太平洋戦争中の昭和19年、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた「対馬丸」は、
アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没。
犠牲者は、わかっているだけで1484人。このうち800人近くは子どもでした。
被害の全容は今もわかっていません。

平良啓子さんの体験から... 語りにしました。
対馬丸 沖縄市 平良啓子 9歳
1944年8月 本土へ疎開するという話があったとき わたしは本土に行けば雪が見られる、汽車に乗れる、と思い、疎開に行くことにしました。
出発の前におかあさんが「来年の3月にはきっと会えるから、それまでは辛抱するんだよ」といいました。
8/21 貨物船対馬丸に乗って那覇港を出航 従妹の時子が 啓子が行くならわたしも行くってふたりでぎゅう詰めの船室にいました。 22日の夜 ボーンという音で 目を覚ましたら 船は沈みかけて わたしは あっという間に海のうえに浮いていました。沈みかけた帆柱に子どもをおんぶしたおかあさんがよじ登って 「兵隊さん助けて、助けて」って叫んでる。船がガラガラくずれて みんなポンポンと海に落ちていく 遠くのほうで子どもたちがワーワー泣いている、叫んでいる。対馬丸は爆発して 炎があがって その横波でボートが転覆して 子どもがポロポロ落ちて、サァーっと波にひきずりこまれてゆく 台風で波は荒くて。波がくるたびに物や人がわたしのうえにのしかかってくる ちょうどお醤油のおおきな樽がながれて来たから それに乗ってあっちにゆられこっちに揺られていると すぐその前を半袖の白いブラウスを着たトキコが「怖いよ 恐いよ」って泣きながら流れていく、 「トキコー、トキコー」、 海はもう暗くて、トキコの姿は見えなくなった。悲しかった。二人だったら、一緒に頑張れると思ったのに、泣きたかった。
そのとき おかあさんの言葉を思い出して。お母さんに会うまではわたしは死なないで帰るんだって 泣きたいけどがまんした
あっ50メートル向こう おとながかたまっている あぁ、つかまる物があるんだ。向こうへ行けばわたしも生きられる、あっちへ行きたい、行きたい、みんなのところに、波に浮かんでる物とか死体とかをかき分けて、かき分けて、死体を触るのも恐くなかった、大きな波が、ドドーっときて何度も死ぬんじゃないかと思った。
やっといかだに片手をついた途端こっちから流れてきた男の人が、わたしの両足をつかんで引きずり落とそうとする 落とされたら、もうおしまい、死ぬのはいやだ、両足で男の人の手を蹴って、蹴って、蹴っ飛ばして、いかだにつかまって、ふーっと息をついたら 今度は乗ってる女の人がわたしを押し倒して、わたしは海にひっくり返った。
恐い男がいっぱいいる、男が、女が、大人がいっぱいいて恐い、どうすればいいの、よし、わからないように潜っていこうと、ふっと息を吸い込んでいかだの下にもぐった。指をいかだに引っかけて、頭を全部隠して、苦しくなったら顔を出して、すきを見て今だ! いかだにはい上がって滑り込んだ、このいかだがなければ死ぬから。
いかだの上に最初は10人 おばさんとおばあさんが7人、女の子ふたりそれで男の子が一人。
夜があけて 遠くのほうを見たら、あっちにもこっちにもたくさんのひとが浮いている。そのとき見えたのが、サメ。サメが子どもを海に引きずりこむのが見えた。いかだはどこに行くのかわからない 青い海ばかり 島はどこにも見えない 流れていく
三日目 夜が明けるたんびに一人消え、二人消え、いつのまにか人が減る。居眠りしていかだから落ちたら、もうはい上がれない。波がサーッと引きずりこんでいく。
目の前のおばあちゃんが目を開いたままズルズルっといかだから落ちる、「おばあちゃんおばあちゃん」って引っぱる。またズルズル落ちる。ひっぱる それを見たおばさんが、「あのおばあはもう死んでいるんだから、手放しなさい」って。「死んでいません、目開いています、このおばあちゃん生きていますよ」、「いや、死んでるんだよ」って。そう言えば水がかかっても目玉閉じない。ものも言わない、ああ、こうやって死ぬ人もいるんだなと思いながら 、わたしは手を合わせました。おばあちゃんごめんなさい、わたしが悪いんじゃありませんって。どうか神様になって下さいって つかんでいる着物の襟を手を放したら、おばあちゃんはきれいな水の下に、目を開いたまま沈んでいった。
............ 以下略
啓子さんは 6日後 無人島に 漂着します。半年後 沖縄に帰れたのですが
そこで 最初に 会ったのは 時子 の おかあさんでした。
啓子さんは 成長して 小学校の先生になりました。
けれども 時子さんと おばあちゃんが 死んだのは 自分のせいかも知れない
と そのときの 体験を語り続け 一か月ほど前 亡くなりました。