遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



   このごろ、癒しとはひとの全体性を回復しようとする試みであり、生きるとは自己の失われた欠落を埋めようとする半ば盲目的な営みではないだろうかと強く思うのです。
 
   ひとはかつていた場所を忘れてはいません。無意識の領域でひとはほのかな、しかし切実な夢を見ています。切り取られた自己ではなく、個の枠を超え溢れ、生命のみなもとにゆるされ溶け合って、しかも全き己であった至福のときを焦がれています。

   身体と心と魂をひとつにして語ろうとする、そのこと自体がばらばらになった自己を再統合しようとする祈りでもあると思います。そして、聴き手とひとつになりたいと願う、それもまた個の壁を越えたいという希求ではないでしょうか。

   語ることも他のさまざまな試み、うたうこと、芝居をすること、戀うることなどとどうように、自己の全体性を回復しようとする深奥の動機を持っているのです。語ることは単独にあるのではなく、夢のように、飾りのようにあるのではなく綯われた糸のように現実の人生とウラ表、密実のものです。

   生きることは時に修羅です。個人であれ、企業であれひとつ仕事を得ることは他のひとや会社から機会を奪うことにほかなりません。文明国で生きるわたしたちは途上国から収奪せざるを得ないときがあり、大国に寄り添い他国のひとびとを傷つけることさえあります。食を得ることは、豚や牛や鶏や魚、生き物の命をいただくことにほかなりません。

   この修羅で日々、戦って、挫けて、泣いて、起き上がって、傷つけあい、許しあい、愛しあって生きる、ここから語りは生まれるのだと思うのです。闇がなければ光はありません。闇が濃いほど、一本のマッチの火があたたかく明るくわたしたちを照らすのではないでしょうか。

   今日、Sさんと会ってお話しました。昨年と今年のコンサートにきてくださった方です。さまざまなことを語り合っているうちに、語るの本義...魂をカツ...響かせるの意味が、別の面からわかったように思いました。語りとは聴き手の心の底、深層意識、膨大な無意識界の扉を叩き開き得るのです。

   ふだん忘れていること、記憶の襞に注意深くしまいこまれたことを揺さぶりおこし、聴くひとの喪われた過去を取り戻し、癒し、あしたに向かってゆく生きる力を甦らせることができる....これが魂振り..の本義ではないでしょうか。

   うつくしいものがたりを語りましょう。楽しいものがたりを語りましょう。天からのメッセージを語りましょう。けれどもそれだけでなく目を背けたくなるような酷いこと、苦しみや悲しみもおぞましさまでも語りたい。そのような苦しみや悲しみを透徹したところに美そのものがあり、光が耀くのではないでしょうか。それはおとなのための語りです。一生懸命 明日に向かって生きようとするひとたちへ向けた語りです。

   ”シャルマン”の夜がはじまるまえ「ルノワール」で”エッダ”..(ゲルマンの日本でいえば古事記にあたります。)に目をとおしつつ、考えたことでした。わたしは書くことによって、自分をたしかめ前に進んできました。書くにも場所があります。語りルネサンスで書けること、ミクシィで書けることとこの遠い森..でことばになることは違います。正直のところ1週間書かずにいることは、かなり苦しいことでした。掴みかけたものが風に飛ばされそうな不安がありました。

   わたしはこのブログで見えない読み手がしだいに増えてゆくことがいいことなのか、よくわかりませんでした。語りのために訪れてくださっている方もおりましょう。けれども、語りとは語り手のあらわれに過ぎないのです。自己の全体性を回復しようとするなら、当然他者の、そして世界をあるべきものにという視点があるはずです。そうするとチベットで起きていること、高尾山で起きていることも他人事ではありませんね。


   他の用途につかうと書きましたが、すべてはつながっておりますから、わたしたちが生きているこの星、地球について、わたしたちの文明の歴史と誤りと可能性について、語りと絡めて時折この場で考えてゆきたいと思います。語りについてはいろあいの違うあたらしいサイトで、聴き手の心の底、深層意識、膨大な無意識界の扉を叩き開くためになにができるかを含め、考えてゆきたいと思います。
   




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


希望  








http://jp.youtube.com/watch?v=23wEyxtQyYE&NR=1

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   きのうの朝、家の前の桜並木の舗装道路は強い雨と風で落とされた桜の蘂で紅く染まっていました。こんなにいちどきに落ちたのを見たのははじめてのように思いました。

   「神代文字の展覧会があるから行かない?」友人に誘われていたので、雨の中を出かけました。神代文字、日本の古代文字について知らないひとは多いと思います。漢字が渡来するまで、日本には文字がなく、漢字からひらがな、カタカナが発生したというのが通説です。けれども伊勢神宮のような古い神社には古代文字で書かれたものがまだ残っております。(古く由緒ある神社のお札にくねくねした模様のようなものがありますが、あれもそうです)現在のカタカナが実は神代文字の名残である、それに反して神代文字は捏造されたものだという説があるというようなあやふやな知識は持っていましたから、日本のあちこちから集めた神代文字の展覧会なのかなとそんな風に思っていました。


   東京メトロ、表参道駅を降りてのちいさなビル。三人も乗れば一杯のエレベーターで4階まで行きました。受付で記帳を済ませ中に入ると、そこはただならぬ場所でした。高次元のエナジーが充満していたのです。頭の芯が痺れ、身体は震え、思いもしなかった場の力にわたしはよろめきました。書家の手による神代文字が書かれた額が壁いっぱいに架かっていて、その一枚一枚、一文字一文字から強力な波動が出ているのです。それは大元からの波動、ひかり、涙が流れてとまりませんでした。音の実体が光であり、声もまた光になり得ることは感得していましたが、文字にこれほどの力があろうとは、神代文字が光であるとは思いもよりませんでした。

   遠い遠い昔、わたしはその波動を知っていました。還りたい、還りたいと思いました。そして忘れていたたいせつなことを思い出しました。あまりのことに呆然としながら 天井の低い、さして広くはない展示場をまわり、椅子に腰をかけ一時間ほどもいたでしょうか。突然 場の力がさぁーと引いていきました。

   わたしはたくさんのことに気づかされました。家族のこと、語りのこと、なにもかも薄暗くぼんやり見えていた海底に、突然陽光が差し込んだように、明晰に見えたのです。語りについては畏れと深い喜びがありました。あたらしい横のつながりができるでしょう、そしてそれは縦につながってゆくでしょう。まだちいさな語り手ではありますが、可能性がないわけではない。狭き道を力を尽くしてゆきましょう。家族のことは痛みの実感でもありました。でも変えてゆける。変わってゆけると思います。

  「遠い森、遠い声」で2年と88日、そのまえの日記と「千の昼、千の夜」で5年と100日、続けてきました。唐突ですが、とうとうこの三つ目のステージも終わったようです。ながいこと、ともに歩いてくださってありがとうございます。万緑の頃、どこかでまた扉をひらきます。えにしのある方は辿って捜してきてください。

  このブログはわたし自身の書庫としてまた語り・ストーリーテリングを学ぶひとのメモ代わりに残しておきます。今はほとんどが公開されていませんが時間を見て お役に立てそうなところは整理して公開してゆくつもりです。もしや語りのためでなく他の用途に使うかもしれません。これから世の中は動き乱れてゆくかもしれません。みなさまの行く道の平安を心からお祈りもうしあげます。

  最後に、わたしの往く道を照らしてくれる翼なき天使、ありがとう。あなたの畳まれ傷ついた翼が甦り、もっと多くのひとたちの導き手となる日を待っています。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   四月の陽光が輝き、みどりさんざめき、花々が揺れていました。なんて自由なんだろう、なにもかもこれでいいのだとしみじみ思えた日、友人とランチをともにして歌を歌いに行きました。歌は語るものです。それぞれの歌が語り口を持っています。歌は身体で感じて歌うのです。なんという快感、そして開放感。身体や心の今が声になるとき、心臓が震えます。身体も震えます。

  みんな 仕事をしているのだろうなぁ...という罪悪感もすっかり消えてしまいました。三時間歌った頃にはもう放心状態でした。友人に教わった役者さんのサイトを見にゆきました。ひらく、感覚と身体、生命エナジー そうだよ、そのとおり、これしかない。この方は語りをなさっているのです。まだ聴いていないからわからないけれどね。ほんものの(ほんもののなかのほんものですよ)役者が語りをしたら、語り手はとうていかなわないだろうなと思います。身体訓練の質も量も違うからです、技術は言うに及ばずですね。心...志も含めて、そして身体、そのうえに技術。これが順番かな。勝ち目があるとしたらものがたりを創作できるという点でしょうね。

  あぁ 語りたい。からっぽになって、語りたい。いくら語りについて書いたところで、この焼け付くような渇きは癒されないと思います。語り手は語ってなんぼだもの、枠がはずれて、自由になって、風のなかにいてわたしの語りは変わるだろうか。あたらしいものがたりを語りたい。もっと本も読もう。芝居も見よう。自分を磨こう。そして語りたい。語ってゆこう。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




  再話といいますと、出版業界では昔からの物語や伝説・民話などを、子ども向きに分かりやすく書き直す意味でつかい、原文に忠実に訳された本 より格下のようにみなされることもあるようです。
  
  けれどもラフカディオ・ハーンやグリム兄弟の書いたものもまた再話なのです。ラフカディオ・ハーンは節子夫人の語る日本の伝説・民話を手塩にかけて磨き上げ、雪女をはじめこよなく美しいものがたりとして残してくれましたし、グリム兄弟は単なる採話者ではなく自分の考えで伝説・民話を再構成したようです。

  語り・ストーリーテリングにおいて再話はおおまかに三つの段階にわけられます。第一段階はむつかしいことばや翻訳などによる固い言い回しを語りことばに直し、冗長な説明文をカットする。絵本から語る場合は絵によって説明されている分ことばや文章を足さなければならないこともあります。第二段階では同じものがたりの語られているいくつかのテキストを選び、それらを読んで自分のことばで再構成する。できるだけ原型に近いものを基にするといいでしょう。第三段階ではそのうえに自分の得たインスピレーションからあたらしいエッセンスやエピソードをつけくわえる。

  これは、わたしの場合ですが、まず語ってみてひっかかることばを取替えます。たとえば、「彼」とかの翻訳語ですね。それからくだくだしい形容詞や副詞をカットし、イメージそのもので伝えることにします。文章の流れを感じながらととのえます。ときに登場人物を整理することもあります。ものがたりや人物にくっきりとスポットライトを当てるために。そしてものがたりに聴き手を導き、迷子にしないでものがたりを生きてもらうために。

  長いものがたりの場合はエピソードを整理し、滅多にないことですが順序を入れ替えることもあります。聴き手が集中して聴ける時間はおよそ15分といわれています。わたしたち日本人は長いことテレビと暮らしてきましたから、CMからCMのあいだの15分ほどがひとつの単位になっているのですね。

  もちろん聴き手のみなさんは長いものがたりにもついてきてくれるのですが、わたしは基本的に15.6分、最長でも30分くらいに留めています。直感的にそうしてきましたし自分自身のリズムともあっていたのですが、それは正しかったようです。ものがたりは長ければよいものではない。みじかい時間であっても、聴き手がものがたりを感じ、そのなかで呼吸し、喜び、悲しみ、生きるのであれば満たされるからです。あっという間に過ぎ去る15分もあれば、集中と密度によって15分で一生を生きることさえできます。集中を保てる時間のなかで語るほうが心に響きやすい、それも再話の理由のひとつです。

  
  聴き手につたえやすく、ものがたりをほどよい分量に、再話とはまずは聴き手にストレスを与えないためにするのですが、語り手自身のストレスも無くしてくれます。自分のことばになおすことで、ものがたりは語り手に溶け込みひとつになって、自然にらくらくと語れるようになります。ですから再話することでさらに覚える、暗記する手間が少なくなるのです。当然、第一段階から進むにつれてその効果はあきらかになります。昨日書いた即興とここでつながりますね。

  第二、第三段階の再話はむつかしいと思ってはいませんか。小学校で再話の授業は小学校2年生くらいであるようです。基本はそう変わるわけではありません。コツさえ飲み込めればものがたりをわかりやすくし、あたらしい息吹と生命を吹き込むのは簡単なことなのです。文章で伝えるのは限界がありますから、語りワークショップ中級ではその方法を実際にわかりやすくお伝えしようと思います。深く語りをみつめようとする方々にわたしがいままで得たものをお渡ししたいのです。

  古来から語り手・ストーリーテラーは自分の人生をものがたりに付け加えながら語り、ものがたりを豊かにしてきました。今、この時を生きているひとたちに伝えるために。神話、伝説、昔話にはひとを揺さぶる力があり、人類の大いなる遺産です。大事に伝えられてきたものがたりを語り継ぐとともに、ものがたりが時代につれて変わってきたこともたしかな事実として語り手・ストーリーテラーは念頭に置く必要があるでしょう。

  最後に、わたしにとっては語り・ストーリーテリングの創作は再話の延長線上にあります。アラン・ガーナーがいみじくも語っていたように、伝説や民話のなかにすでに数知れぬものがたりの原型があり、語られていないまたは書かれていないまったくのオリジナルなものがたりはないとさえ言えるからです。作家たちもそれらの原型を組み合わせて書いているといっていい、彼らもまた偉大なる再話者なのです。ものがたりはわたしたちの無意識界に眠っています、揺り動かせばあなたの中で目覚めるに違いありません。どうぞそれらのものがたりにあなたの命を加えてください。

  




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




  もともと、語りとはその場の力と、聴き手の心と、語り手のインスピレーションがものがたりとあいまって、一度限りのものがたり世界をその場に、聴き手の心象に現前せしめるものです。ものがたりは語り手の身体と魂をとおることによって、あらたな生命を得るのです。文字をもたなかった太古のひとびとは一族に伝わるたいせつなものがたりを代々手渡してきました。耳から耳へものがたりはつたわってゆきました。人が活字を得て本が一般的なものになってから100年そこそこですから、わりあい最近まで語り部はむかしながらの語りをしてきたのです。

  現代の語り手・ストーリーテラーは全く文字から離れることはできないでしょう。けれど嘆くこともありません。即興で語ること自体はさほど大きなことではないように思います。文学や絵本からそのまま語ったとしても、語り手の体内をくぐり、インスピレーションによってプロミネンスをまとったものがたりは聴き手の心の奥に響くことでしょう。では、なぜ?

   わたしはストーリーテラー・語り手として自由を得るため...と今申しあげたいのです。ストーリーテリングを検索すると、本を暗記しなくてはとか、おはなしを覚えなくては...ということばがセットになって出てくることが多いようです。活字から暗記したものがたりは活字をまとっています。その活字の感触や匂いを消して、イメージに転換する作業、ことばを代えると自分になじませる、生き生きと生命を持ったものがたりにするには、暗記したうえでもう一段階の手順が必要になります。

   ひとつのものがたりを毎日7回、二ヶ月練習する....その努力には敬意をはらいますが、ものがたりは砂の数ほどありますね。世にもうつくしいものがたり、笑わずにはいられないものがたり、世界の創世、至上の恋、ファンタジー、童話、新聞のコラムから...あらゆるところでものがたりはあなたがいのちを吹き込んでくれるのを待っています。みじかい人生のあいだにどれだけ自分のものがたりにできるでしょう。

   文字の暗記という洗礼を受ける前に、即興で語る簡単な訓練をすることは、語リ手・ストーリーテラーに活字の呪縛から離れるという自由を与えるように思います。それにはどうすればいいでしょう。たいていのひとは右利きであるので左脳が発達しています。左脳は言語脳または理性脳ともいわれ、それに反して右脳はイメージ脳といわれ、感覚や無意識をつかさどり、処理能力は右脳のほうが圧倒的に早いのです。右脳と左脳を無意識下で連動させたときひとは大きな能力を発揮するといわれます。

   まず、さびついた感覚を活性化し、右脳を目ざませ、感覚で語る...それから言語化する。最初によい苗床をつくるように、身体と心と感覚をつなぐ回路をひらくのです。そうすることでものがたりがカクカクした活字から陽光のぬくもり、泉の澄んだ水の冷たさ、焼きたてのパンの匂いを持ったものになる時間が圧倒的に早まりますし、習得がいとも容易になるのです。余った時間、語り手・ストーリーテラーはもっとたいせつな分野に時間をかけることができましょう。

   ワークショップ語り・基礎①にはそのためのエクササイズを用意しました。このワークショップが語り手たちの会の講座と重なるのはもともとプログラムを組んだのがわたしで、多忙な講師の日程が決まっていたからであり、またとないチャンスと考えるからです。即興性についてだけでなくことばをどのように伝えるか、ことばの意味でなく響きやイメージによって伝えることができるか、身体でたしかめていただきます。また、参加者ひとりひとりの発声の課題をマンツーマンでお伝えすることもできます。

   ワークショップを耀きのあるものにするには主催者の心意気、講師の質もさりながら参加者の存在も大きい。というのもさまざまな経歴、さまざまの資質を持った人々が集まることで化学変化が生まれる可能性がたかまるからです。あと三人の方を待っています。今回のワークショップは今後長いあいだ語り手をするにあたって礎になることと思います。志のある方、今までの語り・ストーリーテリングに飽き足らない方、楽しいことをしたい方、どうぞおいでください。いいセッションになりますように.....。






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   きのう、シャルマンに行く前にアラン・ガーナーの四冊の本を読みかえしました。「ブリジンガメンの魔法の宝石」「ゴムラスの月」「エリダー」「ふくろう模様の皿」を執筆順とは逆に「ふくろう模様の皿」から読んでみたのです。

   アラン・ガーナーはマビノーギオンやウェールズの豊かな民間伝承から想を得て神話的世界と現代をかさねあわせました。民間伝承の研究家でもある彼は、「オリジナルのエピソードをつくろうとしたが、調べていくうちにオリジナルでつくったものとおなじものがたりが必ず伝承のなかにあるのを発見した」と最初のころ語っています。

   「ブリジンガメンの魔法の石」とは英国が危機に陥ったときに最後の砦となり救いとなる140人の心清らかな眠れる騎士を守るまじないを封印した宝石です。この宝石が闇の手に渡れば世界は来るべき破滅を逃れられないのです。白き魔法使いキャデリンをはじめ、湖の姫黄金のアンガラッド、善きこびとデュラスロー、フェノディリーなどの善の勢力に対して闇の王ナストロンド、堕落した賢人グリムニア 魔女モリガン スヴァートなどの悪の勢力が、少女スーザンの持つ「なみだ」という石をめぐって戦います。実は芯に青い炎を持つ「なみだ」はふとしたことで失われた、眠れる騎士たちを守る強大な力を持つ宝石だったのです。

   光と闇の戦いを描いた典型的なハイ・ファンタジーといえますね。また手に汗握る出色の冒険譚でもあります。これらの作は1960年代に書かれました。余談ですが、ハリーポッターの作者は登場人物においてこの作品からインスピレーションを受けたのではないかと私的には感じました。

   ところが、アラン・ガーナーは神話的世界からすこしずつ現代に比重を移してゆきます。「ふくろう模様の皿」ではマビノーギオンの「魔法使いがフリュウという若殿のために花々から作った花嫁が、夫を 裏切り そのあがないに恋人はゴロヌーの岩でやりに刺し貫かれ、花嫁はフクロウにされたという伝説が発端になっています。

   谷間に避暑のため少女アリスンがやってきます。アリスンの部屋の屋根裏から妙な音がするようになりました。屋根裏を覗いてみると 金と緑で縁取られた花模様の皿が埃にまみれ積んでありました。アリスンはお皿の花の模様を組み合わせるとふくろうになることに気づき、皿から模様を写し取りふくろうをつくります。すると皿は白くなり、写し取られ折られた紙のふくろうは飛び去るように消えてしまいます。アリスンは憑かれたように皿から模様を写しとり続けます。

   やがて土地にこもるエナジーはいや増し、ふたりの少年グウィンとロジャー、そして少女アリスンの三角関係、階級的な葛藤、男女の心理的な違いを緻密に描写しながら、緊張は高まってゆきます。その背後には幾世代にもわたリ繰り返された悲劇がありました。悲劇を繰り返さないために死を回避するため呪縛を解くためになにが必要だったのでしょう...


   彼女はもとから花、だった 花でいたかった...ふくろうではなくて....
この一節に泣きたくなりました。女というものはそういうものではないでしょうか。なりたくて闘うふくろうになりたいわけではない 花のようにいたいのです。

 
  ユングは神話の中に人間性の根源的原型をみました。アランガーナーはこの作品をマビノーギオンからの単なる再話に終わらせませんでした。神話の中の人間の不条理をどうやって克服するかというあらたな再話を試みたのです。現代の人間に通じる救いを求めたのではないでしょうか。日本の神話、古事記の三段にもそのような人間性の根源の悲劇のものがたりが多くみられます。またケルトにおいても同じですね。そのようなものがたりをどのように再話するか、あらたなものがたりに甦らせるか、ふくろう模様の皿の果敢な再話を読むと考えさせられますね。


   アラン・ガーナーのファンタジーでは理性の魔法より心の魔法..心のというか無意識界に属する太古の魔法が上位に書かれています。また作家的手法にはいくつかの特徴があります。演劇に興味を抱いていたことから台詞が多く、風景の描写があざやかで美しいことなどです。ものがたりが唐突に終わり読者はファンタジーの壮大な海から突然現実の岸辺に打ち上げられて、それがほんのすこしさびしい気持ちがしますが、子ども心を失わないおとなに、おとなへの過程をたどる若い人にふさわしいファンタジーです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   3月23日、パーソナルストーリー「酒と薔薇の日々」で語ったジャズバー・シャルマンに行きました。赤い絨毯の敷き詰められた狭い急な階段を上って、軋むドアを開けると30年という時の流れから取り残されてシャルマンがありました。

   マスターが老い、ボックス席が無くなったほか、どこに変わりがあるのでしょう。嵐のように変わってゆく今の日本、それも東京にポツンと灯をともし続け変わらぬままのシャルマン...グラスもトングもカウンターも飴色の木の壁もそのまま、アイスピックで砕く透明な氷も水割りのまろやかな飲み口もそのまま....奇跡のように思われて、追憶に押し流されてももはや痛みさえ無く、わたしはしあわせの底に沈んでいきました。

   聞けばシャルマンは4/14で50周年を迎えるのだそうです。日曜日と月曜日はおやすみですから、今宵50周年の乾杯をしました。夜ごと夜ごと、15000日ものあいだ、こうして看板にスウィッチをいれ、お客を迎え続けたマスター....日を重ね月を重ね、変わらないでいるのはどんなにむつかしいことでしょう。

   隣の席に三つ年下の妹がいました。わたしたちがここに出入りしていたのは今から30年から33年前のこと、ようやく親の庇護の元からひよこの羽を脱ぎ捨てて自分の足で歩き始めた頃でした。わたしは家を出て自炊し、妹はアメリカに留学し、海を隔てて膨大な書簡のやりとりがありました。わたしもアメリカに渡るべく準備をしていましたし、戀もしました。夏樹と会ったのもこの頃です。

   そう、わたしたちにとって人生に飛び込み、荒波に揉まれ溺れそうになりながら懸命に泳いだ、ほんとうに生きていた時期だったのです。人生は痛くて熱くて、それでいてわたしたちを酩酊させました。思うにまかせぬ、けれど素晴らしき人生...素晴らしきひとびととの出会い....マスターがコルトレーンをかけてくれると妹は掌で顔を覆いました。名曲 Workin' ....澄んだ哀切なけれどあたたかく耀きに充ちたサックスの響きが空気に溶け込み胸に沁み入ります。わたしも涙が流れるのにまかせました。

   今思えば、30年前 シャルマンにであった頃がちょうど曲がり角でした。わたしの人生に輝きを喜びと哀しみを与えてくれたひとびととわたしはシャルマンの夜を過ごしました。そして3月、シャルマンを訪れた日がやはり曲がり角になりました。マスターは今年、店を閉めるそうです。それまで、わたしはシャルマンに通いたいと思います。わたしの愛するひとたち、そしてわたし自身と極上の夜を過ごし、人生の最終ステージに向けて心の準備をし、悔いのないように、し残すことのないようにしたいと思います。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




  ルイの声が聴きたくて、聴きたくて、毎日ボール遊びのお相手に通っています。「なげました!」「うちました!」このことばを聴いただけで震えます。ひびきがよろこびそのものなのかな...ヘッセの小説に”ナルチスとゴルトムント”邦題”知と愛”がありました。まさに金の口からこぼれる耀く声です。

  子どもの声にはなにが含まれているのでしょう。それとも余分なものがないのかな。きっとそうですね。純な子どもの声は小鳥のさえずりのようです。自然そのもの、押し付けとか暗に求めるとか含みとか一切ありません。熟成した深みのあるおとなの声もまた好きです。声には人格も出ます。いつまでも聴いていたい癒しの声もありますね。

...ルイの声はどう変わってゆくのでしょう。幼稚園に入る、学校に行く。学んで知識を得てゆく。悲しみや非力を、また仲間とともになにかをする喜びを知る。....そうですね、声はもともとのものに、そうした人生の経験、よろこび悲しみを深く味わうことで変わってゆくのですね。ルイの声がいつも魅力的であるように祈りつつ見守ってゆきたいと思います。

  わたしは今発声に関心があります。語ることについて、ことばよりまえに、ものがたりよりまえにたいせつな本質的なことのように感じるのです。五官にひびく声があります。知らない異国の言語であっても魂にひびく声があります。そのような声のうえにものがたりをのせてみたいと思いませんか。

  大まかにみても、ベルカント他5つくらい発声法があります。アタック音、囁き声 さまざまな技術があり、ロングブレス、ロングトーン、ハミング、リップトリルなどさまざまな練習法もあります。内喉頭筋群の強化・解放など発声の仕組みを知り、訓練することで変わってゆきます。でも、もっとたいせつなものがある。

  発声のちょっとしたテクニック、緩急、強弱でものがたりを聴き手に届きやすくすることもできるのだけれど、語りの奥にある、なにかひとを惹きつけてやまないもの、声の奥にあるひとを惹きつけてやまないもの、それを探ってゆきたいと思います。つくったものには限界がある、もっと深い井戸から汲み出したいと思いませんか。

ミクシィをご覧のみなさん、すみません。今日のブログはミクシィのコピーアンドペースト+αでした。これから栃木まででかけます。みなさま、楽しい週末をお過ごしください。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




語り・ワークショップ基礎①
                   主宰カタリ・カタリ

 語り・ストーリーテリング初心者のための、あたらしい方向性を持ったワークショップをひらきます。語り・ストーリーテリングを学ぶことは、ただたのしいだけでなく、コミュニケーション能力を高め、潜在的な力を羽ばたかせ、深い喜びをもたらすことでしょう。

            

あなたの扉がひらく、
あなたの可能性がひろがる、未知が開かれる
そういうワークショップでありますように……

1対象  語り・ストーリーテリングをあらたに始めたい方、始めて間もない方優先(新人のためのあたらしいプログラムですが、すでに活躍なさっている方で希望される方もご連絡ください)
2期日  2008年6/8 7/6 7/27 すべて日曜日 10:00~16:00×全3回 
     10:00~16:00
3講師  森 洋子(カタリカタリ主宰)、
     松本永実子(劇団昴主任講師・演出家)、
やまもとのりこ(劇団昴ヴォイストレーナー、
            蜷川ゴールデンシアターボイストレーナー)
       他
4内容  気づきと学びを深める少人数制ワークショップ
①身体と感覚と心の一体化 
②発声 
③ものがたりを聴く 
④ものがたりを即興で語るまでを楽しくやさしく
5場所  ムーブ町屋(地下鉄千代田線、京成線、都電荒川線 徒歩1分)予定
6金額  14500円 
7定員  10名   4/12申し込み受付開始 定員になり次第締め切ります
    《 申し込み・お問い合わせ 》
     e-mail luca401@mail.goo.ne.jp   あるいはミクシィ


  ☆前回4/5 4時間のワークショップのアンケートから 

「とにかくすばらしかったです。新しい扉を開かれたような気がします。その先をのぞいてみたい!もっと深く学びたくなりました。」
「語りの世界を知って、また一歩進んだ感じ、子どもに語ることの大切さもわかったかんじ、もっともっとやってみたかった。」 
「未知がひろがりました。」     

この方々はすでにストーリーテラーです。

  ☆今後の展開について

語り手・ストーリーテラーは進化をつづけます。バックアップのために次の講座を用意しました。ひとつひとつがつながりを持ちながら、独立しています。

語り・ワークショップ基礎② 
内容 身体性をより高める。発声にはさまざまなメソッドがある。自分の身体と心に聴いてみよう。表現や演出についてすこし考えてみる。
2008年9月から11月(予定)

語り・ワークショップ中級①
内容 ほんとうはむつかしくない再話と創作をしてみよう。 ジャンルにとらわれずさまざまなものがたりを語ってみよう。
2008年1月から3月(予定)




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






  会の育成に関っていたときからあたためていたオランダのストーリーテラー、ウィム・ウォルブリングさんのワークショップを26.27日の2日とも手放すのは正直のところ思い切りが必要でした。当初、まったくあたらしい枠でやる意向だった語り手たちの会がウィムさんに連絡をしたことを知り、わたしのほうから一日ずつでどうですかと声をかけ話し合いました。しかし、そのあと3日考えていました。

  ウィムさんとは去年の夏幾度かお話して、ストーリーテリング・語りに対して共通の想いがあることを確かめ意気投合しておりました。ウィムさんは語ることより呼吸を重視しています。語りに対する考え方に精神性を持っています。スピリチュアリティは今の会にあまり無いものですから、初心者の方々が受けることに意味があると思いました。また、ウィムさんのワークショップの演劇的エクササイズはすでにわたしの手のうちにある手法ですし、こちらのワークショップでは、その分他に振り向けた方が充実もし流れがよくなるという読みもありましたが、わたしの心の中に頑ななものが残っているあいだは手放す決心がつかなかったのです。また自信のなさからくる躊躇いもあったのでしょう。カタリカタリでは4年にわたって月に一度の例会がワークショップですが、わたしは外部での大きな経験がなかったのです。

  
  けれども、気持ちの整理もついてきて穏やかになり、5日のワークショップの感想と手応えも後押しして、一昨日 勇気を出して会に申し出て手渡しました。ウィムさんのワークショップはスタッフも含め16人限定が基本です。二日手渡すことで育成のあたらしい講座で初心者のみなさんが受けることができると聞いて、心が軽くなってやる気がふつふつと湧いてきました。どちらにしてもほんとうに深い意味でストーリーテリング・語りが広まればいいのです。友人が話してくれた、手放せば手放すほど あたらしいものが入ってくるというのはほんとうなのだと思いました。

  わたしはこれまでに実に多くのワークショップに参加してきました。日本のワークショップのかたちは講師対参加者のかたちが多いように思われます。外国の方が講師の場合は講師対グループのかたちを取り入れることが多いようです。いずれも人数が大きなポイントになります。ひとりひとりの可能性を育てるためにはどんなに多くても18名くらいまで、参加者ひとりひとりの進度深度を考えたとき、わたしは7、8名から12名くらいまでがいいのではないかと思っています。グループとひとりずつと両方に時間がかけられるからです。経済性と拮抗するのですが、個人セッションも磨きをかける意味で有効です。

  講師対参加者のかたちの場合、参加者ひとりひとりにかかるプレッシャーやリスクが多くなり勝ちで、グループの場合は参加者へのプレッシャーは少ないというメリットがありますが、気付きの質や達成感において参加者にゆだねられる部分が大きくなるという一長一短があります。

  ひとの学び方はさまざまです。一人のほうが身につくひともいれば、グループの中にいたほうが自分の潜在的な力を発揮できるひともいる。絵をとおしてあるいは音楽をとおして、あるいは声をだすことで、身体を動かすことで身につくひともいます。さまざまな方法を駆使して伝えようとすることが参加者の気付きを加速させるでしょう。

  英国の演出家ニックさんが友人と同じようなことをいみじくもおっしゃっていました。「あなたの持っているものを惜しみなく差し出しなさい、そうすればあたらしいものがつぎからつぎへと入ってくる」それも真実でした。わたしは語りを学びながらこれまで手にしたものを6/8からひらくワークショップで手渡したいと思っています。わたしに語れと火をつけてくださった方がいました。わたしもだれかの心に火を点せたらしあわせです。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




   ワークショップ・語り基礎①についてお伝えします。

期日 6/8 7/6 7/26...すべて日曜日 全三回

時間 10:00~16:00

場所 ムーブ町屋 (JR、地下鉄千代田線町屋駅、徒歩1分)...予定

講師 演劇スクールJOKO主任講師 昴演出家 松本さん
   おなじくヴォイストレーナー、山本さん
   蜷川ゴールデンシアターのヴォイストレーナーでもあります。
   カタリカタリ主宰 語り手 森 洋子 他
   
定員 12名

金額 14500円

コンセプト 
語り・ストーリーテリング初心者のための土台をつくる。
少人数制なので、限られた時間のなかで多くのトライができます。
ひとりひとりの個性をたいせつにします。

内容
ゲームやエクササイズをとおして心と身体と感覚の一体化をはかります。
発声とはなにかを学び、ひとりひとりが知らずに身につけている発声のくせや障害についてボイストレーナーから指導を受けることができます。
テキストは使わず、楽しみながら自由に語る素地をつくります。
語りとはなにかを探り、さまざまな語り、さまざまな方法を知ります。

先日のワークショップのアンケートから

「とにかくすばらしかったです。新しい扉を開かれたような気がします。その先をのぞいてみたい!もっと深く学びたくなりました。」

「語りの世界を知って、また一歩進んだ感じ、子どもに語ることの大切さもわかったかんじ、もっともっとやってみたかった。」 

4時間のワークショップでしたが、この方々はすでにストーリーテラーです。

今後の展開について

語り手・ストーリーテラーは進化をつづけます。バックアップのために次の講座を用意しました。ひとつひとつがつながりを持ちながら、独立しています。

ワークショップ語り基礎② 
コンセプト 身体性をより高める。さまざまな語りを聞く。表現や演出について考える。
2008年9月から11月(予定)

ワークショップ語り中級①
コンセプト 再話と創作をしてみよう。 ジャンルにとらわれずさまざまなものがたりを語ってみよう。
2008年1月から3月(予定)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






  トラウマとはなんでしょうか? もともとは傷と云う意味だったのですが衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指すことばとしてフロイトが使ったのがはじめのようです。

  ある調査によれば日本の女性の70パーセントがトラウマを持っているそうです。衝撃的なことにであったとき、ひとは忘れようとし、何事もなかったかのように振る舞い、誰にもいえないとしまいこむことで、そのできごとは長期記憶として身体と心の奥深く刻まれてしまいます。トラウマを引き起こしたできごとが遠い過去のものとなっても、トラウマは必ずしも終わるわけではない。トラウマを受けた多くの人たちは、トラウマを再体験してしまうのです。

  日々の生活のなかでトラウマを受けたその時と同じ状況におかれたとき、例えば、言葉、音、場所、ひと、感触など…に、ほんの少し触れただけでも、トラウマを受けたときと同じ体験をしたように、苦痛や悲嘆や孤立のまっただなかに突き落とされるのです。

  ものごころつく前のトラウマについては原因さえわからず、なぜ自分が過剰な反応をするのかわからないまま、...悲しみや孤独の再体験やおなじ行動の繰り返しをしなければなりません。それはとてもつらいことです。

  もっと辛いことにトラウマを受けると自尊心は、ボロボロに傷ついてしまいます。親も含む他者に傷つけられて貶められてきた人たちは、いつのまにか自分を価値のないものと思い、自分をいじめてしまうのです。自分を生きる資格のない価値のないものと考えるほど辛いことがあるでしょうか。

  では、このような固着したトラウマから自分を救う方法があるのでしょうか?
おとなになった今 わたしは辛い苦しい衝撃的なできことに出会った時、トラウマにならないよう、徹底してできごとと自分を見つめ 障害があるときは闘います。闘いは孤独ですが、そうしているうちに自分がなにに傷ついたのか、ほんとうはなにがたいせつなのかわかってくるのです。自分から切り離し客観的に見られたるようになったら、もうトラウマになることはありません。

  ナツや娘たちが負っているトラウマはどのように解消できるでしょう。親としてわたしができるのは、なにもかもひっくるめて娘たちをまるごと認め、だきしめてやるしかありません。そして娘たちが一歩を踏み出す手助けをすることです。

  
  絵を書くことでひとは癒されます。
  文章を書くことでひとは癒されます。
  楽器を演奏することでひとは癒されます。
  なにかを表現しようとすること
  創ろうとすること
  ものがたりを語ることでひとは癒されます。

  
   わたしがこうして書かずにいられないのは、語らずにいられないのは奥底に途方もないトラウマを抱えているからかもしれません。だから、わたしは障害児のクラスに行かないではいられず、クラスのなかでも閉じこもった目、痛ましい目、孤独な目にあったとき、いても立ってもいられなくなるのかもしれません。彼ら彼女たちの目がきらりと光り、なにかが熔けて湧き出すものがたりがたしかにあるのです。 
  

追記  2003年5月20日 千の昼、千の夜(日記)から

語ること、語りを聞くことで癒されるのはそれぞれが抱えるトラウマが、ものがたりを通して共有され受けとめられること、そして共感と理解によって語る場が原初の共同体に近い愛の磁場を持つものに変わるからではあるまいか。そのうえに語りはただ個々の人生の癒しだけではない、はるかな地平を抱卵する。しかし、それは語り手ひとりひとりのこころざしにかかっている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






   ナツに会いました。ナツは友人の忘れ形見です。友人は漫画家で望みに向かって、私の知る限り誰よりもまっすぐな視線で歩いていましたが、ふたりの子どもを残して亡くなりました。わたしは昨年2月のコンサート昼の部で「立ってゐる木」として語りました。ナツはいつのまにかおかぁさん、おかぁさんと慕ってくれるようになり、3/23にも手伝ってくれました。ナツの兄ともどもわたしは自分の4人の子の他にあとふたり子どもをさずかったわけで、ありがたい縁..えにし...だったなぁと亡き友に感謝しています。

   今、ナツは会社に行くことができません。パワーハラスメント...上司からのことばの暴力にあって、身体に変調をきたし、心療内科に通いながら、ふたたび歩き始める日のために心身をいたわっているのです。パワーハラスメントは日本でつくられた造語でボスハラともいいます。わたしが受けたことばの暴力はもともと使われたモラルハラスメントと言ったほうがいいかもしれません。

   わたしたちは公共施設を見て回ったあと、デニーズでかるい食事をしました。「戀をしているときもうダメだと思ったらね、徹底的に相手に言って終わらせるの」とナツは言いました。「2回許せないことをされたら また3回目もある、ひとはそうは変わらないよ」「そのほうが早く立ち直れるってわかったの」
.....そうだね、トラウマにしないですむかもしれないね.......見送ってくれるナツの視線を背に千代田線の階段を下りました。

    それから息子夫婦の部屋に立ち寄ってルイとボールで遊んだあと、心がほどけていたせいか、わたしは娘たちに今まで語ることのなかった話をしました。戀とはなにか...愛ではなくて....。戀がいかに奪うものであるか、相手を心身ともに請い求めるものであるか...成就した戀とは結婚か死。つまりたいていはロストラブに終わるわけです。けれどすべてを忘れ去るような熱い戀をしたものはこの世ならぬものを垣間見る。....だから戀をしなさい..と母親コードに触れるようなことを言ったあとでした。

    娘たちが突然語りはじめました。戀の話ではなくてそれぞれのトラウマについて。自分のなかで整理のつかない苦しみや悲しみの感情が神経組織に蓄積される、それがトラウマである。..とインテグラシークリニックで聞いたことがあります。ひとは刃物で傷つくのではありません。ことばによる暴力の恐ろしさは、やがて自分で受けたことばを信じてしまうことにあります。ことばは実体化してしまう。強力な力を持つ。ですから古代のひとびとは凶つことを口にするのをはばかったのです。

    そのとき私は先日のワークショップでなにがブレイクの引き金になったのか思い出しました。「語り手は語るものがたりで自らを癒し、聴き手を癒すことができる」....自分の傷を癒してゆくのは時間がかかるけれども。ひとは心もからだも健やかに生きたいという心底の希求をもっています。いのちの奥深い力です。傷を受ければ修復しようとする、その手立てはひとそれぞれであり、あるいは整形、あるいは勉学、あるいはファッション、あるいはヒーリング、あるいはボランティア、あるいは車であったりします。

    意識する意識しないにかかわらず...といいますかほぼ無意識でひとはまるごとの自分を回復しようと努力をつづけるのではないでしょうか?それは祈りでもあり、文学とか絵画の根底にもそのようなもの、熱い希求があるような気がいたします。

    思うがままのとりとめのない文章になってしまいました。雨が降っています。櫻にも運不運があるようで、雨風に遭うこともなく二週間爛漫と咲き続ける年もあれば、風に散ることも許されず、氷雨に打たれ散ってゆく年もあります。
 櫻よ、櫻よ、いつもの年より紅を刷いていた今年の櫻、陽と大地と風と水の力をかりて甦り、あたらしい年 白い白い花を咲かせておくれ。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 


 「人間がもろもろの印象の激しさを知り、さながら毎日がおのれの唯一の日であるかのように日々のあらゆるディティールに感応するならばそのような人間は日記によって心を静めないかぎり、自爆するしかない。書かれた文章がいかに人間を静めかつ制することができるかほとんど信じがたいほどである」

  
  これは 作家エリアス・カネッティ(1905-1994)『酷薄な伴侶との対話』(法政大学出版局・岩田行一・古沢健次訳)の一節です。このとおりわたしは信じてきたものの崩壊と痛手に対し、日記を書くことで考察し過去を振り返り、心を鎮めてきました。そしてようやく鎮まりつつあります。

  けれども忘れてはいけないのだと思います。たとえ許せたとしても 不条理は忘れてはならないのです。いずれ懐かしい痛みになることはあっても。

  語りを知ることで自分の内奥が大いなるものや、ひとの幾世にもわたる営み、とつながっていることを知ったのはしあわせなことでした。そして自分の過去や身体のありようが実は未知なるものであったこと、ひとの奥底に響くものはただものがたりではないということ、これらのことを探求することがどれだけ人生を豊かににしてゆくか計り知れません。わたしにとっては語りが扉をひらく鍵でした。鍵をあけ扉をひらき、未知にむかっていこうと思います。


  


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ