読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

べっぴん-あくじゃれ瓢六捕物帖3- 諸田玲子 文春文庫

2011-11-30 21:55:13 | 読んだ
あくじゃれシリーズの第3弾である。

オール読物に連載されていたもので、2009年2月号で『べっぴん』の連作が『杵蔵の涙』で終了しており、その感想を2009年1月26日に書いている。

それには次のようなことが書いてある。

人の心のあり方の複雑なこと、或いはちょっとした行き違いが増幅されて行き違いだけですまないことになったりする。
どこかで、許すとか詫びるとかしたらよかったのにとか、自分の心をまっすぐ人に伝えられないもどかしさとか、そういうものが感じられた物語であった。

何年かして文庫本で一気に通して読んでみると、この感想がどう変わるのか或いは変わらないのか楽しみである。


わりとマシな感想が書いてあったのでほっとした。

というわけで、何年かして文庫本で一気に通して読んでみたわけである。

この物語は、7つの短編から構成されている。

今回は、主人公の瓢六の仲間であり裏の世界に顔がきく「杵蔵」が影の主人公である。
瓢六と杵蔵のまわりでなぞめいた事件が多発する。

そしてその事件のたびに「べっぴん」な女の影がちらつく。
多発する事件を表層的に解決しながら、その「べっぴん」に近づいていく瓢六。

しかし、結末は思いもよらないことだった。

短編の最初にその「べっぴん」と思われる女の独白がある。
で、その女の告白を読んでいくと、徐々に同情していってしまう。

今回瓢六はお袖と離れて事件解決にあたる。
そして、相棒の「能はないが情がある」同心の弥左衛門はとうとうお八重を妻にもらう。

事件解決とは別に時の流れが描かれていて、そちら側も面白い。

そういえば、今月のオール読物にもあくじゃれが掲載されている。
早く読んでみよう。

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降霊会の夜 浅田次郎 週刊朝日連載<最終回>

2011-11-27 18:28:48 | 読んだ
主人公は、軽井沢の別荘に行ったとき、よく夢に見る女とそっくりの「梓」に出会い、ミセス・ジョーンズの「降霊会」に参加する。

そして、小学校3年生の時に転校してきた「キヨ」の霊から彼にまつわる事故の話を聞く。
キヨは、主人公(ゆうちゃん)の目の前で、車に飛び込み死んだのであった。それは彼の父から何度かやらされていた「当たり屋」を実行したのであった。

主人公は、なんとなくそういう境遇であること、そしてキヨが父を愛していたことを感じていた。
主人公の家族は主人公を気遣ってその事件をウヤムヤのまま彼の記憶から薄めていった。

しかし、主人公は、その事件について胸につかえるものがあった。だから降霊会でキヨを思い出した。

で、キヨ以外にも、若い警察官やキヨの父の霊も降りてきて、キヨについて語った。
その時点で私は次は、主人公の祖父がでてきて、何かを語るんだろうと思った。

ということを、2011年8月6日にブログで書いた。

しかし、その後物語りは大きく転換する。

主人公は、若いときにつきあった女:百合子との出会いと別れを思い出す。
そして、彼が夢に見る百合子の霊が降りてきたと思う。

しかし、降りてきたのは、百合子とつきあっていたときに、親友感覚でつきあっていた大学の同級生であった。
彼女は、主人公を愛していたが主人公は気づかない。そして彼女を愛していた主人公の同級生も降りてくる。

彼らが話すことは、主人公を驚かせる。

生きていれば、面と向かって主人公に話せなかっただろう事柄を、死んだから言える。
なんとなくアンフェアなような気もするのだが、主人公は老いてきたときに、その話をきいて、これからどう生きていくんだろう?
主人公のこれからのほうが心配になってきていたが・・・

誰だって「自分はある程度まっとうに生きてきた」と思っているだろう、それをよりによって反論できない「霊」によって、『あんたは知らなかっただろうが』という前置きつきで語られたらつらいだろうと思うのだが・・・

自分の過去を全自分は全て知っているが、その評価は自分の知らないところで行われている。
そういうことを作者は伝えたかったのか?

最初はそのように考えたのだが、なんとなくちがうような気がする。
それはもっと読み込まないと分からないだろう。

いずれにしても、週刊朝日12月2月号で最終回となった。
最終回は、アッと驚く展開のような気もするが、とってつけたような終わりかたともいえる。

本になった時読むだろうか?
その時の気分だろうが、つらい、ような気がする。

追伸
この物語と同時に連載が開始された「極北ラプソディ」<海堂尊>は2週前に完結した。
これが、面白かったのだが、読んだ時に面白かったのだけれど、物語全体を通しての流れがよく把握できていなかったので、感想を書くことができなかった。

ところで、海堂尊の小説には他の物語に登場した人物がいろいろなところで登場してきて『この人はどういうところに出てきてどういうことをした人だったけ?』と思い出すことがつらい。
そういうことがつらいというのが悲しい。
だれか登場人物の整理簿でも作ってくれないだろうか。

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田原坂-小説集・西南戦争- 海音寺潮五郎 文春文庫

2011-11-21 22:26:09 | 読んだ
文庫本の帯には

60年ぶりに発見された
   未発表原稿
 『戦袍日記』初収録!

滅び行く薩摩武士の最後を
 哀切を込めて描く短編集


というわけで、11の短編からなる、西南戦争の話である。
西南戦争の薩摩側からみた話である。

未発表原稿の『戦袍日記』は、確かに生硬いものであったが、グイグイと引き込まれていく小説であった。
戦争に無理に従軍した少年が戦死した。
それは、それまで生きてきたことから見るとあっけない死に様であった。
彼らが生きていた時のことが、生き生きと描かれているだけに、やるせない。

この11編の中から私の好きなものを挙げるとしたら2編である。

「南風薩摩歌」は、薩摩の猛将・逸見十郎太(へんみじゅうろうた)が官軍の南下を防ぐために熊本の人吉に来た時の話である。
料亭の酌婦・お蔦は、みなが恐れる逸見をことごとく邪険に扱う。
みなが恐れそして敬う逸見だからこそ、わざと邪険にし続けるのである。
そして、薩摩軍は撤退を余儀なくされ、逸見は人吉を去る。
去ってしまってからお蔦は気づく。
そして、逸見を追う。
解説では「意地と愛の微妙な交情を映し出している」と、そして「二人の決別の場面描写は、典型的な薩摩男子の決別のしかたを具象化している」としている。
最後の別れの場面を描きたくてこの物語はあるのだろう、と思った。

「兵児一代記(へこいちだいき)」はユーモラスな話である。
勇猛果敢、精悍無比な快男児の椎原真平が主人公である。
無鉄砲なくせに臆病で、その割りに考えが浅い。
だから、活躍しても最後の最後に失敗をしてしまい評判を落とす。

最後には山一つを残して財産を失ってしまう。
しかし、そこまできて彼の不運は使い果たされた。
で、最後の山に「金」が発見され、彼は一躍持ち返す。
そして大正時代まで長生きした彼は、明治戊辰の戦争と西南戦争の生き残りの勇士達が集まって、酒を飲みながら追憶談を交わす行事で
「男は気でもつ、膾(なます)は酢でもつ、ちゅうじゃねか。おいの今日あるは気よ。ただ一ッ気よ」と気焔を上げた。
長生きしたものが勝つということは、昔はやっぱりあったのだ。

短編に登場する人物達は、モデルがいるとのこと(解説より)
それを小説に生き生きと描がかれている。

面白かった。
そして、久々に昔の骨のあるふわふわとしていない小説を読んだ。

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円通院 紅葉ライトアップ2011

2011-11-20 18:50:15 | 観た、聴いた
とっておき松島 秋
円通院 観瀾亭 瑞巌寺洞窟群
紅葉ライトアップ2011

というご案内があったので、昨日19日に行ってきた。
今年は、11月初旬に風邪をひいてしばらく外に出るのを控えていたので「紅葉」を見に行けなかった。
今年は、再び「中尊寺」の紅葉を見に行こうと思っていたのだが・・・

そういうときに、この松島・円通院の紅葉である。
しかも夜。ライトアップ。である。

というわけで、昨夜行ってきたのだが、あいにくの小雨。
ところが、この小雨もまたいいもので・・・

で、これほどいいものだとは思わなかったので、コンパクトカメラは持っていったのであるが、一眼レフは持っていかなかった。それが残念である。
というわけで、その写真を掲載します。


↑この紅葉の前は、石庭になっている。





↓霊廟三慧殿(さんけいでん)へ続く道



↑ 右側の緑色のライトアップは「竹」

続いて2つの写真は、本堂・大悲亭前の池に映った紅葉。もっといい写真を撮りたかったなあ。









円通院のホームページはここです。

瑞巌寺の洞窟群もよかったといえばよかったですが、チョット寂しかったかな。


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日本橋バビロン 小林信彦 文春文庫

2011-11-17 21:05:21 | 読んだ
小林信彦は、芸能関係のものから入った。
それからエッセイを読んだ。

その感覚が素晴らしいと思った。そしてあこがれている。

その小林信彦の小説をこのごろ読み始めた。
前回は「うらなり」(2010年2月13日)だった。
そしてその前は「東京少年」(2008年8月8日)であった。
(いずれの感想も、嘉壽家堂本店に収めてあります)


本書は、その「東京少年」の続編とも言えるいえる自伝的小説である。

小林信彦は『いいとこ』の生まれで育ちであることは東京少年を読んだし数多くのエッセイから知ってはいた。
しかし、これほどの『いいとこ』の育ちだとはびっくりした。

創業享保8年、昭和まで9代続いた老舗和菓子店「立花屋」が彼の生まれた家である。
9代目小林安右衛門は小林信彦の父である。
で、世が世ならば小林信彦は10代目になるはずだった。
しかし、彼はならなかった。

何故なのか?
それは語られていない。

しかし、
「甘いものを口にしない」
というところから既に老舗和菓子屋の十代目ではないだろう、と思う。

そして何より、この本を読んで思うのは、「いいとこ」のお坊ちゃんとして育てられたゆえに、職人の技術を発揮しなければならないような、或いは、店を保つというようないわばガツガツしなければならないような経営者にはなれない、ということを著者自身がよく分かっていたんだろうと思う。

とはいうものの、お坊ちゃんとして子供の頃から演劇や映画を見て、おいしいものを食べて育った環境と、菓子職人だった祖父の職人気質を受け継いだ素質が、小林信彦独特の世界を作ったといえる。
つまり老舗菓子家の10代目とはならなかったが、老舗菓子屋の伝統は色濃く引き継いでいたと思えるのだ。

小林信彦の最大の特徴は「醒めている」のに「むきになる」ところだと思う。
それが、私には非常に好ましく思うのである。

この本を読むと、昭和の「いいとこ」育ちというのは途方もなく「いいとこ」だったんだと思う。

昭和7年生まれの著者が、子供時代に家族旅行をし、疎開前に中華料理店で本物を使った中華料理を食べる、「すごい!」としか言いようがない。
ちなみに、著者の子供世代である昭和31年生まれの私は、小さい時に家族旅行や家族で外食なんてしたことがない。

著者がこの物語を書いた理由は
「生まれた町と家について書きたいと思い立ったのは、昭和の旧日本橋区を内側から描いた書物が一冊もないからである」
ということである。

つまりこの明治から昭和前半にかけての東京の下町の老舗和菓子店というものを通した、当時の人たちの生活と考え方にを著した物語は、著者にしか描けないものなのである。

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永遠のディーバ-君たちに明日はないPART4- 垣根涼介 小説新潮10月号

2011-11-15 22:48:33 | 読んだ
すっかりファンになってしまった「君たちに明日はない」シリーズのPART4の最新作である。

いわゆる「リストラ請負人」である、村上真介が今回担当するのは、株式会社ハヤマである。
ハヤマは「世界を代表する楽器メーカー」である、とされているので、思い浮かべるのはあの「ヤマハ」である。

そのハヤマの管弦打事業部第3課の課長:飯塚正樹が、今回の主役。
彼は、若い頃バンド活動をしていて、「ハヤマ」の主催する『ハヤマ・ロック・コンテスト』略すると『ロッコン』で準優勝をしている。
そして、今でも、何かあればギターを弾き歌をうたっている。

彼の職場の部下からのアンケート、通称「SSE」というアンケートによれば、取り組み姿勢3.9、協調性4.7、向上心3.7、合理性4.4、倫理観4.6、公平性4.5、社交性4.8、そして目標達成度3.0である。

つまり人はいいのだが業績が悪く、部下から庇われている。
と、真介は読む。

そして、リストラの面接で彼は優柔不断な態度である。

真介は自分の経験から、若いときにあきらめ切れなかったものを棄て切れていないのが、彼の人生における優柔不断な態度の原因と断定し、厳しい言葉で彼を攻める。

そして、飯塚正樹はどのような選択をするのか?

今回はシリーズの中でもわたしにとって共感度、感動度ともに上位に入る物語である。

この物語は「そんなにうまくいっちゃうの?」というツッコミが存在するのであるが、リストラといういわば身も蓋もない状況を描いて、暗くなってやりきれない気持ちにさせないためには、リストラされるけれどそれが自分の人生にとって大きないいほうへの転換、がなければならないと思う。

そうでないと読み続ける感動がないと思うのである。
そして、近頃は、リストラする主人公の村上真介より、リストラされる側の人たちへの感情移入が大きくなってきた。

それにしても、今回の物語はよかった!

追伸
この物語のタイトルの「ディーバ」ですが、『大辞泉』では「歌姫。オペラで、主役をつとめる女性歌手。」という意味だそうです。
お前の書いた感想には女性歌手など登場しないではないか?
という声もあるでしょうが、このディーバが飯塚正樹にとって人生を変える或いはやり直す基点となるのです。そのあたりは是非お読みになっていただきたい!と強く思うのであります。

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姨捨山幻想-新・御宿かわせみ- 平岩弓枝 オール読物11月号

2011-11-13 22:06:41 | 読んだ
十三夜の月見の日、千春は兄・麻太郎を迎えに行かなければと思っていた。それは十五夜の月見だけを見て十三夜の月見をしないのは「片見月」といって嫌ったものだということを、十五夜の月見の時に母・るいが言っていたからである。

しかし、るいは麻太郎の医者という職業柄なかなか都合をつけるのが難しいので、千春や嘉助などに迎えには行くなとあらかじめ釘をさしていた。
千春にはそれが不満である。

というところに麻太郎が清野凛太郎(すがのりんたろう)をつれてやってきた。

この清野凛太郎というのは10月号の「麻太郎の友人」で登場し、千春に一目ぼれをした男である。
イギリス留学中に麻太郎と知り合い、このほど、新しく設置された式部寮の音楽取調掛の一員として起用されたのである。
どうも、いいところの生まれらしい。

とまあ、出だしである。

麻太郎と凛太郎が月見を始めようとしている時、かわせみに団体客が到着する。
信州から東京見物にやってきた、老人の多い団体である。

そのなかの「おとよ婆さん」が今回の物語の主役である。

このおとよ婆さんが、江戸土産に「犬張子」を4つ買った。

孫もいないのに何故4つの犬張子を買ったのか?
これが今回の「謎」である。

婆さんは4人の子供に先立たれた。親に先立つ者は「親不孝」というが、おとよ婆さんは4人の子供達は「親孝行だった」という。

それは何故か?
そしてその話を聞いた麻太郎たちのとった行動は?

清野凛太郎という新しい人物が登場し、これからまだまだ面白くなる予感のする御宿かわせみである。

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この腕がつきるまで 打撃投手、もう一人のエースたちの物語 澤宮優 角川文庫

2011-11-09 23:26:53 | 読んだ
角川文庫 スポーツ部 シリーズ第3弾!
ということである
第3弾にして、やっと「野球」がでてきた。

プロ野球の「打撃投手」にスポットをあてて描いたもの。
2003年に単行本、2011年に文庫本となっている。
だから、基本的には2003年以前の取材が基礎となっている。

構成は、

第1章 打撃投手誕生
第2章 王、長嶋の恋人と呼ばれた男達
第3章 甲子園の怪物だった男たち(現代に生きる打撃投手①)
第4章 ドラフト1位だった男たち(現代に生きる打撃投手②)

となっている。

で、初めて知ったのであるが、「打撃投手」という職業は日本だけのものなのだそうだ。
アメリカも韓国も台湾にもなく、日本のプロ野球だけにあるもの。

最初は、控えの投手とか2軍の投手が打撃投手を務めていた。
稲尾和久や小山正明といって大投手は、打撃投手をしてコントロールや打者の状態を見抜く力を養い、大投手となった。

このあたりは知っていたので、打撃投手をすることは投手としてはいいことだと思っていた。
引退して打撃投手となるのは、コントロールが良くて素直なボールが投げられる人なんだろうと思っていた。

しかし、打撃投手をすることはプロ野球の投手としてはあまりいいことではないらしい。

そのあたりは次の二つの文でよくわかる。

 扇原は投げるコツについてこう語る。
「打撃投手は打者のタイミングに合わせますから、ボールを放す位置、リリースポイントが早くなってしまうのです。でもこれはふつうの投手とはまったく正反対です。試合では打者を打ちづらくするために、ボールをいつまでも深く持って、手放す瞬間を遅くするするんです」
 打撃投手として合格点のボールは、現役の投手としては、もはや通用しないボールを投げることを意味した。
(中略)
「関本は頭が良かったんだ。打撃投手をやれば投手として駄目になることを知っていたから、わざと荒れたボールを投げていた。いい球ばかり投げていると、打撃投手をさせられるからね。僕も気がついたんだけど、もう遅かった」

「打撃投手ばかりやっていると、球は素直になってコントロールもつくけど、ボールに伸びがなくなってしまうんだね。言ってみれば死んだボールということだから。僕も一軍で投げていたからその違いが分かるんだ」


基本的に投手とは、打者に打たせないようにどうするかを考え練習し投げているわけだから、打撃投手としていかに気持ちよく打たせるか、なんてのは180度違う発想なわけである。

いい球だけを投げていると、の「いい球」というのは生きた球である。
だけど打撃投手は「死んだ球」を投げなければいけない。

そのあたりの心の葛藤が、多くの打撃投手に取材することによってわかってくる。

打撃投手には、甲子園で活躍したりプロで活躍した投手もいる。
その人たちの心の葛藤はなお大きい。

たとえば、南海ホークスでエースと言われた「藤本修二」(愛称にゃんこ)こう言う。

「現役通じて言えることやけど、ピッチャーで一番難しいのは、ストライクを投げることなんですわ。その同じ苦しみを引きずっている感じやね」

いいコトバだなあと思う。

著者は藤本を現役時代から知っており、打撃投手として仕事をしている藤本を見て思う。

 器用に投げようとするほど、左手が我慢できずに突き出され、懸命に伸びようとしていた。幾度も出ようとする左手、それを意識の力で懸命に押し戻している。打撃投手として生きるという「理性」と投手としての藤本の根底にある「本能」が葛藤し、戦っていた。
 彼は打撃投手として生きるべく過去の栄光のフォームを完全に捨てた。
 そこに長い年月を掛けた苦悶があったことは、毎回投げる際に、中途半端に突き出した左腕が証明していた。そこにのみ、栄光のフォームの残滓が見られたからである。


投手としての本能と打撃投手としての理性。
いいところを見ていると思う。

打撃投手の一番の喜びは、打撃投手を務めた相手が試合で打つことだ。
そして、打撃投手は、バッティングもよく分かるようになる。

「時代が時代やから、僕らのやり方を当てはめても仕方ないけど、皆が皆友だちになりすぎているという感じがするな。今の子は、ちょっとボールが当たってもすぐ休むしね」
 彼は口にこそ出さないが、常時一軍で活躍する選手と二軍暮らしの続く選手との違いを、長年の打撃投手としての経験から見分けることができた。打撃練習で水谷がボールなのかストライクなのかきわどいコースに投げても、一軍の選手は意に介することなく平然とバットを出してうまくミートし、鋭い当たりを飛ばす。逆に、二軍の選手は手を出そうとせずに見送るか、バットを出したとしても、空振りか当たりそこないのファウルチップを続けてしまう。ストライクの球ばかり打ちたがるのが二軍選手の特徴だが、それはボール気味のコースを上手く打てる能力がないことを示している。そこに、一軍と二軍の技術的な大きな差があると彼は指摘する。
「本人としては見逃したつもりなんやろうけど、実際は手が出ないというのが本音やろうね。一軍の選手はクソボールでもきれいに打てる。やっぱりちがうなと思うね。練習ではどんな球でも打たんと進歩はないからね」


打撃投手という、いわば日のあたらないところの人にスポットを当てるだけでなく、こういう言葉を引き出せたのはすごい。

やっぱり野球って面白いなあと思った一冊であった。

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いっぴきの虫 高峰秀子 文春文庫

2011-11-06 15:03:33 | 読んだ
文庫本の帯には

高峰秀子が描く 一流の人間像

名著、復刊!


とある。

もしかしたらもう読んでいたものなのかなあ、と思いつつも購入した。

調査の結果、まだ読んでいないものであったが、読んでいたものであったとしても、買ってよかった、読んでよかった、と思った。

基本的には対談集なのであるが、それに著者の「ひとこと」というか「観察」が入っている。

1978年7月7日付で、著者本人の「まえがき」がある。
それは「いっぴきの虫」の説明である。

「男の中には、いつもいっぴきの虫がいて、その虫があらゆる意欲をかき立てるのだという。」
として、
「この本に登場する方たちは、それぞれお腹に立派な虫を持ち、ひとすじの道を倦まずたゆまず歩き続けてきた優秀人間ばかりである。」
と述べている。

高峰秀子の本をずいぶんと読んでいるのであるが、いつも思うのは直接お目にかかって話すことができたらいいだろうなあ、ということである。

本人は、著作の中でいつも自分は無学だ無学だというが、無学を自覚しているくらい無学でないものはないと思う。
彼女は、超一流の人たちと小さい時からすごしてきた。でも本人の努力と自覚がなければ本人も一流とはなれない。
そう思うのである。

さて、この本では20人の人と1組(?)が紹介されている。
1組というのは、映画「二十四の瞳」に出演した子役たちとのことである。
私は、一番最初にこの項を読んだ。

どの部分を読んでも、素晴らしくハッとするようなコトバに出会うのであるが、そのうちから

映画は、ベルトコンベアで缶詰を作るのとはちがう。大勢の人間が集まって、お互いにその人間の能力を尊敬しあい、足りないところはおぎないあって、暗黙のうちに、より優れた作品を創り出してゆこうとする血の通った、情の要る仕事なのだ。

日本で日本のものを作り出すは、いちばんむずかしいですよね。


(松下幸之助氏について)
彼の中にはドライとウェットが仲良く同居しているらしい。「松下商法」なるものは、たぶん、そのドライとウェットを、掛けたり足したり割ったりして、できあがった松下氏独特の経営法なのだろう。商売の鬼といわれ、肉親には冷たい人だという声も聞くが「なまはんかな愛情や思いやりは、かえって人間や仕事をダメにする」という深い思慮は、豊富な人生経験を積んで、なお自分自身に厳しい人間しか生まれてこない。松下氏のようなマジメ人間に、洒脱さ、甘さ、色っぽさを求めるのは、どだいないものねだりというものだろう。松下氏の冗談は木に竹をついだごとくギコチなく、いっこうにおもしろくない。おもしとくないからといって、それが、すぐ冷たさやドライに通じるというわけではない。

(森繁久彌氏の言葉)
人間だからね、そりゃ若いうちは欲望でいっぱいなのはいいですよ。またそれでなきゃいけない。でも、それはだんだん整理してゆく段階がすてきでね。それに気のつく段階がないとつまらない。そして、その欲望を集約してゆくところに作業があるんじゃないかしら。

(團伊玖磨氏の言葉)
強制され、規制されるということは、その中でやはり自分を確立してゆくことだから。野放図じゃダメですよ。悪い意味の自由はダメですよ。

こういう言葉を引き出せるというのも、著者が一流だからではないだろうか。
そして、高峰秀子の基本ともいうべき考え方ではないかと私が思うのは次の言葉である。

絵でも、写真でも、役者でも、芸術と職人の分かれめは、たった一つ「品性」しかないと私はおもう。その品性は、その作家の持って生まれた天分なのだろうか?それとも執念と努力によって「品性」をうることができるのだろうか?白バックの写真一枚に冷や汗を出した、ぐうたらべえの役者の私にはわからない。

やっぱり一度でいいから実物を見てみたかったなあ。
もっとも会えば一言も発せないと思うのであるが・・・・

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鷺と雪 北村薫 文春文庫

2011-11-03 22:22:29 | 読んだ
「街の灯」「玻璃の天」に続く、ベッキーさんシリーズの第3弾にして最終巻であり、第141回直木賞受賞作である。

で、これはオール読物に掲載されたいた当時読んでいた。
ただし、そのときは、前2巻を読んでいなかったので、そちらを読んでから、改めて読んだのである。

しかし、連載のような形だったので、どうもいまひとつ読み込めなかった。
ゆえに、今回文庫が出たので、改めて一巻通じて読んでみたのである。

物語は、昭和初期の上流社会が舞台である。
良家のお嬢様である「花村英子」が主人公で『わたし』として語る。
彼女が遭遇する「事件」を解決していくのであるが、そこに適切なアドバイスをするのが、花村家の女性運転手であるベッキーさんこと『別宮みつこ』である。ベッキーさんとは英子が親しみをこめて呼んでいる名前である。
彼女は、大学教授の娘で才色兼備。アメリカ留学の経験を持つ。

さて、この物語は昭和初期の実際にあった出来事がでてくる。
だから、時代の雰囲気みたいなものを強く感じ取ることが出来る。

昔の特に第2次世界大戦にいたる時代や戦争中のものの物語は、変に戦争批判のようなものが前面に出てきて、本当にみんなが戦争を忌避していたならば戦争は始まらなかっただろう、と思うようなものがある。
この物語は、そういうものがないだけに、すごくリアルなような気がする。

上流社会のお嬢様であるが、日本の不穏なそして行き先が決して明るくないような思いに包まれた雰囲気が、直接・間接的に感じ取れる。

本書では、
「不在の父」
「獅子と地下鉄」
「鷺と雪」
の3篇が収められている。

最後の鷺と雪は2.26事件に関連している。
そして、その最後の部分を描きたくて、著者はこの物語を作ったという。

わくわくドキドキするような物語ではないが、昭和初期を感じ取れる物語である。

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