近頃というか近年、「倫理」に興味を持つようになった。
その中で「仏教」は、父の死、という現実から、直に接することもあり、目についてものをできる限り読むようにしてみた。
で、よくわからないのである。
まあ本を読んですぐわかるようであれば、僧侶たちは修業する必要がないわけであるから、当たり前といえば当たり前である。
歴史読本2月号の特集は「日本の古寺巡礼」であるが、特集の巻頭は『概説 日本の寺院と宗派』(比叡山延暦寺長臈:小林隆彰であった。
この概説が、これまでよくわからなかったことを説明しているので、ありがたかったのである。
例えば
お釈迦様は、昼は説法の旅に出られ夜は沙羅双樹や菩提樹の林の中で休むので、特定の住居はなかったが、雨期の3ヶ月は外に出られないので王が「竹林精舎」と帰したのが最初の寺院であること。ちなみに平家物語で有名な「祇園精舎「はその後に作られた。
インドでは寺は僧の安居所であり雨期の説法聴聞所であった。
中国の寺は当初は経典の翻驛所として活用されたから「公の建物」だった。
といった基本的なことから順次簡潔にまとめてあり、目からうろこが落ちるような思いで読んだのであった。
特に日本の仏教の流れも説明されており、仏教入門前の基本的事項を押さえることができる。(と思う)
何故、仏教に宗派が生まれるのか、ということについては
「基本的にはもともと仏教は個人救済の宗教であり、個人の成仏、即ち仏になることを最終目的としますから、それぞれがこの世で置かれている立場・時代・個人・性別などで自ずとその修行方法や信仰形態も変化します。ですから仏教のお経も、教え・参考書・生活規範などと多岐にわたります。そこに宗派が生まれるのです」
と説明がされ「なるほどー」とうなずくのであった。
今、日本には192の宗派が存在し、さらにどの宗派にも属しない寺院が相当数ある、ということを紹介して、こう結んでいる。
「まことに驚くべき数ですが、これこそが仏教の特徴とでも言うべきでしょうか。人間の自由意志によってお釈迦様の教えを聴き、信じることが出来る。多くの日本人が神社に詣で仏を信じ、先祖を敬うことを不思議にせず、他宗教をあながちに否定しないのは、仏教にその源があると見ることができるのではないでしょうか」
またしても、大きくうなずいているのであった。
この巻頭の「概説」の次には『巡礼と遍路 人はなぜ癒しと苦行の旅に出るのか?』(同志社大学名誉教授:廣川勝美)が特別寄稿として掲載されており、これもまた巡礼と遍路についての理解を深めることが出来た。
ちょっと曲解かもしれないが、観光とは「癒しと苦行の旅」なのではないか、なんて思ったりしたのである。
この文章の結びも印象的だったので引用する。
「霊場を巡ることには日本人の心が伝わっている。人びとは道の途中の寺院や神社を隔てなく参拝した。長い年月の間に、神の道と仏の道は重なり合いつつ、参詣道や巡礼道として整えられた。そこに神仏和合の精神があった。それがこの国の宗教的心情の根本であるといえよう。」
今の世の中「赤は赤、白は白」として明確にすることが要求されている。
しかし、この世の中は明確にできないものがいっぱいある。
曖昧なままにおいておくことが重要なこともある。
「こうしなければならない」という言葉が一番危険なような気がするのである。
では、物事の判断はどうするのか?
それは法律ではなく「倫理観」にもとづいた人の心だと思うのである。
しかし統一した「倫理観」をもつということが難しい世の中なので、ますます混乱し猥雑な議論が続くんだろうなあ、と、なんだか諦め気味の近頃なのである。
それゆえに、巡礼とか遍路とか参詣、ということに憧れを持つんだろうと思う。
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その中で「仏教」は、父の死、という現実から、直に接することもあり、目についてものをできる限り読むようにしてみた。
で、よくわからないのである。
まあ本を読んですぐわかるようであれば、僧侶たちは修業する必要がないわけであるから、当たり前といえば当たり前である。
歴史読本2月号の特集は「日本の古寺巡礼」であるが、特集の巻頭は『概説 日本の寺院と宗派』(比叡山延暦寺長臈:小林隆彰であった。
この概説が、これまでよくわからなかったことを説明しているので、ありがたかったのである。
例えば
お釈迦様は、昼は説法の旅に出られ夜は沙羅双樹や菩提樹の林の中で休むので、特定の住居はなかったが、雨期の3ヶ月は外に出られないので王が「竹林精舎」と帰したのが最初の寺院であること。ちなみに平家物語で有名な「祇園精舎「はその後に作られた。
インドでは寺は僧の安居所であり雨期の説法聴聞所であった。
中国の寺は当初は経典の翻驛所として活用されたから「公の建物」だった。
といった基本的なことから順次簡潔にまとめてあり、目からうろこが落ちるような思いで読んだのであった。
特に日本の仏教の流れも説明されており、仏教入門前の基本的事項を押さえることができる。(と思う)
何故、仏教に宗派が生まれるのか、ということについては
「基本的にはもともと仏教は個人救済の宗教であり、個人の成仏、即ち仏になることを最終目的としますから、それぞれがこの世で置かれている立場・時代・個人・性別などで自ずとその修行方法や信仰形態も変化します。ですから仏教のお経も、教え・参考書・生活規範などと多岐にわたります。そこに宗派が生まれるのです」
と説明がされ「なるほどー」とうなずくのであった。
今、日本には192の宗派が存在し、さらにどの宗派にも属しない寺院が相当数ある、ということを紹介して、こう結んでいる。
「まことに驚くべき数ですが、これこそが仏教の特徴とでも言うべきでしょうか。人間の自由意志によってお釈迦様の教えを聴き、信じることが出来る。多くの日本人が神社に詣で仏を信じ、先祖を敬うことを不思議にせず、他宗教をあながちに否定しないのは、仏教にその源があると見ることができるのではないでしょうか」
またしても、大きくうなずいているのであった。
この巻頭の「概説」の次には『巡礼と遍路 人はなぜ癒しと苦行の旅に出るのか?』(同志社大学名誉教授:廣川勝美)が特別寄稿として掲載されており、これもまた巡礼と遍路についての理解を深めることが出来た。
ちょっと曲解かもしれないが、観光とは「癒しと苦行の旅」なのではないか、なんて思ったりしたのである。
この文章の結びも印象的だったので引用する。
「霊場を巡ることには日本人の心が伝わっている。人びとは道の途中の寺院や神社を隔てなく参拝した。長い年月の間に、神の道と仏の道は重なり合いつつ、参詣道や巡礼道として整えられた。そこに神仏和合の精神があった。それがこの国の宗教的心情の根本であるといえよう。」
今の世の中「赤は赤、白は白」として明確にすることが要求されている。
しかし、この世の中は明確にできないものがいっぱいある。
曖昧なままにおいておくことが重要なこともある。
「こうしなければならない」という言葉が一番危険なような気がするのである。
では、物事の判断はどうするのか?
それは法律ではなく「倫理観」にもとづいた人の心だと思うのである。
しかし統一した「倫理観」をもつということが難しい世の中なので、ますます混乱し猥雑な議論が続くんだろうなあ、と、なんだか諦め気味の近頃なのである。
それゆえに、巡礼とか遍路とか参詣、ということに憧れを持つんだろうと思う。
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