遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 













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   決算のうちでわたしがすべきことは終わり方針も決まった。会計事務所と経理で最後の詰めをしているあいだ 会社のブログの再構築さえできた。語り手たちの会の30周年企画の一環のワークショップもきのうシンプルなかたちで決まったから、ひとつをのぞいてあらかたの懸案は片付いた。家族の問題を除いては。

   最後に会社を出ると赤い三日月が東の空にかかっていた。空気が湿っているのだろうか。息子に頼まれた買い物をしてアパートを訪ねると若い父とその幼い息子は屈託ないようすで遊んでいた。ルイの撒き毛は黒々としてきた。たったか走り寄ってくるようになった。「ナイナイ」と後片付けもできるようになったし ティッシュでテーブルも拭く。

   一刻もジッとせず くるくる目を動かしていつもなにか探している。このあたまのなかでは いったいなにが起こっているのだろう。ちいさな手は痛々しく赤く荒れている。アトピーなのかも知れなかった。か細い母はどこか遊びにでかけたまま帰ってこなかった。タオルを手に待ち構えていたわたしは洗いたての子どものいい匂いを深々と吸い込む。しあわせな家庭の匂いがする。

   子どもたちを育てているとき 夫の手からせっけんの匂いの生まれたてみたいな清清しい子どもを受け取った日があった。いっしょに子どもとお風呂で遊んだこともあった。もっとむかし わたしは父や母の手から やはりおなじように弟たちを洗いざらしのタオルに受け取った。いつかわたしがいなくなってもつづく しあわせな家庭の儀式。日本中で世界中で今も手から手へささやかなイニシェーション....

   こどもは日々死んで日々生まれ変わるのかもしれなかった。石鹸の泡のなかから。おとなも夕べごとに死に 夜明けに生れ変るのかもしれなかった。それならつづけられないことはない。しめやかな雨音....夕べのわたしはもう死んでゐる。




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   今日 以前から聴きたいと思っていた櫻井美紀先生のパーソナルストーリー「ニコラエフスクの雪」を聴いた。少女ヨシコのロシア領事館でのなつかしい思い出、お誕生パーティーでのできごと....ロシアの水色の空と風 別れ...記憶に残ることばと笑顔...そして悲報! 日本のシベリア出兵の報復としてパルチザン兵士4000名がニコラエフスクに押寄せる 殺戮 陵辱 略奪 日本人300余命は虐殺され、住民4000名も犠牲となり 美しかったニコラエフスクは砲弾で破壊され火をかけられ廃墟となった。

   領事夫妻は自決 幼い子どもたち ヨシコの妹弟も死んだ....ヨシコは痛みとあまやかな思い出も抱いて祖父母のもとで成長しやがて嫁ぎ 自分の子どもたちにそのものがたりを聞かせた。子どものひとりが美紀という少女だった...美紀も成長し愛し嫁ぎ娘に母から聞いたニコラエフスクの物語を話して聞かせた。今も 世界のどこかで繰り返されている。殺戮 陵辱 略奪 愚かな悲しい闘い...それでもひとは生きてゆく。ありがとう...さようなら...ありがとう...さようなら...を繰り帰しながら。 音楽のような語りだった。

   ひとは既成のものがたりに自分の生をかさね合わせて語る。(大島さん、そうでしょう?伝承の語り手であったとしても 語り手は語ることで癒されていくのではないでしょうか。) だが、自分の鼓動 血潮のなかに在るものがたりはなおのこと生きている。だからひとの胸を打ち 今生きて聞いているひとたちの心の奥処でより深く自分の生と重ねあわされる。祈りとなる。.....しあわせになりたくてひとは生きているのだけれど、ひとがしあわせになるのは思いのほかたいへんなことだ。

   自分だけではないのだ..ということ。悲しみや痛みや喜びもともにだきしめ自分の廻りだけでなく 世界の津々浦々に生きるひとへ思いを馳せること。ひとりひとりの真摯なパーソナルストーリーは実に普遍性を持っているのだ。伝承の神話、昔話の底には人類共通の記憶、人類共通の願いや祈りがある。そしてひとびとの深層意識の底にも集団的無意識があるとユングは言う。個人のささやかなパーソナルストーリーもまた そこにいたるひとすじの細い道にさえなり得るのではないだろうか...わたしはそんなことを思っていた。ひとの心を揺さぶるというのは、たくさんの重なった記憶が共鳴しあって響くからではないのか...と。

   その日 カタリカタリは櫻井先生をワークショップにお招きした。10時から3時まで芳醇な時間が過ぎた。前半はロシアの民話...からニコラエフスクの雪。後半は参加者が語るちいさなパーソナルストーリーだった。ひとは語り 語り継ぐ  ものがたりで抱きあう...穏やかな晩秋の午後....スーダン・ダルフールの紛争は虐殺は....もう終ったのだろうか。




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   今日は幼稚園の年長さんのおはなし会だった。おはなしをするというより、明確にいうなら子どもたち参加のライブだった。パネルシアター「まぁるい まぁるい」をふたつにわけてみた。地球温暖化と環境についてのものとひとのつながり..愛して夫婦になって子どもが生まれてその子どもがまた愛して結婚して子どもが生まれて やがて老いて死んでゆくときなにを受け渡し受け継いでゆくか...というもの ふたつとも重いテーマだが子どもたちは活発に参加してくれた。

   このところ語りつづけている「空と海と大地のおはなし」も参加が一段と進んだ。子どもたちはものがたりとともに擬似体験をする。そのとき 子どもたちのこころや脳のなかではどんなことが起きているのだろう。ハナを垂らしながら語りかける。からだが熱い。からだがかるい。先生の顔が変わった。パフォーミング・アートであるからクラスによって異なった展開になる。それでいいと思う。でき、ふできではないのだ。

   その後 宇宙会議の打ち合わせがあって わたしは最初聴くともなく聴いていたのだが 今日語ったものがたりのテーマがじつは今の子どもたちや地球にとってとても切迫したものであることに気づいた。わたしは民話を否定しない。鳥呑み爺も手白の猿も子どもたちに伝えてゆきたいと思う。しかし今 民話を語るよりもっと切実に語るべき話があると(わたしは)考える。今日行った幼稚園でも最初求められていたのは民話であったが 担当の先生は時間がなくて民話が入らなかった詫びをいうわたしの手をかたくにぎり目をみつめ 「今日はよかったです。ほんとうによかった」と言ってくれた。

   そしてもうひとつ わたしがこだわっていた語りそしてストーリーテリングが実際にもともとのものとは違った意味をもたらされていることにあらためて気づかされた。ながいこと 語りとはなにかがテーマであったし 自分の目線がそう間違っていたとは思わない。しかしNHKはただのナレーションを語りと名づけてしまった。読み語りというわけのわからぬ造語も知らぬ間にできた。(読み語りをするのは読み手なのだろうか、語り手なのだろうか)語っていても朗読に近いものもあるし それなら返って語りの精神の息づく朗読もある。三年前刈谷の産業会館で伝承の語り手はもういない...とパネラーのおひとりから聞いたことがあるが いまだに伝承の語りこそと主張する方もいる。

   ストーリーテリングにしたところで 絵本の丸暗記 テキストの丸暗記もそうなら 芝居に近いものもある。まるでおもちゃ箱をひっくり返したようだ。そしてそれぞれが 自分こそ真性の...と信じているおもしろさ。

   常識とは65パーセントの人間が信じるものなのだそうだ。変容するものなのである。語りもストーリーテリングもそうした曖昧なものなのだろう。....なればこだわっても仕方あるまい。他の名をつければよい。そうすれば とやかくいうこともまた言われることもないだろう。潔い気持ちがした。わたしは語り手でなくストーリーテラーでないあたらしいことばのもとに語ろう。わたしの信じるものを探してゆこう。

   薔薇が薔薇という名でなくとも その香りに変わりはないはず。




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   ひさしぶりにドキドキしながらブログをあけてみる。閲覧数70 アクセスIP35 最後に書いてからもう1週間もたつのに35人の方がまだ見えている。こうしてここにきてくださる方は なにかをまだ待っていてくださるのだ。すこし泣いた。

   寒い日だった。今日の気分はモーツァルトの交響曲40番にとても近い。焦燥と憂愁そして苦痛と憧憬。耳にはさんだことばが薬指に刺さった薔薇の棘のように痛い。たいしたことなどない。わたしにとって 一番大切なものは家族であって 語りではない。

   ここで踏みとどまろう。夫のためにまだできることがあるはず...息子のためにルイのために 娘たちのために...会社のHPの更新をはじめてした。これが戦力になりますように。夫のリサイクル事業への夢が適えられるように。わたしはすこし自分を棄てなければ...ひとを活かすことのために自分をつかわなくては....わたしにはできる。きっとできるはず。



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   今日 junさんとTELで話した。といってもかけようとしてかけたのではない。けれどjunさんはTELを待っていた。以心伝心というのはよくあることだ。junさんは千の昼、千の夜の最初の頃から夜ごと通ってくれていた。白ばら通信のインゲ・ショルを検索してたどりついたのだ。舞台でショル兄妹を演じるためだったか それとも演じたあとだったかよく覚えていない。ともかく浮世離れしたところが似ていてわたしたちは打ち解けあっていた。

   そんなふうにここにはたくさんのひとびとが訪れてつかのま時を過ごしては去っていった。ひとこと残してゆくひともいればなにも云わずに去るひともいた。正直のところ わたしはここで求めてはいけないものを 求めていたようだ。闇にむかって どこのだれと知れぬひとに語りかけることをはじめて六年 伝えつづけ語りつづけることにすこし疲れてしまったのである。

   語りでいえば アイコンタクトができないステージから暗い客席のシートに向かって語りかけていたようなものだ。つれづれを語っていたのが次第に語りのことが多くなっていった。そして語りについては もう語りつくしたように思う。わたしは もうそれほど多くを求めるまい。ただ語ることから 先に進もうとしている今だから。

   ミクシィでも探している。だれかとであうこと、なにかとであうこと。そして確認しあいながら歩くこと 歩きつづけること。そうしたことから 多くのひとにたくさんのメッセージを書くようになった。こうして読んでくださるあなたをわたしは知っているのだろうか? とても不思議だ。でも、いま待ってくださるあなたの気配を 受け取ってくださるあなたの気配を感じている。ほんとうは あなたもいっしょにきてくださればと思うのだが そうもいくまい。

   もう 毎日は来られないだろう。それでも ときどきのぞいてみてください。わたしはここにいます。



   

   




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   朝 無駄なことばがひとつとしてなく無理がなく あかるくあたたかくあざやかなおはなし会ができた1年2組の教室。終ったあともしんとしていた。先生もおかあさんも目を輝かせていた。こんなおはなし会ができた日は 自分が今までしてきたことすべてが許されるような気がする。

   友人はわたしのことをそこまで考えなくてもという。だけれど もっと先を見たい もっと前に進みたい できるならひとりではなくて。なぜひとは語るのだろう。語りにこころを動かされるみなもとはなんだろう。語りは不可視なもの不可知なもの不可思議なものにつながっているからだ。そして語るたびに薄皮を剥がすように自由になってゆくからだ。開いてゆくからだ。盲目的に自分を自由にしてくれるものがたりを語りつづけるひともいれば、幾たりかはぼんやりとまた明晰にそれに気がついている。

   いつのまにか 語ることで語り手は頚木からしだいに自由になってゆく。そうしたら こんどはあとからくるひとに手をさしのべる番だ。けれども語り手は得てして罠に落ちてもゆく。自分を自由にしてくれたものがこんどは自分の枷になることがある。語ることを不在証明にすることで、語ることをステータスにすることで、そこで自分の場所を守ろうとすることで。

    そのようにはならないようにするには ギリギリの場に自分を追い詰めてゆくしかないと思う。つねに新たなものへ。未開拓の地へ。滞ってしまうこと 留まることは澱みを生むような気がして。

    わたしは踏み出すひとを待っている。あえて危険を冒そうとするひと 己を空に投げかけるひとを。そうでなくてあたらしい語りができるだろうか。語りをとおして世界の変容を促そう、否甦らせようと夢を見ることができようか。まだ遅くはないと信じるひとたちに加わることができようか。もっと道があるのかもしれない。図書館から生まれるストーリーテラーを待ちながら 巷で生きるひと、自分のためだけにでなく生きようとするひと 開いたひとにほんとうのストーリーテラーが潜んでいるかもしれないとわたしはこのごろ夢を見る。




   

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   語りの祭参加にあたり 友人との逢瀬がまずあって たくさんの語りを聴くことが一番の目的ではなかったから そう多くのものがたりが聴けたわけではない。...が 聴いたものがたりのなかで心に響いたものがたりを書き留めておきたい。

   まず 櫻井先生の『タイグ・オ・カハーンの恐怖の一夜』今回がはじめてではなかった。前 聴いたときにもまして やはらかく 聴き手といっしょに呼吸する語りだった。こうした語りをする語り手はいわゆるモダン・ストーリーテラーのなかには少ない。自分も含めて日本のモダンストーリーテラーは概して固い語りをするように思う。櫻井先生はもともとの伝承の語り手のやはらかさを持っている。それは実際たいへんなことなのだ。そのことを理解し つづく語り手がどれだけ出てくるだろう。そこではじめてほんとうのストーリーテラーといえるのではないかと感じた。

   古屋和子さんの『ありがたや なむあみだぶつ』『鶴』これはプロの仕事である。きちっと構成されながら 生き生きしている。小気味のいいテンポに魅了された。略歴を拝見したところ「ボート・シアター」で演劇をなさっていたようだ。そういえば役者兼演出家の山下さんもボートシアターの出身!古屋さんの話を聞いたことがある。山下晃彦さんといっしょに仕事をなさっていた!?ここで点と線がつながった。古屋さんは(以下推論である)テキストもつくられるのだろうが 役者からの語り手さんに見受けられる 脚本(台本)に忠実な語りをなさるのだろう。それは固い語りなのかそうでないのか聞いてみたいと思った。

   10/8深夜ロビーにて 語り手のお名前は失念したが 『八重島の神馬』透明感のある美しい語りだった。どちらかといえば硬質の語りだが ものがたりのもつ神秘性とあいまって こころに沁みた。遠く離れていても ともに歩いていると信じられる語り手がひとり増えた。とてもうれしかった。

   おなじく10/8 君川みち子さんの『月見草』方言の語りのこれは行き着く先のひとつだろうか。月の光 月見草の野 リンリンと鳴る鈴のおとが聴こえるような気がした。やはらかい美しい声 ノヴァーリスの青い花を髣髴とさせるような繊細な清らかな民話の世界。

   西蓮寺にて 菅野栄子さん『砂糖の王様と慕われた会津人 松江春次氏』これは なんといったらいいかわからない。写真とメモによる語りであった 途中で幾度も涙をぬぐわれた。...けれど曰く言い難いものが残った。今回の語りの祭のなかで伝えたいきもちのこれほど強い語りはこのおはなしだったのではないだろうか。そのことだけでわたしは心を打たれた。もうすこし整理されてパーソナルストーリーとして完成されたら...とこれは希望である。

   
    最後のおはなしをのぞいて ちいさな場所で語られたものがたりである。語りはできればマイクをつかはないで肉声で届けたほうがいい。片岡先生の言われたとおり語りにはちいさな場所が似合うようだ。心残りは五十嵐七重さんの語りとセミ21で聴いた松本昌代さんの語りを聴けなかったこと 小野和子さんの基調講演を聞き逃したことだ。わたしも...語り手としてわたしの行きたい道を行こう。遠くかすかに見えるしるしに向かって歩こう。


    本のとおりテキストとおりに語りたいひとはそう語りつづければよいし 語ることの奥深くにあるいのちのありように思いを馳せるひとはそのように語ればいいのだと思う。率直に書くことにはリスクがつきまとう。この場所は脳科学の茂木先生のことばを借りれば わたしの生(なま)の体験の編集であったし、RADA流にいえば仲間へのオファーであった。

    ずっと通して読んでいただければわたしの語りに寄せる心情はわかっていただけると思うが 一部分だけ そのコピー また風聞で判断されわだかまりを持たれる そのことは覚悟していたとしても 切ないものである。今までのところ 反論とかクレームとかいただいたことはないが もしなにか異論があるならことばでメールでなにがしかのかたちでわたしに直接いただけたらと願うものである。

   ときおりいただく肯うことばがうれしかった。 通ってくださって無言の応援をくださった方ありがとうございました。アクセスの数は励みになりました。ミクシィでは まとまったことは書けないが つれづれつづることの反応が日々 エコーのように返ってきて背中を押してくれる.....この場所でこれからなにをしようか....衝撃が思いのほか大きかったのでブログはすこしのあいだおやすみします。

   すでに語りが目的なのではない。 いのちの充実とつながりを求めて今日から あたらしい気持ちであたらしいことをはじめよう..と自分に言い聞かせつつ...

    


   

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    会津からの帰途 新幹線は混んでいた。指定席がとれなかったので ネモさんとわたしは デッキにいた。ネモさんは階段に腰掛け、わたしはトランクに腰をおろし ちょうど良い距離ができた。珈琲も頼んだ。個室にふたりでいるようですこしむつかしい話をすることもできた。

    自分で自分を見ることはむつかしい。だが 友人と話していると 今どこにいるのか見えてくる。わたしはどこにいるのだろう。どこへ向かっているのだろう。夫への想い 相克 子どもへの想い 相克 仕事 語り....がひとつになって雪崩れてゆくのを 捉え 見通すこと。

    今はこれしかない....という結論。


そして もうひとつ結論をいうなら...語りは技術ではない。想念 生き方の問題であるということ。経験でなく 経歴でなく どれだけ開き語ったか、どれだけ身体と魂をとおして語れたか どれだけ語り手自身の固有のものが含まれていたか....である。きのういい語りをしたから今日できるとは限らない。その一回性ゆえに語りはおもしろい、またすべての語り手に平等なのである。 





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   閉会式 会津の方々 ネットワークのかたがたが壇上にあがる。よく準備しあたたかく迎えてくださった。さまざまなトラブルがあったと聞いているが それがなにほどのことであろう。語りの祭はひとびとの祭であった。祭るは祀るからきている。奉る 纏る....それぞれ溯ればひとつであろう。古来は神を祭り また神とひとがまつりあうことを祭といった。間 釣り合うともいう。八日の朝そらにかかった虹はストーリーテラーたちとの契約の虹であったのかもしれない。語られたそれぞれのものがたり 集まったおおくのひとびと そして出あいには深い意味がある。


   わたしは知っている。祭りの委員長・高橋京子さんが毎夜 二時までかかって帳簿に釘付けになっていたことを。もう日付も九日になった夜更け 弥陀ヶ原心中をはじめて語れたよろこびを抱きしめて大浴場にむかったわたしは京子さんと二言三言挨拶を交わした。芯がつよくやさしい会津の女人である。深夜の大浴場にはもうだれもいなかった。

   たくさんのひととであった。七重さん 横山幸子さん 古屋和子さん 秋山さんや武井さんとも再会した。神保さん 太田みささん 研究セミナーのなかまたち そしてとのさん ネモさん すみれちゃん ゆっこさん またなにかがはじまるのだろう。

   観光地や家に散ってゆくひとたちを見送って わたしたちは鶴ヶ城にむかった。戊辰戦争では 一ヶ月の激しい攻撃に耐え 難攻不落の名城と讃えられた城は明治政府の意向で取り壊された。ボロボロになってまだ毅然と立つ鶴ヶ城の写真が手元にある。城の石碑の裏に文部省と大きく彫られているのが 切なかった。石垣は変わることなくそこにある。秋のひざしにぬくとめられて まるで血が通っているかのようだ。膝のわるいわたしは 必死の攻防が繰り広げられたであろう北出丸入り口でネモさんとすみれさんを待った。


   木立の向こうに道場があるようだ。会津は教育に熱心な藩だった。鳥の囀る聲 剣道に励む少年らの聲は時の流れを忘れさせる。北出丸の左に積んである石垣は昇れそうな気がした。わたしは這うように石垣を登った。奥ゆき2Mほどの草地の向こうはお堀である。空には近い。赤蜻蛉が舞っている。はるか天守のあったほうに 抜きん出て高い一本の松がある。あの松はずっと眺めつづけていたのだ。白虎隊の澄んだ目も青竜隊の秀た額も 朱雀隊の老練も 玄武隊の矍鑠も見たであろう 娘子隊の竹子が獅子奮迅の働きをして斃れるのも見たかもしれぬ。風はそよぎ 鳥は囀る ...そのときふと うつり往き過ぎ行くのは時でなく景色ではなく ひとなのではなかろうかと思った。 自分が地上を吹きすぎてゆく風のようにとりとめのないものに思われた。



   .....会津藩最後の藩主 松平容保は十五代将軍慶喜によって京都守護職を命ぜられる。それが会津がのちに長州に怨まれるもとになるのである。松平容保は孝明天皇から「会津の他にたのむところなし」とまで信任されたが 孝明天皇は若くして崩御(岩倉具視のかかわる暗殺という説がある)それが会津にとっての悲劇のはじまりであった。慶喜の言動や権力を温存しようという術策から容保は幕府から遠ざけられる。そしていつのまにか朝敵の汚名を着ることになるのである。

   容保にとっては悪夢であったに違いない。会津の他にも最後まで幕府に忠誠を尽くした藩はあったのに 官軍に降伏した会津への仕打ちは尋常のものではなかった。累々と道ばたに斃れる屍も飯盛山の白虎隊の屍も食い荒らされるまま捨て置かれた。埋葬することも供養することも許されなかった。そして不毛の地 火山灰の積もる斗南藩に藩主ともどもながされる。耕せど耕せど不毛の大地は報いてはくれなかった。ひとびとは草を食った、馬の飼料の豆を食った。犬も食った。

   .....こうして数え年13の伽耶が売られることになったのである.....と弥陀ヶ原心中につながってゆくのである....風のようにこころもとないひと・ひとりひとりにもそれぞれの生がある。耀くともかがやかざるとも生きたいのちのあかしを抱いて 身のうちで温め 語ってゆきたい。このものがたりは変わってゆくだろう。城の石垣に触れたことで、お堀の水面をながめ かってありし鶴ヶ城に想いを馳せたことで...。そしてわたしは ほのかなゆびさきでたしかに背中を押されたのだ...語って....語って....わたしたちのことを 忘れないでいて...そうしたら怨念は薄まるだろうか。鎮魂(たましずめ)のかたりは魂振りの語りにつながるだろうか。



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    「あいづ物語 会い・愛・哀・逢い・遭い」....に惹かれて「弥陀ヶ原心中」に決めたのだった。切ない出逢いと愛のものがたり 会津のむすめのものがたりだったから...。それが思いもよらず「人間模様」の部屋で語ることになったとき できれば他の話に換えたいと思った。弥陀ヶ原心中は語るのに決して楽なはなしではない。竹内さんが書いた昭和遊女考の短いエピソードを膨らませたものがたりであるが 女としても個人的にも語るに辛いものがたりだった。...それが昨夜高橋京子さんから その作者がこの近くの方だとうかがったとき ここで語るべき話なのではと覚悟は決めた。

    会津・田島は夫の父の出身の地である。祖父は飯館村の出で一代で名をなし財を成した。その豪胆さで森組といえば県下で名にしおう土建屋だったのだ。最盛期 抱える人間は600人を数えたという。会津鉄道を敷いたのも祖父だったと聞いている。しかし 祖父は60を越えたばかりで 湯の上温泉 小学校のグラウンド工事のさなか 脳溢血に倒れた。戸板で運ばれたときはもう虫の息だったそうだ。祖父・直市には当時男子が生まれず ふたりの娘がいた。直市は妾の弟であった夫の父を田島から呼び寄せ長女浪江と娶わせた。ところが浪江は若くして亡くなり 妹の鶴と結婚させた。この鶴が夫の母である。そのとき鶴にはほかに想い人がいたという。  

    一介の郵便局員だった義父には 直市の事業を継ぐ才覚も度胸もなかった。祖父亡きあと 秋風が枯葉を吹き散らかすように 一家は栄華から零落のどん底まで落ちた。貸した金も戻らなかった。去るひとは去っていった。現在 福島県下で有数の建設会社のなかに 森直市の番頭や息のかかった人間が興した会社が複数あるという。夫は多感な時期を弟とともに貧苦のなかで過ごした。....会津はわたしにとっても見過ごしにできない 痛い美しい場所だった。


    いつのまにか出番になる。立つ、ピンマイクを受け取る。マイクはつけたくないと思う。...が仕方がない。ひとぉつ ひばり....うたがはじまる いつものように 本番では緩急のリズムが変わる マイクが衣装にと触れるさやさやという音が気になる...が...フラッシュが炊かれる 集中が切れる そのあとはエピソードがいくつか消えてしまう 迷子になった話をつなぎとめる...うた...

    呆然としていた。まわりにひとが集まってくる うたの歌詞 いつつはなんという鳥ですか? いすかです。 機械的に答えている。名前を書いてください。書く 名刺をください 郷土史研究会の会長さんたちだった。ごめんなさい ありません とてもよかった  涙がでました  わたしも 涙がでそうだ  わたしは頭のなかがからっぽだった。なにも考えられなかった。体裁のいい語りをしてしまった。聲を出すのは 息遣いである。まだ未熟なわたしはマイクで息遣いをコントロールする技量などない。声をセーブしてしまうのだ。それでも器用にものがたりをおっつけた。それがかなしかった。

    ネモさんたちは気をつかってあたらずさわらずという気配。...でも、わたしは語るためにきた。それは みんなとも会いたかったけれど 語り手は語ってなんぼである。自分に納得のできる語りができなくてなんの意味があろう。夕食のあと友人とロビーにいて わたしは聲をたてずにないた。目の不自由な夫と子どもを残してきてあんな不本意な語りしかできない自分が情けなかった。

    夜中 ロビーにひとりでいたら 語り手の....Kさんがおともだちと通りかかってみえた。くちなおしにちいさなおはなしをここで語ろうと思うのよ。あなたの語りも聞きたいわ..と言ってくださった。 最初は四人だったと思う。まず「神馬の話」を聞いた。とても透明できれいなものがたりだった。それから月見草の話...これもうつくしい清らかなものがたりだった。.....それから促されて わたしはもういちど語ってみることにした。電気が消され 暗いロビーで たった7人のおはなし会。... 聲にのってものがたりはかげろうのようにたちあがる ほのかに光をおびる わたしはそこにたちあえばよいのだ。うたの余韻がゆらめきながら消える...はじめて弥陀ヶ原心中をもの・がたりとして納得のいくように手渡すことができた。

    伝承の語り手がひとりいらした。「語り手の顔を忘れても名前を忘れても 残る それがいい語りだ。 わたしはあなたの顔も名前も忘れてしまうかもしれないが 今夜聞いた 弥陀ヶ原心中は 忘れないよ」 
そのことばはわたしに沁みとおった。これで語りつづけられる...。わたしは上手い語り手ではない。..だがなにものかがわたしに語らせてくれることがある...わたしが語るのではなくて。それをたよりに語り続けよう。

    神話もよい。昔話もいい。だが わたしはひとびとのものがたりを語れるものならば 語ってゆきたいのだ。会津も秩父もお上に刃向かったまつろはぬひとの群れなす地だった。まつろはぬものは容赦なく屈服させられる、だが それでもたちあがるものがいる。傷ついて地に伏すものも 息絶えるものもいるが。斃れたものたちのかはりにかたろう。鶴ヶ城址に丈高くすっくり立つ松は門前の攻防を見たであろう。敵陣に散った娘子軍の竹子のすがたもみたかもしれぬ。石垣の石はまだ稚い少年たちが必死の面差しで走るすがたを憶えているだろうか...秋の陽が温とめた石垣を抱いてみる。語られるべきものがたりが待っている。わたしに呼びかける。




 

     
   

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   朝がきた。朝食会場でたくさんの顔と出会う。末廣酒造・嘉永蔵に向かおうとロビーに出たら虹が懸かっていた。

   嘉永蔵はもういっぱいだった。ホールでは「神々と精霊の物語」が9人の語り手によって語られ 司会は櫻井先生だった。古事記のものがたりに挟まれて ものがたりが語られるという趣向である。「赤神と黒神」は松谷さんの再話から..やまなし採り 「海運蛸杉」 そして語り手たちの会研究セミナーで同期だった小阪さんの「妖精と鍛冶屋」....横山幸子さんが育てている小5の少女たちが語ったのは「十二支由来」「世の中できたわけ」「羽衣伝説」 会津弁で臆することなく語っていた。空気が澱んできて後半は息苦しかったが それぞれおもしろかった。
足が不自由なことから 階段をつかわせていただき 普通なら見ることができない嘉永蔵の広い座敷を見せていただけたのもうれしいことだった。

  嘉永蔵・階段


櫻井先生  


 横山さん


    それからネモさんに案内してもらって6人でわっぱめしのランチをいただいた。黒米のごはんに油で炒めてから炊いた具がのせてある。とても美味しかった。
  


しだいに 重苦しい気分になってくる。....なんでエントリーしたんだろう。逃げ出してしまいたいと思う。いつものことである。それから午後の紙芝居を見たいというゆっこさんをのぞいて ネモさんの会津別邸にむかう。途中 阿弥陀寺に立ち寄る。ネモさんのご先祖たちが寄進したしるしの石碑を見る。御三階はかつて鶴ヶ城本丸にあって秘密の話し合いをしたところだそうだ。3000円で売りに出されていたものを買って境内に移築したのだそうだ。ネモさんの家の庭にはお城の巴の瓦がぽつねんとある。ここには歴史がまだ生きて今と繋がっている。



   

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  新幹線は台風の影響でひどく混んでいた。磐越西線に乗り換えて会津若松に着いたのは午後五時。SLがホームに停車していた。夕空が美しかった。SLも美しかった。車掌さんに頼んで車内を撮らせてもらう。滅んでゆくから美しいのだろうか。さきほど乗ってきた 磐越西線の車両も新幹線MAXときも古びてゆくほどに頬擦りするほど手で擦りたくなるほど愛着がわくようになるのだろうか。







   御宿東鳳に着くと ちょうど風雅堂からみなさんが戻ったところで ロビーはごったかえしていた。部屋に落ち着くとやがてネモさんが そして開会式直前に夢子さん(すみれちゃん)が到着。ふたりは5年前 ネットで出会った友人で 語り手ではないのだが 語りの祭にことよせてとのさんも含め会うことにしていた。...そしてとつぜん金沢からIさんが飛び入りで現れる。Iさんは大学で教えている...がわたしには学生としか見えなかった。

   開会式は壮観だった。メニューにはいささかの問題がないわけではなかったが、立食パーティーでみなよく飲みよく食べてよく語っていた。






    そして夜....とある部屋のちいさな語りの会に行った。 櫻井先生の「タイグ・オ・カハーンの恐怖の一夜」と古屋和子さんの「ありがたや」と「鶴」を聴かせていただいたのは望外の喜びだった。わたしは実際にあった幽霊譚をとぼとぼと語った。古屋さんが語りで行き詰まったとき ネイティブアメリカンの語りを聴き 生活に触れることでまた歩きはじめられたことは耳にし また感銘も受けていたので 古屋さんにネイティブアメリカンの神話についてお尋ねした。



    というのも 語りはじめて6年 私自身神話 なかでもアボリジニと呼ばれる アイヌやネイティブアメリカンなど口承で伝えられた神話を語りたいと思うようになっていて 空と海と...などを語りだしてもいたからだ。折りしも祭直前にジャンピングマウスを取り寄せたばかりであった。古屋さんはきっぱりと「部族の神話は部族の者しか語ってはならないので わたしが語るのは歴史である「ジャンピングマウス」と「虹の戦士」だけだと言われた。わたしはそのことばに感銘を受けると同時に疑問も感じざるを得なかった。神話とは普く(あまねく)遍く(あまねく)広まっていいものではないのか...神話とはもとをただせば 人類が共通して持つ遠い遠い記憶であり法(のり)であり則(のり)なのではないのか...化粧っ気のない古屋さんの顔は性別を越えて シャイアンの戦士のように風雪に削がれ磨かれているように思えた。


    けれども極めつけはそののちのことであった。Iさん(ゆっこさん)は櫻井先生のラジオを聴いてネットを検索しやってきたのだそうだが、そのゆっこさんのパーソナルストーリー「オートランドリーの怪」の可笑しかったこと おばさんたちもたじたじの抱腹絶倒であった。7/7七夕以来のネモさんと三年前刈谷の語りのイベントで「おさだおばちゃん」を語ったとき 会って以来のすみれちゃん 新人のゆっこりんの四人は夜中過ぎまで語りあった。

    1時をまわって さすがに 一度も通していないことを思い出してひとりで練習にでかける。だが 集中できなくて彷徨っていたら ロビーのすみで「語りの祭in会津」の実行委員長である高橋京子さんがたったひとりで帳面をつけていた。京子さんも語りのセミナーで学びパーソナルストーリーをなさる方だった。「この地は語りが盛んですが ここのひとたちに伝承のだけではない 語りのあり方もあると知ってもらいたくて 会津で開いてみたいと思ったのよ」と淡々と京子さんは語られた。「弥陀ヶ原心中 聴きたいと思っていたの ここで語ってみて」と言われたので 思い切って語らせていただいた。ともかくとおしで語ることはできた。

京子さん

    末吉さんが京子さんを気遣って迎えにきたので10/7 長い一日は終った。






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   スラヴァの歌うカッチーニのアヴェ・マリアを聞いている、雨の夜。うたってみる、雨の夜。
 
   憲法九条を変えてはならぬと思う。女性が皇位を継げないことを不思議に思う。カウンターテナーの歌声は艶やかで深い。あたりまえのことをいつでもあたりまえに言える世であるように。かつてのように暗黙のうちにひとがひとを殺すために海をわたることのないように。無辜の子どもたちが殺されないですむように。ことばを奪われることのないように。ことばを奪うことのないように。ことばがいつまでもいのちを振わせ耀かせるように。語り手たちがいつまでも真理を語り継いでゆくように。

 スラヴァのうたうカッチーニのアヴェ・マリアを聞いている、雨の夜。





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   二年前 富士の向こう側でわたしは長いこと忘れかねていたひとりの友人と再会した。そして修善寺の語りの祭で 彼のひとのためにだけ語った。水が流れるように火が迸るように そのひとに想いが向っていくのが視えるように思った。 だれかひとりのために語るのははじめてだったし これからもそうあることではないだろう。その一瞬 魂が邂逅したように思う。 彼のひとは 富士のみえるところで 静かな瞑想のくらしをつづけているのだろう。....わたしはジタバタ足掻くような傍目から見たら見苦しいであろう日常を送って日を重ねてきた。

   この日々は無駄ではなかったと思いたい。あしたへ あるべき自分へ 光へ向かって 回帰するための試みの連鎖であり 階段であったと思いたい。日常の塵埃に塗れてはいても いまはわたしである永い永い時間を経てきた魂の放物線は前方に上方に向かっていたと信じたい。




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