読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

貞観地震の実態 坂元義種 「歴史読本7月号」

2011-05-31 22:52:29 | 読んだ
今月の歴史読本の特集は「本能寺の変」であり、それはそれで面白いのだが、『緊急特別記事』としてこの記事があった。

貞観地震とは、清和天皇が即位した貞観元年(859年)から19年(877年)の間に起きた地震の総称で、このなかに、今回の東日本大震災と同規模の三陸大地震がある。

年表を見ていると、その地震は主に京都であったものを記録したもので、それ以外であれば、越中越後、富士噴火、阿蘇噴火、摂津、肥後(津波あり)、三陸(津波あり)、鳥海噴火、開聞噴火、などがあり、つまりは日本列島全体で地震が相次いでいた、ということである。

もっとも、今だって気象庁などの地震情報を見ると、有感地震は無数にあるので、今だって地震は相次いでいるのではあるが・・・

貞観地震の記録は主に「三代実録」という書物が出典となっている。
これらから著者は記事を紹介するのだが、物凄かったことがよくわかる。

『陸奥国の地、大振動し、流光昼の如く隠映(いんえい)す。頃之(しばらくありて)、人民叫呼し、伏して起つ能はず。或いは屋仆ふれて(たおれて)圧死し、或いは地裂けて埋(うず)み殪(し)す。<略>海口哮吼(こうこう)し、声は雷霆(らいてい)に似る。驚涛涌潮(きょうとうようちょう)し、泝漲長(そかいちょうちょう)して、忽ち城下に至る。<略>』

こう書かれると物凄さが増幅される。
(書き写すのは大変なのでもうやめる)

ということで、この貞観年間のように地震や噴火や津波が相次ぐということが、これから日本がそうならないように祈るだけである。

それにしても、こういう文書だけで記録されているものは多分科学として認識されないためこれまであまり話題にされなかったんだろうなあ。

そういう意味では「学問」というのは狭いものなのかもしれない。

そんなことを思ってしまった。

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斜陽に立つ -乃木希典と児玉源太郎- 古川薫 文春文庫

2011-05-28 18:23:20 | 読んだ
乃木希典というひとは、私が小さかった頃は英雄であり偉人であった。

それがいつの間にか「愚将」「無能の将軍」というレッテルを貼られ評判が悪くなった。

私も司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んだとき、不運な人だなあと思うのと一緒に戦下手なんだなあと思った。

さて、本書はそういう乃木像を覆す、というか本当はどうだったのか、という視点で描かれている。

つまりは司馬遼太郎が「殉死」とか「坂の上の雲」で描いた乃木像の否定でもある。

著者が冒頭で司馬遼太郎を「長州嫌い」というふうに語っているが、確かに司馬遼太郎は薩摩びいきで長州嫌いだと思う。更に言えば「豊臣秀吉びいき」で「徳川家康嫌い」である。

それを承知で著書を読むのと読まないのでは受け取り方が違う。
だから「司馬遼太郎しか読まない」という人はそれはそれでいいと思うが、歴史或いは歴史上の人物に関しての客観性に欠けると思うのだ。

といいながら、私は司馬遼太郎の大ファンである。

著者は長州である。
従って、若干長州びいきである。
であるが、熱烈ではない。

さて、乃木は本当に愚将であったのか?
この本を読むと、そうではないような気がする。
「不運な人」というカンジはする。

本人は「文」に進みたかったが生い立ちが「武」に進まなければならないようになっていた。

そして驚いたのが若いころは相当の「遊び人」であったことである。
若いころに酒や女に溺れた人が、幅の広いに人になると思っていたが、そうでもないらしく、徐々に自らに厳しくなっていった。

それは「田原坂」の戦いで軍旗を奪われたことが、年をとるにつれて重くのしかかってきたのかもしれない。

といいながら、ずいぶんと休職もしていたらしい。
それは、世俗と自律の隔たりから来るものらしい。

さて、乃木といえば日露戦争の「203高地」であるが、その戦いかたが多くの犠牲をはらったということから「愚将」ということになっているが、どうもそうではないらしい。

このあたりを読むと、今進行中の原発事故における政府、東京電力本社と現地の考え方が違うということに思いが至る。

どこまで現地に本部は指揮を委任しているのか?
或いは現地の意見を本部は、本部の意向を現地は理解しているのか?
また、現地と本部の人間関係はどうなっているのか?

そんなことが、今回の東日本大震災で我々が実際に体験したことと併せて考えさせられる。

何かをしようというとき、目的や目標、或いは手段や理論ではなくて「人との関係」であることが、この本を読んでそして私の実体験から思うのだ。

そういう意味では乃木は人間関係を築くのが下手だった。
児玉源太郎はうまかった。
そんな風に思うのである。

そして、人間関係が下手だったからダメな人というのは違うと思う。

乃木は立派だった、と思うのである。

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コーヒー、もう一杯 最終話 平安寿子 小説新潮6月号

2011-05-25 19:09:46 | 読んだ
とうとう最終話になってしまった。

主人公の未来は、ひょんなことから会社を辞め、借金をして「カフェ」を開店した。
自らの理想と現実との差に悩みながら、妥協するところは妥協して、しかしマアマア満足のいく店にしたのだ。

しかし、客が来ない。
いろいろと工夫をして集客の努力をしたのだが客が来ない。

そして、とうとう体調を悪くしてダウン。

で、廃業をした。

これがすごい。
まあ小説だもの成功したことになるんだろうと思っていた。
なにかすごい出来事かアイディアが彼女を救うんだと思っていたが、あっさりと廃業をした。

これが現実なんだろうなあ。
と思うんだけれど、なんだか釈然としない。

この最終話の最初のところで、廃業、となるので、それに続くのは、何故廃業となるのか、友達の反応は、そしてこれからの未来は、という興味深いものが描かれるのである。

世の中甘くない。
というのが、廃業の原因である。
誰でも、その気になれば開業できる。
しかし、開業して継続するにはそれ相応の資金と努力が必要である。
また、素人がパッと開店してすぐに経営が順調になるわけがない、ということもわかる。

開業するというのはそれなりに用意周到、準備万端が必要なのである。

そのことに気づいた未来はやっぱり成長している。
一人で考え働いたことは無駄ではなかったのだ。

それが廃業となった結末にもかかわらずこの物語を明るくそして勇気づけられるものにしている。

勿論、未来の今後もなんとなく発展していくようにもなっているので、ショボンとしておわりではない。

そして、これ廃業してよかったかもしれない。
いかにもノウハウ本のように描かれているので、このようにやれば『なんとかなる』んではないかなんて勘違いする人もいるのではないか。

また『撤退』ということを意識した計画でなければならない。ただ突き進むのは無謀である、ということを伝えている。

ともかく、この物語面白かった。
そして、今後の未来と彼女の周囲の人たちに幸あれと思うのである。

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たまゆら あさのあつこ 小説新潮2010年3月号~2011年1月号

2011-05-22 11:51:22 | 読んだ
「あさのあつこ」は私にとってはあまり馴染みのない作家である。

「火群のごとく」(2010年4月29日参照)は読んでいるのだが、そのーまあーなんというか、あさのファンには申し訳ないのだが、もっと読んでみよう!という積極的な姿勢にはなれなかった。

とはいうものの、なんというか気になる作家ではあったので、小説新潮に連載されていたこの「たまゆら」を読んだのである。

ちなみに、この「たまゆら」5月20日単行本が発売とのこと。

ところで「たまゆら」という言葉であるが、よくわからなかったので調べてみた。
漢字にすると「玉響」と書く。
意味は、『少しの間。ほんのしばらく。』とのこと。

で、この小説を読んで、この題名の意味を知って
「おおーっ!なるほど!」
と思ったのである。

「花粧山」という山の麓というか入り口に住んでいる能生日名子(のうひなこ)という70代の女性が語りはじめる。

夫・伊久男と二人暮らしである、いや犬が一匹「ヒバ」もいる。そのヒバが去年の秋口に子供を産んだ。そのうち一匹がなくなり『たまゆら』と名づけ埋葬した。などなどが語られる。

「花粧山」という名前の山は本当は「迦葉山」と書くのだ、ということを以前に教えられたこと。

この迦葉というのはお釈迦様の弟子の名前であり、それだけでもなんとなく「山」の性格がうかがえる。

さて、この家に娘が一人訪ねてくる、というか「山」に行こうとしてたどりつく、外は大雪である。

この娘・真帆子も語りはじめる。
何故、この山に来たのか?

物語は日名子と真帆子が語る「純愛」が芯となっている。
彼女達が語る物語というか出来事は、それなりに衝撃的であり劇的であるのだが、その出来事そのものよりも、彼女達がその出来事にあって何を考え何を貫こうとしたのかのほうが主である。

彼女達の過去が語られたとき、彼女達は「山」に登ろうとする。

それは「山」に彼女達がこれまで生きてきたことの「支え」或いは「証」のようなものがあり、それを捕まえるか確認しなければ、これから生きていけないからである。

『生きてきた』と『生きていく』ということの違いは、この東日本大震災で多くの人たちの話を聞き・読み・見ることで考えさせられていることである。
そして『生きるためには』ということも人には必要である。

人が生きる、ということはなんなのだろう、ということを改めてかんがえさせられた物語である。

なんというか、こういう言ってみりゃ「暗い話」はあまり好きではない、好きではないが読み始めたら止められなくなってしまった。(毎月読んでいたのではなく、一気に読んだのである)

この物語を読んで「あさのあつこ」の本を買って読んでみようとは思わなかったが、出会いがあれば手にとってみると思う。

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東京煮込み横丁評判記 坂崎重盛 光文社文庫

2011-05-18 21:33:53 | 読んだ
3月11日、あの東日本大震災の日、私は東京出張であった。
その出張のお供として選んだ本の1冊である。

東京に行ったら、どこかの居酒屋で一杯呑もう、なんて思っていたのである。

「吉田類の居酒屋放浪記」から或いはこの「東京煮込み横丁評判記」カラ、宿の近くとか出張先の近くを探してみようなんて思っていたのである。

結局のところ思うようなところは見つからず、ではこの本を読みながら、本などには登場しないけれど、煮込みやホッピーなどある店でやろうか、と思っていた。

煮込みは好きである。
煮込みで一杯はもっと好きである。

煮込みは、豚系でも牛系でも或いは鶏系でも構わない。
なんというかあの下品さがたまらない。

どうも上品そうな食べ物は苦手である。
「すする」とか「ほおばる」とかがいい。

食べて呑んでそして口角泡を飛ばして話をするのもいい。
カウンターで、肩の凝らないような読物を読みながら、呑んで食べるのもいい。
そういうときには煮込みはいい。

「評判記」とあるように、著者は多くの居酒屋を歩く。
歩くというのは、呑み食べることである。

酒場放浪記もそうであるが、うらやましい、と思う反面、いつもの居酒屋でいつものように呑むというのもいいと思う。
この狭間で心が揺れ動くのである。

さて、というようなことで、この本を読みながら、或いはこの本を参考に、東京で呑むことができなかった。
それが、かえすがえすも残念であった。

いずれ、機会があれば、と思うのである。

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東北へ行こう!〔特別対談〕東海林さだお・平松洋子 オール読物5月号

2011-05-16 22:17:56 | 読んだ
ゆっくりと休めないゴールデンウィークをなんとか過ごし、このブログも連続更新が出来、いよいよ読書生活も以前のようになるのか。

と思っていたら、またもや事故に見舞われてしまい、とんでもない一週間を過ごしていた。
やっと落ち着いてきたのであるが、この「落ち着き」がホンモノではないことは確かで、今は危うい道を歩んでいるところである。

さて、今回の「東北へ行こう!」は、東日本大震災にかかる特集の一つで、漫画家でエッセイストの東海林さだおとエッセイストでフードジャーナリストの平松洋子が、東北について、勿論「食べ物」を中心に対談したものである。

東海林さだおはオール読物連載の「男の分別学」、平松洋子は同じくオール読物連載の「いまの味」の取材のため、東北を訪れる予定であった。
というところから特別対談が行われたのであった。

しかし、この二人のことである、話はあっちへ飛びこっちへ跳びで、まとまりのないようにすぎていくのである。

東北といっても、今回大きな被害があったのは、福島、宮城、岩手の沿岸部である。
この沿岸部には「行こう!」といっていないのがいい。

青森・秋田・山形或いは内陸部については被害が甚大でなく、それだけに観光客が減少するのは大きな痛手である。

震災による痛手といつもの収入がない痛手の二つなのである。

そういう意味ではこの対談が、観光の起爆剤になればと思うのだが、やっぱり散漫なのである。
そのあたり、対談を始める前に話し合いはなかったのだろうか?
と思ったりする。

といっても、その「散漫」さを怒っているわけではなく、東海林さだお氏を登場させたのは、そういう「散漫」さというか話があっちこっちへ行ってしまうのを見越して或いはそれを「ウリ」としているんだと思うし、それはそれでいいのである。

であるが、時期が時期だしなあ。
なんて思ったりして・・・

まあこの対談を読んでいくらかでも東北を訪れてもらえればいいと思う。

ウーン、なんだか私も「とりとめない」ことになってきているなあ。
これも東海林さだお氏の影響であろうか?

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嘉壽家堂本店更新

2011-05-08 20:28:07 | 日々雑感
この連休中は休みのようで休みではなかった。
職場には必ず行っていた。

従って、楽しみといえば読書だけ。
何しろ、楽天ゴールデンイーグルスは負け続けていたし・・・

ということから、ずっと更新をしていなかった嘉壽家堂本店を更新した。

更新したといっても、ブログの読書日記をホームページに移しただけなのだが・・・

まあ、ブログの記録といってもいいでしょう。

興味があったらのぞいてみてください。

こちら「嘉壽家堂」です。

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転迷-隠蔽捜査4- 今野敏 小説新潮5月号

2011-05-07 22:57:20 | 読んだ
平成22年6月号から連載され丁度1年のたった5月号(つまり12回)で最終回となった。

隠蔽捜査シリーズの第4弾。
隠蔽捜査シリーズは、警察庁のキャリア官僚で独特のというか正論を述べ正論のままに行動する竜崎伸也を主人公とした小説である。

竜崎は正論を述べ正論のままに行動したことにより、エリートコースからはずれ今は大森署の署長となっている。
しかし、そもそもエリートコースを歩いていた人間であるから、先ず「位」というか「階級」が高い。
従ってそんじょそこいらの署長とは違う。

いわゆる「所轄」として軽く見られている警察署ではあるが、大森署はちょっと違う。

その大森署管内で、事件が二つ発生する。
一つは殺人事件、もう一つはひき逃げ事件である。

この事件の捜査本部が大森署におかれ、幼馴染の刑事部長の伊丹と交通部長の柿本がそれぞれの事件の責任者である。

通常であれば、警視庁の刑事部長と交通部長であれば所轄の警察署長は畏れ多くてかしこまっているだけなのであるが、刑事部長とはオレ・オマエの仲(竜崎は伊丹の事をあまり快く思っていないのがおかしいのだが)だし、なにしろ正論なので向かうところに遠慮無しである。

ところで、この二つの事件は外務省と厚生労働省を巻き込み国際的事件に発展してくる。
で、この二つの省と、警察庁と警視庁、更には警視庁内の刑事部と交通部と大森署の関係を整理しながらでなければ、解決への道はなかった。

そこで、正論だけの竜崎が調整するのである。
このあたりが、事件の解決というか謎をとくよりも面白い。

竜崎がなぜこの難しい調整を行うこととなったのかといえば、いつも竜崎にギャフンといわされている伊丹が柿本交通部長と結託して、任せてしまったからである。

しかもその任せ方が正論派の竜崎が望む条件を全て呑むことであったから面白い。
なにしろ、警察署長の指揮下に刑事部長も交通部長も入るのだから・・・

というわけで、このシリーズは謎解きよりも、竜崎がどのように行動し、その行動に面食らう警察内部の人・外部の人のアタフタぶりが読みどころなのかもしれない。

隠蔽捜査外伝とも言うべき伊丹刑事部長を主人公とした物語も面白い。
今最も気に入っている警察小説である。

追伸
 竜崎のようになれれば面白いだろうと思うが、そうはいかないのが世の中なのである。

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心聴る<ガリレオが帰ってきた!> 東野圭吾 オール読物4月号

2011-05-06 23:06:15 | 読んだ
久々の「ガリレオ」登場である。
題名の「心聴る」は『きこえる』と読む。

物語は脇坂睦美というOLの耳鳴りから始まる。
原因不明の耳鳴りというか低い声は彼女にしかきこえない。

そして彼女の周りで事件が起きる。

第1は、上司(部長)の自殺である。上司は他の部署のOLと不倫をしていたが、その相手が自殺をしたばかりであった。

第2は、同僚が病院で起こした傷害事件である。
彼は、幻聴が原因で傷害事件を起こすのである。それを止めたのは非番で病院へ来ていた草薙刑事である。

第1の事件の調べを進めるうちに死んだ部長も幻聴に悩んでいたことがわかる。

草薙の見舞いにいった湯川(すなわちガリレオ)が事件に関わることになる。

さて、この2つの事件と脇坂睦美の幻聴の原因は?

いつもながらのもったいぶった事件解決の方法であるが、鮮やかであることは確かだ。

物理学者の鮮やかな解決と並んで描かれているのは、草薙刑事の警察学校の同期生で優秀だった北原刑事である。

彼は草薙よりさきに警視庁の刑事になると自他共に認めていたのであるが、依然として所轄の刑事である。
なぜ所轄の刑事にとどまっているのか?
それも彼が事件を調べ解決していくうちに「なんとなく」わかるようになる。

面白かったけれど、やっぱり長編のほうがガリレオはいいんじゃないだろうかなんて思ってしまった。
というか、短篇では物足りなかったのかもしれない。

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新三河物語(下) 宮城谷昌光 新潮文庫

2011-05-05 21:10:30 | 読んだ
いよいよ大詰めである。

本能寺の変で、旧武田領を治めようとしていた織田の諸将はこれらを投げ出し帰った。
その後を徳川家は北条家と争いながら治めようとしていた。

大久保忠世は心からの言葉で旧武田遺臣を徳川に引き込んだ。
しかし、上田の真田昌幸だけはなびかなかった。
それは、徳川と北条の和解の中で、真田昌幸が苦心をして大きな犠牲を払って得た「沼田城」を北条に差し出すことにしたからである。

そして真田は大久保忠世の真心を踏みにじった。

私は、真田太平記を読み真田びいきであるが、真田昌幸についてはチョット馴染めない。それは我が前面に出て、その我のための小技が多すぎるからである。

別の見方をすれば、己を貫きそのためには誰にも屈しなかった、ということでもあるが、それはコジツケではないかなんて思っていた。

今回、この物語を読んで、やっぱり真田昌幸は私好みでないことを確認した。

さて、上田城攻めの失敗は、徳川軍団のまとまりのなさから来たものである、というのがこの物語の解釈である。
それは、徳川信康のシンパであった鳥居元忠・平岩親吉と信康について信長にきかれ「そのとおり」と応えた大久保忠世の不和が原因、というか家康の心の内部の揺れ、信康を失ったことの自分自身に対する後ろめたさ「別の方法があったのではないか」という思いと「あれでよかったのだ」という思いが表面に現れたものである。

そして、それは徳川が天下を取ったときにもっと大きく現れ、遂に大久保党は些細な罪で追放されてしまう。

その怨みが大久保彦左衛門に三河物語を書かせた。

大久保家の基本は
「人知れず善行を積んでいくと、いつか天に褒められる」
というものであるが、その善行を善行と認める者がいないかぎり、現実には褒められることはない。

大久保党は許されることとなるが、三河以来のその考え方は失われてしまったのではないか。

さて、本書でこの時期だからこそ気になる部分があった。

「天下を主宰する者が正しくないと、天は、天変地異をもって主宰者をいさめます。さきの大なえ(大地震、この場合は慶長伏見大地震)は、あきらかに関白の不正を天下に知らしめたのです。(後略)」

ということは東日本大震災は、誰をいさめたものだろうか。
私は日本人全てに対してのものではなかったのか?と思う。
主宰者とは日本人全てのことだと思うからである。

新三河物語を読んでいろいろと考えさせられた。

歴史というのは、それを受け止める側の心構えによって変わるものだが、その心構えをどのように持つべきなのか・・・
まだまだ考えなければならない。

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勝ち逃げの女-君たちに明日はないPART4- 垣根涼介 小説新潮4月号

2011-05-04 11:10:49 | 読んだ
題名のページに

「リストラ請負人・村上真介、久々の登場! しかし今回のミッションは、「辞めさせる」のではなく「引き留める」のだ。しかも相手は「スッチー」だ・・・」

とある。

今回はリストラではなく引き留ということ、まあなんであれ面白くないはずがない。

真介の勤める会社「日本ヒューマンリアクト」の今回のクライアントは、日本のフラッグシップ・キャリアのオール・ジャパン・エアウェイズ(AJA)である。
これは言わずもがな日本航空をモデルとしている。

というところからもうどう扱ったって面白い予感。

但し、今回はリストラではない。
なぜなら、AJAでは業績悪化に伴って希望退職を募ったところ、予定人員を超えてしまい、そのままでは本来業務に大きな支障が生じることとなった。
そこで、予定人員以内に収まるように引き留めることとなったのである。

それでまた面白い予感。

何故予定人員を超える退職希望があったのかといえば、それは辞めたほうが残って苦労するよりもいいように思えるからである。
勤務条件が厳しくなり、なおかつ収入が減る、そして何より世間の反感が強い。更に言えば経営陣への信頼感がなくなってしまったこと。

辞めて何とかなりそうならば辞めたほうがいい。

と思ってしまうだろう。

真介はこの業務においてキャビンアテンダント(CA)の担当となる。
というところで親友の山下から情報が入る。
AJAのCAと知り合い食事をし、彼が席を外している間に合コンの相談を携帯電話でしているところを見てしまった。

また別の情報では、AJAの20代CAの年間の合コン日数が30回くらい多いのはもっとするという。

こういうことから真介はこう考える。
「CAが上がりの仕事」
つまりCAになることが目的で、CAになってからのキャリア形成については何もないんじゃないか。
CAになってからはいわゆる「玉の輿」にのることだけが目標になってしまう。

そして真介の担当するCAに42歳になる浅野貴和子がいる。
彼女はIT企業に勤める夫と子供二人がいる、フライトの時には夫の両親が子供を預かってくれる、というまさに玉の輿プラス何の不満もない境遇である。
彼女は辞めても生活には困らない。

さて、真介は彼女をどう説得するのか?
そして、貴和子はどう決断するのか?

この小説ではCAの実体みたいなものを垣間見ることが出来る。

例えば、CAになる女性に共通する意外な二つの要素。
一つはその学齢が世間のイメージほど高くない。
二つ目は全体の3割から4割が転職してCAになっている。

或いは何故CAは合コンをするのか?
そして、意外と低い年収。

兎も角面白い。
そして、この物語を読むと「生きる」ということはどういうことなのだろうか、と自問せざるを得ない。

東日本大震災前に書かれたとはいえ、日本の豊かさというは実は砂上の楼閣のようなもので、豊かということを享受しているのは上辺だけのこと或いは形だけのことであって、実は人としての豊かさというものは薄れてきているのではないのか、なんて事を考えたりする。

もしこの震災がなかったら、ただひたすらに「面白い」ということだけだったのかもしれない。

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新三河物語(中) 宮城谷昌光 新潮文庫

2011-05-03 22:32:49 | 読んだ
大久保彦左衛門忠教の三河物語を下敷きとした「新三河物語」
中巻は、徳川家康がいよいよ三河から遠江へ進出し、武田との戦いとなる。

「三方ケ原の戦い」と「長篠の戦」が描かれている。

この物語はいわゆる「大久保党」を中心としているので、今まで読んできたものとは違った角度で新鮮である。

徳川の家臣団において大久保党は一族の結束も強く、いわゆる三河気質といわれている律儀で篤実、泥臭さを代表するものではないかと思う。

それは、徳川家が小さいときには素晴らしい輝きを持っていたが、徐々に大きくなっていくにつれ泥臭さを洗練していかなければならなくなってきている。
他の家臣団は遅かれ早かれ変わっていくのであるが、大久保党はなかなか変われない。

その大久保党を著者は愛している、のではないかと思う。
著者は、大久保党の人たちの口を借りて語る。

『(前略)目的とは術に似て、おのれを育てるが、成長をとめるということもする。人がもたなければならないのは、目的ではなく、大志である。大志があるかぎり、人は成長し続ける。(後略)』

『(前略)生きているものが恃みがたければ、死せるものに依り、人が恃みがたければ、天と地に縋るがよろしい。なにはともあれ、人は何かを信じていなければ、生きてはゆけませぬ。』

『天下にとって、害であり毒であるがゆえに、滅ぶのです。(後略)』

『慢心するものは、滅ぶ。』

大久保党は、遠州攻めにおいても、三方ケ原でも長篠においても活躍をするが、長篠の戦いでは、大久保忠世と忠佐の兄弟が織田信長に褒められるほどの戦いをする。

褒められる、というのもなかなか難しい。まして直接の上司でないものから褒められるというのは、直接の上司や仲間達との関係も難しい。

ということで、ただひたすら徳川のために働いてきたのであるが、家康の長男・信康の問題で家中が微妙な常態となり、大久保忠世は抜き差しならない状態に追い込まれ、信長から呼びつけられたときに、信康の非を認めてしまう。

信康の非を責めた信長は本能寺の変で死んでしまう。
そのとばっちりを受けた家康は人生で最大の苦難の道のりを経て故郷に戻る。

そして、武田家の領地であった駿河、甲斐、信濃の経営に乗り出す。
それは、大久保党にとっても大きな出来事になっていく。

というところで中巻は終了。いよいよ下巻へ突入である。

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