読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

青春のうた 第41巻 1970年代中期⑬

2007-08-31 23:34:30 | 読んだ
1.明日に向かって走れ/吉田拓郎 1976年3月

この歌が出た頃の私は「どん底」だったような気がする。
何をしてもうまくいかない状態だった。

今にして思えば、それはすべて「身から出たさび」なのだが、当時はただ不運なんだと思っていた。

この歌を聞いてなんだかホッとしたような気がした。
「こぶしを握りしめて、明日に向かって走ろう」とは思わなかった。

『この歌はなんだかさびしいな』と感じていたのである。
どこにもやり場のない寂しさや怒りや苦しさを「明日に向かって走れ」という言葉で表しているように感じていたのである。

拓郎は「金沢の事件」で勢いが失墜したがその後フォーライフの設立やつま恋のコンサートで盛り返しを見せていたので、またまたすごい勢いになるんだろう、と思っていた。ところがこの歌で複雑な心境を知らされたような気がした。

だから、この本に書いてあるような「『明日に向かって走れ』とは、まさに自分の会社を設立し、将来への希望に燃える彼の気持ちを素直に表したタイトルだった」とは思えないのである。

この歌は、自分を奮い立たせようとするときに歌う。

2.水無し川/かまやつひろし 1975年11月


この歌の作詞は「松本隆」である。
テーマは「木綿のハンカチーフ」と同じだと思う。

この当時はまだまだ「東京」は憧れの地であり「東京に行けば・・・」という気持ちがあふれていた。
田舎にいては何もできない、とまでも思っていた。

しかし、そう思う心の片隅で「東京に行っても埋もれるだけだ」という気持ちもあった。
だから
♪ いちかばちかが男の賭けさ ♪
と歌われるのである。

そして、田舎に残してきた恋人と田舎を思い、田舎は変わらないという思いを描くのである。
だが、田舎も変わってしまうのである。

若さというのは前に進むことに長けている。
それがこの時代のそして日本の原動力となったのだが、その若さが30年を経ると「あれは失敗だったかなあ」なんて思ったりするのである。

そう思っても、今の日本には失敗を認めてやり直す若さも残っていないのである。日本は旧態依然である。


3.あいつ/風 1975年6月

かぐや姫が解散した後、伊勢正三は「風」というグループで、その叙情性を更に煮詰めていった。
煮詰めすぎてしまったきらいもあるが、この当時はまだまだ伊勢正三の歌は新鮮であった。

というものの、この歌は今回はじめて聞いたのである。
いかにも伊勢正三のうたである。

当時聞けば心に残る歌になったと思うが、今聞くとノスタルジアのみである。


4.うちのお父さん/かぐや姫 1974年3月

かぐや姫の最高のアルバムといえる「三階建ての詩」の中の一曲である。
初めて聞いたときは「なんじゃこりゃ」と思ったものだ。

しかし、何度も聞いているうちに心に響くものがあった。
こういう風に「父」を歌えるなんて、南こうせつは幸福だなあと思ったのである。

「ニッコリ笑う」お父さんが目に浮かぶようである。
そしてお父さんのためにも「明日天気になあれ!!」と思うのだ。

ちなみに
「汗をかいたので ひと休み」の後の<チャカチャカチャ>というリズムのところ、当時高校生だった我々はリングノートのリング部分をギターのピッグで<チャカチャカチャ>とやっていたのである。


5.風の街/山田ぱんだ 1975年7月

喜多条忠の作詞、吉田拓郎の作曲である。
この歌は、テレビドラマの主題歌だったらしい。
しかし、当時私はテレビのない生活をしていた。
テレビも冷蔵庫も洗濯機もなかったが、それなりに面白く生きていた、と思う。

面白く生きてはいた、と思うのは今だからで、「明日に向かって走れ」の稿でも書いたが「不運だ」と思っていたのである。

この歌に登場する
♪ 道の向こうで 手を振った ♪ 「あいつ」や
♪ 白い仔犬を抱き上げる ♪ 「君」
♪ 僕の名前を呼ぶ ♪ ちょっぴり大人びた「君」
のような友達が当時はいなかった私には、すごくうらやましい歌であった。

そして、表参道・原宿 は、すごくまぶしくて、東京にいる間行ったこともなく、とうとう今まで行ったことがないのである。


6.アザミ嬢のララバイ/中島みゆき 1975年9月

中島みゆきのデビュー曲である。
この本では、次の曲「時代」(第6回世界歌謡祭グランプリ曲)で、中島みゆきは大きなスポットライトを浴びることになる。とあるが、私としては、この歌のほうが好きである。

『時代』はよく言えばスケールが大きい、悪く言えば大向こうを狙ったような歌である。
それに比べてこの「アザミ嬢のララバイ」はなんというか「同感度」が高い歌である。

3拍子のリズムが「哀愁」を感じさせる。

サビの部分の
♪ 春は菜の花 秋には桔梗 そして あたしは いつも 夜咲く アザミ ♪が、なんともいいカンジなのである。


追伸
 今回の41号は、昨年のつま恋のコンサートに出演したメンバーを集めたのだそうである。
 つまりは、吉田拓郎、かぐや姫(南こうせつ、伊勢正三、山田パンダ)、かまやつひろし、中島みゆきである。
 ちょいと感心したのである。

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江戸300藩 殿様のその後 中山良昭 朝日新書

2007-08-29 22:42:55 | 読んだ
江戸時代の大名がその後どうなったか?
ということには大いに興味がある。

明治時代になって「華族」となり、まあある程度の家格を保っていたとは思うが、何しろ名前だけの「お殿様」であって、家臣がいるわけでもなく、名と実との間で色々あったのではないか、などと勝手に考えたりしていたのである。

そして、戦争が終わって華族制度が廃止されたあとなどは、なお大変だったんだろうなあ、と同情に近い思いもしていたのである。

「世が世ならば・・・」色々だったろうになあ。

とまあ漠然とずっと前から考えていたのである。
どうも私の興味というのは「物語のその後」にあるようで、何かの物語を読み終えても「このあとはどうなるんだろう?」と思ってしまうのである。

そういう私のリクエストにお応えするように、この本があったのである。

サブタイトルに「明治から平成まで、大名はこう生き抜いた」とある。
しかも幕末の大名家全部の「その後」を調べ書いているのである。

これを読まずして何を読むべきや、と私は世間に問いたい!

さて、こういうものにはいろいろと制約がある。たとえば「大名」とは何をさしていうものなのか、という大命題がある。あるいは石高、藩が位置した旧国や郡の名前など・・・
私はあまり気にしないのだが、ゼッタイにこのあたりを気にする人が存在し、何かとおっしゃるに違いない。
そいうことへの気遣いからスタートしなければならないのである。

で、読後であるが、一言で言えば「期待したほどではない」のである。
このあたりは著者も「はじめに」の中で『おことわり』をしている。

曰く
「本書は日本の近現代史に与えた旧大名家の影響を検証したものである。したがって、旧藩主家、旧華族として何らかの社会的に有意な活動をした方についてのみ記述している。」
「直系が断絶していることが判明している場合にはその旨を記載したので、記載のない方については、ほとんどの場合、家は存続し当主も健在だが、あえて確認・記載するほどの社会的事績が見いだせなかったということと解釈していただきたい」

つまりほとんどの大名家は、いまや市井に埋没してしまったということなのだ。

まあそういう方針であるからして、本書はそういうもので仕方ないが、私の期待・知りたいこととからはかけ離れている。
市井に埋没した大名家の子孫たちは今どのように生きているのか、どんな考えを持っているのか、「世が世ならば」という気持ちは少しくらいあるのか、などなど・・・本当に「卑しい」疑問で申し訳ないのだが・・・こういう疑問には本書は答えていないのである。

ただそれにしても、江戸300藩の大名たちの子孫のその後を垣間見ることだけでもスゴイとは思ったのであった。

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角川文庫 ブックカバー

2007-08-28 23:32:59 | 読んだ
夏の角川文庫で2冊読むと必ずもらえる、というブックカバーを入手した。
今年は池波正太郎「人斬り半次郎」の上下でゲットである。

昨年は鉄腕アトムだったので、今年もその路線を継承し「ゲゲゲの鬼太郎」にした。
いいブックカバーであるが、これに文庫本を包んで公衆の面前で読書をするのは、ちょいと「おしょすい」(恥ずかしい)

というわけで、これがブックカバーでありやす。



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栗駒山

2007-08-26 22:05:45 | 観た、聴いた
栗駒山は宮城・岩手・秋田の境界にある。
私の住んでいるところから見えるいちばん高い山である。

中学校や高等学校の校歌にもでてくる象徴的な山である。
そして、中学のときも高校のときも学校行事で行う「登山」といえば栗駒山である。

その栗駒山に今日行ってきた。
目的は「温泉」である。

ここ数ヶ月公私共に「いっぱい・いっぱい」の日が続き、それが金曜日にひとまず収束し、係の人たちに「慰労会」をしてもらった。

そして昨日今日と暑さがぶり返したので、避暑(家にはエアコンがないが車にはある)とドライブを兼ねて温泉にでも入ってゆっくりしようと思ったのである。

栗駒山にはなんと3年ぶりであった。
そのときに行った「森のくまさん」というとことのピザとパンがおいしかったのでそこで昼食をとることとした。

森のくまさんでは、ピザとケーキと珈琲を食した。
パンとかパスタが前回はあったのだけれど、今回はなかった。しかし、ピザは石窯で焼いたもので大変おいしかったのであります。
もし何かの機会で栗駒山を訪れたら是非食べてみてください。

森のくまさん、左側がログハウスで食事・宿泊施設、右が石窯のある小屋です。


続いて、温泉です。
栗駒山にはいろいろと温泉施設があるのだが、今回は中学・高校と登山の際に宿泊した「駒の湯」にした。

我々(私と妻)が中学高校時代に宿泊した施設はさすがにもうなかったが、山の懐に抱かれたようで、ゆっくりと入浴をしてきた。


というわけで、皆さん残暑お見舞い申し上げます。
少しは涼しい風も吹きはじめましたが、健康管理には十分注意しましょう。
心の疲れは身体の異常に、身体の疲れは心のささくれとなります。
たまには、どっかで、のんびりとしてはいかがでしょうか。

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加山雄三 若大将シリーズ NHK・BS

2007-08-22 23:41:32 | 観た、聴いた
今週月曜日から木曜日まで、NHK・BS2で、懐かしの加山雄三若大将シリーズを放送している。

「懐かしの」といったって、リアルタイムで映画館で見たということはない。
テレビとかで見たりはしていたが、丁度20才頃、リバイバルということで若大将シリーズが映画館で徹夜で上映されたことがあり、その頃見た記憶があるのである。

で、今回は
月曜日が「大学の若大将」シリーズ第1作1961年
火曜日が「ハワイの若大将」シリーズ第4作1963年
水曜日が「アルプスの若大将」シリーズ第7作1965年
そして明日木曜日が「レッツゴー若大将」シリーズ第9作1967年
となっている。

本日まで3作を見たわけであるが、この映画に「リクツ」を持ち込んでは楽しめない。

たとえば今日見たアルプスの若大将では、ローマで星由里子扮する「澄子」さんと観光を楽しんだ後行ったレストランで、いきなりステージに上がりギターを弾きながら日本語で歌を歌う、なんてことに「なんでやねん」と突っ込んではいけないのである。

また、毎回毎回、主人公の田沼雄一とヒロイン澄子が些細な誤解からすれ違うのも、必ず大学選手権のスポーツで逆転優勝するのも「お約束」なのである。

澄子さんが田中邦衛演じる青大将をうまく利用して捨てることにだって、青大将に同情してはならないのである。

ともかく、加山雄三さえカッコよければいい!、というコンセプトのもとに作られている映画なのである。
それだけに、単純明快に画面を楽しみストーリーを追っかけ、よかったよかった、ということでいいのである。

それにしてもこの映画に登場する若者たちは、今でさえ相当のイイトコの人たちである。あんなに遊んでいるなんてスゴイのである。
大学、というものにまだまだ権威があった時代なんだなあ、と改めて思い、青春を謳歌する、なんてのは今の時代もうできないことなんだろうなあ、なんて思ったりもするのである。

思ったりもするのであるが、そういう思いはそっちへ追いやって、ただひたすら愉しむのがこの映画を見る姿勢といえる。

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こんちき-あくじゃれ瓢六捕物帖- 諸田玲子 文春文庫

2007-08-20 23:02:28 | 読んだ
あくじゃれシリーズ第2弾。
今回も6話である。

瓢六は牢から出てお袖と熱々の生活をしているが、廻りがほっといてくれない。
さまざまな事件が瓢六の周囲で起きる。

一方同心の弥左衛門は愛もせず断った見合い相手の八重を思う心は激しくなるばかりである。

訳ありの母子と弥左衛門の恋が6話全体を通す柱となっているが、6話それぞれが独立した物語となっている。
瓢六が牢に入ったり、お袖も牢に入ったり、瓢六の仲間たちが瓢六を心配して牢屋に入りにきたりして、まったく「牢屋をなんだと思っているんだ」と突っ込みを入れたくなるような展開もある。

ということで、2冊を読んで、オール読物で再開されたものを読み始めようと思う。

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あくじゃれ-瓢六捕物帖- 諸田玲子 文春文庫

2007-08-19 22:47:52 | 読んだ
オール読物の7月号に、諸田玲子「きらら虫」とあって『再開!あくじゃれ瓢六』となっていた。

なんだ?「あくじゃれ瓢六」って、と思っていたら、本屋で文庫を見つけた「あくじゃれ」と「こんちき」の2冊である。

暑い夏に長編の読物はきついが、このシリーズは1話完結式なので、丁度いい。
しかも、内容も暑苦しくない(つまり、くどくなく、あっさりしていて、それでいてこくがあるような)ので、この暑い夏はこの「あくじゃれ瓢六」シリーズで乗り切ったともいえる。

しかも、読み終えたら、暑い夏も去り、涼しい風が吹き始めた。

さて「あくじゃれ瓢六」であるが、「絶世の色男、粋で頭も切れる目利き」と紹介されている。

主なレギュラーメンバーは、この瓢六。

お袖。瓢六にくびったけで、かつて大店の妾で手切れのさいに桁外れの金子を手にし働かなくても一生暮らせる身分なのに、自前で芸者にでている。

篠崎弥左衛門。北町奉行所の定廻り同心。独身、無骨で融通のきかない世渡り下手。

源次。岡っ引き、瓢六とかかわりあうとロクなことがない。

さて、このあくじゃれ(この「あくじゃれ」という意味がよくわからないのだが・・・)は6編の物語から成っている。

設定の面白さは、瓢六が牢屋にいるということである。
事件が起きると、瓢六の探偵能力に目をつけている与力:菅野一之助または同心の弥左衛門によって期間限定で解き放たれ、謎解きをするということである。

牢屋の中は情報の宝庫、その情報を基に謎解きをするというのは面白い。

そして、謎解きをするくらい『できる』のにどちらかといえば「いい加減」な瓢六と堅物の同心・弥左衛門がいいコンビネーションで物語を作る。
そして、稀代のやきもち焼きのお袖が妙な具合に絡む。

「お鳥見女房」とはまた違った味わいがある。
私は諸田玲子の時代物のファンなのでどうしても点が甘くなるが、肩のこらない時代物ファンにはお勧めである。

といっても、すでにご存知の方のほうが多いと思われ、何をいまさら、という感がたっぷりではあるが・・・

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秋の空 秋の魚

2007-08-16 21:58:29 | 日々雑感
昨日までの空と違って、今日の空はいわゆる「天高く」というカンジであって、ああ秋の空だなあ、と思ったのである。

今日も暑かったが昨日までの暑さとは違って「落ち着いた」というか、我慢できないというほどでもなかった。

また、風も昨日までは東風だったのだが、今日は西風、風も涼しい。
こうなるとまたもや「秋きぬと目にはさやかにみえねども・・・」の歌を思い出したりするのだが・・・

こちとらはそれほど芸術とか「心の秋」とかにこだわるタイプでもなく、たまたま出かけた港町の魚屋でみつけた「秋刀魚」に、ついつい思わず当然のごとく口の中から「秋を食したい」いやいやそんな高尚な思考回路ではなかった、単純に「食べたい」とおもったのである。

であるからして、秋刀魚を購入し七輪で焼いて食べたのであった。
ちなみに写真の上にあるのは「つぶ」と呼ばれている貝である。



なんというか、いわゆる「秋」を汗を流しながら感じたのであった。

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新潮文庫 ブックカバー Yonda? Aloha Book Cover

2007-08-15 22:06:53 | 読んだ
新潮文庫の100冊から2冊を読んで(別に読まなくてもいいのか)応募すると必ずもらえるというアロハ・ブック・カバーが届いた。

ポケットのついているやつで、見た目は布っぽいがビニールである。
色は紺でした。



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青春のうた40 1970年代前期⑪

2007-08-14 18:27:27 | 読んだ
1.あの人の手紙/かぐや姫 1972年4月

かぐや姫の歌の中では「異質」である。
真っ直ぐな「反戦歌」である。

前奏のコード進行が「Am-C-D-E7」の威勢のいいのりのいいカンジである。
それで反戦歌なので盛り上がる。

よく、歌ったのものだ。
複数でうたうときはちゃんとバックを勤めて歌わなければならないのである。だからひとりで歌うのはさびしい。

2.何とかなれ/古井戸 1972年3月

初めての曲である。

なんとなく「重い」感じである。
これ当時聞いていたら、たぶん、覚えようとしただろう。

年齢と時代背景とによって、歌というのは違って聞こえるものだ。

3.サイクリング・ヴギ/サディスティック・ミカ・バンド 1972年6月

この歌を初めて聴いたとき、懐かしいようでいて新しいようなカンジだたたし、さわやかなのにどことなく猥褻なにおいもあるし、ということですごく新鮮であった。

当時は「重い」或いは「メッセージのある」歌が主流だったので、このように軽い歌が新鮮に感じられたと思う。

大体「サイクリング」なんてもう当時でもそんな楽しいレクリエーションでもなく、ましてや歌詞にあるように「峠の小径」なんか自転車で走るなんてことをしようとは思わなかったのである。
であるが、なんだかこの歌いいんだよねえ。死も曲も。

この後、サディスティック・ミカ・バンドは「タイムマシンにお願い」を出すのであるが、加藤和彦の感覚、というのはなんだかすごいなあ、とこのあたりから思っていたのであった。

4.黒いカバン/泉谷しげる 1972年4月

レコード版というか原曲も面白いには面白いのだが、良くラジオで聞いていたのはいろいろなライブ版であり、歌詞が適当に替わっていて、更に過激だったり滅茶苦茶になっているものだった。

それから、長い間この歌の詩は「泉谷しげる」だと思っていたのだが「岡本おさみ」であった。今回わかったのではないが知ったときは驚いた。

いかにも泉谷しげるがやりそうなことだったので、そう思い込んでいたのである。しかし、あの襟裳岬や旅の宿などの吉田拓郎と名コンビの岡本おさみの作詞とは驚いた。

5.春は静かに通り過ぎてゆく/ロック・キャンディーズ 1971年6月

噂には聞いていたのだが、ロック・キャンディーズ。
谷村新司がアリスを結成する前のグループということであった。

創造していたのは、メルヘンチックなやさしいものだったが、アリスの売れてきた以降のように「太い」カンジであり、ちょいと驚いた。

6.知床旅情/加藤登紀子 1970年12月

知床に行ってみたい、と思ったなあ。
まだ行っていないけれど・・・

森繁久彌の作詞・作曲というのも驚いたが、何故加藤登紀子が歌うのかがよくわからなかった。

急いでいる、忙しいことが美徳のような世の中だったような気がする。
そんな中で、このような自然賛歌がのんびりと歌われたことが、ヒットの要因なのかもしれない。

森繁さんが歌うのもいいけれどあれは「語り」であって、「歌」ということでは加藤登紀子かなあと思うのである。


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今年は豊作 の予感

2007-08-13 21:10:52 | 日々雑感
ここ数日、くしゃみが増え目が痒くなっている。
「花粉症」の症状である。

私は『イネ科』の植物に反応する花粉症で、この時期は「稲」そのものの花粉に反応しているらしい。

で、この時期(お盆のころ)に花粉症の症状が激しいと「豊作」なのである。
これ、まあ私のみの統計なのだが「あたる」
もっとも、このあと台風などの被害がない場合という、もう一つの要素、が加わるのであるが・・・

「豊作」といっても近頃は素直に喜べない状況である。
以前は、米の収穫量が多ければ多いほど「収入」も多かったのであるが、近頃はその質(農薬等の使用の有無、使用の量、出来具合など)によって値段も変わり、また「競争」が出てきたので豊作であれば価格が下がる、政府が一括して買い入れていた頃とは違うのである。
とはいうものの、不作とか凶作よりは豊作のほうがいいわけである。

花粉症でくしゃみをしながらそんなことを思っているのである。

追伸
 暑い暑い日が続いているが、今日も気温的には高いが風が秋に近づいているようなそんな気がする。もう少し冷たい風になると「秋きぬと目にはさやかにみえねども、風の音にぞ驚かれぬる」の歌のようになるのであるが・・・

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読書と暑い夏

2007-08-09 22:50:08 | 日々雑感
私の住んでいる地域は、たとえば寝苦しい夜が続くような「暑い夏」は約1週間程度でぐらいである。

それから私は冷房というのが苦手なのである。

従って、私のパソコンを置いている部屋や寝室は冷房はない。

それでここ数日が、私にとっては「猛暑」なのである。こういう場合、読書はなかなか気が進まない。

ということなので、読んでいる本はあるものの、なかなか読みきれないし、読書日記をつけるにも、なんだか億劫なのである。

という、言い訳の読書日記なのである。

追伸
 本日は高校野球で仙台育英が勝ったので、ある程度気分いい。

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せんこう花火  吉田拓郎

2007-08-07 22:57:46 | 観た、聴いた
この季節、思い出すのは拓郎の「せんこう花火」である。

アルバム「元気です」に収められているこの歌は、作詞が古屋信子、作曲が吉田拓郎である。
短い曲なのだが、イメージ的にはボリュームたっぷりの名曲である、と思う。

とりあえず短いので詩を

♪ せんこう花火がほしいんです
 海へ行こうと思います

 誰かせんこう花火をください
 ひとりぼっちの私に
  
 風が吹いていました
 ひとりで歩いていました

 死に忘れたトンボが一匹
 石ころにつまづきました

 なんでもないのに
 アア 泣きました♪


この曲を高校時代のあの「多感な」ときにきいたら、やっぱり「イチコロ」ですよ。

一生懸命がんばって E-C#m-F#m-B7 という、いわゆるバレーコードを習得したのは、この曲があったからです。
そして、♪風が吹いていました♪の部分で、EからGへ行くという当時思いもしなかったコード進行に驚き感動したのでした。

そうして最後の部分♪なんでもないのに ああ 泣きました♪は、そういうことってあるんだよなあ。
と同感、同感、同感の嵐であったのです。

そういいながら、線香花火を物干し竿の洗濯はさみにはさんで、一回で10個くらい並べて燃やしていた、ぜんぜん情緒のかけらもない高校生でもあったのです。ワタシ・・・


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みなとみらいで捕まえて 鯨統一郎 光文社文庫

2007-08-06 22:24:23 | 読んだ
またしても、鯨統一郎である。
「おもしろい」ということにかけては、今いちばんのお気に入りの作家である。

今回は、訳あって警視庁から神奈川県警に出向してきた警部「半任優里(はんにん・ゆうり)」が主人公である。
その相棒は、神奈川県警の女性刑事「南登野洋子(みなとの・ようこ」である。

この名前からしてすでに「面白いムード」を出しているではないか。

事件は8話。
全て論語の題名がついている。
第1話 利によりて行えば怨み多し
第2話 三十にして立つ

といった具合で、この論語がキーワード、かといえばそうでもなく、なにやら「こじつけ」のようでもあるのだ。

そして概ねこれら事件を解決するのは「めいたんてい」である。
これもややこしくて、横浜中華街にある「酩淡亭(めいたんてい)」の地下にある「明探偵事務所」の117歳の明丹廷(めいたんてい)という探偵(この老人は論語の研究家でもあるという)が論語を語りながら、血を吐きながら、御簾の内側にあるベットの上でなぞを解くのである。

また、殺人事件の被害者たちは「ダイイング・メッセージ」を残すのであるが、それがまた、ややこしい、どうせ残すならもっと分かりやすいものにしたらいいのに、と思う変なメッセージなのである。

しかも台所で「ダイニング・メッセージ」「ダイビング・メッセージ」「ダイイング・マッサージ」など、やたら訳のわからない「メッセージ」がある。

そして、半任警部と南登野刑事との、かみ合わない会話。

真面目に推理小説を読みたい方にはゼッタイにお勧めできない。
「許す」という寛大な心を持った方、ふざけたことがこの上もなく好きな方(私はこの分類に入る)にお勧めである。

但し、私のように二日間の資格試験にこの本を持っていき、読んでいるのは感心できない。
当然のごとく、私は7科目中1科目しか合格点を取れなかったのでした。
(ハハハ・・・)

というわけで、お勧めの小説です。

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黄色い目の魚 佐藤多佳子 新潮文庫

2007-08-05 22:40:52 | 読んだ
正直に言うと「このて」のものは苦手である。
たぶん読み終えると感動していると思うからである。

新潮文庫のブックカバー欲しさに、この「黄色い目の魚」と「夏の庭」を買ったのだが、買うときには「情緒系」がいいなあ、と思っていたのである。
しかし、徐々に重荷になってきた。
どうしようかなあ、読まずにおくかなあ、とか思っているうちに、つい手にとってしまったのである。

そして、抜けられなくなり、感動したのである。
実に、思ったとおりの反応で、我ながら・・・なのである。

佐藤多佳子の小説は「しゃべれども しゃべれども」を読み、その後小説雑誌などで短編を読んでいるのだが、「達者」というイメージである。

話のスジ、がいいのである。乗せる、のがうまいのである。

ちょいと話は変わるが、近頃の女流作家はこのへんが優れている、と思う。
話のスジがいい。
で、感動させられる。

しかし、重厚、ということではない。
あっさりとしてうまい。というカンジ。
その「あっさり」としている部分に相当の手間ひまがかかっている、ということは感じ取れる。
つまり今の時代はそんなんだろうと思うのである。

さて、この「黄色い目の魚」の主人公「みのり」と「悟」はへんなヤツであるが、魅力的で、素直で、感情移入しやすい。

で、彼らは「自分をもてあましている」のである。
このカンジ、つまり「もてあましている」というのは青春である。そして青春時代はもてあましている自分をどうしていいかわからずに行動する。
大人になると「じっとしている」

その二人の行動が、無茶でなくて周囲にも気兼ねをして行われていて、なおかつ真っ直ぐなもんだから、こっちとしては応援をしたくなる。

そう、この小説を読み続けるという気持ちは「応援」なんだろうなあ。
こういう若い者に出会いたい、そんな気持ちになるのである。

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