遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 





  矢車草は野の花のなかでもっとも好きな花かもしれません。矢車草のブルーは黄昏の菫がかった空の色、どこまでもつづく草原の匂い そしてなんとなしに子どもの頃の母のイメージでもあるのです。

  体調が優れず家にいます。あたらしく生まれるために、捨てなくてはならないものがあって、身体のほうは捨てようとしているのに 心がついてゆかないで ゆらゆら揺れています。復活できるかどうかいささか心もとなさがありますが、気持ちを奮い立たせるのに会場の手配などいたしましょうか。

  ケルトの音楽を聴いています。ケルトの音楽は日本の旋律にちかくて抵抗なくしみとおってきます。語りの歌はたいてい自然に湧きあがってくるのですが、”ケルヴィンの竪琴”だけはケルトの曲に詩をつけたのでした。ケルヴィン...は可哀相なものがたりでした。櫻の会のために再話したのですが、わたしは実は「空と海と大地の話」が語りたくて迷いのうちに語ってしまいました。歌も自信をもって歌えたわけでなくひとつははしょってしまいました。もういちどケルヴィンの竪琴を...エイリーと勇士コルマックと竪琴弾きケルヴィンの愛のものがたりを語ってみたい。

  三角関係には違いないのですが”ディアドラ”や”トリスタンとイズー”に比して、最愛の女を奪われるケルヴィンがくっきり描かれている...というかケルヴィンの立場で描かれているところが興深い。幻視者でありケルトの耽美と運命の紡ぎ手、フィオナ・マクラウドが男性ゆえかもしれません。

  伝説はだれのものでもなくて、ものがたりに惹かれたひとが語ればいいのだと思います。そこには普遍的なテーマがあります。そしてそのテーマは受け取るひとの心が感じるものであって、語り手のメッセージである必要はありません。それは古事記でも中世の題材をもとにした、わたしでしたら芦刈や朱雀門でもおなじです。

  語り手が手放したものがたりは聴き手の今や過去、また深層意識に響くのですから、ある意味で語り手はあづかり知らぬ者であり、むしろ聴き手自身が問われる。ものがたりそのものはシンプルですが、聴き手ひとりひとりにとって、またおなじものがたりでも語られるたびに聴き手の今に共鳴してさまざまな波紋を呼び起こすのではないかと思います。よって神話・伝説はつねに永久にあたらしいものがたりであり続けます。

  ものがたりは語り手の体と魂をとおって語られますが、そこで語り手はつなぎ手であってそれ以上のものである必要もない...と今はそのように感じています。ものがたりは語り手聴き手の共同作業といいますが、完結するのは聴き手の心の中です。笑い話や参加型はまた別の世界ですが....。

  つなぐ役目であるからこそ、語り手としてできるだけうつくしく生き生きと伝える、いにしえのものがたりを今に甦らせる努力をするのです。先日、弥陀ヶ原心中の数え歌..ほうすけの歌...ディアドラの歌を先生に歌を採譜していただきタブ譜に変えていただいています。今週のレッスンにはできあがるでしょう。ケルヴィンも他の歌もお願いしましょう。それはいつかたいせつな財になるでしょう。



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  みなさま いかがお過ごしですか? あたらしいサイトはできない。懸案の事項は進まない。けれど五月の空は、風は、花々は........。小貝川の岸辺にて 五月のうつくしい日。




一面の白い花




一面の黄の雛罌粟



どこまでも赤....









一点の赤


岸辺の森にひそむものは




渡し場....渡し守は向こう岸へ舟をつないだまま、どこへ行ったか姿が見えない......小泉八雲






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   阿字ヶ浦で波音を聴きながら浜辺を彷徨いうつくしいものをひろった。それは波に洗われ砂や小石に磨かれたガラスの破片だった。カドがとれてまぁるくなって微細なキズが水色や緑のガラスを霜がおりたようにスモーキーにしていた。



   浜には骨のように白くてなめらかな手触りの貝のかけらも落ちていて、わたしはそれもひろいあつめたけれど、娘たちは競って宝石のようなガラス玉をさがしつづけた。砂地を這うようにはまゆうがらっぱのような花を咲かせ、はまなすは甘く匂う。あわい空は雲ひとつなかった。



   自然はうつくしいけれど、ひとの手にかかったものを自然が仕上げてくれたのはもっときれいだ...と娘はいって緑のまるいガラスを陽にかざした。...なるほど純な魂はうつくしいけれど、傷ついて傷ついて磨かれてゆくのなら、それはもっとうつくしいかもしれない...と思ってみたりする。

   語りはおのずとひととなりが出る。迷いも荒ぶる気持ちも手練れのわざもういういしさも知識も格も...それだからおもしろい。どの語りもどの語りもその意味で完結している。”今”がそこにある。”今”を永遠につなげようとするとき、祈りが生まれる。祈りに混じり気がないほどつながる糸は太くなる。

   病も苦しみも哀しみもわけあって生じる。それはわたしたちが気づくために贈られたギフトなのだ。磨かれるチャンスをいただいたのである。心をしずめて考えれば輝くばかりの賜物...なのだが、ひとは...いやわたしはイタイのは好きではない。すべてイエスとうべなうにはプライドが高すぎるし..。それでなかなか磨かれないのである。

   もっと楽な方法はないかなと考えてみる。語り手とはシャーマンの要素を多かれ少なかれ持つ。そもそも古代語り手はシャーマンだったのだから。そこで若干のリスクは省みず、つながるための試みをしている。自分の内、もっと内の内、底の底....その底はひっくりかえって天につながる。ひとの手を借りないでしてみる。

   あわい空のしたで 長い車の道中で 意識を内に.... 彼方に.....ほんのすこし変化がある。イタミは確かに消える。筑波のお山から波動がくる。眼で見えることは置いて ひとを感じてみる。するとやはらかい とてもちかい....そうか、ものごころついて以来ずっとつづけてきた客観視、ものごとを知る、自他との違いをまなぶことには弊害もあったのだ。違いをあげる、評価する、批評する。

   朝 おはなし会があった。いちばんまえで聴いていたN君のいちぶがこだまのようにわたしの中にいて、もの問いたげだ。午後 うたをたのしんだカタリカタリのみんなのいちぶもわたしのなかにいてなんだか不思議。わたしはここでたいせつな家族やカタリカタリのみんなや友人や社員さんたちを自分のなかに感じるように生きてゆこう。

   だれか くるしんでいたり困っていたら いっしょに感じよう。わたしにできることをしよう。あたたかい波が幾重にも幾重にもおしよせてくる。砂地にしみこみ 侵すとみえて沁み入りそっと抱きしめ磨いてゆく.....わたしの手が他者にすること...わたしの口が他者に語ることがいつもゆるされて在るように。



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手紙  


   友人からTELがきた。なにをしてるの? あなたには充分過ぎるほどわかっているはず、ことばで実証しようとする必要がこれ以上あるのか なにをぐずぐず...のような詰問で たしかにそれはそうだと思いつつ やはり必要があるからだという気持ちは否めない。

   この二週間バラバラになっていたきっかけは、ヒーラー養成の研修に行ったことからだ。いままでのわざとの差 受けたことによる身体的不調も原因だし 資金繰り上 また経営上の決断 家庭的な問題が いつものなにかをはじめるときのようにわっと押し寄せてきた。

   だが、一番ひっかかっていたのは、テクストにあった ”ワンネスを選ぶか集合的無意識をえらぶかふたつにひとつ”という一節だったように思う。ワンネスとは....梵我一如のこと?....梵我一如とは、梵(ブラフマン:宇宙)と我(アートマン:個人)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論ともいう。....とある。(このヒーリングはアーユルヴェーダと真言密教の流れを汲むもののようだった)

   この梵は神を意味するのではなく、生命の源であり、我とは真我であって、ふつうの状態の人間をさすものではない。集合的無意識とは人各々の深層無意識は人類全体の心の奥底で1つに繋がっていて集合的無意識を形成し、それがさらに宇宙的な普遍的集合的無意識に同調するというユングの考え方である。

   如しとは...のようなの意味である。ゆえにわたしは梵我一如=集合的無意識とまでいかないまでも梵我一如≒集合的無意識と考えていた。そこで葛藤が生じたのである。それではワンネスのわたしの解釈が違うのか...ワンネスとはひとつになる...とある。....このままの状態でひとつになることができるだろうか。今のままで? ひとつになろうとする試み..というのならわかるのだけれど。テクストの書き手から直にうかがったわけではないから、真意はわからないが。

   梵我一如=集合的無意識が問題になるのはわたしにとって語ることの根がまさにそこにあるからなのだ。語ることは喜びであり、自分のささやかな使命のひとつと考えているけれど、語ることが目的ではない。たとえば目的のためによりよいと思う手立てがあってそれに見合うわざを自分が持っているのなら、語りでなくそちらへ向かうかもしれない。乗り物ではない。目的地へ近づくことがたいせつである。

   目的とは...自らを癒し他者を癒す...自ら気付きつつ気づくように示唆する....梵我一如の我...真我に向かうこと...自分ひとりではなくて。そのために個の無意識の領域、集合的無意識の領域に響く語りがしたいのである。

   古代ギリシャでは癒しとは病人に向かってではなく、人間に向かってなされた。自らを癒したい人々は神殿に赴いた。沐浴し身を清め、哲学者と語り、マッサージを受け、自分とおなじように悩むひとびとが出るギリシャ悲劇を観てカタルシスを感じ、医師から診断を受け、薬をもらい 神殿で眠り神から啓示を受けた。これこそほんとうのホリスティック(まるごと)医療である。

   現代ではそれがバラバラにされている。ひとは哲学書を読み、温泉に行き、マッサージを受け、週末は映画を観たりして病気になれば病院に行く。語り手も一端を担う。子どもたちのおはなし会であろうとデイケアであろうと聴き手が喜びを感じ、あるいは自分の人生と重ね合わせ、なにかに気付くのであればそれは癒し+αすなわち再生であり、芸術とは本来そういうものであったはずだ。

   萩尾望都が2006年にSF大賞を受賞したバルバラ異界を読んだ。このことはもうひとつのブログで書きかけたのだが、今日のテーマにつながるので書いておきたい。アオバはいう。...わたしたちは生き返ってひとつになれるのよ....一つが全部に...苦しみも悲しみも飢えも死もなく....永遠に一つの生命体になれる....キリヤはいう....ひとつだって...永遠に?...そんなのおかしい...オレはオレだ....あなたはわたしでわたしはあなたなんていやだ....(原文のままではない)

   我の枠から解き放たれておおいなる波にのみこまれる至福を知らないわけではない。没我のなかで二度体験したことがある。...だがそれには個を我をまっとうしなければならないのだと考える。それはまだわたしが未熟であるからかもしれないが。とことん行けるところまで行きたい...もっと見詰めて葛藤して味わって愛して苦しんでそれからでいい、いつかゆだねられるようになるだろう。怒ったり悲しんだりすることはむだではないのだ。

   そういうわけで わたしは彷徨いながら見つけながら歩く。もうすこしでたいせつななにかが見えそうな気がする。語りはじめると自然にトランス状態になることが多いのだけれど、それを強化できないか知りたい。魂をもっときれいにすればいいのだとわかってはいるが、もっと簡単な方法があるのではという気持ちも捨てきれない。なによりもっと自由になりたい。

   さまざまな出会いとまた別れがあった。それぞれに意味があった。あした行きたい場所がある。やってみたいことがある。月曜は小学校で語る。いつもこれっきりと思って語りたい。TELをありがとう!心にかけて行動にうつせるあなたはゆたかなひとです。必要なときお日様があなたのうえにほほ笑むように、風が吹きわたるように..。


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井戸  


   今日はカタリカタリの日でした。なにをするかおおよそは決めておくのですが、具体的には当日の朝、感じたことをします。

   なにをしようかな...となぐり書きのノートをひらいてみると、ふたつ心に響くことがありました。昨年の夏、はじめてヒプノセッションを受けたときの記録とLTTAの講師ポーさんが直接語りかけてくれノートに書いてくれたことばです。

   どうしてすっかり忘れてしまうのでしょうね。セッションのときハイヤーセルフがわたしに伝えてくれたことばは実に多くの示唆を含んでいました。ハイヤーセルフってなんでしょう。わたしもよく把握していなかったので調べてみました。ハイヤーセルフとは波動であり光でありエネルギーであり意識の集合体です。わたしたちもまた波動であり、光であり、エネルギーなのですが肉体を持っています。ハイヤーセルフは意識する光であり、ことばのとおりより高い自分自身...なのだそうです。

  それではハイヤーセルフが語ったことばをノートのままに書いてみましょう。

ひとは光である
ひとの本性に向かって語れ
生きることの悲しみ、喜びを語りなさい
焦らずに待つ、向こうからやってくる
生きる力、聞き手の魂に響かせる

肉に曇らされた眼でなく
感覚に揺れる?眼でなく
霊的な曇りなき眼で見なさい。

自分で..?自分がやろうとしていることを信じ
家族を信じ
社員を信じ
めぐりの人々を信じ
光であるひとの本質を信じなさい。

自分を信じる
神の子 光の子である自分を受けとめる
自分を信じないものに..ひとは信じられない。
神の..受けとめられない 愛せない者に
ひとを愛することはできない。

心配することはない。すべてがある。

裏切られるということは
かって裏切ったのである。
裏切られることは 自分の価値を貶めることではない。
自分の罪が消えるのである。
笑って そうして見送る
何も言わず

身体に起こることは気づかせるためにある
すべて起こることには魂に....がある。

やるべきことは目の前にある。
周りの愛すべき人たちにあなたしかできないことがある。
人に気付きを与える。
それぞれの命に光があることを伝える。


   これを覚えていれば、そののち起きたことにすったもんだして苦しむこともなかったのになぁ...と思います。そしてハイヤーセルフからのメッセージはわたしに向かってされたというよりは生きることや語ることの本質であるように思うのです。もっとも、わたしは音楽が光である、ことばが光であることは信じられてもわたしがまた人間が光であるとは半信半疑なのですが...。もっと自分が信じられたらどんなにいいでしょうね。

   さてその一年前LTTAでポーさんがわたしになんとか知らせようと絵まで書いてくれたのはこんなことでした。

「あなたは深い井戸を持っている。深い井戸から汲みだして(Visual art ,Music ,Storytellingをとおして)ひとにわたしなさい」

   結局同じことなんですね。鶴城さんも 壌さんも ウィムさんも自分のことばで伝えようとしていることはみな同じように思えます。自分をカラにしてさりながら自分のいのち...の光を透して働きかける....ひとの奥の神性というものあるいは大元の記憶....に向かい響かせる。ものがたりをのせたことばや音楽や絵で幾度も幾度も...ひとびとに思い起こさせる。かつてわたしたちがいたところを、喜びをまたかなしみを....。


そして生き生きと生命を甦らせる。あらたまの生命を耀かせる。まわりのひとびとの、そして自分自身の...それを使命として感得せよ...とむつかしいことばでいうならそうなのではないでしょうか。もっと簡単にいうなら あたたかくかるくやはらかく それぞれが自分のまわりを照らす火となりなさい...ということではないでしょうか。身体の癒しそのものだっていいのだと思います。美味しい料理をつくってもてなすのもいいですね。

   
   さて、ふと気づいてみるとカタリカタリはメンバーにとって、大木の梢に守られた泉湧き出る場所のようになっていました。それぞれが生活から離れていっとき帰る場所、寄り添う場所です。子ども、親、自分たちにしのびよる老いや病の影 夫との関わり わたしたちの年代はいくつかの問題を抱えています。自分をみつめるのはまた家族との関わりを見つめるのはしんどいけれど、目を見交わし笑いあい無言で励ましあうこの場所は癒しの場でもあって、わたしは元気を取り戻し、会社と家庭というわたしの課題に向かって午後の陽射しのなかを再び歩きはじめました。




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  三陸の空


   先日空の下でのおはなし会をしました。頭上では欅の大木が風に枝を揺らし、みどりの若葉がさんざめいています。年長さんに語ったものがたりのひとつは「空と海と大地の話」どこまでも果てなくひろがる豊かな大地、青い空、豊饒の海、神話の昔からうけついできた空と大地と海をわたしたちは子どもたちに手つかずのまま手渡してゆくことができるでしょうか。

  富士山頂の大気の汚れは新宿の雑踏のそれをもう越えてしまったそうです。中国から日本海を越えてくる黄砂には多量に重金属が含まれています。大地の汚れ、農作物に与える影響も見過ごすことはできません。空も海もつながっています。不要なものの棄て場所であってはならないのです。日本の空の汚れは他国のせいばかりではありません
  
  とても心配なことがあります。いよいよ8月から青森県の六ヶ所村で使用済み核燃料再処理工場の本稼動がはじまります。アメリカ・ドイツは経済性と危険性(と思いたい)から撤退、現在世界で稼動している再処理施設はフランスのラ・アーグ再処理工場ただ一箇所です。日本の施設はラ・アーグをモデルにつくられました。もう一箇所、イギリスのセラフィールド再処理工場では2005年4月19日に重大な漏洩事故が発生し、操業を中断しています。このニュースをどこかで知った記憶はありますか?

  20トンのウランと160kgのプルトニウムの高濃度溶液漏洩という重大なニュースを日本のマスコミ・三大紙は報道しませんでした。一ヶ月たってようやく朝日新聞が記事にしたのです。ニュースは個人のブログを伝ってひろまりました。なぜ報道されないかお気づきでしょうか?ひとつは電力会社がメディアにとって大スポンサーだからであり、もうひとつの理由は使用済み核燃料再処理が国策であるからなのでしょう。日本のメディアも他国の報道管制を笑うことはできませんね。

  日本のマスコミばかりではありません。BBCが報道を控えるなかで、地方局が果敢な試みをしました。ヨークシャー・テレビ局は1年前から番組制作の準備を始め、様々な調査や情報収集を行いました。それによると、セラフィールド再処理工場周辺のシースケール、ウェーバース、ブードルの3村では、子供の白血病発生率がイギリスの平均発生率の5倍から10倍であり、特に同工場から約2.4km離れた海岸沿いにあるシースケール村では10才以下の子供の白血病発生率が平均の10倍に達していることがわかったのです。このテレビ番組は反響を呼びました。

  セラフィールドのソープ工場は閉鎖され現在に至っていますが、操業時ソープ工場は、毎日900万リットル以上、年間2億3千万リットルの放射性廃液をアイルランド海に放出しました。これによる汚染は、アイルランド海は勿論、北海、バルト海、ノルウエー海、バレンツ海、グリーンランド海にまで及んでいるとのことです。96年第4四半期にセラフィールド近海で捕獲されたロブスターから、1kg当たり3万6千ベクレルのテクネチウム99による汚染が検出されました。これは同じ場所での96年のデータの92倍に相当します。


  六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場が本格的に稼動すると平均的な原発一年分の廃液が一日で排出されます。どこに?海に棄てられるのです。六ヶ所村はどこにあるでしょう。豊かな三陸の海に面しています。今、わかめや昆布、魚やうに 豊かな海の恵みが汚染されようとしています。一度汚染されたら、元に戻すために長い歳月が必要なのです。放射性廃棄物は六ヶ所村の沖合の海に放出され、太平洋沿岸を流れます。廃液放出口からハガキを流す実験をしたところ、ハガキは東京湾まで達したそうです。太平洋岸の漁場、海水浴場の汚染も避けられないでしょう。それだけでなくセラフィールド再処理工場の事例では、海面に浮遊する微粒子に放射能が吸着して濃縮し、この微粒子が泡や波が砕ける際に宙に舞い、風に飛ばされて何kmも内陸部へと運ばれることが明らかになっているそうです。空気も大地すらも汚れてしまうのです。

   調査によれば、セラフィールドでも海で遊んだ子、海の幸を食した子のほうが白血病にかかる率が高かったといいます。また、イギリス政府が実施した未成年者の歯の分析調査で、プルトニウムによる汚染が、セラフィールドを中心に同心円状にイギリス全国に及んでいることが判明したそうです。ラ・アーグでも子どもの白血病が多発しました。

   六ヶ所村の問題は青森県だけの問題ではありません。日本全体そして隣国の問題でもあるのです。空も海もつながっているのですから。


  そもそも使用済み核燃料再処理施設は本当に必要なのでしょうか?現在、各原子力発電所の燃料は充分に備蓄されているといいます。一説によれば、東海村で幾度も事故を起こした再処理を国策として続けようとするわけは、核武装という野望にあるともいわれています。常任理事国になるため?強国と呼ばれたいため?まさか?それほど愚かとも思いたくありません。ほんとうにたいせつなものはなんでしょう。

  わたしたちの子どもたちのために、それからその子どもたちのために、世界の子どもたちのために うつくしい空と豊かな海と大地をまもるために おいしい魚や若芽の酢のもののために 六ヶ所村の使用済み核燃料再処理をやめるよう働きかけませんか。空と海と大地の話を語りつづける、そのためにもできることを自分もしよう、電力を減らすよう生活を変えてみようと思うのです。


参考1
参考2
参考3


三陸の輝く海
 

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  チベットは古代から独立国家でした。清国から支配を受けたことはありましたが、その後ふたたび独立しました。某国人民軍がチベットト侵攻をはじめたのは1950年のことです。たくさんの文化遺産が無残に破壊され、120万人のひとたちが殺されました。その間、某国政府はチベットのひとたちからもっともたいせつなことばを奪おうとし蹂躙をつづけました。


  先日、韓国政府は某大国に対し抗議をしました。聖火リレーで自国の国民が某国留学生に暴行されたからです。実は日本でも長野で大きな騒ぎがあり、フリーチベットを応援するひとたちが暴行を受けました。しかし、警察はなにもせず、日本政府は抗議すらしません。ネット上にはそのときの映像が記録されています。しかし日本ではテレビなどのマスメディアは実態を報道してはいないのです。なぜでしょう?某国政府は自国民にUチューブを禁止しています。映像は真実を伝えずにはいないからでしょう。


  わたしたちがテレビや新聞などのマスメディア(媒体)から得ている情報は必ずしも正しくはありません。真実を伝えない方法はふたつあります。ひとつは事実と違う報道をする。もうひとつは報道をさしひかえる。殺人事件の報道は詳細にされますが、わたしたちが知らなくてはならないことは、存外隠されているのです。世界の各地でさまざまな信じられないことが、今、起こっています。耳を澄まし目を凝らして知ろうとすることは意味のあることです。たとえ、一時は絶望しようと、祈るしかできないとしても。


   さて、語り手もまた一個のメディア(媒体)であるのです。語り手は“器”とも言えるのですが、それより“経路”というほうがより近いかも知れません。語り手は片側だけ(聴き手にむかってだけ)開いているのではありません。なにかに向かってもひらいています。古来から芸能とはひとびとに生き生きと生きるための生命力を与えるものでした。芸能は神事であって、その主体はおおいなるものからの生命力...エナジー….をひとびとに与える媒体(メディア)だったのです。


   古代、神は自然そのもの、生きとし生けるものの繁茂と育成をうながす宇宙のエナジーそのものでした。そのエナジーを人間にとりこむことが祭であり、芸能の原点であったのです。その原点が分化し様式化して後世数々の芸能になっていったわけですね。芸能の原点において、宇宙のエナジーにコンタクトする能力を持っていたのが巫女でした。巫女は経路となって、その場のひとたちに自然界の..神のエナジーを分け与えたのです。


   けれども、この宇宙とつながる能力というものはすべてのひとたちの中にあるといわれています。モーツアルトやアインシュタイン、スェーデンボルグなどのひとびとはそのコンタクトの方法を知っていて、直接コンタクトをし汲めども尽きせぬ根源からのメッセージをわたしたちに伝えてくれました。神懸り的な踊り手や歌手、役者、わたしたちに生きる勇気を与えてくれるひとびとは多かれ少なかれそうなのかもしれません。


   たとえば、能から出たことばに役者があります。役者はもともと生きた人間の役をするものではありませんでした。神や精霊、怨霊、亡くなったひとの役をしたのです。役者の別名である俳優の俳とは人に非ずと書きます。役者の壌晴彦さんはつねづね役者は依り代であると言っておられました。(余談ですが、能は出演者が事前に練習するようなものではなかった、本来まったくの即興だったそうです。なぜ、即興なのかはおわかりですね。)


   語り手としてどのような”媒体”になりたいか、また媒体としてではなくて、自分を表現してゆく道をとるのか、それはそれぞれの語り手に任せるとして、わたしは次第に自由になってゆく自分をうれしく思っています。いままでバラバラな知識としてあった、折口信夫、古神道や密教、原初キリスト教、神話、音楽、ユングやスェーデンボルグ、などがすこしずつつながってきて、芸能とはなにか、語ることの本質、響きの本質が鮮明になってきました。


   部屋のなかで本をひもとき、PCに向かうことばかりでなく、自然界のエナジーにふれることがきっかけだったのかもしれません。あたまのてっぺんが開けた感じがして、学ぶことはじつに楽しい...学ぶことより、自分を知ること、世界を知ってゆくことが愉しいのかな。もちろん、学ぶことがおこなってゆくことにつながってゆかなければ意味はないのですが、しばしのあいだ、たのしみたいと思います。


   昨年の秋、学ぶことで大きなチャンスを逃したことに気づき、がっかりしたのですが、あのときはNPOこそ意味のあることでしたから仕方がありません、ゴールデンウイークはあたらしい世界をのぞいてくるつもりです。仕事もおもしろくて、そんなこんなで連休明けにはあたらしいサイトをひらくつもりが、すこし先のことになりそうです。みなさま、どうぞ 実りある愉しい休日をお過ごしください。もし、どこかでお会いすることがありましたら、声をかけてくださいね。



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