遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



   友よ きのうは 電話をありがとう。ワークショップの感想をありがとう。言いそびれたことがあって 手紙を書こうとするといつになるかわからないから ここに書きます。ブログの私物化よ。。。と言って笑わないでね。ここはわたしの公開のお部屋 くるもよし 去るもよし すべてよし...です。

   RADAで去年学んだいちばん大きなことは 『与えるだけ与えなさい』ということばでした。今考えれば それは舞台やレッスンのうえで共演者にオファーを差し出すこと 相手役がインスピレーションを受けられるような 演技の質を高められるようなきっかけを差し出すことなのです。けれども単純なわたしは 語りについて持っているもの知っているものすべて手渡そうとしました。...その段階にきていないひとにはむだなことだとそれはあとで語り手たちの会のKさんからアドバイスをいただいたのですが それでもみなに手渡したかったのです。 みんな持っていってね..どうぞ....そのなかで気づいた分はあなたのものという感じかな。

   それに手渡したらそれだけ入ってくる....ケチケチしなくてもいいんだなぁと思います。.....ですが手渡せるものは知識とか技術とかだけでは もちろんないのです。...たとえば語り手たちの会のNPOに理事としてではなくても参加しあなたができる範囲のことをしてくださる...それも与えること....

   来た 来た 来たぁ!!って思ってるでしょう?  そうよ わたしは力がほしい。ワークショップをひらくにも 語りをひろめるにもたくさんのエネルギーがいる。たくさんの温かい手がほしい。。。。。。昔 片岡先生がおっしゃいましたね。「癒されただけではプラスマイナスゼロではありませんか」...語り手は語ることで癒される 受け取るものがたくさんある....そうしたら こんどは癒し手になって....助け手になって....そうしてみんなの力があつまれば...その場が理解と友情で満たされるのなら 恣意と無縁であるならば もっともっと大きな豊かなことができる。語りを世間のひとびとにひろめ また深めることができる。語り手というたいせつなこと うつくしいことの伝え手をふやし 世界をもうすこしやさしく住みよいものにすることができる。

   わたしに勇気をください。....時間と揺れるこころに忙殺されそうなわたしと手をつないでください。 なかまたちと手をつないで ワークショップの時のように輪になってたのしく 生き生きと....。


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   芸能ニュースというと 歌 芝居 テレビなどの他にスポーツも入ることがあります。不思議に思いませんか? 折口信夫さんが書き残されたものを今読んでいるのですが 芸能とは昔 態芸(のうげい)と言ったらしい...心が入っていたんですね。そしてそのジャンルには 歌う 踊るなどの他に 武術 相撲もあったんですよ。...なるほど それで朝青龍の問題も芸能ニュースなんですね。語るは歌うのなかに入っていたのでしょうか。

   そして読み進むうちに わたしが語りを含む芸能について思ったり感じていたことが裏打ちされるようで とても心強かったのです。 それがなんなのか すこし書いてみましょう。...芸能はまつりの場で おこなうことだったのだそうです。まつりには外からまれびと...まろうどとして神がおいでになる 神がいらっしゃらなければまつりではなかったそうです。あるじとはご馳走を意味していたのが次第にあるじをするひとの呼び名主人(あるじ)に変化したそうです。 それは時代の移り変わりとともにカタチを変えて まつり...宴会では客をもてなし 客...まろうども主人に芸能で返礼したらしい...神さまだけがいつのまにかいなくなってしまったのですね。

   日本の芸能は はじめはだれかに見せようという目的はなかったのだそうです。『招かれざる客』..障子の穴から見物するような予期せぬ見物人が見せる、聞かせるの起こりだったようです。芸能はふたつの意味を持っていました。ひとつは鎮魂 もうひとつは反閇(へんばい)といいこのふたつがひとつになりふたつになりして日本の芸能のあらゆる場面に出てくるのだそうです。

   鎮魂とはそとから良い魂を迎えてひとのからだに鎮まらせるかたちと 魂が遊離すると悪いものに触れるのでそれを防ごうとする形があるのだそうです。。反閇とは悪い魂を押さえつけることだそうです。

   たとえば猿楽のもとになった田楽は田遊びがだんだん演劇化したものです。田遊び の遊びということば これは日本の古語では鎮魂の動作なのです。楽器の演奏も歌を謡うことも 演奏や歌に乗ってくる清らかな魂が身体にはいるという意味があったのだそうです。田遊びでは田をできるだけ踏みつけ その田を掻きならして田に適当な魂を落ち着け立派な苗をつくるためのものでした。

   さまざまな芸や要素が入った田遊びは田楽となり猿楽となり歌舞伎 能になりました。このように日本の芸能は根本に魂鎮めの要素を持ちながら時代とともに変遷しました。鎮魂には魂振り....魂を生き生きと復活させるという意味があります。折口信夫の語る芸能史六講は平安時代を中心に書かれておりますが 時代を深く遡るほど 芸能というものは神や霊と切り離せないものになることでしょう。

   わたしたち語り手はその原点を忘れてはならないと思うのです。それは単純に神や霊を語るという意味ではありません。ものがたりの本質は 生 死 再生でありますから そのテーマにもはっきりした啓示が含まれていると感じます。魂鎮め魂振りには再生の謂いがあります。このつづきは ちかじか 書きたいと思っています。なぜなら語る...の本質がそこにあるからです。

  ...27日のワークショプに参加された方がおいででしたら 心にとめていただきたいことがあります。発声は大事です。身体も大事です。けれども それらはもっとたいせつなものを聴き手に届けるための 乗りもののようなものです。技術でなく身体でなくものがたりですらない 聴き手の魂に届ける 語り手自身を上昇させるたいせつなものとはなんでしょう? あなたの語る『根っこ』にはなにがありますか? 

    声や身体の不思議にも伝えたいことはもっとあります。そこにも大きなヒントが隠されていますしね。けれど わたしがほんとうに伝えたい 語り合いたい 学びあいたいのは...その奥のことなのです。ご一緒に旅をする方はいませんか?




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   書いても書いても収まらないときがあります。身体の奥底から語りたい想いが突き上げてくるときがあります。...でもひとりでは語りは成立しないので 歌でも歌うしかありません。

   語るまえ 第一声を放つまえの しんと張り詰めた空気が好き、語っているとき 手を見ると震えていて ものがたりが降りてきたことを知る一瞬が好き 自分から離れて聴き手のみなさんを遠くながめている時が好き ものがたりが自在にほとばしり こぼれおちて 命を持つ一瞬が好き 聴き手のみなさんのまなざしが夢見るようにかがやくのを見るのが好き たしかに魂の奥底に届いたという韻きを受けとめる刹那 わたしの魂も共鳴しよろこびにふるえる....。

   語っているとき わたしはわたしでなくなり なんでもないものであり なんでもあるものになる 生きとし生きるものとともにあって 宇宙とひとつにとけ 一本の草になる 魚になる 水になる 青い青いみな底 差し込む一条のひかり。あぁ 語りたい 泣きたくなるほどに。

   

  

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一部 演出家 永実子さんのワークショップ


背骨を確認する。背骨は左右の耳の後ろから頭蓋骨にそって中心に向かう、頭蓋骨のすぐ下からはじまっています。脊髄には中枢神経の束が格納されています。また発声の共鳴板でもあり 脊髄を感じることはたいせつです。


ボールをつかうことでさまざまなことが確認できます。アイコンタクト ひとはなにによって他者を認識するか...イメージ 
1自分とつながる 2対手とつながる 3場とつながる
いくつのアンテナをつかえるか。

二部 ヴォイストレーナー のりこさんのワークショップ

無声音 f  s ハミング マ の発声、身体をつかうことで 聴き手に届ける感覚をつかむ。



これはなにをしているところでしょう...のりこさんも身体をつかいました。 ふたりで組になって 声がどのように出るか 意識することでどう変わるか 確認


肝心のデジカメを忘れてしまいました。以上の写真は櫻井美紀さん撮影です。ありがとうございました。あと 野田さんが写したもの わたしが使い捨てカメラでとったものなど 順次 UPします。


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   ワークショップが終わりました。語り手たちの会30周年企画を決める運営委員会でイベントのなかに会員の実践・体感できる企画がない、ワークショプを開いたらどうだろうと 一言発言したことがはじまりでした。なにしろ語り手の会ですから言ったことには千金の重みがあります。提案者は即プロデューサーというわけですべての責任が生じます。

   今年の一月講師が「昴」の演出家の永実子さん、ヴォイストレーナーののりこさんと決まったことで おふたりの力量とお人柄は知っておりましたから心配はないと思いながら 果たして語り手たちの会に受け入れられるだろうか....という一抹の不安はありました。

   けれども案ずることはありませんでした。参加者の声とアンケート結果はすべて支持と期待と感謝だったのです。企画者冥利に尽きます。永実子さん、のりこさんは連携をとり 午前午後のワークショップを一貫した流れにしてくださいました。導入から ニュートラルにする自分をひらく...自分とつながる....眼の前のひととつながる...空間とつながる....脱力する.......視野....意識....身体の構造....発声の仕組み....響き....と連なる流れを 四つの輪 ボール ミラーリング オーケストラ などのゲーム また実際に身体にふれ体感することでわかりやすく教えていただきました。

アンケートの一部です。

一部
心をひらき 身体をひらき 開放することがすこしわかりました。体験できてよかったが時間が短いのが残念です。

脱力の仕方がわかりました。見ているようで見えていない周りとの関係を考えるきっかけをありがとうございます。

心も身体も開放する。開放できるところから 初めて語りの一歩を歩みだすことができるのだと知った。

まず自分をニュートラルにすることが大事だということがわかりました。自分の心と身体をつなげる。それから他の人とつながることができる。

アレクサンダーテクニーク 気分がすっきりしました。

具体的で楽しかったです。子どもたちや高齢者の場面でも役に立ちそうなこと多いです。

時間的に少し足りなかった。大変重要な意識の話だったので もっと段階を踏んで時間をかけたいと思いました。

アレクサンダーテクニークで身体をリラックスさせる心地よさがわかりました。語りもひとりよがりにならず常に周りを見ていることの大切さも知りました。とてもおもしろいワークショップでした。

アレクサンダーテクニークの意味を教えていただき新鮮でした。視野をひろげる方法を具体的な動作や遊びを通して学ばせていただき よくわかりました。

身体の一部一部を意識することで こんなにも 身体が緩められる。緩まることで
心も緩められる。心と身体のつながりがわかりました。

講師に膝の上に乗せている手を直していただいただけで 今もその気持ちよさを感じます。ひとりではない。自分と人とまわりがあると思いました。自分の存在を不思議に感じます。



二部
素晴らしい講師だった。

やまもとさんの熱演、ほがらかなお人柄が素晴らしかった。

身体と呼吸のイメージがとてもわかりやすかった。

声を響かせて出す とても具体的でわかりやすくおもしろいワークショップでした。
声という大事な宝物を持っていると思った。このような機会をまた希望します。

ことばを自分から離すこと、それが一番印象に残りました。

ことばを届ける ことばを話す ことばをからだに入れて発するということが感じられました。

的確なアドウ゛ァイスをありがとうございます。またやっていただきたいものです。

身体のそれぞれの部分が響いて声になることが実感できました。頭で知ることより実感体感できたことが大きな収穫でした。

呼吸の仕組みを具体的に身体をとおしてわかるってとてもわかりやすい。今まで自分の思い入れだけで語りをしていたその姿を客観的に見詰められるようになった気がします。

ウ゛ォイストレーニングとともにお話ぶりのトレーニングまで教わった気がします。

はらわたがにえくりかえる気持ち おなかをさわって自分が口先だけだったのを実感しました。


会への要望
素晴らしいワークショプでした。年一回こした会があったらいいと思います。会員の親しい交流の場になると思います。役に立つことばかりで心から感謝の一日でした。
ありがとうございました。

発声の講座をとても楽しみにしていました。 また次回があればうれしいです。
ワークショップに参加できたことを感謝しております。

今後もこのような会をひらいてほしい。切磋琢磨は必要。

午前午後を通して 理論的にワークが進められていてとても勉強になりました。
リラックスの大切さも
すぐに満員になってしまうイベント参加募集の仕方をもう少し考えてください。
良い企画に感謝します。ありがとうございました。

とても楽しい時でした。

スタッフのみなさま お疲れさまでした。この機会をつくってくださってありがとうございました。

とてもいい企画をありがとうございました。気づきがいっぱいありました。今後にうまくつなげたいと強く思っております。

今年は記念事業が盛りだくさんでとても楽しみにして参加していますが 担当のみなさま ほんとうにありがとうございます。

今年は記念大会ということですが 毎年すこしずつ このように続けていただけたらありがたいです。ありがたい一日でした。感謝の一日でした。

今まで語りというのは身体表現であるという視点が抜けていたという気がします。身体は二次的 三次的感じがしていたのですが ワークショップをしていただき よかったと思います。ありがとうございました。

.....感想は まだ多数あります。多くの気づきの種が いつか芽を出すでしょう。わたしは語り手たちの会のメニューにフィジカルな面が抜けていることからひとつの提案をしたのですが これでは片手落ちであることをよく知っています。スピリチュアリティが無いのです。開く つながる は本来 どこにつながるのか...閉鎖回路ではないのです。....内観し 自分を感じる そしてひらく ミクロコスモスはマクロコスモスに瞬時につながります。ここではじめて連環ができる 我は汝 汝は我 自らの神性は他者の神性とつながり大いなる存在とつながるのです。それでも第一歩には違いありません。永実子さん のりこさん ありがとうございました。ひろみさん ビビットさん 受付他 心を砕いてくださりありがとうございました。櫻井先生 アンケート用紙ありがとうございました、末吉さんご心配をおかけしました。参加者すべてのみなさん ありがとうございました。忍さん 胸をお借りしました。荷物を運んでくださってありがとうございました。




   

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   今日はワークショップの持ち物について電話とメールで朝から連絡しました。わたしは煩雑な連絡業務が苦手です。ところが電話を受けた方で見かねて手伝ってくださる方がおいでなのです。ありがたかったです。西野さん 徳岡さん 櫻井先生ほんとうにありがとうございました。 末吉さん ご協力ありがとうございました。

   語りの講座のおやすみ時間に受けたので 苗字だけの方も多く 連絡のできない方もおられますので この場を借りて連絡させていただきます。

1 楽な服装で
2 靴下をはくならあれば足袋型 五本指
3 まくらになるような本
4 気になる方は床にしくバスタオルなど
5 水分


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   古武道のワークショップに行きました。武道というのは人を殺すためではなく活かすためのものだと聞いたことがあります。...まさか!?と思いますか?それとももっとも!と思いますか?

   さて 出席者10人のうち女性はふたり もうひとりはまだ若い方 男性も女性も武道を実際にやっていらっしゃる方ばかりですから スポーツに縁のない50過ぎのおばさんは奇異に見えたことでしょう。...ところが語り手たるわたしにとって とてもおもしろいワークショップだったんです。

   身体のなかで筋肉は重要な位置をしめています。わたしは膝痛で杖をついて歩く暮らしをしていたのですが 膝の痛みは筋肉を鍛えることで軽減します。そして原因はどうやら股関節にもあるらしいことに気がつきました。

   自分のたいせつな身体について 実はわたしはちっとも知ってはいなかったのです、気づかなかったのです。顔や髪型のように 関節や筋肉 そしてインナーマッスルがどんなにたいせつかということを....。背骨は身体を支えるだけでなく共鳴板でもありますし 声は喉からだけ出ているのではなく 体内の臓器にも反響しているのです。

   さて お話が脱線してしまいました。そのインナーマッスルの鍛え方なんですが イマジネーションをつかってできるんですね。それだったら語り手にうってつけでしょう?胴体にボールが6個ならんではいってると想像し そのボ-ルを動かす。....からだの芯が熱くなって 汗がでます。イメージする力って身体の中を動かしてしまう!!

   また動作をするとき 腹をつかう。 足を動かすのではなく 腹のなかを動かすことで足が動く...うまくいくと快感!です。わたしの直観では役者の唐沢さん....古武道をやっていそうですね...違っていたらすみません。 古武道から舞いや踊りが派生しているので 講師の動きは一分のムダもなく美しい...惚れ惚れしますね。

   日本の古きものにはゆるぎない力があります。古武道にせよ 山の民にせよ 古神道にせよ 森羅万象につながる叡智があります。もっと伝えひろめられるべき...なんともったいないことでしょうと思うのです。自国の文化を知らないものはコスミポリタンにはなれないし 外国のひとから尊敬も得られないと聞きますが わたしたちは日本のよきものをもっと探り 我がものにしてよいのではないでしょうか...RADAでアレクサンダーやスタニフラスキー 西洋のよきものを学んだことから 日本に眼が開けていったわたしがいうのも何なのですが....

   ルネサンスにも書いていますので もっと辛口 もっと奥が知りたい方はそちらにもどうぞ おいでください。
(左のリンク先をごらんくださいね)


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......遠い森はできるだけ客観的に伝える、ルネサンスは自分の内側を凝視めると書き分けていくつもりでしたが、実際はなかなかむつかしかったですね。....昨年LTTAの講座でキャシイミヤタさんの他のもうひとりのファシリテーター ポーさんがわたしの目を見詰め手をとって言われたことをこのごろ思い出します。「あなたは深い井戸を持っている、その井戸からくみ出すのです。ストーリーテリングや絵やその他のアートで...そして伝える...」わたしのくみ出すものってなんだろう

....遠くイタリアの古い礼拝堂のラピスラズリの青で彩られた天井画に描かれていた啓示は....鳩は魂 水はいのちであったでしょうか?....今 なにをすべきか...それは常にそして永遠の課題です。

 ラヴェンナの皇女ガラ・プラキディア廟に飾られた5.6世紀のモザイク画「永遠の生命の水で癒される魂」....

    
    上手い下手では決してないと思うのです。笑わせる技術 酔わせる技術はたしかにあり それを求めて自分の語りを磨くことは語り手にとって 魅惑のミチでありますが おそらくそれよりたいせつなものがある....つくりものでない 語り手の魂をとおった語りがもっとも聴くひとこころに響き 聴き手の魂を癒すのではないでしょうか。

  ....想いがたいせつか、表現で高めることができるのか揺れに揺れた三年間であり、やめるかつづけるか悩んだ三年間だった........四年前研究セミナーの折に書いたことばですが わたしは今 想念の奥底の...魂から出づることばで インスピレーションによって貫かれた身体と感覚のすべてで語りができたら....と切に思い、許された残りの時間で実現したいと願っています。




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  時はさらさらさらさらしのびやかに流れてゆきます。掌に汲んだ澄んだ芳醇な酒のように深く味わい飲み干さないと指のあいだから零れ落ちてあとかたもありません。.....遠い遠いことのように思われたワークショップも一週間後に迫りました。語り手たちの会30周年企画のイベントに当初は入れてもらえるとは思わなかったのですが ことのほか支持をいただきとてもうれしく思います。

  語りの学びは得てして 歴史や再話など頭ですることに傾き勝ちですが 身体と感覚をひらくことが 語り手をどんなに自由に豊かにするか知っていただきたい….この試みを体験しともに愉しんでいただけたらと願っています。「演劇はストーリーテリングである」とRADA…..英国ロイヤル演劇アカデミーの前校長 ニックさんはいいました。….けれども語りも演劇に学ぶことはたくさんあります。なぜなら 今の語り・ストーリーテリングには 身体と感覚をつなげる学びの場がないからです。
  (日本の古典芸能や古武道など……には実に豊かなヒントが隠されているのですが それは体系化されにくく ごくふつうのひとがごくふつうに学びにくいのが実情です 世阿弥の著作などを読まれるのもいいでしょう)

  しかし 演劇を生半可に取り入れることは両刃の剣でもあるのです。わたしはかって演劇的...といわれる語りをいくつか聞いたことがあります。しかし、ときにそれは自分のことばで語る語りではなく 朗読でなく ひとり芝居でなく名状しがたいものになってしまうことがあるように思います。

  語り・ストーリーテリングの捉え方はそれぞれですが 芝居を少々齧った経験から わたし自身は語りとひとり芝居とは別のもののように感じています。演劇から学べるものは基礎的な訓練 そしてそれをとおして自分の身体と心のくせを知ること 台詞の立て方(声色をつかうことでは決してありません) などではないでしょうか?  自分とどうつながるか 聴き手とどうつながるかという根本的なことは語る自分のうちを照らすこと そして語る場を踏んで聴き手に鍛えてもらうしかないのかもしれません。

  ルドルフ・ヌレエフに見出された世界最高のダンスール・ノーブル(王子役) 今来日中のパリ、オペラ座のエトワール(最高位ダンサー)マニュエル・ルグリが新聞紙上でこのように語っています。....「まず自分を知ること、他者に心を開くこと。今日の私は、そうして築かれました」

 

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    62年前 わたしの父は静岡県の下田で玉音放送を聴きました。徴用された父は下田で松の根っこ堀りに従事していたのです。松の根を掘り油を絞る....資源の無い日本はそこまで追い詰められていました。 太平洋戦争を起こした目的は聖戦などではなく資源と土地の確保 亜細亜の盟主になることであったのでしょう。近年でも戦争の目的は変わりません。資源とそして宗教です。

    結核を患った父は丙種の合格でした。戦争末期 装備だけでなく人員の大幅な磨耗に政府は年長者や年のいかない者や身体の万全でない者まで刈り出したのでした。父は最初から下田に配属されたわけではありません。訓練を受けたあと 船で南方に行くことになっていました。....ところが集合時間を間違えて 急ぎ船に向かうはしけの上で 煙を吐いて出航する船を見送ったのです。

    南方に行かれた方々はほとんど戻ってはみえませんでした。水漬く屍 草むす屍となられました。戦闘でというより 病や栄養失調で亡くなられた方が多かったようです。遺族の書かれた手記を読みますと 戸を叩く音がした...とか 夢枕に立ったとか 御霊が遠く幾千里の海を越えて別れの挨拶にこられたという記述が多いことに驚かされます。

    父の親友も戻ってはきませんでした。....父は天城越えをし徒歩で埼玉に帰り官吏に戻りました。県庁の焼け跡で片付けをする父の横顔の掲載された新聞を見せられた遠い記憶があります。....父は昭和23年 お見合いをし母と結婚し 二男二女をもうけました。....こうしてこの世に生まれた経緯 いきさつ...を思うとわたしはとても不思議な感じがするのです。そしてほんの少し 生を受けたことの重さ・負託を思うのです。

    わたしは 語り手を天と地をつなぐ者だと感じています。天意をしろしめすこと....この天意とは一定の宗教のものではありません。あまねく宇宙意志といったらいいでしょうか....この宇宙意志にそれぞれの国でそれぞれの名前がつけられました。人格神としての神もあれば偉大なエナジーとしての捉え方もあります。....しかし一族の神と限定したとき 自らを選ばれしもの選ばれし民としたとき 戒律や規律に動かされるようになったとき 宗教は堕落してしまいました。我が教えのみを正しいと断じ 他者を苦しめることもいとわないものに変質してしまったのです。宗教の名における戦争という真の神の意に沿うはずのないことが起こるのはそのせいではないでしょうか。

    しかしながら 宇宙意志は存在しますし 目に見えない世界は存在します。 そのメッセージ 楽しさ やさしさ 美 正義 喜び 犠牲 崇高 畏れ 障害を越えてゆく強さ 生と死 光と闇と再生をものがたりをとおして伝える  それが語り手のひとつのやくわり だとわたしは思っています。 それとともに今は亡きひと ことばなきひと の代わりに語ることも語り手のやくわりであると感じています。


    今日はお盆でもあります。亡きひとびとに想いを馳せましょう.....おとうさんお元気ですか...おさだおばちゃん...仁おばさん...お磯おばぁさん.お懐かしいです...一樹さん....あなたの娘は元気で今日わたしの元におりますよ...直弘 ねぇちゃんはこうしているよ あなたとの約束はまだ果たさずに...あなた.....わたしはまだ戦っております....おじいちゃん....わたしは充分に子どもに教育をしてやることができませんでした....わたしがいつかそちらにいくまで...どうか見守っていてください....わたしが為すべきことを為してゆけるように....

 

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人を愛そう。
一緒に分け合おう。
働こう。助け合おう。笑おう。
遊ぼう。教えあおう。習おう。
楽しく暮らそう。
愛されなくても。遊べなくても。
助けられなくても。
愛そう。守ろう。

憲法前文  14歳女子

これは2003年5月3日 朝日新聞の憲法前文の特集に寄せられた 14歳の少女の”前文”です。池田香代子さんはじめ多くの識者が書かれたなかでこの前文がことにわたしの心に沁みました。

もともとの日本国前文後半部分です。
.....

日本国民は、恒久の平和を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想を
深く自覚するのであつて、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、
圧迫と偏狭を地上から永遠に 
除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、
ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに 生存する権利を
有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、
自国のことのみに専念して
他国を無視してはならないのであつて、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、
この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、
他国と対等関係に立たうとする各国の
責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、
全力をあげて
この崇高な理想と
目的を達成することを誓ふ。


  今から62年前戦争は終わりました。井上ひさしさんの本によれば当時の日本人の平均寿命は男性が23.9歳 女性が37.5歳だったそうです。男たちは戦地で戦いましたから寿命がこんなに短かったのですね。しかし死因の2/3は餓死だったそうです。満州に開拓に行ったひとも背後からロシアがせめてきて32万人のうち8万人が亡くなったそうです。やはり死因は餓死が多かったようです。道中 おなかがすいたと泣く子の顔を手ぬぐいで隠し 川に投げ捨てるという悲惨なこともあったようです。

  ヒロシマナガサキでは多くの方々が生きながら焼かれました。沖縄では多くの民間人が亡くなりました。東京大空襲ではひとびとは火に追われ逃げ惑いました。わたしが行っているデイサービスのおばぁちゃまの話では鉛色の死体が何千体も並んでいたそうです。....それだけでなく戦争はひとを鬼畜と化し 近隣の国のひとびとをもまきこみました。

  日本国憲法はあの長い悲惨な太平洋戦争という闇ををくぐりぬけてきた日本人が手にした光であったと思うのです。アメリカから与えられた憲法というひとがいます。....けれどもこの憲法をつくるにあたっては日本人も参画しています。武器を持たないと宣言することを明言した憲法は今までどこにもありませんでした。世界を数十回焼き尽くすことのできる武器が各国に配備されているという今 日本の憲法はひとつの希望ではないでしょうか?なにがあったにしろ憲法(国のきまり)があったからこそ 日本という国は国の名のもとに直接的に他国のひとの生命を奪わずにすんだのでした。

  戦争を体験したひとたちはしだいに年をとってゆきます。今 路上で憲法を守ろうという運動をしている方々がみなお年を召していることにわたしは驚きます。実際に戦争を飢餓を抑制と専制を経験し,たいせつなひとを失くしたりその苦しみを見たひとたちはやむにやまれぬ思いで炎天下また雨のなか路上にいらっしゃるのでしょう。

  日本国憲法を変えようという動きがたかまっています。そしてそれはアメリカの意向でもあるのです。自民党は民主党の分裂を画策するでしょう。こうしたなかで全国で憲法の前文をかたる 憲法9条を語るつどいがひらかれていることは小さな希望のあかしのように思われます。この憲法をうしなうことはおおきな希望をうしなうことになるからです。

  わたしは語り手はカナリアのようなものだとも思うのです。わたしたちの生命やしあわせをゆるがすようなことを察知して 歌声で知らせるカナリアだと.....語り手は神話を語ります。太古の語りとともに繰り返し繰り返す神話のモチーフを語ります。太平洋戦争という闇...その嵐のなかにさえあった あたりを照らすような ひとの心 光をも語ります。そしてわれらの勝ち得た希望日本国憲法を語ります。




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   昨日 語り・ルネサンスに『神話』について書きました。よかったらお目を通してください。....わたしは昔 たいそう読書好きの子どもでした。小学校の図書室の蔵書は百科事典をのぞいて読み尽くしたのでそれからは毎日5キロの道を14インチの自転車を走らせては浦和の県立図書館に通い毎日三冊の本を借りては読んでおりました。

   ジャンルを選ばずなんでも読み 図書館から借りた本の他にも婦人公論から暮らしの手帳 父の読んでいた週刊朝日、活字とあればなんでもよかったのですが、どちらかというと民話は苦手の部類に入ったのです。おなかがいっぱいの時は食べないよほどお腹が空いたときに手をだす”最中”のようなものでした。神話と民話の関係は神社とお寺の関係に似ているように思います。わたしは神社の参拝のほうがお寺より好きです。神社は清明な気がただよっていますが お寺には人間の業のようなものとか湿った小暗いものを感じるのでした。

   ですから神話の他は ファンタジー SF (サイエンスフィクション サイエンスファンタジー)それから伝奇モノに惹かれていったのです。それがなぜだったのか J.キャンベルの著作を読んでいるうちにつかめたように思います。以前にも書いたのですが 神話について検索すると若いひとたちのサイトにたどり着くことがよくあります。彼らは神話や神話に登場する神々・英雄たちををモチーフにしてものがたりをつくったりしているのです。ディアドラでさえ彼らのかっこうの材料でした。

   けれども これは子どもたちに限ったことではありません。ヒットしているゲームは神話を下敷きにつくられていることが多いし 映画もそうです。....「スターウォーズ」は実に神話的です。父と子の葛藤 光と闇 ルーク・スカイウォーカーが父を光のなかに取り戻したのは父の仮面をはがしたときでした。『マトリクス』のネオは闇 苦難を経て神として甦りました。『ハリーポッター』も闇との闘いを経て 成長してゆきます。捨てられた子どもが王になるというのも神話のテーマのひとつです。

   わたしたちは神話的なものに実によく反応します。わたしたちのなかに埋め込まれているなにかが束の間 甦るようにも感じます。不思議なことに世界の神話には共通するテーマがあります。創生、闇と光の戦い、滅亡と再生...あるいは子殺し..親殺し.失ったことにより宝を得るというテーマ....0一方昔話にもスタイルと要素があります。わたしは神話を根と幹のように昔話を枝葉のように感じてもいます。昔話は太古から真実をあるかたちで伝えてきたことに間違いはないのですが、口承で永の年月を伝えくるうちに時代の流れによって変貌してきた...神話が原初のかたちを比較的に保っているのに対して 昔話は大きな影響を受けたのではないかということです。

   ことにケルトにおけるキリスト教 日本における仏教の伝来は大きなものでした。日本人の魂の祖 縄文人にとっては山そのものが神でした。しかし山の神も山の神の母なる神も貶められ鬼や山姥 もっと卑小なものに姿を変えられました。昔話では和尚さんや小僧さんが確固たる地位を占めるようになってゆきます。ケルトでも同様にもとからの神はちいさくなって妖精などにすがたを変え ほそぼそと生き延びてきたのではないでしょうか。

   わたしたちは神話的なものに心を動かされます。力尽きるまで闘った英雄たち 英雄たちの通過儀礼としての冒険 荘厳な夕焼けのあと闇が落ちるような 王族や文明の終焉。そして神々や英雄たちの再生 それらは今もなお メディアをとおしてかたちを変え繰り返し繰り返し 呼びかけるメッセージですね。 それはとりもなおさずわたしたちの人生そのものをあらわしているからではないでしょうか。日々のなかでわたしたちはいくつもの小さな闇と戦い あるいはくぐりぬけ 再生します。そして わたしたちは人生をかけて個としての魂の再生を果たすのです。神話はそのことに大きな力と勇気を与えてくれます。



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 「プロとして」とか「プロ意識を持て」とかよく耳にしますが、日本ではプロフェッショナルという言葉の定義がしごく曖昧のように思います。プロだと宣言してしまえばだれでもプロなのです。セミプロというまさしく曖昧なことばさえ通用するくらいで たとえばセミテーチャーとかセミパフォーマーとかセミアクターがありえないように本来アマチュアとプロフェッショナルのあいだには明確な区別があるのではないかと思います。

  
  ではプロとはどういうものでしょう。プロは依頼されて仕事をする、そして高度な知識と技能でクライアントの期待に充分応えその対価として報酬をもらう。医者や弁護士でしたら定義は簡単ですね。パフォーマーの場合はどうでしょうか?お金をもらえばプロ...という考え方もありますね。それではいくらいただけばプロなのでしょう。500円のチケットではプロではない? 2000円なら? そのことを生業..なりわい....にしていたらプロなのでしょうか? 教えることができたらプロなのでしょうか?


  わたしはほんとうはとても気が小さいので 前々回のブログを読んでもし気をわるくなさった方がいたら申し訳ないとおろおろしております。けれどここは自分としては譲歩できない揺るがせにできない一点なのです。わたしにとってプロの語り手とは 高い志と知識と技能を持ち 内部からでなく社会のどこからか依頼されて語り 語りをとおして愉しませ感動させ依頼者の期待に応えるパフォーマンス...を水準を落とさずに常にすることができ その報酬を得る語り手なのです。但しこれは今現在の定義でこれから変わってゆくかもしれません。またこの定義は自分の基準であって誰にも押し付けようとも思いません。


  現在 日本には昔話を語るための講座 ストーリーテリングのための講座はあっても学問的体系と高度の技能の習得を伴った語り手訓練プログラムはないように思います。わたしがプロ...ということばにこだわるのは語り手たちの会のなかでプロになりたいプロを育てたいという萌芽があるためかもしれません。そうした意気込みがあるということにわたしは感嘆します。


  なぜならものがたりを一言一句覚えるのではない 真のプロのパフォーマーを育てるのは決して生易しいことではありません。それにはお金と時間がかかります。学ぶ側にも相応の覚悟が必要ですし 輩出させる機関はしっかりした理念を持ち 理念を実体化させる有効なプログラムを打ち立てなければならないでしょう。そして認定をする必要も生まれるでしょう。そうなってほしいと祈らずにはおられません。


  とても無理だわ...とあきらめないでください。あなたがもし本当に望むなら学ぶ方法はいくらもあります。そしてわたしは思うのです。なにが大切といって志に如くものはないと....あなたが語ることが好きなら 語りをとおして熱いまっすぐな 清らかな 楽しい 切ない 美しい まことのやさしさ まことの勇気 不思議の世界 妖しの世界を伝えようと望むならプロになるならないはそう大きな問題ではありません。...そして道はどこへつながってゆくのやら 誰にもわかりはしないのです。


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   きのうはひさびさのデイサービスでした。1時間前にカフェで構成を考え 100均でボールを三つ買い求めました。市内には小学校や公共の施設をつかったデイサービスが6箇所あります。規模はそう大きくなく6.7人から20人くらいですがその他に病院が運営しているもっと大規模なデイサービスもあります。わたしが関わっているのは小規模のデイサービスで 回数の差はありますが6箇所ひととおりうかがっています。

   青毛小のデイサービスはまだ二回目で前回から一年あまり経っていたのですが みなさん覚えていてくださって「たのしみにしていたんですよ」と眼を細めてくださる方もいました。ちょっと心配だったのですがそれで元気100倍 最初はボールをつかった紹介ゲームからはじめました。ボールをつかうのはワンクッションおくことでゲームに参加しやすくするためです。「苗字じゃなくて名前でもいいですよ、ミヨちゃんで~すとかね」そこから もう笑いの渦でした。そのままボールをつかったさまざまなゲームをしました。ことばのあそびや演劇のエクササイズを組み合わせたものです。

   笑って笑って大騒ぎのあと 「こぶとりじいさん」を語りました。持っていった太鼓を打ってトントコトン トントコトン 踊りもしました。耳の不自由な方もいるのでことばをはっきりするだけでなく全身で語ります。高齢者の方々はびっくりするほど真剣に聴いてくださいました。語り終わったあとで 「弟はそれから(こぶがふたつになったあと)どうしただろうね」「かわいそうだね、なんだか心配だよ」「つづきが聞きたいね」.....しめた!!です。

   ここで時間があれば みんなで順番におはなしのつづきを語ってもらいます。つまり語り手養成のワークショップとそう変わりがないことをしているんですね....今日はタイムオーバーになってしまったのでこれでおしまいにしましたが「笑ったね」「涙がでるほど笑ったね」「ことばあそびって楽しいね」ということばにもまして ともかくわたし自身がたのしかったです。

   高齢者の方々はじつに豊かな想像力 創造力 個性 それに人間としてのやさしさや深さを持っていらっしゃいます。ゲームを持ってきてもまったく違うバージョンになってしまってこちらがびっくりすることがよくあります。子どもたちとのときもなくはないのですがこんなに顕著ではありません。そして水を向けると さまざまな歴史や風習を語ってくれます。足入れ婚とか戦争体験とか それは実際に歴史をくぐってきた生身の証言です。

   高齢者の方々が楽しみながら自由に思うことを語ってくださるためにわたしがさせていただくことはそう多くはありません。ハダカで飛び込むこと してあげるという高みに立たないこと ペースをあわせ待つことを知りゆだねること まとめれば なにをしてもなにをしゃべっても安全だと みんな大好きだと身体全体で伝える....それだけです。内緒ですが デイサービスはわたしにとって とっておきの喜びなのです。



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   ブログを読んだ方から「あなたは語り手以上のものになりたいのですか」と問われて わたしはハタと一瞬ことばが出ませんでした。書くということもやはりむつかしい...書くほうが高揚しているときは 客観的にと思ってもことばが一方に振れやすくなりますし 読む方の立場やその日の心持ちによっても受け取り方は違ってくるでしょう。

   語り手として今後も精進を重ねたいという気持ちに変わりはありません。わたしはまだまだ未熟でまだ学ぶことがたくさんあり そのことをたのしみたいと願いこれからひらかれるであろう扉を思いわくわくもしています。 呼吸 発声 身体の調整 感性を磨くこと 感覚をひらくこと そしてそれらを束ねるすべがあります。 そのうえに 人類が語り伝えてきた夢やあこがれ 光と闇が織られた神話や伝説 歴史などの膨大なものがたりやひとびとの個のものがたりのなかから 自分の語るべきものがたりをくみ出したり 美しいことばとなって湧き出るように鍛錬することがあります。

   そのようなことを学ぶ道すがら気づかされたことがあります。....語ることは 語り手自身のすべて 感性 知性 知識 なにに心動かされ なにをたいせつにしているか を知らずにあらわしている もっと耳を澄ませばあこがれや夢 心の悩みやトラウマさえ聞き取れる...語り手は語ることでその語り手の人生の今をものがたっている....ということです。

.......それで答はもう出たようなものですね。ひとの胸に響く語りをする一番の近道は自分自身をみがくことに尽きるのではないでしょうか。けれども どのように美しい玉であっても懐を開かなくては見ることができません。読み聞かせや一言一句の語りには自分を小出しにすることで(自分をひらくという)ストレスを軽減するという側面もあるのではないでしょうか。それはそれでよいと思います。要は語り手ひとりひとりが語ることになにを求めるかにかかっているのです。

   魂に響かせる...魂をカツウツというもともとの意味に向かってゆこうとする語り手は他の多くの芸術とおなじように自己開示なしには行き着くことはむつかしいでしょう。しかし このひらく...ということが決してむつかしいことではないのだということ 多くの語り手が苦心していることが実はたのしみながらできるのだということを わたしはイエローボートの山下さんやその他のワークショップでまなびました。自分の身体や感覚とつながる 自分自身とつながる 今の自分を受容することが 知らずに凝り固まっていた自分を解放してゆきます。ひとは実に多くのものに縛り付けられて生きている....その根本は自分にあるのです。身体を自由に 眼をほどくことで 感じ方や考え方がどれだけフリーになることか 自然につながってゆくか理解していただけたらとおもいます。

  なぜ 読み聞かせをすすめ 子どもたちに本を読ませようとするのでしょう。知識のため 学力UPのためという親御さんもいるでしょう。情操教育という識者もいるでしょう。たくさんの価値観があることを知る さまざまな情報を知る 自分で考える力を身につけるという教師もおりましょう。人類の資産である文学に親しむという考え方もあるでしょう。夢見る力 想像力を育てたいという方もいるでしょう。生きてゆくための楽しみのひとつを伝えたいという考えもあるでしょう。 ひとの数だけ答はあり それぞれ正しいと思います。....けれどみなさまはお気づきだと思います。 読書はひとを育むもの 自分自身の選択で自分の場所で。そしてその根底に人間の可能性を信じ 他者を自分とどうようにいとおしむ視線があってほしいと望むのはわたしばかりではないと思います。

  なぜ 語りをするのか その答も語り手の数だけあります。語りたい。子どもたちの喜ぶ顔が見たいから。語っているとなんだかしあわせになる。自己表現したいから。.....もっともっとたくさんありますね それらはすべて正しい答です。.....わたしは....ともにたのしみたいし 魂を震わせる語りがしたい.....聴き手と語り手の一期一会 溶け合うその刻その場にひとつのかがり火が燃え上がるような語りがしたい.....生と死...愛...光.なぜここにいるのか....どこにいくのか.....なにをすればよいのか....一瞬でよいからあかあかと心に響くような語りがしたい.....これは夢ですけれど。昔話とは生の肯定であると読んだことがあります。語りはまさにそういうものだと思うんですね。よういじゃないけど生きることは悪くない あきらめちゃいけないと伝えること。ものがたりに託して真実を伝えること。

  わたしたちは語り手であるまえに人間であり人類の末裔であり 歴史の端っこにおります。 はるか過ぎ去りし時の彼方に遡れば オシスイシリス イザナギイザナミ 多くの神々がおられ数千数万(いや もっと多いかな)のご先祖が生きて愛した結果として澄んだ水の溢れる緑のこの地に生を受けました。さて、この世界をこれからつづくであろう後裔にゆずりわたすことができるでしょうか。いとけない子どもたちにかくもわたしたち自身が過酷にしてしまったこの世界をゆだねるにあたり わたしたちにはすべきことがたくさんあるように思います。

  そのために心ある語り手ひとりひとりの自覚によりすでに各地でさまざまな試みがなされております。わたしはふと思うのです。目線を語りという狭い部屋のなかに置くのと 窓を開け あたかも大地のうえに立ち 空を見上げ 四方を見回すように また悠久の歴史 銀河のながれ ひとのいのちのつらなり 現実世界 そのなかに存在する個としての 語り手・我を意識して語るのとは どこかが違ってくるのではないだろうかと.....語りはツールである 目的ではない....というのは語りのおおもとが祈りであったことからもあきらかではないでしょうか。そしてその祈りの中身は二万年前も今もそう変わらないように思うのです。




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