読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

特集:城山三郎の『戦争』 小説新潮9月号

2008-08-31 13:26:23 | 読んだ
小説新潮9月号の特集は「短編ファンタジー傑作選」とこの城山三郎の「戦争」である。

オリンピック後遺症で、活字より映像のほうが「わかりやすい」というか「楽」なので、本を読まない日々が続いている。

オリンピックはそもそも国同士の戦いで常にはあまり意識しないあるいは無視しようとしている「国旗」があがると感動するという「愛国心」のようなものがでてみたりするところに、今回は中国の「国威発揚」というナマナマしいものをみせられたりするので、戦争、ということも頭の片隅にちらちらしていた。

そういうところで、この特集を読むとまたなんだかいろいろと考えたりして、そして「なんだかよくわからないなあ」なんて思うのである。

さて、この特集であるが「落日燃ゆ」をテーマとしているようである。
「落日燃ゆ」は戦犯として絞首刑となった唯一の文官『広田弘毅』の伝記小説である。

先ずは「講演採録」ということで、城山三郎の講演「大きく生きる-広田弘毅を支えた三つの柱」が掲載されている。
続いて「『落日燃ゆ』論争検証-広田弘毅は『漫才』といったのか」があって、昭和49年に行われた論争を紹介し、梯久美子の「論争を読んで」がある。
もうひとつは「指揮官たちの特攻を旅するーおじいちゃんたちの特攻」(吉田紗知)である。

広田弘毅の生涯を描いた小説「落日燃ゆ」の最後の場面、戦犯の処刑直前の場面で「万歳(ばんざい)」を「漫才(まんざい)」と広田弘毅が言った、という部分に関する論争で「まんざい」ということばをめぐる解釈の論争である。

まあその論争自体はそれぞれの言い分があり、それぞれの解釈はそれなりに肯くところもある。
このことについて、城山三郎の反論、梯久美子の感想を読むと、作家というのは確信を持った解釈をするまでに、いわゆる「生みの苦しみ」のようなものを長い間重ねていることがわかる。

自分自身でさえ、自分の行動や言語に理由を明確に表現できないところがある。
それを歴史を舞台として実際に生きた人を主人公にしたものを描くときには、それなりの確信をもてないと十分に書ききれないものだとおもう。

それでも小説のようなものに関して言えば、フィクションとノンフィクションの境界がぼやけているし、作家の主観が反映されているものという前提の上で、読者一人ひとりの解釈というものが必要である。
そして、文章を読むというのはそのことが「楽しみ」の一つでもある。

しかし、近頃テレビをよく見ると、これは「事実」であるという前提がなされているように思えるのである。
ところが、事実というのはそのテレビ番組を作る人の主観が大きく投影されている事実であり、厳密に言えば「事実の断片」である。

私たちは「事実」は「真実」と思っているが、テレビで流されるものは必ずしも「真実」とは限らない。ましてやそれは「断片」なのである。
そういう意味では、テレビは映像と音という事実を隠れ蓑にしてある種の情報操作を行っているのではないか、なんて思ったりしたのである。

「夢は必ずかなう」というコトバは非常に素晴らしいものであるが、本当にそうなのだろうか?
覚悟することもあきらめることも人生のなかでは必要なことではないだろうか?
安易にそのようなコトバを垂れ流すこともいかがなものか。

広田弘毅は「自らのために計らわず」ということが信条であった、その信条に従って生きたことがすなわち「真実」ではないことは、城山三郎も知っていたと思うのである。

つまりは文章であったり映像であったり音声であったり、我々に伝えられる情報の真実性というものは、我々が解釈すべきものなのであって、それをありのまま受け止めて真実と認定することは非常に危ういものなのではないかと思うのである。

そんな思いをこの特集を読み考え「楽」だからという理由でテレビをつけっぱなしにして本を読まなかったことを反省したりしたのであった。

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悼む人 天童荒太 オール読物連載<9月号最終回>

2008-08-24 16:12:27 | 読んだ
8月号を読んだとき、ああそろそろ終わりだなあ、と思っていたら、今月9月号で最終回であった。

最初読み始めたときは『なんだかよくわからない世界』だなあ、と思っていたのであった。
そして、最終回を読み終えても、その『よくわからない世界』ではあった。
しかし、著者が言わんとすることについては、なんとなく感じ取れたように思えるのである。

さて、この「悼む人」の概要である。
<坂筑静人>は、新聞などの死亡記事をみて、その死んだ人を悼むために日本各地を放浪している。
「悼む」ということがどういうことなのか本人もよく説明できないのであるが、方法としては、死んだ人を知っている人にあって、死んだ人がどのように生きていたか、具体的には誰かに愛されていたか、誰かに感謝されていたか、といったその人が生きていたときの善行のようなものを聞き出し、その人が死んだ場所で「あなたはこういう人たちに愛され感謝されていましたよ」というようなことで呼びかけるのである。

悼むということは多くの人に理解されず、変人扱い或いは新興宗教ではないかと疑われ時には警察などに通報され、インターネットでも話題になっている。

週刊誌記者の蒔野は静人を取材するが理解できない、それどころか「悪」ではないかと思ったりし、静人の実家を訪ねる。

そこでは静人の母:巡子が末期がんの治療を行っていた。
この巡子の末期がんとの闘いも読み応えがある。(蒔野との交流もある)

しかし、なんといっても静人と一緒に歩く奈義倖世との絡みが一番読み応えがある。
倖世は夫を殺し刑務所から出てきたばかりである。
倖世は殺した夫:甲水朔也の霊のようなものにとりつかれている。
朔也は倖世の行動を冷たくののしる。

静人は倖世を通じて朔也と会話をする。
この場面が一番の山場であった。
「悼む」ということがどのような意味を持っているのか、ということについて、静人と朔也(もしかしたら倖世)は議論をするこの場面は、「生きる」ということについて問い苦しんでいる。
それは人間の本質のようなものを探しているともいえる。

最終回ではいわゆる「ハッピーエンド」とはならなかったが、この物語らしい終わり方であった。

科学が進歩し、それにつれて「人が生きる」ということが、どちらかといえば科学的なこと<心臓が動いているとか、脳が生きているとか>のようになってきたが、生きるということはそれだけでなく『精神的なもの』があるのではないか、ということを著者は探したかったのではないだろうか。

近年、私もよく「生きる」ということを考える。
それは、例えば頭ははっきりしているが体が衰え寝たきりになっている人や、身体は丈夫なのだが認知症になっている人、つまり介護を要する人たちが増えてきているからである。

介護を受ける人たちは「生きている」には違いないが、それはどういう生きているなんだろうか、ということを考えたりするのである。
そして介護をするために次世代の人は自分の人生を変えざるを得ない、ということはどいうことなんだろうか。

「死」ということはそれほどまでに恐れなければならないのか、或いは忌み嫌わなければならないことなのか。
「死」というのは最後なのか、それとも誰かの出発なのか。
そんなことも考えてしまう。

この「悼む人」は、死んだ人に感謝する、そういうことで死んだ人が生きていたことを何かに刻むのである。
そのことについてもう一度考えてみたい。

連載が終了したので、単行本となりいつかは文庫本になるだろう。
その文庫本になったとき、私は何を考えているのか、それも楽しみである。

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オリンピック 野球

2008-08-23 23:27:27 | 観た、聴いた
今年の夏は「涼しい」と思っていたら、21日からは「寒い」と感じるようになってしまった。
半袖では夜はいられない。

そんな夏ではあったが「オリンピック」で連日連夜忙しい思いをしていた。
別段、オリンピックの役員とかボランティアとかしていて忙しいというわけではなく、観戦で忙しかったのである。

ついでに申し上げれば、14~17日くらいは「お盆」であって、親戚の法事等もあり懐かしい人たちと出会ったりしていたし、21・22日は盛岡市で行われた第25回全国自治体政策研究交流会議と第22回自治体学会岩手・盛岡大会に行っていたので、オリンピック観戦もそれらの合間をぬって効率的に行わなければならず、なかなか大変だったのである。

オリンピック出場選手は「目指すのは金メダル」とほとんど言う。
部員10名程度でまだ未勝利の高校野球部の選手が「目指すのは甲子園」というのと同じで、心底そのように思っているのか疑わしいところもあるのだが、その中でも自他共に認める「金メダル候補」というのはいる。

そのなかで『野球』に関して言えば、そんなに大口をたたいていいのかなあ、と思っていた。多分これは多くの人たちが感じていたと思うのである。

それは選手選考の段階であったり、壮行試合の段階であったり、予選リーグの段階であったりしたのだが、兎も角こちら側としては徐々にその「金メダル」というコトバが虚しく響くようになってきて、昨日の段階では「銅メダル」と目標が下がり、ついにはメダルなしという結果となってしまった。

野球に関して言えばモチベーションが「いまひとつ」というのがあり選手にはかわいそうだと思う。
韓国では「徴兵免除」ということがある。アメリカではメジャー昇格ということもある。キューバはオリンピックこそが最高の舞台というがある。
しかし、日本では「いまひとつ」なのである。

4年後のオリンピックを目指して強化策がとられたわけでもなく、選手選考からチーム作りにあたってもわずかな期間しかなかった。
負けたことについて言えば数々の理由があり言い訳がある。

だけど、負けることについて冷静に予測していたのだろうか、つまりは彼我の戦力分析がしっかりできていたのだろうか、分析していての「金メダル」発言であったとしたら、見切り発車をしたように思うのだ。

他の競技では、たとえば女子サッカーでは、金メダル或いはメダルが獲れる、といわれていたが、3位決定戦で負けたときの選手はわりとサバサバしていたように思う。それは選手たちが彼我の戦力分析がしっかりできていたからではないか。

ところが野球では選手たちが涙したり呆然としたりしている。
これはこれまでのオリンピックでも同様である。
戦力の分析が選手たちには伝わっていなかったのか、或いは完全に優勢というように伝わっていたのかはわからないが、負ける要素というのは少ないと、選手が思っていたのだと思う。

野球は他の競技と違って「4年間の重み」というのがなかなか反映できないのだと思う。
そういうなかで「金メダル」といい続けた、或いは言い続けなければならなかった、そういうところに「敗因」があるのではないかと思うのである。

というわけで、急に気温が下がり、ああ夏も終わりだなあ、と思うまもなく季節が変わってしまったようで、それと同様に野球が負けて、気持ちの温度も下がって、なんだか「いよいよだなあ」なんて思ったりしているのである。

つまり、いよいよ本読みに没頭しよう、なんて思っているのである。

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オリンピック ソフトボール 金メダル

2008-08-21 23:05:48 | 観た、聴いた
このオリンピックで一番夢中になってみていたのはソフトボールである。

選手起用、作戦、投手の配球、打撃、守備、全てにわたって文句を言いながら、愚痴をこぼしながらも、声援をしていたのである。

今夜の決勝は、今までと違ってよかった。

何がよかったかといえば、一に気迫、二に狙いである。

昨日のオーストラリアとの準決勝では「私が私が」という思いが強くて、何もかも打ちにいって、ことごとく失敗をしていた。
ただし、上野投手だけは連投の疲れもあったのだろうが、それまでのように「私が」という我意を出せなかったため、素晴らしい投球であった。

その投球が本日も続いた。
昨日の試合で投球というものの極意のようなものをつかんだのではないだろうか。

速く威力のあるボールは絶対に必要であるが、それだけでは押さえ込むことはできない。
これは、野球でもソフトボールでも同じである。
たとえできたとしても1試合ぐらいである。

バッティング投手をするとわかるのだが、打たせようと思って投げているのに、そうそう打たれないのである。
打撃というのはそういうものなのである。

だから速く威力のあるボールでなくても、タイミングとか狙いを外せば、打ち取ることも可能なのである。

そういうことを上野投手は昨日の試合で会得したのではないかと、本日の試合を観ていて思ったのである。

アメリカと試合をして3つのうち1つは勝てると思っていたが、最後の最後で勝てたのは「運」でもあると思う。もし昨日勝っていたなら、今日は負けたであろう。
昨日の延長12回を戦い勝ったのが「運」を呼んだのだと思う。

打者は昨日までは何も考えていないように見えたが、今日は中盤あたりから狙う球或いは打ち方など考えて実行していたように思える。
これを予選の段階から徹底していれば、もう少し安心をしてみていられたのに、と思うのだが・・・

何はともあれ金メダルはよかった。
これで明日からは落ちついて過ごすことができそうである。

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おとこ鷹(上・下) 子母沢寛 新潮文庫

2008-08-17 23:06:15 | 読んだ
現代の日本のありさまは「ため息」の出ることばかり、のような気がする。

戦争(太平洋戦争というのか、第2次世界大戦というのか、それとも大東亜戦争というのか論争があるが、そういうことも『ため息』の元でもある)が終わって、平和な(戦争がないという平和)が訪れ、物質的にも恵まれてきているのに、親が子を殺し、子が親を殺し、また無差別に人を殺す、という世の中になってきているのは「何故なんだろう?」と思うばかりである。

おとこ鷹は、父子鷹に続く、勝海舟の父・勝小吉を主人公とした時代小説である。
物語の元はその勝小吉が口述し妻・お信が書きとめた「夢酔独言」にあるので、全てのエピソードが創作ではないのである。
それに著者の祖父のイメージが投影されて勝小吉像ができているので、生き生きとそして人間として悩む姿が現されている。

そして、何よりこの小説を読むと感じるのは「人と人とのつながり」なのである。

人が人を好きになる、ということには打算的なものも理屈もなく、ただ「情」があるだけである。
この物語に登場する人たちの行動の原点は「情」であり「義理」である。
自分の心に正直に、しかし、自分が置かれた立場をよく理解して、彼らは行動する。

だから、あるときは「我慢」をし「あきらめ」もするのである。
そういう世の中であるから、人々は助け合い、慰めあい、一緒に生きようとするのである。
そんな世の中からはみ出た者もいるが、はみ出た者も社会を心の底から恨みはしない。

この「おとこ鷹」は、勝小吉や海舟など歴史上実在した人物たちが登場するが、彼らを借りて、人と人のつながり、ということを描き出したものだと感じるのである。

親は子を「世間に出しても恥ずかしくない」人にしようと思い育て、子はなんとか親の思いをかなえようとする。
そこには葛藤もあるが、それぞれが目指している「人間の形」は同じである。

現代は、目指すべき「人間の形」が明確でない。
それゆえに葛藤は、いつまで経っても分かりあえないのではないか。

この物語は、人が生きるということは辛さや悲しさも受け容れるということでもあるのだよ、ということを前提として、痛快にしてすがすがしいのである。

そして文章の中から江戸末期の様子が見たこともないのに目に浮かぶのである。

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オリンピック、プロ野球、高校野球

2008-08-16 21:54:34 | 日々雑感
近頃は忙しく、本を読む時間がない。

忙しいといっても、テレビを見るのに忙しいのである。
オリンピックは、毎日「目玉」のような決勝があり、そのほかに野球やソフトボール、サッカーなどのリーグ戦があり、さらにはあまり期待をしないで映しているだけとおもっていたら夢中になる競技もあり・・・大変なのである。

また、プロ野球はなんといっても「楽天」の動向が気になる。
13日(水)にはKスタに対西武ライオンズ戦を観にいった。なにしろ5点くらいのリードではセーフティリードとは呼べないようなチームが相手である。

常にリードはしていたものの、追い上げられ突き放すという展開で、ハラハラドキドキそして最後には勝つ、という、まあ観戦するには最高の試合(11-7)であった。
何とかこれを機会に立ち直ってもらいたいと思っていたら、対西武戦は2勝1敗で勝ち越し、3位を目指すということもあながち夢ではない。このままどんな形でもいいから勝ってもらいたい。そのためにも毎試合観戦(インターネット)をしたいと思うし・・・

高校野球は珍しく東北勢が勝ち残り、気になって仕方なかった。
ところが今年の高校野球はあまり面白くないのである。それはやっぱりオリンピックのほうが面白いからである。

なぜ、オリンピックが面白いのか、ということを考えてみると、真剣さというもののは変わらないのだが、そこにかける「気持ち」というか「思い」がオリンピックのほうが強いからだと思う。
高校野球の真剣さというのは伝わってくるのだが、技術が劣る。
だから高校野球よりオリンピックが面白いのだとおもう。

ところで、オリンピックでも高校野球でも見ていれば、どちらかを応援している。
オリンピックであれば日本を応援するのはまあ当然であるが、外国の人たちが試合をしていてもどちらかを応援している。
また、高校野球では地元勢を応援するのが基本であるが、例えば九州勢で戦っていてもどちらかを応援している。

戦いを見るとどちらかを応援してしまう、というのは人間が持っている「本能」あるいは「性」なのではないか。

気持ちをニュートラルにするのは難しいことである。
だから、人は有史以来「平等」とか「公平」が大切だといい続けている。
「平等・公平」は人が求め続けているものなのだろう。

でも、オリンピックを或いは高校野球を平等公平に応援して見ることなんかできない。楽天を応援してみているからプロ野球は面白いのである。

そんなことを思ったりして、勝ち負けに一喜一憂しているのである。

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中尊寺ハス

2008-08-10 20:33:04 | 日々雑感
本日、久しぶりに中尊寺へ行ってきた。
この時期、込むことが予想されるのと、目的の一つが「中尊寺ハス」をみることだったので、早く行ってみた。

午前8時30分に中尊寺の入り口「月見坂」を登る。
観光客はまだ少なく、境内にある店はまだ開いていない。

今回の目的の一つである、中尊寺本堂の本尊を拝観する。
今年7月17日から10月28日まで、本尊である「阿弥陀如来坐像」が本堂に迎えられているのである。
いつもは「宝物館讃衡蔵(さんこうぞう)」にあるのだが、この時期本堂にあるので、見たい、と思っていたのである。

讃衡蔵では写真が撮れないので今回撮ってきたがストロボの光が不足していたようだ。次回は光量の強いものを持っていこう。

では


続いて、中尊寺ハスをみた。ちょっと遅くなってしまったので心配をしていたが、なんとか「間に合った」というカンジである。

           

「中尊寺ハス」というのは、平泉藤原氏4代泰衡(清衡の息子で、源義経を討ったが、源頼朝に討たれた)の首桶に入ってたハスの種を昭和25年に発見し平成10年に咲かせたものである。

 

朝早い中尊寺は、今まで見てきた観光地の匂いの強いものではなく、古刹のイメージが漂うものであった。

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東京少年 小林信彦 新潮文庫

2008-08-08 23:54:49 | 読んだ
小林信彦は好きだ。
というとなんだか誤解をを受けそうなので、言い直す。
小林信彦の書くものは好きだ。

といい続けてきたが、実は、小林信彦の書く小説は読んだことがなかった。

「東京少年」は、小林信彦の自伝的小説である。
小説ではあるが、その書き方というか文体は「エッセイ」のようである。
それゆえに、僕としては入っていきやすかったりするのであるが・・・

東京少年は、東京で生まれ育った人間が、2度の疎開を通じて成長していく物語である。

成長といったって、健全で正常な、だからこそ嘘っぽい物語とは違う。
そしてそういう物語では、正面きって「平和」と「戦争の悲惨さ」を語る。

しかし、この物語は屈折して疑い深い少年が主人公であるため、戦争中であっても明るく正義心が強く何事もくじけない、なんてことはない。

こういう戦争の話を聞きたかった。

というのが大きな感想である。

主人公の少年は、新聞やラジオからの情報に「胡散臭さ」を感じ「嘘」を嗅ぎ取る。
例えば、「神風」なんか吹くわけがないし吹いても沈没する舟なんてありえないこと、「転進」とは「撤退」のこと、「出血作戦」は負け

ていることなどなど・・・しかし、そのことは誰にもいってはならないことを知っている。

また、先生や親たちの矛盾した言動や行動について、なぜ矛盾しなければならないのかを知っている若しくは憶測する力を持っている。

少年たちは、戦争の行方に期待しつつも、最も興味あることは「目の前のこと」空腹をいやすことであったり、友人との関係であったり、田舎での不自由な暮らしであったりする。
「淡い恋」なんてないのである。

この物語を読んで、ハッとしたことがあった。

『僕の疑問とは-正しいものが負けることがあるのか、という一点だった。日本軍の正しさを毎日のように報道していた新聞が、その点に触れていないのが納得できなかった。
 ぼくたちは、時としてシニックな口調になることはあったとしても、<日本(軍)>の正しさ>を疑ったことは、一度もなかった。かりにこまかい嘘に気づいたとしても、それは<正しさ>を貫き通すための方法と思っていた。
 正しい者が負けるとすれば、この世界は根本から崩れてしまう。悪が猖獗(しょうけつ)し蔓延する。-それでも良いのか。そんなことが許されるのか。』


いわゆる戦中派と呼ばれる人たちが、同じ体験をしたはずなのに、同じ思いをしたはずなのに、どうしてその後いろいろな考え方になったのか、ずっと疑問であったが、多分この「正しい者が負ける」ということに対するそれぞれの反応だったんだと、長い間の疑問に対する答が見つかったようなきがする。

主人公は、<大東亜戦争>が<太平洋戦争>となり、<敗戦>が<終戦>となる、戦後日本のあり方或いは根本がが実は変わっていないこ

とを知り、「一億玉砕」ということばが敗戦を境になくなったことに『すっぽかされた』思いをいだき、敗戦後1ヶ月でさまざま事柄が急激に変化することに「早過ぎないか、おい」と呼びかけ、もし米軍が正しかったとしたら、僕たちが受けてきた教育は間違ってきたのに、なぜ教師は謝らないのか、と怒るのである。

そして昭和20年の大晦日にラジオから流れてきた
「何年ぶりでありましょうか。平和が蘇ったこの銀座、年の瀬をいろどる数々のネオンの海を泳ぐ人々の顔には、記念すべき年、昭和20年の大晦日を生きる歓喜の色が刻印されています!」
というものに
「莫迦野郎・・・」と思うのである。

僕は著者の子供のような年齢である。
したがって、太平洋戦争のことは親をはじめてとしたいわゆる「大人」から聞いただけであるが、話を聞いて「驚いたり」「嘆いたり」「感心したり」はしたが、この物語を読んではそういうことではなく「そうだよなあ」と思ったのである。

そして、日本はまだまだ根本としては何も変わっていなく、上辺を流れる社会的現象だけが変化しただけなのではないか、と思い、なんだか「暗澹たる気持ち」というのも覚えたのであった。

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剛の者 <お鳥見女房> 諸田玲子 小説新潮8月号

2008-08-06 22:41:14 | 読んだ
お鳥見女房シリーズである。

前回は、お鳥見女房こと矢島珠世の家の居候だった石塚源太夫と源太夫の妻・多津の出産を柱とした物語「安産祈願」であった。

今回は、珠世の父で隠居の久衛門が物語の柱となる。

久衛門はお鳥見役を長く勤めたからか鷹の習性が乗り移ったかのように「雀」を見ると、身体に緊張感がみなぎるのであったが、ある日、死んだ雀を埋めていた。

という出だしで、なんとなく「暗示」されているようである。

そして、珠世の夫・伴之助と息子の久太郎のもとへ、久衛門の旧知である品川の綱差・八兵衛から、将軍の鷹狩りの際に、もしも獲物がないときに放たれる「鶴」が明日の鷹狩りを控えて全滅したという知らせがはいる。

一大事である。
もし、将軍に獲物がなく、代わりに放たれる鶴もなければ、お鳥見役の責任者と鶴の飼育の責任者である綱差の八兵衛(知らせに来た八兵衛の孫)は切腹は免れない、という。
伴之助と久太郎にも災いは及ぶ。

昔、久衛門は同じような事件にあった。
そのときは、葛西の綱差である荘助が鶴を失くし、久衛門の奔走で八兵衛から鶴を借りて難を逃れたことがある。

それを思い出し、久衛門と八兵衛は即座に葛西へ向かった。

さて、鶴は将軍鷹狩りに間に合ったのか?

ネタバレになってしまうが、こういう物語では必ず間に合うことになっているのである。
しかし、矢島家ではひとつ失ってしまうものがあったのである。

その失ってしまった後の物語がいいのである。

お鳥見女房もこれで一つの区切りができたようである。

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東京奇譚集 村上春樹 新潮文庫

2008-08-04 23:10:45 | 読んだ
かねがね「村上春樹は秋に読むものだ」と言ってきた。
それが、よりにもよって真夏のこの時期に読むとは・・・

実は我が読書の部屋に「エアコン」を今年据え付けたのである。
あまり冷房が好きではなかったことと、どうしても我慢できない暑さというのは、概ね1週間くらいだったこともあって、これまでは扇風機くらいで何とか過ごしていたのである。

しかし、近年の暑さが厳しくなったことと、暑さを我慢をできない年齢になったことから、今年は思い切って据え付けたのである。
もっとも、エアコンを据え付けたとたんにあまり暑くならず「なんだかなあ」という気分なのである。

閑話休題
ではなぜ、村上春樹が「秋」なのか、ということである。

それは多分、村上春樹の描く人物たちの多くが「さらっ」としているからだと思う。
その「さらっ」とした感じが、秋も深まっていよいよ『晩秋』という季節になろうかという時期の「風」に似ているような気がする。

べたべたとせず、身体の横をさらっと通り過ぎて行く。
これがちょっと前だとどこか身体にまとまりつく感じであるし、後になると肌をヒヤッっとさせる。
そんな感じがするのである。

さて、というわけで「東京奇譚集」
なにやら涼しげである。

5編の物語が掲載されている。
「偶然の旅人」
「ハナレイ・ベイ」
「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
「日々移動する腎臓のかたちをした石」
「品川猿」
である。

これらの作品に登場する人物たちは、やっぱり「さらっ」としている。
丁度いい具合に他人と間をとるのである。

たとえば「偶然の旅人」に登場する主人公は『ゲイ』である。
でも彼は「さらっ」としている。
そして「さらっ」としているのに、どこかウェットだったりする。
そのあたりの加減がいいのである。

また「ハナラレイ・ベイ」に登場する『サチ』は、息子が死んだハワイの海岸「ハナラレイ・ベイ」を毎年3週間ほど訪れる、というウェットな人間なのに「さらっ」としているのである。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」と「日々移動する腎臓のかたちをした石」は、題名からしてなんだか理屈っぽく、現に内容も理屈っぽいのであるが、それがべとつかないのである。
なので、わりと突き放して読むことができる。

「品川猿」もなんだかよくわからない物語で現実としてはありえない話なのであるが、もしかしてそういうこともあるかもしれない、と思わされる。
そしてこの物語の主人公も、いわば理不尽な目に遭うのに取り乱すことはないのである。
そのあたりはドライなのである。

「奇譚」というのは珍しい話あるいは不思議な話という意味であるが、その題名に違わない不思議な話が綴られている。
とはいえ、村上春樹の物語はそもそも「奇譚」ではないか、とおもうのである。

そう思っても、深くは追求せず「さらっ」としていようと思うのである。

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