読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

筋肉痛から考えること

2007-10-31 22:56:11 | 日々雑感
あまりの体の痛さ(いわゆる筋肉痛)で、本を読むこともなくただひたすらにじっとしているのだが、じっとしていても『いやーなニュース』は聞こえてくる。というかじっとしているがゆえに尚更強く響いてくる。

いわく、日付偽装、産地偽装、或いは官民癒着。

これって、世間は「大犯罪」のように弾劾をしているが、実はつい最近までそれほど気にしていなかったことではないだろうか。
だから、当事者たちは、今になって「とんでもないことをした」と思っているだろうが、はじめたころは「これくらいならいいだろう」と思っていたはず。
そして、前防衛事務次官やNOVAの社長たちは「俺だけは許される」と思っていたんだろう。
実害さえなければいいのだ、と思っていたはずである。

なぜなら、そういう考え方が主流であった時代があったからだと思うのだ。

勿体ない、会社のため、地位が上がれば許される。
ということが、社会全体のルールよりも優先されていた時代が確かにあった。

そして今もそういう考え方を持っている人たちは多い。
他の人がやったことについては正邪の判断を厳しく行えるのだが、自分のこととなると『甘い』というのは仕方のないことではあるが、今はその差が非常に大きくいと思える。

自分は許せるのだが他人は許せない、許せないどころかどこかに非はないのかと鵜の目鷹の目で探している。
格差の時代、などといわれ、その格差は正当な理由で発生したのではない、と考える時代である。

そういう社会であるということを常日頃から自覚し自らを律していないといけないのである。
なのに、まだまだ以前と同様の考え方をしている人が多い。

社会の環境が著しく正義を求めていることについてよく理解をしていないといけない時代になったのである。

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運動の後遺症

2007-10-29 20:10:43 | 日々雑感
昨日、ソフトボール大会があった。
3試合をした。

試合の最中から両太ももの前側が張って痛い。(投手だった)
そして時がたつにつれて痛いところが多くなり、動けなくなったし、なんといっても疲れていたので、早々に就寝。

しかし、眠れたのは始めのころだけで、体中のあちこちが痛くて眠れない。
そして、今日は一日中痛みが続いている。
まあ、原因が分かっている筋肉痛であるので、時が解決してくれると思うのだが・・・

年をとると、筋肉痛が一日とか二日遅れてくるのだが、それを過ぎると、当日から痛いらしい。
ともかく、今日は痛みをこらえるだけである。

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ローマ人の物語29・30・31 終わりの始まり(上・中・下) 塩野七生 新潮文庫

2007-10-28 19:35:25 | 読んだ
この「終わりの始まり」の巻からローマは衰退していくらしい。

つまり「終わり」というのはローマ興隆の終わりで、「始まり」はローマ帝国の衰退の始まりなのである。

この終わりの始まりの兆候は、ローマ皇帝の中で最も評判のよいマルクス・アウレリアスの時代にあると、著者は言う。

マルクス・アルレリアスは哲人皇帝と呼ばれるほど、哲学を愛し、哲学的に生きようとした人である。
しかし、皇帝としての仕事は哲学的に生きようとすることとは相反する。
自分の資質と相反する仕事ではあるが、彼は真正面から皇帝の仕事を行う。

著者は、この人物が賢帝と呼ばれていることを認めつつも、皇帝としてのあり方もしくは皇帝になるまでの経歴に問題があったと言う。

この皇帝になるまでの経歴、ということが、私に考えさせてくれるのである。
五賢帝が続いたのは、現皇帝が後継者を指名するにあたって皇帝としての最適の人材と判断した者とした者を養子としたことにある。
と著者は言う。

実子がなかったということもあるが、皇帝とは「血」だけではできないという「文明」があったからだと私は思う。

この「ローマ人の物語」は「リーダー論」でもあると読みながら私は考えている。
リーダーとは何か?
という問いかけがなされている、と考える。

五賢帝時代というのはリーダーが真のリーダーであった時代である。
また、これまで読んできたところまでは、悪であると認められている皇帝でさえ、真のリーダーとは何であるかということをちゃんと考えている。その考えと実施した施策がかみ合わなかったとき『良き皇帝』と認められなかったのである。
つまりローマの皇帝たちのほとんどは、皇帝になろうということが目的ではなく、どうしたらローマ帝国がよくなるのかということを目的としている。

それが、この終わりと始まりのあたりから変わってきているように思える。
哲人皇帝と呼ばれるほどのマルクス・アウレリアスは後継者に「息子」を選んだのである。
最適な人材でなくても息子だからか、それとも最適な人材と認めたのか、いずれにしても彼は後継者選びに失敗したのである。

そしてそのことが明確にローマの衰退につながっていく。

人というのはだから面白い、そして歴史という長い期間で判断し分析をすると、その時代を生きている人ではわからないターニングポイントというのがあるということがわかるから面白い。

さて、ローマはこれからどうなっていくのか、楽しみである。
(単行本ではもうわかっているんだろうけれど、私は文庫本で読み進むことにする)

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青春のうた 第45巻 1980年代前期⑤

2007-10-27 18:59:19 | 読んだ
1.花(すべての人の心に花を)/嘉納昌吉&チャンプルーズ 1980年6月

沖縄の歌には独特の旋律があるが、私にはそれがよく響く場合と沖縄の灰汁(あく)のようなものが先立つ場合り、多くが後者であり、好みではない歌が多いのである。

といいながらも、この歌は、やっぱりいい歌だと思う。

思うのであるが、積極的に聴いたり歌ったりするということはないのである。
それは、なんとなく「恥ずかしい」からなのである。

こういうキレイな詩と曲というのは、なんだか恥ずかしい、と思ってしまうのが私なのである。

2.まちぶせ/石川ひとみ 1981年4月

この歌ははじめには(1976年)三木聖子が歌った。
そのときから「いい歌だなあ」と思っていた。
でもあまりヒットしなかったように思う。

その後、石川ひとみが歌い「いい歌度」があがったような気がする。

石川ひとみとこの歌がうまくマッチしたんだろう。

印象的だったのは紅白歌合戦で石川ひとみが感極まって歌えなくなったことであり、せっかくいい歌なんだからもう1回紅白で歌わせたいと今でも思っている。

3.思い出がいっぱい/H2O 1983年3月

この歌も「花」と同じで、キレイすぎて、恥ずかしい。
1970年代後半から80年代は、きれいな歌が多く出てきた。

これはいわゆる「青春歌謡」の流れをくむものだと思っている。
いろいろと洗練されてきているのだが、こういうキレイモノというのはいつの時代でもあるんだろう。

それがこの時期多かった、と思っているのである。

4.ロンリー・ハート/クリエーション 1981年4月

この頃から、この歌のように英語混じりの歌詞があるものが増えてきたように思える。

ポップス色の濃い(脱日本的というカンジ)歌には英語が似合うんだろう、とはいえ、なんだかよくわからない歌詞になってしまって、それに「耳」で覚えられないということから歌に対して「敬遠気味」になってしまった。

この歌は都会的なリズム感とメロディーで、憧れの目と耳で感じていたように思える。

5.桃色吐息/佐藤隆 1985年3月

桃色吐息というと、どうしても高橋真梨子である。
佐藤隆は作曲者で、セルフカバーをしたのが今回のCDに収められている。

いい歌だと思う。
思うのだが、詩の意味がよくわからない。
多分、意味を考えるのではなく「感じろ」ということなんだと思うのだが。

感じるにはやっぱり高橋真梨子の歌のほうがいいのかもしれない。
佐藤隆の歌はすこしあっさりしているように思える。

6.ダンシング・オールナイト/もんた&ブラザース 1980年4月

この歌は、粘っこいというかあくが強いというか脂っぽいといいうか、もんたよしのりの思いのようなものが強く伝わってくる。

大ヒットで、何度も聴いていると、なんだかちょっと「疲れる」感じになったことを覚えている。

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華族夫人の忘れもの-新・御宿かわせみ- 平岩弓枝 オール読物11月号

2007-10-25 22:39:17 | 読んだ
かわせみの女主人『るい』や前の番頭『嘉助』そして女中頭の『お吉』の3人が箱根に出かけているときに、かわせみに華族の第3夫人が畝源太郎の母・千絵と妹千代の紹介で宿泊に訪れる。

かわせみには娘の『千春』と新たに番頭になったばかりの『正吉』そして女中頭代理の『お晴』が留守をしていて、その華族の第3夫人春日井蝶子の世話をすることになった。

夫人はかわせみでの逗留を心から愉しんでいるようであり、花世が仕入れてきた情報をもとに、かわせみでは夫人の品定めなどをしている。

そんな時、かわせみにとっては非情に迷惑な常連客、金港屋の銀三がやってくる。銀三は、最上級の部屋に泊まりながら、なにかといちゃんもんをつけて宿代を値切り、部屋の小物を持ち出し、気に入らないと暴れたりする客である。

番頭の小吉は宿泊を断るが、押し問答となる、そこに春日井夫人が現れ、それを見た銀三はおとなしくなり、普通の部屋に無理にでも泊めてくれと下手にでて泊まることとなる。

ある日春日井夫人と銀三は築地居留地へいき「くらぶ」でばくちをする・・・

その結果は、そして、春日井夫人と神林麻太郎との思い出とは・・・

大きな事件があるわけではないが、こういう展開というのも、あの麻生花世の家でおきた惨殺事件と畝源太郎の父源三郎の暗殺事件の解決がなったあと、息抜き、のようで、落ち着いた話で、これからも「新・御宿かわせみ」が若い世代によって引き継がれていくということを暗示しているようであった。

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アトムと私 館林千賀子 ~読売新聞連載~

2007-10-24 20:38:18 | 読んだ
読売新聞に10月16日から連載されている「アトムと私」は、高校2年で交通事故ににあい頚椎損傷で車イスで生活をしている「館林千賀子」さんが書いている。

舘林さんは読売新聞中部支社社会部の記者で「警察署回り」なのである。
健常者でも大変だと思うのだが、彼女は、車イスでそして介助犬・アトムに助けれられ仕事をしている。

彼女は、介助犬とともに通う大学生第1号として同志社大学に入学し、大学院に進み、今年の4月から読売新聞の記者となった。

在学中に読売新聞中部支社版「幸せの新聞」(毎週日曜日掲載)で「アトム日記」を執筆、介助犬との大学生活を率直につづってきた。
とのこと。

そして今回は新聞記者として、自分のあゆみをつづっている。

「障害者だけど・・・」という気負ったところもなく、かといって甘えもなく、淡々とした筆致で、読者がどう受けとめようと私は私、といったクールというかドライというかそういう「凄み」みたいなものを感じる。

本日24日で連載第7回です。

新聞だけでなくインターネットでも読めます。
「アトムと私」で検索すると大丈夫。
そして、こちらをクリックしても読売新聞OKです。

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ジウ-新世界秩序[NWO]Ⅱ・Ⅲ 誉田哲也 C☆NOVELS

2007-10-23 23:28:26 | 読んだ
いやいや久しぶりに面白かった。

2巻と3巻とを夢中になって読んだのであった。
警察組織の中の人間の葛藤、そして荒唐無稽な殺人鬼たち。
この組み合わせがいいのである。

そして、二人のヒロイン。
根は同じように「愛」に満ち溢れているのだが、その表現方法がまるっきり正反対で、正反対であるがゆえに物語になる。

ときどき、現実世界を皮肉るような表現があって、それはちょっと興ざめというところもあるのだが、何しろ「で、どうなるの?」という興味が先を急がせる。

この手の小説で、いつも、感じるのが動機の曖昧さである。
このジウでもそれらを明らかにしようとしているのであるが、あえて明らかにしなくてもいいのではないだろうか。
それに、この事件の動機なんてなくて、ただ単純に異常をとおりこした、いわば突然変異的な人間が巻き起こした事件、というほうが、なんとなく納得できるように思える。

いわゆる犯人側の人間たちも、二人のヒロインも、突然変異的なこれまでになかったような考え方するので、その考え方を読んだ読者が、動機をそれぞれ考えるのもいいのではないか。

近頃は、テレビが最も顕著なのだが、日本人に「考える」ということをさせず、安易に結論を与えてしまって、それが逆にイライラを募らせているようなきもするのである。

とはいえ、現代社会の閉塞感、何が幸せなのか、何が自由なのか、自由はイイコトなのか、などなどを考えさせてもくれるところもあり、登場人物たちが自分の役割を期待どうり果たしてくれるので、こちら側の読みとか期待を裏切らない展開なので「読める」小説になっている。

リクツなしに(というかあまりリクツを考えずに)面白い物語であった。

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吉田拓郎コンサート中止

2007-10-22 19:53:09 | 観た、聴いた
お知らせ 2009年7月
この記事に多くの方がアクセスしていただきありがとうございます。しかし、この記事は2007年のことであり、本年(2009年)のことではありません。2009ねんのことについては「吉田拓郎 Have A Nice Day LIVE2009 一部中止」としてありますので、ぜひそちらのほうもたずねてみてください。

8月に延期となっていた吉田拓郎のコンサートが中止になった。

当初予定していた日程が『喘息性気管支炎』で延期になり、その延期分が再開されたのであるが、「『慢性気管支炎』に『胸膜炎』を併発のため約3ヶ月の加療を要する」ということで、残りが全部中止となった。

その残りの公演に私がいこうとしていたチケットが含まれていたのである。
12月の最大の楽しみだったのになあ。
もしなんだったら、そのままその町に宿泊でもしてみようか、なんて思っていたのになあ。

拓郎が肺がんの手術を受けてカムバックしてからのコンサートには「これが最期になるかもしれない」という覚悟と悲壮な思いを胸に出かけていたのである。
それは拓郎であり自分でもあったのだ。

もうそういう覚悟というのが必要な「ころあい」であって、明日や未来へ余計な期待をかけずに、このひとときを大事にしなければならないのではないか、なんてことも考えたりしているのである。

いずれにしても、拓郎を通じて人生の色々なことを考えてきたのである、もう一度拓郎の歌声を聞き口ずさめることをただ祈るだけである。

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帝国海軍VS米国海軍 日本はなぜ米国に勝てないのか 文芸春秋11月号

2007-10-21 17:47:37 | 読んだ
文芸春秋6月号で「昭和の陸軍」、8月号で「昭和の海軍」という大座談会を行って、その第3弾としての特集である。
座談会の出席者は
半藤一利、福田和也、秦郁彦、戸一成、江畑謙介、鎌田伸一である。

対談は次の5つに分類されている。
1.日米宿命の対決 ~ルーズベルト家の策略~
2.リーダー、戦略、人事 ~山本五十六vsキング、ニミッツ
3・イノベーションと技術力 ~戦艦大和、ゼロ戦vsヨークタウン、B29
4.インテリジェンス戦争 ~ミッドウェーと海軍乙事件
5.上司と部下、理想の提督 ~東郷平八郎vsファラガット

この対談を読むと色々考えさせられる。
日本のいい部分もあるのだが、それは局所的なものであって、全体として、どう戦い、どう補給し、どう勝つのか。ということがどうも日本は曖昧なようである。

この曖昧なところが日本の大きな弱点のような気がする。
曖昧というのは、場合によっては大きな強みとなるところがあるのだが、戦争という「非情」な仕事を行うにあたっては、曖昧ではダメなんだ、ということである。

何かを行うにあたって、大きな戦略と責任の所在の明確化、というのは今の日本でも行われていないもの、のような気がする。

未だもって、敗戦の教訓は生かされていないのではないか。
それが民族のもつ限界なのだろうか。

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ジウ-警視庁特殊犯捜査係〔SIT〕 誉田哲也 C★NOVELS

2007-10-20 22:08:30 | 読んだ
小説新潮10月号の警察小説特集「警察官は二度ベルを鳴らす」で池上冬樹が紹介していた誉田哲也の小説「ジウ」に興味がわいたので早速読んでみた。

この小説は面白い。理屈なしに面白い。

さて、この小説はヒロイン二人である。

警視庁刑事部捜査第一課第一特殊犯捜査(SIT)特殊犯罪捜査第二係(特二)の門倉美咲(あだ名は「カンヌ」)27歳と伊崎基子25歳の二人である。

この二人は仲がよくない。
ということから面白い。
仲がよくない、というのは、一方的に伊崎が門倉を嫌っている。

門倉が特二にきたのはその「説得能力」が買われたからである。
特二は犯人と直接やりとりをするところである。その際には「一に説得、二に説得で五くらいで強行突破」という警察の方針から「説得能力」は戦力になるのだそうである。

一方、伊崎は武闘派。強行突破にものすごい才能と力を持っている。そして彼女はものすごい過去をも持っている。
だから、生ぬるい説得なんて方法はきらいである。

この二人が主婦を人質に取った立て篭もり事件に出動する。
そして門倉は失敗をして特二を出され、伊崎は手柄をたてSAT<警備部警備第一課特殊強襲部隊>に女性初の隊員となる。

立て篭もり事件の犯人が、別の誘拐事件に関与していたことがわかり、門倉はその捜査に携わり誘拐事件の主犯「ジウ」を追うこととなる。

一方伊崎はSATの厳しい訓練を積む、それはそれは大変厳しい訓練である。

そして・・・

この誘拐事件の主犯「ジウ」を縦糸にして、警察内部の権力争いと、現場での手柄争いを横軸に物語りは進む。

登場人物たちの性格(キャラ)はきっちりしていてわかりやすい。
このわかりやすいところが、物語の複雑さをなんとかわかりやすいものにしている。

この物語では「ジウ」は姿を現さない。
だから「ジウⅡ」を早速買った。

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銭ゲバ(上・下) ジョージ秋山 幻冬舎文庫

2007-10-18 22:03:06 | 読んだ
ジョージ秋山の作品をジックリと読んだことはない。
雑誌で目にして「アシュラ」とか「浮浪雲」とか「デロリンマン」とか「超人晴子」とか知っているけれど、その内容についてまで詳しくは分からなかったし、あまり興味もなかった。

ところが、本屋でこの「銭ゲバ」を見たとき『ああ読みたい』と思ったのである。
銭ゲバが発表されたのは週間少年サンデーで1970年から71年であった。私は中学生時代のころだ。

当時はまだ「銭」より「愛」だの「情」だの「義理」などが勝ると思われていたと思う。
というか、そんな時代が終わりかけてきたんだと思う。
金持ちと貧乏の差が小さくなり、生活環境のレベルが平等に近いと思われるようになってきた。
そして貨幣による価値基準のようなものが日本に根付いてきたような、そんな時代であったと思う。

そういう時代を背景としてこの銭ゲバが発表されたのだと思う。
つまり、みんな「幸福で満足」というようなことをいっているが実はそれは仮面をかぶった者たちが語っていることであって、心の底では「もっと、もっと」と痛切に願っているのではないか、ということである。

この物語は、不幸な生い立ちを背負う「蒲郡風太郎」が、世の中をちゃんと生きるためには自分が幸福になるためには何が何でも「銭」を多く持つことである、という信条(?)のもとに生きるというものである。
ただし、銭のためなら人を殺してまでも、というところが凄まじいというかスゴイというか・・・

蒲郡風太郎の生き方を全面的に許すことは出来ないのだが、どこかで「そうだよなあ」と思うところもある。
また、きれいごとを言ってもいざとなると銭にひれ伏してしまう人たちも一概には軽蔑できないのである。

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警官は二度ベルを鳴らす 小説新潮10月号特集

2007-10-17 22:24:42 | 読んだ
小説新潮10月号の特集は「警官は二度ベルを鳴らす」で、警察小説が4本掲載されている。

「懲戒」今野敏
「ドルチェ」誉田哲也
「撃てない警官」安東能明
「殺生石」桂美人

の4本である。

そして、逢坂剛と佐々木譲の対談、池上冬樹の警察小説の解説がある。

で、私は警察小説といえばなんでもいい、というわけではなく、警察小説大好きということでもない。
たまたま読んだ小説が面白かった。それが警察小説のジャンルであった。という形が多い。

たとえば逢坂剛の「禿鷹シリーズ」や乃南アサの「音道貴子シリーズ」などは、絶対に取りこぼしなく読みたい。
でも、逢坂剛の他のシリーズはあまり読みたいとも思わない。
高村薫の「マークスの山」は読んだが他は読んでいない。

というレベルである。

さて、警察小説は「謎を解く」という推理小説的な部分と警察という組織内の葛藤のようなものが合わさっている、と考えている。

だから一生懸命謎解きをしているときに後で足を引っ張るヤツがいたり、警察組織のなかでの出世競争で謎解きが変な方向に行ったりする、そんなところが面白かったりする。(中にはそれが余計だったりする場合もあるのだが)

今回の4編も、組織の中であがく警察官が描かれている。
でも、こんなことはどの組織でもあることなんだけれどなあ、と思う。
何故警察かというと、一般の組織から較べれば「特異」だからなんだろう。
そして、警察官といえば「正義」を目指しているということが、登場人物たちの性格がはっきりしてくるんだと思う。

今回、対談と解説を読んで興味を持ったものがあった。今回も書いている誉田哲也の「ジウ」シリーズである。

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現代女流作家、華麗なる競演 オール読物10月号

2007-10-16 20:19:26 | 読んだ
現代は女流作家のほうが面白い小説を書いていると思っていたが、このような特集を組まれると、あらためて実感する。

この特集の中には、すでにブログで紹介をした
「天が泣く・新御宿かわせみ」平岩弓枝(9月25日)
「魔境異聞」坂東真砂子(10月4日)
のほか

<現代に生きる女性の危うさ>
として
「みにくいあひる」谷村志穂
「あの角を過ぎたところに」森絵都
「写想家」光原百合
の3編

そして<人事時代小説シリーズ>
「銀河祭りのふたり<信太郎人情始末帖>」杉本章子
「黒い振袖<髪結い伊三次捕物余話>」宇江佐真理
「女難<あくじゃれ瓢六>」諸田玲子
それに新・御宿かわせみがはいって4編である。

現代物の小説では、谷村志穂の「みにくいあひる」が今の女性を表しているなあと思った。その主人公に対して腹が立つわけである。
男女の差別化反対という風潮の中で、おいしい思いをしているのは女として生きているという現実。そのおいしい思いをいつか断ち切らなくてはならないということがなかなか受け入れられない。
物語の最後が「できすぎ」という気がしないでもないが、考えさせられる物語であった。

「写想家」はSFっぽいのであるが、いわゆる「負け犬」と称されている女性の心理をよく追っていると思う。

現代女性を描いているこの3編からは、現代女性が「幼い」ということを感じる。
もっとも女性だけではなく社会全体が「幼い」のだと思うのだが・・・

自由で平和であることが、人間から哲学的成長を奪っているのではないか
なんて思ったりする。
不条理とか理不尽であることが多い、自分で決められない事柄が多いと、覚悟とかあきらめが必要であり、そのためには、自分を納得させる何か、すがりつく何かが欲しいんだろう。
それが哲学であったり宗教であったりするわけで・・・

そういう意味では現代は
「夢を持ち続ければかなう!」とか「うまく振舞えばうまくいく」みたいなキレイごとと超現実的なことが信じられすぎているのではないだろうか。

そんなことをこの3編の小説を読んで思ったのである。

時代小説の3人の作家は「達者」であるなあ、と感心するばかりである。
ただなんとなくなのだが、物語としては達者で面白いのだが、この物語を読んで我が人生で何かを得ることが出来た、という感動が少ないような気がするのである。

多分、今色々なものを読んでいて最も不満なのが、この「感動」を得ることが出来ないということなのである。
その原因は作品にあるのか読者である私にあるのか・・・

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青春のうた 第44巻 1970年代前期②

2007-10-15 20:03:46 | 読んだ
1.ナオミの夢/ヘドバとダビデ 1971年1月

外国の曲なのだが、日本風の曲調で日本人ごのみの歌だと思う。

「大人の歌」っぽい歌詞に、明快な曲調、そして繰り返される「ナオミ」というコトバ。

曲調は「のれる」のだけれど、俺たちのうたではないな、というのが当時の印象だったと思う。


2.イメージの詩/よしだたくろう 1970年5月

この歌を聴いたのは1970年ではなく71年後半以降ではないだろうか。
吉田拓郎が、結婚しようよ、でメジャーになっていくところで、こんな歌も歌っている、というような情報として聴いたような気がする。

ともかく長い歌である。
そして、いわゆるメッセージソングといわれたように、何かを訴える、そんな力があるような気がして、俺たちの歌、という思いがあった。
つまりは大人たちには分からないだろうが、俺たちはこんなことを思っているんだ!という、叫び、があったような気がするのである。

このシングル盤はオリジナルというかその後アルバムなどで聞いたものより短く、つまりは歌詞が省略されている部分がある。

3.悩み多き者よ/斉藤哲夫 1970年2月

斉藤哲夫は吉田拓郎ファンの私としては「されど私の人生」の作者として知っている、しかし、彼の歌は聴いたことがない、のである。

斉藤哲夫って哲学者的な歌を歌うんだろうな、と思っていたが、その後「今の君はピカピカに光って」という歌ででてきて『あれえ?!』ってなカンジだった。

で、この悩み多き者よは、哲学者的な歌である。
でも、今になって聴いても「そうですか」というような印象にしかならない。
若い時に出会っていればなあ、と思うのである。

4.淋しい気持ちで/シバ 1972年4月

シバという人も名前は知っていたのだが、若い頃にその歌を聞いたことはなかった。
また、若い頃は、高田渡や加川良や西岡たかしなどの歌もあまり聞かなかった。

あまり社会的な現象について興味がなかったのである。
どちらかといえば、一人の人間としての思い、のようなものに傾倒していたような気がする。

それと「貧乏な生活」についての歌というのも、なんだか身にしみてつらいので、聴きたくなかったのである。
貧乏で金がなくても「夢」だけは持ち続けたい、という、よく言えば前向きな、実際は現実逃避のようなそんな心持だったようなきがする。


5.夢は夜ひらく/三上寛 1972年4月

三上寛は怨念を歌う人、というのが定番である。

何をもって「怨念」というのかよく分からないのである。
もう我々世代ではあまり「怨念」というのはなかったと思われる。

それから三上寛の歌はあまり放送されなかったので、どんな歌を歌っているのかよくわからない状況であった。

シバのところでも述べたが、どちらかといえばあまり興味のある歌ではないので、熱心に聴くこともなくいたのである。

10年位前にこの人のコンサートを聴いた。
コンサートといったって30人も入れば満員というようなジャズ喫茶が会場である。
その1番前で聞いた。
腹の底からこみ上げてくるようなコトバであったし、なにか諭されているような感じがした。
あまりに近すぎて、ときどきつばが飛んでくるそんなコンサートであった。

6.少年/浅川マキ 1971年10月

今回の第44巻は「アングラ特集」ともいうべきような曲ぞろいである。

浅川マキは「アングラ」(アンダーグランド)の象徴ともいうべき人である。
なんだか「けだるく」、世の中のことなんかどうでもいいような素振りで、実は世の中のことを憂いている、そんなカンジなのである。

で、私はあまり「アングラ」というのが好きではなかった。
屈折したカンジ、というのが、なんだかいまいち、だったのである。

自分が相当屈折しているので、まっすぐ系が好きだった。のである。

といいながら、浅川マキの歌はなんだか沁みていたのである。

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かく戦い、かく死す 柴田錬三郎 集英社文庫

2007-10-14 18:23:40 | 読んだ
新編 武将小説集 である。
著者 柴田錬三郎は「眠狂四郎」とかで有名であるが、私には「柴錬三国志」がいちばんのお気に入りである。

さて、この小説集は8編あり、戦国武将が描かれている。
「斉藤道三」「北畠具教」「武田信豊」「明智光秀」「豊臣秀次」「直江兼継」の6人に「戦国武士」「明智光秀について」という構成である。

その描かれているのが「死に様」というか「最期」の部分なのである。
つまりはその最期が彼の生き様を表している、ということなのだろう。

そして、多分、この年代の時代小説の特徴なのだと思うが「謀略」ということが強調されている。

表に出ている部分、つまりはそれまでいわれていた歴史というか通説から見方を変えて歴史を語るというのがこの頃の歴史小説の特徴ではないかと思うのである。

通説をもっと膨らまして人間を語るという司馬遼太郎のような小説もあるのだが、ちょっと「ひねった」形の歴史観というのも好まれたのだろうと思う。

今は、なんだか「愛」とか「優しさ」のようなものを前面に出して「なんだかなあ」という歴史観になっていて、時々腹が立つこともあるのだが・・・

ここに描かれている武将たちは「男」というものがすごく感じられるのである。
今はあまり「男」とかを強調できないんだろうなあ。NHK大河ドラマの武田信玄や上杉謙信からは迫力というか一流というのが感じられないものなあ。

下敷きになっている歴史がその後改められたりしているので、そのあたり気にはなるのだが「人物」を描いていてそれを読む(感じる)ということであれば些細なことではないか。(この些細なことにも目くじらがたてられる現代が悲しい)

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