小説新潮9月号の特集は「短編ファンタジー傑作選」とこの城山三郎の「戦争」である。
オリンピック後遺症で、活字より映像のほうが「わかりやすい」というか「楽」なので、本を読まない日々が続いている。
オリンピックはそもそも国同士の戦いで常にはあまり意識しないあるいは無視しようとしている「国旗」があがると感動するという「愛国心」のようなものがでてみたりするところに、今回は中国の「国威発揚」というナマナマしいものをみせられたりするので、戦争、ということも頭の片隅にちらちらしていた。
そういうところで、この特集を読むとまたなんだかいろいろと考えたりして、そして「なんだかよくわからないなあ」なんて思うのである。
さて、この特集であるが「落日燃ゆ」をテーマとしているようである。
「落日燃ゆ」は戦犯として絞首刑となった唯一の文官『広田弘毅』の伝記小説である。
先ずは「講演採録」ということで、城山三郎の講演「大きく生きる-広田弘毅を支えた三つの柱」が掲載されている。
続いて「『落日燃ゆ』論争検証-広田弘毅は『漫才』といったのか」があって、昭和49年に行われた論争を紹介し、梯久美子の「論争を読んで」がある。
もうひとつは「指揮官たちの特攻を旅するーおじいちゃんたちの特攻」(吉田紗知)である。
広田弘毅の生涯を描いた小説「落日燃ゆ」の最後の場面、戦犯の処刑直前の場面で「万歳(ばんざい)」を「漫才(まんざい)」と広田弘毅が言った、という部分に関する論争で「まんざい」ということばをめぐる解釈の論争である。
まあその論争自体はそれぞれの言い分があり、それぞれの解釈はそれなりに肯くところもある。
このことについて、城山三郎の反論、梯久美子の感想を読むと、作家というのは確信を持った解釈をするまでに、いわゆる「生みの苦しみ」のようなものを長い間重ねていることがわかる。
自分自身でさえ、自分の行動や言語に理由を明確に表現できないところがある。
それを歴史を舞台として実際に生きた人を主人公にしたものを描くときには、それなりの確信をもてないと十分に書ききれないものだとおもう。
それでも小説のようなものに関して言えば、フィクションとノンフィクションの境界がぼやけているし、作家の主観が反映されているものという前提の上で、読者一人ひとりの解釈というものが必要である。
そして、文章を読むというのはそのことが「楽しみ」の一つでもある。
しかし、近頃テレビをよく見ると、これは「事実」であるという前提がなされているように思えるのである。
ところが、事実というのはそのテレビ番組を作る人の主観が大きく投影されている事実であり、厳密に言えば「事実の断片」である。
私たちは「事実」は「真実」と思っているが、テレビで流されるものは必ずしも「真実」とは限らない。ましてやそれは「断片」なのである。
そういう意味では、テレビは映像と音という事実を隠れ蓑にしてある種の情報操作を行っているのではないか、なんて思ったりしたのである。
「夢は必ずかなう」というコトバは非常に素晴らしいものであるが、本当にそうなのだろうか?
覚悟することもあきらめることも人生のなかでは必要なことではないだろうか?
安易にそのようなコトバを垂れ流すこともいかがなものか。
広田弘毅は「自らのために計らわず」ということが信条であった、その信条に従って生きたことがすなわち「真実」ではないことは、城山三郎も知っていたと思うのである。
つまりは文章であったり映像であったり音声であったり、我々に伝えられる情報の真実性というものは、我々が解釈すべきものなのであって、それをありのまま受け止めて真実と認定することは非常に危ういものなのではないかと思うのである。
そんな思いをこの特集を読み考え「楽」だからという理由でテレビをつけっぱなしにして本を読まなかったことを反省したりしたのであった。
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オリンピック後遺症で、活字より映像のほうが「わかりやすい」というか「楽」なので、本を読まない日々が続いている。
オリンピックはそもそも国同士の戦いで常にはあまり意識しないあるいは無視しようとしている「国旗」があがると感動するという「愛国心」のようなものがでてみたりするところに、今回は中国の「国威発揚」というナマナマしいものをみせられたりするので、戦争、ということも頭の片隅にちらちらしていた。
そういうところで、この特集を読むとまたなんだかいろいろと考えたりして、そして「なんだかよくわからないなあ」なんて思うのである。
さて、この特集であるが「落日燃ゆ」をテーマとしているようである。
「落日燃ゆ」は戦犯として絞首刑となった唯一の文官『広田弘毅』の伝記小説である。
先ずは「講演採録」ということで、城山三郎の講演「大きく生きる-広田弘毅を支えた三つの柱」が掲載されている。
続いて「『落日燃ゆ』論争検証-広田弘毅は『漫才』といったのか」があって、昭和49年に行われた論争を紹介し、梯久美子の「論争を読んで」がある。
もうひとつは「指揮官たちの特攻を旅するーおじいちゃんたちの特攻」(吉田紗知)である。
広田弘毅の生涯を描いた小説「落日燃ゆ」の最後の場面、戦犯の処刑直前の場面で「万歳(ばんざい)」を「漫才(まんざい)」と広田弘毅が言った、という部分に関する論争で「まんざい」ということばをめぐる解釈の論争である。
まあその論争自体はそれぞれの言い分があり、それぞれの解釈はそれなりに肯くところもある。
このことについて、城山三郎の反論、梯久美子の感想を読むと、作家というのは確信を持った解釈をするまでに、いわゆる「生みの苦しみ」のようなものを長い間重ねていることがわかる。
自分自身でさえ、自分の行動や言語に理由を明確に表現できないところがある。
それを歴史を舞台として実際に生きた人を主人公にしたものを描くときには、それなりの確信をもてないと十分に書ききれないものだとおもう。
それでも小説のようなものに関して言えば、フィクションとノンフィクションの境界がぼやけているし、作家の主観が反映されているものという前提の上で、読者一人ひとりの解釈というものが必要である。
そして、文章を読むというのはそのことが「楽しみ」の一つでもある。
しかし、近頃テレビをよく見ると、これは「事実」であるという前提がなされているように思えるのである。
ところが、事実というのはそのテレビ番組を作る人の主観が大きく投影されている事実であり、厳密に言えば「事実の断片」である。
私たちは「事実」は「真実」と思っているが、テレビで流されるものは必ずしも「真実」とは限らない。ましてやそれは「断片」なのである。
そういう意味では、テレビは映像と音という事実を隠れ蓑にしてある種の情報操作を行っているのではないか、なんて思ったりしたのである。
「夢は必ずかなう」というコトバは非常に素晴らしいものであるが、本当にそうなのだろうか?
覚悟することもあきらめることも人生のなかでは必要なことではないだろうか?
安易にそのようなコトバを垂れ流すこともいかがなものか。
広田弘毅は「自らのために計らわず」ということが信条であった、その信条に従って生きたことがすなわち「真実」ではないことは、城山三郎も知っていたと思うのである。
つまりは文章であったり映像であったり音声であったり、我々に伝えられる情報の真実性というものは、我々が解釈すべきものなのであって、それをありのまま受け止めて真実と認定することは非常に危ういものなのではないかと思うのである。
そんな思いをこの特集を読み考え「楽」だからという理由でテレビをつけっぱなしにして本を読まなかったことを反省したりしたのであった。
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