読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

東日本大震災5 

2011-04-30 21:28:14 | 日々雑感
東北太平洋沖大地震というのは、気象庁の命名した地震の名前で、政府は東日本大震災という災害の名称にした。

というのはそれなりになんとなくわかるのだが、やっぱりややこしい。

といいつつ、このブログでは震災名称を使うことにした。

さて、あの地震からもう50にちが経過した。
無我夢中で過ごしてきたが、これからも無我夢中の状態が続くと思われる。
それでも私の住んでいるところは、ゴールデンウィークをどう過ごすかとか、田植えをどうするかなどと、落ち着きを取り戻しつつある。

私もこのゴールデンウィークは「とりあえず休み」ではある。
しかし、どこかに行くという予定はないし、何かあったらすぐに対応しなければならないという気持ちがあって、家にいることにした。

といいつつ、本日は津波被害のあった気仙沼市の本吉町に行ってきた。
海岸沿いは勿論のことであるが、川を遡った津波が、山をひとつこえた「津谷」という町をも襲ったことを目の当たりにして愕然とした。

写真は、海岸沿いを走る気仙沼線の小泉駅近辺。


小泉川を渡る国道45号線の橋も流され、相当大きく迂回をしなければならない。

次は大谷駅。
鉄道があったなんて思えない光景である。



そして、大谷海水浴場があった大谷の浜。
すっかり砂浜が消滅している。



こうした光景を写真に撮ることだけでなく、実感として感じたい、と思っている。
出来るかぎり、復旧作業のジャマにならないようにしているが・・・

この50日の間、被災者の人たちから話を聞いた。
その人たちそれぞれに大きな物語があると感じたが、そこを詳しく聞くことは出来ない。
そして、その物語に感想を持つことも出来ない。
ただただ言葉を失い頭を下げるだけである。

世の中には多くの激励や慰めの言葉があり、また悲しみやつらさを分かち合おうとする行動がある。
しかし、今度に限ってはただ黙ってやらなければならないことをするだけである。

昨日、東北楽天イーグルスは本拠地Kスタで地元開幕戦を勝利で飾った。
そして嶋選手が試合後にスピーチをした。

『東北の皆さん、絶対に乗り越えましょう。今、この時を。
 絶対に勝ち抜きましょう、この時を。
 今、この時を乗り越えた向こう側には強くなった自分と明るい未来が待っているはずです。
 絶対に見せましょう、東北の底力を!』


聞いていて涙が出てきてしまった。
近頃はやたらと涙もろいのである。
しかし、泣いてはいられない。

というわけで、このゴールデンウィークは心と体を静養させながら次に備え、読書を中心に過ごそうと思っている。

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白暁-お鳥見女房- 諸田玲子 小説新潮4月号

2011-04-29 17:20:26 | 読んだ
お鳥見女房こと矢島珠世の矢島家はつらい日々を送っている。

長男の久太郎がお鳥見役の裏の仕事である探索に相模にでかけて帰ってこないのである。
行方不明になった場所も徐々に特定されてきているのだが見つからない。

久太郎の妻で鷹姫さまこと恵以も表面上は穏やかに過ごしているが心配は募るばかりである。

また久太郎の弟の久之助は、兄を探しにいこうと石塚源太夫を訪ねるが、源太夫にとめられる。
ところが、その話を源太夫の次男源次郎が聞き、相模に行ってしまう。

そのことに気づいた珠世は、恵以が相模に行きたいと申し出たときこれを許すこととした。

一方、久太郎は記憶を取り戻したが助けてくれた彦三とその孫娘波矢と暮らし続けていた。
しかし、源次郎が自分を探しに来ていることを知り、源次郎を案じ遂に姿を現すこととした。

久太郎を殺そうとした治助との対決。

久太郎は無事我が家に帰ることが出来た。

で、めでたしめでたし、後は誰が治助を操っていたのかを探るだけ、と思っていたら、物語はまた違う方向へ向かうらしい。

久太郎が殺されそうになった事件は、普通であれば物語の本筋となるところだが、このお鳥見女房では違う。

これからどのように展開するのかも興味深いが、実は珠世がそれをどのように「丸くおさめる」のかのほうが興味深い。

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ウィスキーキャット -飲めば都-(最終話) 北村薫 小説新潮4月号

2011-04-26 22:13:32 | 読んだ
東日本大震災の関係で雑誌類が手に入らず、インターネットで購入した小説新潮だが、1週間もかかり、まだ読み終えていないのに5月号が発売された。

4月号では、ずっと楽しみにして読んでいた「飲めば都」シリーズが完結をした。

この物語は、主人公・小酒井都とその周辺の人たちが巻き起こす「酒の失敗」の話である。

酒の失敗というのは、酒を飲んだから湧き上がるその人の本性が巻き起こすものである。
誰だって、時分をまっすぐに表現しているわけではなく、飾ったり或いは意図的に汚したりして自分をあらわしている。

それが、酒を飲んだがゆえに、突如として、何の前触れもなく、まったく意外な展開で、それまで演じてきた或いはそう思わせようとしたきた自分から脱け出してしまうのである。

それは一つの物語になる。

といっても、実社会においては、その物語はたった一言
「酒を飲んでいたからなあ」
でおわり、心優しき友人、知人、先輩、後輩、上司、部下、隣人、知人たちは、何事もなかったかのように、酒の上での失敗ということで目を瞑ってもらっている。

しかし、この「飲めば都」シリーズは、そこを深く追求し、なぜ彼・彼女達はそのようになってしまったのか、本人に成り代わって分析を行い研究課題とするのである。

もっとも、分析をし研究をしたところで、つまりは「酒のせい」で片付いてしまうのであるが・・・

さて、最終話では、結婚をした都が新婚生活を送る中で、酒についてというか酒と人について考えさせられるお話が語られている。

都さんも若いときから比べれば、酒の上の失敗も少なくなり、そして周囲の人たちの酒の失敗も新鮮でなくなってきたようである。

若いときというのは何事も「新鮮」に感じられるのかもしれない。
それが年を経るにつれ、動じなく或いは鈍感になるのだろう。
もっとも年をとっても新鮮で敏感であるのは「つらい」と思うが・・・

兎も角今回でとりあえず最終話。
次のシリーズがあるのか、期待しながら待ってみたい。

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新三河物語(上) 宮城谷昌光 新潮文庫

2011-04-24 18:41:34 | 読んだ
「三河物語」は大久保彦左衛門忠教が著したものである。

「大久保彦左衛門を知っているか?」
と、周囲の若い人たち(30代を含む)に聞いたら知らないという。
そういえば、近頃「一心太助」のドラマもないし、徳川家光を主人公とした時代劇もないので、知らない人も多いだろう。

大久保彦左衛門といえば「天下のご意見番」としてドラマでは有名であるが、歴史上では「三河物語」という貴重な歴史資料となる記録を著している。

その三河物語を土台にしていると思われる「新三河物語」が三河出身の宮城谷昌光に寄って描かれると聞けば、読まずにはいられない。
文庫は上・中・下の3巻になっている。

徳川四天王には酒井、本多、榊原、井伊となっているが、なぜ大久保一族のうち、例えば大久保忠世とか大久保忠隣が入っていないのかとおもうほど大久保氏は徳川に尽くした。
尽くしたけれども、幕府成立後に失脚をしてしまう。
たぶんこの失脚によって大久保一族はその勲功が喧伝されなくなったのだろう。

私は、山岡荘八の「徳川家康」の大ファンで、従って戦国期のなかでは徳川家康が大好きである。その「徳川家康」では、大久保氏について詳しくは描かれていなかったので、今回は非常に楽しみである。

さて、上巻は「桶狭間の戦い」から幕が開く。
桶狭間の戦いが終わった後、家康(このころは松平元康)は今川の呪縛から逃れ、三河の岡崎で自立する。

そして、家康は大きな試練に揉まれる。
それは領内における一向一揆である。
一揆といっても家臣も一揆側に加わる。
宗教戦争であるから、非常にややこしい戦であり、いわば領内における消耗戦である。

家臣団も一揆側と家康(領主)側に、親子兄弟、親族がそれぞれの思惑で別れている。
その中にあって「大久保一族」は一族挙げて家康につき、大活躍をする。

家康というか徳川家にとっては大きな試練であったが、試練を乗り越えたことによりその後着実に大きくなっていったといえる。

身内同士の戦いで目に見えて得るものがなかったのだが、なんというか訓練が実践で行われたというかんじである。
しかも、その後の徳川家の中核となる人たちは、このとき家康をはじめとして「若い」のである。この人たちにとっては大きな教訓ともなっただろうし、経験をつむことが出来たし、自分達のなかでの実力もよくわかったと思う。

その若い人たちの中にあって、大久保一族(大久保党)の総帥、大久保忠俊(常源)の存在は重く頼りがいがある。
こういう年寄りになりたいと思う。

後年、家康の謀臣となる本多正信がこの一揆のときは一揆側の参謀格としている。
正信は「戦わずして勝つ、或いは勝つべくして勝つ」という戦略を基本とする。

これは正しいと思う。
しかし、そのことを味方にも悟られてはならないのである。
つまり戦は「戦わずして勝つ、或いは勝つべくして勝つ」べきなのであるが、形としては「戦をした人たちの力で勝った」ことにしなければならないのである。
決して、大きな戦略で勝ったことを第一の手柄にしてはならない、と思う。

さて、この本多正信は後年大久保党にとっては大きな存在となる。
このあたりも含めて中・下巻を読んでいきたい。

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ゆんでめて<しゃばけ> 畠中恵 小説新潮連載

2011-04-20 22:22:36 | 読んだ
小説新潮に2010年2月号から6月号まで連載されていたもの。

すでに単行本となっているが、小説新潮をひっくり返して改めて読んだのである。
連載中には、連載終了したらまとめて読もうとは思っていたのである。しかし、何tなく読みそびれていた。

今回、震災の復旧のさなか、ちょっと息抜き用にと思って読み始めたのである。

今回は、
「ゆんでめて」
「こいやこい」
「花の下にて合戦したる」
「雨の日の客」
「始まりの日」
の5作連作である。

で、この連作徐々に念がさかのぼっていくのである。
だから、連作最後が「始まりの日」となるのである。

最初の「ゆんでめて」が若旦那(主人公の一太郎)の甥である松太郎が4歳の時、次の「こいやこい」は3歳の時、「花の下にて合戦したる」が2歳の時、「雨の日の客」は2ヶ月の頃の話である。

で、この連作では大きな仕掛けがしてある、ようだ。
「ようだ」というのは、私もよく説明ができないからである。

どうも、最初の4作は、若旦那が本来行くべきはずであった「ゆんで」(つまり弓手であるから右)にいかず、「めて」(つまり馬手であるから左)へ行ってしまったことによる起こった出来事で、最後の「始まりの日」は本来いくべきはずである「ゆんで」にいったことによるもの、らしい。

それで、この仕掛けなんだが、よくわからないし、よくわからないから不用ではないか、なんて思ったりするのである。
(でも、この仕掛けがないとこの連作は成立しない、ということもなんとなくわかる)

一つ一つの物語はそれなりに面白いし、それなりに深いのだが、つまりは「それなりに」なのである。

なんだか初めて「しゃばけ」を読んだ時に感じた面白さから比べるとそれなりだし、シリーズが続くことによる円熟味もそれなりのような気がするのである。
ちょっと辛口にいえば「なかだるみ」のような気がする。

これから主人公の若旦那はどうなっていくのだろうか?
ということが、シリーズになって続いていることにかんする興味の大きさだと思うのであるが、なんだかあまり変化がないようなそんな気がするのである。

さて、しゃばけシリーズの最新版は小説新潮でいま連載中である。
そちらは一体どうなっているのか、楽しみにして連載終了を待っている。

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日本辺境論 内田樹 新潮新書

2011-04-18 21:21:39 | 読んだ
2009年11月に発表され、話題となった本である。

で、2010年2月に購入した。
しかし、その後ずっとほったらかしにしていて、この震災のあと、部屋の片づけをしていて見つけた。

それで、この1ヶ月、少しづつ読み続けたのである。

「はじめに」にこの本の趣旨が書いてある。

「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる」
だそうである。
そして、その説明のためにだけこの本が書かれている。
というか、その証明を多くの書物、出来事から検証している。
ただそれだけの本である。

だから、この本を読んで『新しいことを知る』ということにはならなくて『なるほどそういう理由だったのか』と確認をすることになる。

日本は有史以来、自分が辺境の民であるということを自覚している。
そして、その辺境性を意識的に利用したり、知らず知らずのうちに発揮して、これまですごしてきた。

それは『いい』とか『悪い』ということではなく、今もう一度この辺境性を理解していこうではないか、というのが、著者の言いたいことではないだろうか。

で、その主張を肯定するのか否定するのか、といえば、「なるほど、そうである」と思う部分と「それは、ちょっとなあ」という部分と「なんだかよくわからない」という部分がある。

が、私としては概ねうなづけるものであった。

それで、概ねうなづいてそれを何かに活用しようか、ということができないのが本書の特徴でもある。

そうだったのか、ということを知って、では何をしようかとか何かできないか、と考えることはできないのである。

つまり、この本は内省の本なのかもしれない。
それゆえに著者はこの本は外国語に訳して紹介されることはないだろう、と言ってる。
日本人が日本について考えるためのもの、なんだろう。

日本の特殊性や文化を「辺境」と言う言葉で全て説明できるとは思わないが、多くの部分(面積)とある程度(深さ)は「そうだろうなあ」と思える。

なんというべきか、誤解を恐れずに言ってみると、「自分探し」の本ではないかと思うのである。
自分を探していたら、なお深くわかる部分もあり、なんだかよくわからない部分もあり、結局は探す前とあまり様子は違わない、しかし、探そうとした自分がそこにいたことはしっかりと確認できた。
そういう感想である。

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東北太平洋沖地震4 余震

2011-04-12 21:30:24 | 日々雑感
4月7日の地震は、本当に余計だった。
いまでも余震が続いているが、私のところでは7日の地震で振り出しに戻ってしまった。

だいたい「余震」というのが気に入らない。
震度6強で余震というか?

「東北太平洋沖地震再び」とかなんとか名前をつけてくれ。

で、その余震の後始末も本日はやっと目鼻が立ち、早く帰ってこれたのであった。

しかし、この地震は一体なんなのだろう。
3月11日は長い地震だった。
あれは次々と連鎖していったんだろうなあ。

やっと片付けて、さあ明日から!
という矢先の地震で心が折れそうになるのだが、そして本を読む気にもなかなかなれずにいる。

もう少し頑張れば何とかなるだろうと、自らを励まし、なんとかやっています。

それにしても、今日の楽天、嶋くんのホームランは感激だった。
何度見ても涙ぐんでしまう。

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東北太平洋沖大地震3

2011-04-05 22:55:55 | 日々雑感
3月11日からもう少しで1ヶ月になる。

なんだかとってもせわしなくバタバタとした日々を送っていたが、徐々に落ち着きを取り戻している、というか、そのバタバタに慣れてしまったのかもしれない。

何しろ、近頃では震度3の地震は「あっ揺れているな」ぐらいで、いましていることを中止することなどはない。時には地震に気づかないくらいなのだ。
また、震度4でも「ちょっと大きかったか」ぐらいである。流石に震度4の地震は気づく。

今はこれからどうしようか?
ということが中心である。

私の住んでいるところは海がないため津波の被害はなかったが、それでも家屋の倒壊はおおかったし、道路の凸凹はヒドイ状況。

やっと、商品がそろいはじめ、ガソリンも長い時間並ぶこともなく購入できるようになり、人々の気持ちも落ち着いてきた。

落ち着いてきて考えることは、これから、のことである。

これがなかなかに頭が痛い。
特に頭がいたいのは「お金」の問題である。

兎も角復旧することだけを考えていたときのほうがずっとラクであったように思える。

なにしろ1千年に1度の規模の災害である。
復旧は10年単位になると思う。
長丁場を走りきれるスタミナ(お金)が続くのか?
そのあたりが最も問題なんだと思う。
そして、そのあたりがなかなか目に見えないので、人々の不安は消えないんだと思う。

では、いくらあればいいのか?
という問いにも答えられないのが更に苛立ちを募らせる。

というようなわけで、落ち着きを取り戻しつつはあるのだが、そうなればそうなったでまた問題が生じているのである。

で、思う。
放射能の問題、どうにかならないのだろうか?
日本中のイライラが収まらないもっとも大きな問題である。


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