読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

ローマ人の物語33-迷走する帝国(中)- 塩野七生

2009-03-29 22:31:51 | 読んだ
迷走する帝国、という副題のとおり、いよいよ(?)ローマ帝国の迷走が本格化してきた。

本書の中では、ローマ皇帝が10人も登場する。
また、1年間で5人も皇帝が誕生するときがある。

ローマの皇帝は、いわば「終身制」であるので、皇帝が代わるということはその前の皇帝が亡くなったということである。

本書に登場する皇帝たち10人の殆どが天寿を全うしていない。
自軍の兵士に殺されたり、戦死したりしている。

つまり「迷走」の結果なのである。

ローマ帝国が長い間かかって築き上げてきた「システム」が環境の変化に伴って、いわば「陳腐化」してきたことが、「迷走」の要因である。

では、環境の変化とはなにか?

それまで「蛮族」と呼んでいたローマ帝国周辺の民族が、蛮族なりに進歩しローマ帝国へ抵抗もしくは侵入し始めたのである。

これまで完璧に蛮族を押さえ込んでいたローマ帝国のシステムは、相手の進歩についていけなくなっていた。
そして、それはシステムだけではなく、ローマ人たちの気質も変わっていたのである。

それは、平和ボケ、とでも言うべきものなのかもしれない。
人間は平和が続くと危機管理意識が薄れていく、のかもしれない。

そして危機管理に対応する人物が、平和を築き上げたてきた人物たちに比べれば質が落ちるのである。

特にこれまで皇帝を提供し続けてきた「元老院」の質が落ち、前線で戦っている軍人たちが皇帝に推される。

著者は言う
「3世紀のローマ帝国は、持てる力の無駄遣いに、神経を払わないようになっていたのである。これもまた、ローマ人がローマ人でなくなりつつある兆候の一つであった。」

ここでいう「持てる力の無駄遣い」とは「政略面での継続性を失ったこと」であり、継続性がエネルギーの浪費を防ぐ方法であることだと著者は言う。

時間がたつと、何故か基本的なものの継続性について軽く扱う傾向がある。というのは私の経験でも言えることだが、このことが帝国全体であらわれたのだろうと思う。

平和を継続する、ということは人間にとって無理なことなのかもしれない。
人類全体の生き残りをはかるため、人間には殺し合うDNAがあるのかもしれない。
また、地球全体の環境を守るために、人間が増えないようなシステムが地球にあるのかもしれない。

歴史を読むとそういうことを思ったりする。

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マドンナ・ヴェルテ 海堂尊 小説新潮連載中

2009-03-22 20:28:28 | 読んだ
近年大注目の海堂尊である。
現在上映中である「ジェネラル・ルージュの凱旋」と同じ医療小説ではあるが、東城大学病院シリーズではなく、前回同じく小説新潮で連載した「ジーン・ワルツ」の第2章ということである。

さてその「ジーン・ワルツ」であるが、帝華大学産婦人科学教室の講師:曽根崎理恵が主人公で、5人の妊産婦(それぞれに物語を抱えた妊産婦たち)の出産までの経過が描かれていた。
そして、曽根崎理恵にも大きな物語があった。

こんかのマドンア・ヴェルテも曽根崎理恵が登場する。
そして、理恵の母・みどりが、第1回(3月号)第2回(4月号)では主人公のようである。

ジーンワルツのネタバレになるので「要注意」なのであるが・・・

曽根崎理恵は子供を産めない身体である。
しかし、子供がほしい。
そこで母に、自分と夫との間にできた「受精卵」(なんか『できた』というのもへんな言い方であるが)を着床させて生んでほしいと頼むのである。

従ってジーンワルツの第2章というか描かれなかった部分、同時進行していた物語である、と思うのだ。
ちょうど、「ナインチンゲールの沈黙」と「ジェネラル・ルージュの凱旋」の関係のようである。

さて、今後どのような展開をするのか楽しみである。
まあジーンワルツである結末は知っているので、安心といえば安心ではあるのだが。

こういう医学の進歩について考えながら読もうとおもっている。

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ローマ人の物語32-迷走する帝国(上)- 塩野七生

2009-03-14 22:57:07 | 読んだ
読もう読もうとしてずっと積んでいた3巻をやっと読み始めた。

ローマ人の物語も3世紀に入った。
皇帝は「カラカラ」、ローマの遺跡でも名高い「カラカラ浴場」のカラカラである。

ローマの三世紀は「危機の三世紀」だそうである。
しかもその「危機」とはそれ以前のものと違うと著者は言う。

「克服することのできた危機と、対応に追われるだけで終始せざるを得なかった危機のちがい」

その危機について描いている。

ローマの皇帝は「世襲制」ではない。
非常に乱暴な説明をすると「民衆から選ばれた者が立候補し元老院で承認される」という形である。

この民衆というのは主にローマの軍団兵である。
なので、選ばれる人というのは主に軍団の長である場合が多い。
そして、三世紀の危機というのが「外因」もあったが、内因としては「政局不安定」つまり皇帝が次々に代わるということもあった。
何やら今の日本に似てはいないだろうか。

カラカラはローマの基本的な事柄を変えた。それは一見非常にすばらしい政策であったが、実は内部崩壊をもたらす政策だった。

カラカラ以前のローマ市民は「選ばれた人」であった。なので身分格差があったのである。「属州民」とか「奴隷」という身分がローマ市民とは別にあった。
そのうち属州民にローマ市民権を与え「平等」にしたのである。

そもそもローマ帝国はローマ市民権を持つものによって成り立っていた。
そしてローマ市民権とは頑張れば得られるものであったし、市民権を持っているものの義務も他の身分とは差別的にあった。
つまり「権利」も「義務」も差別的にあった。

だからローマ市民権を得ようと努力する人もいたのである。
それが一律平等に市民権が与えられると失われてしまったのである。
「取得権」が「既得権」になったと筆者は言う。
そして「市民権」の魅力が失われた。

「平等」というのは既得権として与えられるものではないのだろうか?
おなじく「福祉」というものも既得権ではないと考える。

今の日本の現状は「平等」や「福祉」の概念が違っているように、本書を読んで考えたのである。

イソップ寓話の「アリとキリギリス」の話は働くものと働かざるものの報いであるが、今の日本の平等と福祉はキリギリスさえも救おうとしている。
そんなことを思ったのである。

そしてそういう平等と福祉は国民の活力を失うのではないだろうか。


カラカラ以降の皇帝たちも無能ではなかった、無能ではなかったから皇帝になったのである。しかし、皇帝になってからの危機管理が不十分であった。それはやっぱりそれまでの危機とは違う危機だったからのである。

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司馬遼太郎と城を歩く <司馬遼太郎> 光文社文庫

2009-03-07 23:59:07 | 読んだ
司馬遼太郎の書いた物語やエッセイ(主に「街道をゆく」)に登場する「城」を紹介し、そのデータを示しているものである。

最初は、一つ一つ司馬遼太郎が書いたものだと思ったので、ちょいとガッカリしたのであった。

全部で35の城が紹介されている。
そのうち8つの城に行ったことがある。
これって、どれくらいのレベルなんだろう?

さて、城というと「天守閣」があって、それを支える櫓や石垣がきれいに整っている。
つまり「姫路城」のようなものを想像してしまうが、実はそのような城は殆どない。
それから「天守閣」の最上階に城主が住んでいた、と思いがちであるがそういうこともない。(って思っていたのは私だけか)

時代時代によって「城」の性格というか目的は変わる。
だから、城を見るときは、何がしかの説明がほしいのである。

本書は、司馬遼太郎の物語とかエッセイからその城の性格とかこめられている「情」などがうまく紹介されているので、この本を読んでその城に行くと、なにかしらの「思い」に包まれるのではないかと思う。

司馬遼太郎が書いた次の文章が紹介されている。

-私は城が好きである。
あまり好きなせいか、どの城趾に行ってもむしろ自分はこんなものはきらいだといったような顔を心の中でしてしまうほど好きである。だからできるだけ自分の中の感動を外らし自分自身にそっけなくしつつ歩いてゆくのだが・・・


こういうところが、司馬遼太郎に魅かれるところである。

好きなゆえにそっけなくしてしまう。

子供のようにして大人だなあと思うのである。

私は「城」に行くと、心の底というか体の底からなんだかこみ上げてくるものに出会うときがある。
城というのはどこか「不幸」を抱えているようなのである。
一度も「戦」に出会わなかったような城でさえも、どっからか冷たい風が吹いてきて、城の持つ「孤独」のようなものを感じたりする。

これからもできる限り「城」を訪れてみたいと思うのだが、本書に紹介されている城に行くときはもう一度読んで出かけたいと思うのである。


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瑠璃の契り-旗師・冬狐堂- 北森鴻

2009-03-03 23:38:41 | 読んだ
旗師「冬狐堂」、宇佐美陶子シリーズである。

長編「狐闇」「狐罠」を読んで、短編集「緋友禅」を読み、そしてこの「瑠璃の契り」と続いてきた。

この物語は主人公の宇佐美陶子の魅力もさることながら、骨董をめぐる人々の怪しい生き方も魅力である。

旗師とは店舗を持たない骨董業者である。
だから、骨董を求めて或いは誘われて宇佐美陶子はいろいろなところへ赴く。
舞台が変わるということはこの物語が広がることの自然さとを生み出し、もうひとつの魅力になっているのである。

さて、この短編集は4つの物語である。

「倣雛心中」「苦い狐」「瑠璃の契り」「黒髪のクピド」である。

骨董品を人はなぜ愛でるもしくは求めるのか、というと、二つの理由があるようだ。

ひとつは「魅かれる」ということである。それは「美」であったりするのだが、その人とその品の引力なんだと思う。
これは説明がつかない人と品の出会いである。

そしてもうひとつは「金」(金額)である。
このことが骨董品をいわゆる骨董品にしている大きな要因である。
その品に魅かれなくても、好きではなくても、価値があるから求める。

そして、価値があるからそこにニセモノがあらわれる。

つまり骨董品をめぐる物語は、その品に魅力を感じた人、価値に心奪われた人が登場し入り乱れるのである。
そこに、本物を作った人の心が残っていたり、ニセモノを作った人の怨念のようなものが絡むので、面白いのである。

宇佐美陶子は魅力的であるが、私には苦手な女性である。
だから物語の中にいてくれるだけでいい。

で、あまり無理と無茶をしないように、お願いしたいのである。

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多忙・公私混同

2009-03-01 23:13:13 | 日々雑感
なかなかブログの更新ができない日々が続いていた。

「忙しい」というコトバはあまり好きではない。
それは「忙しい」ということで、多くのことを許してもらおうという気持ちがあるように思えるからである。

よく何かを頼むと「忙しいから」と断る人がいるが、それほど忙しそうではない。
「忙しいから」という理由は実は「気が向かないから」ではないかと思っている。
でも「忙しい」といわれると次を続けることができない。

忙しい、ということには物理的に忙しいというのと心理的なものがあると思う。

私的には「心理的に忙しい」というのは日常のことである。
「アレをやらねばコレも必要」「あっちの方面のこともやってみたい」ということが多すぎて、それを整理するのにまた考えている。
だから、身体的にボーっとしているようにみえても、実はアレコレ考えている。
たぶん傍から見ているとヒマそうに見えていると思える。

それは物理的(身体的)に忙しいということはあまりないからである。
これは予定をきっちりさせて、ダブルブッキングはしないし余裕のある割り振りをしているからである。

なので、身体的に余裕のある人、に見えると思う。

しかし、頭の中は常に公私混同である。
特にいいたいのは「私」に時間帯であっても「公」のことを考えているのが圧倒的に多いということである。
身体的に私の時間帯なのに、頭の中は公の時間なのである。

こういうのは公私混同とはいわないのかなあ。

公の時間帯に「私」のことをするのを公私混同といって非難されるけど、なあに公の時間帯に公の身体的作業をしているようでいて「私」のことを考えている人は多いと思う。

まあ公の時間帯で私に関する身体的作業をしている人も多いけれどね。

というわけでクドクドと述べてきたのであるが、ブログの更新をなかなかできなかったのは、公と私と、それからどっちつかずの事柄がおおすぎて、身体的な余裕がなかったからなのである。

まあ「言い訳」です。

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