遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   会社の仕事がきのう終わった。請求書を出し、会社として精一杯の年末手当を渡し 年末調整も終わった。12月の売り上げは4300万を超えた。新しい年になにが起こるかわからない。不安はあるがほのかな明るみが地平に見える。わたしは・・・会社のひとたちとともに歩いてゆくことに 今たしかな手ごたえを感じはじめている。2月のスーパーアリーナでのイベントではもみがら炭の陳列や炭化機械の紹介とともに 語りをしてみようと目論んでいる。環境についてのパネルシアター まぁるいまるいや水のおはなしを子どもたちならぬビジネスマンに語るのである。どれだけのひとが足を止め 耳をかたむけてくれるかわからないが これは生活のなかのストーリィテリングのひとつでは・・図書館やシアターだけでなくビジネスの場でもストーリィテリングは生かせるのではと思う。

   ここ2・3年 営業はストーリーテラーであるとか ストーリーテラーとしての役者論とかのムーブメントが主にアメリカなどからおきている。たとえばインプロなども言葉遊びの域ではなく ストーリーテラーとしての役者という観点から学ぶほうが実りが多いのではないか ハガーティーが演劇からストーリィテラーは学ぶべきだと書いているが 演劇そのものが大きな意味でストーリィテリングであり 役者も語り手から学ぶべきことが多いとわたしは思う。語り手は身体と魂と心のすべてで語る。だが動きが制限されることで内的な圧力がことばひとつにしぼられほとばしることもあり またそのことばさえ制限されたときなお強く発せられることもあるように推察できる。わたしは語る・・という原点に戻ろうと思う。

   年末になって会うべき方とであい また話した。語りの祭り以来かかっていた暗い重い雲が霧消し わたしはあたらしい年に向けてひとつの決心をした。限られた時間のなかでどこでどのように活動してゆくか わたし自身を開き えにしあるひとたちとつなぎ 高めあい温めあってゆけるか ぶれていた針がひとつの方向に定まった。

   
   だが今日はもう出かけなくてはならない。ひとりの夫とふたりの息子と4人の娘とひとりの孫と一夜ともに過ごすために。夏姫・・亡くなった友人の娘と次男の嫁りさ・・ふたりともいとしい娘である。おそらくこのちいさな旅で息子夫婦のこれからも決まるだろう。待っていても空からはなにも落ちてはこない。人生は切り拓くものだ。一歩踏み出し 翔けて この手でつかむ 神さまはそのときはじめて 手をさしのべてくださるのだろう。


 

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  家のパソコンが壊れて使えなくなって わたしはとても自由にそして不具になった。自由になったのはパソコンに使われることがなくなったからであり、不具と感じるのは第二の耳と目と口と手を失ってしまったからだ。パソコンを失うことは拡大した聴覚と手の技と語る力のすべてが剥ぎ取られることだった。

  去年の今頃 ちょうど一ヶ月のあいだ おなじように通信手段の部分でパソコンの機能が壊れた。しかし今気づけば去年と比べ飛躍的にわたしはパソコンに依存するようになっていることに気づかされたのだった。webの海で源氏名のようなハンドルネームで呼び合い確かめ合うわたしたち 他人の日常を自分のことのように一喜一憂するわたしたち...。現実と非現実とのあわいのなかのようでいて次第に血が通ってくる それが現実以上に感じることさえあるのだった。

  わたしはこの一週間のあいだに三人のひとと会った。三人ともわたしより若かった。HIKOくんとはとても会いたかったし 他のふたりはまえまえから身を惜しまぬところや語りの響くところが気になっていてそれが偶然ふたりとも崖っぷちを歩いているような危うさがあって手をさしのべないではいられなかったのだ。が そのなかにメールやコメントや手紙では飽き足らない気持ち、実感を求めたい気持ちもいささかはあったと思う。

  おそらくわたしはしゃべりすぎた。もっと黙して 時を待ってほころびてくるものを待つべきだった。webでは対手から応えが返ってくるのに時間がかかる。..だからまずひとまとめにして伝えてしまう。そうしたwebでの話法が自分に沁みついてしまった...と気づいたのは書いている今のことだ。

  HIKOくんとは二度目だが ふたりはこうして話すことさえはじめてだった。お互いの場をひとつにするには回を重ねることもたいせつだ。あと時間が如何せん足りなかった。二時間では底まで降りてはいけないのだ。それでもわたしは思い出したのだ。実際に会って語りあうことの意味と喜びを。それは語り合った三人がそれぞれ真摯に生きているひとだったからだと思う。

  向き合って語りあう。昔それしかなかった方法で...。見つめあい ひとこと ふたこと 探るようにまわりから入っていく そして徐々に核心に近づく うまくいけばお互いがお互いの心の底の深い井戸にたどり着く そして自分の「水底」を覗き込み 運がよければなにか見ることができる。それは知りたくなかった自分かも知れず 自分の愛おしいものかも知らず憎んでいるものかも知れぬが、おそらくよく見ればどれも自分の良く見知ったものなのだ。 お互いが相手を知り自分を知る...今の自分がいる場所とこれからめざす方向を確かめ得る たった一度かもしれず 続くかもしれない。だが 回数に関らずそれが友というものであり出会いというものなのだろう。

  わたしが今いる場所は昏い。夜明け前なのか真の闇に落ちる前なのかさだかではない。半分絶望しているが希望が無い訳でもない。それはふたりのひとの抱える問題と一部でかさなってもいた。愛することの喩えようのない苦さは足らざるためなのだろうか 過ぎたる故なのだろうか 報いを求めるからか、翻って自己愛なのだろうか。左手で壊しながら右手で捏ねているような気もする。

  みなに伝えたようにわたしは自分につぶやく。おなじように不思議と確信を持って...願いはかなう 望みはかなう そのことを心に刻み努力するなら その望みが良きことのためなら 思わぬかたちになることもあるが必ず望みはかなう。越えられない峠はない。明けない夜はない。止まない雨はない。

(会社にて)

  

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  今年あらたに加わった語りのついてのテーマのひとつは Mind(心)、Body(身体)、Spirit(魂)をつなげる...ひとつにして語る...ということだった。これはLTTA(カナダで生まれた教育理論)の講座でホリスティックな学びの方法があるということから気づかされたのである。つづいてRADA(英国王立演劇アカデミー)で 役者は Mind(心)、Body(身体)、sence(感覚)を一体化して芝居をする...と聞いたときは衝撃だった。

  RADAのエクササイズにわかいひとといっしょについてゆくのはたいへんだった。わたしは自分の身体(body)についてはかえりみることなくただ酷使してきたのでボロボロ・ガタガタになっていたのだ。帰ってからも仕方ないと放置していた身体をなんとかしなくては...と決意したのはつい このあいだのことである。

  インテグラシィ・クリニック improove の石川善光先生に出会ったことがきっかけだった。杖にすがってようやく歩いていたわたしを診て先生は身体全体がゆがんでいる しかし手遅れではない 一緒に改善してゆきましょう とおっしゃった。11月の終わりのことで それからきのうで4回の施術がされ、それは驚くべき効果を生んだ。両足で立つ 姿勢がよくなる 痛みの軽減 そして気持ちがまっすぐになり 余計な気持ちのブレが少なくなる。この間 それだけでなくすこしは自力の整体も試みたことを付記する。

  膝の痛みが骨の問題ではなく むしろ筋肉であり筋肉が縮んだり伸びたりするために骨が引っ張られる そこからくるのだとわたしは初めて知った。そこでされている医療が自然医学Naturopathyと呼ばれるものであり 欧米においては教育機関もあり近代医学の対として認知されていること 自然医学が広まると 近代医学の患者が減ること 日本においては製薬業界や医師たちは必ずしもまだそれを喜ばないことも学んだ。

  自然医学には原則がある。
○身体には自然治癒力がある
○原因を治療せよ
○まず害を与えない
○まるごとの人間を治療せよ
○医師は教師となれ
○予防は最良の治療法である

 
   さて ここでまるごとの人間とはMind(心)、Body(身体)、Spirit(魂)をまるごと考えることである。歴史的な存在として考えることである。わたしは二年とすこし前 伊豆修善寺の語りの祭りで友人Dと40年ぶりに再会した。それはリサイタル夏物語で語った フランス窓から が生んだ奇しき縁だったのだが 偶然Dがバランスセラピーの施術の資格を持っていて それが今思えば自然医学の一端だったのだろう。身体の歪みをとる施術を受けた。あたたかい手がわたしの身体を軽く圧迫する。母が赤子を抱く圧力だそうだ。...心地よく身も心も任せているうちそれが夜空になり櫻がみえ ぼんぼりのようなあかりが見え わたしは「おとうさん おとうさん」と声をあげて泣きじゃくっていた。決して夢を見たのではない。なぜかわからぬまま それからわたしは自分がどこかなにか変わったことに気づいた。一歩大きく踏みだしたのだ。

   トラウマを筋肉は記憶する...それを胸の奥にしまったまま きたのだけれど 石川先生のお話では トラウマを記憶しているのは神経なのだそうだ。筋肉のなかにはたくさんの神経が走っている...そういうことだったのだ。

   すべての語り手とは言わないが 語り手(ストーリーテラー)は語ることで自らを癒してゆく。ほとんどが知らず知らずにある者は意識して...。ストーリーテリングが癒しやもっと進んで療法として使われるのはまさに語りの 自己カウンセリングとでもいおうか そうした側面と深く関わっているのではないか。しかしカウンセリングでトラウマを解消してゆくのは長い時間がかかる。

つづく

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   朝 学校のおはなし会にゆく。きのうも3時間ほどしか眠っていないのに からだが軽い。膝に痛みもない。6年生に空と海と大地の話を語る。ほんとうはこれがいちばん語りたかった。そしてつつじの娘。最後になる6年生の餞に。

   図書ボラのメンバーがふたり 聴いてくれた。...語りに動きが出たきたとカタリカタリのメンバーでもあるJさんがいう。知らず知らず自然に身体が動くようになっていたのだ。つつじの娘のてのひらのもち 湯気をたてているもちのまだ米粒が残っているそのかたちまで見えるとそれぞれが言ってくれた。わたしにはそこまで見えなかったのだけれど。子どもたちはまっすぐな目をして聴いてくれた。どうか これから 愛するひとに出会い たいせつにして いつかはともに家庭を育んでくれるよう祈った。

   会社でしごと 督促のTELをするのも苦にならなかった。炭の契約が農協とまとまったらしい。こうして一歩ずつ進んでゆく。ニートだった息子たちは一生懸命働いているではないか。それぞれが愛するもののために。惣はルイを送っていくとき 淋しくて涙が出た..と言ったという。...もしかしたら雨降って地固まるかもしれない。娘の新しい学校からTELがくる。...こうして こうして 挫けそうになりながらやっと歩いてきたことが夢のようにすこしずつ変わってゆくのだ。

   2月のリサイタル、名称も内容も変えようと思った。昨日 出を待ちながら葛藤していたのは ものがたりを伝えるだけでいいのか...ということだった。もっと積極的に分かち合いたかった。図書ボランティアの仲間や面接にきたひとと語り合っているうちに じょじょにイメージが膨らんでくる。やってみようと思う。
生き方が変われば 語りも演技もかわる。ひとつところにいられるはずがない。過去の自分に愛惜の念を持つは 自己愛であろう。

   さぁ なにかが兆している。明けがたの前はいちばん暗いのだった。




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   四つの旋律に足を運んでくださった方々に心から御礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました。

   発表会では日ごろの活動で語ることのできないものがたりを持ってゆくことができる。そして それが明日を切り拓く一歩となるように思う。ひとつのジャンルを極めることも意味があることだが つねにあたらしい道を模索する生き方もあっていい。櫻の会の発表会も今度が三度目 六年前の一回目は九つの物語 9人の語り手が語った。三年前の第二回は七つの物語 7人の語り手が語った。そして今年は四つの旋律 語り手は4人に減ったがそれぞれ趣の異なる物語であったと思う。

   六年前は櫻井先生以外のメンバーは語りを始めた年でもあった。青山のASKアサヒテレビのカルチャーで先生から語りの手ほどきを受け 初めて語ったのがわたしは雪女で 声が出なくてさらしを巻いておなかを支えて声を出したのだった。当時から膝がわるくて机に寄りかかって語っていたことを今ふと思い出す。あのとき わたしの眼前に雪が舞っていた。今日『ケルヴィンの竪琴』を語ってわたしの眼前になにが見えただろう。聞き手になにが見えただろう。深い森の古い砦、駆け寄るエイリィは 生まれたばかりの赤子は果たして見えただろうか。妖精は?一面の灰は?九つの影は? 囁く剣は?見えただろうか?しわくちゃの土の妖精 幸丸のフルートを吹くすがた 血染めの鍵盤は眼前に見えたけれど。

   終ったあと後悔ばかり残る。するとわたしは多弁になる。遠くから見えた聴き手の方に来た甲斐があっただけのものを手渡せただろうか?ふつうのよかったではなく 心に響かせることができたかといえば わたしの今日の語りでは足りなかった。揺さぶりたいのだもの、そうでなければ 語り手をしている意味がわたしにはないのだ。なんてとんでもないものに足を踏み入れてしまったのだろう。ほんの30分の達成感...。飢えの感じ そしてまた先に進む。見えない目を見えるようにするために、聴こえない歌を聴こえるようにするために、まことのことばを知るため伝えるために。

   
   旧くからの仲間 あたらしい友との出会いを支えにあしたの朝の語りに精魂籠めよう。そして仕事をする。家族のために働く。

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