遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



  彩の国芸術劇場までタイタス・アンドロニカスを観に行った。タイタスは清廉で勇敢な男、ローマのために闘い15人の息子を捧げた。ところがこのタイタスに対し タイタスに息子を殺された元敵国の女王 色香に迷った皇帝の新しい皇后は復讐を企てる。タイタスは長男を追放され、残された4人の息子を殺され 娘は陵辱されたうえに両手と舌を切り落とされる.....


  3時間半が長くはなかった。いままで観た蜷川シェークスピアのなかで屈指のおもしろさだった。だが 身の毛のよだつようなおはなしなのに 涙一滴出なかった。蜷川さんの芝居は以前より格段におもしろくなったような気がする。エンターティメントとしての水準は高い。だが感動はしない。なぜだろう ...であろう悲しみ .....であろう苦しみがそれらしく演じられている。登場人物がどんなに過酷で悲惨な状況にあっても涙も出ない。たとえ コスチュームプレイであってもはるか昔の設定であっても 登場人物が子どもを失ったり 傷つけられたりしたら それだけで観る側も心を搗き動かされ、平静ではいられないはずだ。子どもこそ世界中でもっとも愛しいものなのだから....ラスト 少年が処刑される極悪人のムーア人の赤子を抱き取るところで はじめて哀しみが湧いてくる。だが ここで少年が5回叫ぶことで 哀しみの感情はどこかに飛散してしまう。沈黙を生かしてほしかった。

  つまるところ 様式美の世界、華麗な絵空事の世界なのだ。....バランスもよくて緊迫感もあるのに...残念な気がする。満席であったし この芝居は支持されているのだろう。しかし 芝居小屋はちいさいほうが感動が深い 舞台とともに生きている感じがする。(この芝居も客席をローマ市民と仮定し 拍手など参加を促すのだが 反応は今一である。日本の観客は芝居を見せられるものと思っているのかもしれない。参加型のおはなしも大すきなわたしは ローマ市民の諸君 と呼びかけられて 何度もばんざい!と手をあげようとしたが ほかにだれもいなかったら おかしなものだから 断念してしまった。隣の娘も同じ気持ちだったそうだ。)


  語りにおいても 聞かされる語りでは醍醐味は半減する。聞き手もともにものがたりを生きることが必須の条件である。それらしき場面 それらしき表現ではひとの心に響かない。生きていることば 生きている感情だけがひとのこころを揺さぶる。 文字ではなく ことば がひびく。

  そこで 気づいた。ライブなのだ、語りは....本来 即興のものなのだ。つくられたものでなく 霊感によって 語られるものなのだ。テキストに縛られてはほんとうの意味で語り手ではない。語り手は大昔から自由だった。さすらいの語り手は その日寝る場所もなかった。カール・カルーソーのように。楽器や自分の声をたよりに歩いた。吟遊詩人もリュートひきもごぜさんも琵琶法師も。安定した暮らしを失うかわりに 彼らが手にしたものはなんだったのだろう。

  さて わたしはこの地にいてすべきことがある。身も心も仕事や家庭その他でさまざまなしがらみに縛り付けられている。だが 魂は自由でありたい。いまだ こびりついている垢 テキスト依存の気持ちを剥ぎ取ろう。そのためにできることをしよう。できるかしら? とてもむつかしい闘いのような気がする。 自由な語りをするためには もっともっと基礎的な力が必要だ。でも、失うものもない。6年前はなにも知らなかったのだから...だれか いっしょに歩いてみませんか?心を竪琴に魂から出ずる言の葉で ものがたりをつむぎだすという 本来の語りにむかって 歩いてみませんか。 


コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




  母は八人兄弟の長女で ふたり妹がいた。通叔母さんも和子叔母さんもあいついて連れ合いを亡くし 三人とも寡婦である。わたしは祖父母にとって初孫であったので 学校の長い休みの度に 母に連れられ 秩父に滞在することが多く 叔父叔母たちとも縁が深かった。

  通おばさんは母とおなじ小学校の教師だったが 性格は母とことなり温厚で中庸を絵に描いたようなひとだった。30を過ぎて結婚したのだが いくつか年下の伍雄さんに濃やかに仕えた。叔父さんは痩身で蒼顔 神経質なところがあったような気がする。たしか祖父母の金婚式の時だったと思う。祖父母 叔父叔母とその連れ合い そして17人の従弟たち 一族総勢が集まって一泊旅行をした。

  そのとき伍雄叔父さんはこんなことを云ったのだ。「洋子ちゃん いとこ会を組織してくれないかな」 その心は叔父さんの家には 娘がふたりだけなので 万一の時に助け合える 相互扶助組織のようなものがあったら...というのだ。娘たちはまだ小学生だったし、そんな先のことを心配しなくても...と思いながら軽く承諾したその約束は思いのほか胸に沈み ことあるごとに浮かび上がってくるのだった。

  5年前の夏 叔父さんは体調を崩して 恵比寿の病院に入院した。美しく成長したふたりの娘は 縁うすくふたりとも離婚し 姉は3人の幼い娘たちと両親のもとに身を寄せ 妹は傷心ののち留学した先で出会ったドイツ人と再婚しスイスに住んでいた。たわいもない約束を叔父はもうとうに忘れていただろうが わたしは何かに押されるように恵比寿に通った。

  肩の薄くなった叔母を励まし 叔父と四方山話をした。叔父は集めているという掛け軸と腕時計、なかでも金無垢のスケルトンの時計のことを気にしていて「おれになにかあったら、洋子ちゃん 頼む」というので「もうすぐ良くなるだろうから そうしたら叔父さんがなさればいいことだけど それで安心なさるならそうしましょう」と約束した。

  叔父は不眠症に悩んでいて、入念な就眠の儀式があるのだった。洗顔をし念入りに歯を磨く。折りたたんだティッシュを数組と水のペットボトルを枕元に用意する。ベッドに横たわり 入眠剤を服用し水を飲み 病室を辞する叔母とわたしにおやすみなさいとあいさつをする。

  叔父の病も癌だった。ある日 叔父の双眸が青いほど澄んで見えたので わたしは最後が近いことを知った。心のなかで今生の別れを告げ 母にもう近いと思うから別れを告げに行くようにと電話した翌々日 訃報があった。わたしは病院には行かず あたふたと家の用を済ませ 電車をのりつぎ 志木に向った。


 駅に着いたのは9時か10時 叔母の家は閑静な住宅街の一角にあり 庭先からはいると夜陰に花がほの白く香ったがなんの花か覚えていない。香を手向けてまもなく叔母と従妹はパジャマに着替え寝室に上がってしまい、わたしはいささか拍子抜けしながら ひとりで通夜をすることにした。

  なんの心配もいらないからこの世の執着を棄てあの世にいかれるよう声をかけ 死者にしてあげられることをした。夜明け近く 仮眠をとろうとしたが 布団がないので 北枕に寝かされている叔父の布団の裾の方でからだを曲げて眠りに落ちた。すると叔父が夢枕に立ったのである。浴衣を着た叔父は布団の枕元に正座し畳に手をつき 深々と頭を下げた。はっとして目覚めるとキッチンの窓から朝の光が射し染めていた。わたしはまだ人通りもない町を長い影を引いて帰った。

  はじめていとこ会を開き 叔父との約束を果たしたのは去年の5月のことだった。 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




  4月も半ばを過ぎると父のことを思い出す。「高遠の櫻を見にゆこうね」と約束したことがあったのだ。その約束を果たさぬまま 父は彼の岸のひととなった。痛恨の思い出がある。

  12年前の7月22日 わたしは父の病室にいた。忘れもしない、まるで家族が家の居間に集まってでもいるような 笑い声の絶えない団欒の一夜だった。家族が帰ったあと わたしは父のベッドのわきにソファをならべて 手をつないで横になっていた。なぜかそうしたかったのだ。父と話していた。源氏の跡を襲った北条氏は実は平家の流れを汲むこと 歴史の上で 源氏の流れと平家の流れが順に実権を握っているらしきこと...義経の話をしていた それから北面の武士や 西行のこと 吉野の櫻のこと...わたしは疲れてもう眠かった。目を開けていようとするのだが うつらうつらしながら ...高遠の櫻のことを話していた。

  そして つい 「とうとう 高遠の櫻 いっしょに見にゆけなかったね」と口走ってしまったのだ。父は気づいただろうか。わたしが父の最期が近いと知って...そう云った...と気づいてしまっただろうか。

  父は磊落に見えたが 神経の細かい性格だったから わたしたちは父に 癌であること 余命が幾ばくも無いことを隠し通し、親戚にも口外せず 家族で心を砕き力を合わせ 父の最期の日々をほのかに明るいものに 父が心残りなく あちらへいける様にしようと決めたのだ。こうして末弟の結婚式を4月に繰り上げ 6月には流産を重ねていた妹の子どもが痩せた父のひざに抱かれた。

 最後まで父は明るかった。最後の入院のあと 父は真顔でこう云った。「洋子 かあちゃんがかわいそうだから云うなよ。おれはどうも あの日 かあちゃんが出してくれた西瓜が痛んでいたんじゃないかと思うんだよ」.....父は入院を腐った西瓜のせいだと思っていたのだ。それは わたしたちの父のための計画がそこまでは成功した..という証だった。

  その夜 弟はひげ剃りは買ってきたのにアイスクリームを忘れてしまい 父は好物のアイスクリームを食べたがった。...夜中 父はもういちど アイスクリームが食べたいといった。「おとうさん ごめんね 今日はお店がもう閉まっているから 明日にしようね」 「そうだな そうするか...お茶を淹れてくれ」

  吸い口にお茶を淹れ手渡すと 父はひとくち 含んだ。  「うまいなぁ」そしてもうひとくち 「うまいなぁ」 そしてもうひとくち 「うまいなぁ」 腹から搾り出すような深い聲だった。 「ありがとう...」  それがわたしが今生で聞いた最後の父のことばだった。 夜が明けて ぐっすり眠っている父に声をかけるのを憚って帰ったあと 誰にも看取られずに 父は静かに息をひきとった。燃えるように暑い夏の日だった。

  その1週間前 突然の入院の前日 会社に電話が来た。「洋子 たまには出て来いよ」 めづらしいこともあるものだと 駆けつけると 父は 澄んだ目でわたしを見つめ 「一番 たいせつな人がきた」と微笑みながら云う。わたしは吃驚して からだが熱くなった。 すると父は両の掌でわたしの手をつつみ 「おまえがしっかりしていれば この家はだいじょうぶだよ」と云ったのだ。呆然とするわたしに 「...はいい子だな...はかしこいな...は楽しみだな...」とわたしの子どもの名をひとりずつ口にして「教育してやれよ 教育は大事だぞ おれは(おまえのこどもたちのことを)考えているよ 」と話したのだった。

  亡くなったあと 母は 「おとうさんは なにもかも準備していったみたい。障子を張替え 襖も張替え 畳替えして 庭師さんも頼んできれいにしていたのよ」とぽつり話した。病院の霊安室で わたしは父に「おとうさん いっしょに帰ろうね」と声をかけ続けた。そうしないと病院に残ってしまう方がいる..と聞いたことがあったから...わたしたちはそのころから 流行りだした葬祭会館での通夜、葬式はしなかった。 父は大好きだった家で最後の日々を過ごし 丹精した庭で 吟友のみなさんが 弔吟を手向けてくださる中を 旅立った。

  けれども わたしは 父が悪戯っぽく目配せして 「かあちゃんにはいうなよ」と云ったのは本心からだと思う。父は知らなかった。父の魂だけが時が迫っていることを知っていたのだと思う。

  おとうさん ごめんなさい。どんなに遠くてもアイスクリームを買いにいけばよかった わたしには寝息を立てて眠っているわたしのかたわらでおとうさんが カーテンからもれる月の光を額にあびて 目をつぶり 想いを追っているのが見えます。おとうさんの最後の時間 揺さぶってしまったでしょうか おとうさん 洋子はできないまでも おとうさんの気持ちに応えようとしてきました  でも もう弟たちや妹のことは心配しなくていいですね みんな立派にやっています おとうさん もうすこしのあいだ わたしを見守っていてください そして わたしが為すべきことを終えて その時 がきたら 怖くはないのだよ と迎えにきてください わたしはほんとうをいうとすこし こわいのです。

長い長い黄泉の川を渡ること 目を覆いたくなるときもあっただろうわたしの人生をつぶさに見なくてはならないこと そして この世の愛しいひとたち 愛しいものたちに 心残すことなく背を向け別れを告げられるかということが ..... 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )