったり、反対に残ったり、伸ばしたり。焦って途中が抜けがちだったり、聴かないで自分ひとりで進めてしまったり....確かに性格が出ます。

   堀井先生は素晴らしい講師でした。10人の受講者はそれぞれが長足の進歩を遂げました。語りがたとえば朗読に差し出せるものもあるのではないかと思います。やはらかさとか融通性とか、けれども語りやストーリーテリングにおいてもうつくしい発声、うつくしい日本語についてもっと学ぶ必要があるのでは...と若輩ながら今回つくづくと感じたことでした。

   梅雨が明けました。カラ梅雨でしたから水不足が気になりますが、カラリと晴れ上がった空を見ると希望がわいてきます。やはり ひとさまに聴いていただかないと先に進めない....学んでばかりでは足りません。歓びが必要!!あの緊張でピンと張り詰めた凝縮した”気”....ここであってここでない場所で共演者や聴き手のみなさんと”生きて”いる。それはなにものにも替えがたい忘れがたい感覚です。来週の発表会、交感の時となりますように、最善を尽くすことができますように。



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   朝 お風呂で踝を磨いていました。浮腫みもしだいにとれてきてよかったなぁと足をさすっていたとき、不意にいとしさがこみあげてきて、まな裏が熱くなりました。身体をささえさまざまな人の出会いにわたしをはこんでくれた脚、覚束ないながら四人の子どもを育て上げたこの掌、おおくのものを抱きとめた腕.....湧き上がる身体への感謝に我をわすれ撫でさすっておりました。

   わたしは自分の身体をいとしいなどと思ったことはありませんでした。それは少女時代に植えつけられたものかもしれません。父やおさだ叔母のことばの端々から女の身体は不浄というイメージがしみこんだのかもしれません。それとともに聖書の禁欲的な考え方、肉欲をともなう身体のイメージ、また肉体をコントロールする精神という考え方....次第に身体は精神に従属するという誤った観念に深く考えることもなく陥っていた.....

   そんなことを思いながら身体を抱きしめていたとき、深い水底から記憶が甦ってきました。.....春でした。黄色の花が風に揺れていました。由紀ちゃんのおばちゃんが妹のヤスコの足をこんこんと湧き出る清水で洗っていました。「やっちゃんはいい子ね。ゆきとようこちゃんはぐずぐずいうけれど....」...わたしはゆきちゃんのおばちゃんはヤスコのほうがすきなんだ.....と思いました。

   夏でした。母が柱を背に蹲って泣いていました。秋でした。母は登校班の上級生たちに鉛筆をくばっていました。手に握られた鉛筆の束、母は越境入学させたわが子の打ち解けないようすや機転のきかないこと、なにごとにつけ行動がおそいことを心配したのでしょう。....けれども鉛筆を配ることはわたしにとって恥ずかしいことでした。

   冬でした。ねんねこにくるまれ母におぶわれてわたしは長嶋医院に行きました。母の背のぬくもり....と幼稚園なのにおぶわれているという恥ずかしさががわたしをつかんでいたたまれなくさせわたしはねんねこの襟に顔を埋めていました....たくさんのたくさんのことが思い出されてわたしを揺さぶります。近所のお母さんだち、由紀ちゃんのおばちゃん、チエコちゃんのおばちゃん、直ちゃんのおばちゃん....昔の女のひとたちは今の女のひとより高く澄んだ声をしていたように思います。

   それらの記憶のなかの5.6歳のわたしを捕えていたのは、愛されたいという想いと焼け付くような恥の感覚でした。筋肉組織の神経は過去のトラウマを記憶するといいます。わたしは自分が身体を受け入れたことで、それらの記憶が封印を解かれてあふれてきたのだ....と思いました。こんなふうに夫の体にも、娘の身体にも過去の記憶が刻まれている、すべてのひとたちの身体に....それはとても不思議なかなしいうつくしいことのように思えました。

   お風呂の澄んだお湯.....地球上の水の量は何億年も変わることがないそうです。空から落ちてきた雨は地にしみこみ、川を流れ動物や植物の体内をとおり、川となってみずうみとなって海となって、蒸発しふたたび空に還ります。この水の旅は平均して28日だそうです。水は輪廻を繰り返しているのです。

   そしてひとは....ひとも生まれ変わり、死に換わりして輪廻転生を繰り返しています。今世の記憶のまえに膨大な記憶がある、なぜかそれを表面上はリセットされてこの地上に戻ってくる.....水はどうなのだろう....蒸発するとき地上の穢れをすててゆけるのだろうか.....このわたしが浸かっている澄んだ水のひとつぶひとつぶはどんな旅をしてきたのだろう.....かつてシーザーの体内を流れたことがあったやも知れず、黄河をミシシッピーを流れたこともあったであろう....氷河に眠っていたこともあっただろう....

   わたしたちもそのようなものなのかもしれない。一にしてすべて、いつかみなもとに帰りまた旅を繰り返す。生きることは....汚れ穢れを消していくことかもしれない....そのためにかなしみや苦痛や喜びがあるのかもしれない....

   朝 お風呂のなかでそんなことを考えておりました。



   

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   包丁道は平安時代、光孝天皇の命により、四條中納言藤原朝臣山陰卿が作法として確立したものです。光孝天皇は料理好きな方でしたが、人が生きていくためには他の生き物を殺生しなければならないことに非常に心を痛めるような方でもありました。そこで自分たちの食のために犠牲になった自然の生き物を供養し、同時に悪霊を追い払う儀式を執り行おうと考えられたのが始まりでした。

   これが現在まで四條司家に伝承されている四條流庖丁儀式で、伝統を担う四條家当代の四條隆彦さんからごく内輪で7人ほどでお話をうかがいました。わたしは在原業平や和泉式部の暮らしの一端を知りたくて、いくつか質問をしました。

1 貴族は365日のうち300日は儀式に明け暮れていた。
2 夜中の二時三時まで 肴もなしにどぶろくを呑んでいた。
3 干し魚、塩漬け魚をもどしたり塩抜きしたりして食べた。
4 栄養失調だった。それでしもぶくれ....。
5 平氏が源氏に負けたのは貴族文化に染まった食事のせいである。
  源氏は玄米(強飯コワイイ)平氏は白米(姫飯ヒメイイ)
6 女たちが宴会に侍ることはなく、男ばかりだった。
7 食事は神との供食であり、おさがりをいただく。

平安時代の典雅な王朝文化は、まずしい食生活でつくられた!!


  その後 話ははずみ、日本の食文化とは神に感謝し、素材に感謝するものだと四條さんはいいます。素材を超えてはいけないのだそうで、フランス料理、中国料理と根本から違うそうです。....神に感謝する.....ネイティブのひとたちはみなそうですね。

  四條さんが語られた田植え式にしてもまず祝詞をあげ降神の儀をし、おわりに昇神の儀をします。以前書いた歌舞伎・能楽のルーツ猿楽→田楽→田遊び 踏んで舞って悪しき霊を追い払い、善き神を招く...とつながります。

  日本の文化をさかのぼると、ひとびとはつねに神とともにあったのです。ことたま、おとたまとたやすくつかわれ勝ちですが、....なぜおとたま・ことたまなのか、おとたまのなかに含まれることたまのその奥にあるものはなんなのか....彼方に想いを馳せるのは無駄ではありません。



  私事ですが、ながいこと右に傾いていた身体がすこしずつまっすぐになってきました。長い習慣のせいで首も背筋も返って左に傾いているような違和感があるのですが、鏡に映すと以前とはあきらかに違うのです。

  これは1月からしている自力整体で徐々に身体がほぐれ準備が整ったこともありますが、きっかけになったのは骨導音のように思います。カーヴ・骨動発声をすると自分の響きで身体が微細に震動するのです。天と地をつなぐ一本の糸になったような感じです。中心の確立がこんなかたちでできるとは夢にも思いませんでした。わたしの頚椎は左に、右の肩は前に 右肢は上が外側に捻れ下が内側に捻れています。気をゆるすと身体はくせがついたほうに戻ろう戻ろうとするのですが、なんとか言い聞かせながら自然なうつくしい姿勢に戻してゆきたいと思います。

  どうように声からも余分な力、くせをはずしてゆきたい、古武術にもつながりますが内奥を動かして最小の力で心に響く声を出したらあたらしい景色がひろがるに違いない。身のうちから溢れるように語りたい。語りもまた他の多くのこととおなじように本来降神の儀であり、感謝であり捧げものであり、共振し共鳴する生命の祭なのでしょう。あらたなあかるいよみがえりのちいさな祭、いのちを寿ぐ祝ぎ歌です。

  語りを知らなかったら、わたしは膝がわるいまま今も杖にすがっていたかもしれません。自分の魂や身体についてこれほど気づくこともなく、真理にちかづくすべも知らなかったかもしれません。語ることはわたしにとって自分を癒し振るい立たせることでもありました。おおいなる悲しみももたらしはしたけれど、それも賜物であったのでしょう。わたしは目を瞑り手をさしのべすべてをうけとめます。ありがとう.....。あなたの平安と幸福を祈ります。






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    メリハリの語源は尺八の奏法、メリカリ減り・上り(甲り)からきているそうです。音を下げることをメリ、あげることをカリといったのがメリハリ減り張りになったのです。

    メリハリといいましても全体の構成上もあるし、一小節のなかにもあるわけです。どちらかというと一小節のなかでより全体の構成、バランスがよりむつかしいでしょう。メリハリがないと単調になりますし、聴くほうとしては気持ちよく眠くなりがちです。もっと見直していいのではと思います。たとえ悲しいものがたりのなかでもどこかに明るみがある...そこを明るくすることで悲しみがいや増し、より感動的になります。楽しいお話にも哀愁の刷毛を一振りするだけでものがたりに奥行きが出ます。ステージのうえで語る場合は申すまでもありません。

    メリハリをつける上で重要なのが台詞。”台詞を立てる”といいますが、全部立ててしまったら意味はないわけですね。たとえば幸福の王子のつばめの台詞「あなたはもう何も見えない。だからわたしはあなたといっしょにずっとここにいます」のどのことばを立てるか....立てる...際立たせる...方法はいくつかあります。声音 強弱 緩急 間...それをどう組み合わせるか。これはつばめの愛の告白でもあります。像である王子もつばめも実は人間なんです。幸福の王子は...自分の目さえ貧しいひとに差し出す王子とその王子に命をささげて尽くしたつばめの至上の愛のものがたりなのです。う~ん....高校のとき、一年のサブテキストがオスカーワイルド....英語を訳して知った原文のうつくしさを思い出しました。今回は曽野綾子さんの訳でした。

    書いているうちにフォトショップでしているレタッチも思い出しました。わたしはプログラムを自分でつくるのですが、画像データを加工・修正する作業が不可欠です。必要なときは不要な部分を切り取りますし、色調を修整したり、光と影のコントラストをつけたり、周辺を透明化したりするのですが、それは画像をよりうつくしくするためであり、見てくださる方に感じてもらいたいからです。

    メリハリをつけるのも、そのような目的を持ちます。ものがたりへの愛、聴き手への愛といってもいいでしょうね。そのうえでものがたりを生きること、語っている自分 その自分を見つめている静かな自分を保ち続けることです。...とこんなことを申し上げるのも26日発表の「幸福の王子」のメリハリについて考えなくてはならないからなんですが、やっぱり出たとこ勝負かな...。




 
  

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   渋谷に向かう湘南新宿ラインのなかで「パパ 逗子はドイツより遠いの」と幼い声がしました。電車のなかに涼やかな淡い緑の風が吹いたようでした。見ると3.4歳の幼女とまだ若い父親で、父親はわたしの車のトランクに放り込んであるのと同じ、廉価な紺と白のシマのパラソルを抱えていました。これからふたりで海に行くのでしょう。

   子どもの声だけが持つ、特別な倍音成分があるそうです。高次倍音?それが心に響くのですね。それは無力な子どもに神さまがあたえてくださった身を守ったり、親を呼んだりするための機能なのかも知れません。子どもがかっていた”源”をまだ覚えているからだといったらロマンティックに過ぎるでしょうか。

   ほんとうの自分の声を求める旅ももうすこしで終着駅につきそうです。そのあとはゆっくり歩いていきましょう。今日の朗読のワークショップもとてもおもしろかったです。聞く(hear)ではなく耳偏の聴く(listen)であると日原先生は言いました。わたしはずっと聴き手ということばをつかってきたので、わが意を得た想いでした。

   語るとは聴き手を文字とおり共鳴させるのです。高いところで耳を意識して発声することで高次倍音が声に含まれます。骨導音は聴き手の身体と共鳴します。日原先生の骨導音はグレイッシュピンクを連想させるやさしい音でしたが、その声には自然に肯ってしまう心地よい説得力がありました。「声は”人格”です」日原先生はきっぱり言いました。







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   うちの会社はよくいえば自由で家庭的、社員さんたちはマイペースであくせくしない、いいところもありますが、責任の所在が曖昧なところがあります。右肩上がりのときのびのび自由にやってもらうのはいい、けれどもなにかトラブルがあったり、現在のような業界の構造的不況下にはよいとばかりいえません。

   埼玉県は歴代の知事が建築業界との癒着を取りざたされました。前任の土屋知事は娘の名前を公共施設につけたりの私物化があり、資金調達の不祥事でやめました。件の娘さんはわたしの高校時代のクラスメートでもあったのですが、それはさておき土屋知事の後任の上田知事は「公共調達に関するプロジェクトチーム」座長を務めていることもあって建設業界にたいしシビアな政策を進めています。

   建設業のひとたちは他に仕事をみつけてほしい....みたいなことも言ってますし、現在、県単価の逆さやが起きているのです。たとえば県単価では土木作業員8600円ですが、うちの会社で使っている土木作業員は10000円から16000円です。材料においても最近値上がりが大きく仕事をしても赤字になってしまう。仕事を返上する動きも出ています。

   建設業は労働力を必要とします。つまり雇用を支えているのです。うちは決しておおきな会社ではないが家族もふくめれば100人近くのひとが飯を食っているわけです。いま県下の建設業界では知事に対して怨嗟の声があがっています。一昨日「知事が建設業界のアンケートの結果に驚く」というニュースがありました。建設業にかかわる会社を減らすのが知事の目的でもあったようですが減っていない、それなのに仕事は半減している、結果経営内容が悪化し、下請けをいじめる....単価を下げさせるしかないのです。

   基幹産業のひとつにたいしてこの仕打ちはなんだろうと思います。なにも大もうけしようというのではない。適正な価格があってしかるべきではないでしょうか。うちの場合30年前と単価は変わっていません。埼玉県は県単価をあげないといっていますが。上田知事に再考をお願いしたい。

   さて前置きが長くなりましたが、公共事業の下請けで大赤字になってしまいました。わたしは経理として今まで請求書とおり現場のいうように払ってきましたが、監督であり工事部長でもあるKさんに今回は業者さんにあたまを下げて協力してもらいなさいと話しました。彼は非常に温和な人間で苦労人なので、日頃からたいせつにしている業者さんたちに頼めなかったようです。そこでわたしは、彼に言いました。「部長として監督として責任をとりなさい」

   それはわたしにとっても一歩踏み出すことでした。なかなか言えないものですよ。会社に行っても言いたいことが言えなくて悶々とすることは多かったのです。KさんはきのうあちこちにTELして交渉していました。もうひとりの部長にもメールを打ちました。

   7月の給与から改革します。利益が出た部門は3ヶ月ごとに利益を配布します、営業についても完全固定給をやめ努力に応じて+アルファをつけます。それで会社の体質が変わるかわからないけれど、我が社が30年の眠りから目覚めるかどうかがこの業界で生き延びてゆけるかどうかの鍵を握っているのです。そのために経営者も社員も変わってゆかなくては、そして一層手を組んでいかなくてはなりません。


   きのう会社のキッチン・談話室の赤いポットが壊れました。中のポンプのプラスティック部分が劣化のため折れてしまったのです。その深紅の丸っこい象印のポットはわたしが家を出てアパートでひとり住まいをするとき母が持たせてくれたものでした。爾来新婚のときも子どもたちを育てているときも傍らにありました。35年間もいっしょでした。述べ幾人の方のお茶を出してくれたんだろう.....わたしは運び出されるポットに手をふれました。...ありがとう...ながいこと黙ってがんばってくれたね.......目頭が熱くなりました.....わたしもロートルだけどつかいきってもらえるまでがんばるからね。

   7月の終わり、基礎講座第一期が終わります。参加者の方々との交流は愉しいし発見もたくさんありました。けれど正直運営はときにたいへんで落ち込んだりもしました。縄文人なのと超右右脳なので段取りがたいへん。。。会社には有能な事務員さんがふたりいるのだけれど、語りはひとりです。これで収支合うのかなぁ....もしかすると赤字かも.....でも、いい、意を決してきのう第二期の講師に打診をはじめたところ、すぐによい返事がいただけました。力がわきました。第二期も素晴らしい講師が見えます。渾身のワークショップ、身も心もわくわくするワークショップになることでしょう。



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