遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   朝 気持ちのよい目覚めだった。ベッドで思い切りのびをしてみる。とても自由で満ち足りた感じがする。ベッドからファイルが落ちる。夕べ開く前に眠ってしまった これまでに書いた語りについての考察(語りの研究セミナーで書いたこと)と書き溜めたものがたり、そして仕事のファイルだ。わたしのトランクが石のように重いのは PCとこのファイルのためである。わたしは今一度自分の歩いてきた道すじを振り返り なにがこの手にあり なにが足りないか確かめたかった。

   セミナー卒業時のレポート ここから踏み出せるかどうか 殻を割れるかどうか またこれからどう歩いていくか すでにそれは予感よりもっとはっきりしたかたちで心のうちのあるのだが それらをつかむために 具体的にどうしたらよい知りたくてここに来た。

   市民芸術村は大和紡績の跡地につくられた。広大な芝生 二棟ほど残された工場はホールや半野外劇場として使われている。帰ったら写真をUPするので待っていてください。

最初にRADAの校長から挨拶があった。RADAは102年の伝統がある。日本でワークショップをはじめたのは14年前 まだだれもWSを知らなかったそうだ。①与えれば与えるほど多くを得る②誠実と才能はリンクする③同じスピリッツを持つ④サポートしあう、役者同士学びあう⑤会話を重んじる⑥身体と声と想像力がたいせつだということ⑦自信があれば想像力が働く⑧一番してはいけないことは相手の自信を失わせること。学ぶのはアレクサンダーテクニック

   ウォームアップ 息を吸う吐く 吐くときにいい顔をする ボールをつかったエクササイズ 名乗る 聞く 走る 歩く 

演技とは自分を知ることにつきる(スタニフスラスキー) 自分を知るためのエクササイズ①写真をつかったエクササイズ 写真を選ぶ なぜ選んだか ②キャシーとおなじエクササイズ ③ミラーのエクササイズ ③片足に釘のエクササイズ 相手の空間をさぐる・相手の背中にタッチする ④同時におもしろい話をして相手を引き込むエクササイズ⑤ポジションのエクササイズ 自分の動きのくせを知るエクササイズ①四方の壁にタッチして戻る②歩く 関係性 足音気配に気を配る ③仮想敵 仮想味方をつくる
  
   わかったことは周辺に気を配ると ぶつからない 速度がしだいに同じになる ボールを落とさなくなる 楽になる それからわたしのくせは相手の反応を十分キャッチしないで 先へいってしまうということ。四分の一拍くらい早いように思った。呼吸をあわせると無理がなくなる。

   物を運ぶエクササイズ ①イメージを共有する②情報を引き出す

   脱力のエクササイズ 眠ってしまうひともいた。わたしも意識が遠くなった。からだに耳をすませていると 不思議なことにひざが囁くのがわかった。イランさんがわたしの首に手をふれると 白い点が浮かんだ。ミルクにぬれたばらいろの唇 白いミルク 白い穴 

   ふたたび写真のエクササイズ 上に前にまわりにエナジーを押し出す からだが開く 背骨が伸びる ブロックが少ないため気が前にいく 生命のスパーク 刺激(内面から周囲から)五官の感覚をひらく アクション

   イランさんは言う。センス ボディ マインド の一体化 これだ!キャシーのWSで気づいたこと、わたしが欲していたもの、足りないもの。 身体と心と感覚を統合すること 感覚をもっと開く 身体にもっと聞く。

片町のアルコで五人でわいわいお食事 博多からきたT君は脚本を書いている 東京のTさんはカンパニーを持っている 同じく東京のSさんは女優 大阪のMちゃんは芸大生 演劇畑のひとは性差も年齢差もない 夢にむかって歩いている。いい出会いがあった。




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   キャシーとローリーのワークショップでLTTAファシリテーター養成講座で一緒だったレイさんと会った。キャシーもローリーも再会を喜んでくれ わたしたちをふたりのグルービーと紹介してくれた。LTTAについて一度聞いているせいもあり前回より深く理解ができた。またこのワークショップを企画したコウケツさん(むつかしい字で漢字が見つからない)のすぐ結果を求めないで 地元にひとを育てる種蒔きをしてゆこうという心意気のせいか とても気持ちのいい空間が生まれていた。越谷市ではすでに何年も前からLTTAの理念に近いアートから学ぶという取り組みを地元の教育関係者他に向けて始めていたのだ。

今日は参加者を生徒に見立て 三つの授業を行った。
① ストーリーテリングからスピーチを学ぶ(高校生) 
② 紙粘土の創作から数学3Dを学ぶ
③ 打楽器の演奏をとおして社会(カナダの地理)を学ぶ

    それぞれサプライズのあるエキサイティングな授業だった。終わったあとも15人のひとびとが熱心な質問をして 後片付けもしていった。ストーリーテリングについてはキャシーの語ったものがたりをグループで語ってゆくというエクササイズをしたのだが 驚いたのはたった10分のなかで技術的なことも含めて学んでゆくのである。アイコンタクト からだの位置 間とか手振り....まったく問題はないのだった。

    このワークショップが語り手にとってまた語り手をめざすひとにとってどんなに豊かなものだったか ここにいる参加者の方々は夢にも思わないだろう。キャシーは先輩から受けたメッセージとしてこのように話した。ストーリーテリングにもっともたいせつなのはものがたりではなく 語り手と聞き手の関係性である...というのである。それはいままで学んできたことである。そして語りというものが語り手の全人格的なものに起因するという恐ろしい事実もわかってはいた。だが...ここで目が洗われるように思ったのは、ことばだけでない、こころだけでない からだも含めて 語り手はまるごとすべて全器官全感覚をつかい 感じ 伝えるのだということだった。

    このことは総合的統合的学びを目指すLTTAにもつながっている。そして学ぶスタイル  言語的 数学的 空間的 身体的 他者とのつながり 自己との対話 自然 (ひとつ忘れた) デジタルから という9つの方法がもともと自分のなかにすべてあった おそらく他のひとのなかにもあるという気づきにつながっていった。家庭や社会やさまざまな環境の変化である方法が選択され ある方法は捨て置かれる。わたしはわたしのなかでなおざりにされた方法をもういちど取り戻したいと切に思った。喪われた子ども時代を取り戻すように.....全的な自分を復活させたいと強く願った。わたしにとってそれは 身体と自然から学ぶ方法を取り戻すことである。

    ローリーは あなたは深い井戸を持っている。ビジュアルアートや音楽をつかって水をくみ出すのだ という。 そして その水はどうするの? ローリー... 人生は探索の旅である...てダレカイッタヨウナキガスル さぁ わくわくしてきた...でかけよう 探しにゆこう。



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   Oデイケアの日だった。9人の高齢者とヘルパーさんが待っていた。新しい方がふたりいたので、紹介ゲーム、どんぐりころころの手遊び それから今日の朝ごはんゲーム、ボールわたしゲーム、フレーズをど忘れして先生に聞いたいわしの開き それからおはなしをしてまたゲームをして ハイタッチして抱き合ってお別れした。

    ボールわたしゲームではみなさんの創意工夫で新バージョンができた。ボールがだんだん重くなる、そして軽くなる。どっこらしょといかにも重そうに受け取ったり、ふわりと手渡したりみんななかなかの役者である。手白のさるはいままでで最高のできだったと思う。固唾を呑んで聞き入ってくださってうれしかった。「先生 今日はほんとうに楽しかったよ、またきてね」一生懸命おはなしを聞いてくれた耳のわるいおばあさんがわたしの目をじっと見て言う。わたしもみなさんがだいすきだ。デイケアにきて遊んだり語り合ったりすると いのちがあたたまる。

   ビウエラのレッスン 一弦、二弦、三絃はひとさしゆびとなかゆびで爪弾く。四弦は拇なのだが、弦に指を置き力を抜いて三絃に落とす。それができない。どうしても力が入ってしまうのだ。こんな簡単なことがと情けなくて笑い出してしまう。力を入れるのはたやすいことなのに、力を抜くというもっと簡単そうなことがなぜできない。

   演劇のエクササイズでもそうだった。クラシックの発声でもそうだった。余分な力がはいると 芝居はくさくなるし 美しい声も出ないのだ。語りもそう、語り手にリキがはいると聞き手は疲れる。肩の力を抜かないと開かない。また うまくやろう 見せてやろう 負けたくない 褒められたいなどと余計な色気を出せばそれはそのまま聞き手に伝わる。無心になってはじめていい語りができる。そのときは目の前に聞き手がいて 語る自分もいるのだが すべて消えてしまうように思う。透徹した意識がなにかと一体になってそこにある。そういう語りは滅多にできない。6年間語ってきて 10の指に満たないと思う。

   ひと月に6回 それぞれ三話(ちょっと無理かも)語るとして年間210話 あと10年語れるとして最大2100話 一回語るごとに残りは減ってゆく。まして聞き手はおなじではなく 一期一会 たった一度しか聞いていただく機会のない方もいる。一刻一刻 刻まれる時は戻りはしない、ひとは誰も死に向かって歩いている。誰にもひとしく終わりは来る。それを思えばことばにいのちをのせないで語ることなどできようか。

   それゆえ 一回の語り ひとつのものがたりに無心になりたい。




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   二学期最後のおはなし会 アボリジニの神話を語りたかったのだが、昨日茨城に行ったり 父の13回忌の打合せがあったりして帰りは夜中を回っていた。やりたい気持ちもあったが万全の準備をしてからと思い 今日は芦刈を語ることにした。けれども導入をかえてみた。キャシーから受け取ったことを 2.3してみた。六年生はシャイであまり動いてはくれないものだが、みんな手を打ったり歌を歌ったりしてくれた。いわしのひらきだってできそうな気がしたが、おはなしにした。


   こうしてA小の1学期のおはなし会は終了した。二学期の前に先生方と打合せをお願いした。二学期からは一歩も二歩も踏み出したい。先生といっしょにおはなし会をいいかたちにしてゆきたい。愉しんでひらいて 心響くおはなし会にしたい。


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   キャシーが語ったのは「空の女とちいさなマスクリットと地球のものがたり」だった。このおはなしは櫻井先生が語られるのを聴いたことがある。桜井先生はキャシーから聴いて語られたと今日知った。....
   耀く海が見えた。白いおおきな白鳥が見えた。冷たい海の底の息のできない暗闇を感じた。.....わたしは泣いていた。キャシーの手がわたしのあたまに触れる マスクリットに触れるように。キャシーの手がわたしを撫でる やさしく 何度も。....今思い出したのだ。....16日 ほんとうに起きたことだ。どうして忘れていたのだろう。わたしは今も泣いている。

   どのクラスにもたいてい忘れられた子どもがいる。教室におはなしに行く時 ぽっかり穴のあいた感じがすることがありませんか?  わたしはときどき痛いように子どもの存在を感じることがある。その子どものためになにかしてやりたいと思っても 精一杯 おはなしを手渡すしかない。おはなしが終ったあと ときどき魂のこもった目に会うことがある。そんな時はすこしはほっとする。....わたしも昔 寄る辺ない子どもだった。だから、強がっていても孤独な魂に出会うとそれはよくわかるのだ。LTTAの理念はevery child をだれひとり置いてけぼりにしないことだ。

   キャシーは教師だったし 女優だったし ストーリーテラーだった。今でもそうだけれど 今はLTTAを広めるためにローリーと世界中をまわっている。キャシーの厳しい目とローリーの灰色に煙った湖のような目がわたしを見つめる。キャシーは経験したすべてのことがLTTAに役立ったし そのためにあったのだという。

   最初にジャーナル(自分のためのちいさな本)の表紙を書いたとき 奇妙な既視感があった。ローリーは『今の自分』を書いてと言ったように思う。わたしが描いたのは青い夕暮れの空と白い雲 それに三本の木だった。尖った樅の木は左が高くて右はすこし低い。真ん中に林檎の木があって実が最初は3つ それから4つ 空の上に 耀く星がひとつ。

 
(これは電車で失くしたオリジナルのかわりに作り直したもの。林檎の数が異なる。樅の木も高くなっている 空はとても明るい 星はちかくなった)

   わたしは林檎の木が「わたし自身の家族」を意味していることに気づいた。そして樅の木の高い1本が「語り」で もう一本が「もうひとつの道」であることを悟った。耀く星はわたしの目標、わたしの祈りだった。その日は もう一枚 『自分を取り戻す静かな山の絵』を描く事も課題だった わたしが描いた山は薄青く冷たそうで とても高く鉛筆のように尖っていた。尖った山はつごう七つ 聳えたっている。...そして突然わたしはこの山が自分であることに気づいて狼狽した。まるで心のなかを見透かされたような気がした。 そして長いこと ひとりで闘いつづけてきた自分の孤独を初めて知った。わたしは珍しいものを見るようなそれだけれど よく見知ったものを見るような不思議な感じがした。寂しいけれど美しいとも感じた。

  二日目 きのうのこと(山の絵を描いたこと)を踏まえたうえで 今の自分をコラージュで15分で表現するようにとローリーとキャシーが言った。机の上にははさみやのりや絵の具やパステルの他に色のついた紙 ペーパーナプキン カタログ ナイロンの買い物袋 ビーズ パール リボン 日常でつかうさまざまなものがならんでいる。コラージュとは異なる素材や方法でひとつのビジュアルな作品をつくることだ。みんな きのうとは打って変わって積極的にとりかかり始めた。

  わたしはなにをしたいのかわからなかったが なにかにつき動かされるようにまず青い絵の具で波のような曲線を描いた。それから集めてきた異なる素材の紙を切ったりちぎったりしはじめた。それは柳の葉のようなかたちだった。それからそれを貼った。そしてその上から青の絵の具を滲ませる。まるで記憶にある細い路地を歩くようにわたしは躊躇することなく作業をつづける。金と銀のしずくを貼る。ピンクのリボンを弧を描がかせて貼る。ピンクの波を貼る。大きな木のビーズを貼る、ゲームのとき拾ったちいさな真珠をボンドでつける。赤いドーナツのかたちのビーズを貼る。こうして昼休みもすこしつかって わたしのコラージュは完成した。ローリーが囁いた。「beautful!」



  満ちたりた気持ちがした。わたしはきのうの自分とわたしがすこし違うことに気づいていた。そして今気がついた。金のしずくと銀のしずくはキャシーとローリーだったのだ。そこには 手をつなげそうな仲間たちもいて わたしはいまは孤独ではなかった

  三日目 終わり近くわたしは一枚のメモを通訳さんに手渡した。「絵やコラージュなど描いたもの またトーテムや感情に訴えかけたシーンなど択んだものはすべて表現した人の内面を暗示しまた明らかにします。自己受容そして自己改革もまたLTTAの視野に入っているのですか?」

  クロージャClosure?のときがきた。机をかたづけてわたしたちは円形に座った。キャシーは最後に質問について答えた。「このひとのとおりです。政府が教科を決めLTTAにつかうアートの方法を決める。ドラマ、音楽 ビジュアルアート、ダンス、文学 けれども方法はLTTAのわたしたちに委ねられているのです」わたしは顔をあげた。ちいさなマスクリットの手に握られた土に 空の女が掴んできた生命の樹が触れたとき花がみちあふれ 木が伸び 動物たちが生まれた。あれはキャシーのメッセージだった。わたしたちのほとんどがマスクリットに自分を同化したように キャシーはこのワークショップに参加したわたしたちのひとりひとりにマスクリットになって 世界を変える手伝いをしようと語りかけたのだと思う。それはたとえファシリテーターでなくともだれでもできることかもしれない。そしてキャシーがストーリーテリングには大きな力がると言ったように、また参加したひとの多くがストーリーテリングの圧倒的な力に気がついたように語り手はもっともあかるくかがやく灯火を持っている。

   キャシーとローリーから受け取ったメッセージをわたしは受けとったし その方法も伝授された。キャシーはわたしが「あなたに会ったことでわたしの語りは変わるでしょう」と言ったとき 「どんどんつかって わたしの方法を持っていって」と言ってくれた。わたしは忘れないようにしよう。まだ胸のなかで揺れているこのものがたりを語ってゆこう。すべては書ききれなかったが、これがこの三日間に起こったことである。

   キャシーにたのまれて「いわしの開き」 をみんなでやった 潮吹いてDOカーン!! キャシーはLTTAの導入に1年生から6年生までつかえると思うと言った。いいえキャシー LTTAではそうだけれど 3歳児だっておばあさんにだってつかえるのよと心のなかで思った。終わりに頼まれてもう一回やった。(ついでにキャシーから伝授されたことも思わずふたつやってしまった)いわしの開きはカナダで流行るかもしれない。アボリジニの子どもが歌うかもしれない。すこしでも贈り物をわたせてよかった。ひとつだけ後悔がある。わたしはなんで英語をもっと勉強してこなかったんだろう。



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    ファシリテーター養成の講座で起きたことはとても大きなことだった。語りの力がいかなるものか、また 他のアートとどのように関わりあってゆくか アートとはなにか 深く考えさせられた。キャシー・ミヤタがまさに身を挺して伝えようとしたことのどれだけ わたしが受けとめられたかわからない。 ひとは己の器のおおきさでしか受けとめられないものだからだ。

    いかに生きるかと語りは糸のように縒りあわされている。そしてわたしとひとびとのつながりとも深く縒りあわされている。その糸がとても太くなったように感じている。このブログにきてくださっている方のなかで 語りだけしていればいいと考えていらっしゃる方もいると思う。それはそれで素晴らしいことだと思う。しかし 語りの力が じつはどれだけのものかは 他のアート 他のことと組みあわせたり また おはなしを共有するとか楽しむとかの次元を超えたあるものに向ってゆくときはじめてわかる そのとき圧倒的な力が発揮され もろもろのものが目を覚ますであろうとわたしは強く感じている。

    器もそうだが 目的も おおきいほど なにかが動くからだ。今は時間がないので夜 忘れないうちにきのうのことをまとめておきたい。そこで きのうのタイトルの意味..(わからかったでしょう?ごめんなさい)があきらかになる。
それでは、今日という日があなたにとってよい一日でありますように...





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   なにから語ろうか。アボリジニの歌を歌ったこと? 今の自分の気持ちをコラージュにしたこと? (デジカメがきたらUPするのでもうすこし待ってください)それからトーテム....アボリジニの7つの聖なる約束を司る動物たちの絵の前にわたしたちは集まった。 それぞれのひとがもっとも惹かれる動物を択んだのだ。そこでキャシーは云う。「あなたたちが択んだのではなく動物が(約束が)あなたたちを択んだのです」    

   真実、愛、正直...7つの約束を意味する7匹の動物たちのうち.....わたしたち4人が択んだ動物は....だった。わたしたちはそれぞれどうしてその動物を択んだのか話し合う。孤高、勇気、まなざし、受け継いでたいせつなものをわたす。献身....話合いのあとでキャシーはそれぞれの動物が象徴する約束を知らせる。わたしたちが択んだ動物が象徴する約束は謙譲だった。

   そして とうとう キャシー・ミヤタが語る。アボリジニの神話 空の女とマスクラットと地球のおはなし。そのおはなしの途中 佳境にはいったところでキャシーは4回にわたっておはなしをストップしさまざまなことをわたしたちに課す。空の女が落ちてゆくときのタブロウ(静止画)、エモーショナルのジャンケン、そしてふたりが組みになって もっとも心を動かされた場面のタブロウ、それらのエクササイズは段階を踏んでいる。そしてまたトーテムに戻り それぞれの約束(ことば)がっとも端的に表れている場面をタブロウにする。

   わたしはここで気づいた。これはわたしが壁に貼った質問の返事にもなっている。わたしは「キャシーが役者としての立場でLTTAをするとしたらどういう方法をとるか。またそれはストーリーテラーとしての方法とどう違うか」質問をした。キャシーはストーリーテラーの方法として語った。それから役者としての経験から演じさせた。しかし ここで求められているのはストーリーテラーとしてだけの語りではないのだ。ファシリテーターとして 究極学校の先生の授業を生き生きさせるための語り、歌も絵画もダンスもドラマも音楽も学校の先生を変えるためにある。そこにあったのは徹底した子どもたちの参加であった。


   実際に行われたこのLTTAの目的はアボリジニを知るための授業だった。このクラスは先生以外すべてがアボリジニで それも胎児のときにアルコール漬けにあった子どもが多いことから 注意力 理解力の点で問題のあるクラスだったという。しかし 先生が驚嘆するほど 子どもたちはみごとにやってのけたという。

   今日 学んだことは大きすぎてまだ揺り動かされたまま 呆然と手をつかねている。わたしはものがたりをただ語るために語ってきたのではない。生きることと語ることはつながっている。 語っているとき生きている感じがして 天やひとびとやたくさんんおものとつながっている気がした。よりよく生きるために 今同じ時代をともに生きるひととわかちあい またあとにつづくひとたちに手渡すために語ってきた。しかしなかなかその方法がつかめなかった。

   弧を描いて円環が閉じようとしている。 これは平面的に見たときであって 横から見れば螺旋を描いているのだが、語ること 役者として学んだこと ビジュアルアート 楽器や歌....いままで 目くら滅法 手をのばしつかんできたことがようやく一枚の絵になろうとしている。複合的にというか全的に関わってゆく方法がみつかった。この講座をどうしても受けたいという焦燥 RADAのワークショップへの焼け付くような思いの意味がわかったように思う。今日という日はターニングポイントになるかもしれない。

   キャシーの語りは役者としての体験がおおきく影響している。彼女はからだで語る、全身で語る。これがキャシーのスタイルだ。だが日本で俗にいう演劇的な語りとはまったく違う。アートという驕りのかけらもない。つくりものではなく見てくれでなく日常のなかに自然にある。キャシーが腕をひろげて ハグしてくれた。「あなたは日本のファシリテーターになるかもしれない」

なってみたい。それで学校の先生たちが変わるなら、授業が楽しくなるなら 子どもたちが生き生きとまるのままの勉強 あたまだけでなく五官のすべてを動員したなおかつホリスティックな勉強ができるならやってみたい。だがそうでなくても 障害児の学級で デイケアでさまざまな応用がきくだろう。20日の6年生の語りを変えようと思った。




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LTTA  


Learning Through The Arts(「ラーニング・スルージアート」 アーツを通しての学習、以下LTTA)のファシリテーター育成講座に参加した。 池袋の会場にぴったりの時間についたら櫻井先生がいらした!!今日お会いできるとは思っていなかったのでびっくりした。

  キャシー・ミヤタはストーリーテラーでとても暖かな魅力的なひとだった。最初に自己開示 キャシーとローリーの自己紹介があってなごやかな雰囲気になる。これはわたしもデイケアなどでよくつかう手だ。自分を開いてしまうと聞き手もまた開いてくれる。LTTAの発祥とめざすものについてのレクチャーがあった。LTTAとはアートと教育をむすびつけ 子どもたちが生き生きと学ぶためのひとつの方法である。every child が置いてけぼりにされないで学ぶために9つのアプローチの方法があるとされる。言語的 音楽的 身体的 1対1で ひとりで ビジュアルアートから ....最後にデジタル的(PCやネットから)それぞれひとはひとつ以上の自分の得意な方法を持っている。

  LTTAとはそのようなさまざまな方法を組み合わせて 教師とアーティストが連携をとって数学なら数学だけというような教え方でなく 数学と絵画 数学とダンスのように全的にまとめて教育する方法論なのだ。つぎに実践にはいる。まず図形を考える。さまざまな形が身の回りにあることにきずく。ここでは円錐、円柱などが自然のなかにどのように組み込まれているか考える。それから水彩画を描く。タイトルは自分を取り戻す静かな山。そこで技法 筆つかいのテクニックをからだで教えてもらう。最後にみなが描いたさまざまな山の絵を見せてもらう。

  つぎにふたり組になってダンスを通して対称と非対称をからだでやってみる。このようにLTTAはからだで考えさせる。LTTAをつかった授業を受けた子どもの授業内容の定着率は高く 社会的情緒的に安定している傾向があるという。

  さて そこでだが 語りをつかって数学の授業をするとしたらどうするか、考えてみた。みなさんも考えてみてください。わたしは歌を歌い芝居をし グラフィックアートも好きである。今 楽器を学んでいる。昔はぜんぜんだめだったデジタルを今は大いに利用している。これはすべて語りからはじまった。玉突きのように ひとつがほかのひとつを触発し また他のものに興味がひろがっていったのだ。今回LTTAのWSを受けようと思ったのは直截的には障害のある子たちのクラスでなにができるか? ただことばだけではむつかしいのではないか という思いであった。

  実際に一日目を受けて このごろ感じていたことのヒントがたくさん隠されていることに気づいた。それはからだの力である。からだで語る....からだで共有できることがたくさんあるのだ。ことばでただ聴くだけでなく五官のすべてを開放する ダンス、ビジュアルア-ト、ドラマ、詩や文章、音楽....あしたが楽しみであるが ただただ残念無念なのは今日書いた水彩画も眠い目をこすりこすり書いたノートも、今日の最大の傑作わたしのジャーナル(ひとりひとりがつくった絵本のような日記のようなもの)もみいんな宇都宮線の網棚の上だってこと......




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    5年生のおはなし会 出ようとしたら車がない。息子が乗ったまま 帰ってこない。急いでタクシーを呼んだが すこし遅れた。

    予定を変えて雪女を語った。あせっているとき 新しいおはなし3つはむつかしいと思ったのだ。つぎにノルウェイの神話から「りんごの木」おはなしのおわりに冷蔵庫にころがっていたすこししなびた林檎をナイフで切って見せた。よかった!!星のかたちに種がならんでいた。ともあれ、おはなし会には万全の準備が必要だと痛感した。

    校長先生に ものがたりを暗記しているのではなく 目の前にまたは心象に繰り広げられてゆくものがたりを同時にことばにしてゆくのだとようやく理解していただいた。そしてそれはだれにでもできることであるのだということもお話した。その力を獲得することは自分の内なる世界をひろげ、ひとが生きてゆくうえでとてもたいせつなコミュニケーション能力を高め、ひとのこころを知りなにより自分自身を知ることにつながるということもお伝えしたが拙いことばであるのでどこまでご理解いただけたかはわからない。けれども聡明で子どもたちを愛する気持ちの強い先生だから幾分かは伝わったかと思う。帰りは校長先生に送っていただいた。



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    済世会にピロリ菌の検査に行く。もしピロリ菌が存在すれば 除菌をすることで15年来のつきあいである潰瘍の痛みから解放される、すこしばかりさみしくもある。からだの痛みに耐えているときはほかのことは忘れていられるので、それはある意味で救いであったのかもしれない。


    水戸先生のレッスンがはじまる。受けているうちに たとえば声楽のまた芝居のエクササイズに似通っていることに驚く。要は脱力なのだ。力を抜いて はじめてからだは自然に動く。わたしの語りでたぶんもっとも必要なのも脱力である。先生や夫の話術の巧みさに舌をまくのはこの脱力で わたしはどちらかというとテンションの高い語りは得手であるが ふっと息が抜ける語りは大いなる課題である。

    あっというまの50分が過ぎる。一音の響き ゆたかなまるい音は20回に1回くらいしか出ない。耳とからだに覚えさせること。先生は楽器が届くまでなにもしないのはもったいないからと弦だけの練習用の楽器を貸してくださった。


    F機械から 明日の打合せを延期してほしいとTELがあった。今日は連絡会議。はじめてプロジェクターをつかってみる。





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    朝 4年生のおはなし会。パネルシアター「まぁるい まぁるい」と語り「わたしがちいさかったときに」を持ってゆく。みんな椅子をかたづけて座布団にすわり待っていた。パネルシアターがはじまる。語りかける。かえってくる。おもしろそう..とか笑いもこぼれる。途中で障害を持つクラスの子が先生に伴われてきた。先生が帰ってしまって Yくんはうれしくてしかたがないようすで腕に口をあててブーブー鳴らしだした。そのうち ....うんこがどうしたとかそういうことばにまわりの子どもたちがざわめきだし シーっとか静かにとか注意するのだが収まらない。わたしもはじめはやさしくそのうち「みんなに迷惑をかけることはやめなさい」とかなりきつく注意せざるを得なかった。

「おじいちゃんやおばあちゃん おとうさんやおかあさんから つぎの世代のみんなに手渡してゆくたいせつなものはなんだと思う? 」の問いに最初かえってきたのは いのち、お金、愛情、感謝 ということばだった。パネルシアターが終ったあとで 「みんな それからほかになにがあるかな」と聞いたら「地球」という答。

   「まぁるい まぁるい」を子どもたちに手渡したあとで、「わたしがちいさかたっときに」を語る。さきほどとはうってかわってしんと静まり返る。たくさんの魂のこもった目が見つめている。Yくんも静かに聴いている。 みんなにさようならの挨拶をしありがとうございましたのことばをもらって 帰ろうとすると ひとりの少女が決然としたようすでちかづいてきた。「いいおはなしをありがとうございました。涙がでました」思わず 抱きしめてしまった。「あなたたちの手で残していってね たいせつな地球や平和をね..」


    Y君は楽しくてうれしくてあんなことをしたのだろう。もしプログラムのこと(ひとクラスに入れるのは6年間に3回なので これだけは伝えたいというおはなしを語っている)を考えなければ またY君のクラスで語れるなら腰の据わった対応ができるのにとなんだか切なかった。Y君のことが気になって クラスに行ってみると 担任の先生は「ほかのひとに迷惑をかけるときは きっぱり叱ってほしいのです。 わたしもこの子たちのためにそうしています」といってくださった。そして 先生とおはなしを続けるうちに このクラスに おはなしにいけることになった。

    八年のあいだ 夢みたこと、幾度か試みてできなかったことが Y君のおかげであっけなく実現しそうである。図書ボラのみんなのいままでの積み重ねがあったればこそである。 わたしはくらくらした。こんなことがおきるなんて まるで夢のようだ。これで 二クラスにはいれそうである。障害のある子たちへなにができるだろう。だいすきだよという気持ちともっとなにかを手渡したい、みんなの扉をあける手伝いがしたい。わたしも学ばなければならない。

    会社で今日の仕事のはかどったことといったら 支払い 請求書チェック給与計算が終わった。 どんなむつかしいことだって できてしまいそう。空だって飛べそうだ。





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   ひさしぶりにAデイケアのみんなに会えた! 元気だった!? 元気だよ! 先生は!?わたしも元気 いろいろあったのよ....ひとしきりの近況報告

   まずはいわしのひらき...ここでははじめて
   それから風船をひとつ ふたつ みっつ
   みんな落さないように真剣になって それでも軽口に大笑い
   疲れたところで  手白のさる でしんみり
   それから ありがとう、すみません ゲーム
   今日の朝ごはんゲームで大笑いだったのだが

   極めつけは 
   むかしむかし...みんなでものがたりをつくったこと
   ももたろうは 鬼が島から帰る途中娘と出会うが
   反対されて網走に駆け落ちする 
   ハワイにわたってフラダンスを覚え
   借金して日本に帰る。借金は踏み倒す
   クラシックと演歌を聞き
   おじいさんとおばあさんに詫びを入れ ローンを
   払ってくれるなら いっしょに住んでもいいよと
   いう話になるが 老後は自分で責任持たなくちゃと
   別に暮らして デイケアに入れてもらいました。
   最後にいわしのひらき
   めでたし めでたし
   
これがあらすじなのだが それぞれの語りっぷりがおかしくて みんな腹をかかえ笑った。わたしなどは足をバタバタさせ悶え笑った。高齢者18人くらいだったか ヘルパーさんが三人と楽しく賑やかに過ごした1時間。またきてね の声に送られて 夢のように帰ったが ふと気づいた。あのものがたりにはみんなが実際に体験したことや自分の思いが入っているのではないか もしかしたら....
ものがたりに託され 笑いのめしたものがあるのではないか....

まだ、できる
もっと、できる
生きる力になるような 
デイケアでの活動

切ない 情けないおよそ生きているうちにたまるほこりのようなものを 笑い飛ばして 元気になって楽しんで 前向きに生き生き過ごす みんなで手をつなぐそういう活動が企画できるような気がした。



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「まあるい まあるい」の雲や島や太陽がパネルの下で折れてしまって さぁたいへん必死で直してでかけた。

語った! 「まぁるいまぁるい」五年生のこどもたちからかえってくる! 語った!飛んだ!撥ねた! ソーディーソーディー
子どもたちは前回よりずっとあかるくなごやかだった。
熱かった 汗かくなんてひさしぶり
 
なんで こんなにしあわせなのだろう 
なんでこんなに充たされているのだろう 
語らせていただくって いったい!?

校庭にすっくり伸びた みごとな欅が一本
曇り空に立っている




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    県立図書館の研修室には4人しかきていなかった。それで着いてすぐ語ったのは「杜松の木のものがたり」 今日は秋の発表会で語るおはなしを決めるのだが 気味のわるいのはやめて きれいなのにして こんな時節だから 影響されると困る....というような発言に困惑する。

    首を切られて食べられてってものがたりを聞いて影響されて 殺人するとでも?このものがたりは再生 父の体内を通って復活するという通過儀礼をあらわすと言われているが伝わらなくてはしかたがない。わたしの語りが未熟なのでありましょう。以前にカタリカタリで語ったときにも 白い布に滲んだ血の色が目の前に浮かんで怖かったとかいう感想があったが リアルな想像を呼び起こすのだろうか。わたしは櫻井先生の語りを二度聞いたが怖いとは感じなかった。それでは どのように語ればいい?

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    6/30の夜は 「まぁるい まあるい」のパネルシアターつくりにおわれた。娘も動員して 何枚まるを切り抜いたでしょう。太陽に月に地球...それからルイくん。パネルも黒と青と水色の三種類をつくった。明け方 すこしうとうとした。

    ちょっと 心配な予感....セミナーの卒業発表会と同じパターン。寝不足で肝心の語りに精彩がなくなるようなことにはなりませんように。

    1時に中野区立図書館に着いた。語り手たちの会のおはなし会のメンバーが大勢見えていた。それからたくさんのちいさなこどもたち。

    はじまった。一部 まぁるい まぁるい....「まぁるい まぁるい なあに 」とこどもたちに唱和してもらうように設定をかえる。青い海と北極の氷が見つからない!!ことばで補いながらも ものがたりはすすむ。今 はじめて語ったので これから聞き手のちからをお借りし ものがたりは成長してゆくだろう。

    二部は聞き手の年齢の低さにおどろく。さぁ どうしよう。他の皆さんののおはなしを聞きながら あたまの中は千々に乱れている。ほうすけは小二以下のこどもに語ったことはなかった。ここにいるのはもっともっとちいちゃなこどもたち。.... ほかの話に変えようか...でも最近語られたおはなしかもしれない...ままよ...とどくかどうか やってみよう。


    三部 つつじの娘 わたしはそこにいて いない。ただものがたりがそこにあるという ことばに尽くせぬ時間が流れる。 なにもない。手がふるえている。わたしのからだを借りて ものがたりが生まれる。そのまま 由紀ちゃんの庭へ.....浦和の懐かしい風景のひとつひとつが眼前にひろがってゆく。たいせつなたいせつな....。最後に この道のさきにはでおしまい。

    終ったあと おはなし会のメンバーの打ち合わせに同席する。みなさんの充実したおはなし会にしてゆたいという熱意をひしひしと感じた。それから 打ち上げ。東京駅をさまよって ようやく シェ・リュイ....をみつけフロマージュをむすめたちのおみやげに求める。



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