読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

青春のうた 第77巻 1970年代後期15 

2009-02-25 20:55:51 | 読んだ
1.大阪で生まれた女/BORO 1979年8月

だから「大阪」ものの歌ってあまり好きでないんだよねえ。
というか「ご当地もの」って、それほど意味ないんじゃないの、って思っている。


2.めぐり逢い紡いで/大塚博堂 1978年2月

聞いたことがあるようなないような、そんな曲であります。

「そうですか」という感想。


3.ポータースター/八神純子 1979年7月

一時期、八神純子が女性ポップスの先頭を走っていたような気がする。
そのきっかけとなったのがこの歌のような気がする。

で、ポーラスターってなんだ?

「北極星」だそうですねえ。

うーん、今わかった。


4.FOR YOU/尾崎亜美 1979年10月

尾崎亜美の歌は、女の人のある種の特徴を発揮している。
それが、いい心持に響くときとそうでないときがあるわけで・・・

この曲は初めて聴いた、と思う。

「はあ そうですか」と


5.窓/松山千春 1979年3月

松山千春の歌も、強く響いてくるものとそうでないものがあって、その差が激しいのである。

どちらかといえば、ドーンと真っ直ぐなものが好みであります。


6.生きてりゃいいさ/加藤登紀子 1979年4月

「生きてりゃいいさ」ってどういうときに言うんだろうか?
また、どういうときに言われるんだろうか?

と思うと、私には多分一生縁のない言葉だと思う。

生きて何をするか、が問題だ。

そしてその前に「生きる」ってどういうことなのかを突き止めたい、そう思っているのである。


*今号は、私的には「イマイチ」な歌ばっかりで、辛口な感想になってしまった。
そろそろ、青春のうた、もネタ切れか?


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蔦文也のIKEDA行進曲 北原遼三郎 洋泉社

2009-02-22 23:37:25 | 読んだ
著者の北原遼三郎は高校の先輩である。
といっても面識はない。

本書のほか「沢村栄治とその時代」「完全試合・十五人の試合と人生」の2冊を読んでいる。
すべて『野球』にかかるノン・フィクションである。

本書と久々の再会をしたのは、東北本線のある駅、そこの「文庫」にあった。
東京へ行くためにその駅により待合室にいて本棚を見たときパッと目に入ってきたのである。

早速、出だしを読んでみた。
で、やめられなくなった。しかし電車の時刻。本を棚に戻す。ホームに出る。

ああ、でも読みたい。
というわけで、東京往復の間借りてきて読んだのである。

題名からわかるように、徳島県立池田高校の蔦文也監督のお話である。

徳島県の西端、現三好市(旧池田町)が池田高校のある場所である。
行ったことがないから明確にはいえないのだが、いわゆる「片田舎」の県立高校が甲子園で勝つ、ということはなんであれ「感動」である。

それは「組織」で勝ったのではなく、蔦文也という野球狂の男が、野球にのめりこんで、かっこよく言えば野球に身を捧げて、勝つことのできる高校野球を作り上げたのである。

私も蔦文也に強く魅かれたのでイロイロな本を読んだ。
そしてわかったのであるが、野球という部分を通して見た蔦文也は非常に魅力的であるが、実際にはとっても取り扱いに困るような人だった、ということである。

本書はそのあたりまで言及をしているが、主は野球である。
野球を通じた蔦文也である。

甲子園に出たチームのメンバーを中心に綿密なインタビューと取材を元に書いてあるので、説得力、はある。
そして試合や練習のあたりは実況感を強く感じる。

著者は多に仕事を抱えていて著作をするのでスピード感とか現在との時差の少なさ(共有力)というのは少ないが、普遍的な部分が生まれてくるようなきがする。

近頃の高校野球はあまり見ないが、池田高校の野球はよく見ていたので、場面場面を思い浮かべることができて、東京往復に読もうと思ったのが、東京に着くまで読みきってしまった。

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青春のうた 第76巻 1970年代前期17 

2009-02-19 18:24:55 | 読んだ
1.どうにかなるさ/かまやつひろし 1970年4月

「どうにかなるさ」
という言葉の裏には、したたかな計算があったりする。もう本当にどうしようもなくなったばあいは「どうにかしてくれ」だったりする。

したがってまだ自発的なのである。
そして「自信」が見え隠れするのである。

だから「どうにかなるさ」というのはなんだか「イヤラシイ」感じがするのである。
それを「かまやつ」さんのニュアンスと声で聞くと「胡散臭い」と感じるのは私だけであろうか。

一番似合っていそうなこの曲であるが、実は・・・なのであると思っている。


2.屋根のない車/小椋佳 1971年11月

小椋佳の歌ではどちらかといえば隠れた曲だと思う。

というのは私このうたハッキリと覚えていないのである。なんとなく聞いたことがあるような気がする。

小椋佳は熱心ではないが割りと追っかけてきたし、ベストアルバムとか持っているのだが、この歌は記憶がないのである。


3.寝図美よこれが太平洋だ/遠藤賢司 1971年11月

遠藤賢司は知っていた。
だけど積極的に聞きたいと思った人ではなかった。

「カレーライス」では徹底的な私小説風であるのに外部の事件についても感想というか社会風なところもある。この「寝図美よこれが太平洋だ」も同じようである。

で、その手の歌詞、つまり何気なく社会を風する、というのはあまり好みではない。
どうせなら、徹底して社会から隔絶した自分の世界を描いてもらいたい、のである。

遠藤賢司が好きとか嫌いとかではなくて、音楽的にはロック調のものなどビビっときたりするのだが、こういうのは「なんだかなあ」なのである。ゴメン。


4.時にまかせて/金延幸子 1972年9月

初めて聴いた歌、そして初めて聞いた名前である。

今こういう歌を聞いてもあまり感じるところがない。
それは私が年を経たからなのか、曲が年を経たからなのか、わからない。


5.三番目に大事なこと/RCサクセション 1972年12月

なんだか聞いたことがあるかな。
という曲である。

RCサクセションは、なんというかマニアックからスタートしたような気がしている。そのマニアックの部分は私にはあわないところだった。

てなわけで、あまり感想はないのである。


6.酔いどれ女の流れ歌/みなみらんぼう 1970年6月

みなみらんぼうは隣の市の出身である。
それだけのことで知り合いであるということはない。

この歌を初めて聴いたのは「森本和子」のものであった。
感想は「なんだかヘンな歌」であった。

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緋友禅 -旗師・冬狐堂- 北森鴻 文春文庫

2009-02-17 17:46:44 | 読んだ
旗師・冬狐堂、宇佐美陶子である。
これまで長編の「狐罠」「狐闇」(講談社文庫)を読んだ。
これっきりかと思っていたら、文春文庫に短編集があるというではないか。
そして、今「小説新潮」で蓮杖那智シリーズの最新作「鏡連殺」が連載されているがそこに宇佐美陶子が登場した。

こうなれば宇佐美陶子読まなければならない。

というわけで、
「陶鬼」
「『永久笑み』の少女」
「緋友禅」
「奇縁円空」
の4編である。

帯やカバーの裏には
「騙しあいと駈けひきの骨董業界を描く古美術ミステリー」
とある。

というように「骨董品・古美術」が物語の核となる。

『お宝鑑定団』のテレビを見てわかるように、ニセモノが多くまかり通る業界なため、一つ一つの品に事件がかかわりあう。

品物と、それにかかわった人たちと、宇佐美陶子の関わり合いが面白い物語となっている。
歴史について大雑把にでも知らないと、深く理解できないところがあるが、それでも読んでいけると思う。

宇佐美陶子はそれなりに魅力のある人なんだろうが、いわば「可愛げ」がない。
突っ張っていなければ、いつ餌食になるかもわからない業界で一匹狼(いや狐か)でやっていくためには、徹底してツッパリ通さなければならないのは十分理解できるのだが、もう少し可愛げがあったっていいじゃないの、と思うのである。

そんなに突っ張らなくてもいいのになあ。
という感情移入をして読んでいたのである。


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青春のうた 第75巻 1970年代中期23 

2009-02-15 18:21:55 | 読んだ
ずいぶん間をおいてしまった。
というのは、近頃私の住む街の本屋さんでは取り扱っていないようなので、通販で購入しているから、まとめて頼んでいるからなのである。

ずいぶんマニアックな曲が多くなり売れなくなってきたのかとも思われるが・・・

1.夢で逢えたら/吉田美奈子 1976年3月

この歌は名曲である。
ゆえに多くの人がカバーをしている。
私的には「サーカス」がいいですけどねえ。

吉田美奈子はどっか疲れたカンジあるいは投げやりなカンジ、つまり力が入っていないカンジがいい。

そしてそのカンジがこの曲にいい具合に適っている。

♪夢でもし 逢えたら 素敵なことね あなたに逢えるまで 眠り続けたい♪

ずっと眠っていなければならないかもしれない・・・それは問題であるようなないような・・・


2.ただお前がいい/中村雅俊 1975年10月

この歌もいい歌です。

♪ただ お前がいい♪

というすっきりしたというか簡単というか理屈ぬきというか、そういう感情を頭に言っておいて、その後はすごーくクドクドしく情景をあらわすところは、小椋佳の真骨頂である。(これは皮肉っているわけでもなく茶化しているわけでもないので、その辺はヨロシク)

その「お前」とはどういう人なのかというと

♪わずらわしさに
 投げた小石の 放物線の軌跡の上で
 通り過ぎてきた 青春のかけらが
 飛び跳ねて見えた
 そのてり返しを そのほほに
 映していた お前♪


なのである。

わかりますか?

よくわからないけれど、なんとなくニュアンスはわかりますよねえ。
それがいいんです。


3.河内のオッサンの唄/ミス花子 1976年8月

この手の歌は苦手である。
言いたいことはわかる、わかるんだけど・・・

まあ、そういうカンジである。


4.追伸/グレープ 1974年10月

♪撫子の花が咲きました 芙蓉の花は枯れたけど♪

なぜ芙蓉の花は枯れたのか?
不要だったから。

ということを、この歌を聴いたり歌ったりしたときによく言っていたっけ。

歌っていた、と書いたが、実はこの歌は難しい、というかサビの部分である

♪風に頼んでも無駄ですか♪

から、あまりにも高音なので、歌っているのか金切り声を上げているのか、よくわからなくなるのである。

さだまさしのリリカルな詩が、このころはまだまだ新鮮だったなあ。



yle="line-height:160%;">5.想い出ぼろぼろ/内藤やす子 1976年9月


内藤やす子の歌というか歌い方が好きだった。
解説には
「ハスキーな声とコブシの効いた独特の歌唱」
とある。

そして、その風貌と歌唱とは違って、男に尽くす歌なのである。
こんな力強いカンジの女性が、なんだか女々しい歌詞なのである。
そのギャップがまたなんだかイイのである。

♪聞いておきたいことがある・・・♪

の次

♪だけど 幸福ぼろぼろ こぼれるから 寝返り打って夢ん中♪

なのである。


6.故郷未だ忘れ難く/海援隊 1973年9月

絶対に東京に行くんだ!と決めていた高校3年の夏、この歌を聴いて、ちょっとセンチメンタルになったりした。

私の場合は南へ向かうと都会になるわけだが、この歌は九州からだから
♪東へ走る 夜汽車の音に ついつい誘われ 家を出て♪
ということになる。

ああ、来年の今頃は懐かしい気持ちで
♪故郷未だ忘れ難く 酒さえ飲まなきゃ やさしい親父♪
なんて、東京で歌っているんだろうなあ、と思いながら、この歌を聴き歌っていた。

で、東京に行ったらそれどころではなく、故郷を懐かしむ気持ち、なんて思うヒマもなく、なんとなく暮らしていました。

そして「あーこりゃアカン」と思って帰郷したわけであります。

海援隊のコミックソング的な歌よりは、この「故郷未だ忘れ難く」とか「思えば遠くへ来たもんだ」のほうが好きである。
そして、武田鉄也の感性が私には近いと感じる。それはおおむね「劣等感」と「楽天性」ではないかと思う。

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風の墓碑銘(エピタフ)-女刑事 音道貴子- (上・下) 乃南アサ 新潮文庫

2009-02-13 23:13:06 | 読んだ
アタシは忙しいのである。
夜だって本を読んでいるわけにはいかない「やらねばならないこと」があるのだ。

なのにどうして「上」「下」とある長編小説を買って、買うだけならまだしも読んでしまうのだろう。

それは、乃南アサの「女刑事 音道貴子」シリーズの大ファンだからである。
「だめだ、だめだ。のめりこんではダメダ」と思いつつ、読み始めたらもうやめられない、とうとう、すべてをあきらめあて読破に専念してしまった。

いやあ、それほど面白かった、のである。

音道貴子は相変わらず「真面目」である。
仕事にも恋愛にも、息抜きにも。

物語は、工事現場か白骨の一部が発見されるところから始まる。
所轄署の音道は白骨の掘り起こしに駆り出され、更なる白骨を掘り出す。
男女の白骨と胎児の骨であった。

工事現場であった家の家主で認知症の老人から事情を聴いていた音道であったが、なかなか話してくれない。
そして、その老人が何者かに殺される。

事件は新たな展開となり、老人殺害の捜査本部に音道は投入され、そこでコンビを組むのが「あの」というか「例の」というか滝沢保である。

凍える牙以来、音道と滝沢は名コンビのような印象があるのだが、この二人はそれほどコンビを組んでいるわけでもなく、ましてや相性がいいわけでもない。

ということで、この物語は、殺人事件と白骨死体の二つの謎、音道と滝沢の確執のような付き合いと掛け合い、音道の恋愛、音道と鑑識課・薮内奈苗との友情、そして事件で出会う人々の人生、etc

盛りだくさんなのであるが、テンポ良く進んでいく。
あまり弾まない音道と滝沢の会話なのにテンポいいのである。

多くの人生を描きながら、物語は終局を迎える。

ため息のでるような、やるせない終局である。
事件が解決した「喜び」のようなものはない。

私もこの物語を読んで寝ようかと思ったいたのであるが、眠ることができず起きてきて、このブログを書いている。

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被虐の受太刀 南條範夫 小説新潮2月号

2009-02-11 22:38:42 | 読んだ
小説新潮2月号の特集は「乾坤一擲 時代小説」である。
そのなかで「時代小説温故知新」というのがあり、名編再録ということで、次の5編が掲載されている。

「阿波の館」<海音寺潮五郎>昭和35年小説新潮別冊
「剣術 陽炎」<五味康祐>昭和32年小説新潮1月号
「厚田日記」<子母澤寛>昭和36年小説新潮10月号
「贋金づくり」<中山義秀>昭和28年小説新潮1月号
「被虐の受太刀」<南條範夫>昭和32年小説新潮1月号

「被虐の受太刀」が面白かった。

物語は、座波間左衛門曾保(ざなみ かんざえもん かつやす)が主人公である。

間左衛門は剣豪である。大阪冬の陣、夏の陣でも相当の働きをした。
しかし、その働きは認められなかった。

それは間左衛門の性癖による。
彼は、幼いころ父母を失い叔父夫婦に養われた。
その叔母に幼い間左衛門が小さな折檻を受ける、その折檻が奇妙な性癖つまりM性を目覚めさせたのであった。

間左衛門の奇妙な性癖とは、美貌の男女に己の身を傷つけられることである。そうすると「限りなく快美の感を催し、殆ど天上に遊ぶ如き思いがする」のである。

その性癖をさらに向上させるため(?)、彼は受太刀を主とした今川流という剣を学ぶ。この今川流は「あらゆる攻撃に対して受けの一点張りでふみこたえ、最後に一撃、敵の疲れに乗じて返しの止めを刺す」というものである。

そうしていよいよ間左衛門の剣は冴えるのである。
彼は駿河大納言:徳川忠長に召抱えられる。

そこで、あの叔父夫婦の娘:きぬと出会う。
きぬは憧れの叔母「なほ」にそっくりなのである。
そして、彼が美貌と認めるものは「なほ」に似ているのである。

とすれば間左衛門の行動はたった一つである。

南條範夫の解説に
「武士道の忠義をサド-マゾ関係に置き換える「残酷もの」で人気を博す」
とある。

これを読んで思い出したというか、ああそうだったのか、と思った。
中学生ぐらいのときから父が購読していた「小説新潮」や「小説現代」を読んでいたが、そのなかで南條範夫の小説はなんだか「妖しい」カンジがしたのである。

歴史時代小説であるのに、なんだか向かっているところがヘンだと思ったいた。
歴史を取り扱っているのに、なんだかヘンな人を扱って、あらぬ方向に向かっているような、カンジがしたのである。

当時、幼い私はそういう小説はよくわからなかった、よくわからなかったが「妖しさ」は感じていて、その「妖しさ」は嫌いではなかった。

ということで、今回昭和32年1月号(たぶん発売は12月であると思うので私は生後2ヶ月くらいである)を読んで、忘れていた南條範夫の小説について思い出したのである。

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ほねぬすびと-しゃばけ- 畠中恵 小説新潮2月号

2009-02-08 10:20:46 | 読んだ
「しゃばけ」の新シリーズがスタートした。

江戸通町に店を構える、廻船問屋兼薬種問屋「長崎屋」の若旦那・一太郎は「病についての物語を、同時に三つもかけるほどに虚弱」である。なので父母は限りなく甘く、乳母も二人の兄(にい)や経ちも他の奉公人たちも「気合を入れて優しい」のである。

こういう虚弱体質の一太郎なのであるが、特殊な能力を持っている。
それは「妖(あやかし)」を見ることができ、多くの妖たちと友達なのである。
祖母が大妖であったことがそういう能力を持っていることの要因であり、一太郎の周囲には多くの妖がいる。
二人の兄(にい)やも実は、白沢(はくたく)と犬神という妖である。

この一太郎がさまざま事件に巻き込まれ、病弱の体質ながら、二人の兄(にい)やや鳴家(やなり)をはじめとする妖たちの力をあわせて事件を解決していく、というのが「しゃばけ」シリーズの物語の概要である。

で、今回のシリーズは、なんと!一太郎の目が見えなくなっているところから始まる。
なぜ見えなくなったのか?
が、今回のシリーズのおおきな課題・問題・テーマである。

そしてその第1話が「ほねぬすびと」である。
この「ほねぬすびと」は「骨盗人」であり『相手の骨折りを盗む。ただ働きさせるもの』という意味だそうである。

長崎屋は久居藩の岩崎から「干物」の運送を依頼されるが、そこには罠が仕掛けられていた。その罠を見抜くことが、若旦那の目が見えなくなった原因をさぐることにもなるようなのだが・・・

第1話はそれなりに解決しているが、まだ若旦那の目は見えないままである。
乞うご期待、というところである。

このしゃばけシリーズの面白いところは、登場する妖たちが異常な能力を持っているのだが、「心」というか「感情」は人間なのである。
「妬み」とか「嫉み」或いは「愛情過多」「思い込み」など、人間の持っている感情をそのまま持っている、そこに事件が起きる。

異常な舞台を背景に普遍的な登場人物たち、という「面白い」という要素がきっちりと構成されているのである。

来月以降またまた楽しみが増えたのである。

追伸
 楽しみが増えたといえば、来月から海堂尊の「マドンナ・ヴェルデ」という小説が連載開始されるという予告。「ジーン・ワルツ」の第2章ということ。注目である。

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小説TheSaitama市誕生・自治体合併懲戒処分 内山務 公人社

2009-02-04 20:39:07 | 読んだ
「小説 The Saitama市誕生」には『担当部長・中尾浩介の告解』という副題が

そして「自治体合併懲戒処分」には『小説The Saitama市 誕生 その後』という副題がついている。

つまりこの2冊は前編・後編という仕掛けにもなっている。

で、この題名をみてなんとなくわかると思うのであるが、浦和市・大宮市・与野市の3市の合併による「さいたま市」誕生とその後にまつわる物語である。
そして著者は、この合併を最初から最後までの7年間、与野市政策企画部長として担当した人なのである。

したがって、この物語で語られていることは限りなく事実に近い、と思っていいだろう。

だが、この物語は、合併について表向きに語られていたことと裏側で行われていたことのギャップだとか、首長や議員など特別職の公務員の思惑の変遷や暗躍、或いは一般職の公務員であるいわゆる市役所職員の無気力さなど行政の欺瞞などを暴くものではない。

そういうことを知りたくて或いはそういうことを知って行政を批判しようなどと考えて、つまり「暴露本」として本書を選んだり読んだりしてはつまらない。

平成の大合併という自治体にとっては大きな出来事を背景に

一地方公務員の中尾浩介がどう生きたのか・何を考えたのか

ということを通じて

地方自治というのは日本に存在するのかという大きな問いかけ、つまりはこれからどう生きるべきなのか、ということが著されていると思うのである。

中尾浩介個人としては「合併に疑問」であるが、地方公務員としては合併に突き進まなければならない。
悪戦苦闘して合併に持っていけば、理想はすでに遠のき目の前のおいしいものを奪い合うところになっていて愕然とする。ものすごい無力感・脱力感である。

何かをやろうとしたときが一番よいときであって、すぐにそれは陳腐化が始まる。特に組織とかシステムはそうなるということを改めて感じたのである。

後編では合併後のことが描かれているが、どちらかといえば中尾浩介の生き様が主に描かれている。

私は深夜に読み終えて、しばらく眠れなかった。
中尾浩介に降りかかったことは、私にも小さい形ではあるが降りかかっており、とても人事(ひとごと)のようには思えなかったのである。
そして、私は中尾浩介のようには生きていない。
これからどうすべきなのか、ということを真剣に考えさせられたのである。

と書けばものすごく硬い物語のようであるが、実は著者は学生時代は落研にいて、この物語もユーモアと駄洒落たっぷりである。

行政のことで専門的な部分があることは仕方がないことだが、一般の人でも十分読み応えのあるものになっていると思う。
決してベストセラーにはならないだろうが、心ある公務員にはぜひ読んでもらいたいものである。

追伸
 実は私はこの2冊を著者から直接いただいたのである。そしてお話もさせていただいた。物語の中尾浩介そのものの人であった。
 だからといって「ヨイショ」をしたのではない。
 私が今持っている悩みのようなものに対するひとつの答えとして、いい本に巡りあえたなあ、というのが偽らざる私の感想なのである。

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狐闇<旗師 宇佐見陶子シリーズ> 北森鴻 講談社文庫

2009-02-02 23:02:10 | 読んだ
青森往復の友として選んだのがこの本である。
いつか読もうと思っていたのであるが、長編に挑戦する時間的余裕を見つけられなかったのである。

さて「狐罠」に続く、旗師:宇佐見陶子シリーズである。
解説を読むと、狐闇に続く短編集が2冊刊行されているということである。
それを飛ばしていきなりまた長編を読んでしまった。

宇佐見陶子は店舗を持たない骨董商<これを旗師という>である。

この宇佐見陶子が市で購入した「青銅鏡」が購入したものと違うというところから今回の事件は始まり、覚えのない飲酒運転で事故を起こし警察の取調べを受け、更には骨董商の鑑札を剥奪されるということになった。

そして彼女は身の潔白を証明することと、このようなことになった謎を解くため、持っていた陶器を売り資金をつくった。

謎が大きく深いことと、得体の知れない人物たちが絡んでいることから、到底一人では無理なのであるが、陶子は一人でやろうとする。

そこに第1話の狐罠にも登場した友人:横尾硝子があの蓮杖那智を連れて参戦し、骨董商仲間の雅蘭堂も協力を申し出る。

今回の物語の底にある大きな謎と、現実に起こった事件との関連性が、なんだか弱いと思うのではある。

物語の途中で「ああ横道にそれているなあ」と感じられるところがあるし、宇佐見陶子にも「なんでそんな部分をほじくっているの、身の危険もほっといて」というイライラする部分もある。

そういうところは作者が我々読者にたいして仕組んでいることなのだと思うのであるが・・・

ズバッとスッキリ謎が解けるわけでもなく、なんだかうやむやに終わったような気もするし、これからも大きな罠がまっているようでもある。

宇佐見陶子も苦労するなあ、というのが大きな感想である。

というわけで、短編集の「緋友禅」と「瑠璃の契り」も読まなくては・・・

北森鴻の小説の楽しみの一つは、他の物語に登場する人物が相互に乗り入れているところである。

今回は蓮杖那智が重要な役割を果たしている。そして「香菜里屋」も登場する。
従って、その関係もよく読まないと、読んだときの理解とか面白さが深まらないようである。

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