遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



ミクシィカタリ講座

語り・ストーリィテリングとは

   英国においてストーリーテラーとは職業としてのストーリーテラーをさすことが多いようです。一般的にはストーリーテラーとは 嘘つきの意味でも使われているそうです。どのような物語が語られているかというと伝統の物語 昔話 英雄譚 小噺などです。

   アメリカにおいても同様に職業的な意味でストーリーテラーと呼ぶことが多いと聞いています。語られるのは英国系のフェアリーテール 英雄譚 ネイティブアメリカンの物語 アフリカ諸国の物語 パーソナルストーリー 小噺 テキストは出版された本であっても そのまま語ることはあまりないようです。

   この意味で日本でストーリーテラーといえるのは現在は落語家(噺家)講談師でしょうか。

   日本でストーリーテリングということばが使われたのは1908年(明治41)2月に発行された「図書館雑誌」第2号でした。そして1915年(大正4)年には巌谷小波 岸辺福雄等による口演童話が始まりました(実際には明治からあったようです)。口演童話は全国各地ではじめは講堂などで大々的にしていたようです。娯楽もない時代でしたから 子どもたちはどんなに喜んだことでしょう。

   グリムやアンデルセンなども語られたようですが、日本名になおし再話のかたちでしたので それがもともとの日本の昔話と混交してしまいました。手無し娘やみそ買い橋などは そのころ広まったもので もともとは日本のものがたりではないようです。ところが口演童話は戦争に協力したといわれ排斥されます。

   戦後松岡享子さんたちがあらためてストーリーテリングを紹介したとき おなじストーリーテリングの一環であるのにその歴史はないもののようにされてしまったのはそうした理由によるのです。そして図書館活動の関連として ストーリーテリング講座が各地で開かれるようになりました。

   しかしここで誤解が生じてしまいます。わたしも経験したことですが、「日本の民話はストーリーテリングにするべきではない」「おはなしは一言一句そのまま覚えなくてはいけない」「手は動かしてはいけない」「おはなしをする人は額縁にならなければいけない」という不思議なルールがひとり歩きはじめたのです。

   ストーリーテリングは実は人類の歴史とともにありました。それも世界中で....。そんなルールは世界中どこにもないでしょう。ストーリーテリングはたのしいけれど、子どもたちの輝く笑顔がうれしいけれど...覚えるのが苦しい...という声をよく聞きます。昔のひとたちは苦しいことをしていた..?いいえ ストーリーテリングはただただ楽しい喜ばしいものです。....自分のことばで語れるならば。レパートリーが少なくて...という嘆きも聞きます。アンテナを切り替えればものがたりは毎日ひとつずつだって自分のものにできるのです。

   ここではまず 語り.ストーリーテリングを生き生きさせるためのノウハウの一歩をお伝えしましょう。

 次回は足して引いて...3/7UPの予定です。(2007.3.5ミクシィ掲載)


......コメントに対して

Yさん わたしもそう思います。....そして外国の方に’わたしはストーリーテラーです’なんていえないな...としみじみ思っております。ですがこの延長線上には数限りない語り手たちがいた...たぶんわたしたちのさきにも数限りない語り手たちがいる...んですね。そのひとり...だということにいくばくかの誇りも感じております。

たいせつななにかを受け継ぐということ、伝えるということ 手渡すということ ささやかながら 手渡してゆくその手のひとつであること...それをたいせつにしてゆきたいですね。

豊かな こころあたたまる時間をともにすごし 笑い興じ ともに涙し ここにいる意味を確かめあってゆきたいですね。

......コメントに対して

Nさん こんにちわ!

  語り手には 3種類あるように思います。もちろん どれかひとつというのではなく その語り手の経験や心組みでいくつか組み合わさっている場合が多いのですが...



1 口承の語り手 耳で聞いて自分のこころをとおしてこんどは自分がほかのひとに語る語り手

.....けれど昔話の世界では そういう語り手はもういません。みな書承の語り手です。むしろあたらしい語り手のなかに口承の語り手はいるかもしれません。わたし自身 耳から聞いて 自分のことばで語っているおはなしがいくつかあります。

  みなさんは子どもたちに 今日こんなおはなしを聞いたんだよって そのおはなしをしてあげることはないでしょうか?

  心に響いたものがたりは だれかに聞かせたくなりますね。それは立派な口承の語り..だと思います。



2 書承の語り手 本 書物 活字にされたものがたりを語る語り手

.....現在の語り手はほとんどがこの書承の語り手です。

....伝承者は昔話の担い手であると同時にその形成者でもあり、変形者でもある.....と関敬吾さん?は言っていますし 昔話は語るひとの心を通り 時代をくぐっていくうちにすこしずつ変わるものなのです。

.....ところで本になった物語はなんのために活字にされたのでしょう?.....保存するためですね。

  ある時代 ある語り手が語った物語を研究者あるいは文学にたずさわるひとが ピンで留めるように 冷凍庫にとっておくように 後世に残るように保存したのが本に書かれた昔話なのです。

....けれども 研究資料の昔話は要約されているし、作家による再話は文芸になっていて 話ことばになっていません。いまは語るためのテキストも出てはいるのですが その多くは子ども向けということで ことばをやさしくするだけでなく 切り取ってはいけないものまで切り取られていることが多いように思います。

......子どもはね ひとつの魂です。ことに高学年になると おとな向けのものがたりも しっかり 受け止めてくれはしませんか....そのみずみずしい魂に おとなよりもっと受け止めてくれることもある....

....あらら 脱線してしまいました。...つまり書承の語り手はテキストから ものがたりの世界を生き生きとたちあがらせなくてはならないのでした。....今回の講座のテーマはズバリ そこです。



3 創る語り手  自分でものがたりをつくり 語る語り手です。

....つくる!? そんなことできないわ...と思われるかもしれません。...つくるというのはたとえば自分の思い出 体験 夢 をこころのなかからくみ出してことばにするということです。そんなにむつかしいことではありません......お風呂のなかで 寝床のなかで 子どもたちにせがまれておはなしをしてあげたことはありませんか...?

....おかあさんが子どもだったとき...こんなことがあったんだよ...

.....今日電車のなかでね....


.....ものがたりの種はそこらじゅうにあります。道端の青いオオイヌノフグリ 夕焼けのそら やがて青い闇にうかびあがるほんのりあかるいあかり そこにはたくさんのひとがみなしあわせを求めて生きています。

.....それから 歴史や 忘れられないひとのこと 小学校の思い出 おばあちゃんのこと...

.....あなたがこころから伝えたいことは本や活字のなかにありますか? ....もしなかったら またもっとほかに疼くように語りたいことがあったら ことばにして語って伝えてください。そのとき あなたは クリエイティブな語り手です。

2007年03月07日
01:09
.....コメントに対してのこたえ


Nさん

   童話風に書くのもいいことだと思います。 なぜ 西洋の昔話には王さまとお后さまと王子さまと お姫さま それに魔法使いが出てくるのでしょう。 また日本の昔話では おじいさん おばあさん なのでしょう。おばあさんに子どもが生まれる 話もあります。なぜ....?

   それはひとつの象徴ではないか...と思ったことが あります。具体的に書けないことをなぞらえて 語ったり書いたりすることができるからです。 読む側にしても ただ王さまとお姫さまのことを 読んでいるわけではないですね。そこに秘められた 寓意を読み取っているわけです。 ですから白雪姫のお后にしてももともとの話では 継母ではなく生母だった....


   自分を含めてめぐりのひとに実際にあったことを物語りにする場合パーソナル ストーリーといいます。 小学校で 4年生のときにあったいじめのこと、 黙っていることで 自分もまた加担していることに 気がついたこと...を語りましたときに、子どもたちの心に響いているという実感があり ました。子どもたちの目のなかになにかが ありました。泣いている子もいました。 そのほかに 父の戦争体験を語ったこと、明治大正昭和平成を生き抜いた叔母の一生(おさだおばちゃん)を語ったこともあります。

   語り継いで わたしていくべきものがたりは たくさんあります。ほうっておけば 時の流れに 塵と消えてしまう物語が.... ...もちろん わたしも昔話 伝説(地元)神話 その他の ものがたりも語ります。そちらのほうが多いのですが 語りのジャンルは無限にあってその豊かさを楽しみ たいと思います。

Yさん Nさん
コメントありがとうございます。

   語りと同じように 交流ややりとりがあることで 講座の質が高まります。どんな質問でも また反論 でもけっこうですから きがるに お寄せくださいね。




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   さて、おはなし会だが心つもりとは打って変わって思いもかけないことになってしまった。

   朝 眩暈がして昼まで横になっていたのだが 時間がきて気合をいれてでかけた。鈴を鳴らしながらクラスに入る。子どもたちは中央におかあさん方はまわりを取り囲むように椅子に座っておられた。手袋人形 大旅行 ジャックとどろぼう ここで子どもたちがジャックになりたいと言い出してジャックが4人でてきてくれた。そんなことからおはなしはふくらんでいった。たいそうにぎやかに楽しく終わり 魔法のオレンジの木...ここで母性の二面性についてトーク ...つぎに...詩から非戦につなげるはずがタイムオーバー...。みんなとお別れしてつぎのクラスへ....

   年かさの先生のはからいで子どもたちはおかあさんたちのひざに抱かれてほっこりしていた。それがなんともやはらかい いい雰囲気を醸し出していて おはなしがはじまると 歓声の波 うしろのほうでは弟妹であろうか小さい子たちが騒いでいたのだが まったく気にはならなかった。みんながいっしょに旅をして 山を越え谷を渡った...やがて日が沈み おかあさんも子どもたちも ほーほーふくろうが鳴く森を足音をしのばせて歩いた。...そしてドキドキしながら怪しい小屋のまわりに集まった...あとは部屋中に響き渡る大喚声....。

   ものがたりは生きている。場のちから 聴き手のちからを借りて歩き出す。予定時間などなんの意味もない。おなじものがたりと思えないほどさまざまな表情となり展開してゆく。語り手の役割はそれをひきだしものがたりの道すじをつけることではないのだろうか...あとはものがたりにまかせればよいのだ...とふと思った。即興を念頭に入れて語りだしたのは今年になってからだけれど 状況に応じて自在に語る醍醐味を強烈に感じたのは今日がはじめてである。

   ほんとうに楽しかった。熱かった。軽かった。そのあと大旅行も語ったのだけれど おかあさんたちの目のなかにきらめく光がまだ心の奥に残っている。自分をひらき 聴き手もひらく....今日はわたしのちからではなく母子のつよい絆がなしたわざだが....エナジーの充満する場をよびこむこと....そのためになにをしたらいいか考えてゆきたい。

   読み聞かせの延長線上にある語りではなく テキストのコピーアンドペーストの語りでなく パフォーマンスとしての語りのためのコミュニティーをミクシィ上につくろうと決めたのは奇しくも夕べのことである。背中を押してくれたのは その前日水戸先生と交わした二言三言であり 3/1のワークショップで永実子さんと交わした二言三言であった。みなおなじなのだ....その一瞬のためにあらゆる苦労は消えうせ 喜びが 戀の喜びでさえ色褪せるような喜びがひたひたと押し寄せるのだ。今宵 わたしはしあわせであろう...




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   あした...幼稚園でおかあさんと子どもたちのためのおはなし会が 2クラスある。幼稚園から提示されたテーマは親子の情愛...なにを語ろうか考えあぐねていたが ようやく直感がひらめいた。非戦...母の想い....母性の二面性...慈しみ育てる母性と子どもの成長を阻害する母性である。

   かなり大きなテーマになった...これを30分で エンターティンメントとして語り得るか...遣り甲斐はある....ただ朝栃木の病院まで夫と同道するので 時間的にまにあうかどうかが問題である。今夜にかけよう。

   ”母”はわたしのなかでながいこと大きなテーマであった。母とのあいだの確執は 「雪母櫻」で語らせていただいたように解けたけれども 母としてのわたし自身の問題は解けるどころか ますます縺れて ひとりひとりの子どもにたいしても手をつかね あるいは手を出してよけい混乱させたりしているだけのようで歯がゆいことこのうえない。自分のなかに 子どもの成長をそこなうものがあるのではないかという危惧は...時おり 熱病のように襲いかかってくる。

   黙って凝っと見つめていればいいのか....それとも思い切り 手助けをしたらよいのか いまだに判断の基準が曖昧である。...それでもすこしずつ四人の目が光を力を増してきたように感じて覗きこむけれど...答はまだ見えない。....いまの子どもたちはみな成長が遅いのだろうか....それとも家の子どもたちの特性であるのか....夫といい、わたしといい きわめて自己主張の強い ある意味で生命力の旺盛な はなはだ自分勝手な親を持ったのだから...人生に臆してもしかたがないのかな...とも思う。....こんなことから ”母”はライブが終わったいまも 変わらずテーマであり続けるのだろう。



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  思ったより早く覚悟がついた。来年の3/23に向けて始動する。

1 語り手の自在な身体をつくる  古武道
2 感覚を磨く エミコさんのWSをつづける
3 川瀬さんのヴォイストレーニングを受ける
4 ビウエラレッスン 日に一度は弾くこと
5 アーティストと連携をとる
6 なにを語りたいか


ブログ ミクシィについて

1 コミュでは読み聞かせをしているひと 語り初級向けに語りの基礎を
2 あたらしいコミュ 語り・ルネサンスを立ち上げ テキストから離れた即興の語り パフォーマンスとしての語りをめざす。
3 ブログではまとめを 一部は公開一部非公開としファイルとして活用するとともに、ことばを磨く自分自身のエクササイズとする。
4 ミクシィの日記を備忘録・日記・交流の場とする。
 
坂東三津五郎さんの語りが素晴らしかった。



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西洋の昔話と日本の昔話の構造について 獲得あるいは喪失の物語として昨年書いたことがあるが覚えていらっしゃるだろうか。今日は違った側面から考えてみたい。

たとえば 白雪姫について

 継母の目的    世界で一番美しい存在であること 
 それに対する障害 白雪姫の存在

 白雪姫の目的   生き延びること 
 それに対する障害 継母の存在

 七人の小人の目的 白雪姫を守る 今の楽しい生活を守る
 それに対する障害 継母の存在

 白雪姫とこびとの目的は一致し 継母の目的とは相反する。
 ここに 三者の葛藤が生じ ドラマが生まれる。

それでは日本のかぐや姫ではどうか

かぐや姫の目的① 求婚者の求婚を断ること
そのための障害  求婚者の存在
かぐや姫の目的② 月へ帰る(但し積極的でなく受動的な!?目的) 
そのための障害  帰りたくない気持ち おじいさんおばあさんの存在
求婚者の目的   かぐや姫との結婚 
そのための障害  かぐや姫の無理難題
おじいさんおばあさんの目的 かぐや姫を手元に置くあるいはしあわせな結婚
そのための障害  月からの迎え

 この物語のテーマはなにか かぐや姫対求婚者..ではなく かぐや姫の月へ帰らなくてはならないという宿命かと思う。またかぐや姫の内的葛藤である。ゆえにかぐや姫対求婚者という一見主要なテーマと思えるものはさほどの葛藤を生み出さないでむしろすれ違ってしまう。そのために三者は激しくぶつかりあうこともなく三角形の一辺はいはば天に向かって開かれたままである。物語は切り取られたまま完結するようで実はしない。そこに欠落(かぐや姫)がぽっかり穴をあけたままである。つまりかぐや姫も日本の伝統的な喪失物語であるのだ。

 口演童話によって海外の昔話が換骨奪胎され日本に根付いたみそ買い橋・手無し娘のような例がどれほどあるかはわからない。だが もともとの日本の昔話では登場人物三者の相反する目的と障害が拮抗しぶつかりあうかたちよりその一辺あるいは二辺が最初からないものが多かった。そのなかで見事な構造を持っているのが 三枚のお札である。

 山姥の目的 小僧を食うこと
 そのための障害 三枚のお札 和尚さん

 小僧の目的 生き延びること
 そのための障害 山姥

 和尚さんの目的
 小僧を助ける
 そのための障害 山姥

 この三者山姥と小僧...小僧を助ける和尚さんの相反する目的と障害という構造(白雪姫と似た構造であることに留意されたい)が緊張を生みものがたりをドラマティックにする。 日本の昔話のなかで屈指のものがたりであると思う。

さて すこし寄り道して 2/17のライブで語ったうちマチネで語った、四つの物語の構造を考えてみる。

雪女  

雪女の目的 異界の精霊であるときは殺戮
      おゆきのときは蓑吉とこどもたちとのしあわせな暮らし
そのための障害 異界の精霊であるときは全能であるが実は蓑吉への想い...
        おゆきのときは蓑吉が禁忌を破ること。雪女自身
蓑吉の目的 明確でないがおゆきとのしあわせな暮らし
そのための障害 禁忌=異界の精霊としての雪女

起承転結式でもあり 喪失の物語・ファムファタルの物語ともいえるこの物語の登場人物三者は実は 異界の精霊である雪女と人間の姿をしたおゆき そして蓑吉の三人であるのではないか?雪女の存在は自然 禁忌 掟をも意味している。この人間的なしあわせ(愛)と禁忌...宿命との対峙、そして目的と障害がすなわち愛であるという構造ゆえにこの物語は美しく劇的であるのだ。

母雪桜 

幼年時代のわたしの目的 母の愛
障害 母

母の目的 人生と闘うこと
障害 (助け手でもある夫や叔母の存在)

エピソードを重ねてゆくパーソナルストーリー 全体としては櫻井先生が語られた乳母桜 森の語る雪女 を受けた謎解き・ミステリでもある。 

立っている木

なつきの目的 生きる証として漫画を書き続けること
最終的には子どものしあわせ
そのための障害 生活の貧困  病気 
わたしの目的 なつきを助けること
そのための障害 なつき自身 わたし自身

 
 パーソナルストーリーの目的は人生の目的と重なる。すなわちしあわせであり語られる人物のアイデンティティーそのものである。 障害は外部 生活の貧困などだけでなく 登場人物の内部にもあって その矛盾相克が気づきによって解決してゆくことと人生が完結することが重なっているという構造が自分の語るパーソナルストーリーにあることに今気づき驚いている。全体としてはその前に語った詩「大いなる源」を受け完結するかたちでこの世でそれぞれが課題を果たすとは如何なものかが底に流れるテーマである。


神話空と海と大地の話 

神話の目的とはなにか 天の意志を示すことではないか 天地創造の物語において目的はそのものがたり自身であり語られることそのものである。天意をしろしめすものである...ことにこれも今気がついた。天意とは祈りそのもの 万物の弥栄である。

この物語では昔話に多く見られる小さなものが大きな働きをするというモチーフが用いられている。

目的 空の母を助けること
障害 深い暗い海

海の生き物たちが障害に果敢に挑んだ動機とはなにか 見知らぬものへのいたわりそして生き物としての連帯 無償の大いなる愛であった。結果 あたらしい大地といのちが満ち世界は弥栄となる。

 白雪姫からずっと通してみてみると昔話の目的は生であり 障害はそれを阻害するもの憎悪、自分だけの満足、死につながるものであり 障害を克服するのは他者の愛であり不思議(魔法)であることに気づく。 日本の物語の場合背景に宿命があることが比較的に多い。

 パーソナルストーリーの目的はなにか よりよく生きること...ではないのだろうか...と自分の語ってきたパーソナルストーリーをたどりながら思った。テーマとしては昔話とおなじ 生と死(生き物の宿命としての死) 障害はより良い生を蝕む病とか貧困 であるとともに主人公の内部にある矛盾である。それが愛によって最後に統合される。


 さて 唐突ですが この後ブログは しばらく不定期といたします。わたしは器用ではないので(時間の制約もあるし)ブログを書いているとミクシィのコミュへの取り組みがまったくできなくなるのです。しかし話法としてはブログが一番書きやすい。問題は読んでくださる方は増えても反応が少ない...ということでしょうか。その点ミクシィは打てば響くところがあって違う意味で書く甲斐はあります。再三申し上げておりますようにわたしにとってこのブログは あたらしい..いや本元の語りとわたしが信じる語りのための語り手へのオファーです。
 
 しかし 同様に語りとはなにか 自分の求める語りのためになにができるかどうしたらいいか 実践してきたことを反芻し吟味しさらなる視点を獲得するための場であり 自分の軌跡...どこまできたかを検証する場であります。木霊が返ってこないならここでなくとも どこでもいいことになります。....もしかしたら...もしかしたら このブログから発信することが 知らず知らず どこかでなにかを変えている 草木の発芽をうながすひんやりした春の風のように 銀の糸のような雨のように...それをたよりに夜な夜な薄闇のwebの海にむかって発信していることをどうかお汲み取りくださいますように。

 わたし自身は気づかせていただいたものをよすがに ジャンルをひろげまた今まで語ってきたものがたりを深めていきたい...語りたい想いが身体を魂を揺さぶるような語りをしてゆきたいし 聴いていただきたいと願っています。そして同時にことばだけでなく手渡す場所ワークショップについてカタリカタリ以外にも近い将来用意すべく研鑽してゆきたいと今決意を固めました。ブログにしろミクシィにしろ活字だけで伝えようとしてもほんの一部しか伝わらない、かえって誤解を招き混迷に至らせる場合があることにようやく気づいたのでした。手から手へわたしてつないでゆく それがほんとうのかたちなのでしょう。

                             森





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  青葉小でのおはなし会で気づいたこと 

 なぜ語りが即興性のものであるか一年間のお話会をとおしてまたワークショップで明確になってきたのでメモしておきたい。わたしたち語り手・ストーリーテラーはひとつのものがたりを幾度も語る。表現やことばにおいてものがたりがしだいに成長してゆくのは語り手それぞれが身をもって体験されていることだと思う。しかしここに大きな問題が生じる。テキストを暗記して語る場合文字を追ってしまうこともさりながら ものがたりが身体に入ったあとでも過去の語り、練習のときの語りをなぞってしまうことである。つまりコピーアンドペーストしてしまうのだ、するとものがたりは精彩を失ってしまい 聴き手のこころに響かない。

 語りがなぜインプロヴァイゼーション(即興)でありパフォーマンスであるかといえば、それが一回性のものだからであり 媒体としての語り手の身体、いのち・息・息遣い(発声)をとおしてあらわれるものだからなのだ。そうしたときこそ 声を張り上げずとも もっともよく声が届くとヴォイストレーナーから聞いたことがある。

 ものがたりの筋を追う テキストを思い出そうとする そればかりでなく感動させようとする 上手く語ろうとする 自分は上手いと思う ほめられたいと願う それらのことが語り手の意識上を掠めただけで 我が入ってしまい パフォーマンスとしての語りとしては堕してしまう。語り手自身がなにも思わず たいしてよくもなかったと思うような語りが存外 聴き手の心を打っていることがある。自分が語ったものがたりが終わったとき 聞き手のようすを見れば歴然とする。いい語りのとき拍手はただちには起きない。しんと静まり返った静寂・ぴんと張り詰めた密度の濃い空間があるからだ。

 実際に子どもたちの感想を読んでみて 子どもたちの心に響いたものがたりには二種類あった。コカのカメに代表される参加型の楽しいおはなし(五年生にだけコカのカメは語った。四年生の感想があれば もっと明確になったかもしれない。四年生は大半が参加型とパネルシアターだった)ここから子どもたちは あきらめない 勇気...というメッセージをしっかり受け止めていた。この三つのことばはおはなし自体に含まれていない。

 もうひとつは(コカノカメもそうだが) 主人公により同化できるはなしだった。おかあさんに会いにいくねずみのはなし 愛するひとに会いたくて山を越えるむすめの話 そして雪女の哀しみ...どうやら子どもたちは登場人物のひとりひとりの気持ちを汲み取っている おさだおばちゃんのわがままだけれどあったかいところ いじめられる藤平さんの気持ちに寄り添い あまつさえその周辺のひとたちにも思いを馳せている。もっとも感想の多かった野犬アカの話では愛するアカに心ならずも嫌われようとする若者のせつなさにぴったり寄り添っているのだった。そしてとても不思議なのだが そのものがたりを語ったときのなにか透明な そして冷たいのだが熱いのだがわからないものが触れてきた感じ...を語り手の私自身はっきり感覚として覚えているのだ。

 今年からはものがたりに身をまかせ 語るがままにした。アカのものがたりはテキストとしてはよく入っていなかったから やはり身をまかせるしかなかった。どうも子どもたちの心に響いたのは そうしたインプロヴィゼーションの部分が多いものがたりであったように思う。感想のなかに昔話がほとんどないことがわたしにはよくわからない。...しかし思うに日本の昔話には主人公がはっきりした目的を持ち 且つ目的に向かうにあたっての障害があり 目的貫徹と障害の葛藤が明確なものがたりが実はあまりない。このことは次回述べようと思う。

そしてひとこと付け加えたいのだが、演劇のインプロと語りの即興は名前はおなじでも違うものである。開くための訓練としてはいいかもしれない。だがリアルな演劇のためのエクササイズであるインプロが目指すのは観客ではなく共演者であり、共演者に集中して投げかえすのである。そのなかに幾分上から降りてくるものもあるやもしれないが...。本質を考えずに演劇に走るのは語り手として得てしてよい結果を生まないようにわたし自身は感じている。




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  子どもたちの置かれた環境や状況に憂慮された校長先生から懇請され、わたりに舟とお受けしたA小学校での一年間にわたるおはなし会が今日ひとまず終わった。この間四年生から六年生 そして障害児のクラスで語らせていただいたおはなし会の回数は35回 ものがたりは延べ100くらい クラスによって重なるものがたりをのぞくと語られたものがたりの数およそ35である。うちわけは 昔話 伝説 神話 創作ぱねるシアター パーソナルストーリー 児童書 文学から...。

  文学から語ったのは野犬アカの物語 雪女 稲むらの火 芦刈 
  パーソナルストーリーは 藤平さんのこと おさだおばちゃん 

 今日おはなし会のあと子どもたちから2冊の文集を渡された。それは語りを聞いた子どもたちの感想の文集だった。

子どもたちの感想から

 一年間お話を聞かせていただいてありがとうございました。わたしは犬の「アカ」の話が一番心に残りました。歌をうたったりしながら話を聞くのもとても楽しかったです。森さんのお話はとても心がこもっていてもっとたくさんの話を聞きたいです。お体を大切にしてまた話を聞かせてください。

 一年間 お話を聞かせていただいてありがとうございました。わたしが一番心に残ったのはコカのカメのお話です。「コカのカメ コカのカメ カタイカタイコウラ カタイカタイコウラ 」この言葉が負けないというふうに聞こえてきます。なので好きです。これからもお体に気をつけてください。

先生へ

ぼくは最初先生の話を聞いたときは不思議だなぁと思いました。その話が頭のなかで絵が浮かんできそうな話し方だったからです。ぼくはそうやって口に出せるのがすごいと思いました。。またお話を聞くのが楽しみです。

 わたしは今読書をしています。380ページの本です。わたしが読書をはじめたきっかけは先生みたいに本を覚えてみたかったからです。でもわたしは覚えられません。けれどもできるだけ努力して覚えたいと思います。それからわたしの心に残ったお話はせっかくなれた野犬に毒をあげてしまうお話です。ほんとうの犯人はだれだったか知りたいと思いました。先生のお話でわたしは本に興味を持ちました。いろいろなお話を聞かせてくれてありがとうございました。

 ...先生へ

初めて...先生がぼくたちに語ってくれたとき ぼくはすごいなと何度も思いました。ぼくが心に残ったのはふたりの男のひとがきこりに行ってお父さんが雪女に殺されてしまってもうひとりの男のひとに「このことを誰かに言ったらあなたも殺してしまうぞ」と言ってふたらいはけっこんしてそのことを話してしまって雪女が出て行ってしまったおはなしがかわいそうで心に残りました。これからもよろしくお願いします。

 先生へ 
 一年間お話を聞かせていただいてありがとうございました。今日のおはなしを聞いて一番心に残ったおはなしは森さんの小学四年生のときのおはなしでした。わたしも これから六年生になってもがんばりたいです。六年生になっても森さんがきてくれたらいいなと思っています。

 いつもいいお話をしてくれてありがとうございます。そして....さんのおはなしは心をあったかくしてくれてしんけんにきけるお話でした。そのおかげでぼくも成長できたと思います。ぼくたちは中学生になってA小を旅立ちます。一年間ありがとうございました。

 毎回 いろいろなお話をしてくださりありがとうございました。私は...さんのお話を聞くのがとても楽しみで来てくださる日がわかるととてもわくわくしました。そして楽しいお話や悲しいお話などいろいろなお話をしてくださり心があたたかくなりました。そしていろいろなことをまなびました。なのでこれからもいろいろな人たちにお話を聞かせてあげてください。そしてこれからもがんばってください。

 わたしたちのために朝忙しいときに話を聞かせてくれてありがとうございます。いつも...さんは心をこめて語ってくださるのでとても楽しみにしています。...さんの話を聞くと話の中の世界に入っていける気がします。主人公の気持ちなども深く深く感じることができます。これからもいろいろな話を聞きたいと思いました。短い間でしたがありがとうございました。

 ....さんへ

 すばらしいお話ありがとうございました。わたしはあんなに長いおはなしを覚えられる森さんはほんとうにすごいと思います。この前のお話は心が寂しくなるような話でしたね。 おばあちゃんのこと なんだかたくさんのひとの気持ちがわかるような気がしました。中学に行っても 森さんがお話いただいたことは忘れません。ほんとうにありがとうございました。
 
 ....さんへ

 このあいだはひとつのお話をきかせていただきありがとうございました。聞いていて「あぁ よかった」「残念だな」いろいろ考えます。このあいだのお話は....さんのおばさんのお話でしたね、悲しい気持ちになったり うれしい気持ちになったり ホッとした気持ちになったりいろいろな感情を教わりました。これらの感情をこういう感情もあるということを忘れずに過ごしてゆきたいなという気持ちになりました。
 


 わたしが驚いたのは子どもたちがしっかりものがたりを受け止めていてくれ こまごまとしたシーンを覚えていて また心のひだまで汲み取ってくれたことだった。感想のなかでおもしろいと思ったのは5年生で コカのカメ 権現堂の伝説 つつじの娘 藤平さんのこと を語ったとき 当日先生がたずねてくださったとき 一番心に沁みたのはほとんどがつつじの娘 であってコカのカメはひとりしかいなかったのに 作文となるとコカのカメが圧倒的に多かったことである。つつじの娘は書きにくいところがあるのかもしれない。パーソナルストーリー 「おさだおばちゃん」の人生もすべてとは言わないが子どもたちはしっかり受け止めてくれた。また 自分としては自信がなかった椋 鳩十の 野犬アカの物語への支持が多いことに驚いた。主人公の葛藤のくっきりとした 感情移入のできるモノガタりが支持されているように思う。

 でも 分析よりなにより わたしは不覚にも泣いてしまった。語り手として実に大きなものをいただいた。これで前に進むことができそうだ。語り手は媒介である。真実 やさしさ あったかさ を聴き手に届けるパイプである。もっといい媒介になりたい。そして子どもたちにもっと大きなものを届けたい。


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