軍隊には慰安婦が必要だ.....そんなことを言うのは男である。すけべな男である。 橋下さんは行状からみてわかるように相当すけべである。こういうのは率直とはいわない。連れ去られ騙され 1日 何百人も男の相手をさせられる それがどんなことか.... 平気で慰安婦が必要という 女にとって許しがたい暴言である。そんな男を支持する女性はむろん 自分がそんな目にあうかもしれないという想像力はもちあわせていないのだろう。 だがもちろん橋下の本音はそこにはない アジアと日本を分断させたいのでしょう。石原氏どうよういい迷惑である。原発にしろガレキ焼却にしろ企業 国側に立っていることは明白。庶民の側には寸毫も与しない。一刻も早く引退していただきたい。さらば 橋下♪ さらば石原♪
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以下抜粋
「うめまる」、「うめか」、「はるこ」、「まさこ」…九十歳近い老人は、はっきりとその女性たちの名前を記憶していた。
六十年前、現在のインドネシア、アンボンで旧日本軍の慰安所にいた日本人女性の名である。
陸軍の山砲兵第四十八連隊に所属していたという旧日本軍兵士の老人は、慰安婦問題の立法解決を考える集会の新聞記事を読んで連絡してきた。戦友会のかつての同僚たちは、慰安所にまつわる話に触れることを快く思わないだろうが、しかし、死ぬ前にどうしても語っておきたいことがあると杖をつきながら不自由な体をおして、訪ねてきた。補聴器を付けていたが、こちらの話は、ほとんど聴こえておらず、会話がなかなか成立しない。老人は、耳が遠いため、野太い声で過去の記憶を行きつ戻りつしながら話をしていった。封印されてきた戦争の実相にわずかでも迫ってみたいと願っても、戦後六十年という歳月の長さと、残された時間が限られていることを改めて実感する。
この元日本軍兵士、Iさん(本人の希望により匿名)は、1939年(昭和14年)に入隊し、台湾から中国海南島、福建省、フィリピン、インドネシアと下級兵士として転戦していった過程で日本軍が駐屯していた様々な地の慰安所を見聞きしてきたという。1944年、終戦間際のインドネシア、アンボンの慰安所には、十三名の女性がいて、そのうち、七名が日本人であった。Iさんは、何度も繰り返し語った。アンボンに来るまでは、「朝鮮ピー」(軍隊での朝鮮人慰安婦の蔑称)の存在は知っていたが、日本人の女性まで慰安婦として狩り出されているとは思いも寄らなかったと。彼女たちの大半は、看護婦や女給の仕事と誘拐まがいに騙され、慰安婦として狩り出された境遇がほとんどだったという。
戦前、中国・上海の海軍慰安所で「従軍慰安婦」として働かせる目的で、日本から女性をだまして連れて行った日本人慰安所経営者らが、国外移送目的の誘拐を禁じた旧刑法226条の「国外移送、国外誘拐罪」(現在の国外移送目的略取・誘拐罪)で1937(昭和12)年、大審院(現在の最高裁)で有罪の確定判決を受けていた。〈中略〉「国外移送誘拐被告事件」と題されたこの判例によると、事件の概要は、上海で軍人相手に女性に売春をさせていた業者が、32年の上海事変で駐屯する海軍軍人の増加に伴い、「海軍指定慰安所」の名称のもとに営業の拡張を計画。知人と「醜業(売春)を秘し、女給か女中として雇うように欺まんし、移送することを謀議」し、知人の妻らに手伝わせ、長崎から15人の日本人女性を上海へ送った。 (毎日新聞1997年8月6日)
日本人慰安婦の場合、公娼制の下で国家管理下、売春をさせられていた女性たちが、まず狩り出されていった経緯があるにしても、この様な通牒が陸軍と内務省から連続して発せられている背景には、慰安婦徴募に際し、人身売買や就業詐欺等の行為が、当時の植民地のみならず、内地においても少なからず横行していたことを物語る。そして犠牲者は、同様に当時の社会の底辺に在った貧しい階層の少女たちであった。賢明さや理性、様々な情報網からあらかじめ排除され、悪質な業者の魔の手から逃れる術が最初から断たれていた寄る辺のない少女たちーいつの時代も彼女たちが、真っ先に男たちの欲望の餌食に供されていく。過去百年の歴史の中で、日本は、アジア地域において、そういった少女たちの動向を左右する核となる磁力を温存し続けてきたのだ。この元兵士は、慰安所や敗戦後の帰還の過程については雄弁に語っていたが、具体的にどのような戦闘行為に携ったかは、多くを語ろうとはしなかった。
海軍第二十五特別根拠地隊司令部付の坂部康正主計将校の回想によれば、アンボンでは、戦局が悪化して日本人女性が慰安婦も含めて内地に帰郷したために、司令部の「M参謀」は、現地の若い女性を百名程、慰安婦として狩り出す命令を下したと述べている。
命の心配がなく、食事も充分と言う事となると夜考えるのは女の事、なんで日本女性を泡を食って帰したか、今更くやんでも始まらない。我々ガンルームは始めから現地女性とうまくやっていたから不自由はなかったが、収まらないのは偉いさん達、特にM参謀はこの件について御熱心で、転勤前に山県長官からお許しを得ているからという事で、アンボンに東西南北の四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とはマレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて原住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、きめられた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に原住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きもできなかった。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。果して敗戦後、この事がオランダ軍にばれて、原住民裁判が行われたが、この計画者は既にアンボンに居らず、それらの女性をひっぱった現地住民の警官達がやり玉に上がって処罰された程度で終ってしまった。彼女達が知っているのはひっぱった警官だけで、この事件の真相は闇に沈んだ。
『滄溟』海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編