遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



 場所/本町小 対象/6年2組 テーマ/恋 内容/芦刈の歌 反省/途中 集中が途切れたところがあった。たとえ自分の周辺がざわめいていても 語るとき清明な境地にいたい 感想/6年生の聴く耳と心はおとなに匹敵する。


 朝 教室に行くと 机と椅子はそのままになっていた。それで子どもたちに教室の後ろに片付けてもらったら ゴミが散らかっていたので 一斉によーいドン!で各自5個ずつゴミをひろってもらったら あっという間にきれいになった。

 6年の最後は語りを入れてもらっている。今のところ 語りだけをしているのはわたしだけで 年間3学年しか回れない。それで語りになれてもらうことやさまざまな語りを知ってもらいたいために 今までは15分の間にふたつのタイトルを語ることが多かった。幼稚園やデイケアで語ってきて 聞き手をしっかりつかんでいれば 世代間でそう 話のジャンルや内容を変える必要はないし 長くてもついてきてくれると確信がもてたので 先月の1組から15分まるまるかかる「芦刈」を語っている。

 芦刈には ついに二年間待ち続けた.....の腕に抱かれた...のくだりがあるのだが 子ども向けの雑誌の漫画でさえ 露骨な表現があふれ ネットを開けば容易にあやしいサイトにひととびできる今だから 芦刈の直方が久女を想い、久女が直方を想うものがたりを伝えたかった。

 トークが終って 語りはじめた時 曇っていた空から俄かに日が射して 教室を金色に染めた。ひさしぶりに手がふるえた。女の子のなかには泣いている子もいた。おはなしのなかで 巧まぬ笑い がとれたら そして最終的に心が揺り動かされ ものがたりが聞き手のうちに沈んで いったら...が望みなのだが 道はまだ遠い。

 午後川越まで子どもの学校に行く。学年主任の先生とお話して ほっとしたり 気がつかせていただいたり...他者との距離感 の問題....それは自分との距離感であり 自分の実像をどのように見ているか なお愛しているかの問題が根にあるのだと思った。反響する洞窟のなかで 聲を聞き分けるみたい...と思った。




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 娘とわたしと宝塚に行く。チケットは入院が決まる前の入手だった。23日の「ベガーズオペラ」夜の部は 入院の日でもありすっかり行くのを忘れていたので、今年最初の観劇になる。

 出かける前に「おかあさん、なに この水!?」時すでに遅く、洗面所からトイレ、押入れ、廊下からリビングまで大洪水。洗濯のためシンクにお湯を出しながらキッチンで洗い物をして忘れてしまったのだった。こういうことはめずらしいことではないのだが、リビングの半ばが浸水というのははじめてだった。あと始末に時間がかかり、劇場に着いたのは開演の11時を少し回った。

 二階の最前列、妹と姪は既に席に着いていた。舞台はシチリア1860年頃・貴族の没落と平民の台頭の時代、貴族の娘アンリエッタと平民のヴィットリオの戀が、その末裔のヴィットリオとユダヤ人の恋人ジュディッタの戀をとおして語られる趣向。ヴィットリオ役の春野寿美礼さんがマントを翻して窓から入るところ、マントを脱ぎ捨てて ベッドに歩くその立ち姿ひとつひとつの麗しさにため息。

 わたしが今までに観た芝居のなかで一番心を打たれたのは、無名の役者が演じた「動物園物語」だった。駅のトイレの前で崩折れてしまいそうになったほどの 心臓を杭で穿たれたような衝撃を今でも思い出す。命のぎりぎりまで観客に伝えられる芝居の力をはじめて痛感した忘れられない舞台だ。タカラズカはそれとはまったく別の世界である。衣装といいセットといい夢のように美しい砂糖菓子のようだ。

 が、そのなかにばかにはできないなにかがある。タカラズカを観たあとは少なくとも元気が出る。ここにいる観客のほとんど、若いのや若くないのや大勢の女たちがみな元気をもらって緞帳の降りた劇場を後にし、また現実に立ち向かってゆくのだ。天保12年のシェークスピアは完璧に近いエンターテインメントだったけれど、わたしはタカラズカの方がたぶん好きなのだった。

 レビューのアジアンウィンドは無駄なシーンがほとんどない 締まった舞台で時間があっという間に経ってしまった。上から見ると ホリゾントや大道具の展開が見えて 目も綾な布と風とライトの創りだすイメージの奔流に こういう使い方もあるのだと固唾を呑んで見つめる。難を云えば口跡がはっきりしないために聞き取れない歌詞があったりするのだが、そのなかでフェリーチタも演じた華城季帆さんの歌唱がすごかった。心臓をえぐるといってもいい 深い深いところから出るソプラノの美しさ、このくらいの声が出せたら どんなにいいだろう。

 メッセージもたいせつだけど 聞いてくださる方に束の間でも 夢をお見せできたら ものがたりの世界にいざなって 元気をすこしでもさしあげられたら本望だ...としみじみ思う。 家に戻って 夫が帰ってくれば(低カロリーの食事になるので)子どもたちが(わたしも)食べることのかなわなくなるピザやチキンを宅配してもらう。試みに 江戸の小噺をいくつか娘に 聞かせてみたが ほとんど落ちがわからないようすでがっかりである。語りが下手なのか、落ちが現代に合わないのか、娘にジョークを解する能力が欠けているのか....微妙である。

 あしたは本町小6年2組。





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 料理の本 送ってくださって ありがとう。
すぐにも御礼と思い、語り手たちの会の名簿や研究セミナーの名簿をさがしましたがみつかりませんでした。わたしはあなたのアドレスや携帯の番号も知らなかった。いつも心にかけていただいてありがとう。

 すこしばかりささくれだったわたしに 春の雨が降るようでした。3月にはお会いできますね。そのときにどんなおはなしを聞かせていただけるでしょう。わたしはどんなおはなしを持ってまいりましょうか。

 会えなかったあいだの時間の隙間はあっというまに埋まってゆくでしょう。お話ししたいことがたくさんあります。紹介いただいた野村萬歳、「敦 山月記・名人伝」日程の都合で行けなかったのですが とても観たかったです。昨年の一番の心残りです。

 今朝、事務所の窓に映る梅のつぼみが小さく膨らんでいました。夫も月曜か火曜には退院できそうです。どうかお元気で。お会いできる日を楽しみにしています。





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 イノセンスの喪失というテーマは、米文学に多いような気がする。なぜだろうと考えてみた。アメリカを民主主義の本場と考える人は多いが、実はアメリカはキリスト教とくにプロテスタントの考え方が根っこにある。ブッシュさんの支持基盤、沈黙せる大衆はクリスチャンが多いのだ。こんな小咄がある。

 あるキリスト教の牧師(日本人)が、日本の学生に講演をしました。
すると「先生、私たちは神を信じるような野蛮人ではありません」
という反応がありました。同じ講演をアメリカ人の学生にすると...
「先生、私たちは神を信じないような野蛮人ではありません。

 米文学におけるイノセンスの喪失というテーマにはアメリカ建国以来の”アメリカのアダム”が影を落としているのではないか。つまりイノセンスの喪失とは”知ってしまったこと”によって起る。純白が知ることによって汚されるということだ。なにを知ってしまったか?
聖書に書かれているのは、知恵の実(林檎)を食べることだが、わたしはこれは一種の象徴であるように思う。

 今 我が家ではちいさな嵐が吹き荒れている。青春という嵐なのだが 暴風に弄ばれている子どもと病院の往き返りに話し合ったとき 気がついたことがある。イノセンスの喪失とは 自分の相対化ではないかということだ。子ども時代は世界と自我はひとつである。すべての子どもがしあわせだとか子どもは天使であるというほどわたしはナイーブではないが 世界と一体化しているという母に抱かれているような充足感、きらきらしている感じは思い出すことができる。

 一方 自己の相対化とは客観的に世界のなかの自分を見つめることであり、自分と切り離された世界、ひとりひとり孤立した他者を見ることであり また自分がそうした他者の千もの眼に晒されることである。それまで自己と世界と他者の区別を明確に持たなかった者にとって それは 大地を失って冷たい宙に浮いているように寄る辺なく痛いことである。

 そして、手探りの再構築の試みがはじまる。ひとは切り離されたままでは生きてはいけないからだ。ここで道に迷ってしまう子等のなんと多いことか。
 ふたたび世界と自己を結びつける手段のひとつが愛である。抱き合うことである。友をつくることである。歌うこと、絵を書くこと、音楽を聞くこと、また、戦うことである。戦いを通して ひとは生きる実感をつかみ 茫漠とした世界は敵対するものであっても実態を持つからだ。もっと不幸な選択もある。

 そこで わたしは昔話もまた再構築への手がかりではないかと考える。世界と自己を結びつける。孤立した自己でなくほんとうの意味での全的な自己 覚醒しつつなお世界とむすびつき そのなかで息づいている自己への復活の鍵が隠されているのではないかと思うのだ。

 自己の相対化(世界の相対化)→イノセンスの喪失と覚ったのは、前日の笑い話の考察が背景にあるのだが、それは語ることをとおして得た直感にもつながっていた。付け加えれば ジョークはおとなのものである。子どもはスラップスティック(ドタバタ)やハチャメチャな滑稽には大笑いしてもジョークは解さないのではないか。なぜなら ジョークとは自己や世界や当然あるべきものの相対化であるからだ。

 わたしの子どもたちが いつ全的な自己を取り戻せるかわたしにはわからない。わたしも長い嵐のなかを捜し求めてきた その途中にいる。ようやく雲の切れ間に星影が、森の向こうに明るみがほのかに見えてきた。そうか ここまでくるとこの旅のゴールが近いというわけか・・・そのゴールこそ 終わりではなく新しい始まりであり そのときには おおいなるものなかにゆるされてあって また輝くひとつぶでもあるという至福を再び知ることもできるのだろう。




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 ハインラインというSF作家がいる、ジュヴナイルも火星の少年?とかずいぶん書いた。それに 宇宙の戦士はハリウッドで映画化され、そこで歴史上はじめてモビルスーツが生まれ それはガンダムの原型でもあったわけで 日本の作家でも影響を受けたひとは大勢いる。

 ハインラインは自作をSF誌には掲載せず普通誌に掲載した。本人に聞いたわけではないから違っているかもしれないが そのわけはなんとなくわかるような気がする。ハインラインはSFを書いたが、人間を忘れてはいなかった。登場人物はそれぞれとても生き生きしていた。つまりよくあるプロットや仕掛けに溺れるような作家ではない、本物のストーリーテラーだった。

 ハインラインはたくさんのおもしろい作品を残したが そのなかでみっつ択ぶとしたら「太陽系帝国の危機」、売れない三文役者のロレンゾがあろうことか 太陽系帝国の大統領の影武者を頼まれる....が...という話でロレンゾの人間的な成長と結末がなんともいえない。それから「異星の客」みなし子のマイクが神になるまでの軌跡...これはヒっピーの聖書になった。

 そして一番好きだったのが「月は無慈悲な夜の女王」月は地球の植民地だった。その植民地政府の地下に眠る巨大なコンピューター マイクロフトがある日目覚め、自我を持つ。彼が最初にしたのはジョーク すなわち植民地政府を貴重な水で水浸しにする。政府のなかでもっとも給料の低い掃除夫に100の10000乗の給料を払う...だった。コンピューターの修理屋である主人公(名前は忘れた)はマイクロフトの自我にきづき 友だちになる。彼が最初に教えたのは「ジョークには二種類ある。ずっとおもしろいやつと一度だけおもしろいやつ」だった。

 笑わせるのは泣かせるよりむつかしい。聞き手の方たちはここだと思うところでは笑ってくれないで、とんでもないところで吹きだしたりする。それにはなから笑いをとりに行くと 話の品がなくなる。

 というわけで先週の木曜からのテーマ。小噺もしくは笑いについて考えてみよう。つづきはあした.... 



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 手術の承諾書が必要とて、急いで会社から病院に向う。顔中覆っていた髯を剃った夫の、見慣れない顔を見て、そうだ、このひとだ とはっとした。

 いつも感じる違和感、あのひとがこんなことをするはずがない...どうしてこうなるのだろうというギャップが氷解する。若々しいといってもいい顔、野心と欲望と自信、僅かな酷薄さの刻まれた顔。ひとがいいだけのひとではなかった。いっしょに暮らしながら わたしは外見でこのひとの内側を判断していたのだろうか。
 
 手術の開始は遅れに遅れ、1時の予定が3:30になった。そして5:15 夫は戻ってきた。




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 今日 夫の入院の日 三度目ともなれば 支度もあっという間に終わって、まるでどこかに買い物のでも出かけるように気軽に出かける。

 8階の病室の窓からは くっきり晴れた空と青い山なみが見えた。担当のカナ先生から 2.3週間の入院予定と言われた。前回はあり得ないほど よい結果だったということで1週間の入院ですんだのだ。

 暮れゆく茜色の空を眺める夫の静かな横顔を見ながら わたしはほんとうに愛することはどういうことなのだろうと考えていた。...愛するということはその人を生かすことなのではないか...生かすとはそのひとの本質が輝き、社会のなかで活躍できる 生きがいを持って生きられるよう手をさしのべ 見守るということではないか....

 どうしよう...とわたしは思った。わたしには愛するひとが両の手で数え切れないくらいいる...ひとりひとりを蔭ながら見守ることはできようが、それ以上のことを引き受ける時間などありはしない。でも...夫は会社の中心、そして家族の支柱でもある。夫が変わってゆくならば 会社も家庭の景色も変わってゆくだろう。

 わたしは このひとのためまだできることがある。帰り 4号線をまっすぐまっすぐ、そして 利根川を渡り 125線から県道3号線 ヘッドライト、テールライトの光の河を車は進む。けれどそれよりもまぎれなく 明るく輝くまっすぐな道がわたしの前にある。



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 今日は次男の結婚式の打ち合わせがあった。きのうの雪も大通りでは跡形もなく消えていた。ホールには結婚式を控えたカップルや親たちが100名以上はいただろう。昼食がはじまり、モデルさんをつかってさまざまなセレモニーが見せられる。引き出物の紹介、クレープ屋台の実演試食、会場の外では生花の誂え、テーブルクロスの選択、写真やwelcomeボードの紹介、招待状も何十種あり 好みの選択で結婚式を演出できるよう 展示されている。這い這いをはじめたルイをつれての展示会は向こうのおかあさんとごいっしょに汗も冷や汗も流した。7着の着替えが終ったときは夜の8時だった。

 わたしが子どもの頃、花嫁さんは白無垢を着て実家から婚家に向ったものだった。「お嫁さんだ、お嫁さんだ!」わたしたちは駆け出していって、仲人に手をひかれた花嫁さんの美しさにため息をついた。披露宴もお家でしたので、7歳の頃 母の実家で三々九度の杯にお酒を注ぐ大役を仰せつかったことがある。玄関の敷居の前であったのか、跨いだところであったのか記憶はさだかでないのだが。

 いまや 結婚式はショーである。この結婚式場ではメーンホールはシアター形式になっている。風船、雪、蝋燭、イルミネーションをつかったふたりのためのショー。それでもいい、若いふたりが互いの親族から認知され、祝福を受け これから永の年月 喜びも苦しみもともにする時 すこしなりとも その支えとなるのであれば.....そして、またどのような結婚式であっても出席した既婚者は 夫婦で辿ってきた道すじに思いを馳せるだろうし 未婚のひとたちも自分たちの未来に思いを馳せるものだ。

 時間があれば お手軽なレディーメードでなくほんとうの意味で ひとつひとつ 丹念に準備した式を挙げてやりたかったと夢のように思いながら 試着室で純白のドレスの裾を長く曳いたリサちゃんの美しいシルエットを見つめる。

 帰り リサちゃんとルイは車のなかで疲れて眠ってしまった。わたしは息子にシャーロックホームズの冒険の小咄を聞いてもらった。終って少ししてから息子は笑い出した。つまり そういう小噺なのだ。もう少し 伏線を強めにだしてみよう。それから江戸時代の色っぽい小咄 これはわたしのほうが吹き出してしまっておしまい。笑わせるのはむつかしい。おもしろいネタをみつけて 間と調子に磨きをかけこと。




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 雪  


 きのう 道場に行き 武蔵野古書店に立ち寄って 家に戻ったのは9時過ぎだった。目まぐるしい6日が過ぎた。給与支払い 労務支払い(きのうわたしはすっかり労務支払いを忘れていて、出かける直前振込みができた。ネットバンキングはリスクもあるがこんな時は助かる)おはなし会 3つ カタリカタリ例会 ビジネスアリーナ段取り ちらし作成 会議....今朝はほっとしたのか寝過ごしてしまった。

 tokiさんが”仕事が忙しいときほど 他のこともできる”とエールを送ってくださったが、語りについて質的に高いものを提供できたか、また想いのボルテージの高さを保ち得たか、気がかりである。

 そして家庭や仕事の面で抜けがなかったかといえば、たとえ寝る間を惜しんでやったとしても 落としたものがないはずがない。夫や子どもたちの健康や心のケア、あのひとへの手紙、このひとへの連絡...そうしたものは心や時間の余裕がなければ 充分にはできないからだ。

 生きるために最低必要なことはなにか。それはもちろん仕事なのだがブログを書くことや語りをすることは 気がつけば わたしにとって生きるエナジーそのものなのだった。仕事と語り このふたつは相互に補完する。それは例えはわるいが車とガソリンのようなものだ。ガソリンがなければ車は走らない。だがガソリンだけでは先へは進めない。今 走っているこの道の先になにを目指すのか。わたしの人格の確立、それは付け加えてゆくことではなく 余分なものをそぎ落としながら行く航程である。究極無垢に至る道でもある。 西洋的な物の考え方のなかに おとなになることはイノセンス(無垢)の喪失という課程を経るということがあるのだが、日本ではそういう感覚は薄いのではないか。

 魂の輪廻転生をわたしは信じているので、生まれた赤子の魂さえ まったくの無垢ではないと考える。死によってひとつのパーソナリティは終わる。が それは着ている衣服を脱ぎかえる 蝉が脱皮するようなもので 表面がリセットするだけで魂にその痕跡な残るのだ。そしてひとつひとつの魂はそれぞれ使命を負っていて 転生を繰り返しながら 使命を果たすことと究極無垢を目指すのではないか。そこまで辿りつければ もう転生する必要はない。苦行は終わるのだ。

 空から絶え間なく落ちる雪は やがて解け 地を潤し 河となり人の世の汚れを洗いながら海へとそそぐ。そしてまた空にのぼる。雪のひとひらにも想いはあるのだろうか、どこへ落ちるのか どきどきしながら振ってくるのだろうなぁ。

 わたしは車に乗って道を走る。それはわたしの意志の力だけではない。宇宙意志というか創造主というか 大いなる知性というか...神というのか その声に耳を澄ましながら 進んでゆく。その課程で たくさんの人々に会う。贈り物をいただき贈り物をさしだしながら 交流しながら さきへ さきへ....たぶんわたしたちよりもっと多くの苦難を越えなければならないつづくひとへ若いひとたちへ 手がかりとともし火を残してゆきたい。

 雪の日に考えたこと。



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 場所/中央幼稚園 対象/つばめ組 テーマ/節分 内容/手遊び霜柱たおれた 鬼はうち 権現堂の伝説 自由の鳥  小学校のこと 時間/30分

 場所/中央幼稚園 対象/ひばり組 テーマ/節分 内容/手遊び霜柱たおれた 鬼はうち 権現堂の伝説 コカのカメ  時間/30分

 場所/中央幼稚園 対象/うぐいす組 テーマ/節分 内容/手遊び霜柱倒れた 鬼はうち 乳母桜(子ども向けに) コカのカメ

 寒い日だった。年長さん 最後のおはなし会 ひとつは先生の希望で節分の話。
 もうひとつウルマとチャラーナの話を語るつもりだったが おはなしを馴染ませる時間がなくて、1時間前 追い詰められて パソコンのフォルダにある持ち話を開いてみる。100以上のおはなしがあるが、繰り返し語る話は決まっている。研究セミナーで堀田さんから聞いたピーコンコイも二度語ってしばらくそのままにしていたら 最後のところを忘れてしまった。
 お月さん金のくさり、自由の鳥、権現堂の伝説などピックアップして 蝋燭とマッチを袋に入れてでかける。園長先生が笑顔で出迎えてくださった。


感想と反省

 つばめ組さんではこどもたちが充分に開いていない感じがした。権現堂の人柱が理解されたかすこし心配だった。「自由の鳥」を卒園し羽ばたいてゆく子どもたちの餞にと思ったが、なんとなくしっくりしない感じが残ったのでひばり組さんからコカのカメにしてみる。カメは知恵と勇気で危機を乗り切る。そして川を下り、海へ向う。最後のうぐいすさんがバランスよくできた。「鬼はうち」は徐々に参加型にかわっていく。乳母桜のものがたりは子どもたちに伝わったようだ。

 元気が出る語り...応援しているよ だいじょうぶだよ...なにがあっても...というメッセージをだしすぎはしないか。ものがたりの持つ力、メッセージをもっと信じて しっかり構築されたものがたりを受けとめてもらえるよう 丁寧に語りたい。

 園長先生が最後の組、聞いてくださった。そして若い先生がビデオをまわし、そのテープを下さり、それはわたしにとって素晴らしいプレゼントだったのだが、見たら そこにいたのは良き魔女でもなく 農家のおばあさん...今日はもんぺと絣の半纏みたいな格好だったのだが ほー これがわたし!?と絶句 もうすこし身奇麗な魔女をめざそう。アイコンタクトと手振り、もうすこしゆったりしたい、全部見るのがこわい。

 クラスに向かうとき、中庭で遊んでいる子どもたちが駆け寄ってくる。この子たちのおばあちゃんみたいなものだわと思う。語る喜びだけでなくわたしはとても大きな贈り物をいただいている。




 

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 堀江さんがプロ野球パリーグの合併問題で躍り出た時、わたしは堀江さんを支えるライブドアのスタッフがあまりに若く無防備に見え 会社の中は雑然としてまるで堀江さんをガキ大将にして陣取りごっこやゲームをしている集団のように感じてならなかった。堀江さんはヤフーのイノウエさんや楽天のミキタニさんのようにミキタニさんはそれほどでもないが....冷徹な経営者には見えなかった。目のなかのふてぶてしさの奥に 妙に醒めた感じ みんな遊びさ...みたいなのが見えて あぁ このひとはそう長くは保たないんじゃないか..とふと思ったのだ。

 けれどライブドアの夢の終わりがこんなにあっけなくくるとは思わなかった。穿ち過ぎかもしれないが、このタイミングの良さをわたしは例のヒューザーと政界の癒着から目を逸らせるためじゃないか などと疑っている。

 しかし 遅かれ早かれ終わりはきただろう。彼はビジネスをしていたわけではない。負けると知って果敢に勝負をしていたような気がする。もしかしたら勝てるかもしれないと思いかけていた矢先だったかもしれないけれど。わたしは堀江さんのことを考えるとこのごろ考えていた無垢(イノセンス)ということばを思い出す。堀江さんはオトナ社会と闘っていた ピーターパンのひとりではなかったか。

 イノセンス=無垢 だが無垢≠イノセンス。
イノセンスとは純白ではない。善悪の彼岸を越えるものだ。イノセンスとは根源的な生のかたち エゴ。 堀江さんは選挙に出馬し 宇宙ロケットに乗ることを望んだ。既成の枠をぶっ壊そうとした。それは利を追う経営者の姿とは少し違って まさに飽くなき好奇心をもった子どものすがたではなかったか。

 わたしは堀江さんを誉めようとしているのでも貶めようとしているのでもない。だが 堀江さんは賢しい経営者たち 愚かな大衆から利を貪り食っている奴らより わたしには清潔に見えた。たとえ法律に抵触していようとだ。あのどんぐりみたいな目はとても人間的だった。願わくは たとえどん底まで落ちたとしても 逃げないでほしい。夏草生い茂る最後まで果敢に戦い尽くしてほしい。それは夢見て勝ち得た者の努めと思う。 そしてできるなら不死鳥となって甦り、新たな伝説をつくってほしい。




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 朝 理事長が見えるというので 大忙しで事務所のそうじ、TELやら募集の件やイベントの段取りやらで 気は急くが 思うようにいかない。

ようやく 午後3人で熱海に向う。新宿湘南ラインから横浜で東海道本線に乗り継いだ車窓から見た冬の海は空と溶け合いかすかに発光していた。来宮の駅に着いたのは午後4時、駅員さんは改札口でいつものように切符を捜しているわたしに いいですよ と通してくれた。

 錦ヶ浦に連れていってくれたタクシーの運転手さんも親切ないいひとだった。潮の匂いを風が運んでくる。泊まりたいという娘と帰る。 

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 蜷川さんのタイタス・アンドロニカスのチケットがとれた。なぜ映画より芝居が好きなのだろうと考えてみた。テレビやビデオより映画館が好きである。足を運ぶのはめんどうだけれど あの予告を見ながらはじまりを待つ気分が好きなのだ。代金を払って電車に乗って大画面で見る、参加するから感動も大きいのだ。

 だが、参加するといっても映画は毎日おなじ画面、おなじ音声ですでにできあがってしまい、もう動かせないものである。それに反して 芝居は日々生成するもの、役者の体調やバランス、コンビネーションで変わるし、そこに観客も参加するので、観客と舞台との交流によって影響を受ける。おなじ芝居でどうしてこんなに!?と思うくらい日によって変わってしまうし、公演のつづくあいだずっと、より完成度の高いものへと楽日までチャレンジは続いてゆく。

 また、映画のアングルや画面は決まっているが、芝居では、それぞれの観客はそれぞれの視点で見る。つまり 主役の顔ヲオペラグラスで見たり、全体を見たり、オーケストラボックスを見たりする。そこで観客の舞台体験は映画よりもより固有の密度の濃い主体的なものになるのだ。

 語りでも、同様のことが起こる。聞き手は語り手の声の響きと表情などからものがたりへ誘われる。たちあがるものがたりは聞き手ひとりひとりの感性や人生経験、そのときの心のありようでそれぞれ異なるだろう。心のなかの映像や雰囲気、イメージは聞き手によって大きく異なるだろう。時と場を得た語りではひとりひとりがそれぞれのものがたりを生き、旅をし、そのうえに聞き手や語り手すべてをつつむものがたりが現われ出でる。

 ドラマは重なり 干渉しあう。聞き手がものがたりを聞くことから惹き起こされた自らのものがたり それは過去の人生のリフレインであるかもしれないし 生き直しといえるまで昇華したものになっているかもしれない。そして同時に聞き手は語り手の語る物語を生きてもいる。このダイナミクスは芝居や映画でも起こり得るが 語りではより顕著になるだろう。

 自分を固定している枠からあふれ出す。ひとつになりながら 固有でいられるという 通常切り離され 孤独のなかにいるわたしたちには得がたい一瞬が僥倖のように訪れることがある。(日常生活のなかにおいて 障壁がとりはずされ 透きとおった自我を保持しながら 孤独でなく溶け合っているということは滅多に起きることではない。関わるひとすべてが凝縮した集中にあって自らを投げ出す犠牲を厭わないとき わたしには無縁であるが スポーツのチームプレイ またジャズのセッションなどにそんな祝祭のようなことがたまたま生じるのではないだろうか。

 それが語りでは 天からの贈り物のように わたしたちにくだされるのだ。
それができるだけ高い頻度で許される語り手になりたい。



 

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場所/中央幼稚園 対象/年少ばら組 いちべいさん(手遊び)鬼は内(昔話)くらぁいくらい コカのカメ(リクエスト)時間/30分弱
場所/中央幼稚園 対象年少たんぽぽ組 いちべいさん 鬼は内  黄金の手 コカのカメ(リクエスト)時間/30分弱
場所/中央幼稚園 対象/年少もも組 いちべいさん(手遊び)鬼は内 ねずみ浄土
時間/30分弱
     
場所/太田小 対象/デイケア高齢者 内容/いちべいさん 鬼は内 コカのカメ 助けて、ばかにしないでよ(ゲーム) おはなし キャベツの中から(リクエスト)時間/1時間

 中央幼稚園に着いた時、ぎょっとした。おはなしの袋を忘れてきたことに気づいたのだ。中には ろうそくと赤頭巾ちゃんのお人形がはいっている。今日はあかずきんの新バージョンをしようと...と赤いスカートに着替えてこのありさま。わたしはひさしぶりにまっしろになった。もういい加減自分が情けなかった。

 こどもたちが待っている、とりあえず お話しながら成り行きに応じてと覚悟を決める。高校生がクラスに10人くらい来ていた。今は幼稚園で幼児とあそぶという課程が組まれているらしい。お正月楽しかった? 楽しかったの声 お年玉もらった? もらった!! 教室中にぎやかになる。ねぇお年玉もらってうれしかった?うれしかった!! あのね お年玉をもらうのはとってもうれしいけど あげるのはもっとうれしいんだよ みんなも大きくなったらおとしだまあげるひとになってね。

 いちべいさんの前に目をつぶって山形の雪景色を想像してもらう。わたしも山形の身も心もふくよかな友を想う。それから いちべいさん こどもたちははじめからすぐ覚えてしまう。...そして鬼は内...これは桐生の語りの小祭りで心に響いたおはなし....テキストはなく短いお話だが 語るうちにふくらんでくる。みんな 目を見開いて聞いている。終わって ねぇ どんなおはなしがいい? ときいたらコカのカメ..と大きな声 それからこわいおはなしの声 それでくらぁいくらい
コカのカメ、これも 一度 末吉さんのを聞いて テキストは読んでいないから 相当違っていると思う。先生も高校生も子どもたちもみんないっしょにコカぁのカメ!! 最後に 中央図書館で覚えた ろうそくポン もひとつポン でおしまい もりさん もりさん !! とこどもたちが寄ってきた。

 たんぽぽ組では こわいおはなしの声に 黄金の腕 をした 途中まではよかったが 最後の「ばらのはなびらのようだったおまえの唇は?」...「色あせてしまったの あなたの愛のように...」の意味がさすがに4歳ではわからなかったみたい ちょっとオタオタした。

 もも組では 園長先生がいっしょに聞いてくださった。鬼は内 がおはなしになった。ねずみ浄土も最後まで子どもたちがついてきた。はじめのいちべいさん→鬼は内→ねずみ浄土 それからトークまで含めてひとつの世界ができたと思う。
はじめて聞いた副園長さんが「とっても楽しかった!!」と言ってくださったそうでうれしかった。園長先生と昔話についておはなしして ちょうど2時間で終わった。

 反省

 聞き手の力をいただいて ものがたりはできる。お話は語るたびに熟成されてまろやかに深くなる。が、聞き手の力に頼らずに もうすこしできあがったお話を持ってゆきたい。今回はたんぽぽ組さんの後半 悔いが残った。時計を見ながらではないので 時間がのびてしまったりするのはまずい。
 おおざっぱにわけて 元気になる語りと 心に沁みとおる語りがあるような気がする。元気が出る語りには 語り手の勢いや気力がとても重要である からだ全体を使ったパフォーマンスも必要である。焦るとパワーが落ちる。とても聞く力のある子どもたちなので これからは じっくり聞かせるおはなしを語ってみたい。お話の世界にひたることは心をどこか遠い世界、さまざまなひとたちに飛ばすこと。ほかのひとになって生き、冒険をすることでもある。子ども体たちの心が広がってゆくように...年長さんへの語りに気持ちがふくらんでゆく。

 太田小 のデイケア 今日は高齢者4人、ヘルパーさん3人、5年生の女の子5人だった。内容は幼稚園と同じだが心もち ゆっくり話し ゆっくり目線を動かす。最初 はにかんでいた小学生もだんだん打ち解けてきた。そこで大きな声を出すゲーム 知らない男のひとにつかまりそうになったら...ひとりひとり 「助けて!」
と大声を出すはずが おとなのほうに移ると「まぁ お待ちしていました」になってしまって みんな大笑い 。水のお話もするつもりだったが 少女たちと高齢者の質問コーナーになった。

反省

ビクトリア・アンサンブルを聞いて感じたのは最後の一音の揺らめくように消えるまで 丁寧に だった。 聞くことをもうすこし丁寧にしたい。コカのカメはみんな熱くなるくらいだった。わたしも10センチは飛び上がった。こういうときはどうしてひざが痛くないのか 不思議だ。とにかく 楽しかった、元気をもらった。

会社に帰って 仕事をバリバリして 連絡会もOK! そして彩の国ビジネスアリーナの段取りOK 埼玉県東部産業労働センターからもTELが来た。手術の話とか辛いこともあるけれど さぁ わたしは元気! あしたからがんばるぞ!!
ろうそくのように自分を燃やして まわりの闇をすこし明るくできたら  火をつけてもらったことを大切にして 酸素をいただいて もっと 明るく 温かく 燃えられたら....



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 日曜日の午後 池袋の自由学園 明日館アンサンブル・ビクトリアの演奏を聴きに行った。明日館は駅から5分、メトロポリタンホテルの裏にある。近いけれどはじめてなのでタクシーに乗って正解だった。入り組んだ道の奥でタクシーを降り、建物が目に入ったとき 両の翼を広げた鳥のように感じた。鳳凰殿をふと思い出した。

 自由学園の創立者羽仁夫妻は、創立に際し 帝国ホテルを建てたことで名高いフランク・ロイド・ライトに設計を依頼した。ライトは日本の建築物からの影響は受けていないと言ったが 実は日本の美術品、中でも浮世絵の蒐集は展覧会を開けるほどであったという。ライトの建築には浮世絵の大胆に省略された構図、簡潔なラインなどの影響があるという。調べてみるとライトは1893年 シカゴ博の日本館鳳凰殿を見ているそうだ。自由学園を見て鳳凰殿を思いついたのはあながち見当はずれでもなかったらしい。

 磨かれた木の床、白い壁 本館の広間やカフェを通り抜けると、懐かしさと心地よさにこころがほどけてゆくようだった。飾り気のない品のよさが漂っている。はじめて来たのに不思議だ。3月にはここで研究セミナー第二期の同窓会が開かれるとか、きっといい会になるだろう。

 明日館は道をはさんで向こう側にあった。白いレースの襟、黒いスーツのビクトリア風のきりっとした女性が案内してくれた。ホールはほぼ満席だった。音響がすばらしい。馥郁と音が香るようだった。四声にバロックハープ、リュートが曲にあわせて 波のように寄せたり引いたりする。ミサ曲は天上の雲の波に包まれていくようだった。ダウランドの「おお、やさしい森よ」を聴いたとき、祈り...だと思った。涙が流れてやまなかった。

 音楽も踊りも...語りも祈り...のように思う。かってのように 絵画も音楽も踊りも芝居も神に捧げられるのではなく 地の上のひとびとに供される。しかし もともと神への捧げものだったのだし ひとは知らずして 今日の平安、あすのしあわせを祈っているのだと思う。わが為、我がめぐりだけでもいい、がときにわたしたちひとりひとりがもっと遠くの肉の目には写らないひとたちにも 想いを馳せることができたなら、そうして この世の創造主がおいでになるとしたら 畏れ多いことではあるが その方の心に想いを馳せたなら この世の景色も少しずつ変わってゆくのではないだろうか。

 わたしの手に託された仕事やひとびと、語りをとおして どうか 天と地にすこしなりとも 生きてきた証をお返しできたら..と夢見る。らぽっぽのポテトとDTPのテキストを提げて家に帰った。




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