4月も半ばを過ぎると父のことを思い出す。「高遠の櫻を見にゆこうね」と約束したことがあったのだ。その約束を果たさぬまま 父は彼の岸のひととなった。痛恨の思い出がある。
12年前の7月22日 わたしは父の病室にいた。忘れもしない、まるで家族が家の居間に集まってでもいるような 笑い声の絶えない団欒の一夜だった。家族が帰ったあと わたしは父のベッドのわきにソファをならべて 手をつないで横になっていた。なぜかそうしたかったのだ。父と話していた。源氏の跡を襲った北条氏は実は平家の流れを汲むこと 歴史の上で 源氏の流れと平家の流れが順に実権を握っているらしきこと...義経の話をしていた それから北面の武士や 西行のこと 吉野の櫻のこと...わたしは疲れてもう眠かった。目を開けていようとするのだが うつらうつらしながら ...高遠の櫻のことを話していた。
そして つい 「とうとう 高遠の櫻 いっしょに見にゆけなかったね」と口走ってしまったのだ。父は気づいただろうか。わたしが父の最期が近いと知って...そう云った...と気づいてしまっただろうか。
父は磊落に見えたが 神経の細かい性格だったから わたしたちは父に 癌であること 余命が幾ばくも無いことを隠し通し、親戚にも口外せず 家族で心を砕き力を合わせ 父の最期の日々をほのかに明るいものに 父が心残りなく あちらへいける様にしようと決めたのだ。こうして末弟の結婚式を4月に繰り上げ 6月には流産を重ねていた妹の子どもが痩せた父のひざに抱かれた。
最後まで父は明るかった。最後の入院のあと 父は真顔でこう云った。「洋子 かあちゃんがかわいそうだから云うなよ。おれはどうも あの日 かあちゃんが出してくれた西瓜が痛んでいたんじゃないかと思うんだよ」.....父は入院を腐った西瓜のせいだと思っていたのだ。それは わたしたちの父のための計画がそこまでは成功した..という証だった。
その夜 弟はひげ剃りは買ってきたのにアイスクリームを忘れてしまい 父は好物のアイスクリームを食べたがった。...夜中 父はもういちど アイスクリームが食べたいといった。「おとうさん ごめんね 今日はお店がもう閉まっているから 明日にしようね」 「そうだな そうするか...お茶を淹れてくれ」
吸い口にお茶を淹れ手渡すと 父はひとくち 含んだ。 「うまいなぁ」そしてもうひとくち 「うまいなぁ」 そしてもうひとくち 「うまいなぁ」 腹から搾り出すような深い聲だった。 「ありがとう...」 それがわたしが今生で聞いた最後の父のことばだった。 夜が明けて ぐっすり眠っている父に声をかけるのを憚って帰ったあと 誰にも看取られずに 父は静かに息をひきとった。燃えるように暑い夏の日だった。
その1週間前 突然の入院の前日 会社に電話が来た。「洋子 たまには出て来いよ」 めづらしいこともあるものだと 駆けつけると 父は 澄んだ目でわたしを見つめ 「一番 たいせつな人がきた」と微笑みながら云う。わたしは吃驚して からだが熱くなった。 すると父は両の掌でわたしの手をつつみ 「おまえがしっかりしていれば この家はだいじょうぶだよ」と云ったのだ。呆然とするわたしに 「...はいい子だな...はかしこいな...は楽しみだな...」とわたしの子どもの名をひとりずつ口にして「教育してやれよ 教育は大事だぞ おれは(おまえのこどもたちのことを)考えているよ 」と話したのだった。
亡くなったあと 母は 「おとうさんは なにもかも準備していったみたい。障子を張替え 襖も張替え 畳替えして 庭師さんも頼んできれいにしていたのよ」とぽつり話した。病院の霊安室で わたしは父に「おとうさん いっしょに帰ろうね」と声をかけ続けた。そうしないと病院に残ってしまう方がいる..と聞いたことがあったから...わたしたちはそのころから 流行りだした葬祭会館での通夜、葬式はしなかった。 父は大好きだった家で最後の日々を過ごし 丹精した庭で 吟友のみなさんが 弔吟を手向けてくださる中を 旅立った。
けれども わたしは 父が悪戯っぽく目配せして 「かあちゃんにはいうなよ」と云ったのは本心からだと思う。父は知らなかった。父の魂だけが時が迫っていることを知っていたのだと思う。
おとうさん ごめんなさい。どんなに遠くてもアイスクリームを買いにいけばよかった わたしには寝息を立てて眠っているわたしのかたわらでおとうさんが カーテンからもれる月の光を額にあびて 目をつぶり 想いを追っているのが見えます。おとうさんの最後の時間 揺さぶってしまったでしょうか おとうさん 洋子はできないまでも おとうさんの気持ちに応えようとしてきました でも もう弟たちや妹のことは心配しなくていいですね みんな立派にやっています おとうさん もうすこしのあいだ わたしを見守っていてください そして わたしが為すべきことを終えて その時 がきたら 怖くはないのだよ と迎えにきてください わたしはほんとうをいうとすこし こわいのです。
長い長い黄泉の川を渡ること 目を覆いたくなるときもあっただろうわたしの人生をつぶさに見なくてはならないこと そして この世の愛しいひとたち 愛しいものたちに 心残すことなく背を向け別れを告げられるかということが .....
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